不純文学 二

 二

「…ふう」
 直己の口から思わず溜息が飛びでる。
 溜息は飛び出るが、この汚い部屋から自分自身を飛び出させる勇気はまるでない。
 大学へ通うため地方からやってきた彼だが、両親からの仕送りを断固として拒否し、自分の力だけで大学生活を乗り切ろうと硬く誓っているため、それはできない。
 さらに友人との約束を反故にしたくないため、という理由も少なからずあった。

 床に散乱したゴミを片付ける、降り積もった埃を雑巾で拭き取る、二段ベッドに引いてある敷布団を棒でパンパンはたく。
 まるで家政婦にでもなったかのような仕事振りに我ながら関心せざるを得ない直己だったが、ふと窓の外を見ると、目の前数メートル先にここと同じようなアパートが建っていることに気づく。
 そこには目が覚めるような派手な赤いカーテンで閉じられている部屋がひとつだけ一際生活観を放っている。
 すると突然そのカーテンの隙間から一匹の黒猫が這い出てくると、ちらと直己の方を一瞥したが、構わずベランダの格子の隙間を掻い潜り、排水パイプ伝いに下へと降りていった。
 そんな出来事に思わず気が緩んでいたのも束の間、また玄関の方から何者かが扉を叩く音が鳴り響いてきた。
 しかし、その音は、さっきの取立て屋の男よりも、よりいっそう小さく、弱々しく貧相な叩き方に感じた。
 今度は取立て屋ではないことを確信した直己は、はいはいはい、と小声で返事をしながら、来訪者の様子を見るため玄関へ向かう。

「…ちょっと浩次? いるんでしょ、いるなら返事してよ。浩次?」

 女性の声だった。
 それも普通の女性の口調とは違い、酒につぶれたような濁った声色をしていた。
 
 相手に気取られないように、そっと鍵穴へ視線を送る、すると円い穴の中に、ギラギラと真っ赤に輝いたワンピースを身につけた女性が同じように鍵穴に視線を送っている姿がうつっているのだ。
 何度も目を腕時計にくれながら、終始イライラした様子で、中にいると確信している浩次が出てくるのを今か今かと待ち続けている。
 直己は今回も、さっきと同じように、見なかったことにしようと自分に言い聞かせ、そっと鍵穴から目を離すと、すり足で自分の部屋に戻っていった。
 玄関から遠ざかる間に彼女の声は消えうせ、それから諦めたのか、最後に捨て台詞を吐き、ここから去って行ってしまった。
 
 それから自室へと戻り、目の前に整理したゴミの束が並んでいるのを見ると、まるで自分の部屋が、ゴミ集積所にでもなったかのような不思議な感覚にとらわれる。
 片付けた後の部屋は殺風景ながらも案外、人が住むには心地いいのではないかと思えるほどの出来。
 しかし、いかんせん物がない。
 勉強に使用するための机もなければ、本棚もなく、カップラーメンをすするためのテーブルすらない。
 直己は腰を平面に落ち着け、何物も存在しない空っぽの空間に、ただ無心の居心地でいた。
 すると窓の奥から猫の鳴き声。 

「ニャー」

 ハッと振り向くと、さっき見た黒猫が窓の縁の地平線から頭だけをヒョッコリ飛び出し、こっちを興味深そうに見ている。

「チョチョチョ」
 
 甘い口使いで誘惑を試みるが、猫は全く惑わされないばかりか、直己に対して大きな欠伸を露にすると、彼の視界の外へサッと消えていってしまう。
 
 彼も猫と同じようにとても退屈そうだった。
 大学の講義が始まるのは四月から。
 今はまだ三月も序盤に差し掛かったばかり、勉強を始めるにも、身支度を整えるにも早すぎた。

 とりあえず、今日来たばかりのまだ新人ということで、隣近所の住人に挨拶をして回らなければならない、と思いつく。
 見ず知らずの人と接するのは苦手だったが、こればからりは、今から長い期間ここに住むであろう人間にとって必須事項なのではないかと思ったのだ。
 玄関の扉をそっと開く。
 キョロキョロと挙動不審に辺りを見回すのは、外に取立て屋がいないか、あるいは、あの派手な女がまだ待ち伏せしていないかという不安にさいなまれたからだ。
 だが幸運なことに、そのどちらの災難も発見することができず、改めて住人への挨拶に取り掛かる決意を固める。

「…ごめんください、あの、僕、今日ここに引っ越してきたものですが」

 築何年経過しているのだろうか、古びたアパートの玄関には、中の住人を呼ぶための呼び鈴はどこにもない。
 トントントンと小さく扉をノックし中の人を刺激しないように注意をはらう。
 まず訪れたのは自室の真向かいにある部屋。 
 浩次の住んでいる部屋と同じように玄関には人の住んでいるであろう雰囲気を微塵も感じさせない。   
 やはり、どうやらここには人が住んでいないらしく、あきらめ、次の部屋へと向かうことにする。

 次に訪れたのは案外生活観の感じられる玄関だった。
 床には花壇が飾られており、頭上には名札らしきものが掲げられている。
 ノックをするとすぐさま返事が返ってきた。

「あら? いらっしゃい」

 黒い長髪を肩辺りまで伸ばし、エプロンに身を包んだ彼女は、一般的には若妻と呼ばれる年齢。
 そのエプロンで両手を拭きながら、爽やかな笑顔を直己に見せつける。
 
「……あの、今日僕ここへ引越してきた直己といいますが」
「あっ、引っ越してきたの? もしかして大学生?」
「…はい、その通りです。あの浩次さんでしたっけ、彼の家に共同で住まわせてもらうことにしました」
「はあ、そうなの。大変ね、あの子と共同で生活するって」

 直己には彼女の言いたいことが何となく理解できる。
 彼があそこに訪れてから、まだ数時間くらいしか経過していないにも関わらず、取立て屋は来るわ、ど派手な女は来るわ、それに怪しい猫は来るわ、来るわの来るわのオンパレード。
 それを察してくれているのだろう。

「でも大丈夫よ」

 彼女は玄関の暖簾を下ろすと、奥にいる夫らしき人物に声をかける。
 中から現れたのは、実に強面の男だった。
 生え散らかした無精ひげ、伸びきった眉毛、ガタイは普通の男以上の筋肉を持っているであろう浩次さえも凌ぐほどの頑強さを誇っている。 
 黒いスーツに身を包んだ彼は、今から仕事に向かうのだろうか、両腕を組み、にこやかな笑顔で挨拶する。

「やあ、はじめましてわたし(しげる)と申します」
「…はじめまして」
「君今日ここに引っ越してきたのかい?」

 彼の一回りも大きな背丈は、食物連鎖の上位の生物に睨みつけられたかのような圧倒的な威圧感を目の前の直己に大して与える。
 
「…はい、少し事情がありまして、向いに住む浩次さんの部屋に一緒に住むことになりました」
「…そうかい。大変だね。まあアイツもいろいろあるからな」
「…いろいろ」
「でもああ見えて根はいいやつなんだ。俺も何度も浩次の担当になったが、一怒鳴りするたびに猫のように縮こまっちまう。所詮は強がっているだけ、きちんとした大人が対応してやれば、従順な男に成り下がっちまう」
「担当?」
「あ? ああ、…俺刑事なんだ。この街の署に勤めてるね。もし何か困ったことでもあったら相談するといい、すぐに駆けつけてやるから」
「あ、ありがとうございます。…実に心強いです」

 直己は彼が刑事、と聞いて少し安心した。
 今日朝一番に現れたあの男のことを考えると、この先どうなるやらと始終不安しっぱなしだったが、こんなに心強い男が近所にいるならば、きっとそれも解消できるのではないか、とこう思っていたのだ。
 すると奥からまた彼女が現れ、再度ニコヤカな笑顔を露にしながら、茂に対して、奥に戻ってと身振り手振りで促す。
 すると茂は渋々室内へ退散していく。
 彼がいなくなったことを丹念にチェックする若妻は、いっしゅん鋭い目線を彼に対して送ったかと思うと、途端ホッと安堵の溜息をもらした。
 彼女の態度に疑問を感じる直己、それに気づいた若妻が、ああ、とことの真相を語ってくれる。

「彼、実は刑事じゃないんですよ」
「えっ?」
「あの人、一見普通に見えても実はちょっと軽度の精神病を患っていて、時間が経過するたびに、自分のことを警察官だって吹聴したり、あるいは俺は野球選手だって言い張って、突然バットを振り回したりするんです。でも彼普段はとてもいい人なんです。さっき浩次さんに対して根はいい奴だと言っていましたが、本当は彼こそが根はいい人なんです。喧嘩は強いし、優しいし、時には正義感を曝け出すナイスガイ」

 …ナイスガイ。

「あれでも随分とよくなったんです。一時期は包丁を持ってこの辺りで暴れまわっていたんです。浩次さんともその時に、一悶着あったそうなんですが、幸い大事に至らなくって本当によかったです」

 ……包丁。

「だいじょうぶです。さっきも言いましたが、今は病状も軽いものへと転進してますし、もうすぐしたらきっと治ると思いますから」

 話を終えると直己は懸命に優しい笑顔を造りだし、彼女との接見を終わらせた。
 彼の心臓はバクバクと高鳴っていた。
 
 …このアパートでマトモな人間をまだ一人たりとも見ていない。
 怪しい特攻服を部屋に飾り、朝から取立て屋がやってくる男、自分を警察官だと思い込み直己に対して任せろと言ってくる精神障害の男、そしてその男に対して安心していいのだと訴える妻。
 
 前途多難な直己は次の部屋へ挨拶に向かうことにした。

不純文学 二

不純文学 二

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-03-29

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