期待された男


 一杯飲みに行こうしていたら、机上の電話が鳴った。何故だか不気味に聞こえた。
「佐々木由美子です。夜分、恐縮です」
 何のことはない、元上司の細君だった。川野勝久はむしろ彼女の声に救いを感じた。
「お元気なの」
「どうにかやっています」
「お仕事は例のアレね。順調なの」
「ボチボチだね」
 ポルノDVDやビデオの通信販売をしていて、収入はたかが知れている。団地の一室で独立してまだ八ヵ月だから無理もない。由美子は社交的な会話を交わしてから、新情報をもたらした。
「青山社長が衆議院選挙に出るそうよ」
「本当なの」
「意外でしょう」
「見てくれは政治家風だけど、独自の理念をもっていないね」
「そうね、政界に出ないほうがいいわよ」
「何だか、禍事(まがごと)が起こりそうな気がするな」
 佐々木由美子とはため口を聞いたり、丁寧だったりする。前の社長の悪口を言い合って、一段落すると話題を切り替えた。佐々木宅に無言電話がかかってくると言うのだ。誰彼となく聞いているのだが、まだ見つからない。百五十回はかかってきた。それでもこの頃では少なくなった。川野は受話器を握りながら佐々木明彦なら人から恨まれても仕方がないと思った。「それは、怖いねえ」
「あなたの周辺には見当たらない?」
「いないね。分かったら知らせるよ」
「ところで、たまに拙宅に遊びに来てください」
「お宅の旦那さんとは、不仲だから行けないね」
「夫は家にはいないわ。ほとんど別宅なの。時には儲け話でもしたいのよ」「いいねえ、そういう話なら大歓迎だ」
「私も一仕事をしたいと思うようになったの」
 親近感が湧いてきたのか、つい由美子のすらりとし肢体を想像して、助平たらしい顔つきになった。新入りの頃、佐々木に頼まれて西荻窪の家に用を果たしに行ったことがある。いくら近くの高円寺に住んでいても私用を言いつけられるのは腹立たしかった。けれども、由美子と会えるのが役得である。笑った時に口角をあげたり、頬に皺を寄せたりするのを見ると色気を感じた。年も三十代半ばで脂が乗っている。かつてイラストレーターをしていて、今もたまに注文が来る。訪ねて来いというなら、いつでもお邪魔するつもりだ。
「いいお話があったら、また電話をするわ」
「お待ちしています」
 友好的な会話を交わして電話を切った。
(由美子の体を必ず頂いて、佐々木明彦に一矢報いてやらねば)
 川野はふてぶてしく呟いた。
 すぐに高円寺ガード下の飲み屋街に向かった。歩きながらひょいと閃いた。無言電話はカエデかもしれない。カエデというのは社の近くの喫茶店の元ウエイトレスだ。佐々木とできており、後からひどく嫌うようになった。辞めたがっている時、今のスナックを世話してやった。
 半月ぶりに暖簾をくぐると、年配のママと仕込みをしていた。
「いつものやつを」
 焼酎のボトルが置いてあり、大抵は酎ハイを飲む。つまみはモツの煮込みとイカ刺とラッキョウを頼んだ。後から中年の客が来て、ママと長話を始めた。川野はカエデに話しかけた。
「お父さんの具合はどうなの」
「変わらないわ」
「治る病気じゃないから大変だね」
 カエデの父親は筋ジストロフィーを患っていて、母が魚の加工工場で働きながら看病をしている。田舎は北海道の釧路(くしろ)だ。できるだけ仕送りをしているのだが、金額はわずからしい。スナックのほかにSM研究会のモデルとかをしていて、月に二度くらい参加するが、ここは実入りは悪くない。
「変わったことをしているね」
「お金のためよ。私は苦労しているのよ」
「そう言いなさんな。俺だって、親父が事業に失敗したから、散々な目に遭っているんだ」
 会社が倒産し、父は負債を抱えたまま心労で亡くなった。借金は保険で清算するのが精一杯で、遺族に回ってくる余裕はなかった。父のすべきことを彼自身が補完する生き方になった。金を貯めるのが目的ではないはずだが、手段が目的化している。こうなったのも二代目の父のせいだとあまり尊敬していない。中途半端に終わりたくないので、逆転させたいと考えている。
「人を蹴落としてでもやるつもりだ」
「私もあやかりたいわ」
「いずれ、この暗いトンネルから抜け出してやるよ」
 カエデとは馬が合い、話がしやすかった。二人とも大金を欲しがっている点では共通している。
「ところで、きみに聞きたいことがある」
「何?」
「佐々木の家に無言電話をしなかったかい」
「したわ。あいつは許せないもの。レイプ同様の手口で体を奪ったんだから」あっさり打ち明けた。
「罪深い奴だな」
「憎んでいるわ」
「奴はサディストだろう」
「そうだけど、マゾの嗜好もあるのよ」
「どんなことをするの」
「ホッペタを殴って、侮辱の言葉を吐いてくれとか……普通では効かないみたい」
「アハッハッ」
「おかしな男でしょう」
「俺は妻を寝取られた」
「えっ、それで平気でいられるの」
「いられるはずないよ」
「卑怯なところがあるのね」
「それでいて、あれで詩人志望だからな」
「私にも言ったわ」
「でも、表現者の才能なんてない」
「大した男じゃないわ」
「俗物だよ」
 その夜は佐々木の話で盛り上がり、気脈が通じた。

 川野が勤めていた会社は出版社で、大きな修養団体の雑誌を請け負っていた。全国規模だから部数は多く、相当の収入を上げていた。佐々木明彦を最初に見た時、何故だか男メカケに見えた。金持ちのスポンサーに雇われ、好きなようにさせてもらっているという印象である。段々分かってきたことは社長の秘蔵っ子で野心家であり、しかも女遊びが異様に好きだった。会社で自分のセックス体験をボイスレコーダーで聞き入ったり、女子トイレの音を盗聴したしりした。
 入社当時、温厚な先輩の一人が、
「佐々木部長はあれでも、学生時代に詩を書いていたそうだよ」
 話してくれた。信じられないという顔つきで。川野は本人にも確かめてみた。
「佐々木さんは昔、詩人だったそうですね」
「今でも書いているよ」
 ムッとした。現役を過去形で捕えたからだ。彼は気に入らないと顔をしかめる癖があった。近くの喫茶店のウエイトレスから電話がかかってきた時、川野が受けた。その際、
「取締重役の佐々木さんをお願いします」
 妙な尋ね方をした。イヤガラセかもしれない。普通はそんな言い方はしない。佐々木が帰社したので伝えた。
「名前は名乗りませんでした」
「誰だろうな」
「取締役重役と肩書きをつけましたよ」
 その時も佐々木は不快そうにソッポを向いた。これで誰だか分かっただろう。喫茶店ジュンのカエデである。
 佐々木は社では中心的な役割を果たし、社員や出入りしている関係者から畏敬の念で見られていた。特に頭脳に自信があるのか、
「俺は頭がよすぎて何もできない」
 おかしな自慢をした。その言い方に川野はハッハッと笑ったらその時もムッとした。傲慢で短気な性格をしていて、何かと感情をあらわにした。だが強気な社員がミスをしても黙っていた。また怒る時、薄い笑いを浮かべた。虚勢を張っているが、本当は小心者である。
 三年目くらいの時、ジュンを辞めて戻ってきたカエデが、
「銀座で佐々木さんと、あなたの奥さんが一緒に歩いているのを見たわ」
 教えてくれた。川野は思いがけないことに仰天した。
「なんで、部長と一緒なんだ」
「気をつけたほうがいいわよ、佐々木は女だったら、誰でもだから」
「どんな様子だった?」
「肩を寄せ合って、親しそうだったわ」
 カエデとの仲はとっくに切れており、今は他人も同然の間柄である。しかし妻のまり子にも手を出すとは――噂になるのを恐れてカエデに口止めをした。
「人に話すはずないわ。私は川野さんの味方よ」
「ありがとう」
 カエデは十分に信頼できた。前はタレント教室の生徒だったが、途中で挫折した。芸能人の声色がうまくて、なかなかの芸達者である。世間のことをよく知っていて頭もよかった。
 帰りの電車の中で妻が浮気したことを考えると、形相が歪んだ。結婚するまでまり子も同じ会社にいて、佐々木のことは少なからず知っている。不倫はあり得ないことではない。血圧が百八十くらいに上がりそうで、怖かった。自宅に戻ると、禁煙しているのも忘れて煙草を吸った。間もなくしてパート勤めのまり子が戻ってきた。
「どうかしたの」
「お前、佐々木の野郎と寝たろう」
「いきなり何よ。そんなことするわけない。それに、お前呼ばわりは止めてよ」
「人から聞いたぞ」
「誰が言ったの」
「誰でもいい。正直に言え」
「言いようがないわ」
「嘘をついたら、ぶん殴るぞ」
 まり子のブラウスを千切れそうなくらいに引っ張った。川野は嫉妬深いほうで、しかも相手が佐々木と来ては黙っていられなかった。
「銀座で偶然に行き合っただけよ」
「行き合って、どうした」
「ドトールでお茶を飲んだわ」
「何故、断らなかった」
「上司だから、断り切れなかったのよ」
「その後、ホテルに行ったろう」
「邪推はやめて」
「セックスはよかったか」
「最低ね」
 まり子は泣き出し、鼻をグズグズさせたが、芝居に決まっている――いくらせめても口を割らないだろう。川野は銀座には滅多に行かないから、デートの場所に選んだに違いない。よりによって佐々木と偶然に出会うとは考えられない。
「誤解されるようなことをしたのは謝るわ」
「誤解じゃない、事実だ」
「私を信じないの」
「誰が信じるものか。畜生、ムカムカする。お前の顔なんか見たくない」
 まり子は台所に行き、川野はベッドにふてくされて横になった。怒りは収まらず、激しい憎悪にかられた。佐々木なら部下の妻を誘惑するのはわけのないことだ。まり子より佐々木を憎んだ。根拠もないのに疑惑に取りつかれてしまった。

 早めに出勤して、誰もいないところで週刊誌を読んだ。その中にセネカという哲学者の「高く上った者ほど落ちやすい」という言葉を引用して、財界の二代目が女と賭博に金をつぎ込んだという記事が載っている。莫大な財産を失い、一挙に失墜した。読者にとって、頂点にある者が惨めになるのは快楽なのだ――そんなことを考えていると、佐々木がいやに早く出て来た。彼の表情はご機嫌斜めだ。またか――部長はこう命じた。
「川野、Mくんの原稿料を振り込んだか、聞いてきてくれ」
 有無を言わせぬ口調である。経理に行くと、女子社員が振り込んでいないと答えた。戻ってきてその通りに伝えた。
「何、まだだと!そんなことはない」
「事務所で言っています」
「もう一度行ってこい」
「自分で、行ってくればいいじゃないですか」
 佐々木は憤激して太めの体をドタドタさせながら出て行った。糞ブタめと川野は小声で罵った。その間にジュンにコーヒーを飲みに行った。この際、どこかに消えてやろうかと思いついた。たまにはいい。四谷駅から中央線の電車に乗った。新宿で降りて、焼き鳥屋横丁に向かった。朝からやっている店はないので人通りはわずかだ。ゴールデン街にも足を運んだが、ひっそりとしている。酒を飲むわけでもないが、今の彼は高層ビルよりも時代から取り残された街に親しみを感じた。区役所通りから靖国通りに来て雑踏に紛れた。大勢の健全な市民の他に、前科者やヤクザや生活破綻者や精神障害者などもいるだろう。こんなところに、自分に居場所があるような気がした。時間がきてから歌舞伎町で覗きストリップを見て、オプション・サービスを楽しんだ。昼飯は立ち食いそばやで腹ごしらえをした。会社では、どこにいったか詮索しているだろう。いや怒っているかもしれない。どうでもよかった。そのまま自宅に直行した。
 翌日、佐々木と顔を合わせたら、戸惑ったような顔つきをした。
「昨日はいなくなったな」
「新宿に行ってきましたよ」
「連絡をしてくれよ」
「佐々木さんがいけないんだ。理由もないのにカリカリしているんだから」
「誰だって、調子の悪い時はある」
「あなたはしょっちゅうだ。それに部下の扱い方が不公平です。手怖い者には何も言えないんだから。気が小さくて臆病です」
「上司を侮辱するのか」
「それどころか、殴ってやりたい」
「やってみろ」
「いいよ、表に出るかね」
 川野は憎悪の表情を浮かべ、本当にやる気だった。喧嘩が強いわけではないけれど、捨て身になっていた。血を見るかもしれないし、パトカーが駆けつけるかもしれない。どうあろうとも、なるようになれと開き直っていた。だが同僚が仲裁に入って止めた。佐々木は舌打ちをしていなくなった。
 次の日、辞表を提出して退社した。
 二ヵ月後には妻と離婚した。まり子は都内で一人暮らしをしている姉と同居することになった。二歳離れていて、引っ越しの日、妹がお世話になりましたと礼儀正しく挨拶をした。まり子は感傷的になって泣いた。

 八月の半ば頃、佐々木由美子から訪ねてきてほしいとメールが入った。彼は喜んで承諾した。その日、あいにく強風が吹き、雨が降りだして、やがてゲリラ豪雨になった。待っていたら、やっと収まった。出かけたのは午後七時頃。それにしても一体何用だろう。何度か来たことのあるマンションの七階に上った。応接間はシンプルなインテリアで、ただ壁のリトグラフが目を打つ。絵は黄昏時の都会のビル群で、生存競争の疲れを静めるかのように描かれている。ローテーブルには、野菜と豚肉のグリル、シャトーマルゴのワインが用意されていた。乾杯して飲み始めた。
「こんな上等なお酒、飲んだことないなあ」
「第一級のお客さんだからよ」
「それは光栄です」
「たっぷり召し上がって」
 由美子の装いも(あで)やかで、胸元の花柄をあしらったサバンナドレスがしゃれていた。年齢相応の美しさと落ち着きがあった。目は輝きを放っている。けれど、何を称して第一級なのだろう。川野は意味が分からなかった。
「美人を相手に飲むのは悪くないね。でも、ぼくはあまり礼儀を心得ていないから」
「世間の作法やルールなんて時には無視していいのよ。それに道徳や法律を守るばかりが能じゃないわ」
「法律も?」
「そうよ。こんな時代に愚直に生きるなんて、お馬鹿さんよ。世の中は浮わついているけど、日本の経済はいつか破綻するのよ。そう考えたら、性根を入れ替えたほうがいいわ」
 川野は日本の行く末のことなど考えたことがない。無論何一つ解決してくれない政治にはウンザリしている。また今後日本が庶民の希望通りに進んでいくとは思えない。どうせ成るようにしかならないと笑ってやっている。だが、由美子は笑ってばかりいられないと不安そうである。
「だから、お金くらいはシッカリ持っていたいわね」
「それはまったく同感だね」
 お代わりを飲んでいると、外はまた激しい雨が音を立てて降り出した。二人ともかなり酔いが回ってきたようで、いくらも経たないうちにごく自然に唇を寄せ、舌をからませた。川野は悪魔に魅入られたような気分になっていて、奈落の底に落ちてもいいと思った。今の彼には理性も何もなかった。寝室に移ると由美子は成熟した体を誇示して、
「佐々木に恨みを晴らしなさい」
 煽った。色白の体はふくよかで味が染み込んでいた。彼女は演技的で、大げさなくらいだった。川野はガムシャラに欲望を満たし、由美子も何度もオルガスムスに達した。むさぼり合った後は居眠りした。その間、風雨は完全に収まっていた。目を覚ましてからベッドサイドのテーブルで日本茶を喫した。由美子は囁くように聞いた。
「無言電話はあなたでしょう」
「いや違う、俺じゃない」
「あなたしかいないわ」
「喫茶店のカエデという女だ」
「カエデさんなら知っているわ。会ったことあるもの。いい子なのに」
「うん、賢いね。佐々木さんには恨みを抱いているけど」
「私だって被害者よ。あなたもね。夫の日記を見たら、まり子さんやカエデさんのことが書いてあったわ。それに数限りない女のこともね」
「やっぱり、そうか」
「忘れなさい」
 川野はしばらく不快そうに腕を組んでいた。
「そろそろ本題に入るけど、一緒に組まない?」
「どんなこと」
「大きな仕事よ」
 由美子は川野の才能を買っている。それは非合法の領域に踏み込めそうな度胸だ。金のためなら荒仕事を平気でこなしてしまうと見込んでいる。川野はそんな目で見ているのを鋭いと思った。由美子によると、青山社長は別会社の資金管理会社を経営し、佐々木明彦が専務をしている。選挙に関係した金が金庫に保管してあると言うのだ。政権与党の幹部に贈呈したり、また自分の選挙資金に使うためである。それを奪うのである。
「成功したら、すごい金が入るわよ」
「それは願ってもないことだ」
 川野は思わず身が震えた。佐々木は寝泊まりすることがあるからその時がチャンスだという。ふだんは刑事上がりの六十くらいの社員しかいなくて、いつも定時で帰っていく。由美子は最初から意図していたのか、佐々木から秘密の情報を引き出していた。
 夫から用事を言いつけられ、会社を訪ねた際、書類からダイアル式のナンバーをメモしておいた。金庫の場所も開け方も分かっている。ただし、会社の鍵だけはどうしても手に入らないので、佐々木を騙すしかない。川野は面が割れているので、具合が悪い。カエデをうまく使う手があるかもしれない。まだ一ヵ月近くあるから考えてみるつもりだ。
 密談しているうちに時間が経ち、大筋でまとまった。泊まっていきなさいと勧められるままに一晩厄介になった。翌朝は早く帰った。八月も終わる頃で、盛夏が過ぎて気温が少しずつ下がり始めた。それでも日中は外に出ると汗がしたたり落ちた。
 カエデに打ち明ける日、自宅に招いた。お茶を入れながらいくらか緊張していた。
「他でもないがね」
「マゾ男の紹介なの」
 カエデは意地悪そうに笑った。以前に人に頼まれて彼女に依頼したことがあるが、キッパリ断られた。
「もっと重要な用件なんだ」
「何でしょうね」
「億という金が入るんだ」
 カエデは金額を聞くと目を見開いて、頬を上気させた。
「マジっすか。そんな金が入るなら、社長のオシッコだって飲んじゃうわ」
「ハハハ……」
 大きな声で笑った。やってくれるかもしれない。それからゆっくり手口を説明した。金を金庫から引っ張り出して運び出すのだが、用心すれば見つからないですむし、人を殺すようなことはしない。分け前は公平に三等分して払うように決めてある。それは由美子との約束で、裏切りや密告のないようにするためだ。川野は石橋を叩いて渡るほうである。手が後ろに回ったら元も子もない。カエデは神妙な顔つきで聞いていた。どうだ、協力するかと返事を促した。
「一生懸命にやります。万難を排してでも……」
「そうか、よろしく頼む」
 彼は両手でカエデの手を堅く握りしめた。
「この話を持ってきたのは、佐々木の奥さんなんだ」
「まあ、そうなの」
「彼女も佐々木を憎んでいる」
「その理由を話すと、カエデはさもありなんという表情をした。それから佐々木のマゾの性癖を思い出し、何か妙手があるのではと相談した。
「そうね、それを利用する手はありそうね」
「何とか練ってくれ。とにかく奴に一泡ふかせてやりたんだ」
「いいわ、考えておくわ」
 場所は四谷のビルにあり、栄光社という名の会社だ。夜間は警備員はいない。佐々木は月に一、二度当直することがあるので、その日を選ぶ。巧妙な口実を作って女(偽装したカエデ)が訪ねていく。川野は近くで待機している。問題は佐々木を籠絡する方法だ。カエデが表情を輝かせた。
「何とかなるわ、任せて下さい」
「名案があるか」
「あるわ」
 カエデもやっと飛ぶ時が来た。こうなったら、やるっきゃない。絶対に成功させるわと睨むように見つめた。
 川野はその夜、神経が高ぶって眠れなかった。
 二、三日したら、カエデの郷里の母が電話で近況を知らせてきた。父親の容体が前よりもよくなった。余裕があれば金を送ってくれないかと言う。少しくらいなら何とかなる。それよりも、まとまった金が入るかもしれないと(ほの)めかしておいた。
「くれぐれも無茶しないでよ」
「心配しないで」
「あんたを信頼しているから」
 母は困窮しているに違いない。ただちにM男からプレゼントしてもらった金のネックレスを貴金属の買い取り店に売った、四万円になったので、とりあえず書留で送った。母の苦労が切なくて悲しかった。自分を可愛がってくれただけに何とか助けてやりたかった。
 一週間後、カエデは佐々木明彦に非通知で電話をした。小山映子という仮名で名乗り、ある女優に似せて得意の声色を使った。
「ぼくのことを、誰から聞いたの」
「お名前は申し上げられませんが、信頼できる方です」
「で、あなたはどちらのお住まいなの」
「練馬区の関町です」
「高級な住宅街だね」
「お会いした時、お名刺を渡して、きちんとご挨拶をさせていただきますわ。せめて、お声だけでも聞かして下さい」
「それくらいは、かまわないけど」
 正式な住所や電話番号を聞かれなくてよかった。会った時に名刺を渡すと約束したのが効いたのかもしれない。既にパソコンでつくってある。どっちかというと早口のカエデは、FM放送のアナウンサー風に物静かに喋った。何とかして佐々木の心を捕えなければならない。
「私が伺った限りでは、佐々木様はまれなほど頭脳明晰で、詩を書いていらしゃるそうですね。私の周辺では滅多に見かけません。はっきり申しまして、私は低レベルの男性は好みません。ハンサムで知性のある男性に魅力を感じます。あなた様のようなタイプに憧れていました」
「大したことないけど、そう言われれば悪い気はしないね」
「まだ沢山聞いています」
「でも、きみの優しい話し方を聞いていると、サド的な性分の人には見えないね」
「よく言われます」
「プロになって長いの」
「えっ、何ですって。私は商売をしている女ではありません。そういう認識にガッカリしました。悔しいですわ」
 カエデは地声にならないように半泣きの真似をした。というよりも本気で涙声になった。相当身を入れているのだ。
「申しわけない。お詫びするよ。普通のお嬢さんなんだね」
「当たり前ですよ」
「機嫌を直して」
 佐々木は下手なことを言ってぶち壊したくないのだろう。カエデも相手を非難しながら手加減し、温和な口調になった。
「父は大きな病院の医院長をしております。お金に困ったことはありません。でも、私のアブノーマルを知ったら嘆くでしょうね」
「きっかけは何ですか」
「大学でフランス文学を専攻したんです。サドを読んでいるいるうちに行き着いたのが団鬼六なんです」
「緊縛の大家だね」
「そうです」
「どんなやり方がお好みなの」
「たとえば深夜に覆面して襲うんです。ピストルを突きつけて、裸になりなさいと命令するんです。素ッ裸の男性を縛るとそれだけで体中が熱く燃えるんです。特に夜中は神秘的ですからね」
「けっこうじゃないの。ぼくは聞いているだけでゾクゾクするよ。覆面というのもいいね」
「私、これでも照れ屋なの。顔を隠さないと大胆な振る舞いができないの」
「ナーバスなんだな。さぞお奇麗だろうね」
「途中でお見せするわ。案外と美人よ」
 吉田カエデはいつの間にか馴れ馴れしくなっていた。親しみを抱かせ、またこちらが優位に立つように仕向けるのが狙いだった。佐々木は気に入ったらしく、お付き合いをしてほしいと懇願した。見込み通りになり、ボロを出さないように気を引き締めた。
「ぼくは、映子さんが大好きになったよ」
「でも、私のような女を好きになるのは怖いわよ」
「どんな代価を払ってでも、いいですよ」
 佐々木はほぼ完全に屈伏している。日取りはカエデが決めた。家がうるさいから簡単に出られないと言い訳をし、九月十日(日曜日)はどうかと提案した。その日は友達と軽井沢で誕生日を祝うことにしており、時間は十二時から一時半頃。
「ちょうどいい。ぼくも都合がいい」
 佐々木は当直だし、仕事というほどのことはない。日曜日なら他社の社員もまず見かけない。社長が顔を出すのは翌日の月曜日だから、プレイするくらいは差し支えない。それに特別扱いされているので少々のことは咎められない。
「これでも専務だからね」
「さすがに実力者ね」
 佐々木は皮肉に気がつくわけはない。
「それじゃその日にお願いするわ」
「楽しみにしているよ」
 佐々木の期待感が電話を通して伝わってきた。受話器を置いた後、カエデは自分の話術に満足し、大きく息を吐いた。疑われなくてよかった。これで第一関門はクリアした。
 その日、川野の家を訪ねて報告した。
「バレなかったろうな」
「完璧よ。金持ちのお嬢さんという触れ込みなの。ある女優の声に成りきって話したわ。佐々木は心から信じていたみたい」
「奴は変態セックスが好きだねえ」
「このところ、SMプレイを楽しむ機会がないから、ウズウズしていると言っていたわ」
「そうか。よくやった」
 川野は感心した顔になった。それから机の引き出しからピストルを取り出した。それは伯父から買ったもので、実弾もついている。彼は必要もないのに保管していた。ホルスターから抜き出すと、ガンマンを演じて見せた。カエデは怖そうな顔をしたが、玉が入っていないと知ると安心した。次に別の引き出しから小瓶を手に取った。それはクロロホルムで、嗅がせて一時的に失神させる手はずである。
「とにかく、痛めつけてやるんだ。金庫の金を全部さらったら、ショックだろう。分け前はうんとはずむからな」
「お願いします」
 カエデはそれがもっとも気がかりだった。どうしても身内に役立てたいし、自分も人並みの生活をするに越したことはない。
 翌日の午後遅く、川野は四谷六丁目の山元ビルに偵察に行った。新宿通りからそう遠くない場所である。幹線道路沿いだが、左に曲がった通りからも入ることもできる。七階建ての古い重厚な建物だ。周囲はビルが多くて薄暗く、離れたところに明かりについたコンビニが一軒あるくらいだ。どうってことはないので、川野はほくそえんだ。素早くやってしまえば、人に見られはしない。二度回って頭の中に叩き込んだ。
 どこから現れたのか、若いカップルが物陰で抱き合ってキスをしていた。男の手が乳房に触れている。川野は笑みを浮かべた。そっと車を止めて、見物しながらスマホをかけた。
「どこにいるの」由美子が聞いた。
「若い男女が抱擁しているよ」
「覗きをしているわけね」
「山元ビルを実施見聞しながらね」
「按配はどうなの」
「人通りがほとんどない。それにカエデにはアポをとらせた」
「佐々木は引き受けたの」
「二つ返事でね」
「終わったら、早く帰りなさい」
 主導権は由美子が握っており、目に見えない支配者になっていた。控え目で的確な指示をした。仕事は五日後である。川野は毎日カレンダーの日付を消しながら過ごした。金額はどれくらいだろうか。由美子の調べだと億単位は間違いないと言う。まあ、信じてもいい。人を殺さない限り、罪悪感はなかった。金を手にしたら、いくつかの銀行に預ける予定でいる。 必ず成功させよう、彼は失敗して惨めになる状況は一切イメージしなかった。ひたすら明るい未来をインプットすることに努めてきた。

 早々と決行の日がやってきた。佐々木由美子は川野宅に午後十時頃、姿を見せた。お茶を飲み、手土産のどら焼きを食べて過ごした。二時間が過ぎた。
「そろそろ時間ね」
 由美子は腕時計を見た。時刻は午前十二時。川野はレンタカーのカローラに乗り込んだ。二人とも覆面をフードのように縫いつけていた。カエデはショートパンツを履いていて、眩しいくらいだが、それは佐々木を扇情するためだった。エンジンを吹かしながら、
「なかなかいいぞ」
 川野が助手席を見ながらからかった。
「社長、この仕事が終わったら、結婚するんですか」
 川野の横顔を悪戯っぽく見つめた。
「いや、しないね」
 彼は所帯を持とうとはこれっぽちも思っていない。大勢の素人女と寝てみたいと考えているだけだ。
「どうだい、緊張しているかい」
「そりゃね」
「腹式呼吸をしろ」
 息を吸ったり吐いたりするのを聞きながら、川野も下腹に力を入れて胆力をつけた。日曜日の夜半とあって、対向車は少ない。が、パトカーとすれ違ったときはドキリとした。幹線通りを三百メートル走り、ハンドルを左に切って、裏口の中庭に横付けした。時刻は午前十二時半過ぎ。ナップザックをそれぞれ背負い、一個を手に持った。カエデは濃い緑色のジャケットを着て、腰にピストルを隠していた。
 厚い雲が覆っていて、星も月も見えないが、中庭の常夜灯が薄く照らしていた。門扉の横に植え込みがあり、そこから中に入れた。二人とも覆面をして黒い手袋をはめている。どこも無人である。外階段を音を立てないで登った。
 川野は途中の踊り場で身をひそめ、連絡を待つことにした。
 カエデが栄光社の扉の前からスマホをかけると、五秒もしないうちに開いた。佐々木が覆面姿を見て、「ぎゃあ!」と道化た。
「お待ちしていたよ」
「まあ、思った通り好男子ね」
 声色でお世辞を口にした。それから偽名刺を恭しく差し出した。小山映子という名前を確認しただけで疑いもしなかった。通された応接間には、これ見よがしに大きな書架があり、経済や金融に関する本がぎっしりと並んでいる。とても読んだと思えないから、ただの飾りだろう。奇麗そうな博多人形が侘しげだ。佐々木は近づいてくると相好を崩しながら、
「いい体をしているね」
 無遠慮に胸や大退部を撫で回した。よくいるエロ親父の仕種だ。カエデはチャンスとばかりにハジキを取り出した。
「あんた、勝手に触るんじゃない」
「おお、怖い」
「罰として服を脱ぎなさい」
「えっ、もう始めるの」
「罰と言っただろう」
「はい、はい、そうします」
「急いでやりな。ウフフフ」
 既にゲームに入ったように思わせた。時間のロスは許されない。佐々木はベージュのジャンバーとチノパンのズボンを脱いだ。さすがに女王様の前では従順だった。彼は遊びのルールを心得ている。
「肌着もパンツもよ」
「そ、そんな……」
「素直に従いなさい」
 たちまち生まれたままの姿になった。下半身はとっくに天を向いていた。裸になると異様に(たかぶ)る男は珍しくない。命令調の言葉も効果があった。次にナップザックから麻縄を取り出して、亀甲縛りにした。時間がかかったが、歩けないようにして最後にアイマスクをした。それらを見事な早業でこなした。その間、佐々木はたまらなそうに(うめ)き声を立てた。
「あんたは顔ばかりか、体つきもステキだよ。それに学問のある奴って、話し方がいいわね。声が女泣かせだから、体にビンビン響いてくるんだ。女王様のあそこは洪水よ」
 時にはおだて、自分も急激に高まった素振りをした。
「お顔を見せてよ」
「そのうちにね。でも本当はお岩さんかもね。その前にセクシーな香水を嗅がせてあげる」
「ああ、何をしてもいいよ」
 座っている背後から抱くようにして鼻にハンカチを当てた。エーテルの臭いが漂って、
「うぐ、うぐ……」
 佐々木は苦痛の声を放った。完全に意識を失ったかどうか分からないので、猿轡をかませた。ただちにスマホをかけた。言葉を発しなくてもコールサインだけで通じた。川野は駆けつけ、無言でその滑稽な姿を確認した。奥の部屋に行くと、一メートルにも充たない金庫とガラスの書棚があった。 川野は金庫の前に立ち、呼吸を整えてから手帳を開いた。開け方を記したナンバーを見ながら錠を右、左、右、左に回した。44と止めて、それから左に回して、81――と操作していく。一発でうまくいかず焦り気味になった。気持ちを落ちつかせながら何度か繰り返した。顔中に玉の汗がにじみ出た。カエデは息を詰めて見つめている。数分してカタリを扉が開いた。
「やったぞ!」川野は小声を放った。
「凄え!」
 カエデは喜びの悲鳴をあげた。二人して中を覗いた。札束が百万円ごとに束ねられ、うずたかく積んであった。
「カエデ、ナップザックにぶちこめ。大至急だ」
「オーケー」
 次々と袋に詰め込んだ。その作業は酒に酔ったような快い気分にさせた。時間がスピーディに経過した。二袋分に同じ量を入れて、残りは三つ目に放り込んだ。終わると恋人同士のように顔を見合わせ、背中に背負った。一個は川野が手に持った。重さは六キロ近くある。帰り際に応接間に戻ると、佐々木は裸のまま眠っていた。カエデがせめてもと毛布をかけてやった。
 防犯カメラを警戒しながら階段を降り、車に乗り込んで、ただちに現場を離れた。覆面をはぎとり、ドアガラスを開けて外気を深々と吸った。
「マイナスイオンがうまい」
 口々に言い、解放感が沸き上がってきた。川野もカエデも後部座席の収穫物を何度も確認した。方々にある自販機が、ひからびた文明を覆い隠すように輝きを放っていた。今夜に限ってそれらが格別な物に見えた。あたかも美しい荒廃でも見るような気分だった。
 三時頃に自宅に着いた。ここでも人に出くわさないようにした。どこかで犬が吠えたが、いつものことだ。由美子が黙って出迎えてくれた。
 正面玄関から二階に上がり、自宅のドアを閉めた。背中のものを床に下ろし、椅子やソファに座った。
「やったわね」
「大成功だ」
「ブラボー」
 三人は凱歌をあげた。シャンパンを抜いて、グラスを合わせた。川野は喉が乾いているので、ゴクゴクと勢いよく飲んだ。
 しばらく休んでから、平机の上の商品をとっぱらい、札束を積み上げていく。皆は我を忘れて没頭した。五十分ほどすると山を三つ築き上げた。数えると一山四千万円あり、合計で一億二千万円ということになる。それを三個のナップザックに戻した。
「さそっく親に送金するわ」
 カエデがおセンチな声をたてた。
「勘ぐられないように、少しずつ送りなさいよ」
 由美子が親切に忠告する。
「俺はこれから株をやってもっと儲けるよ」
 テーブルにはビールとコンビニのおでんが出され、飲んで食べた。三人とも閉塞に風穴を開け、急展開して行く人生を夢見た。しかし彼らは金持ちには不慣れな顔つきをしていた。
 翌朝は九時頃起きた。サラリーマンやOL達が出歩く時間帯である。今頃なら怪しまれなくてすむ。食事は軽口を叩きながららパンとコーヒーですませた。
 女達は化粧をし直し、別れる時が来た。
「由美子もカエデも元気でやれよ。未来はこれからだからな」
「川野さんもよ。遊び過ぎないでね」
「うん、ありがとう」
 三人は短い挨拶を交わした。由美子の運転する車が発進する音が響いた。カエデが同乗している。二人がいなくなると、川野は何もやる気がなく、再びベッドに横になって眠りに落ちた。
 その頃、青山社長が部下を伴って山元ビルに資金の一部を取りに来た。その金は政権与党の大物に渡すことになっている。S党の公認を得るには、有力な代議士の後押しが必要だった。
 青山は応接間にやってくるなり、人が倒れているのを見て顔色が変わった。そこには毛布からはみ出した裸の佐々木が転がっていた。体中を縛られ、ペニスは惨めったらしく萎縮している。体の動きがあり、寝息が聞こえるので死んでいる訳ではなかった。
「おい、佐々木、起きろ」
 社長が怒鳴った。佐々木は欠伸(あくび)をしながら回りを見回した。目はどんよりして生彩がない。
「見苦しい格好をしやがって。ほどいてやれ」
 青山社長は部下に命じてから、その間に金庫を見に行った。すべての札束が消えていた。声がなかった。蒼白になって戻ってくると、起き上がった佐々木を睨みつけた。
「金がなくなっているぞ。泥棒に入られたのか」
「知りません」
「知りませんですむか」
「本当に知りません」
「何で裸になっているんだ」
 佐々木は急いでブリーフをつけ、ズボンを履いた。
「昨夜は何をしていたんだ」
「あの、その……」
「はっきり言え」
「女に縛られました」
「女にだと」
「早く警察を呼んで下さい」
「表沙汰にできないことは、知っているだろう」
「大変なことをしてしまいました。申しわけありません」
「一億二千万円だぞ。お前、払えるか」
 いきなり社長の平手打ちが飛んだ。佐々木の顔は青ざめ、無精髭が汚らしく延びている。続けて二度三度殴打が加えられた。太っ腹の社長もダメージが大き過ぎたのか、ソファに座りこんでしまった。しばらくして訊問が始まった。佐々木の頭も少しづつ蘇ってきた。

 この一件はメデアに報道されることもなく、また警察が捜査している気配もなかった。川野は何種類もの新聞に目を通し、ネットの記事もチェックした。よほどのことがない限り、法の網に引っかかることはないと確信した。
 多額の金は当分は使わないように申し合わせてある。
 カエデはいつの間にか店から姿を消した。
 由美子とは一度ホテルに付き合ったが、けじめをつけた。
 三人はそれ以降、顔を合わせるようなことはしていない。
 年が明けるとわずかに雪が降り、梅の時節になって、やがて桜も咲き出した。ある日、新宿の行きつけの居酒屋で飲んで酔い覚ましにぶらついた。繁華街は人出が絶えず、男も女も頽廃にうつつを抜かしていた。歩いているうちに群衆の中に佐々木明彦を見つけた。彼は悄然とした様子でさ迷っていた。川野のほうから声をかけた。
「活躍しているかね」
「いや、俺はしくじった」
「どうしたんだ」
「それは、言えないけど」
 佐々木は虚ろな目で川野の腕を見やった。左手にはロレックスの時計が光っていた。こんなブランドを身に付けるのは時期尚早かもしれない。だが値が張っているのはこれだけで、スーツは紳士服のチェーン店で買った安物だ。全体的に高級感はない。それよりも、言わねばならないことがあった。
「おい、あんたは俺の女房を寝取ったな」
「その点は、深くお詫びするよ」
「謝るだけですむのか」
 佐々木はビクビクしている。けれど、自分も由美子と寝たのだから、ヒフティーヒフティーだ。彼は穏やかな微笑を浮かべた。
「それは忘れるよ」
「申しわけない、俺には未来はないんだ」
「これから、どうするつもりだ」
「詩を書いて暮らすよ」
「いい趣味があって、よかったな」
 川野は軽く手を挙げて立ち去った。

期待された男

期待された男

人の恨みをかうと、とんでもないことになる。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-29

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