溶ける
赤、消えて、赤、消えて。カーン、カーン、カーン、カーン。
絶対的な領域を区切る黄色と黒を、青年は暗い目で見つめたままゆうるりと立っていた。じきにやってくる。
「おい、おっさん」声変わりしたての少しかすれた声が後ろからぜえぜえと荒い息とともに聞こえた。
「おっさんとは失礼な。お兄さんと呼びたまえよ」後ろを振り返らないまま、青年は軽口を叩いた。
「んなこたあどうでもいいんだよ」少年が横に並んで立った。「お前…お前、」次の言葉が告げられない理由が荒い息のせいではないことくらい、二人の間では百も承知であった。青年が横目で見ると、少年は前を向いたままくしゃりと顔を歪めている。
「死ぬのかって?」青年が決定打を出すと、少年はうつむいた。足元を精一杯見つめたまま、肩を震わせる彼のことが、幾分か彼より汚くなった青年はずっと羨ましかった。自分のために、誰かが泣き震えている。今まで青年が過ごした日々の中ではとても久しぶりで、口の端に少しの暗い喜びが滲んだ。
「死ぬ…死ぬ、ねえ。あんまり実感はないかな。でも、僕じゃどうしようもないことだしなあ」
「なんでそんなのんきなんだよ」やっと少年が顔を上げた。絞り出すように唸る。「お前はそれでいいのかよ」
「まあ、仕方ないよね」青年は依然、前を向いたままあっさりと答える。
「仕方なくなんてねえよ!!俺はよくない!!あの日から毎日…毎日、お前に会って、くだらねえ会話して」ぼろぼろと綺麗な雫が、真っ直ぐな色のビー玉からこぼれ落ちる。「それが明日からなくなるなんて絶対に嫌だ!!嫌だ!!」
青年はようやく、少年に向き合った。少し腰を折って、ワイシャツの裾で少年の涙を拭う。嗚咽と規則正しい鐘の音だけが夕焼けに溶けていく。
「ほら、泣かないの。確かに僕もあと十年くらいはここにとどまれると思っていたからびっくりはしてるけどさ」
「い、いま、今だってこうやって、あったかいのに」しゃくりあげながら少年が吐き出す。「もう、明日からないなんて」
なだめるように頭を撫でながら、青年は言った。「結構長いあいだここにいたけど、僕と喋ってくれたのは君だけだよ」そうして、また前を向きながら遠い目をした。
ある日ここに降り立ってから、途方もない時間を過ごした気がするけれど、実際に生きていたといえるのは、目の前で泣いている少年が見つけてくれてからの時間だけだった。ぼんやりとした視界に初めて色が付いたあの時間。そして今、その時間も終わろうとしている。ヘルメットをかぶった男たちが集まってきた。
「さあさ、次の鐘が終わったら、さよならだ」青年は最後にもう一度、少年の頭を撫でた。「まあ…五分くらいはあるでしょ。最後くらい、笑ってほしいな」
「…自信ねえわ」少年はきゅっと口を結んだ。
「僕さ、今まで過ごしてきてなんも良いことなかったと思ってたんだけど」青年は言葉を選びながら続けた。「君があの日、僕に話しかけてくれてから、本当にいろんなことを教えてもらって、良いことばっかりだったな」
「…おう」
「ひとつお願いがあるんだけど」悲痛な声に、隠しきれなかった感情がにじむ。「僕のこと、忘れないでいてほしい」
少年は黙った。返事がないのでもう一度向き合ったところで、顔に手が伸びた。
「覚えておいてやるよ。死ぬまで。絶対」いつの間にか濡れていた頬を、少年が拭った。長いあいだ、泣くことなんてなかったのに。自分よりずっと年下のこの温かさを忘れたくなくて、そっと頬を押し付けた。
「そろそろ、だな」
「うん。最後まで、ありがとう」二人が握手をして、向き合って微笑む。空は群青色が橙を飲み込む寸前だ。
カーン、カーン、カーン、……。
静寂とともに、少年の手は空をかいた。
「踏切は廃止されました 通行止め」
少年は出された看板を見て、一瞬ののちに呻いた。あとからあとから、涙が止まらない。誰も、ここ数年の出来事も、会話も、体温も知ることはなかった。ただ確かに、青年はここにいたのだ。何年も、何十年も、人々を見下ろして。少年は声をあげて泣いた。
溶ける