パンとインターネットの時代
近未来の姿を描いたストーリーです。
SFと言えば、科学技術とか宇宙とかのイメージが強いですが、これにはあまりそういう部分は出て来ません。
社会システムの有り方や経済・政治などの、理想を描いてみました。
人はどんな時代にも、それぞれの想いや願いが有ります。
ユートピアのような社会の中で、その思いを綴る二人のストーリーをお楽しみください。
Ⅰ
店を出る時に、入って来た客と亮介の肩がぶつかった。
「なんだ、学生か。気をつけろ!」
新春の為か、昼過ぎだというのにすでに酒の匂いをさせている相手を無視して、通りに出る。
たとえ正当な理由が有ろうと、有職者とはもめごとを起こしたくない。まして今は、純と一緒なのだから、なおさら事を荒立てたくは無い。学生と有職者とのもめごとでは、どうしても学生が不利になるのが通常の事だからだ。
正月早々から純と二人で居るのに、ちょっと緊張しているのは自分でも感じる。彼女の父親に会いに行くなどというのは、出来れば避けたい事態だ。だが、いつかは純との結婚を告げに、家族に会いに行かなければならない。お正月だから彼氏を連れて来いと、向こうから言い出したのであれば、その機会を断るわけにはいかないだろう。
待ち合わせた店で落ち合った純は、なにか良い事があるような素振りで、ニコニコとしている。亮介が訊ねても、あとで、と言うだけで、教えようとはしない。
店を出た亮介は、センサーグラスの感度を外歩きモードに変えて、純の手を取って歩き出した。
2050年。日本では人口の約半数が「学生」と呼ばれる身分になった。これに対して、かつては社会人という名で呼ばれていた人種は「有職者」と呼ばれている。
この二つの立場に属さない僅かな人々も存在するのだが、数は少ない。「老人」「病人」「被保護者」などがアウトサイダーとして存在する。
もっともこんな身分は世間が勝手に決めたものなので、人が何であろうとかまわないのだが、世間ではジャンル別けをしてカテゴリーで括ってしまうと理解できたような気がして、安心するものらしい。
二十一世紀当初から、経済活動の低下が、全世界で急激に起こった。最初の十五年では先進国と途上国の格差問題で国同士がもめたが、生活と経済のレベルが均一化すると、世界のすべての国が、同じ問題を抱えるようになった。貧富の差である。
生産能力は充分に有るのだが、それを消費する人が居ない。消費はしたくても、経済力が無いのだ。二十世紀は、人が労働力として生産に携わり、給料を受け取っていた。それが、機械化され単純労働の人手が不要に成ったのだ。
今まで百人で物を作っていた工場が三人の人手で同じ生産が出来るようになってしまった。残る九十七人は解雇され、職を失った。
その様子は皮肉交じりに「鉄腕アトムの時代」と呼ばれる事さえあった。二十世紀の有名なアニメで、ロボットが人の代わりに労働をする時代を描いた作品だという話だ。
工場経営者や株主の懐だけに金が溜まり、生活に事欠く人が急激に増加した。デフレスパイラルの時代と呼ばれ、さらに当時の政府の経済政策が、それに拍車をかけた。景気対策として経済界につぎ込んだ金は近代化資金となり、設備投資が行われ、さらに省人化が進んだ。
世界中の人口の一パーセントの人が、富の半分近くを独占するようになり、各地でデモや暴動が起こった。
2020年になると、失業率は五十パーセントを超えた。犯罪者が増加したが、その大半は自ら進んで刑務所への収監を望む人だった。食事と住処が保障されるには、それが一番簡単な方法だったのだ。
生活保護を受ける事が、当たり前の時代になり、役所側が適用条件の不備などの理由でそれを拒否すると、窓口の担当者を刺して、そのまま自首するというような行為が、日々起こっていた。法整備がどんなに回数を重ねても、適用ルールから落ちこぼれる人間は、存在するのだ。
ここに来て日本の政治もようやく重い腰を上げ、国の福祉システムの根本的な転換を行った。
まずは財源の確保のため、大幅に税制を変えた。
すでに団塊の世代と呼ばれる人たちの半分はこの世を去っていたが、残りの半分は生涯で稼いだ金を使いもせず、万一の時の為という名目で蓄えて死に金にしていた。その世代がこの世を去る時に、貯め込んだ財産を国に返させる法律を作ったのだ。
遺産相続では基礎控除が引き下げられ、控除額を超えた金額の九十五パーセントが相続税となった。消費税は、年々引き上げられ、最終的には二百パーセントになった。デフレで物価は底まで下がっていたが、百円の物を買うのに三百円払うことになったのだ。
一方で、その金を配分する仕組みも整えた。従来の年金、生活保護、児童手当などばらばらに運用されていた仕組みを統合したひとつの大きなシステムを作り上げたのだ。
政府直営の無料給食所を作り、誰もが食事にありつけるようにした。そこでは冷凍された数種類の食品が、自販機のような機械に並び、セルフでそれを選び、レンジで加熱して自由に食べる事が出来る。
住居も、一定レベルの質素なアパートなどは、無料化された。家族で暮らすスペースは、確保できるのだ。だが、より良い住居を望むなら、お金を払い、快適な環境の賃貸マンションに住むことも、土地を買って一戸建ての家を建てる事も出来る。自分の持つ資金のなかで、何を優先するかの選択は、各自の自由なのだ。
子供に掛かるものに関しては、すべてが無料化された。出産費用、保育所、学校、すべてが無料になった。一方で病院なども無料化された。
こうして食と住をはじめとする基本的な生活に必要な事柄は、贅沢さえ言わなければ、誰にでも手に入るようになったのだ。
生活の必要最低限のものが、無料で手に入るようになると、老人たちが蓄えていた老後資金は、世間に流通するようになった。長生きして生活費が底を突く心配も無ければ、病気をした時も医療は無料なのだ。自分の子供に残そうとしても、大部分が税として持って行かれるなら、生きているうちに使ってしまおうという考え方が、一般的になった。
幸運なことに、ロストジェネレーションと呼ばれた世代が子供を残さず、人口は減少していたので、社会福祉への資金は不足せずに賄えた。
そして子供は生まれた瞬間から、子供手当が支給され、高校生以上になるとそれが奨学金となり、学生の身分で居る間は、ずっとそれが支給され続ける事になった。高校、専門学校、大学、大学院、すべての学校は、授業料無償で学生を受け入れた。
大学や大学院が、多数作られた。ずっと学生の身分で居れば、奨学金が貰えるのだ。卒業をして、社会人となるメリットが薄れた。従来はカルチャースクールと呼ばれていたような処も、専門学校として登録され、運営資金は支給され、そこに集まる学生にも奨学金が出るようになった。
もちろん、学校の内容や難易度に応じて、奨学金の多少の差はある。いまだに受験制度は存在するし、良い学校に進学を希望する者は多い。だが、生活の諸費用は無料になり、多少の差は有っても、奨学金が貰えるということで、競争は激しくは無い。
就職浪人は居なくなった。就職を希望して叶った者だけが、卒業して「有職者」となり、叶わなかった者は学校に残るのが当たり前の事になった。
そして、定年退職制度も無くなった。年齢を基準にして、まだ働ける人をリタイアさせるような事は、社会の無駄になる。働く気力と体力のある人は、自分の力を発揮できる分野で仕事を続ける。体力が衰えれば、もっと軽度の仕事に就くか、きっぱりと別の道を選ぶ。趣味の道を選んで、学生として好きな事を始める人も多い。
当然の事だが、有職者の最低賃金は一般の奨学金よりも高くなった。しかし、有職者であるという事が、ある意味でのステイタスとなるため、金銭以外の面で有職者となりたがる場合も多い。
有職者の約半数は公務員だ。ゴミ収集車の運転、無料給食所のメンテナンス要員などから、小学校の教師、公立病院の医師まで様々な職種が公務員となっている。
そして、大学の中では、産学共同開発の製品が次々に生まれ、世間に出されている。
工業だけでは無い。いまや農産物は、農業大学や農業高校での生産と、会社化された大規模農場での生産で、ほぼ国内の全てを賄っている。そこでは一六才から六十才を過ぎた者までのさまざまな学生たちが自分の技術を高めながら、実習として生産を行っていて、バイオテクノロジー農法や、無農薬自然農法などの、それぞれの特色を持った生産物が出回っている。
建築なども、デザインから工法、施工システムまで、大学の工学部や工業高校建築科などが請け負うことも多い。
大学として儲けた金は、大学の運営資金にも廻るし、学校の評判も高めるから、結構真剣に商売をやっているらしい。
一般企業はそんな基本的な部分との差別化を行って、利益を上げている。旅行などのレジャー、スポーツ、無償では手に入らない飲食物などから始まり、大きな個室に入院出来る病院まで、個人的に、ここは贅沢をしたいという部分を、それに見合った金額で提供しているのだ。
情報はインターネットで無料で手に入る。個人の好みは千差万別だから、マスメディアでのコマーシャルなどは廃れて、自分が何を売りたいのかをネットに載せて、それにアクセスしてくる人を待つ、という方法が一般的になった。
2050年はそんな時代になった。そして誰が名前を付けたか、「パンとインターネットの時代」と呼ばれるようになったのだ。
かつてローマ帝国に「パンとサーカスの時代」が有り、それを奴隷たちが支えていたように、現代ではテクノロジーがその時代を支えている。
亮介は二十九才の学生だ。純とは一年前にネットのコミュニティで知り合い、実際に逢って、付き合うようになった。
純は二十七才で有職者だ。レストランのウエイトレスをしている。こんな時代だからこそ、人間のウエイトレスの居るようなレストランで、食事をしたがる人間も居るのだ。
そこでは、一流の料理と飲み物、一流の接客を、馬鹿高い料金で提供する。接客もスペシャリストとしてこなせないと、職には就けないのだ。
客は大きな企業の幹部や大学のトップなどから、結婚二十五周年の記念にと、初めて人間にサービスを受ける夫婦まで、さまざま居るらしい。
もちろん、亮介と純が逢う時には、そんな店に入るわけにはいかない。その店で一度食事をするだけで、亮介の一ヶ月分の奨学金以上の金額が必要だろう。無料給食所、有料ではあるが安い店、ちょっと良い店と、いくつかのランクに別け、下から三つくらいが、学生が入れる店だ。今日、二人が逢っていたのも、ちょっと良いクラスの店で、お酒も飲める。学生なら背伸びして、有職者なら気軽に入る、そんな店だ。
亮介は研究室で高分子合成のシステム開発をしている。教授の指導に従って、合成実験をやっているのだが、いくつか有効な反応を見つけたりして、教授から筋が良いと褒められている。特別奨学生への推薦も貰った。
自分ではこういう生活を続けているのが似あっていると思うのだが、不安がひとつだけあるのだ。
それが、純との将来の事だった。
純はセンサーグラスを亮介のものとシンクロモードにして、手をつないで歩いている。このセンサーグラスもかけていない者は居ないほどに普及している。メガネ型情報表示端末だ。周囲の状況を察知して危険を知らせてくれたり、すれ違う人物のデータを色表示してくれたりもする。
この時代、全国民は番号を持つようになった。国家で推進した背番号制度では無いが、携帯電話から始まったモバイル機器は、コミュニケーション機能から、財布、乗車券、キャッシュカード、IDカードなど、さまざまな機能を併せ持つようになり、結果として、これを持たない者は、身元不明の不審者のような扱いをされるようになった。そして機能が複雑化すればするほど、複数所有が困難になり、国民の個人固有ナンバーとしての扱いがされるようになってしまったのだ。
当然、セキュリティは強化され、生体認証でチェックされ、他人の端末の機能は一切使えない。また、身分情報は周囲に自動発信されるようになっていて、自分が不審者では無いことを、常に周囲に示している。そのために単純犯罪の発生数は激減した。
センサーグラスはすれ違う人の、端末情報を読み取り、学生は緑、有職者は赤と教えてくれる。車が来れば警告を出し、電車の時間を知らせ、忘れていたスケジュールも教えてくれる。
シンクロモードにすれば、二人の共通情報が表示される。
「やっぱり、学生に戻ろうかな。」
純はさっきからそんな言葉を繰り返している。
「だって、今の仕事が気にいってるんだろう。無理すること無いよ。」
「だって、お父さんは反対なのよ。学生と結婚するのが。」
「だからって、純が学生になる事は無いじゃないか。」
「でも、二人とも学生なら、お父さんもあきらめるかなって。」
二人は結婚を考えているのだが、純の父が反対なのだ。この時代には、学生同士が結婚するのも、学生と有職者が結婚するのも、当然の事になっている。
人生をずっと学生のままで終える人も少なくないし、そういう人も、家庭を持ち子供を育てながら、学生としての人生を生きる。
だが、中には純の父のような古い考え方の人間も居るのだ。
仕事をして一人前になってから、家庭を持つのが当たり前。学生結婚など許さない。というのが、父の持論だ。その父に、これから二人で会いに行くのだ。
娘が結婚を考えているという相手の男に一度会ってみたいから、正月休みの間にでも連れて来なさいと、父の方から切り出されたのだ。
純の父は自宅の和室で二人を待っていた。この時代に畳の部屋が有るのは珍しい。だが、工芸関係の研究室では、畳だろうと竪穴式住居だろうと資料は揃っているのだから、依頼さえあれば、そして費用を負担してくれれば、造ることは出来る。情報ネットワークで探しさえすれば、世界に一人だけの職人でも見つけることは出来るし、交渉して資金と条件が折り合えば、希望は叶う。
それは有職者の方が、資金面では有利だが、学生に出来ない事でもない。一年間、奨学金に手をつけず、その金でカスタムのバイクを買ったやつも居る。世界一周の旅行に出かけたやつもいる。金を貯めるのは、無料給食だけで我慢すれば、どうにでも出来るのだ。
床の間を背にした父は、ビールの栓を抜き、亮介にすすめた。
「学生だって、その年になれば、酒くらいは飲めるんだろう。まあ一杯どうぞ。」
「そうですね。まあ、瓶に入ったビールを自宅で飲むなんて言うのは、有りませんがね。」
学生仲間で飲む時は、サーバーからプラカップに注がれるビールだ。大学の近くの安い居酒屋で飲むことは良くある。奨学金は自分の好きな事に使えるので、仲間と飲むとか、衣類を買うかで使う事が多い。
大きな買い物としては、以前三カ月分の奨学金で、ギターを買った事があるくらいだ。音楽や映像はネットでフリーのものが多いので、よほど気にいったものでないと、金を出して買うことはない。送り手も、金が欲しいというよりも、自分の作品を多くの人に評価して欲しいという者が多い。学生が研究室で作成した作品も多い。
書籍などもほとんど電子化されて無料で読める。その中で出版希望や予約が多いものだけが、ペーパーブックとなるようなシステムもある。
食事が無料給食所で食べられる時代に、わざわざ自宅で瓶のビールを飲むというのは、かなりの贅沢な事なのだ。
「ところで、きみは娘と結婚したいそうだが、学生から有職者になる気はあるのかね。」
「今の研究が企業内で出来るなら、考えるのですが。なかなか企業では手を出したがらない分野ですから。」
「では、一生学生のままかね。」
「いいえ。今の研究室では、教授に一番気にいられてますから、研究員の席が空けば、職員として大学に残れると思います。」
「それは、どのくらい先になりそうかな。」
「そうですね。今の研究員の異動にもよりますから、五年から十年くらい先ですね。」
「じゃあ。そうなってから娘と結婚することにしたらどうなんだ。」
「十年が二十年になるかも知れませんが。」
「そうか。じゃあそれまで待つんだな。」
二人のそんな会話に、純が怒ったように口をはさむ。
「そうなの。お父さんは孫の顔を見たくないのね。」
「孫?」
「そうよ。あと二十年したら私が何才になると思っているの。たとえ、あと二十年先に子供が生まれても、お父さんなんかよぼよぼで、孫を抱っこすることも出来ないわよ。」
父も亮介も、思わぬ話の展開にあっけにとられる。確かに医療技術は進歩しているが、人間本来の出産や老化の機能は変わってはいない。出産可能な年齢には限度が有るし、老化を止めることは出来ない。
「それにね。お父さんが許そうと許すまいと、私はこの人と結婚します。私のお腹には、もう新しい命が入っているんだから。」
亮介も身に覚えはあるが、子供などという事は考えても居ない。まして父は、いきなり孫の話などされたものだから、鳩に豆鉄砲という表現が、ピッタリの顔をしている。
そこに、ビールのつまみを綺麗な陶器の皿に盛り付けたものをお盆に乗せて、純の母が現れる。こんな処にも、純の父のこだわりが見られる。畳の和室、瓶ビール、陶器の皿、二十世紀への懐古趣味を現わしている。
「お父さん。そんなに頑固な事を言っても、無理ですよ。この人たちは、今の時代を新しいルールで生きてかなきゃならないんですから。」
「しかし、仕事も無い人間が、結婚なんて。」
「亮介さんは仕事が無いんじゃありませんよ。大学の中で自分の役目をちゃんと果たしてますよ。ただ、身分保証が学生というだけです。」
「そうよ。お父さんの時代には、結婚するのも、子供を持つのも、自分だけの責任でやってたけど、その結果がどうなったのかは、知ってるでしょう。学校も病院も、日々の食事にもお金が必要で、人口は減るし、犯罪は増えるし大変な時代だったんでしょう。
この子はそんな思いをしないで育つのよ。飢える事も無く、病気になったら病院に行けて、学校で学んで、興味のある事をやっていけるの。お金のために不本意な道に進むなんて事も無いのよ。」
「それなら、別に結婚なんかしなくても・・・」
「いやです。この子には父親と母親がどんな人間で、どういう思いで子供を産んで育てているのかを知りながら、育って欲しいの。シングルマザーで子供だけが欲しいわけじゃないのよ。」
この時代、シングルマザーやシングルファザーで育つ子供も、四割程度居る。子供が欲しいと最初から割り切って、契約結婚をして子供だけ作って離婚するケースもあるのだ。もちろん、普通に結婚して、何人も子供を作り、家庭生活を続ける夫婦も多い。また、一生家庭も子供も持たず、独身で暮らす者も多い。
「お父さん。もう観念しなさいよ。」
母が助け舟を出す。
「それにね、お父さんはどんなに頑張っても、二十二世紀は見られないわ。私も無理かもしれない。でもこの子は、来世紀を迎える事が出来るのよ。二十二世紀を作ってく人の中の一人として、お父さんの孫が生まれるの。それは変えることのできない事実なのよ。どんな時代がやって来るのか判らないけど、人はそれぞれの時代に生まれて、その時代を精一杯生きて行くのよ。」
娘にそう宣言されて、まだ納得のいかない顔の父は、黙り込んだままグラスのビールを飲み干す。しばらく無言のまま考えこみ、やがて表情を緩める。
「分かった。そこまで言われたら反対も出来ん。私だって孫の顔が見たいし、孫には幸せに育って欲しい。亮介くん。娘と孫をよろしく頼むよ。」
亮介は無言で、空になった父のグラスに、ビールを注ぐ。うなずく父。微笑んで目を合わせる母と純。
人の想いはどんな時代にも、こうやって受け継がれて行く。
Ⅱ
桜が咲く頃に、亮介は教授に呼ばれた。
「川浦くん、結婚するんだって。おめでとう。」
「ありがとうございます。ささやかながら式を挙げますので、先生もぜひおいで下さい。」
「ああ、もちろん出席させてもらうよ。ところで、今日はその話じゃないんだ。まあ、君の将来の話という事では、関係有るんだがね。君がやっている研究を、実用化させてみる気は無いかな。」
「といいますと。」
「実は、大学のネットワークで有機合成プラントを立ち上げる計画があるんだが、その合成過程が君の今やってる事の実用化と類似の内容なんだよ。そこで、プラントのシステム設計に君を欲しいと言って来た処が有ってね。私としては、君を渡したくないんだが、学内での声を無視も出来ないんだよ。」
「じゃあ、実際にはどこか別の処で、プラントを造るんですか。」
「ああ、場所は京都なんだが、京都とは言っても日本海側の福井と隣り合わせの辺りだって言う話だ。
君が受けてくれるならばだけれど、この大学の研究員という立場で、そちらに出向という事になる。」
「京都ですか。」
亮介はとっさに考えた。今居る関東平野の中からでは、どんな交通機関を使っても、移動には半日はかかる。純の家も、亮介の部屋も、大学や純の職場も、関東の中で三十分程度で行き来できる範囲内だ。それから考えると、関西のしかも日本海側というのは遠い処だ。
「実は向こうの大学でプロジェクトリーダーになる高田教授というのが、私の古い知り合いでね。ぜひ人を出して欲しいという頼みで、断るのも気がひけるんだよ。どうかな、行ってくれないかな。」
亮介は純の事を思った。結婚して一緒に住む部屋を探している最中だ。
自分がいきなり遠くに行ってしまうなどと言い出せば、これからの生活設計が根本から変わってしまう。まったく考えてもみなかった事だ。
「今、君は特別奨学生だね。研究員になれば学生じゃ無く有職者だ。収入は今の倍くらいにはなるよ。それに向こうには職員向けの住宅も有る。もちろん家族そろって住める処だ。行けば数年はかかるだろう。子供を田舎の環境で育てるのも良いものだよ。」
「そうですね。連れて行けばいいんですね。」
離れて暮らす事を思い浮かべた亮介にしてみれば、教授の言う事は理想的な解決案だった。
「プラントが立ち上がって落ち着いたら、またこちらに帰って来るか、それともそのままあちらで暮らしたくなるかな。どちらでも選べるように、この大学からの出向扱いにするんだから、こちらに戻りたくなったらそれも出来る。
まあ、今すぐ返事をしろとは言わんから、奥さんになる人とも良く話をして、二三日中に返事をくれないかな。」
「はい。」
純と話し合う以前に、すでに亮介の気持ちは決まっていた。これで純の父にも、一人前の有職者になりましたと話せる。いつかは、という曖昧な将来が、目の前に降って来たのだ。
気がかりなのは純のお腹に居る子供の事だけだった。出産する病院や、産まれた後の世話を、見知らぬ土地でどうするかだけが、心配の種だった。
純にはその日の夕方に会って、教授からの話を伝えた。もちろん純も喜んで、一緒に行くことに同意してくれた。
亮介の両親にも報告した。田舎で暮らす両親は結婚に続き、職まで手に入れた亮介の事を、手放しで喜んでくれた。
純と二人で、純の両親に報告に行った時も、素直に喜んでくれるものと信じきっていた。ところが、両親は亮介にお祝いを言ってくれた後に、不安そうな顔をした。
娘が近くに住み、孫の顔を毎日眺められるという将来を考えていた両親にしてみれば、いきなりその夢が取り上げられたのだ。両親はこんな風に切り出した。
初めての出産と育児は不安がある。両親の元で同居して居れば、困った時に頼ることも出来るが、見知らぬ土地で知り合いも居なければ、誰にも頼れない。
せめて、出産して落ち着くまでは、こちらに居させたらどうか、と言うのだ。
たしかにそれは、亮介にしても気がかりな部分だった。純との新婚生活がスタートから別居生活になるのは残念ではあるが、それよりもお腹の子供のことを大事にしたい。
亮介は両親の勧める案にうなづいた。
純はしばらくの別離を残念がったが、両親の言う事の方が理屈に合っている。出産前に二人で京都の新居に引越しをして、その後里帰り出産という形で実家に戻るという事で納得をした。
結婚式の日取りは五月上旬だった。友人を招いてささやかな披露を行い、その後五月中には赴任先での引っ越しを済ませ、六月からは向こうでの仕事に取り掛かる事になった。
純の妊娠も安定期に入って、いろいろな物事が段取り良く進められた。
「最近では、結婚も離婚もプライベートだと言って、披露もしないで済ませてしまう夫婦も多い中、こうして二人の幸せを披露して頂くのは、身近な者として嬉しいことです。」
と、教授も挨拶で言ってくれた。
「さらに、亮介くんは来月から有職者と成り、我が大学のプロジェクトプラントの事業に入ることになっています。これは日本海海底のメタンハイドレートを原料とした、エネルギーと有機原料の両方を同時に合成する事業で、亮介くんのいままでの研究が実用化され、そのプラントの中核となるものです。」
「このため、現地京都でのプロジェクトに参加しますが、奥さんも連れて家族でそちらに赴任し、新婚家庭と新たな仕事を同時に開始する事になります。」
「また、その新婚家庭にはもう一人の家族も加わる予定と聞いていますので、三人で素晴らしい家庭を築いてくれるものと思っています。」
などと、あれやこれやを話に乗せてしまうので、雛壇の二人は照れ臭いやら恥ずかしいやらで、披露宴はにぎやかに終了した。
引っ越しとは言っても、今まで別々に暮らしていた二人がひとつの家に住むことになるのだ。それぞれの荷物を運びこんで、二人分を一つにまとめる事になる。純は両親と同居していたから、荷物と言っても自分の衣類や身の回りのもの程度だったし、亮介も独身の一人暮らしで荷物などは少ない。
まして純は里帰りしての出産の予定が有り、まだ実家に半分以上荷物は置いたままだ。新居に引っ越した直後は、部屋は空間が広すぎるくらいだった。
それでも、この研究員用の住宅が二人の新婚家庭なのだ。亮介と純は、まだ荷ほどきも済まない段ボール箱の山に囲まれて、二人での生活をスタートさせた。
ご近所とは言っても大学関係者の住宅だから、今回のプロジェクトの為に最近来た者も多い。環境としては良いところだった。住む場所が整うのと同時に、亮介は仕事場に顔を出し、純は数ヶ月の専業主婦になった。
亮介の職場は、海に面した敷地の一角にある、研究棟として建てられた建物の一室だ。敷地の大部分はまだ手つかずの荒れた土地で、そこにプラントがいずれ建設される事になっている。プラント内部の設計は、研究と同時進行で計画が立てられる予定だ。有機物の合成とは言え、今回の場合は海底の天然原料を加工する仕事なので、実際の原料に含まれる成分によって、内容は大きく変動する。その為に、実験棟が先に作られ、分析と実験を進めながらの建設となったのだ。
原料は海底にある石のようなものだ。それを掘削船からパイプの先にドリルを付けたようなもので掘って回収してくるのだ。この掘削船も実験レベルのもので、いずれは海底の掘削現場からプラントまで、直接パイプで送られる事になるはずだ。
この原料をどうやって一番有効に利用するかのアイデアを練るのが亮介達の仕事になる。
一昔前に石油からさまざまな製品が作られたように、材料として製品化する事と、発電用にエネルギーとして使用する事の両方を同時進行で行うのだ。
十名ほどのチームは、元から地元の大学で研究を進めていた高田教授がリーダーとなり、その部下だった者が半数、残りの半数は亮介のように日本中から集められた者だ。
お互いがもともと同じ畑の研究をしていた事も有り、すぐにチームは打ち解けた。高田教授も穏やかな人柄で、元からの部下もそれに倣うような人物ばかりだ。
着任したのは亮介が最後だったのだが、それまでの二ヶ月の経緯を説明され、すぐに仕事も任されるようになった。
亮介が仕事に就いた最初の週末に、職場でささやかな歓迎会が開かれた。全メンバーが揃ったところでの、プロジェクトチームの結束式でもあったので、全員が参加した。
高田教授の音頭でビールで乾杯をして、それぞれに話がはずむ。亮介の立場はチームの中では若手の部類だが、既婚者でしかも新婚ということで、話題もそちらに向かう。
「まあ、ここの半分は独身だからね。研究者なんて出会いのチャンスも無くて、そのままで一生終わる人も珍しくないから、このチームは妻帯率は高い方さ。」
「けっこう、そんな独身者は自分の趣味にいれ込んだり、酒や女で遊んだりしてるよ。一応有職者だから、それなりに使う金は持ってるしね。」
「その辺りの情報は、地元の高橋さんが詳しいよ。独身の主任研究員で飲む、打つ、買うって全てをこなす人だからね。まあ、君には必要ないだろうけどね。」
そんな話を聞きながら、和やかに歓迎会も締まり、その後は、酒チーム、女チーム、帰宅チームと三組に別れた。亮介は一応主役だったので、どのチームからも冷やかしのように声はかかったが、帰宅組に入った。
帰宅するタクシーの中でも、話は続く。
「この辺りの地域性なのかも知れないけど、酒を飲む処と、買春処がはっきり分かれてるんだよ。だからはっきりと三方向に別れるのさ。」
この時代では売春も違法では無くなっている。昔は、売春でしか日々の糧を得られない女性が、泣く泣く体を売ったが、現代はそんな人は居ない。皆、最低限の衣食住は保証されている。
だが、それ以上に金が欲しいという人も居る。人の価値観はそれぞれだ。
違法行為とされれば、それは地下にもぐり、悪い連中が絡んで、ピンはねされたり、強制されたりする。違法では無くして、きちんとした職業として売春をするなら、ブラックマネーにもならず、経営も明確化され、税収にもなる。また、従業員もきちんと労働契約の下に、安心して仕事が出来る。
人類最古の職業と言われる売春も、こうしてきちんと管理された仕事として成立しているのだ。当然、その中間の店も有る。お酒を飲んで、隣に女性が付いて、話し相手になる店や、さらにオプションとして、その相手を買える店など、さまざまな形態が有る。それぞれに明朗なやり方で、まっとうな営業をしているのだ。だがこの近辺は、そういう中間的なところは、あまり無いらしい。
また、ギャンブルも公認され、カジノやブックメーカーが存在する。人のやることに制限をつけ違法化すると、闇にもぐりブラックマネーとなってしまう。第三者に害を与えないような事は容認され、それを提供するものと、欲しがる者の間で、正当な取引が出来るようになっている。
タバコや依存性の少ない薬物なども、きちんと法の管理下で、試してみる事も出来る。依存症になる者は少ないし、きちんと制限もされているが、好奇心で試して見たいという者はいつの時代も居るのだ。
帰宅して純に今日の出来事を話す。純は、もうお腹もだいぶ大きくなってきている。帰宅した亮介の為にお茶を入れる動作も億劫そうだ。
「まあ、一応は誘われたけどね。お前の事も知ってるから、社交辞令程度で、素直に帰してくれたよ。」
「そうよね。あなたはお酒って言っても、そんなに強い方じゃないしね。まして買いに行くなんて、私の前じゃ言えないわよね。」
「おいおい、言えないんじゃなくて、『そんなことはしない』だろう。」
「まあね。でも男の人って、やっぱりそういう処に、行ってみたいものでしょう。」
「そんな事は無いさ。そういうのは独身者の遊びだよ。」
「じゃあ、あなたも独身の頃には、行ったのかしら。」
「だって、独身の頃は学生だったじゃないか。とてもそんなところには行けないよ。」
「そうね。私と一緒に遊んでる時間が多かったしね。」
「そうそう。純とのデート代だけで、奨学金はほとんど無くなったんだからな。」
「良かったわね。資金をつぎ込んだ挙句、逃げられなくてね。」
「これからは、お前と子供の二人の為に、資金をつぎ込まなきゃな。」
「そうね、しばらくはそうなりそうね。でも、落ち着いたら私も仕事を探すわよ。まあ、学生に成っても良いんだけどね。」
お金に関しては、この時代では生活の不安が無い為、使い方は昔より大雑把になっている。月単位で奨学金や給料を貰うと、早々に使い果たして、月後半は無料給食で過ごすような人も居る。また、趣味の為に何年もの単位で計画を立てて、実行に移す人も居る。
その中で、一般的に多くの人が気を使うのは、交際費だろう。友人と食事に行くのに、金が無いから無料給食で、とは、普通は言えない。お茶を飲んだり、お酒を飲んだりも、金額の多寡はともかく、お金は必要になる。亮介たちのように、独身者カップルのデートでは、高い安いは有っても、それなりの支払が出来るようにするのが、当然になっている。
そして、結婚すると、それは快適な住居や家具の資金になる。最低限の生活は無料で出来るが、それをどのくらいアップグレード出来るかは、資金力や使い方の選択になって来る。
純のように、有職者でもなく学生でもないという立場は、この時代には珍しい。職を探して、良い職が見つからなければ、どこかの学校に入るのが一般的だからだ。それが次の職探しのきっかけにもなるし、学校内でコネクションも増える。また、純のような立場で、どうしても職を探さなくても生活出来る立場の人も、学生という身分で奨学金を貰えば、その分は経済的に余裕もできる。普通は妊娠、出産時も学生の身分には変わりないから、出産で休学という扱いで奨学金はそのまま支給される。
「それより、住所変更なんかの届け出はどうしよう?」
「なにか問題でもあるの?」
「婚姻届はむこうで出したでしょう。あなたの転勤でこちらに付いて来て、そのままこちらに住所も移すか。それとも実家に置いたままで、出産の時までそのままにしておこうか。迷ってるの。」
「そうだね。出産の場所が実家だから、住所もむこうに有った方が、いろんな手続きなんかが楽かもしれないね。」
「そう。それに、今応援してる議員さんに一票でも多く持っていてもらいたいしね。」
昔に比べ、議会の制度も大きく変化した。テクノロジーの進化で政治も変わって来ている。
現在では議員の定数はそれぞれ地方や国の議会により決まっているが、その中での議決は、一人一票では無い。それぞれの選挙時の得票が各議員の持ち票になる。これにより、選挙区の区割りによる不公平は大きく軽減された。三十万票持っている議員一人が賛成に投票すれば、十万票の議員二人の反対よりも、賛成が大きくなる。もちろん、選挙で落選した候補への投票は死に票となるが、皆がそれを考慮して投票をするようになった。そしてその票数は、候補への支持をやめる事を、選挙委員会に宣言することで、日々変化するシステムに成っている。
もちろん、誰がどの候補に投票したかというデータは、きちんと記録されている。そして、そこで一度だけ、支持を取り消す事が出来るのだ。だから、議会では日に日に議決の総数が減っていく。そして、その総数が有権者の五十パーセントを割ったら、再度選挙が行われるのだ。
地方議会では、選挙区からの転出は、自動的に支持の取り消しの扱いになってしまう。これは以前、とある党が、その幹部の持ち票数を上げるために、支持者の住所を変えさせて選挙をして、地区の政治を自分の党に都合が良いようにしようとした事件以来、そういうルールが全国統一で出来たのだ。純もそれを気にしているのだ。
「そうだね。この子が生まれてから、こちらに来る時に住所の変更をすれば良いかな。それまでは単身赴任だ。」
「来月にはホントの単身赴任になっちゃうからね。独身だからって、いかがわしい処で遊んじゃ嫌よ。」
「そんなことするわけがないだろう。毎日、連絡を入れるよ。」
携帯端末の発達した時代では、リアルタイムでの会話や画像通信は当たり前だ。純に隠して、悪い事は出来るはずが無い。また亮介にもそんなことをするつもりは無い。
ひと月ほどの新婚生活を過ごし、こちらの生活も安定し、今後の子育ての目途もついたところで、予定通り、純は迎えに来た母親と一緒に、実家に帰ってた。
通信では毎日でも顔を見られるが、実際に会うとなると、最短でも半日以上かかる距離だ。
交通網は発達しても、それは克服出来ない。自動車にしろ鉄道にしろ限界は有る。よほどのポジションに居る人なら自家用のジェット機でも持つのだろうが、一般人にはそういう道は無い。
「生まれそうになったら、すぐ連絡をくれよ。そちらに向かうから。」
「大丈夫よ。しっかり産んで見せるから。」
そんな会話をして、大きなお腹を抱えた純は、亮介に手を振って、駅に向かった。
Ⅲ
夏の暑い盛り。高田教授が亮介に声をかける。
「どうかな。合成プロセスは上手く行きそうかい?」
「なかなか、思った反応は難しいですね。成分のばらつきが大きいですから。」
「それはね、全部使おうとすれば難しいんだよ。上澄みの良い部分だけを合成原料にして、残った部分は燃料としてエネルギー化すれば良いんだから。」
「そうですね。どうしても与えられた全てを使って、という考えになってしいますからね。もうちょっと全体を考えるようにします。」
「ところで、今日はその話とは別の誘いなんだが。」
「別件ですか。何でしょう。」
「いや、君は原料を掘っている現場を、まだ見た事が無いだろう。どうかな、一度くらい見てみたいと思わないかな。」
「そうですね。原料の石ころは見ても、それがどんなふうに取れるかは見た事が有りませんからね。参考に一度はみたいですね。」
「いや、実はこう暑いんで、船に乗って涼しい処に行きたくなってね。一緒に行かないかな、と思ってたんだよ。」
「そういう話なら、喜んでお伴しますよ。」
亮介たちが乗り込んだ船は、近くの漁港の普通の漁船だった。原料採掘船は沖の一定点に停泊し、海底までのパイプで固定されている。そこまでの行き来は、現状ではこうして一般の船にお願いしているのだそうだ。採掘船の乗組員との交代要員や補給物資を運ぶために、地元の漁協にお願いして、定期的に行き来しているという話だ。乗り込んだ漁船の船長は、昔ながらの漁師のおじさんという雰囲気だった。
「こんなポンコツだけど、まだまだ現役だから大丈夫だよ。それより船酔いは心配ないかね。心配なのは、船酔いと海賊だけだからな。」
などと、豪快に笑っている。
「海賊なんて、本当に出るんですか?」
「ああ、時々だけどな。まあ、やつらはぼろ船だから、こっちが本気になれば、負けないけどな。」
「でも、こんなところまで、何を略奪しに来るんですか?」
「やつらにしてみれば何でも良いんだよ。人質を取って身代金を要求する事もある。一番良いのは船ごと奪って行くのさ。積み荷から燃料からそっくりな。自分らのぼろ舟と交換でも良いんだよ。」
「でも、そんな事をして、大丈夫なんですかね。」
「なに。海の向こうの国は何十年も、内乱やら政治混乱が続いてるからね。法律なんて有ってもお構いなしだし、取り締まる警察のような権力も、手が回らないのさ。昔、アフリカにソマリアって言う海賊の沢山いる国が有ったっていうけど、今はアジアの東端がそれと同じになってるんだね。」
「そんな海賊相手で、漁業は大丈夫なんですかね。」
「まあ、このあたりの船長はみんな、狩猟免許も持って、ライフル携行許可も取ってるからな。いざとなったら一発お見舞いして、全速力で逃げるのさ。スピード勝負なら負けないからな。」
そう言って、自慢そうに操舵室のライフルを指さす。
「あれで毎年、猪を何頭も獲ってるんだよ。腕前は確かさ。」
「海賊の船長も獲物にした事が有るんじゃないですか。」
一緒に話を聞いていた高田教授が、横から口をはさむ。
「そんなことは、まあ、知らないな。威嚇射撃の弾が、偶然逸れて当たったところで、向こうから苦情を言っては来ないからな。こちらだって銃で狙われるんだから、おあいこだろうよ。」
「魚だけでなく猪なんかも獲るんですか。」
亮介が話題を変える。
「ああ、裏山には沢山居るよ。冬場に里に降りて来て悪さをするのを、何頭か駆除するのさ。」
確かに、ここ数十年は野生動物のテリトリーが広がっているという話は、聞いた事が有る。
人口が減少して、山間の限界集落が消滅して、いままで棚田などを作っていた処も、原生林に戻っている。それに伴い野生動物も増えているらしい。但し、そういう動物は基本的に人間を恐れるから、人里には降りて来ないのだ。猿、猪、鹿、野犬、その他がテリトリーを争ったり、共生したりしながら、バランスを取っている。
冬季の食糧が少ない時期に、何頭かは人里に迷い出て、人家や農作物に被害を与える。そういうものに対する自衛手段として、狩猟をする人は増えている。警察などの手だけではカバー出来ないのだ。獲物の肉や皮、剥製などを売って生計にしている、専門家に近いような人も居るという話だ。もちろんそういう人は少数だし、捕獲頭数の制限などもあるから、無差別に野生動物を減らすような事も無い。
「天然物の魚と同じさ。欲張って捕り尽せば、減ってしまって、次の捕る分が無くなるからな。」
漁業も現在では半分以上は養殖だ。近海に網で仕切りを作り、そこに稚魚を放流したり、その中で自然繁殖させたりして、餌を与え、それを捕獲している。海の向こうからの船は、それを狙っても現れるという。
「こっちが餌をやって太らせた魚を、かすめ取ろうっていうつもりなんだが、本当に根こそぎ、稚魚まで捕って行く連中だから始末が悪いのさ。」
「最近では、泥棒避けに周りにセンサーを付けて、警報が出るようにしてある。漁協でヘリコプターまで持ってるよ。表向きは餌捲き用だけど、夜中に緊急発進する事も何度かあったよ。」
「大変なんですね。」
「うちではやっていないけど、イルカやクジラを牧羊犬のように飼いならして、番をさせる処もあるよ。クジラの養殖も一般的になったしね。以前、泥棒が何の生簀か知らずに、クジラを釣った事が有ってね。おんぼろの小型船だからクジラの重さで転覆して、大騒ぎさ。皆で大笑いしたよ。」
「まあ、養鶏なんかだと熊や野犬が相手。魚は泥棒船が相手。やってる事は似てるね。」
船長は、太陽と潮風に焼けや真っ黒な顔で、屈託なく笑った。
数時間船を進めると、やがて原料採掘船が見えてくる。亮介が想像していたよりは、一回り小さいが、漁船に比べると数倍は大きい船だ。漁船が接舷すると上からハシゴが降ろされる。教授と亮介は荷物を背負ってハシゴを昇った。数人の乗組員が出迎えてくれる。
「ようこそ。海底鉱山に。」
初めて顔を合わせる亮介に、笑顔で声をかけてくれる。
「教授。どうですか、プラントの進展は。」
「順調だよ。予定通りには進むだろう。どうしたんだね。」
「こいつは帰りたくてたまらないんですよ。こんなにのんびりした所だと落ち着かないらしいんですよ。」
「そうは言ってもな。明日にもプラントが完成するっていうわけじゃないから、もうしばらくは、ここに居てもらわないとな。」
そんな会話がはずむ中、亮介たちの乗って来た漁船から補給資材が荷揚げされる。食糧や医薬品、燃料、個人宛の荷物などだ。
「本格的に採掘が始まれば、忙しくなるんでしょうけどね。それまではサンプル出荷程度だもの。一日中、釣りをしたり、昼寝をしたりですよ。まあ、ここに居るのが仕事だし、周囲に目を配ってるのが役目見たいなものですからね。」
さっき紹介された採掘チームリーダーの八田が、亮介にそんな話をしてくれる。
通信回線も繋がるし、補給にも環境にも不自由は無いのだが、船の上に拘束されているのは、それだけで閉所恐怖症と同じような感覚になると、笑って話してくれる。
「まあ、人によってですけどね。私なんか、のんびり屋の怠け者なんで、ずっとこんな生活でも良いと思ってしまいますけどね。
さっきの岡崎なんかは、奥さんと三才の子供が陸で待ってるんで、交替が待ち遠しくてたまらないんですよ。」
ここに来ているのも、プラント開発の中の海洋土木や掘削関係の研究員で、交替で船と陸を行き来しているという事だ。
ここでも向こうの国から強盗が現れるという話も聞いた。魚などを狙うのでなく、この船自体を強奪したがるらしい。だが、レーダーなどで出現は予測出来るので、対抗策は大丈夫だという話だ。
「国にも話が上がっているプロジェクトだからね。いざとなればそれなりの支援が来るんだよ。漁協でもヘリは有るんだから。」
教授が口をはさむ。
亮介は、船尾に据え付けられた掘削装置が動くのを見せてもらったり、船で釣れたばかりの魚を御馳走になったりして、数時間を過ごし、来た時と同じ漁船で帰路についた。
研究室ではそれぞれの分析の結果や、合成実験の成果などが上がって来つつあった。人数も少数だから、情報も共有され、分析に対する対応策が数日後には考えられるなど、良いテンポで作業は進んで行った。
教授がミーティングを開き、全員での検討がなされ、プラントの方向性は徐々に固まって行った。合成とエネルギー化のプロセスが決まると、それから後は建設関係の仕事になる。大きな図面が引かれ、亮介たちはプロセスを管理する立場で、それに対する意見を出すようになった。加工中のものをサンプリングする為に、パイプの中間に試料採取窓を作って欲しいなどの、細部の要望が検討された。
夏も終わりが近づき、海の色や風も少しづつ変わりかけた、八月の末。亮介に待ち望んだ連絡が入った。純が出産の為、入院したという知らせだった。
すでに高田教授には休みの許可を取ってある。研究室に一報入れて、部屋を飛び出し、駅へ向かう。
純のお腹の子供は男の子だと判っている。染色体テストなどで異常が無い事も判っている。純と二人で子供の名前も決めた。あとは無事に産まれて来るのを待つだけだ。
だが、どんなに医学が進んでも、出産が一大事業で有ることには変わらない。絶対大丈夫、百パーセント安心という事は無いのだ。亮介は期待と不安を胸に、病院に向かった。
連絡を貰ったのが、朝だった。日本海側から列車を乗り継いで、病院に着いたのは、もう夕暮れの頃だ。すでに産まれてしまっただろうか。まだ陣痛で苦しんでいるのだろうか。不安な思いで、病院に駆け込むと、純の母が待っていた。朝、目覚めた頃に陣痛が来て、入院して、昼過ぎに分娩室に入ったが、まだ産まれないらしい。分娩室の前では、純の父が落ち着かない様子で、廊下を行き来していた。
「お父さん。それじゃまるであなたが父親みたいですよ。」
母が笑って声をかける。
「亮介さんも来ましたからね。もうちょっと落ち着いて座っていてください。」
分娩室のドアが開き、中から看護師が覗く。
「ご主人ですね。もうそろそろ産まれますよ。中にどうぞ。」
亮介だけを中に招き入れる。父は不満そうな顔をするが、母になだめられる。
「こういう時は、夫が立ち会うものです。爺婆は用は無いんですよ。」
純は額に汗をかいて、やつれた表情をしているが、亮介の顔を見るとにっこり笑った。
「間に合うように、来てくれたのね。良かった。もうちょっとで出てくるわよ。」
看護師も頷く。
「本当に良いタイミングでしたよ。あと三十分遅ければ、産まれてましたから。」
「奥さんも良く頑張ってますよ。もう一息ですよ。もう頭が出て来てますからね。」
そして、それから十分もしないうちに、分娩室の中に産声が響いた。
息子はタオルに包まれ、亮介と対面した後、産湯できれいにされ、ガラス越しにおじいちゃん、おばあちゃんと対面した。亮介は一旦、分娩室から追い出された。三十分程して、純が分娩室から出てくる。病室に落ち着き、息子が連れてこられ、純の乳首に吸いつく。純の両親も初孫の顔を覗いて、溶けるような甘い顔になっている。
皆に祝福されて、待ち望んで産まれて来た子供だ。
看護師がネームプレートを持って来る。
「お名前はもうお決まりですか。」
亮介が告げた名前をプレートに書き、足首のバンドにも同じ名前を書き込む。取り違え防止バンドのナンバーだけだった子供が、一人前に自分の名前を名乗るのだ。川浦広夢というその名前を、眩しそうに皆が注目した。
Ⅳ
秋も深まると、亮介の仕事にも慣れと余裕が出て来た。
まだ純と広夢は両親と一緒に暮らしていて、亮介だけが単身赴任だ。
プロジェクト全体の仕事はプラントの建設の方がメインになって来ているので、亮介の仕事は、一次生成物からの二次産物への変換などの細かい研究がテーマになって来ている。
研究室のメンバーもそれぞれに、有機合成のプロセス解析やそれに伴う経費算出、製品やエネルギーの売却価格の検討などの実務関係になり、のんびりとしたムードも漂っている。プラントが完成して稼働を始めるのは半年以上先の話だ。
あれから何度か、原料採掘船にも行く事もあった。教授や同僚と一緒に、さまざまな打ち合わせで出かけたのだが、最初の時と同様に、船上はのんびりした時間が大部分で、その中で打ち合わせを済ませると、残りの時間は雑談になったり、釣りを教わったりした。
ある週に、教授と船を訪れた時に、船のメンバーの一人が教授に笑いながら言った。
「どうです。せっかくここまで来てくれるんだから、時々は、人事交流でメンバーを入れかえては。我々の代わりにこの船で生活してみるのも、気分が変わって良いかもしれませんよ。」
「そうだな。どうせ研究とは言っても、アイデアを絞り出して捏ねまわしている段階だからな。こんな処の方が良いアイデアが浮かぶかもしれないな。」
「じゃあ、ぜひ私と川浦くんを交替ということで。一週間でも一ヶ月でも良いですよ。」
と、言い出したのは、奥さんと子供が待っている岡崎だった。
「お前はただ、家族と一緒に居たいだけだろう。一ヶ月も陸に上がっても、お前の仕事は無いよ。」
と笑いながらの声がかかる。
確かに岡崎の専門は、水中での土木作業だから、陸でもやることは無い。
「そんな事ないですよ。資材調達やら、新しい技術の情報やら、いろいろと有りますよ。」
「何を言ってるんだ。そんな情報もみんなネットワークで入って来るじゃないか。お前に足りないのは、奥さんに手が伸ばせる距離だろう。」
周りのみんなはそう言って岡崎を冷やかす。だが、岡崎に限らず、この船上の環境に飽きが来ているのも事実だ。
この時代になって通信ネットワークは全世界に張り巡らされ、世界中の誰とでも差し向かいで会話ができる。しかし、実際に手を伸ばして触れるのは、そこまで行って向かい合わないと出来ない。交通手段がいくら発達しても、個人の要求を全て叶えるわけには行かないのだ。
亮介も毎日、純や広夢の顔は見ているが、広夢を抱っこしてやるためには、半日かけてそこまで行かなければならないのだ。
教授も笑って請け負う。
「じゃあ、。次の教授会でプロジェクトチームの交流案を出してみるよ。いろんな現場を知ってる方が、良いアイデアも浮かぶだろうし、他所の仕事に不満を言う奴も少なくなるだろうしな。」
それから数週間後、人事交流の話は教授会でも良いアイデアだという事で受け入れられたようだった。
もちろん、現状で一番繁忙期を迎えている建設関係の部門は除き、今後のプラント運営の軸となって行くプラントのプロセス運営の部門と採掘の部門がメインだが、その他にも製品の営業やら資材、経理などの部門も含めた交流になりそうな話だった。
そして、当然のように亮介がその第一号として、採掘船へ行く事になった。
「まあ、川浦くんが行った時に出た話だし、きみが一番、船の皆とも気が合いそうだしな。大丈夫だろう。」
単身で部屋に帰っても暇を持て余しているような生活をしている事は、チームのみんなにも知られている。仕事の面でも特に急がれている事も無く、船に乗るには条件がピッタリだ。
「はい。行かせて頂きます。」
亮介の返事に教授は笑って言う。
「釣竿は持って行った方が良いぞ。大物を期待してるからな。」
船で初めて海釣りを教えてもらって、何度か行く間に釣果も有った。まだ初心者なのだが、釣りも面白いものだと、思い始めている。
そんな事も知っての、教授の言葉だった。
採掘船では一月暮らすことになる。実際の採掘装置の操作方法を覚えたり、掘った原料を保管庫に保存する方法や装置メンテナンスを教わったり、まったくの初心者の亮介には課題が沢山出された。
しかし、まだプラントが稼働している訳ではないので、失敗も笑って許されるし、指導ものんびりと丁寧な説明を受けながらになる。生活では、三度の食事が出て、自分で買い物などもしなくて良い分は、陸に居るよりは快適だ。
純が居ないと、どうしても一人での外食になったり、学内の無料給食所で済ませたりする。船でみんなで揃って食事をするのは、愉しみでもあった。
「船乗りには向き不向きがあってね。食い物の不満が多い奴とか、時間を上手につぶせないやつは向かないんだよ。亮介は船乗り向きだな。」
そんな事を言う先輩も居た。
釣りも慣れてきて、自由な時間になると側舷から釣り糸を投げて、獲物を上げる事も増えて来た。
ある晩、いつものように一人で釣りをしていると、水平線の方から何かが向かって来るのが見えた。そちらに目を凝らして見ていると、どうやらゴムボートのようなものだった。
人が一人、乗っている。こちらの船を目指して、オールで漕いでいる様子だ。湖や海水浴場でもない、こんな場所で何をしているのか、亮介には解らなかった。ただ、あっけにとられて、そのゴムボートを見ているだけだった。
やがて、ボートは採掘船の側舷に着いた。乗っているのは若い女性が一人だけだった。そして、その女性はボートからロープを投げて、それを船の手すりに絡ませると、そのロープを昇り始めた。
その時になって、亮介は異常事態だという事に気付いた。
当直の八田が艦橋に居るはずだ。大きな声で八田を呼んだ。
「どうした。」
とのんびりした声が返って来る。八田にはまだこの状況が解かって居ない。
「大物でも釣れたかい。」
などと言いながら、亮介の方に向かって歩いて来る。
その時、ボートから上がりきった女が、手すりを乗り越え、八田の方を向いている亮介の背中に、忍び寄った。小銃のようなものを取り出し、亮介に突き付ける。
八田もその様子を見て、その場に立ちすくんだ。
亮介の背中に銃口を突き付けながら、八田に手を挙げるようにジェスチャーで示す。亮介の脇に並んだ女の横顔は、どことなく純と似ているように思えた。歳も同じくらいか、もっと若い年代にも見える。
八田は両手を挙げたまま、のんびりとした口調で独り言のように言う。
「ああ。新しい手口だな。正攻法は、今までみんな失敗していたからな。」
「どういう事なんです。」
「海賊だよ。船で襲って来ても撃退されたから、先発隊が忍び込んで乗組員を大人しくさせてから、本隊が乗り込んでくるつもりだろう。」
「八田さん。そんなのんびりと解説してる場合ですか。助けて下さいよ。」
亮介の首筋に当たった銃口が、冷たく感じられる。このまま、引き金を引かれたら、命を落としてしまうだろう。痛みは感じるのだろうか。あっけなく死んでしまうのだろうか。そんな考えがやけに冷静に頭を巡る。
脳裏に純と広夢の顔が浮かぶ。まだ、父親の顔も良く判らない広夢を残しては死にたくない。純との新婚生活も、ひと月ほどしか一緒に暮らしていない。なんとか逃げる手段が無いものだろうか。亮介はそう考えた。
「そんなにじたばたするなよ。大人しくしてなきゃ撃たれるぞ。こいつの役目は、一人づつ乗組員を身動き出来なくさせる事さ。皆がいっぺんに来たら対応出来ないからな。」
「じゃあ、こっそり忍び寄って一人づつ縛り上げるっていう事ですか。」
「そうだよ。人質を取れば身代金にもなるからな。殺したら金にはならないし、追及も厳しくなる。なるべくなら大人しく人質になっていた方が良いんだ。お互いの為にな。」
そんな会話の間に、女は亮介を縛りあげようと、手を後ろに廻させる。
銃を片手で構えたまま、器用に片手だけで手首に細いロープを掛ける。
亮介はそれに抵抗出来ない。ロープを引っ張られ、思わず膝をついてしまう。
その瞬間、八田が鋭い声をかけながら、二人の方に走る。
「亮介。伏せろ。」
視線を亮介の手首に落としていた女に、一瞬のすきが出来たのだろう。伏せた亮介の手首に掛かったロープに引かれるように、女がバランスを崩す。
その一瞬で、八田が女の持った銃を蹴り上げる。銃口が空を向き、銃声が響く。
銃は女の手から離れ、宙を飛んで手すりを超え、海に落ちる。
亮介はそのままゴロゴロと転がり、八田の後ろに逃げる。八田と女は向き合って睨みあったままだ。
「さて、形勢逆転だな。女海賊を捕まえるか。」
女は腰からナイフのようなものを抜き、手すりを背にして、八田を睨む。亮介は手首に巻きついたロープを振り落とし、八田の斜め後ろに立ちあがった。
「二対一だな。諦めろよ。武器と装備を渡して降参しろ。」
そう言いながらも、ナイフを持った女にはうかつに近寄れない。
その時、後ろで足音が聞こえた。
「何か有ったのか。」
航海士の結城の声がする。
その瞬間、女は手にしたナイフを八田に向かって投げつけた。八田がナイフを避けた瞬間を狙って、身を翻し、海に飛び込む。
水音がして、二人が手すりに駆け寄った時には、すでに女の姿は無かった。さっき乗って来たゴムボートを探したが、係留せずに流されたのか、それも見えない。
「仕方ないな。ネズミを捕まえそこなったようだ。」
八田はのんびりとそう言う。
亮介は今の出来事がまだ現実の事と信じられず、動悸を抑えられなかった。
結城が八田に声をかける。
「どうしたんだ。何か銃声のような音がしたけど。それに今のナイフ投げのゲームは何だったんだ。」
「ああ、美人のくのいちが夜の闇にまぎれて忍び寄ったのさ。それを亮介が釣りあげたんだ。人魚姫をな。」
「そうか。お前が当直の時間で良かったよ。こういう手口は予想してなかったからな。」
「亮介、命拾いしたな。あいつが銃を持ってたから良かったんだ。ナイフだったら今頃頸動脈を切り裂かれてたかも知れないぞ。」
まったく平然としている八田の様子に、亮介も落ち着きを取り戻す。
「どうしてそんなに落ち着いていられるんです。」
「こいつはな、軍事訓練も受けてるし、空手の有段者でもあるんだ。」
「なんでそんな人が、このプロジェクトに居るんです。」
「二足のわらじを履いてるのさ。八田は現役の海上自衛官でもあるし、海洋土木の博士号を持ってる専門家でもある。その両方の腕を買われて、ここに居るんだよ。」
自衛隊は何度かの法改正を経て、実質上は軍隊と成っている。呼び名は昔のままだが、国内での軍事行動や外国への出動も、国の正当な自衛のためなら出来るようになっている。今までも、国境の紛争などでは何度も現地出動をしている。隊員は日々訓練を受けながら日常任務に着く者と、隊員でありながら通常は自分の仕事を持つ者の二通りに分かれている。八田は後者らしい。
「エネルギー資源問題はけっこう注目されてるからな。この船はここに居る事が大事なんだよ。でも、こんな海の上じゃ、魚の目の前に餌を垂らしてるようなものだからな。いつ、どんな手で襲われるかも分からん。だから、こういうメンバーも何人かは入ってるのさ。」
「さっきの女だって、海賊なのか、どこかの国の手先なのか、判らんよ。この船自体もお宝だし、この海域の資源を横取りしたい連中もいるからな。」
「あんな若いのに、一人で乗り込んで来るんですね。」
「なに、うちのレディス部隊でもあのくらいの事はやるよ。装備はもっと良いから、今回と同じ事をやらせれば、成功するだろう。銃を突き付けるなんてのは、もう時代遅れなんだよ。」
「そうなんですか。」
「ああ、縛りあげるんじゃ無くて瞬間接着剤スプレーとか、呼吸は出来ても声が出せない粘着テープとか、対人装備もスマートな物が有るんだ。まあ最後には格闘になるから、俺もちょっと空手をやったんだけどね。」
「ちょとじゃ無いだろう。全国で片手に入るやつが。」
三人でそんな会話をしながら艦橋に戻り、本部に報告を入れる。
八田は何か別の連絡もしている様子だった。
亮介は自室に戻ろうとして、八田に呼び止められる。
「おい、釣竿を忘れてるぞ。また人魚姫が釣れると困るからな。」
そう言われて、初めて自分の釣竿に気づく。リールを巻き上げたが、釣果は無いようだ。
「さっきの女。どこに行ったんでしょうね。」
「あいつが来たところに戻ったんじゃないか。ゴムボートで来たんだろう。おそらく長いロープで係留しておいて、ロープを辿ってそこまで泳いだのさ。ボートに乗れば、エンジンも有るだろう。水平線の向こうには母船が待って居る。第一段階完了の報告が有れば、そいつが乗り込んで来るはずだったやつがな。今回は失敗だったから、そこまで戻って回収して貰ってるだろう。」
「そいつらを捕まえられないんですか。」
「証拠が無いし、漁船に偽装してるし、変に国際問題になっても困るからな。第一、この船で追いかけるわけには行かないだろう。ここの海底までパイプを降ろして係留してるんだから。」
「そうですね。」
「ナイフとロープが置き土産だ。記念に持って行くかい。」
「要りませんよ。自分がやられかけた記念なんて。」
「銃もナイフもロープも無くしたから、このままリベンジには来ないだろう。今夜は安心して寝てもいいよ。」
「そうですね。眠れそうも無いですけど。おやすみなさい。」
そう言って亮介は自室に戻った。
自室に戻ってもすぐに眠れるはずも無い。さっき見た女の横顔が思い浮かぶ。若く見えたが、いったい何歳なのだろう。いつからこんな事をやっているのだろうか。ああやって、海賊稼業で生活の糧を得ているような人達も世界には居るのだ。さまざまな事を考え込みながら、やがて亮介は眠りに落ちた。
翌日からは、人魚を釣った亮介という話で、しばらく冷やかされる日々が続いた。船上のチームの中では、八田がどういう人間かも皆が知っている。八田の活躍は、当然の事として受け入れられた。
亮介だけが事情を知らずに現場に立ち会ってしまったのだが、八田からは、とっさの場合の行動にしては最良だったと、褒められた。
「じたばた暴れたりしない。すきが出来たらまず逃げる。素人にしては合格だったな。」
「抵抗したりすれば、無条件に撃たれるからな。次からも気を付けなよ。」
と笑う。
「もう二度目は勘弁して下さいよ。銃を突き付けられるなんて経験は、一生に一度で沢山ですよ。」
「そうだな。まあ、良い経験になっただろうし、土産話にもなるからな。一度で充分だろう。陸に帰ったら、向こうのチームにも良く話しておいてくれ。こういう事もあるんだってな。」
その後の日々は何も変わった事件は起こらず、交流期間の一ヶ月を終了し、亮介は本来の職場に戻った。
あの時のナイフは、結局八田から押しつけられるように亮介の手に渡された。特に珍しくも無い、世界中に流通しているメーカーの大量生産品だったし、指紋なども出なかったので、証拠物件にもならないという話だった。
研究室でも、亮介の経験は話題になっていた。美人の人魚を釣ったという話で、高田教授からも、からかわれた。
その度に、銃を向けられ死にかけた話なのだと訂正するのだが、あちらこちらで話は広がっている様子で、何度もその話をさせられた。
冬も近くなり、忘年会の話題が出る頃に、純と広夢が里帰りから戻って来た。
純は亮介の顔を見て、ようやく安心したような顔になった。すでに船での経験は話して有る。実際に顔を合わせて、落ち着いたのだろう。
籠の中に寝かされた広夢は、しばらくぶりに直接見る父親を解かるのだろうか、ニコニコ笑っている。
「こんなに寒くなってから、こっちに来なくても良いのに。」
「だって、これから忘年会やクリスマス、お正月って、慌しい季節だもの。一緒に居た方が良いでしょう。」
「そうだね。結婚したって言っても、一緒に暮らしたのはひと月ちょっとだからな。」
「ここがふたりの新婚生活の新居なんだから、結婚して最初のお正月は家族三人そろって、ここで迎えようね。」
純はそう言って、亮介の腕の中で笑った。
大晦日。大掃除も済み、ふたりでこたつに入る。広夢は毛布に包まれ、籠に寝かされている。
一般向けネットワークでは、あちらこちらの年末風景が中継されている。
昔はテレビ局が番組を制作して、スポンサーを付けコマーシャルをのせて放送していたが、今では、発信したい者が勝手に番組を作成している。
テレビ局は、それらの番組を選択し、ニュースや娯楽を取り交ぜて再度ネットワークに乗せる中継局の役目になってしまっている。
情報を得たい人は、その中継を眺めてさまざまなニュースを知り、自分の欲しい情報にさらにアクセスして行く。中継局もさまざまで、特定ジャンルの音楽専門や海外ニュース専門など、独自の特徴を出して活動している局も有る。無料のものも有料のものも入り混じり、情報量は膨大なものだ。
その中の年末の様子を眺めながら、亮介は純とくつろいでいる。
思えば、一年前は独身の学生だった。この一年間で、有職者になり、結婚し子供も生まれ、住む処も変わった。船にも乗ったり、海賊に襲われて死と隣り合わせになった事も有った。
父として、息子の広夢に何を話してやれるだろう。息子が大きくなったら、この一年に経験した事を話してやるのだ。二十二世紀になれば、海賊なども歴史上の話になっているだろう。世界中どこにも、海賊や強盗や争いの無い時代になって欲しい。そんな世界を、広夢に残してやりたい。名前の通り、広く大きな夢を描いて育っていくような、そんな世界を息子に渡してやるのが、今生きている亮介たちの仕事なのだ。
亮介は、純と広夢の顔を眺めて、そんな事を考えていた。
パンとインターネットの時代 - 了 -
パンとインターネットの時代
最近BIという言葉を良く聞く。ベーシックインカムと言って、社会の全員に一定の収入を保障するシステムだそうだ。
しかしその議論を聞いていると、「一人にいくら配る」とか「財源をどうする」などとゴタゴタしていて、実現しそうに見えない。
現状の経済システムを肯定して、お金としての配分しか考えないようでは、BIは困難だろう。
人は食うに困れば、他人から奪い取っても自分が助かろうとする。
その「食う事」がお金とイコールになっているから、犯罪行為も多発するように思う。
工業や農業の生産を機械が請け負う社会では、お金ではなく生産された食糧や製品の再配分のシステムが
上手く行きさえすれば、理想的な社会に成るのではないだろうか?
(鉄腕アトムの社会はそうだと思っている)
そして、BI議論にあるように「そうなったら皆が働かなくなる」などという事も無く
それぞれの思う望みに向かって行く事になるだろう。
夢想的な馬鹿げた事かも知れない
でも、そんなユートピアを夢見ても良いんじゃないか。
実現できない事ではないと思っている。
このストーリーの中では「海の向こうの国」はシステム転換に失敗した国として描かれているが
それはストーリー展開の為の都合であって他意は無い。
世界中の人たちが理想の社会の中で、飢える事無く、それぞれの望みを実現するために生きる。
そんな時代が来る事を、願っています。