世界はもそもそと動いている
日曜の昼下がり、紅茶を飲んでいた。大家に家賃を払ってきたので、あとは今日一日特にやることがあるわけでもなく、ただぼーっとしながら庭先を眺めていた。窓の近くには虫かごがあって、先日卵から孵った芋虫が葉っぱを齧っていた。季節はだんだんと夏めいてきていた。
紅茶を飲み干して空になったカップを覗き込むと、あまり洗ってないせいか茶渋がこびりついていた。なんとなくその色彩が中東の廃墟を連想させて見つめていると、だんだんとカップの口が目の前に迫ってきて、カップが大きくなっているのか私が小さくなっているのかわからなくなってきた。夢心地のように目の前が眩んで、気が付くと私は巨大な穴の中にいた。
私は穴の側面の中ごろにいるらしく、足元には幅一メートルほどの階段が側面に沿って螺旋状に下に向かって伸びていた。階段は私の足元から始まっており、壁もざらざらとはしているがとっかかりはない。巨大な円形の出口からは白い光が燦々と降り注いでいた。どうやら階段を下りるしかなさそうだった。
穴の底に着くまでにどれほどの時間が経っていたのかは正直わからない。三時間くらいはかかったような気もするし、もしかしたら一時間も経っていなかったのかもしれない。当初は困惑したこの状況もしだいに楽しくなってきてピクニック気分だったので、それほど時間を気にする必要もなかった。どうせ特に予定があるわけでもないのだ。むしろ退屈しのぎになってちょうどいいくらいだった。
階段を下り切ってしばらく底を半周ほどの所まで壁に沿って歩いていると、金の取っ手がついた青い扉があった。ちょうど人ひとり分が通れるだけのあまり大きくない扉だ。試しにノックをしてみるが返事はなかった。取っ手をひねると鍵がかかっていなかったので、中に入ることにした。
扉の内側は壁をくりぬいて部屋になっているらしいが、蝋燭が何本か点いているだけなのでひどく薄暗かった。それほど広いわけではないらしく、せいぜい六畳かそこらの空間に、分厚い本やら何に使うのかわからない器具やら何かが浸かっているらしい瓶が並んだ棚などが雑然と配置されていた。
「誰が入ってよいと言った」
声がした方に目を凝らすと、ローブを羽織って机に向かう人影が見えた。声からすると年老いた男であるようだ。
「すみません。道に迷ってしまって。できれば帰り道を教えていただきたいと思いまして」
「ふん、まあよい。誰かが来るのは前からわかっていたことだ。それで、仮に私が帰り道を君に教えてあげられるとして、私にはどういう利益があるというのかね。君は何か渡せるような報酬を持っているのかね」
「報酬ですか」
いきなり報酬の話から入る老人に面喰らいながら私が彼に払えるものを考えた。部屋の中で普段着のままで来たので、鞄一つ持っていなかったし、財布も鞄の中なので当然持っていなかった。
「そもそもあなたにとって報酬になるようなものはなんなのでしょうか」
「そうだな、それは私にもわからん。今やっている実験を成功させたいのだが、それには何かが足りないのだ。昨日から蒸留器にいろいろと入れて蒸留しているのだが、さっぱり成功せん」
「では、こういうのはどうでしょう。お年を召したあなた一人ではいろいろな作業をするのは大変なことでしょうから、私を雑用係の助手として雇うと言うのは」
「かまわんが、それでは逆に君の利益はどうなるんだね」
老人が怪訝そうな顔で問い返してきたので、私は精一杯人のよさそうな笑みを浮かべながら答えた。
「実験が成功した暁には私に帰り道を教えてくれるというのはどうでしょう」
「よいだろう。君を助手として使うとしよう」
それからしばらく、私は老人の助手として働いていた。と言ってもやることと言えば老人が指示する植物や鉱物などを薬研やすり鉢で粉々にして、それを鍋に入れて煮るくらいだ。蒸留器での蒸留は精密な作業らしく、老人が自分自身で行っていた。
ここでは基本的に外では常に上の穴から光が注いでおり夜というものがなかった。老人がなぜわざわざ暗い穴倉に籠って実験を繰り返しているのかはよく分からないが、どうも広い所が落ち着かないたちなのではないかと思う。あるいは単に明るい所が苦手なのかもしれない。老人の実験を手伝っているとき以外は散歩がてら地面や側面の壁を調査して脱出の手がかりを探していたが、それらがとてつもなく硬いことぐらいしかわからなかった。
夜がないため、私は基本的に眠くなったら眠り、起きたくなったら起きる生活をしていた。自分がここに来てから何日が経ったかは自分のバイオリズムで確認するしかなかった。しかし私にとってそれはどうでもいいことだった。どうせ退屈な日常に飽きていたのだから、ここで錬金術師の老人とあてのない実験に明け暮れるのも悪くはなかった。私を心配するほど親しい人間がいるわけでもないのだ。理科の実験が好きだった小学生の頃の私が聞いたら目を輝かしそうな状況だ。ただ、置いてきた芋虫のことだけは心残りだった。
そんなある日、私は思い立って円状の地面の中心で大の字になって寝転がってみた。誰に咎められることなく好きなだけ寝転がれるのだ。こんなよいことはない。思いっきり転がっていた時、ふと尻のあたりに違和感を覚えた。どうやらポケットに何か入っているらしい。はて、と思って取り出してみると飴が一つ出てきた。そういえば大家に家賃を払ったときにもらったのだった。袋を開けるとさっきの衝撃で飴は二つに割れていた。ちょうど甘味に飢えていたところだ。私はまず一かけを口に入れた。グレープ風味の砂糖の味が口の中に広がって思わず口元が緩んだ。
一つ目のかけらを丹念に味わい終わってから、二つ目を口に入れようとした時、ふと私の頭にひらめきが起こった。あの老人の実験は失敗続きだが、それは組み合わせに失敗しているのではなく、そもそもこの穴の中にない素材が必要だったからなのではないか。
私は地面から起き上がって部屋に戻ると老人に提案した。
「この飴を使ったらどうでしょう」
それから私はいつも通りに老人の指示に従って素材をごりごりと磨り潰して鍋に加え、そこに飴のかけらを入れて煮立てた。
「ところで今さらなんですが、これは何を作るための実験なんですか」
「本当に今さらだな。いつになったら聞いてくるのだろうと思っていたが。まあよい。これは魂を形而上的な次元に昇華させるための霊薬を作るための実験だよ。この本を見たまえ。ここにはこうある。『澄みきった水の中で、変貌しつつ眠りに沈み、この強力な水によって、純粋良質の土が生まれ』」
「ああ、わかりました。とりあえず、すごい薬ができるんですね」
「まあ、非常に簡単に概略的に言えばそうなるな。まあ、あまり専門的なことを言ってもわからんだろうしな。よし、そろそろいい頃だ。その鍋の中の液体を蒸留器の中にゆっくりと注いでおくれ」
私は老人の指示に従って、蒸留器の中に煮立てた液体を注ぎ、それを老人が火にかけて蒸留し始めた。蒸気が冷やされて少しずつ別のフラスコの中に溜まっていくのを見るのは秒針を見つめるのに似ていてもどかしかった。
やっと蒸溜が終わると、老人は汗をぬぐい蒸留器からフラスコを外した。
「ふむ。どうもこれはかなり理想的な状態に思えるな。ちょっとそこからカップを二つとってくれ」
私が棚からカップをとって渡すと、老人は二つのカップに均等にフラスコの中の液体を入れ、一つを私に渡した。
「これを飲めばこの穴から出ることができるんですか」
「まあ、その通りだ。さあ、今までよく手伝ってくれた。乾杯といこう」
私たちは杯を合わせるとそれぞれ一息に飲み干した。
「うーん、あまりおいしくないですね」
私が目の前にいた老人に話しかけようとした瞬間、老人が、部屋が、穴が、どんどん遠のいていき、私はものすごい勢いで世界の外側に引っ張られて行った。まるで宇宙が急速に縮んでいるかのように、宇宙の果てが私にせまり、そして私は世界から弾き出された。弾き出された先はひどく狭い空間で、一畳くらいのところに抱え込めるくらいの胡桃状のものが置いてあり、そこから太いケーブルが壁に向かって吸い込まれていた。どうやらまた出口のない空間に来てしまったらしい。おまけに狭い。こんなことならあの老人の穴倉の方がましだったくらいだ。
「ぜんぜん帰れてないじゃん」
ぶつぶつと老人に対して文句を言いながらなんとなく胡桃状のものをさすっていると、それが妙に光を帯び始めた。さらにさすると、まばゆいばかりに輝きだした。その輝きはやさしく太陽のようで、私がふれているものが世界そのものであることを感じさせた。私はここから来たのだ。だんだん目があけていられなくなって目を閉じた。すると光とともに衝撃が来て、また私は弾き飛ばされた。
なんだか洗濯機に入れられでもしたかのようにぐるぐると振り回されながら、私はどこかに放り出された。目を開けてみるとそこは真っ暗な空間で音は全く聞こえなかった。けれども何か気配がして後ろを振り向くと、そこには二十メートルはあろうかという巨大な芋虫がいた。どうやら私はあの芋虫の中から飛び出てきたらしい。だとするとさっきまで撫でていたのは芋虫の脳だったのか。
芋虫はもそもそと動きながら、しきりに糸を口から吐き出して体に巻きつけていた。どうやら蛹になるつもりらしい。やることもないので巨大芋虫の観察をしていた。芋虫は懸命に糸を巻きつけているが、いくら大きいとはいえ芋虫なのでなかなか巻ききらない。煙草でも吸いながら待っていたかったが、生憎手持ちがなかったので、暇つぶしに綱のように太い糸を巻くのを手伝ってやることにした。どれくらい経ったかわからない頃になってやっと芋虫は繭を作り終えて蛹になった。これから蝶だか蛾になるのにどれくらいかかるのだろう。
私は真っ暗な広漠とした空間の中でひたすら待ち続けた。だんだんと思考が減り、私自身蛹のようになりながら、数日、数週間、あるいは数か月、あるいは数年か、どれくらい経ったかはわからなかったが、永遠のような今を過ごし続けた末に、ようやっと目の前の蛹に縦の裂け目が入ってきた。いよいよ羽化らしい。成虫は懸命に蛹の殻から抜け出ようとしている。ゆっくりと徐々に羽を出し、頭を出し、胴体を出し、頭を出す。そうして緩やかに羽を広げていく。成虫が羽を乾かして広げきった時、蝶ははばたき、私の方に寄ってきた。そして羽と足で私を優しく包み込んだ。
気が付くとそこは自室の机の前で、目の前には空になったカップが置いてあった。どうも穴に入ってからほとんど時間は経っていないらしかった。ふとぱたぱたと音が聞こえたので振り返ると、窓際の虫かごで蝶がはばたいていた。羽化したらしい。この宇宙はもう芋虫ではないのだ。私は籠を外に出して開き、蝶を逃がしてやった。蝶は戸惑うようにひらひらと飛んで行ってしまった。
世界はもそもそと動いている