クジラの夢

 私がクジラに魅せられたのは、たまたま友人に誘われたホエールウォッチングにおいてであった。噴水のように潮を吹いたザトウクジラは、その黒い巨体を海面から勢いよく持ち上げ、空中に踊り出た。その姿は雄大さと力強い気高さに溢れていた。二股に分かれた尾を最後に見せながら海中に沈んだ時、私はクジラの虜になっていた。
「どうだい、初めて間近で見るクジラは」
 友人はコーヒーを片手に船のデッキに現れ、私の横に立って手すりにもたれかかった。
「すごいものですね。大きくて自由で、なんだか畏れ入ってしまいますよ。誘ってくれてありがとうございます、伯爵」
「どういたしまして。喜んでいただけて光栄だ」
 伯爵は誇らしげな笑みを浮かべながら、大げさな身振りで腕を広げた。わざとらしい仕種だが、不思議とこの男にはそのような動作が似合っていた。
「ところで君もコーヒーをどうだい。この船のコーヒーは丁寧にサイフォンで淹れられているから美味しいぞ。それに水分を取らないでデッキにいると熱中症になる」
「いや、結構です。もうしばらくここで潮風を浴びていますよ」
 二人で水平線をぼんやりと眺めていると、海から潮が吹きあがり、黒い二股の尾が伸びてきて海面を叩いた。
「青く澄んだ空に真っ白な盛り上がった雲、果てしない水平線。僕はここに来ると世界の中心にいる気になってくるんだ。あるいは世界の果てかな」
 太陽の眩しさに目を細めながら伯爵は満面の笑みを浮かべていた。
「そうですね」
 緩く弧を描いた水平線を眺めながら私は同意した。

 私が伯爵と出会ったのはとあるバーにおいてであった。そのバーは私が住んでいるアパートのすぐ近くで、通りから横道に入ったところにひっそりと店を構えていた。夕食を終えて日課の散歩をしていた時、たまたまいつもと違った道を通っていて見つけたのだ。KALAという店で、こぢんまりとはしているが落ち着けそうなところだった。扉を開けるとジャズが流れていて、薄明かりの中でちょうど女性のバーテンダーがグラスを拭いていた。店にいる客は私を含めて二人だけのようだった。
「いらっしゃいませ」
 拭き終えたグラスを置くと、バーテンダーは静かだがよく通る声であいさつをしてきた。私は先客の男の二つ隣のカウンター席に座ることにした。
「ハートランドとフィッシュ・アンド・チップスをお願いします」
「かしこまりました」
 バーテンダーはそう言うとカウンターの端にある扉に消えていった。いささか手持無沙汰になった私はしばらくカウンターの向こう側に所狭しと並んでいる酒瓶を眺めていたが、そのうちなんとなく気になって横目で隣の客の姿を見ていた。入ってきた時には気が付かなかったが、男は厚い全集本を広げてそれを読みながら酒を飲んでいるらしかった。チューリップ型のグラスに入った琥珀色の液体を男が口に含むと、あたりに馥郁たるブランデーの香りが漂ってきた。
「この本に興味があるのかい。それともグラスの中身にかな」
 男は本に栞を挟んで閉じると、こちらに体を向けた。それが、伯爵が私にかけた初めての言葉だった。
「駄目ですよ、伯爵。他のお客さんにご迷惑をかけては」
 いつの間にかカウンターの向こうに戻っていたバーテンダーにたしなめられて、伯爵は恐縮した風に首をすくめた。
「嫌だなあマスター、この青年がこの本に関心がありそうだから見せてあげようとしただけだよ。ねえ、君」
 そういうと伯爵は本をこちらに押しやった。手に取ってみるとワインレッドの地に金字の8を重ねて並べたような意匠が表紙に施されていた。タイトルを見ると『メルヴィル 白鯨』とあった。
「どうぞ、こちらハートランドとフィッシュ・アンド・チップスでございます」
 マスターが出してくれたハートランドを飲みながら、私は『白鯨』をぱらぱらとめくった。その間、伯爵は黙ってブランデーを飲んでいたが、しばらくすると嬉しそうな笑みを浮かべて、こちらに身を乗り出してきた。
「どうだい、興味があるならその本を貸すけれども」
「そうですね、おもしろそうなので、お借りしようと思います」
「よし、ならば今から僕と君は友達だ。返してくれるのはいつでもいいよ。大抵僕はこの時間にここにいるからね。気の向いた時にまた来ればいい。ねえ、マスター、僕と彼との友情の証にソライアとプロシュット・ディ・パルマ、それからゴルゴンゾーラをお願い。もちろんグラスは二つでね」
 伯爵は一気に話しきると、手元のグラスに残っていたブランデーをぐっと一口に呷った。
 またもやマスターが扉の向こうに消えると、伯爵は囁くように言った。
「ねえ、ここだけの話だけど、マスターは奥の部屋に料理や酒を取りに行くふりをして、実は扉の陰でポケットから取り出しているんだよ」
「となると、カウンターの引き出しの中にはタイムマシンがあって、おまけにマスターはロボットというわけですね」
 私がそういうと、伯爵はにやにやしながら、その通りだ、と肯いた。
「いや、冗談じゃなく僕はマスターは妖怪かロボットのどちらかじゃないかってにらんでるんだ。だってもう十年近く通ってるのに、マスターったら全然変わらないんだ」
「何をこそこそと話しているのですか、伯爵」
 マスターは扉を開くと、赤ワインのボトルとグラスと皿を器用に運んできた。
「いやあ、マスターは最高のバーテンダーだってことを彼に説明していたんだよ」
「そうですか」
 マスターは微笑むと、私たちの前に生ハムとチーズののった皿を並べ、ワインの栓を抜き、静かにグラスに注いだ。私たち二人はグラスを取って、軽く掲げた。
「では、僕らの友情に乾杯!」
 グラスを合わせて口に含むと、これまでに飲んだことがないほど完璧な味がした。芳醇な香りと力強く、それでいてまろやかな渋味と酸味、アルコールの存在をまったく感じさせない飲み口のよさ、すべての要素が幾何学的に美しく調和していた。生ハムやチーズとの相性も素晴らしく、思わず笑みがこぼれた。
「いいワインだろ?」
 伯爵はにんまりとして言った。
「ええ、素晴らしいです。ところでどうして貴方は伯爵と呼ばれているのですか」
 聞きそびれていた疑問を口にすると、伯爵はチーズを摘まみながら答えた。
「何、僕の祖父の代までが華族の伯爵家だったんだよ。それで、皆が伯爵伯爵って呼ぶもんだからそれが通り名になってね」
 チーズを口にすると、伯爵はグラスを傾けて、満足そうに目を瞑った。さながら合奏曲のハーモニーを楽しむように。

 それからというもの、KALAに行く度に伯爵と会い、ユイスマンスやボードレール、ゲーテやヘッセ、ドストエフスキーやチェーホフ、マルケスやボルヘスなどといった作家の作品について語り合った。けれども私たちが最も熱中した作品といえばやはり『白鯨』であった。その都度私は幾度となく伯爵に奢られたが、伯爵は一向に気にする風もなかった。どうやら彼は華族の末裔なだけあって相当な資産家であるらしかった。
そしてある日の夜、カウンターでハートランドを飲んでいると伯爵がやってきて、隣に座りながら言ったのだ。
「ねえ、今度ホエールウォッチングに行くんだけど君も来るかい」
 それが、私が行ったきっかけだった。その時に見たのはザトウクジラで、初めて生で見たクジラの雄大さに心が震えたものだった。その後にはマッコウクジラやシロナガスクジラなどのホエールウォッチングにも連れて行ってもらい、充実した時を過ごしていた。そしてクジラを見れば見る程、私はエイハブ船長よりもモービー・ディックの方に心惹かれていくのだった。
「イルカと泳ぎたくはないかい!」
いつものようにKALAに行くと、先にカウンターにいた伯爵が声をかけてきた。手元にはウイスキーのロックとレバーペーストを塗ったフランスパンがある。いささか赤みがかった顔から察するに、すでに結構な量を飲んでいるらしい。
「遅かったじゃないか君!」
 伯爵は笑い声を上げながら私の肩を叩くと勝手にカウンターからグラスをとってウイスキーを注ぎ始めた。
「さあ、景気づけに一杯飲みたまえよ。リンクウッドの三十年ものだ。口と鼻の中で弾けるのにマイルドなんだ」
 私は伯爵の勧めるウイスキーを飲みながら、先程の話をもう少し詳しく聞くことにした。
「それで、イルカの話ですけど」
「そうだそうだ、今度の休みにミクロネシアの方でイルカと泳ごうと思っていてね。それで君を誘ったんだ。どうせ大学生なんて暇が服を着て歩いているようなものだろう?」
「それはひどい偏見ですよ。これでもいろいろ忙しいんですよ」
「そうかい? 僕が学生の頃は閑すぎて毎日友人たちを招いて映画を観たりパーティーを開いたりしていたがね。時代が変わったのかな」
 伯爵は両掌を肩のあたりまで上げて、やれやれといったポーズをとった。
「ねえ、マスター、アードベック17年をお願い」
 伯爵がグラスを差し出すと、マスターはグラスを受け取りながら言った。
「飲み過ぎですよ、伯爵。そのくらいにしておいたらどうですか」
 たしなめられると伯爵はあごをさすりながら指を一本立てた。
「分かったよマスター、だからもう一杯だけだ。これで最後だから」
「仕方ないですね」
 マスターが棚から瓶を取り出している間に、伯爵はドルフィンスイムの日程などについていささか怪しいろれつで話した。
「そういう訳なんだが、大丈夫かい」
「まあ、大丈夫ですよ。なんたって暇が服を着ているんですからね」
「そうこなくちゃな。当日に君のアパートに迎えに行くよ」
 出発の日、車のドアが閉まる音がしたので荷物を持って外に出てみると、アパートの前に古めかしいビートルが停まっていた。
「やあ、少し早く来てしまったかな」
伯爵は車体に寄りかかりながら腕時計を見ていた。
「なんだかえらい車に乗ってきたものですね。これで成田まで行くんですか?」
「その通りだ。何、心配することはない。こいつは一九四三年に生産されたタイプ82Eだが、中身は最近の車と同等以上だ。高速だってびゅんびゅん飛ばせるぞ。さあ、乗りたまえ」
 荷物を後ろに積み込んで助手席に乗ると、伯爵がエンジンをスタートさせた。
「まさか左ハンドルのマニュアル車で迎えに来られるとは思いませんでしたよ。それにしてもえらくやかましいエンジンですね」
「ああ、これか。空冷式エンジンの気分を出すために流してるだけで、本当は静かなんだよ。ほら」
 伯爵がオーディオのボタンを押すと、途端に車内は静かになった。
「いささか味気ないが、まあ、出発するとしよう」
 私たちは成田空港に着くと、グアムを経由してミクロネシア連邦のチューク州まで飛行機で行き、そこから車と船を乗り継いで伯爵が所有する無人島に向かった。
 島は半径百メートルほどの小さなもので、あたりをサンゴ礁に囲まれていた。島にあるものといえば中央に身を寄せ合っている椰子の木と砂浜くらいなもので、あとはひたすらな水平線に囲まれていた。島の周囲の浅瀬は透明度が高いせいか綺麗な水色をしていて、そこから深くなるにつれて青みをまし、深い群青色になっていった。
「シュノーケルの使い方はさっき船で教えた通りだ。あとは足ひれを着けて泳げばばっちりだ。シュノーケルに海水が入ってきたり、溺れそうになっても、パニックにならないで冷静になるんだ。ライフセーバーが常に近くを泳いでいるから助けてくれる。だから安心してくれていい。まあ、君は泳ぎが得意らしいから心配いらないだろうが」
 伯爵からの説明が終わると、私たちは船に乗って沖の方に出た。
「上手い具合にイルカの群れに遇えるといいんだけどね」
「これでイルカを見つけられなかった日には、涙が出ますね」
「その時は盛大に泣くとしよう。どうせみんな海水に溶けてしまうんだから」
 しばらく海を眺めながら船に揺られていると、徐々に船の速度が落ち始めた。
「どうやらイルカの群れを見つけたらしい。君は運がいい奴だな」
 私たちが急いでシュノーケルと足ひれを着けていると、船と並走して数頭のイルカが海からジャンプしてきた。二人のライフセーバーと共に海の中に入ると、そこではミナミバンドウイルカの群れが船の周りを取り囲んでいた。
 私たちがイルカを指差して喜びを表現していると、三頭のイルカが興味津々といった感じで私たちに近付いてきた。ためしに船から離れて泳いで行ってみると、まるで私のお目付けか何かのようについてきた。Uターンをするとイルカも華麗に身をひるがえして横で泳いでいる。その眼は「人間にしてはまあまあな泳ぎだな」とでも言っているかのようだった。私たちは時々息継ぎを挟みながら十五分ほど一緒に泳いでいた。その間に十年来の友か兄弟のように私とイルカたちは仲良しになっていた。
 海から船に上がると頭上からの太陽がひどく眩しく感じられた。
「初めてのドルフィンスイムの感想はどうだい?」
「素晴らしかったです。彼らは実は生き別れになった兄弟なんじゃないかと思えるくらい親しくて、優しくて、愛嬌があって、違う種類の生き物とは思えないくらいです。私と彼らの間に友愛の心が通じたんです」
「はっはっは、君は大げさだなあ。でも気持ちは分かるよ。彼らは気のいい奴らだもの。年に数回しか会いに来ない僕のことを覚えているんだよ。僕には分かるんだ。彼らが、やあ久しぶりまた会えたね、って言っているのがね」
 それから僕らは島に戻ってその日はそこでキャンプをすることにした。日が沈む前にテントを張ると、陸から持ってきた食材を使ってバーベキューをすることにした。
「ほら君、肉が焼けたぞ。明日は海でがんがん泳ぐんだから体力をつけておかないと。さあ、キャプテンも船の操縦お疲れ様、帰りも頼むよ。そこのライフセーバーの二人も遠慮することはないよ、君たちのおかげで安心して泳ぐことができるんだから。おや、ピーマンが焼けたらしい、さあ取った取った」
「代わりますよ、伯爵。さっきからさっぱり食べてないじゃないですか」
 焼肉奉行と化した伯爵がひたすら人に配ってばかりなのを見かねて私が申し出ると、伯爵は私の皿にピーマンを置きながら言った。
「心配ご無用だ。焼きながら適当に食べているからね。それより僕のバッグにテキーラが入っているからそれを皆に注いでやってくれないか」
 結局、伯爵は最後までトングを放すことはなく、右手にトングを持って采配をとりつつ、左手でグラスを持ってテキーラを呷っていた。
 それから私たちは焚き火を囲みながら眠りが来るまで話をしていた。
「いやあ、イルカたちの賢さったらなかったですね。こちらに害意がないことが分かっている上、こちらに相手と仲良くしようって心積もりがあるとそれに親切に応じてくれるんですからね。オランウータンのことを森の人と言いますが、さながらイルカは海の人といったところでしょうね」
 酔いが回っていささか得意になって話す私に水を勧めつつ、伯爵は話を引き継いで語った。
「その通りだ。実際、ここミクロネシアの中央部にあるサタワル島の人々なんかはイルカやサメを人間であると考えていてね。彼らを食べることを一種のカニバリズムと考えてタブーとしているくらいだ。古代ギリシアに目を向けてみれば、紀元前六世紀のミノス島の壁画にはすでにイルカが描かれていたし、古いものは前七世紀に遡るといわれる『ホメロス讃歌』にはイルカへの変身譚が二つ収められている。イルカは海で遭難して水死した水夫たちの生まれ変わりだと信じられていたんだ。あるいは、イルカが人間に似ているなんてのは人間を中心に考え過ぎている。むしろ人間がイルカに近付くべきだ。そう考えてジャック・マイヨールなんかはホモ・デルフィヌスという構想を唱えたし、ジョン・C・リリィなんかはイルカとコミュニケートすることを目指してヤヌス・プロジェクトという研究を行っていた。ふう、いささかしゃべりすぎたかな」
 伯爵はペットボトルからグラスにミネラルウォーターを注ぐと一気に飲み干した。
「でも、そうなると私たち日本人みたいにクジラやイルカを食べることと彼らを愛することは矛盾しませんかね」
 私がいささか弱気になって言うと、瓶に残っていたテキーラをラッパ飲みしてから伯爵は答えた。
「それはリリィやマイヨールも言っていることだ。彼らは食べるなという。けれどもね、よく言うように食べることと愛することは矛盾しないんだ。僕らが愛しい相手を食べる時、あるいは食べたくなるほど愛する時、そこには一方的ではあるが何よりも激しい愛があるはずだ。そしてそのような愛はもちろん公に許されることはないだろう。けれどもだからこそ、そのような愛は背徳的であり退廃的であり、甘美なのだ。だからそもそも許される必要なんてないのさ。僕らは『白鯨』のエイハブ船長のように、あるいはその元となった異教の神を崇めたイスラエルの王アハブのように強く、信念に従えばいいのさ」
 私は少し勢いが弱くなってきた焚き火に薪を足しながら、皮肉めいた口調で言った。
「でもその喩えだと私たちはどうもつまらない死に方をしそうですね」
「それでいいのさ。華々しい死などない。死は常に優しく惨めなのさ。知っているかい、『白鯨』は清教徒的なエイハブが終に悪の権化であるモービー・ディックを仕留める話とされているが、別の解釈もあるんだ。それは白鯨をショーペンハウエル的な盲目的な意志、あるいは宇宙に偏在する生命力の象徴として見るものさ。そう考えると、おそらくはエイハブすらその生命力の表れで、彼らの戦いというのは宇宙的な生命の一人二役の闘争劇となるわけだ。だからこそ彼らは両方とも海の藻屑となって沈んでゆく。すべては母なる海の懐の中ってわけさ。いやはや酒のせいでとんだ講釈をぶってしまった。僕はこれで寝るとしよう」
 それを潮時に、私たちはテントに入って眠ることにした。


 
私は海の中をクジラたちと泳いでいた。ザトウクジラだった。彼らは私の体と同じくらいの大きさで、私たちは歌を歌いながら大海原を自由に廻っていた。歌は愛や海や自由を詠った抒情詩であったり、太古の出来事について語る叙事詩であったりした。海面から差し込んでくる陽光に照らされながら、私たちは踊り、時に空中に飛び上がったりした。自分でも驚くくらい身が軽かった。まるで魚か何かになったみたいだった。

 そのようにして伯爵との交際が三年に及ぼうとした時、伯爵はいつものように私の隣に座ると、クジラの刺身と日本酒を頼んでそのまま黙り込んでしまった。いつも気さくで稚気溢れる伯爵が沈黙しているので、これは何かあるに違いないと思いこちらも身構えていると、マスターが徳利と猪口とクジラの刺身を持ってきて面白そうに私たちを眺めていた。
 クジラの刺身を肴に飲んでいると、胸の中のつっかえが外れたのか、ぽつぽつと伯爵は語りだした。
「君、ハンティングに興味あるかい」
「ハンティングですか。鹿とか兎を撃つあれですか」
「うんあれだ」
「ええ、興味はあります」
「じゃあ、肉を食うのは好きかい」
「好きですね」
「よし決まりだ。今度の連休にハンティングに行こう。何、コツを覚えれば簡単さ」
伯爵は上機嫌に言ってから、私が注文したハートランドの瓶を指差した。
「それにしても君はいつもビールを飲んでいるね。まるで『ともだちは海のにおい』のくじらみたいだ」
「やさしい目のくじらときりりとした口のいるかですね。これで伯爵がいるかみたいに紅茶好きだったらぴったりなんですがね」
「あいにく、僕はコーヒー派なんだ」
 数日後、成田空港に向かった私たちは南アフリカのヨハネスブルクに飛び、そこから伯爵の自家用機で名も知らぬ小国に移動した。空港からは伯爵の運転する車に乗ることになったが、市街地から離れるとひどいでこぼこ道で、何度も天井に頭をぶつけた。
「えらい道ですね。脳みそがシェイクされそうだ。それにしても伯爵はよくこんな道を走れますね。私だったら横転するか、溝にはまり込むところです」
「僕はもう何回も来ているからね。慣れってやつさ。それに乗り物って自分で運転したいじゃないか。本当は飛行機だって自分で操縦したいくらいなんだけどね」
 伯爵は陽気に歌を口ずさみながら、ろくに舗装もされていないような森の中の赤茶けた一本道を走って行った。
三時間もして着いたのはサファリパークのような場所だった。高い柵の上には鉄条網が張り巡らしてあり、英語の注意書きによると高圧電流が流れているらしかった。柵の中には一箇所だけ門が設けられており、そこから中に入るようだ。
「先にロッジに荷物を運んでしまおう」
伯爵はそう言うと、門の近くにあるロッジに向かって荷物を持って歩き出した。私も荷物を持つと伯爵の後について行った。雨や土で薄汚れた外観とは裏腹にロッジの中は掃除が行き届いており、清潔なようだった。
「管理人にチップをはずんでおいたからね。部屋は三つあるから好きなのを使っていいよ」
私はいかにも高級そうな絨毯や重厚なテーブルや椅子にいささか面喰らいながらも、荷物を部屋に置いてくると早速伯爵に猟銃の指導をしてもらうこととなった。
「君は初心者だからね、初めは鳥撃ち用の散弾銃で練習するといい。こう構えるんだ。そうだ。もう少しわきを締めて。それで照星と照門が重なるようにして。その重なったところが大体の着弾点だ。もちろん風向きや重力の関係もあるし、何よりこれは散弾銃だからね。そこまで正確に集弾するわけじゃないし、有効な距離もライフル銃に比べると短い。まあ、気楽にやればいいさ。仕留めそこなったら僕が始末するから」
そう言うと伯爵は自分のライフル銃を構えて的に向かって撃った。
「今日も絶好調。ど真ん中に命中だ」
「私の弾はどうやら右上の方に外れてしまったみたいです」
「ふむ、君はもう少し練習が必要みたいだね」
 結局、ハンティングは次の日にやることになり、その日は夕食にシチューを食べただけだった。
「この肉は三か月前にとった獲物の肉を塩漬けにして保存しておいたものでね、すこし味は落ちているかもしれないけど、どうだろう」
 伯爵は深皿の中身をかき混ぜながら、いたずらっ子のような笑みで聞いてきた。
「美味しいですよ。でも食べたことがない味ですね。何の肉ですか」
「ホモ・サピエンスの肉だよ。滋養強壮にいいんだそうだ。薬喰いってやつだよ」
「へえ、初めて食べましたけど、意外ですねえ」
「だろう、僕も初めて食べた時は吃驚したもんだよ」
私は冗談かと思い調子を合わせたが伯爵がいつまでたっても種明かしをする様子がないので、フォークを置いて恐る恐る尋ねた。
「本当に人間の肉ですか?」
「その通りだ。正真正銘人肉だ。絶品だろう?」
私は伯爵の言葉に驚いたが、しかしそれほどの衝撃は受けなかった。それは多分、私たちが普段呼吸している文学の世界においてはカニバリズムなどというものは、ありふれた現象だからだろう。それに私にとってこの肉の第一印象は「旨い」という、ただそれだけの即物的なものだったのだ。「旨い」には牛も豚も鯨も鳥も馬も羊も鹿も人も関係なく平等なのだ。だからこそ、「旨い肉」に「人」というラベルが貼られたところで、私にはそれほどひどいことには思えなかったのだ。
「ええ、そうですね。少し吃驚しましたが」
「では食事を再開しよう。明日の狩りのために栄養を取らなければね。そうそう君の背後にある本棚の本なんかもすべて人皮装丁本だよ」
背後の本棚を見ると、そこにはクリーム色の革装丁で背表紙には黒字で題名が刻印された書物が並べられている。背表紙をなぞると確かに滑らかで触り心地がよかった。そこには夢野久作や内田百閒、泉鏡花の全集や『À rebours』、『Die Traumwelt』、『R.U.R』、『Pareruga und Paralipomena』、『Moby‐Dick; or, the Whale』などといった本がずらりと並んでいた。
「読みたい本があったら持って行ってもいいよ。それじゃあ、おやすみ」
 次の日の朝、私たちは車を門からサファリパークの中に乗り入れた。
「しばらくしたら車を降りて徒歩だ。森が開けてサバンナになっているところがあってそこに水飲み場があるんだ」
「そこに彼らが集まるんですね」
「そうだ。そこを狙ってズドンだ。二人で一斉にやるんだ」
 私たちは車を停めると、獣道を通ってサバンナの近くの茂みに身を隠した。
「ここでじっと待つんだ。そこの水辺に奴らが現れたらよく狙うんだ。できれば頭をね」
「そういえばここの人間はどうやって集めたんですか」
「孤児だよ。それも幼い奴らを集めてこの公園内に放し飼いにする。餌をとれないうちはそれとなく食べ物を置いておいたりして、少なくとも餓死はしない環境にする。大体最初に百体くらいは放したかな。まあ、初めは八割くらいが死んだりして試行錯誤だったんだけど。年長の世代だともう十六才かそこらかな。そこそこ繁殖もしているらしい」
「へえ、それはつまり、勝手に性交を覚えているってことですか」
「そうだね。うちの管理人なんかたまにメスの個体を連れてきてやったりしてるらしいよ。もっともほとんど獣姦みたいなものらしいが。あとは海外のセレブマダム用にオスの個体を輸出したりもしてるよ。何に使うのかは知らないがね」
 そんなことを話しているうちに向こう側の森の中から二十体ほどの人の群れがやってきた。私たちが息を殺していると彼らは二十メートルほど先で水を飲み始めた。
「狙え」
 伯爵がささやき声で言った。
「秒読みするぞ、3、2、1、」
 二つの銃口から鋭い破裂音が響いた。その音に驚いた群れは、一斉に森の中に散って行った。そんな中で一体が水辺で倒れており、一体は頭を押さえてよろけながら遅れて森に入ろうとしていた。伯爵は隣で素早く次の弾を込めると、構えて狙い、引き金を引いた。見ると森に逃げようとした一体があたりに血をまき散らしながら倒れていた。
「まあ、初めてにしては及第点だよ。今日はごちそうだな」
 狩りが終わってロッジに帰って来てから、伯爵がフランベを駆使して調理していたのは、人肉のステーキとワイン煮込みであった。鉄板の上で音を立てる肉汁と深皿から昇ってくる芳しい匂いに食欲を掻き立てられながら、私たちは食卓に着いた。
「さあ、遠慮なく食べてくれたまえ。半分は君が仕留めた獲物だ。格別だぞ」
 その日の夜、私は初めての狩りの興奮と満腹による眠気によって泥のようにベッドに沈んだ。

私は呼吸をするために海面の方に上がって行った。だんだんと強くなる太陽の光に目を細めながら。そして海面に出た時、背中に急に鋭い痛みが走った。まるで太い釘でも刺されたように背中が熱くて痛かった。私は痛みに悶えながら、必死に身をくねらせ、海の中に潜ろうとした。クジラたちは私を心配して周りに寄ってきたが、彼らになすすべはなかった。背中と頭の中が白熱するのを感じながら、私は狂ったように暴れた。
 気が付いてみると、背中の痛みは消えていた。目を開くとそこには砂浜で、少し先には崖が聳えていた。私はどうにか起き上がろうとしたが、体はピクリともせず、ぐったりとしていた。息が苦しく、今にも胸が詰まりそうだった。そうして、だんだんと視界は霞んでいき、音は遠のいて行った。私はただ海に戻りたかった。

私が目を覚ました時、最初に目に入ってきたのは暗い中でぽうっと光っている水色がかった透明な柱だった。よく見るとそれはガラス製の円柱らしく、底の方から青いライトで照らされており、中には巨大な胡桃のようなものが浮かんでいた。
「それが気になるかい」
 声のした方に目をやると、円柱から少し離れたところで伯爵が椅子に座っていた。ソファーから起き上がってあたりを見渡したが、どうやらこの部屋にはソファーと椅子と円柱しかないらしく、他には黒塗りの光沢のある床が広がっているだけだった。
「その水槽に浮かんでいるのはねえ、クジラの脳だよ。しかもまだ生きているんだ」
「クジラの脳? それはまた奇特なインテリアですね。伯爵らしいといえば伯爵らしいですが」
 水槽に浮かぶ巨大な脳は、漆黒の空間の中で青い光を反射しつつ、孤独な皇帝のようにその神々しくも物悲しい存在感を周囲に放射していた。
「そうだろう? しかしさすがにこいつを手に入れるのには苦労したよ。なんたってザトウクジラの脳だ。それもフレッシュなね。随分と袖の下やらなんやら、あれこれを手練手管を使わされたよ。役人が兎角五月蠅くてね。まあ、そんなことはどうでもいい。そうだ、音楽を聴こうか」
 伯爵はそう言うと椅子から立ち上がって、拍手を二つした。すると天井から不思議な音が流れてきた。それはいずこかの民族の管楽器のような、あるいはゆっくりと軋むドアのような、素朴でどこか郷愁を誘うようなものだった。
「きれいだろう。穏やかで安らかでノスタルジックないい歌だ」
 伯爵は円柱の水槽の周りをゆっくりと歩きながら、うっとりとした顔で言った。
「歌? ああ、クジラの歌ですか」
「その通りだ。君もネットなんかで聞いたことはあるだろう。でも、これは別格だ。なんたって僕自らが録音採取したものだからね。音が澄んでいるだろう?」
「そうですね。美しい透明な歌です」
「紀元前のギリシアの歴史家が記述したマサイ族の物語と一九五〇年代に採取されたマサイ族の口承物語がまったく同じものだったという話がある。そしてクジラたちがもし歌によって古の物語を記憶の中に留めているのだとしたら、神秘的だと思わないかい。この水槽の脳の中にも、あるいはこの歌の中にも、ホメロスの叙事詩のような壮大な物語が潜んでいるのかもしれないんだ。わくわくするだろう?」
「ええ。できたらクジラやイルカたちとコミュニケートしてそうした話を聞きたいものです。きっと、とても詩的で美しいんでしょうね」
「そうさ。とびきり文学的に決まっている。ひょっとしたらクジラの中にも詩人のような専門の者たちがいるのかもしれないね」
「それは素敵ですね」
 私は緩やかな抑揚をもって流れるクジラの歌の音色に耳を傾けながら、水槽の方に近付いて行こうとした。
しかし、数歩進んだところで後ろ髪を引っ張られるような感覚を覚えた。振り返ってみると、ソファーから私に向かって太いコードのようなものが伸びていた。後頭部に手をやってみると、それは私の頭に繋がっているらしかった。
 その瞬間、視界がまるでモニターか何かを見ているように遠くなり、頭から肩にかけて、氷水をかけられたように冷えた。
「やっと気が付いたのかい。鈍いなあ、君も」
「どういうことですか」
 私はどうにかそれだけを呟くと、そのまま床にへたり込んでしまった。
「おいおい、床を傷つけないでくれよ。ここの床はすべて漆塗りなんだからね。水槽の反射が映えるだろう?」
「なんなんだこれは! 説明しろ! どういうことなんだ!」
 私は震える声でどうにかそれだけを叫んだ。私の声はクジラの歌を掻き消し、部屋中に反響した。
「そうだねえ、“蒼ざめた助教君、――衣服もこころもからだも、また頭脳も、ぼろぼろだった彼を、わたしは今も目に見る”といったところかな。あるいは“何が本当に出てくるのかを知らないでいることは、一種の幸福である”かな?」
 伯爵は笑いを堪え切れないといった表情で私の近くに歩いてきた。
「どうなってしまったんだ私は。こんな、ロボットみたいに。ここはどこなんだ」
「ここがどこかは秘密だが、君はロボットではないよ。どちらかというとサイボーグだが、より正確に言うならば君はクジラだ」
「クジラ?」
「そうだ。つまりここに浮かんでいる脳は君ということになる。ちなみにこの作品は《夢見るクジラの脳》という題名だ。とくとご覧あれ」
 伯爵は私の傍から離れていき水槽の横で止まると、観客を前にした奇術師のように優雅にお辞儀をした。
「馬鹿な。私は人間だ。私の思考も行動も人間のものだ。よしんばこの体が機械だとしても、この頭の中にあるのは私の脳、人間のそれなはずだ」
 私は何とか立ち上がると、自分のこめかみを指し示した。
「残念ながらその中にはコンピューターが入っているだけだよ。分かりやすく開閉できる仕組みにしておくべきだったかもしれないね。この水槽は優れものでね、中の液体は脳水と同じように栄養を供給しつつ、脳から発せられる神経伝達物質や神経パルスを読み取って変換し、君の頭の中のコンピューターに送るんだ。もちろん逆も可だ。有線ではなく無線も可能だが、どうせ君は一日中眠っているだけだしね」
 伯爵は一気にまくしたてると、喉が渇いたのかズボンのポケットから小型の水筒を取り出して口に含んだ。
「ということは、君と行ったホエールウォッチングやハンティングも無線状態でこの体が動きまわっていただけで、私の本体はずっとここにいたっていうのか?」
「いいや違う」
 伯爵は椅子に座りなおして足を組むと、憐れみをこめた眼で私を見ながら言った。けれどもその瞳の中には同情の色は一切なかった。
「君のその体はこの部屋すら出たことはないよ。偶に起きて僕と話す時に便利だからあげただけで、移動用ではないんだ。言っただろう《夢見るクジラの脳》と。君が経験したことはすべて現に限りなく近いただの夢なんだ」
「じゃあ、私の両親や大学生活、バーで君と飲んだことも、ザトウクジラを見たことも、イルカと泳いだことも、人間を狩ってそれを食べたのも、私のこれまでの人生すべてが夢だったっていうのか!」
「その通りだ。君の元の記憶は僕が消してしまったし、君の今の記憶と人格は人工的に上書きされたものに過ぎない。しかし随分とエグイ夢を見ているな、君は。カニバリズムだなんて。人間に恨みでもあったのかな。まあ、クジラであることすら忘れてしまった君の無意識になんて何の意味もないがね。もともと、君の記憶をすべて消すつもりはなかったんだ。さっき言っただろう? 僕はクジラの歌の中身に興味があったんだ。でもそう都合よく一部だけ残すってことはできなくてね。やはり人間の記憶や意識と摩擦が生じるらしいんだ。残念だったよ」
 私は後頭部のコードをつかむと力の限り引っ張った。
「人間に恨みがあるかは知らないが、確実に私は君が憎いよ、伯爵。今からこいつを引きちぎって君をぶん殴ってやる。覚悟しろよ」
 伯爵は組んでいた足をほどくと、両手を軽くあげておどけた風に参ったのポーズをした。
「怖いことはやめてくれよ。直すのが大変なんだそれ。それにこのことを話すのはもう五回目くらいなんだけどね。よほどショックなのか君は毎回起きるたびに忘れているんだ。仕方ないから何回かに一回こうやって残酷な真実ってやつを話しているんだけどね。覚えているかい? 僕らは大抵はこの部屋で和やかに歓談しているんだ。それに憎まれるのも筋違いだ。僕はただ浜に打ち上げられて瀕死だった君を救っただけなんだから。もっとも君の肉体はもはや使い物になりそうになかったから、僕が頂いたがね。美味しかったよ」
 長々と伯爵がしゃべっている間、私は両手でコードを握り締め渾身の力で引き抜こうとしていた。徐々にだが確実にプラグが緩んでいる感触がある。もう一息だ。私は部屋中に響き渡るような雄叫びを上げながら渾身の力を腕に込めた。
「“夢のない眠りは死だ。いかなる者の祈りでももうお前を神聖なものとはしない”せめてよい夢をな」
 伯爵が台詞を述べ終えた瞬間、プラグがはじけ飛び、同時にすべてが暗黒に包まれた。

〝なんだ、急に真っ暗になったぞ。何も見えない、何も聞こえない。何も感じない。ここはどこだ? とりあえず手探りで何とか出口を見つけないと。手さぐり……手? 手はどこにある? 足はどこにある? 体は、からだはどこに行った?〟
〝まるでただ思考だけが浮いているみたいだ。ぼんやりと漂っているだけ。不安定だ。どこかにしがみ付きたい。とっかかりが欲しい。何かつかむものが。でも体がないのにどうやって? 叫びたい。泣きたい。気を抜くと自分が溶けてなくなってしまいそうだ。このままじゃ気が狂う!〟
〝まさか、伯爵の言っていたことは本当だったというのか。今の私はただ水槽に浮かんでいるだけの脳なのか。嫌だ! 嫌だ!〟
〝クソ! 伯爵め! 次に会ったらぶっ殺してやる。気が狂いそうだ。いやいっそ狂いたい。正気でこんな暗黒に漂うなんて耐えられない。誰か答えてくれ。伯爵でもいい。助けてくれ。嫌だ! こんなところは嫌だ! 死にたい! いっそ殺してくれ!〟
〝伯爵、聞こえているんだろう。君のことだ、どこかで見て聞いているんだろう、私の思考を。頼む、私が悪かった、許してくれ、頼む、助けてくれ! お願いだ、私たちは友達だろう? 伯爵、お願いだ! 伯爵! 伯爵!〟
              

 目が覚めるとそこは長椅子の上だった。あたりを見回すと、どうやら船の中らしい。丸い窓からは海と空が見える。そして私の腕には点滴の針が刺さっていた。
「ここは?」
「やあ、やっと起きたかい」
 見ると、向かいの長椅子には伯爵が座っていた。手には分厚い全集本が開かれている。
「ここはどこですか伯爵」
「おいおい寝ぼけているのかい。僕らはホエールウォッチングに来て、そして君ははしゃぎ過ぎて熱中症で倒れたんだ。寝ながら妙にうなされてたぞ。さっきなんか伯爵、伯爵って連呼していた。いったいどんな夢を見たんだ?」
私は少し痛む頭に手をやりながら起き上った。
「何、悪い夢を見ただけですよ。内容は覚えてませんがね。嫌な気分になる悪夢だったのだけは覚えてます」
「そうか。それなら熱くて苦いコーヒーでも飲めばすっきりするさ」
 そう言うと、伯爵はテーブルの上にあるカップにポットからコーヒーを注いで私に渡した。
「そうそう、マスターから餞別にもらったマイヤーズラムが残っているんだった。僕は入れるけど、君はいるかい?」
「私はまだ頭が痛いので結構です」
「そうかね」
 伯爵はポケットから小型の水筒を取り出すと、少しばかり自分のカップに垂らした。
「うん、いい香りだ」
 伯爵はカップを傾けながら微笑んだ。

クジラの夢

クジラの夢

ある日バーで伯爵と名乗る男に出会った私はだんだんとその魅力に惹かれていくが、そこには私自身の存在の秘密が含まれていた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-29

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