不純文学 三
三
「…あの、ごめんください」
続いて直己は三軒目の挨拶に訪れた。
その部屋の玄関の扉はすでに半開きになっていた。
返事がないので、彼はそっとその隙間に顔を近づけ、中の様子を少しだけ垣間見る。
しかし室内は一筋の光さえのぞかせない暗闇に包まれている。
「あの、誰かいらっしゃいませんか、僕今日引っ越してきた直己と言いますが」
やはり返事は返って来ない。
あきらめて次の部屋へ向かおうとしたその時、奥から女性の声が聞こえてきた。
「どうぞ、お入りなさい」
実におしとやかな声だった、それでいて落ち着いた威厳を放ち、まるで天女のような声色。
その声に導かれるように直己は扉をゆっくりと開くと、ソロソロと室内へ足を踏み入れる。
声の出所を探りながらキョロキョロと辺りを見回していると、もう一度、その優しげな声が彼の耳元に響いたので、それを追って奥へ向かっていく。
ここに来て初めてそこに微かな光を認めたので、そこへ自然と吸い込まれていく。
扉の隙間をのぞいてみると中に一人の女性が静かに佇んでいた。
それは老婆。
腰を揺り椅子に埋め、ユラユラと揺れながら一冊の本に目を向けている。
入る。
室内は窓の外からこぼれる暖かな太陽の光と、その開いた隙間から流れ入る清らかな風が、実に心地よい空間を演出している。
壁にはいくつもの本棚が並んでおり、その中にびっしりと本が敷き詰められている。
「…あの、勝手に上がってすみません、僕、今日引っ越してきた」
「直己さんね」
「…え…どうして?」
直己は自分の名前を知る、その老婆に対し驚きの表情を曝け出す。
彼女は本を閉じ、かけているメガネをそっと外しテーブルの上に置くと、落ち着き払った微笑を携えて彼の方を見澄ました。
「…知ってるわ。わたしは何でも知ってる」
開いた口が塞がらない。
今目の前にいる女性は果して真に現実のものなかと疑わしき神々しい輝きを直己に対して放っている。
「今朝、大家さんに聞いたんですもの」
…それはそうだ、どこの人間が見ず知らずの男の名を易々と当てられようか。
「あの、僕向いの浩次さんの家に共同で住むことになったんです。まあ浩次さんがいなくなって友人が来るまでの短い間なんですが」
「………そう」
彼女はテーブルの上に置かれたコーヒーカップの飲み物を、ゆっくりとした動作ですする。
直己は両脇にある本棚に目をくれると、興味津々の体でこう質問する。
「好きなんですか、本?」
本は直己も好きだった。
彼は一度好きだと目をつけた作家の書いた本のためなら、血眼になって古本屋を巡るし、新刊が出るとなると、朝一番に店に並び獲物を狙う、そんな生粋の文学少年だったのである。
老婆はフフフと再び微笑に浸ると、再度ユラユラと揺り椅子を動かし始める。
彼女は何を読んでいるのかと、直己は必死に本の表題に目をくれようとしたが、あいにくブックカバーに遮られ、それができない。
「……むかしの小説よ」
「…昔の」
「むかしの小説はいいわ。今の小説みたいに、長ったらしくないし、それに個性的で面白いし」
「………ですね、同感です」
「本当に? …フフフ」
直己の言った言葉はウソではなかった。
彼にとっても小説といえば現代文学よりも、昔書かれた本が好みの大勢を占めていた。
ホラー物や、怪奇物、ミステリー物、それらに分類する物が特に好みだった。
そして純文学。
おしとやかさ、特出した文学表現、文章の美しさ、そのどれをとっても今の作品とは比べ物にならない芸術性を保有していると確信している。
「…ここに置いてある本、勝手に読んでいいわよ、わたしが長年集めてきた本なの。これだけ集めるのに、ずいぶん苦心したわ。何軒もの古本屋へ足を運んだし、図書館へ行っていらない本を引き取ったり、知人から貰ったものもたくさんある」
「……じゃあお言葉に甘えて読まさせてもらいます」
直己は本棚に近づくと、ずらりと並べられた本に思わず圧倒されてしまう。
「たくさんありますね。……驚いた、かなり昔のものまである。…これも古い…これはとても貴重だ」
老婆は彼のあまりにもの熱心さに、やはり微笑が止まらないようで、終始ニコニコとした表情でその様子を見守っている。
「あなたの部屋に持って帰ってもらっても結構ですよ。返したくなったら勝手に入って、その本棚の中に仕舞えばいいんですから」
直己は彼女の声が耳に入らないほど、しばしの間、真剣な目つきで本選びに集中していた。
それからしばらくすると、玄関の外から誰かが入ってくる気配を感じた。
「いやあ、遅くなった、友人がなかなか俺を帰してくれないものでね。やっとのこと振り切ってきたよ」
直己が振り返ると、黒いシルクハットを帽子掛けに引っ掛けてスーツを脱いでいる、老人の姿がそこにはあった。
髪の毛は真っ白に染め上がり、何本もの皺に包まれた顔は年期が入っているが、それに対して肌質は艶やかでみずみずしく、まるで若者のそれを見ているような感じだった。
「…す、すみません、勝手に上がらせてもらってます」
直己の存在に気づいた彼は、多少驚きの様子を見せたが、老婆と同じような穏やかな笑顔に立ち返ると、紳士のような礼儀正しさでお辞儀をする。
「やあ、これは、お客さんでしたか。もしかすると、あなたは今朝、大家さんが言っておられた、直己さん?」
コクリ、黙ってうなずく。
「やはり、そうでしたか。いやいや、大学生だということで、もっとガッチリした体格かと思っていたんですが、案外小柄なようで安心しました」
…安心した。
この言葉を聞くに、やはり浩次の姿や、あの精神障害者の茂の姿を思い出さざるを得ない。
こんな荒れ果てた荒野ともいえるアパートの中で、実に穏やか、それでいて親しみのある彼らには、どうしても不釣合いなあの二人。
「……浩次さんって知ってますか」
彼は気になっていることを尋ねてみる。
「ええ、知ってるわよ」
「本当に?」
「ちょっとヤンチャな所はあるけれど、根はいい子だし、時にはわたしに対して優しい言葉もかけてくれるんですよ」
直己は彼女の言葉が一概には信じられなかった。
先に訪れた茂の妻にも、浩次は根はいい人だと聞かされた。
まだここに来て多少の時間も経っていないけれど、まだ彼とあって数時間も経過していないけれど、浩次を取り巻く一連の出来事を察するに、どう考えてもマトモな人間とは思えない。
「……いい人、ですか?」
「ええ、いい人よ」
彼女はさっきよりも、より一層笑顔を大きくする。
きっと彼が浩次に対して、よからぬ疑いを向けていることに気づいているからなのだろう。
それを読み取った彼女は、心の中で心底苦笑し続けているのだ。
「……では僕、もうそろそろ帰ります」
「ええ、気をつけて、……気をつけてといってもあなたの住まいは目と鼻の先ね」
「はい、今日は突然お邪魔して申し訳在りませんでした」
「いいのよ、いつでも尋ねてきて。今度来るときは、わたしとお爺さんで食事でももてなしてあげますから」
「ありがとうございます」
家を出た。
そして次の部屋に挨拶をしに行こうかと足を動かしたその瞬間、彼ら二人の名を聞くのを忘れていたことに気づき、はっと立ち止まる。
戻ろうか、戻るまいか、と考えている内に、直己の足は自然先へと進んでいた。
彼の境地には、さっき老婆の話した、今度来るときは二人で食事をもてなす、という言葉にどこか甘えてやろうという穏やかさ、そして安心感が沸き起こっていた。
不純文学 三