乾いた手
ぼくは、焼けるような太陽が山の向こうへ沈んでいくのを、玄関の前に座って見ていた。
夏の夕暮れ時は、心地いい風が吹く。
背中には、お父さんとお母さんの罵りあう声と、何かが割れる音がする。
ぼくの前を、近所のおじさんやおばさんが「大変ね」と繰り返し言って通り過ぎてしまう。
いつものことだ。
お父さんとお母さんがどうしてケンカばかりしているのか、ぼくにはわからなかった。
どうしてなにもかも気に入らないのかもわからない。ぼくがどんなにいい子にしていても、気に入らない。悪い子にしていると、ぼくを怒らないで二人でケンカを始める。
「あなたが悪いのよ」とそればかりだ。
いやになっちゃう。
とうとうぼくは、ケンカが終わるまで家の外で待つはめになった。傍にいると、ケンカが激しくなるのがわかったからだ。
ふいに、誰かが頭を撫でてくれた。細くてやさしい手だった。
「かわいそうね」
そう言った声に顔を上げると、きれいな女の人が立っていた。この辺りでは見かけない人だ。
「おねえさんは、この近くの人?」
そうたずねると、おねえさんは少し驚いたように目を見開いて、ぼくの顔を見つめていた。
「どうしたの、おねえさん」
もう一度問うと、やっとおねえさんの目が静かに笑った。
「いつもこうして待ってるの?」
訊かれて、ぼくはうなずいた。
「いつものことだから。でも、もうすぐ終わると思うよ。お父さんがガラスを割ったら終わったっていう合図なんだ」
笑顔でそう答えると、女の人は少し悲しそうにうつむいて、かわいそうねともう一度つぶやいた。
太陽はいつの間にか、すっかり姿を消して、空の光は山の上だけになった。ぼくの手や足は、道路と同じ暗い色になっている。おねえさんも暗い色に染まっていた。
通り過ぎていくと思っていた女の人は、膝を抱えて座っているぼくの横に落ち着いた。
本当に細い、さわれば折れてしまいそうなくらい細い人だった。
くすんだ草の匂いが、女の人の肩から匂う。嫌な匂いではない。ひっそりとして湿った森の中の匂いのようだ。
通りかかる人は、あいかわらず同じことを繰り返し言って去る。その間、女の人はずっと、ぼくの傍で、ぼくと同じように膝を抱えて座っていた。
膝の上で重ね合わせた指は、暗い色の中で、爪だけがほのかに白い。
それを横目で見ていると、ほんの少しだけ冷たく感じた。顔は暑いのに、腕や足が震えていた。
やがてどこかのガラスが割れる音がして、ケンカは終わった。
「これで家に入れる」
そう言って、女の人から離れて立ち上がると、女の人はきれいな瞳でジッとぼくを見上げていた。
「いいの?」
なにがいいのかわからない。女の人の声は、少し切迫していた。ぼくに差し出された細い右手が、何か別のことを問いかけているようだった。
しかし、ぼくは笑って答えたのだ。
「大丈夫だよ」
お母さんが家の中からぼくを呼んでいた。
「さよなら、おねえさん」
ぼくが手を振ると、おねえさんは笑ってくれた。
「いい子ね」
その声は、なんだか哀しくなるような響きがあった。
それから、季節は変わった。
夏も終わり、秋は短く、冬が重く圧し掛かっていた。
お父さんとお母さんのケンカは、単なるケンカではすまなくなっていた。おさまることがなくなったのだ。
どれほど怒鳴ろうと、どれほどモノを壊そうと、傷つけようと、満足することがない。
近所の人たちも、とうとうぼくの家には近づかなくなっていた。
外は寒い。太陽が山の向こうに隠れると、寒さが身体の芯まで凍らせた。
それでも家の中には入れず、ぼくは玄関の前に腰を下ろして、かじかむ手をすぼめた肩で庇うようにして息をはいた。
寒いよ。
ぼくがベソをかけば、またそれを理由にお父さんとお母さんが言い争う。だから無理して笑って、じっとして、ぼくの名前を呼んでくれるのを待つ。
どうして、こんな所にいるんだろう。
ぼくは要らない子だったのか。どんな悪いことをしたんだろう。
わからないよ。
寒くて、足の先がどこにあるのかもわからなくなった頃、ふと、そんなことを考えて涙が出た。
暗いから、誰も気付かない。気付いても、みんな知らん振りするんだ。かまわないよね。
その時、見覚えのある手が目前を通った。
「あの――」
咄嗟に掴んで見上げると、あの女の人だった。あの夏の日、ぼくをなぐさめてくれた人だ。
「まだ、ここにいるの?」
驚いている女の人が、そうたずねた。
ぼくは、答えるかわりに女の人の手を引いた。
「寒いよ。おねえさん」
口までしびれて、これだけ言うのがやっとだった。
女の人は、悲しそうに家のほうをうかがった。喧騒は鳴り止みそうにない。
子供が寒い夜空の下で凍えていることなど、まったく知りもしないのだろう。
女の人は、自分の手を掴んでいるぼくの手を両手で包むと、
「来る?」
と訊いた。その手は、カラカラに乾いていて、木の肌のように冷たかったけど、ぼくにはとてもうれしかった。
ぼくは、はっきりとうなずいた。
本当はね、本当は嫌だったんだ。
ぼくはいつの間にか笑えなくなっていた。でも、泣くことも出来なかったんだよ。
ぼくは、お父さんとお母さんが仲良くしてたから生まれてこれたと思ったのに、二人ともぼくのことなんか気にもしない。いらなかったんだ。そう言ってるじゃないか、いらないって。
そんな言葉が聞きたくて生まれてきたんじゃないんだよ、ぼく。
ぼくにだって『気持ち』はあるのに。
「じゃ、いらっしゃい」
女の人がそう言うと、ぼくの身体はふっと軽くなって、寒くなくなった。
「あたたかい。お姉さん、魔法なの?」
浮き上がるような感覚に、ぼくは笑って足元を見た。
まさか・・・。
女の人を見ると、哀しそうに首を横に振っている。
ぼくの足元に道はなく、遥か下にうずくまったまま動かない『ぼく』がいた。
「もう、帰れないの?」
「そうよ。私が見える人はね、死に近い心を持った哀しい人。それでも、夏のあなたは自分から私の手を取ることはなかったわ。本当に、哀しかったのね」
やがて、家の中からお父さんとお母さんが出てきて、冷たくなったぼくに呼びかける。でも、ぼくはもう答えられない。
泣き崩れるお母さん、ひらすら謝っているお父さん。
ぼくを嫌いじゃなかったの?
ぼくはいらない子なんでしょ?
なくして困るなら、どうしてもっと早く気付いてくれなかったの?
ぼくはいつも叫んでいたんだ。
助けて、って。
乾いた手