白夜
零夜
夜が来ない時期が、北の地にはあるらしい。その話をしたら、彼は笑顔を浮かべていつか行こうと、2人で笑いながら、そんな夢みたいな話をしていた。
いま、ここに彼はいない。
『体調は大丈夫そうだね。』
心地いい声が鼓膜を揺らす。
何も言わずに赤く染まりつつある空を見上げ口を強く結んだ。
彼はそんな私に溜息をついて、横にある椅子に座った。
『…いつになったら、ヨダカに…逢えるの?』
『今、ここにいるだろ。』
私は枕を掴んで声の主に投げつけた。
『あなたはヨダカじゃない!だって…っこれは…!これはっ……!』
「夢…じゃない……っ。」
差し込む朝日を手で遮るように顔を覆う。
流れる涙は静かだけど、漏れる嗚咽が部屋の中に木霊した。
不知火ヨダカが私の前から姿を消して5年になる。
ヨダカはいつも大人みたいに大きくて、優しくて…、私の憧れだった。
13の夏、私が初恋を意識した日。
ヨダカは私の前から姿を消した。
13の時のヨダカの姿が日を追うごとにボヤけていって、今ではヨダカの声も、香りも、温もりも、話した事も、靄がかかったみたいに思い出せなくなっていく。
成長したくないのに、鏡に映る私は年を追うごとに、女性らしくなっていってしまう。
その度に、胸が苦しくなって、痛くなって、ただ虚しさだけが募った。
「…お願い、神様。」
もし叶うなら、私の全てをあげるから。
「夢じゃなくて、いま、ここで会いたい。」
壱夜
私の夢は、よく現実で実際に起こる事があった。
細やかな事から大きな事まで。
一番驚いたのは、世界中の子供の家にアイスクリームが届いた事。
その時は、ヨダカとずっと笑っていた。
でも、現実になるのは良いことだけとは限らなかった。
たまたま、たまたま、母親と喧嘩した時。
その日の夢で、母が大きい怪我をした夢を見た。
ヨダカに話すと、「大丈夫」と言って背中を撫でてくれたけど、その日の夜、母は夢で見たところを怪我して帰ってきた。
夢よりは酷くなかったそれに、安堵の気持ちもあったが、同時に恐怖を感じた。
《自分の夢が現に反映されてしまう。》
それから、寝る事が怖くなった。
「おはよー、ツバメちゃん。」
「……、何してるんですか…。」
「定期検診だよー。」
そう言って、私を起こす彼女は、茜色トキという医者だ。
ヨダカが居なくなった後、軽い錯乱と鬱状態になった私を、彼女が救ってくれた。
初めて彼女を理解した時、ヨダカみたいな人だと思った。
なんでも包みこんでくれるような、柔らかい温かい人だと。
「うなされてたみたいだけど、悪い夢でも見た?」
トキの事を考えていると、彼女が優しい笑みで私に質問してきた。
「…小さい頃の夢を、少しね。」
私は彼女を見てそう言うと、言い終わる直前に視線を窓の外へと移した。
トキはバインダーに何か書くと、私のベッドに腰掛けた。
「今日の記録は止めとく?」
「…ううん、ちゃんとやる。」
「そっか…。」
そう言って立ち上がると、頭を優しく撫でてくれた。
私は軽く目を瞑ってそれを受け止めると、かすかに思い出すヨダカの温もりに少し胸が痛んだ。
トキが鞄からヘルメット型の装置を取り出すと、私にかぶせ横にさせた。
彼女は私の前髪を整えながら、優しく話しかける。
「力を抜いて。今日もあの夢だからね。」
「うん、よろしくね。トキ。」
そう言って目を閉じると、彼女がモニターを片手に私の額に口づけした。
「…よい夢を。」
広く、白い砂場にいた。
そこには何もなくて、あるのは太陽と傾いたひとつのビルだけだった。
私は慣れた足取りでそのビルへと向かう。
遠い気がしていたビルは気づけば目の前で、私はゆっくりと入っていく。
外とは違い、ビルの中は涼しかった。
まるで、このビルだけは私の夢じゃないみたいで、そこに誰かがいる感覚が私の胸を不安に掻きたてた。
「ヨダカ…?」
小さく彼の名前を呼ぶと、壁に跳ね返っていろんな角度から聞こえてきた。
反射した声が一通りなり終わると、誰かの気配がした。
私が振り返ると、そこは私の部屋で、ベッド脇には私が求めていた彼がいた。
近づいて後ろから抱きしめようとしても、体は何もないかのようにすり抜けてしまう。
いつも、夢はここで冷めてしまうのに、今日は冷めなかった。
私は少しだけもどかしくなった。
夢だとしても、ヨダカは私との思い出の場所にいるのに、私はヨダカに触れない。
確かにここは私の夢なのに、私だけ違う世界のようなそんな感覚が、私の心臓を締め付ける。
「…ヨダカ、っ…よだか。私はここにいるの……、お願い、私を見てっ…!!」
聞こえないはずなのに、大きな声で叫んで。
夢のはずなのに確かに感じる涙の温度に、怖くなってうずくまった時、不意に目の前の影が動いた気がした。
「ツバメ。」
ハッとして顔を上げると、彼が私を見ていた。
涙はもう乾いていて、今はただ目の前の光景が信じられないでいた。
彼が静かに私の前まで来る。
私の前で止まると、その手を私に伸ばして悲しそうに顔を歪めた。
「また、怖い夢を見て泣いているのか?」
「よ…だか?ヨダカ!」
手を伸ばしたけど、私とヨダカの間に今度は壁ができていた。
「ヨダカ!」
私が大声で壁を叩くと、今度はヨダカも気づいたらしく壁に手をつく。
「ツバメっ!」
私たちの手が重なる直前、不快な音とともに私の意識は一気に夢から覚めた。
「ツバメちゃん!」
起きた時一番最初に見たのは、トキのやつれきった顔だった。
「…と…き?…ときっ!」
私は勢いよく飛び起きるとトキの腕を強く掴んだ。
「よだかが…、ヨダカがいたのっ!きっとヨダカは…!」
私の勢いにトキは不思議そうな顔をしたが、次の言葉に今度は私が唖然とする番だった。
「ヨダカって、誰のこと言ってるの?」
弐夜
夢想世界
主に精神疾患患者の治療のために使われる仮想世界。
2025年から導入され、現在多くの患者が利用しているが、中毒性が個人によって違うため、大規模な導入は未だにされていない。
夢想世界に入るために、ヘルメット型の脳直結回路「シラサギ」が開発された。
開発者は不知火ベガであるが、本人は最終調整中夢想世界に閉じ込められ、夢魔状態になっている。
稀に、夢想共鳴体が現れると言うが、実態は不明。
「いい女が台無しだな、その顔じゃ。」
「…あんたをここに招待した覚えはないけど。」
鼻に付くタバコの臭いに顔をしかめて、臭いの元である男を睨みつける。
男の方はどこ吹く風で、私に近づいて壁際まで追い込む。
「なんで、不知火ヨダカがデータ上から消えてんだよ。てめぇの弟じゃねぇのか。」
その言葉に、私は男を睨みつけた。
「…あんたにはなおさら関係ないわね。それに不知火ヨダカのデータにないのは、私たちには無関係だからよ。」
その言葉とともに、右腿を蹴り上げると男を押しのけて、その場から離れようとした。
「…っツバメはさがしだすぞっ!!」
その言葉に、私は足を止めた。
「ヨダカにとってツバメが特別なように、ツバメにとってもヨダカは特別だ。あいつらは必ずお互いを引きつける。…ちがうか…。」
私はため息をつきながら、振り向いて男を再度睨んだ。
「海神カモメ。これは忠告よ。これ以上、彼女たちの周りを探らないほうがいい。それが身の為よ。」
そう言って私はその場を去った。
海神カモメが悔しそうに、壁を殴っていることも、ツバメちゃんが傷ついたことも全部知らないフリをして…。
頭を鈍器で殴られたみたいな衝撃とは、まさにこの事なのだろうか。
トキが、明らかに嘘をついていることは明白だった。
でも、そんな事実よりトキのその行動がわからなかった。
私は確かに、あの場所にヨダカを感じた。
それはいけない事だったのだろうか。
探し求めて、ようやく見つけた手がかりが私の手をすり抜けていく感覚が、妙にさっきの夢と同調しているようで、言いようのない恐怖を感じた。
「…ヨダカ、信じていいよ…ね。」
私は一度目を閉じると、再度さっきの夢を思い出す。
私と同じように成長したヨダカの姿が、なんだか心を安心で満たした気がした。
コンコン、
不意に窓の外からノックの音が聞こえ、おもむろにカーテンを開けると、そこには久しぶり会う顔が見えた。
「…っ、海神おじさん!!」
「よう、元気か?」
そう言って入ってくる男は、海神カモメと言う私の叔父にあたる人物だ。
幼い頃何度か会ったことがあり、ヨダカが消えた後はヨダカを探しているらしい。
海神おじさんは私の髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら、強く頭を撫でた。
「ちょっ!髪の毛ぐしゃぐしゃにしないでっ!」
「おー、一丁前に色気付く年頃か?」
「おじさんがデリカシーなさすぎなんだよ!!」
「ははは、そうかそうか。」
おじさんはそう言いながらも、頭を撫でる手を止めない。
私はすぐに諦めて、手を出さないでいると不意におじさんが撫でる手を止めた。
「…お前、ヨダカに会ったのか?」
「…っ!」
突然すぎるおじさんの質問に、勢いよく顔を上げれば、おじさんは驚いたようなそれでいて悲しそうな顔をしていた。
「会ったんだな…。」
「……うん。」
「そうか。」
その言葉を最後に長い沈黙が続いた。
おじさんがヨダカの話を出したことで、トキが嘘をついた事は先ほどより明らかになった。
でも、あの時の彼女を、どうしても悪者には思えないあたり、彼女を信じたい自分がいることも確かなのだと思った。
「ツバメ、よく聞け。」
考え事をしていると、おじさんが長い沈黙を破った。
おじさんは私を抱きしめながら、耳元で小さく話す。
「ヨダカを思い続けろ。きっと、必ず見つけ出すことができる。…自分の選択を迷うな。」
そう言うおじさんの心の奥は分からなかった。
感じるのはおじさんの温もりと、服に染み込んだお日様みたいな匂いだけだった。
「うん、分かった。」
「…よし、俺はそろそろ行くな。」
そう言ってもう一度頭を撫でると、今度はちゃんとドアの方から出て行った。
おじさんが出て行ったドアを見つめながら、胸の中央に手を添えた。
不安と安心が、恐怖と安堵が、暖かさと冷たさが、胸の中心から身体中に流れ出していく。
それでも、私の頭の中にはどうしようもない愛おしさと、切なさだけが強く主張して…。
まぶたを閉じれば暗闇の中に、ヨダカの姿がまた映った。
会いたい。
会って話をしたい。
触りたい。
あの、柔らかい髪も、温かい頬も、私を見つめる目も、全部全部またぼやける前に、もう一度、もう一度…、今度はもっと長く…。
彼に会いたい。
参夜
『ベガ、ほら、僕にも赤ん坊を見せてくれ。』
柔らかい日差しの中に、男の人が立っている。
私の腕にはまだ小さい命が、手を握りしめて近づいた男の人にてを伸ばしている。
男の人は嬉しそうに手を取ると、優しく私の頬にキスをして、柔らかく小さな命に話しかける。
『ほら、パパだよ。…ヨダカ。』
「…っぁ!!」
勢いよく起き上がると、額に手を置く。
脂汗が身体のあちこちから流れ出て、
息も荒れ、目の前もなんだかチカチカしていた。
ベガと呼ばれた私の腕に抱かれた子は「ヨダカ」。
胸に重りを乗せられたような苦しさがある。
自分の心臓の音と荒い息の音が、血液に乗って前肢を駆け回る。
「…っ、私は何なの…?」
「随分顔色が悪いみたいだけど、本当に大丈夫?」
窓の外を見ていると、いつからいたのかトキが私に話しかけてきてくれた。
「あ、うん。大丈夫よ。」
「じゃぁ、今日もやるけど。ツバメちゃん、ヨダカっていう子は…、」
「わかってるよトキ。…いないんでしょ?」
「………。」
「ほら、早く始めて。」
心配そうに私の頭にいつもの機会をつける。
私は枕に自分の頭を預けると、静かに両のまぶたを閉じた。
数分立っても、いつもの感じが訪れなくて、私が不安になって目を開けると、そこは夢に見たあの陽だまりだった。
でも、その陽だまりには何もなかった。
最初から「彼女たち」がいなかったかのように、そこにはただ陽だまりが一つあるだけだった。
「…あなたは?」
「…っ!」
不意に背後から女性の声が聞こえた。
その声は何だか怖くて、振り向いてはいけない気がしたけど、私の身体はそれとは真逆にジワジワと背後へと振り返っていく。
汗が、こめかみを伝って頬へいき、顎から地面に落ちていった。
私の周りで起きていることが全部、ゆっくりに思えた。
目の前で角度が変わる景色も、風で揺れる草木も、空に浮かぶ雲の速度も…。
身体中が振り向いてはいけないと言っている。
振り返ってしまったら、この先が危険だと…。
だけど、抵抗は無駄に終わり、気付いた時には一面に広がる白の地面と、たった一本の木が生える場所だった。
「…私、なに、してるんだろう。」
体が重く感じる。
全てを諦めたくなる程に、目の前が真っ暗に見えた。
何もかも忘れてしまいたかった。
楽しかった記憶も、悲しかった記憶も、辛かった記憶も、お父さんの事も、お母さんの事も、海神おじさんの事も、トキの事も、あの時の約束も、…ヨダカの事も…。
「…あれ、ヨダカって誰だっけ。…約束って……なに?」
ストン、と落ちる感覚がした。
私の身体は重すぎて、上に浮び上がれなかった。
いや、もう浮かび上がることさえも、忘れてしまった。
息は苦しくない。
苦しいのは、何かを忘れてしまった私の心だけだった。
肆夜
「ヨダカー!ゼミのレポート早く出せって、三田ジィが言ってたぞー!」
「やっべ!忘れてた!」
勢いよく立ち上がると、周りから笑いが生まれた。
「またなの、ヨダカ。」
「ほんとごめん、出したらすぐ戻ってくるから。」
呆れ顔で言う彼女は、その言葉で納得したのか片手で早く行けと促した。
できた彼女だと思いながら、俺はゼミの準備室へと急ぐ。
息を少し乱しながら着いたドアの向こうで、聞き覚えのある声と若い女性が話していた。
片方は明らかに三田ジィで、もう片方の声は聞いたことがなかった。
「…で…から、……の、夢想……は、消滅……と。」
所々しか聞こえない声。
内容は三田ジィの行っているゼミと何らかの関係があるみたいだった。
もう少し近づこうとした所で、オートスキャンが反応してドアが開き、ドアが開いたことのより、三田ジィと誰かの姿がハッキリと見えた。
「…っ!あれ、ト、キねぇ?」
咄嗟に出た言葉はそれだった。
言った瞬間に自分の口を塞いだが、相手は驚いたように目を見開いた。
三田ジィも眉間に深いシワを作っていた。
そんな空気に絶えられなくて、俺はすぐさまレポートを出すと三田ジィのところに進む。
「遅れてすみませんっ…。お願いします!」
「…ん、次はないからな。」
「はい!」
深く頭を下げると、足早に出て行こうとして、不意に声をかけられた。
「あなた、姉弟はいるの?」
不思議な質問だと思った。
「…いえ、俺はひとりっ子のはずですけど…。」
「そう…、ハズ、ね。」
質問してきた女性はそう言うと、納得したように笑って手を振り笑顔を浮かべた。
俺はもう一度頭を下げて、早足でその部屋を出ると、詰まった息を吐き出す。
「…なんだ、あの人。」
その日は一日、何かを忘れて思い出せないような感覚に悩まされた。
彼女と…、レイと歩いていても何処か上の空だった。
「ヨダカ?大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だよ。」
そう言って手を少し強く握れば、彼女も強く返してくれる。
それが嬉しいという感情もあるが、胸の、本当に端の方になんとも言えない痛みを感じるのを、今日は一段と感じていた。
何かが足りない。
そんな、訳のわからない感情を…。
「トキよ。人の心は謎ばかりだ。例え記憶を消したとしても、覚えていることもあるんだよ。」
「…何が言いたいんですか?三田教授。」
ある男の子が去った後、しばらく沈黙が続いたが、それを目の前にいる教授が破った。
「お前さんが今やってる事は、ただ辛い事なんじゃないのか?お前さんにとっても、あの子達にとっても…。」
「……それでも、やらなければならないんです。それが世界の為なら。」
強く拳を握った。
覚悟は、等の昔にできたハズだった。
「姉弟」揃って、同じ事を言って少し口角が上がった。
結局私は、未だに覚悟ができていないのかもしれない。
ただ、ここで何かをしているつもりなのかもしれない。
強く握った拳を解いて、三田教授に笑みを浮かべると、私はゆっくりと歩き出した。
外に出た時、一羽のツバメが空を急上昇していった。
それを見て、胸の真ん中が痛くなったのを、歩きながらなかったことにした。
白夜