ある夏の日の告白

 

 人生における様々な出来事は、その人にとって適切な時期に起こるとは限らないもので、わたしの場合、この事件について言えば、特にこの事件を、わたしの初恋にまつわるものとして見るのならば、それは早すぎた。
 わたしはいまでもこの事件のことを時々思い出す。それはふとした瞬間に頭をよぎることもあれば、夢に見ることもある。わたしは、せめて誠実な勇気をもってこの事件を告白しようと思う。しかし、誠実な勇気も過去を取り返すことはできない。
 わたしはそのとき十一歳で、毎日小学校に行き、週に幾日かテニススクールに通い、そして一人の少女に恋をしていた。学校の成績も悪くはなかったし、テニスも決して弱くはなく、客観的に見れば幸せな生活をしていたのかもしれない。
 しかし、それでわたしは満足していなかった。そんなわたしの気持ちが引き起こした、わたしの人生の中で最も刺激的で、そしていまのわたしを最も悄然とさせる、四日間の思い出を話そうと思う。
 

 わたしがバックハンドのクロスで相手の厳しいボールをなんとか打ち返し、勝負は決まった。対戦相手の森田雅秋がネット際に寄ってきて握手を求め、わたしもそれに応えた。森田は焼けた肌に汗をだらだらと流し、悔しそうに苦笑していた。これで今年の通算対戦成績は六勝七敗になった。
「負けたよ、やっぱヒロは強いな」
「森田こそサーブが上手くなった。今回はサーブで取られるのが多すぎたな」
 わたしと森田は同じ小学校の同級生で、クラスは違うものの、同じテニススクールに通っている友人であった。二人とも実力は同学年のなかで中の上くらいと拮抗していたからか、はたまた家が近く、帰る方向が一緒だったからか、わたしと森田は不思議と気が合った。しかし、これもわたしがそう思っていただけで、もしかしたら、森田にとってわたしは数ある友人のうちの一人だったのかもしれない。
 わたしたちはコートを離れ、コーチに結果を報告しに行った。コーチは二、三のアドバイスをわたしたちに与え、休憩を命じた。地元で人気があり、多くの小学生男女が通うこのテニススクールは基本的にコーチもコートも数が足りていなかった。まだ少し時間はあるが、もう今日は試合をできないだろう。いま思えば、大人の監督が隅々まで行き渡っていたとは言い難い。
 わたしも森田も練習着が汗だくになっていたので、とりあえず別の練習着に着替えることにした。
練習場の隅、テニスバッグを置いている場所に向かって歩いていると、麻倉智美が正面から手を振って近づいてきた。きれいに畳まれたわたしの着替えをもう片方の手で持っている。
「清水くん、森田くん、お疲れ。すごい試合だったね」
 彼女はわたしたちの試合をずっと見ていた。わたしは彼女の前で好ゲームを制したことを誇らしく思ったものの、気恥ずかしさから無愛想に「おう」と答えてしまい、森田は笑顔で「負けちゃったよ」と答えた。
「それと、これ、いつも試合のあとに着替えるでしょ」
 そう言って彼女はわたしの着替えを差し出した。わたしはそんな彼女の気配りに嬉しい驚きを感じたが、ここも無愛想に「ありがと」とだけ言ってしまう。
 森田はすかさず自分の着替えがないことに抗議した。
「なんで俺の分はないんだよ」
「だって、清水くんはちゃんと着替えを鞄の外に出して準備してたけど、森田くんのはなかったからしょうがないじゃん」
「じゃあ、今度から俺も出しとくから」
「仕方ないなぁ」
 彼女は腰に手を当て、苦笑いしながらそう答えると、「じゃあ」と言って女子の集団へと去って行った。華奢な後ろ姿に目を奪われる。跳ねる巻き毛のポニーテールが可愛らしかった。
 結局、森田の着替えを取りに行くためにバッグのところまで一緒に行き、周りは男子ばっかりだったのでそこで着替えてしまった。壁に凭れ、二人でぼんやりと下級生の試合を観ていると、森田が唐突に呟いた。
「やっぱ、麻倉は可愛いよな。ほら、あそこ」
 彼は他の女子と談笑する麻倉を指差した。わたしも丈の短いパンツから伸びる細い足につい視線を向けてしまう。けれども、わたしの傲慢な自尊心が素直な返事を阻んだ。
「まぁ、他の女子に比べればそうかもな」
「いや、圧倒的だろ。本人も絶対に意識してるよ。今日だって、もしかしたら、勝った方にだけ媚びようっていうことだったのかもしれない。ヒロが羨ましいよ」
「いやいや、女子が男子のバッグの中を漁るわけにはいかないだろ。というか、そんな露骨に媚びてくる女子でいいのか森田は?」
「可愛ければいいんだよ。だいたい、他の女子はウザいやつばっかりだけど、麻倉くらいじゃん、ああいうことをしてくれるのは」
「騙されるなよ、森田」
「正直、自分でも将来騙されそうだと思う」
 そう言って森田はため息をついた。
 その後はコーチの退屈な訓示を聞いたあと、いつも通り、森田と夕暮れの帰路を共にした。
 わたしは森田と話すのが好きだった。当時は理由が分からなかったが、いまは明確にわかる。彼は素直かつ賢明で、自分のことをよく理解していた。彼はわたしに最も不足していた能力を、そっくりそのまま持っていたのだ。彼は麻倉を好きだと公言し、それでいて彼女に対して素直でいられて、わたしへの嫉妬をわたしの前で表明することができて、つくられた媚びでもいいんだと開き直れる。そんな姿勢が、本心をひた隠し、気取っていることよりもかっこいいものだとわたしが気付くのは、ずいぶん後になってからだった。
少なくとも、この時のわたしは、麻倉への好意を隠すことで虚栄の自尊心を保っていたし、そうすることで、森田に対して精神的に優位に立てていると思い込んでいた。
そして、麻倉も、彼女自身や、周囲の人々のことをよくわかっていた。未熟な男子が女子に反発するのと同様、大人になったつもりの女子もまた男子を見下し、つきあいを避ける時期だったが、彼女は成熟していた。なにごとにも素直で一生懸命だが、規律に縛られない柔軟性を持っていて、女子のグループの中でもうまく立ち回っているようだった。わたしは実のところ、麻倉のそういうところに惚れていたのかもしれない。
 しかし、当時のわたしがしたことといえばこうだった。家に帰って、麻倉から渡された練習着を脱ぐと、わたしはそれを強く抱きしめてから洗濯籠に入れた。長い睫毛が強調される上目遣いや、テニスウェアの胸のふくらみや、細い足のラインを思い出して、わたしは彼女を可愛いと思った。
 事件の発端は次の日の夕方、両親に連れられて行った駅前の百貨店での出来事だった。
わたしは両親と共に地下一階、食料品売り場にいた。
「今晩、何か食べたいものある?」
という母のありきたりな質問に直面し、わたしは少し答えるのを躊躇した。これはわたしにとって難問だった。最もよくない答え方は「なんでもいい」だ。両親にとってこの答え方は非常に反抗的に思われるらしく、突然怒り出して「本当に何でもいいのね?」などと恐喝口調で迫られるので困る。しかし、ここで特定の具材や料理の名前をだすのもあまり良くない。夕食のときに「これが食べたかったんでしょ?」「これが大好きなんだよな」と迫られてしまい、やたらに大量に食べなければならない。彼らはご飯なんてほとんど食べずにいるくせに、わたしにはご飯を何倍もおかわりし、それはもうたくさんのおかずを食べる義務が課せられているらしかった。それは、男子小学生である間も、男子中学生である間も、男子高校生である間も続いた。淡白な料理の名前を挙げるというのも小学生の間に実行したが、サラダの名前を言ったのがまずかったらしく、やはり怒りを買ってしまった。
「候補は何があるの?」
 これが当時すでに辿りついていた、一番マシではないかと思われる答え方だった。相手が必ず満足する複数の候補を挙げさせ、その中から最も負担が少なそうな料理を選ぶ。
 母の代りに父がいくつかの候補を挙げた。白身魚が選択肢にあったので迷わず選んだ。
「じゃあ、それにするわ」
 と母が満足げに言ったので、わたしはあまりいい気分ではなかった。いま思えばこれが彼らなりの気遣いだったのかもしれないが、当時のわたしにはこの両親は非常に気難しく思われた。わたしの心情に対する彼らの誤解が本当に不快だった。
 わたしは本屋に行くことを両親に告げ、エスカレーターに乗った、本屋は最上階にあり、百貨店に来たときはいつも寄っている。両親となるべく行動を共にしたくないのもあるが、それ以上に、小説や漫画を読める機会を大切にしたかった。いまもそうだが、両親は小説や漫画やゲームというものには何の価値も見出しておらず、スポーツや芸術で活躍したり、流行の服を着たりすることが最上の価値だと考えていた。彼らはわたしにそういったものをやたらに奨励し、月謝や服代を惜しまないわりに、わたしには一冊の小説も買い与えなかった。だのに、彼らはわたしが「何不自由ない」生活を送れていると言った。学校の図書館や本屋、あるいは夜中の自室くらいがわたしに本当の価値ある自由を与えてくれる空間だった。
 本屋に入ると、わたしはすぐさま児童書のコーナーに向かった。外国の作家が書いているジュブナイル小説の最新刊が先日発売されたのだ。近くの図書館にはしばらく入らないため、すぐ読むには本屋での立ち読みしかない。
 有名な賞を取った作品が平積みされている横を通り抜け、雑誌を読んでいる大人たちをかわしてずんずん進む。児童書コーナーがある通路に入ると、目当てのシリーズが置いてある棚の前に、同級生くらいの男の子が一人立っているのが見えた。彼はおもむろに最新刊を抜き取ると、そのまま角を曲がり、奥の受験対策本コーナーの方へ消えて行った。慌てて彼の立っていた場所まで行くと、案の定、既刊が一冊ずつ置いてあるだけになっていた。有名で売れ筋の作品ではないため、新刊も一冊しか棚に置かれないのだ。
 わたしは彼を追いかけて受験対策本が並ぶ通路に出た。彼は棚の方に向き、まさにその本を肩掛け鞄にしまおうとするところだった。彼のいる通路に飛びだしたわたしとの距離は四,五歩分。気配を察した彼はわたしの方を向き、目が合った瞬間、本を鞄に強く押しこみ、駈けだした。わたしは逃げる彼を見て、追いかけなければならないという情熱が内から湧き上がってきた。楽しみを奪われた怒りと、非日常的な事件に巻き込まれる面白さが、わたしを興奮させていた。その興奮は、小学生の足を動かすのに十分だった。
 彼はレジのそばを通り抜け、エスカレーターを前のめりに駈け下っていった。同じようにしてわたしも後を追った。レジのおばさんも、初老の夫婦も、親子連れも、わたしたちを見て迷惑そうに顔をしかめるのが見えた。
 一階に着いても、彼は速度を維持したまま玄関に突進していった。わたしはもう疲労困憊だったけれども、意地になって後を追いかけた。
 彼は玄関を出ると右折し、信号機付きの横断歩道を横切って住宅街に入っていった。信号は点滅しはじめていて、わたしは最後の力をふりしぼって速度を上げ、なんとか車が走り出す前に渡りきって住宅街に入った。
 しかし、彼の姿はもう見えなかった。初夏の陽ざしに照らされたアスファルトの上で、わたしは茫然と立っていた。左右には一軒家が立ち並んでいる。わたしはなおも諦めきれず、住宅街の中を歩いて進んでいった。疲労がどっと押し寄せ、汗が全身から噴き出ていた。
 十字路にさしかかると、左前方に少し大きめの公園が見え、わたしより二、三歳年下の子供たちがジャングルジムに登ったり、ドッジボールをしたり、あるいは鬼ごっこをしていた。
 わたしは諦めて踵を返し、デパートの方に向いて歩きはじめた。
「おい、待てよ」
 とつぜん後方の、それも近い位置から声をかけられ、わたしは条件反射で振り向いた。公園の入り口に三人の男の子が横一列に並んでいる。背格好はバラバラだが、概ねわたしと同じくらいの年齢に見えた。右側に立っているのは、よく見ればわたしが追いかけていた男の子だった。
「もう追いかけないのか?」
 わたしを呼び止めたのと同じ声。真ん中の男の子が挑発的な口調で話しかけてきた。半袖のシャツと短いジーパン。背はわたしより少し小さく、色も白いが、運動神経の良さそうな身体つきをしていた。
 わたしが無言で頷くのを見ると、少しムッとした顔つきになって、彼は声を張り上げた。
「俺たちはたいていこの公園にいるから、よかったら来いよ」
 予想外の言葉と彼の声量に気圧され、わたしは彼の目をみつめたまま黙ってしまった。それを見て、三人は同時ににやりと笑う。それがなぜだか悔しくて、
「考えとくよ」
 わたしはそうぶっきらぼうに言って、彼らに背を向けてデパートの方へ歩き出した。背後から真ん中の男の子が「じゃあな」と叫ぶ声が聞こえた。しばらく行ってから振り返ると、もう彼らの姿はなかった。

 次の日の放課後、わたしはテニスの練習を少しだけサボることにした。昨日の出来事が気になったからだ。森田と話したり、麻倉を見たりできるのは嬉しいことだが、テニスそのものはあまり好きでなかった。技量は強くもなく弱くもなくといった程度だが、練習をしているときの、あのジリジリと時間を消耗している感覚が嫌いなのだ。そもそも、テニスを始めたのも両親が「行ってみたらどう?」と何度もしつこく言うからだ。実際に、本を読んだり、ゲームをしたりする時間を削ってやっているのだから、時間を「消耗する」という感覚が生まれるのだろう。そんなつまらないルーティンワークに時間を割くよりは、日常に刺激をもたらしてくれそうな方に行きたかったのだ。
 森田に用事で練習に遅れて行く旨を伝え、わたしは家に帰った。母と挨拶を交わし、テニスの練習に行く恰好に着替え、自転車に跨り、そのままあの公園の方へ向かった。
 再び入口の所に立つも、やはり低学年の子供の姿があるばかりだった。しかし、わたしがゆっくりと自転車を押して園内に入ったのとほぼ同時に「おーい」という声が公園の奥から聞こえてきた。声の主は昨日真ん中にいた少年なのだろうが、姿が見当たらず困惑していると、左前方から彼が駈け寄って来た。
「来たのか。待ってたぞ。こっちに来い」
 早口に彼はそう言うと、公園の奥、逆側の入口そばにあるベンチにわたしを案内した。わたしの立っていた位置からはちょうど遊具によって死角になっている場所だった。藤棚の屋根が設けられ、日蔭になっている。
 ベンチには残りの二人がいたが、携帯ゲーム機に夢中でこちらには気づいていないようだった。わたしを案内した男の子が駈けて行って肩を叩き、二人は顔を上げてわたしを認めた。
 先に口を開いたのは、昨日わたしが追いかけた万引き犯の男の子だった。
「久しぶり。俺のこと憶えてる?」
 と言って彼はニッと笑った。
「覚えてるよ。昨日の万引き犯だろ」
「そうじゃなくて、ほら、同じクラスの」
 そう言われて、わたしは気づいた。四月の中旬以来空席になっている机。四月の最初の一週間ほどだけ登校し、ぱったりと来なくなった桜沢祐一である。わたしとは一年生と二年生の時に同じクラスだった。当時は一緒に遊んだりしたこともあるが、様々な友人のうちの一人というくらいの付き合いだった。
「桜沢か」
 わたしが四月に受けた印象よりも少し背が高く、日に焼けている。体格が良いわけではないが、顔つきは精悍になったように思われた。
「お、覚えてるじゃん」
「こんなところで何やってるんだ?」
「なんにもやってない。ただ遊んでるだけ。一日中」
「昨日みたいなことをして?」
「そうだよ。そのこと、誰かにチクった?」
「いや、誰にも」
「それならよかった」
 と言って桜沢は再び笑顔を見せた。それだけ見ると、屈託のない、健全な少年らしい雰囲気だ。
「本当によかったな」
 皮肉めいた口調でわたしを案内した男の子が会話に割り込んできた。彼は藤棚の柱にだるそうに凭れかかっている。
「こいつ、かっこつけてるけど、昨日が初めてなんだぜ」
 とわたしの方を見ながら彼は桜沢を指差した。
「いや、ほんと、ユノのすごさが分かったよ」
 桜沢はちょっと悔しそうだ。ユノと呼ばれた男の子は、柱に凭れかかったまま、顔を桜沢の方へ向けて自慢げに言い放った。
「そうだろ。まぁ、数をこなせば祐一も上手くなるよ」
 ユノは万引き常習犯らしい。
「それで、弘光。いや、ヒロはなにしに来たんだ?」
こちらに向き直ったユノにわたしの渾名を呼ばれ、少し戸惑う。
「なにって、お前が来いって言ったんだろ」
 ユノの挑発的な態度に負けないようにわたしは語気を強める。
「そういえば、そうだったっけ。そうそう、わざわざ祐一を追いかけるのはどんなやつだろうと思ったんだった。ここではみんな渾名で呼び合うから、ヒロもそうしてくれよ。俺はユノで、そこに座ってるのがカズ。祐一は祐一。ヒロの渾名は祐一に教えてもらった」
 カズと呼ばれた、ゲームを再開していた大柄な男の子が「よろしくな」と顔を上げずに言った。いつのまにかわたしが仲間に入ることを決められていたらしい。祐一だけユウではないのも不思議だが、そんな些末なことをあえて訊きはしなかった。
「そんなこと言われたって、もう来るつもりはないから」
と言ってわたしは自転車のハンドルに手をかけた。初対面なのに馴れ馴れしい彼の態度が不快だった。
「まぁ、そう言うなよ。今日は朝から待ってたんだから」
「朝から? 学校は?」
「行ってない。学校、面白い?」
 そう言われると困る。わたしがしばらく答えに窮していると、ユノがにやけながらわたしの肩を正面から軽く叩いた。
「じゃあ、明日も待ってるよ。ヒロを待つのは明日までだからな」
「……わかった。じゃあな」
 わたしはなぜだかとても悔しく、恥ずかしい気持ちだった。面白くもない学校に我慢して通っているわたしが、敗者のようだったからだ。
 不快な気持ちを少しでも晴らすため、テニススクールに向け自転車を全力で漕いでみたものの、どうせ遅れると伝えていることを思い出し、途中にある本屋に寄った。
 やはり、その小説は一冊だけ入荷されていて、わたしはしばらく立ち読みを楽しんでから、二時間の練習に一時間遅れで参加した。
 
 翌日も、結局、わたしは学校に行った。
 しかし、登校中からずっと、昨日のことばかりを考えていた。いつも一緒に登校してくれる森田には生返事しかできず、悪い事をしたと思う。
 授業中も、給食の時間も、空いている桜沢の席を見てしまう。
 溌剌としていた昨日の桜沢の表情。テニスが得意な者がテニスをしているとき、歌が得意な者が歌っているとき、絵を描くのが得意な者が絵を描いているとき、そういう表情をする。わたしがそういう表情をするのは本を読んでいるときだけだろう。もっとも、その表情は他人にではなく、自分に向けたものだ。なにせ、自分以外はその表情を評価してくれはしない。授業中は教科書か黒板と向き合うべきだし、休み時間は外で遊ぶべきだし、放課後はスポーツとか吹奏楽の課外活動や友達と遊ぶのに使うべきだとされているから、一日に本を読むべき時間はない。読書が大切だというのは、何もしていないよりもましだというだけの話なのだ。
 とはいえ、特に授業中ほど暇な時間はない。普段なら読書でもしていないと時間の進みが遅すぎる。
 しかし、その日に限って、桜沢のものであるはずの机と椅子がわたしを妙に惹きつけた。誰もいないことが当たり前になっている席。特段、いじめがあったわけでもないのに彼が来ないのは、彼さえもそこにいないのが当然だと、自分自身で思っているからではないだろうかとわたしは感じた。彼には彼の居場所があるのに、ここに来る理由なんてないのだと。
この日はもともとテニスの練習がない日だったので、わたしは一目散に家へ戻り、母には友達の家に遊びに行くと伝えて、肩掛け鞄を前籠に入れて自転車に跨り例の公園へ向かった。学校の友達から家に来るよう誘れてもいたのだが、今日だけはと断らせてもらった。
 藤棚の下の日陰では既に三人がわたしを待っていた。ただ、昨日とは違い、三人分の自転車が置いてあった。全てママチャリで、籠にはそれぞれのリュックや鞄が入っていた。いかにも小学生用な自転車しか持たないわたしは、彼らの方がかなり大人なように感じられて羨ましかった。                                                             
わたしが到着すると、挨拶もそこそこにユノが移動する旨を伝えてきた。
「ヒロに紹介しなきゃいけない場所があるんだ。ちょっと遠いけど、ついて来いよ」
 促されるまま、わたしは彼らの後をついていった。百貨店とは逆方向に進む。わたしの家や、通う小学校の校区からはどんどんと離れていく。住宅街を出て、大きな国道を一つ渡り、再び住宅が立ち並ぶ場所へと入った。とはいえ、こちらは道が狭く、アパートなども多くて、一軒家でもあまり綺麗でないものが多かった。団地が立ち並ぶ区画を抜け、さらに狭い路地に入り、突き当りにある錆びついてボロボロになった二階建ての集合住宅の前でわたしたちは止まった。階段が家の外側についていて、いわゆる文化住宅というやつだった。ユノを先頭に、わたしたちは一階の真ん中にある扉の方へ向かった。部屋番号は一〇三で、表札に名字は書いていなかった。まさかこんなところに来ることになるとは思わず、わたしの胸は緊張で少し高鳴っていた。
 ユノがドアノブに手をかけ、おもむろに扉を手前に引いて開けた。金属が軋む音がして、あまりに小さな玄関と、奥に半開きの襖の隙間から畳敷きの部屋が見えた。
 三人は躊躇いなく部屋に入っていった。律儀にも玄関で靴を脱いでいる。わたしはやや戸惑ったものの、ここで恐れているそぶりを見せたくないという意地もあり、彼らに倣って畳の部屋へあがりこんだ。
 部屋に入るとすぐユノが「疲れた」と言って部屋の奥で横になった。寝転がりながら伸びをしたり肩を回したりしている。桜沢とカズもそれに続いて横になる。わたしはまだ緊張していてそこまで楽な姿勢になれず、とりあえず入口付近に腰を下ろして胡坐をかいた。
部屋の真ん中には四角いちゃぶ台があり、それを四人が囲うようにして寛いでいる。わたしから見て左側。カズの後ろに小さな台所があり、そこにだけ窓がある。閉じられた窓から夏の西日が射しこんで部屋全体を蒸している。部屋にちゃぶ台以外の家具はなく、他にあるものといえば、隅に結構な数の漫画が積まれているだけだった。
時計さえなかったので、スマートフォンで時間を確認しようとわたしがポケットの中に手を突っ込んだとき、
「うーっ」
と、うなり声をあげてユノが機敏な動きで起き上がった。寝転がってから三分も経っていないのではないだろうかとわたしは思った。
「よし、じゃあ、ちょっと行ってくるから」
 鋭気溢れる声で彼はそう言うと、カズを跨ぎ、わたしの横を通って玄関の方へ歩いて行った。玄関の扉が開く音と、桜沢とカズが「いってらっしゃーい」と力の抜けた声で言うのがほぼ同時だった。
 あらためて時間を確認すると、まだ四時半であった。カズが寝転んだ態勢のまま自分のリュックを手繰り寄せ、携帯ゲーム機を取り出して電源を入れた。遠目から画面を確認すると、わたしも持っている定番のソフトだった。次第に緊張が解けてきたわたしは、逆に尿意を催してきた。トイレの位置を訊くため、寝ている桜沢を揺すり起こす。
「祐一、起きろ。トイレはどこにあるんだ?」
「トイレかぁ。よし、案内する」
 そう言うと桜沢はだるそうに起き上がって部屋の外へと歩き出した。わたしも横に並んでついて行く。玄関を出ると、
「こっち」
 と言って彼は端にある一〇一号室の方を指差した。建物の角まで行くと、わたしにも「こっち」の意味が分かった。建物を囲むコンクリート塀と建物の側壁との間に一メートルほど隙間があり、土に雑草が生えている。その隙間を進むと裏手まで行けるようになっていた。
「もうここでしちゃってもいいし、よっぽど見られるのが嫌なら裏まで回れば絶対に誰にも見られない。虫は結構いるけど」
 桜沢の話し方はいつも通り飄々としていて、まるでそれが当然というような口ぶりだった。野外で小便をするのは幼稚園以来のことだったが、この状況と彼とを前にするとそれがとても未熟で、恥ずべき経験不足のように思われた。だから、わたしも、できるだけ自信たっぷりに、堂々と、
「じゃあ、ここでさせてもらうよ」
 と言って、二、三歩進んでからコンクリート塀を正面にして仁王立ちした。桜沢も横に立って同じ態勢をとる。
「横に立つなよ。何するつもりだ」
「俺もするんだよ。いいだろ、ついでだし」
 そう言って彼はそそくさと小便をし始めた。わたしもせざるを得ない。二人とも黙ったままだったが、不思議と気まずい感じはしなかった。
 ほぼ二人同時にチャックを上げ、やはり黙ったまま部屋に戻った。桜沢は再び同じ位置で横になった。カズは相変わらずゲームをしていて、部屋は先ほどよりさらに蒸し暑くなったように思えたが、その澱んだこの部屋の空気に、わたし自身が次第に馴染みつつあるような気がした。わたしは思い切って桜沢に自分から話しかけてみた。
「なぁ、祐一、あの小説、面白い?」
「めちゃくちゃ面白いよ。ヒロもやっぱりあれが好きなのか?」
「もちろん。でも、あそこでラートンが死ぬとは思わなかった。好きだったんだけどな」
「俺も好きだったよ。合理的で、冷徹な雰囲気だけど、実は面倒見がいいところとかな。不条理な死に方だったけど、最後に救いがあってよかった」
「祐一、それは言うなよ。最後まで読んでないんだから」
「え、そうなのか。ここにあるから貸そうか?」
 桜沢は壁際まで這って行って置いてある自分の鞄の中から最新刊を取り出した。外国のジュブナイル小説独特の、妖しい装丁が西日に輝いていた。
「それ、盗んだやつか?」
「そうそう。立ち読みのときより断然集中して読めた」
 彼が平然とそう言いながら差し出した本をわたしは受け取った。
 わたしはすぐに続きを読み始めた。しかし、文章を追いながらも、わたしは全く別のことに感動していた。わたしの心は、実は桜沢のような友人を欲していたのだと感じ始めていた。飄々としてぶっきらぼうで、そこまで口数が多くないけれど、読書家で本の感想を語り合える、そんな仲間が欲しかったのだ。
 わたしが本を読んでいるあいだ、桜沢は壁に凭れて部屋に積んであった漫画を読んでいた。わたしはこの空間、この時間が素晴らしいものに思えてきた。仲間が三人、同じ部屋に集まりながら、しかし、それぞれの世界に入っている。そこには暗黙の理解と紐帯があった。わたしとカズとに至っては、まだ碌に言葉を交わしたことさえなかったというのに。
 予想を裏切り、期待を裏切らない、面白いとしか言いようがない幕引き。わたしはその物語の余韻に浸っていた。次回作も待ち遠しい。一つの小説、一つの漫画、一つのゲームを終えたときの、この何とも言えない感覚がわたしは大好きだった。
 しかし、この時間はそう長く続かなかった。
「ただいまぁ」
 と叫びながらユノが帰ってきたのだ。彼は勢いよく障子を開け、わたしに笑顔を向けながら手招きした。わたしは渋々立ち上がり、ユノと共に再び外へ出た。
 玄関扉を開けると、そこには一台のママチャリが置いてあった。わたし以外の三人のものではない。新品のように綺麗で、有名メーカーの名前がアルファベットで記されていた。
「これ、誰の? 新品に見えるけど」
「今日からヒロのもの。俺からのプレゼントだよ。傷とか汚れがないのを探したんだ。乗ってみろよ」
 ユノに言われるがまま、恐る恐る乗ってみた。サドルが少し高い、文化住宅の前の道路を往復してみる。最初は少しふらついたが、すぐ慣れてきた。そのとき乗っていた自転車よりはるかに軽くて快適で、変速も三段ついていた。
「どう? いいやつだから、乗り心地いいと思うんだけど」
 一〇三号室前に帰ってきたわたしにユノが自信たっぷりに語る。それはその通りだ。しかし、疑問が多くあった。
「どこで手に入れたんだ?」
「もちろん、置いてあったのを盗ってきた」
「鍵は?」
「チェーンはしてなかったから、簡単だったよ」
 そういってユノはポケットから小さなマイナスドライバーを取り出した。
「いままでこれをずっと捜してたのか?」
「まぁ、それじゃなくてもいいんだけど、とにかくある程度いいやつをあげたかったから。それ、アルミフレームで、軽くて強くて錆びないやつなんだ」
「へぇ」
 わたしは自転車から降り、半ば感心しながらそのボディを眺めた。
「そんなに詳しいってことは、自転車好きなのか?」
「べつに、全然。でも、どうせタダならいいの欲しいから、店のカタログ読んでそれなりに高そうなやつだけ覚えたんだ。といっても所詮ママチャリだけどな」
 常にテンションが高くて口数も多く、かなり強引なユノのことはこのときまであまり好きでなかったけれど、この一件で、実はいいやつなんじゃないかと思えてきた。
「そうか、ありがとな」
「どうもどうも。じゃあ、部屋に戻るか」
 わたしたち二人が部屋に入ると、桜沢は漫画を閉じてユノに尋ねた。
「なにがあったんだ?」
「ヒロに自転車をあげた。プレゼント」
「いいことするじゃん」
 そっけなくそう言って、桜沢は再び漫画を開いた。ユノはカズの隣に寝転がってゲームの話をし始めたので、わたしは暇になってしまった。スマートフォンを取り出して時間を確認すると、五時四十二分であった。
「ユノ、俺はもうそろそろ帰るよ」
 わたしの家では六時という門限が設けられていた。門限を過ぎて怒られるだけならなんてことはないのだが、その晩はテレビも見れなければゲームもできなくなるのが厄介だ。かといって、放課後や長期休暇に友達と遊ばず、家にいるとそれはそれで怒る。むやみやたらな「健全」がモットーなのだ。
「もう帰るのか? というか、それ、ヒロも持ってるんだ」
 ユノが寝転んだままこちらを振り返り、驚いた顔つきで、わたしの顔ではなく手元を見てそう言った。
「うん。クラスの半分くらいは持ってるから、べつに特別なものじゃないよ」
「みんなが持ってることくらい知ってるよ。いいなぁ、俺は持ってないんだ。カズ、連絡先交換しとけよ」
 呼ばれたカズがゲームを中断してポケットから彼のスマートフォンを取り出した。わたしのとは違う、やや大きめのものだった。カズは起き上がってわたしの正面まで来た。彼の視線は画面に向いている。
「こっちのQRコード読み取れる?」
 少し野太い声で訊かれた、体格も合わさってけっこう迫力がある。
「ああ、大丈夫」
 わたしの声は少しぎこちなかったに違いない。ただ、アプリのアカウント名にも「カズ」を使っているのが少し可笑くて、印象に残った。
「じゃあ、これで」
 わたしが手を振って別れの言葉を告げると、三人それぞれの返事が来た。無口なカズが「またな」と言ってくれたのが少し嬉しかった。
 玄関の前に置いてあるママチャリで漕ぎだそうとして、すぐにやめて自宅から乗ってきた方に跨った。盗品のママチャリで自宅に帰るわけにはいかない。
自転車を漕ぎながら友達からの連絡を確認し、適当に返していると、「カズ」からメッセージが来た。「明日は朝から一〇三にいるから」とのことだった。明日、土曜日の午前はテニスの練習なのだが。
夜は適当に両親との会話をこなしたあと、ベッドに入ってゲームをしていた。この日の夕食での会話は「いつもの友達の家でみんなでゲームした」という完全捏造話だった。いつも不道徳な部分を削除しつつ両親の好きそうなエピソードや会話をつくって挿入するのだが、丸々全て真実でないのはこの日が初めてだった。友達の家庭環境や趣味を良くも悪くも誇張して伝えれば、勝手に解釈して楽しんでくれる。彼らは子供が様々な友人と付き合って、面白い話をもってこないとイライラしてしまう、そんな体質なのだ。面倒このうえない。
 
 土曜日の朝、わたしは七時ちょうどに起床した。テニスの練習に行くための、いつも通りの時間だ。わたしがリビングに入って二、三分後に母は起床してリビングに出てくる。母を起こすのはリビングの扉を開ける音なのか、わたしの足音なのか、それとも気配なのかはわからない。
 その日の朝食はこうだった。茶碗に大盛り一杯の御飯に焼き鮭が一尾にさらにインスタントの唐揚げが数個あってしかも卵焼きが四切れあったうえで昆布と納豆と梅干がテーブルに並べられる。席に着いてふとキッチンの方を見るとまだウインナーを茹でているのが見えた。一応、ほうれん草のおひたしが小さくついているのだけが救いだ。
 わたしは朝食をいつも非常にゆっくり、それこそ三十分以上かけて食べた。そうでもしないととても食べきれず、食べきれたとしても気持ち悪くてしばらく動けないからだ。
 それでもなお、わたしはいつもご飯をおかわりしていた。おかわりしないで席を立とうとすると、母が悪事を咎めるような目つきと口調で「今日はおかわりしないの?」だとか「何かあったの?」だとか「それだけなの?」だとかを執拗に訊いてくるのだ。感情が入っているぶん、壊れた機械よりもたちが悪い。これらに対する最悪の回答は「もうお腹いっぱいだから」で、これには「そんなわけないでしょ」「どうして?」という理不尽がとんでくる。この二つは母の口癖で、母が持つ独自の常識や世界観から外れるような他者の言動、心や脳の作用に対して用いられる。例えば、わたしが友達と殴り合いの喧嘩をしたとき、殴った理由を「イライラしたから」と言ったら、母は泣きじゃくりながら「そんなわけないでしょ」と唾をとばしながら言っていたし、「あ」と「お」の区別がつかず、しばしば間違えていたわたしに夜中じゅうひたすら「あ」と「お」を書かせる練習をしていた時なんか五分に一回は血相を変えて「どうして?」と叫んでいたし、最近では「拾」と「捨」をわたしが常に書き間違えることに対してそう言っていた。そして「そんなわけないでしょ」「どうして?」と言ったあと、哀れむような表情でわたしを見つめるのだ。あまりにその表情が滑稽なので、以前、こちらも努力して哀れみの表情をつくって見つめ返してみたら母は激怒した。そのとき以来、この二つの言葉に対しては必死に硬い表情をつくるよう努力している。
 胃と食道への刺激を最小限に抑える歩き方で食器を片づけ、洗面所へ向かう。このまま歯ブラシを口に突っ込むとそのまま盛大に吐いてしまうことになるので、その前になるべく音をたてないよう穏便に吐いておく。水の勢いを最大にして流し、歯ブラシを口に咥える。青白い顔をした少年が鏡に映るのを見て、手櫛で寝癖を少し直す。うがいを何度もして口の中をしっかり洗浄する。
 もし、このまま、いつものように、テニスウェアを着て、テニスバッグを背負って玄関を出ることができたならば、わたしはそのままテニスの練習に行っていただろう。しかし、母はこの朝に限って、靴を履こうとしているわたしにこう訊いてきたのだ。
「テニスには友達と一緒に行かないの?」
「うん」
「どうして?」
わたしはもうこらえきれなかった。わたしにはわたしの友情があり、孤独があるのだ。
確かに、森田はあまりはしゃぎまわるタイプではなく、だからこそ沈黙でも、淡々とした会話でも気まずさがない。ただ、放課後に遊んだことは一度もない。それくらいの距離感が心地よい関係もあるのだ。そしてなにより、一週間に一度、土曜の朝くらい、一人で自転車に乗って季節の風を感じ、道行く人々の表情や、少しずつ変わってゆく街の風景を味わいたいのだ。四六時中、人と喋りっぱなしでは、息苦しさに耐えられない。毎日テーマパークに行っていたら飽きるのと同様、たまには静かな朝が必要なのだ。
そんなことを口で説明しても母は「そんなわけないでしょ」と言うだろう。
だから、普段ならば、「今度誘ってみるよ」などと言って適当に誤魔化していた。森田以外に誘う当てもなければ、この朝の一人の時間を明け渡す気もないのだけれど。
しかし、この日は、画面に表示された「明日は朝から一〇三にいるから」という文章が脳裏に浮かんだ。これがわたしを勇気づけたのだ。
 わたしは「忘れもの」とわざとぶっきらぼうに言って早足に部屋へ戻り、携帯ゲーム機とそのソフトを引き出しから取り出してバッグに放り込んだ。そして「いってきます」をいつもと同じ口調で言い、自転車に跨って一〇三号室を目指した。
 自転車を走らせているあいだ、体じゅうがじんと熱く、頬が火照っているのが触らずとも感じられた。陽射しによって外からもたらされる熱さではなかった。土曜の練習を完全にサボるのは初めてだったので、罪悪感と背徳感が身体を熱くさせたのだと思う。わたしは生ぬるい風を切って全速力で漕いでみた。遠くに入道雲がもくもくと湧きあがっている。家が、人が、すごい勢いで後ろへと去って行く。
 母は怒っているだろう。久々に「どうして?」に対して返事をしなかった。母が最も嫌うことは、こうやって自分が相手にしてもらえないことだ。
 わたしは一〇三号室の扉を開けた。部屋には桜沢だけがいて、右手に食べかけの菓子パンを持ち、左手で小説を開いていた。桜沢は私を認めると、小説を閉じて立ち上がった。
「ヒロじゃん。おはよう。待ってたよ」
「今日は祐一だけなのか? 昨日、カズから連絡があったんだが」
「あぁ、あれはカズの携帯を使って俺が送ったんだよ。ユノとカズは別の友達と朝飯食ってる」
「ふぅん。じゃあ、帰ってくるまで待つか」
「いや、俺はこれから出かける」
「どこに?」
「図書館。一緒に来る?」
 わたしが首肯するのを見て、桜沢は小説を肩掛け鞄に放り込み、菓子パンの残りを頬張った。わたしは部屋にテニスバッグを置いてから玄関を出て、ユノがくれたママチャリに跨った。桜沢は鞄を前籠に入れて自転車を発進させた。
 図書館に向かう道中、桜沢に並走しながら、わたしはユノとカズの素性について訊いてみた。桜沢によると、彼らは隣の校区の小学校の同級生で、週に一、二度は学校に行っているらしい。土日の朝はいつもファーストフード店で朝食を摂りながら向こうの学校の友人とゲームをしているとのこと。彼らの親はこの状態を黙認していて、お小遣いもそれなりに貰っているらしい。
 てっきり近くの図書館に行くものかと思っていたが、三十分ほど漕いだあと、着いたのは四階建ての中央図書館だった。かなり新しい建物で、白を基調とした、総合病院のような外観をしていた。
「本返すから、ちょっと待ってて」
 館内に入ると、桜沢はそう言い残して返却用のカウンターに向かった。自転車で走ったからか、あるいは、図書館が好きなのか、彼の声はいつもより軽やかに思える。リュックから四、五冊のハードカバーを出して職員の人に手渡す彼をわたしは後ろから見ていた。クーラーが効いていて、快適な涼しさが少し汗ばんだわたしの服や肌を冷やしていくのが分かる。
「じゃあ、行こうか。一階は資料か展示ばっかりで、メインは二階より上なんだ」
 わたしのところへ戻ってきた彼はそう言ってわたしを二階に案内した。Tシャツに半ズボンの万引き少年は図書館の雰囲気に全く似つかわしくなく、足音を響かせて軽快に階段を上る彼の後姿は、何かを企む悪童のそれだった。
「誘った手前悪いけど、普通の図書館だし、特に面白いこともないから暇つぶししといて」
「祐一はいつも何してるんだ?」
「新聞を読んでから本を選んで、それを借りて帰る」
 そう言いながら彼はラックから新聞を一紙とって近くのソファに座った。意外な行動に少し驚いたが、わたしもこのままでは手持無沙汰なので適当に一紙選んで桜沢の隣に座った。横目で桜沢の方を見ると、彼は真剣な表情で記事を読んでいた。
 わたしも一面から一つ一つ記事を読んでいくことにした。活字を読むのは好きだが、ニュースにはこれまであまり関心がなかったために、新聞をちゃんと読むのは初めてだった。
 このとき世間を騒がしていたのは、国内だと統一地方選挙と、隣県で起きている子供を狙った連続誘拐事件、国外だと中東情勢だった。わたしの読むスピードが遅いのか、桜沢はわたしがまだ全体の半分しか読んでいない段階で彼の新聞を閉じて立ち上がった。ラックに戻して、わたしのことを気にかける様子もなく、彼は本棚が立ち並ぶ方へと去って行った。見た目は悪童だが、やることは老人のようだ。
 わたしは新聞を読み進めた。事件の概要や背景、ちょっとした論説。どれもなかなか面白かった。論説の中に「事実は小説よりも奇なり」という言葉が引用されていたが、まさにそうだと感じた。
 わたしがちょうどテレビ欄に到達した時に桜沢はわたしの肩を叩いた。
「そろそろ出たいんだが、まだ読むのか?」
「いや、大丈夫。ちょうど読み終わった」
 わたしは先ほど桜沢がやったように新聞を閉じ、ラックに戻した。わたしと桜沢は、今度は横に並んで階段を下り、玄関を出た。駐輪場で自転車を出そうとする桜沢にわたしは訊いた。
「これからどこにいくんだ?」
「戻るよ。家に。一〇三号室の方のな」
「昼飯は?」
 スマートフォンで時間を確認すると、もう正午前だった。
「家で食べる。持ってきてないのか?」
「いや、大丈夫。テニスの練習に行くふりをしてきたから弁当がある。祐一は持ってるのか?」
「途中でコンビニにでも寄って買うよ。さっさと行こうぜ」
 桜沢は焦れた様子で自転車を漕ぎ出した。わたしは慌てて横に並ぶ。
「なぁ、お金持ってるのに何で万引きなんかしてたんだ?」
「面白いから、というか、ユノとカズの仲間に入れて欲しかったからかな」
「祐一は、最近この、よくわからん集まりに入ったのか?」
「そうだな。ユノとカズには俺が家出して山の麓にある小屋にいるときに見つかって誘われた。そこも俺が入る前から拠点の一つだったらしい」
「家出したのか?」
「おう。詳しくはあとで。ここのコンビニで買う」
 わたしたちは国道の交差点に面したコンビニに自転車を停め、わたしは桜沢が昼食を買うのを待った。汗が顎を伝い、Tシャツがべたつく。交差点をぼんやりと眺めていると、テニスウェアを着て、ラケットを背負った小学生の集団が正面から近づいてくるのが見えた。同級生かと思い店内に隠れようとコンビニの自動ドアに一歩寄ったが、接近してきた顔ぶれを見ると、全くの他人だった。テニスもテニススクールも好きではないが、サボっているのを見られるのは後ろめたい。
桜沢がパンと紙パックの紅茶を買ってきたのを見て、ふと思い浮かんだ疑問を尋ねてみた。
「冷たいもの買うなら一〇三号室の近くのコンビニの方がよかったんじゃないか? ぬるくなるぞ」
「不登校少年団はなるべく拠点の近くで買い物をしない。誰かに見つかって、学校に通報されたら困るからな。コンビニじゃないが、平日の昼間に近所の図書館に行ったら通報されて先生が来た。警察の少年課の人と一緒にね。通報自体は別に大したことじゃないんだが、拠点がばれたらそこに戻れなくなる」
「なるほど」
「他の話は部屋でしよう。自転車に乗って大声でする話じゃないけど、部屋でヒロにはしたい話だから」
 それから、わたしたちは一〇三号室まで黙って自転車を漕いだ。太陽は中天に昇り、入道雲の白が朝よりもずっと輝いていた。桜沢の横顔にも汗が滴っていて、彼は腕でそれを何回も拭った。
 一〇三号室に着いたのは十二時二十二分だった。時間を確認した時に、カズからの連絡にも気づいた。「俺とカズは一時ごろそっちに行く」ユノがカズのを借りて書いているようだ。
 わたしと桜沢は壁に凭れて、机を挟み向かい合って座った。窓を全開にしていても熱気が籠っている。わたしは胡坐をかいた足の上に弁当を置き、祐一は両足を開いてパンをちぎりながら食べている。
「家出の話、聞いてもいいか?」
「ああ、そうだな。家出と言ってもいきなり家を飛び出したわけじゃない」
「へぇ」
 そう言われて、この朝のわたしは「いきなり家を飛び出した」に近いのではないかと思った。
「理由を話すなら、まずなんで学校をサボろうと決断したのかを話さなくちゃいけない」
「それも興味ある。聞こう」
「六年生になってな、急に学校がつまらなくなったんだ」
「俺だって学校はたいていつまらんと思ってるよ。特に授業はね」
「授業は昔からつまらないよ」
「なら暇つぶしの方法はもう心得てるだろ。教科書に落書きしてもいいし、本を読んでもいいし、監視のぬるい授業ならゲームでもすればいい」
「そんなことは前からやってるし、学校に行かなくてもできることだ。簡単に言うと、人間関係かな」
「意外だな。祐一は上手くやれる方だと思うんだが。適当にそのへんを対処できてそうだし。それとも、そういうのが面倒になった?」
「別に俺はそんな上手い工夫はしてなかったよ。というかしてるのかヒロは」
「そんな工夫って程じゃない。そんなに好きじゃなくても流行りのゲームとかカードを買ったりしてるくらいだよ」
「それなんだよな。俺は別にそんなことが嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。けど、飽きたんだよな。この春休みに、突然」
「あんなに強かったのに?」
 低学年のときの話だが、ゲームでもカードでも桜沢は相当強かった。アニメのグッズなども一番多く持っていたし、運動神経も結構良かったから、陳腐な表現かもしれないが、クラスの中心的存在だった。
「時間と、金があったからな。いまでもあるけど」
「やっぱり金持ちなのか。何でも持ってたもんな。でも、時間があるっていうのはどういう意味?」
「俺の両親は共働きで、最近気づいたんだが、相当いいところに勤めてる。いつも帰りが遅くて、帰ってきてもすぐ寝るし、朝もかなり早い。メシもいつだって作り置きか、金が置いてあるかだよ。そもそも、両方とも家に帰ってこないことだって多い」
「しょうもない漫画でよくありそうな設定だな。愛情不足で云々とか言い出すのかよ」
「まぁ、愛情が不足してることは確かなんだろうが、その分、何でも買うための金と、両親に咎められずに何でもやれる時間が圧倒的に多い。ゲームが強かったり、進度が速いのも夜中までやってるからだし、実は、身体を鍛えてたりもしてた」
「そんなに体格よくは見えないけどな」
「小学生のうちに鍛えすぎると身長の伸びに影響があるらしい。ボディビルダーみたいな鍛え方よりも、インナーマッスルとか体幹とかいうのを鍛えるのがいいってさ。そういう本を読んで筋トレしてた。これ以外にも、小二からやってたオンラインゲームがあったんだが、それもやめた」
「なんで飽きたんだ?」
「昔は優越感を純粋に楽しめてたんだが、春休みのある日にさ、何でこんなに上手くいくんだろうって思って考えてみたんだよ。あの晩が人生で一番頭を使ったな。結局、結論はこうだ。誰よりも時間と金をかけてるから」
「スポーツはそうじゃないだろ?」
「嫌いなんだよ。スポーツも音楽も芸術も。昔は全部習い事に行かされてたけど、全部やめてやった。両親は不満だったみたいだけど。俺を叱る時間がないからな」
 桜沢はストローに口をつけ、紙パックから紅茶を吸い込んだ。音をたてて飲みきると、目を細めてげっぷをした。わたしは暑さに少しぼんやりしてきた。
「本題に戻るけど、どうして学校に行かなくなったんだ?」
「ここまでの話をちゃんと聞いててくれたならわかるはず」
「わからねぇよ」
 わたしは伸びをして、天井を見上げた。蛍光灯さえついていない、平らな天井。ところどころに黄ばみがあり、隅には少し黴が生えている。
「人間関係だよ。同級生が関心あることに、俺はちっとも関心がない。俺と話してもつまらないし、俺も話しててつまらない」
「俺だってある程度そうだよ。昔からそうだし、六年生になってかなり周りの嗜好も変わって来てるのは分かるが、それは読んでる雑誌とか、見てる漫画やアニメが子供向けじゃなくなっただけだ。俺は小説と伝記を愛する伝統的な正統派内向的少年で、みんなが話題にすることにはいつまでたっても相いれない。俺は先生に一番好かれてもいいはずの模範小学生なんだよ。本当はね。授業を受ける態度で明らかに嫌われてるけど」
「昔からそんなんだと教室で上手くやれるのかもな。俺はそのとき自分が話したいことだけを話してたら何とかなってたから、誰も俺の話したいことを聞いてくれないのに戸惑ったのかもしれない」
「いまは何の話をしたいんだ?」
「もちろん、本と新聞。本は小説だけじゃなく科学系のも借りてきて読んでるんだ」
 桜沢は壁から背中を離し、隣にあるリュックの中身を漁り始めた。わたしは桜沢にこういうかたちで会えてよかったと思った。こんな会話をできるやつに会ったのは初めてだったし、この状況でなければこんな話は聞けなかっただろう。
「悪いけど。いまは本の話はいいよ。学校に行かなくなった理由もわかったし、そろそろ家出の話だろ」
「ああ、そうだった。ごめんな」
 桜沢はリュックから手を引いて、再び壁に凭れた。
「学校が面倒になって家で本ばっかり読んでたんだが、先生が訪問してくるようになってな。話すのが面倒だったから外に行くことにしたんだ。でも、平日の午前中にいれるところが少なくて。中央図書館の存在にもそのときはまだ気づいてなかったから。それで、山の麓まで自転車で行ったときに見つけたボロい小屋で過ごしてたらユノとカズに見つかったってわけだ。それ以来、平日はここにいて、まだ見つかってない。先生も諦めたのか、もう家には来てないようだけど、俺はここが気に入ってるからここにいる。最近は暑すぎてクーラーが恋しいけど」
「俺も結構気に入ってるよ」
「ついでに言うと万引きはユノがやれって言うからな。やってみたら、背筋は寒いのに、顔は火照って、心臓の鼓動が耳のそばで聞こえる感じだった。スリルはあったよ。でも根本的に度胸がないからもうやりたくはない」
「次から新刊はどうするんだ?」
「図書館に入るのを気長に待つよ」
 偶然にも、ここで二人同時に小さなため息をついた。わたしは喉の渇きを覚え、腰を上げた。
「飲み物買ってくる。近くに自販機ある?」
「すぐ近くにはない。一番近くて、国道渡ってすぐのところにあるやつだな。そういえば、ユノとカズから連絡はないのか。いつもならそろそろ来るはずだと思うんだけど」
「図書館から帰ってる時に『一時に帰って来る』って連絡があった」
「だったら二時ごろに来るな」
「行ってもいいか?」
「おう」
 わたしはママチャリに乗り、曲がりくねった住宅街の道を国道に向けてゆっくり走った。百貨店近くの住宅街とは違い、昼でも活気がなく、道中すれ違ったのは手押し車を押して歩く一人の老婆だけだった。
 国道を渡るために信号待ちをしていると、テニスウェアを着た女子の集団が左から歩いてくるのが見えた。今度こそわたしと同じテニススクールに通う同級生だった。四人で横並びに歩く女子の右から二番目に麻倉の姿を認めた。彼女がここを通ることをはじめて知った。
一瞬、どう隠れようかと案じたものの、ちょうど信号が青になったので、わたしは急いで国道を渡り、反対側の歩道から彼女を見つめた。行き交う車の隙間に彼女の姿は隠れたり現れたりして、その一つ一つの表情と動作を心に焼きつけようとわたしは努力した。笑顔になったり、驚いたり、テニスウェアの首元をつまんで扇ぎ、風を中に送り込もうとしたり。何かの説明のためか、遠くを指差したりと、様々な表情や動作を楽しむことができた。
 缶ジュースを買って部屋に戻ると、桜沢は壁に凭れ、集中した面持ちでハードカバーを読んでいた。タイトルから児童向けの宇宙科学の本であることが分かる。
 わたしは黙って腰を下ろしてジュースを飲んだ。冷たい液体が喉を通って胃に流れていくのが感じられる。喉がかなり渇いていたことと部屋の暑さで、やたらに甘く感じられた。
「ヒロ、これ解るか?」
 突然、桜沢がテーブルに身を乗り出し、開いたままの本をわたしに差し出した。開かれたページの桜沢が指差す部分には、星の動きに関する数式が文章による解説ともに載っていた。わたしは解説を一読し、そのxとyを使った少し応用的な計算が意図するところを悟った。わたしはバッグからシャープペンシルを取り出し、本の余白を使いながら、桜沢に本のものよりやや詳しめに解説してみた。桜沢はわたしの操るペンの先を見ながら何度も頷いたあと、わたしの顔を見て「ありがと」とだけ言ってまた本を読む態勢になった。わたしもペンを机上に放り出して壁に凭れ、ジュースの僅かな残りを飲みほした。
 しばらくゆっくりしていると、玄関扉が勢いよく開け放たれ、ユノとカズが入って来た。時間を確認すると、一時四十五分。
「祐一、ヒロ、そんなところで暑いだろ?」
 玄関からわたしたちの姿を認めた後の、ユノの第一声がこれだった。桜沢が何も答えなかったので、わたしがユノと喋ることになった。
「おう、暑いよ」
「じゃあ、涼みにいこう」
「どこに?」
「百貨店」
「わかった」
 郷に入れば郷に従え。とりあえずユノの言う通りにするのがこの集団ではいいだろうし、面白いことが起こるだろう。わたしはテニスバッグを持ち上げてその重量を感じ、いったん降ろしてラケットだけを取り出して床に置き、再び持ち上げて背負った。桜沢もわたしの動きに呼応して本を閉じ、鞄を肩にかけた。
 
 百貨店に着くと、わたしたちはユノを先頭に最上階までエスカレーターで上った。道中、桜沢が私に囁いた。「ユノはここでよく万引きしてるんだけど、よく堂々と来れるよ」
 最上階は本屋と飲食店が入るフロアで、わたしたちは中華料理店の前に設置されている椅子に並んで座った。本来は客が待ち時間に座るために用意されているものである。
 ユノとカズが鞄から例のゲームを取り出したので、わたしもテニスバッグから同じものを取り出して二人に見せた。ユノは途端に興奮して、迷惑を顧みない大声で言う。
「持ってるじゃん。対戦だな。祐一も出せよ」
 桜沢は渋々といった表情で開いたばかりの本を鞄にしまい、ゲームを取り出した。桜沢が苦笑してわたしの方を見てきた。わたしは顔の前で手を合わせて謝る動作をしつつも、心の中では少し呆れていた。結局、桜沢はここでも嫌々ゲームをしているのだ、仲間に入るために。
 ゲームは強い順にユノ、桜沢、カズ、わたしだった。それでも実力はかなりの僅差で、勝敗は使うキャラクターの相性や運次第だった。手に汗握る熱戦が続いた。
 ゲームをしているあいだ、学校に行かないことを親や教師から咎められないのかとユノとカズに訊いた。「学校、面白い?」と言われて以来、本当は学校に行かない理由を聞きたかったのだが、いきなりその質問をするのは躊躇われた。
 しかし、二人の返答はそこも含んだものだった。いわく、ユノは母子家庭で、母親は常に働きに出ているためユノが何をしていようが関心はないらしい。教師もそんな親やユノとの交渉は諦めているのだろう。カズは、兄が高校を中退して働き、姉も妊娠をきっかけに中退しているため自分もそうなるだろうと言っている。両親については、「いい大人なのにジャージにスウェットでショッピングセンターに出かける人たちだよ」だそうだ。カズはぼそぼそとしか話さないけれど、そういう隠喩めいた言い方をするところに少し親しみを感じた。
 けれども、なによりわたしが感じたのは憧れであった。第一に、学校に行かない理由が極めて妥当だ。ユノ、カズ、桜沢、この三人の家庭事情を聞けば、なぜか、なんとなく納得してしまうに違いない。彼らはその事情ゆえにどこか被害者のような側面を持っていて、誰だって少し同情したくなるだろう。第二に、親の態度だ。金と時間はくれる、でも、何も干渉してきたりはしない。なんと素晴らしいのだろうと、この時のわたしは思っていた。もしこんな条件が揃っていれば、世間や社会に対する悪態も、彼らのように躊躇わないでよいに違いない。しかし、わたしは面倒を避けるため、両親と小賢しい闘争を繰り広げる小悪党に過ぎないのだ。わたしはわたし自身がとても小さなものに感じられた。親や友人を強く信じるがゆえに日々を楽天的に過ごせる者たち、クラスメイトの多数や、森田、麻倉もそうだろう。そしてまた、周囲から関心を払われないがゆえに、日々を楽天的に生きる者たち、ユノやカズ、そして桜沢もそうだ。なぜ、わたしはそのどちらにも自分自身で分類できないのだろうか。
 何十回目かの対戦を終えたとき、カズが、
「腹減ったな」
 と呟いた。ユノは「確かにな」と神妙な表情で答えたあと、数秒考えこみ。立ち上がって振り返り、三人の正面に立ってこう言った。
「よし、ヒロがいるはじめての晩飯だし、ちょっと早いけどあそこに行くか」
 カズは「久しぶりだ」と笑顔で言い、桜沢はしかめっ面で軽く頷いた。わたしは桜沢を肘で小突いて訊いた、
「また万引きでもするのか?」
「いや、でも違法なことは間違いない。ユノはある意味いいやつだよ。俺のときもこうやって色々してもらったり、見せてもらったりしたから。あいつなりの気配りと思って覚悟するんだな」
 わたしたちはトイレを借りてから百貨店を出た。気温は少し下がったが、朝と同じ生ぬるい風が頬をなでる。玄関のところで、ユノが思い出したように「ちょっと待ってて」と言って百貨店の中に戻っていったので、三人でユノを待つことになった。玄関前にある時計の針は午後五時を示していた。時計下の電光掲示板ではちょうど天気予報が終わり、ニュースが流れ始めた。トップニュースは死体の発見により連続誘拐事件が誘拐殺人事件になったということだった。次が外国の有名政治家の汚職問題。
「ごめん、待たせた」
 ユノが満面の笑みで帰って来た。桜沢がユノに訊く。
「何してたんだ?」
「これが必要だと思って」
 そう言ってユノが彼の肩掛け鞄から取り出したのは小さめの懐中電灯だった。桜沢が「盗ってきたな」と顔をしかめ、ユノは自慢げに「まぁね」と答え、カズがそれを見て微笑んだ。
「いったいどこに行くんだ?」
 わたしはユノに訊いた。ユノは懐中電灯をしまいながら答える。
「ついてくれば分かる」
 それから、わたしたちは自転車で走り続けた。ユノを先頭にカズ、桜沢、そしてわたしが続く。方向は一〇三号室とは逆側。
 あんまりにも長く走り続けるので、スマートフォンを出して時間を確認すると、五時四十五分だった。四十分ほど走っていることになる。わたしはユノに届くよう、精一杯の大声で叫んだ。
「まだ着かないのか」
「もうちょっとだ」
ユノの掠れた叫び声がわずかに聞こえた。こうなったら仕方がない。
わたしたちは国道沿いを走り、街はずれの方にまで来ていた。交通量が次第に少なくなり、家々の間隔が徐々に広くなり、田んぼや畑や野ざらしの空き地がポツポツと現れてきた。コンビニの駐車場がやたらに広い。正面に連なる山脈の際が、既にほんのりと橙色に染まっている。
 直進を続けていたユノはようやく左折し、路地へ入った。しばらく進んでから道の端、月極駐車場のコンクリート塀沿いに自転車を停める。時刻を確認すると六時五分、約一時間走り続けたことになる。
 全員が自転車を降り、自然と円になって集まった。ユノが来た道を指差して言う、
「さっき曲がったところにケーキ屋があっただろ。あそこのケーキとかシュークリームを貰う」
 夕陽の逆光で見づらいが、ユノの指差す先には確かにケーキ屋が見える。左折したときのことを思い出すと、店自体は小さいものの、国道との間に三台分ほどの駐車スペースがあった気がする。
「どうやって?」
 わたしが訊くと、ユノの代りに桜沢が答えた、
「廃棄物を狙うんだよ」
「やっていいのか、そんなこと」
「無断で持っていくのも確かにだめだろう。でも、俺らがやるのはヒロが想像してるような方法じゃない」
「じゃあ、どうするんだよ」
 今度はユノがにやりと笑って答える。
「見とけば分かるさ」
「というか、金あるのになんでわざわざ盗るんだよ」
「節約節約。金もそんなにあるわけじゃないし、こっちの方が面白いだろ?」
この清々しいまでの度胸がどこから湧いてくるのか。このときのわたしには、少し呆れながらも、ユノが何にも縛られない最も自由な人間に見えた。
突然、バイブ音とともにわたしのポケットの中のスマートフォンが震えだした。わたしは慌ててそれを引っ掴んだ。画面には母の名前が表示されている。わたしは「拒否」を選んで、そのまま電源を切った。ユノがわたしの隣に来て画面を覗きこみながら訊く。
「誰から?」
「親だよ」
「なんだ、面白くないな」
 親の話を掘り下げられるのはなんとなく恥ずかしいので、わたしはスマートフォンをポケットにしまって、話題転換のためにユノに訊く。
「で、いつやるんだ」
「まぁ、待てよ。もうちょっともうちょっと」
 言葉に従い、ユノの横でしばらく店を眺めていると、裏口からエプロン姿の若い女性が出てきた。遠くて表情はよくわからない。ゴミ袋を次々と放り出したあと、その横に背の低いダンボールを、わりと丁寧に二段積み重ねた。
すると、図ったように浮浪者のような男が角を曲がって裏口の近くまで歩いてきた。台車のようなものを押している。夏であるのに煤けたジャケットと汚れまみれでだぶだぶのズボンを穿いている。彼は従業員だと思われる女性にしきりに頭を下げながらダンボールを二つとも持ち上げた。
それを見て女性は店の中に戻っていった。男性はダンボールを台車に積んでゆっくりこちらに向かってくる。
ここでわたしは合点がいった。
「なるほどな、ああやって貰うわけか。無料なら得だな」
桜沢がにやにやしながら首を振って指摘する。
「でも、あの人がもう二箱とも持ってる」
「店の人に頼むとか?」
「だから、ヒロの頭と心で思いつくようなやり方じゃないんだよ」
桜沢の皮肉めいた言い方にわたしは自分が侮辱されたと感じた。わたしが抗議の意を示すために黙って桜沢から顔をそむけたとき、ユノがわたしの肩を叩いて、
「駐車場の中に入るぞ」
と耳元で囁いた。その言葉に従い。カズを除いて、わたしたちは自転車を押して駐車場の中に入り、それぞれの自転車のサドルを踏み台にしてコンクリート塀越しに路地を見られる体勢をとった。カズは先ほどまでと同じように塀に凭れている。そして、まさに男性が目の前を通り過ぎようとするとき、彼は男性の方へにじり寄り、何やら話しかけ始めた。カズの体格が小学生にしてはかなり大きいにしても、男性の本来の身長には敵わないだろう。しかし、台車を押すために腰を曲げ、お世辞にも綺麗とは言えない服を着ているその男性の、うっすら髭の生えた不健康そうな横顔に比べれば、カズには威圧感とさえ呼べるものがあった。ここまでくれば、わたしにも、わたしたちが何をしようとしているのかが理解できた。わたしたちはこの男性からあのダンボールを奪い取るというわけだ。
わたしたちのいる場所からはかろうじてカズと男性の声を聞くことができたものの、話の具体的な内容までは分からなかった。ただ、ヒロが話す度に男性は俯きがちになっていき、ついにはカズが上のダンボールを台車から持ち出しても身動き一つしなかった。カズにもさすがに情はあったのか下段のダンボールには手を出さず、男性はそのまま、先ほどと同じペースで台車を押して去って行った。
男性の姿が見えなくなるやいなや、ユノが真っ先に駈けつけてカズの肩を叩き、しきりにカズのことを褒めている。わたしも「すごいな」と声をかけ、カズは「そうだろ」と自慢げに答えてくれたが、わたしの心は晴れやかでなかった。ダンボール箱の中身を検分し始めたユノとカズを尻目に、桜沢がわたしに向けて言った言葉が印象に残っている。
「ここにいると、これに慣れてくるんだ。もう胸にわかだまりがあるどころか、ヒロが戦果を挙げた時には、贔屓のスポーツチームが勝った時の気分だ。好きなチームなんてないけどね」
 わたしも自分が慣れてくるのが怖かった。さきほどだってカズを止めなかったし、空腹のせいか箱の中身も気になる。日々を上手く生きるための小さな嘘や、万引き程度ではないのだ。でも、狩猟現場を目の前にして少し興奮したのも確かだ。
 わたし、ユノ、桜沢の三人はいったん駐車場に戻り、自転車をとってきた。カズはリュックから青色のビニール紐を取り出し、慣れた手つきで自転車の荷台にダンボールを括りつけた。  
ユノの「行くぞ」という号令でわたしたちは国道に戻り、わたしたちの住む方と逆側に再び走り出した。わたしはユノと並走するよう自転車を寄せ、大声でユノに話しかけた。
「どこに行くんだ?」
「これを食べる場所にだよ。山の方に小屋があるんだ」
「祐一と最初に会った場所か?」
「そういえばそうだったな」
「……さっき、あんなことまでしなくても店の人に頼んで余ってるのを貰えばよかったんじゃないか?」
「やってみたよ。でも、あれはホームレスの人のために特別にやってることで、ほんとは捨てるやつを誰かにあげちゃいけないんだってさ」
 わたしは黙ってユノの隣から離れ、集団の最後尾につけた。わたしの前を走る桜沢がおもむろに振り返ってわたしに叫んだ。
「あれ以外の廃棄品は全部あのゴミ袋の中にぐちゃぐちゃになって入ってるんだってさ」
「もうわかったから、もういい」
 わたしがそう叫び返すのを聞いて、桜沢は前を向いた。それ以降、わたしたちは黙って自転車を走らせた。いちめん橙に染まった空に、きれぎれの雲が赤紫色の影をつくっていた。太陽は山脈の裏へ沈み、山際の光がますます強くなっていた。道路沿いの建物はさらに少なくなり、道路や歩道そのものも狭くなってきていた。
 ほどなくして、夕陽よりも夕闇が適した呼び方になるころ、ユノが「止まれ」と振り向きざまに叫び、わたしたちは急停止した。ユノは慌てた様子で自転車を降り、身をかがめてわたしたちを手招きした。わたしたちも自転車を降り、身をかがめた状態で歩いてユノの傍に寄った。わたしはユノの背中のすぐ右後ろにいて、わたしの右がカズ、左が桜沢だった。
ユノとカズ、そして桜沢は目配せをしあっていて、既に何らかの異常な状況を把握しているようだった。わたしはユノにできるだけ近づいて囁いた。
「何か起こったのか?」
ユノはわたしのほうに向かず、前方を指差して言う。
「白い車が見えるか?」
 わたしはユノの指が示す方へ視線をやった。道路が山へと入っていく手前、背の高い草の茂みに生えた木と木の間にぼんやり白いものが見える。よく目をこらすと、それは車体の一部であり、後部ドアのあたりだった。わたしが小さく頷くと、ユノは続けた。
「あそこに俺たちがたまに使ってる小屋があるんだが、車が停まってて、誰かが来てる。とりあえず様子を見よう」
 わたしたちは黙ったまま白い車を見続けた、額から、首筋から、腋から、汗が噴き出すのが感じられた。自転車を長時間漕いできたためでもあり、緊張のためでもあった。わたしは目に入りそうなった汗を手の甲で拭った。
 体感では十分くらいに感じられたが、実際には一分と経っていなかっただろう。木と木の間に、夏なのにジャンパーを着た男が現れ、ドアを開け、俯き加減の、髪の長い少女が車中に入っていった。両腕を後ろで組んでいるように見えるが、車に入るときも一切手を使わないのは不自然だった。何かで縛られているに違いない。男はドアを閉めると、わたしの視界から消え、数秒後、車のエンジンがかかる音が聞こえ、山中に消えて行った。
車を見送った直後、ユノがそのままの態勢で呟いた。
「これはヤバいな」
カズはユノの方へ向き、いつもと変わらない、低くて落ち着いた語調で訊いた。
「ユノ、どうすればいいと思う?」
「待った。考えてる」
端から見れば、自転車を置いたまま歩道に黙って座り込む奇妙で不審な集団だっただろう。だが、不思議な雰囲気がわたしたちを支配していた。少なくとも、わたしはそう感じていた。わたしは、ユノが高級なママチャリをわたしの前で見せた瞬間や、ホームレスの男からカズがダンボールを奪い取った瞬間の、あの興奮を思い出していた。ユノが、このような状況で、何を言い、何をしようとするのか、知りたかったのだ。
十秒ほどの沈黙のあと、ユノは立ち上がり、わたしたちの方へ振り返って叫んだ。いつものよく通る声で、文字通り、目を輝かせながら。
「追いかけよう。小屋でだらだらしてる場合じゃない」
 わたしが心の中で快哉を叫んだ直後、桜沢がゆっくりと立ち上がって、しかめっ面でユノに言った。
「相手は車だぞ。どうやって追いつくんだ」
「山の中に人を閉じ込めるのにいい場所があるんだ。絶対そこに行くはずだ」
「『絶対』の根拠は? 逃げるつもりなら山を越えてN県まで行くつもりかもしれない」
 ユノは再び沈黙した。しかし、わたしの中には一つの推理があった。N県という名前、そして、ユノの言う「人を閉じ込めるのにいい場所」というのを合わせれば。確証はないが、一つの構図が思い浮かんだのだ。わたしも立ち上がった。
「祐一、この山を越えればすぐN県なのか?」
「おう、そうだけど」
「N県で起きてる連続誘拐事件知ってるよな?」
「もちろん。俺もそれの犯人かもしれないと思ってる」
「あれ、今日の昼に死体が見つかってるの知ってるか?」
「そうだったのか。それで?」
「あれが犯人だとして、もしくは別人でも、捜査が進んでるN県にわざわざ行くとは思えない。でも、もし山中にそんなにいい隠れ場があるなら、そこに行くと思わないか?」
「そう……かもしれないけど。普通にN県の向こう側に逃げたいのかもしれないし」
「それでも、行ってみる価値もないと思う?」
 桜沢はなお顔をしかめたままで、ユノは満面の笑みを浮かべている。カズも立ち上がり、にやにやしながら桜沢を見ている。確実ではないし、いま思えば理屈も無理矢理だ。しかし、口実としては十分だったのだ。少なくとも、ユノとカズが行動を始めるのには。案の定、ユノが桜沢を軽く小突いて言った。
「なぁ、祐一、行こうぜ」
 桜沢は諦めを表すために苦笑し、無言で自転車に跨った。それを見て、ユノとカズ、そしてわたしもそれに続いた。
 わたしは山頂を正面に見据えた。県境になってはいるものの、客観的に見れば、低い山である。けれども、その日、目前に見据えたその姿は、少年のわたしに威容を誇っていた。空はすっかり暗くなり、山肌は黒い森に覆われていた。

 わたしたちは上り続けた。舗装されている道ではあるが、ここまで延々と上り坂が続く道を自転車で走ったことはなかった。しかし、そんな山道の勾配に悪戦苦闘し、これまでの蓄積疲労が重なって限界を感じながらも、わたしたちは無言で自転車を漕ぎ続けた、そこには、この頃のわたしたち特有の意地があり、どんな理由があっても、自分だけが進むのをやめるわけにはいかなかったのだ。
 街灯はごく稀にしかなかったが、一本道なので迷うことはない。自動車とすれ違うことさえもなく、光といえば星や月の光であり、音といえば虫の音や風で森がわさわさと揺れる音であった。心なしか、街にいるときよりも、星が明るく、風の音が耳元で感じられた。
「ここだ」
ユノが振り返ってそう叫び、わたしたちは久しぶりにブレーキを使った。そこは一時的に勾配が緩くなっているところで、数メートル先に街灯があり、比較的、視界が確保できる場所だった。
「あの街灯のところから下りる」
 状況からして、ユノの言葉の意味は理解できなかったが、問い質すだけの体力がわたしにはなかった。自転車をおりると身体がじんじん熱くて、足は自分のものでないような感覚がした。漫画やアニメでよく見る、鉄球つきの鎖で縛られたらきっとこんな感じなんだろうなと思われるくらい足が重く、ふらついた。
 わたしたちはなお沈黙したまま街灯の下へと歩いて行った。街灯に照らされた三つの顔はどれも一様に紅潮していて、わたしも自分の頬に手を当ててみると、テニスの試合をした直後のように熱かった。風は生ぬるく、シャツは汗でべとべとになっていた。
 わたしは疲労困憊だったが、ユノとカズはそうでもない様子で、全く疲れていないよと言わんばかりの不敵な微笑を浮かべていた。カズに至っては、それがさも当然というようにダンボール箱を荷台から降ろし、小脇に抱えている。持っていくつもりなのだ。桜沢は本当に疲れた人間が見せる類の無表情で森を見ていた。おそらく、わたしもこんな表情をしていたのだと思う。
 ユノは白いガードレールに両手をつき、下方を確認すると、その態勢のまま横を向いて、早口に説明を始めた。
「このガードレールを越えてすぐに坂があって、そこを下りるとしばらく平坦な道がある。その道を進むとゴミ捨て場があるんだ。多分、違法の。そこにいい隠れ場所がある。車だと山頂を越えてあっち側から回らなきゃ入れないけど、歩きならここから行ける。まぁ、ついてくれば分かる」
 言い終わるや否や、ユノはガードレールを跨いで乗り越えた。カズ、桜沢もそれに続く。わたしは少し躊躇ったが、後戻りする選択肢もないと思い、彼らに続いた。柔らかな土の感触を靴越しに感じる。ユノが一歩踏み出し、「ここを下りる」と言って下を指差した。指の角度は四十五度と直角のちょうど間くらいで、わたしも一歩踏み出し下を覗きこんでみると、なるほど、それは坂ではなくほぼ崖であった。街灯のおかげでほんのり崖下の地面は見えており、崖の高さはおおよそ五メートルくらいに感じられた。
 わたしが恐怖に身を竦ませているのを尻目に、ユノはさっそく崖を下り始めた。崖の斜面に身体の正面を張り付けるようにして、木の根や突き出た石や金属製のパイプのような何かに手足を引っかけながら器用に下りていく。カズもユノのすぐあとに続いた。大きい図体からは想像できない巧みな身体捌きで、片腕に抱えているダンボール箱を平行に保ったまま下りるという曲芸を彼は見せた。桜沢は二人の半分ほどのペースで、両手両足を慎重に動かしながらゆっくりと下りていった。わたしはさらにその後から、三人の通った場所をなるべくなぞるようにして下りた。どんなテストや試合よりも緊張して、身体は強張り、さっきまでやたら遠くで鳴いていた虫の音が耳元で響いているように感じられた。
わたしが地面に着地するのを見届けると、ユノは休むそぶりも見せず、盗品の懐中電灯をポケットから取り出し、さらに森の奥へと歩き出した。慣れているのか、広葉樹に覆われた暗闇でほとんど視界がないにも関わらず、ユノを先頭に一列に並んで進むと、木がわたしたちを避けるように左右を過ぎ去っていき、何かに躓くこともなかった。
 どれくらい進んだのかもわからない。突然、ふと森が途切れ、目の前に鉱物の採掘現場のような大穴が現れた。斜面は砂で覆われ、月明かりに穴底の産業廃棄物が照らし出されている。それは夥しい数が積み上げられていて、テレビから冷蔵庫からタイヤから黄色いコードが複雑に絡まった見たこともない機械まで、雑然と放置されていた。
 ユノが「こっち」と行って歩き出すのにわたしたちはやはり無言でついていった。穴の内周に沿って坂道になっているところがあって、わたしたちはそこから穴底へと下りて行った。地面にはトラックのものと思われる轍があり、このゴミの山を築くのにはトラック何台分のゴミが必要なのだろうかとわたしはふと考えた。
坂を下りきると、見上げた産業廃棄物の山は先ほどよりさらに大きく見えて、沈黙する家電や機械の、その一つ一つがわたしを蔑んでいるような感じがして、少し悪寒が走った。
「ストップ。ちょっと作戦会議」
 ユノが振り返ってそう言い、両手で手招きしてわたしたちを集めた。わたしたちは小さな円をつくって顔を寄せ合った。誰かが盗み聞きをしているはずなどないのだけれど、こうやって話し合わなければいけない気がしたのだ。ユノがわたしたち一人一人に目を合わせたあと、小声で囁くように話し始める。
「半周先、ちょうどこの裏側に黒いワンボックスがある。もちろん、誰のものでもない、捨てられてるやつだ。俺とカズはそこで泊まったこともある。この穴の斜面とゴミの斜面とに挟まれてなかなか発見できない、隠れるのにも隠すのにもうってつけの場所だ。逆に言えばこのへんではあそこくらいしか寝泊まりできるところはない。俺はあの女の子も、犯人もそこにいると思う。だから、慎重に近づこう。それと、武器だな。犯人に見つかったときのために」
武器を携える、という発想にわたしの身体は強張った。だが、ユノは本気だ。彼は懐中電灯を桜沢に渡し、躊躇いなくゴミの山を登りはじめた。桜沢がユノの足元を照らす。足場が不安定で、ガラス片が散乱しているところがいくつもあったが、ユノはすいすいと登っていった。武器という観点では、折れ曲がったカーテンのレールや、骨だけになっている傘など、使えそうなものがそこかしこに見えた。その中でも、ユノが上から放り投げてきたのは四本の錆びた鉄パイプだった。わたしたちは地面に落ちたそれらをそれぞれ一本ずつ手に取ってみた。わたしたちの身長よりも少し大きいくらいの手ごろなサイズで、太さも適切。握るとすぐ手に馴染んだ。ゴミの山から下り、自分の鉄パイプを拾い上げたユノにわたしは訊いた。
「本当に闘うつもりなのか?」
「向こうが襲いかかってくるかもしれないだろ? お守りみたいなもんだよ」
 そう言いつつもユノの顔は早く闘いたいと言っていた。闘志が瞳を輝かせ、不敵な笑みを浮かべさせていた。危険だとは思ったが、ここでユノに逆らい、武器を手放せるほどの勇気はなかった。
「カズ、それは闘いの邪魔になるからここに置いていく。後で取りに来て食おう」
 カズは「おう」とだけ言ってダンボールを置き。それを見てユノは「行くぞ」と言って前を向いた。わたしたちは一列に並んで歩みを進めた。なるべくゴミの山に沿うように歩くことで身体を隠しながら進んだ。
「よし、あったぞ」
 先頭のユノがそう小声で言ったあと、数歩進むと、最後尾のわたしにもこちらに正面を向ける黒いワンボックスカーが見えてきた。まだ遠すぎて中の様子は分からない。
 さらに進むが、それでも誰かが中にいる気配はしない。わたしたちはついに車の正面まで来てしまった、ナンバープレートの前に全員でしゃがみこむ。ユノが黙ったままカズの肩を叩き、指で「行け」と指示する。カズは頷いて、窓より下に頭が来るよう低い姿勢を保ったまま後部ドアの方に消えて行った。数秒後、ドアを開ける音がして、カズの「わっ!」という声が聞こえたのと同時にわたしたちは立ち上がり、一気にカズの傍まで駈け寄った。後部座席の足元に麻倉智美が俯せになり、恐怖に目を見開いてこちらを見ていた。両手両足をガムテープで縛られている。麻倉は顔を引きつらせ、まるで声の出し方を忘れたとでもいうようにあんぐり口を開けている。乱れた長い髪が床に垂れている。ドラマでこういうシーンを見たことがあるなと、わたしはぼんやり考えた。
 最初に行動したのは桜沢だった。鞄を置き、鉄パイプを放り捨てて後部座席に入り、身体を屈めて麻倉の両手を縛るガムテープを力づくで引き剥がしはじめた。それを見て、ユノが反対側のドアを開けて乗り込み、足のガムテープを剥がしはじめた。ガムテープはかなり強く巻かれているようで、二人ともかなりの力を込めているようだが、なかなか取れない。手と足とを異なる方向に引っ張られ、彼女は小さく呻き声をあげた。わたしはどうしても身体が動かず、二人の作業をただ見ているだけだった。
 ようやくガムテープを解き終わり、くしゃくしゃに絡まったガムテープを桜沢とユノが手の中で丸めてゴミ山の中に放り投げた。麻倉の目にはうっすら涙が浮かんでいた。ユノはこちら側に戻ってきてわたしと肩を並べ、桜沢は麻倉の背中を軽く叩いて「座れよ」と言ってから車を降りた。麻倉は手足を震わせながら、生まれたての鹿のような挙動で身体を起こし、座席に深く腰掛けた。膝に手を置き、俯いたまま「ありがとう」と掠れた声で小さく呟いた。セーラー服のような襟がついたシャツも、膝丈のスカートも皺でくしゃくしゃになっていて、土埃で汚れていた。
「清水くん、だよね?」
 彼女はわたしの方を向いてそう語りかけてきた。わたしはどういう言葉で答えたらよいかわからず、「そうだよ」と無表情のまま淡々と返事をした。強張っていた彼女の表情が少しだけ柔らかくなった気がした。
「そっか、ありがと」
 麻倉は再び俯いた。そして彼女は泣き出した。嗚咽をあげながら、しきりに手で涙を拭った。わたしが清水弘光だということを確認して、ようやく助けられたことを現実として受け入れられたのかもしれない。鉄パイプを持った集団への警戒心が解かれたのかもしれない。わたしはうっ血した手首と足首を見ていたたまれない気持ちになった。麻倉は裸足だった。
「知り合いか?」
 ユノが訊いてきた。「まぁ、そうだな」とわたしは答えた。わたしは強く後悔した。本当はわたしが真っ先にガムテープを解くべきだったのだ。躊躇いなくガムテープを解いた桜沢とユノ、彼らのほうが、よほど感謝されなければならない。しかし、彼女はわたしを見て安心し、涙を見せている。わたしは桜沢とユノの勇気に対して後ろめたい気持ちになった。
 泣きじゃくる麻倉に誰も声をかけることができず、わたしたちはとりあえず鞄とリュックを一か所に固めて置き、車体に凭れかかって横並びに座った。わたしの住む場所からそう離れていないはずなのに、月が明るく、星の数がやたらに多い気がした。
「これからどうするんだ」
桜沢が言った。彼も夜空を見上げている。
「誘拐犯はいないし、あの女の子を連れて帰って終わりだろ」
 心底落胆した、という声色でユノが答えた。
「どうやって連れて帰るんだ?」
 桜沢のこの言葉に、ユノは黙ったまま足元の石を拾って遠くに放り投げる、という動作で答えた。いい方法は思いついていないようだ。しばらくの沈黙ののち、桜沢が自分の問いかけに自分で答えた。
「でも、そうか、二人乗りであの女の子を運べばいい。俺たちが順番に後ろに乗っけて行けば負担も少ないはず」
「仕方ないな。よし、それで帰ろう」
 ユノは桜沢の言葉を聞いてそう言い、よろよろと立ち上がった。桜沢もゆっくり立ち上がって伸びをしている。もう少し休憩したかったが、仕方がない。わたしも立ち上がって深呼吸をしたそのとき、カズが座ったまま、久しぶりに言葉を発した。
「犯人、戻ってくるのかなぁ」
 その言葉はユノの心の深い場所を捉えたようだった。ユノは「さすがカズだな」とカズを見下ろして言ったあと、眉をひそめる桜沢に向かって、
「あの女の子を置いておくはずがない。犯人が戻ってくる」
 と力強く言い放った。
「戻ってくるから、どうしたいんだ?」
 桜沢は既に諦めきった表情でそう問いかけた。
「もちろん、待って、やっつける」
「本当に戻って来るかも、いつ戻ってくるかもわからないじゃないか。二、三日ここに泊まるのか?」
「じゃあ、とりあえずあの女の子に訊いてみればいい。何か知ってるかも」
 ユノはそう言ってわたしを肘で小突き、「ヒロ、友達なんだろ、訊いて来い」と囁いた。いつのまにか知り合いから友達に昇格していて、悪い気分ではなかったが、「友達」という言葉が先ほどの自分の不甲斐なさを強く指摘しているようにも感じられ。内心、複雑な気持ちだった。  
後部座席を覗くと、麻倉はもう泣き止んでいて、右手で左手首をしきりにさすっていた。わたしは車中には入らず、外から話しかけた。
「麻倉さん、大丈夫?」
「うん、ほんとにありがと。これからどうするの?」
 麻倉はこちらを向いて微笑みながらそう言った。涙で潤んだ瞳に惹きつけられる。声も普段のものに戻っていて、少し上ずった甘い声に、もっと話してみたいと思わせられる。けれども、気の利いた話題で仲良く話をしている場合ではない。他の三人は車に凭れてわたしの方を向き、この会話を聞いている。わたしには選べる話題が一つしかないのだ。
「そのことなんだけどさ、麻倉さん。誘拐犯はここに戻って来るとか言ってた?」
「言ってた。わたしをここで、ガムテープで縛りながら、すぐ戻って来るって。だから、早く逃げないと」
 横目にユノがガッツポーズをするのが見えた。桜沢は心底嫌そうな顔をしている。カズは退屈そうにつま先で地面を引っ掻いている。わたしは麻倉に対して首を振り、誘拐犯と闘う旨を告げた。
「闘うって、どうやって? 相手はナイフも持ってるのに」
 ナイフという言葉に鳥肌が立ち、もう一度、今度は振り向いてにユノを確認したが、彼はわたしに親指を立てて、なお闘いの意志を示した。わたしは麻倉の方へ向きなおり、自分への励ましも含め、少し気取って言った。
「大丈夫、こっちは四人だし、武器もあるからなんとかなるよ」
「本当に?」
「大丈夫だって」
 彼女は伏し目がちな、心配そうな表情をしたけれど、それが却って、臆病な私の心を少し勇気づけた。
 ここで待ちきれなくなったのか、ユノがわたしの傍に寄って来た。
「ヒロ、とりあえず作戦会議だ」
わたしは首肯し、わたしたちはやはり円になって向かい合った。ユノが作戦を語り始める。
「よし、みんないいか。前も言ったように、この場所に来る方法は二つ。俺たちが通ってきたルートと、N県側から来るルートだ。犯人は車を使ってるだろうから、おそらく、N県側の、道の広いルートで戻ってくると思う。でも、絶対じゃないし、犯人だけが知る裏道があるかも知れない。でも、どちらのルートから来たにせよ、この車のあるところ、ゴミ山のところまで下りてくる道は一つだ」
 ユノが自信たっぷりに右手の人差し指を立てた。渋っていた桜沢も覚悟を決めたようで、軽く頷いて言う。
「なるほど、そこで待ち伏せをすれば四人で襲えるというわけか」
 しかし、ユノは首と指を横に振った。
「犯人はいつ帰ってくるかわからないんだ。そんなことしてちゃ体力がなくなる。いまだってかなり疲れてるはずだ。だから、二組に分かれて行動する。一組がこの車のところで休憩してるあいだ、もう一組がこのゴミ山に下りてくる坂のところで犯人が戻ってこないか監視する。犯人を見たら、待機組に連絡をとってここまで引き返して、四人で迎え撃つ」
「連絡手段はどうするんだ?」
ユノが休憩のことを考えてくれているのにわたしが安心している横で、桜沢はそう訊いた。
「スマホがある。カズのとヒロので二台。カズとヒロがペアになったら、どっちかを貸してもらえばいい」
わたしはポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。山中だが、アンテナは二本立っていた。母親からの不在着信が五件あったが無視した。
ユノの答えに桜沢も納得したようで、「わかった。じゃあ、ペアを決めよう」とユノに促した。
 ユノの発案で、じゃんけんに勝った二人が監視、負けた二人が待機ということになり、ユノとカズが勝ってわたしと桜沢が負けた。ユノがその場で三十分交代と決めた。
休憩組に入ることができてほっとしていると、カズが、
「あのダンボールどうしよ。お腹減ったし、ケーキ食べたいんだけどな」
 と言ってユノを見た。
「そういえば置きっぱなしだったな。よし、ヒロか祐一にあそこまで俺らと一緒に来てもらって、この車のところに持って帰ってもらおう」
「それじゃあ、俺とユノは食べられないじゃん」
「まぁ、その場でシュークリームでも一つくらい貰えばいいだろ」
「わかった。そうする」
 個数が問題なのか、ゆっくり食べられないのが嫌なのか、このときのカズは少ししょんぼりとしていた。
 わたしは桜沢とのじゃんけんにも敗北し、ケーキとシュークリーム入りのダンボールを取りに行かされることになった。桜沢だけを車のところに残し、わたしたちは錆びた鉄パイプを携え、ダンボールを放置してきた場所に向かった。現場に着き、わたしは鉄パイプを右手に持ったままダンボールを左脇に抱えた。そこから、ユノがシュークリームを、カズはケーキを一切れわしづかみにして取っていった。別れ際にユノが「あの麻倉って女の子、けっこう可愛いな」と言って下品な笑顔を見せつけてきたので、「俺もそう思うよ」と、まるでそうとは思っていないかのような平坦な口調と無表情で返事をしておいた。
 ダンボールを抱えて帰ると、桜沢は既に麻倉と車中で談笑していた。少し嫉妬心が湧いたわたしは、「ケーキ持ってきたよ」と大声で言いながら後部座席に乗り込んだ。わたしと桜沢が麻倉を挟むようにして座るかたちになる。
 わたしたち三人はそれぞれ好みのケーキを取り、セロハンを少しずつ剥きながら手にクリームがつかないように食べた。食べながら、たくさんの話をした。ユノ、カズとわたしたち二人の関係、麻倉が連れ去られた時の状況、学校とテニススクール以外で普段何をやっているかという話。もちろん、わたしたちが行ってきた犯罪の数々は伏せ、わたしとユノとの出会いは「公園で偶然会った」ということで誤魔化した。麻倉も緊張が解けて安心しているのか、今日、テニススクールから帰って着替えたあと、コンビニに買い物に行く道中で声をかけられ、そのまま車中に引きずりこまれて山麓の小屋まで連れて行かれたことを澱みない口調で話してくれた。同じテニススクールに通っていながら、こんなに長く麻倉と話したことはなかった。  
桜沢がいるとはいえ、麻倉の笑顔のすぐそばで過ごす三十分はあっという間だった。小さくふくらんだ胸元や、白い太ももに視線が落ちそうになるのを何度かこらえた。
 結局、ユノとカズから連絡はなく、不満そうな顔をしたユノがカズを引きつれて戻ってきた。わたしと桜沢はユノと二言三言交わしたあと、車のすぐそばに置いておいた鉄パイプを拾い上げ、ユノから渡された懐中電灯をポケットに入れて、ゴミ山の反対側に向けて出発した。わたしが車の前で振り返り、麻倉を見ると、彼女が車中から小さく手を振っているのがフロントガラス越しに見えた。わたしも有頂天になって手を振り、勇んで鉄パイプを握りしめた。
 相変わらず、生ぬるい風が吹き下ろしていた。わたしと桜沢はユノが指定した監視場所に少し間隔をあけて腰をおろし、ゴミ山を見上げていた。座って見上げると、この産業廃棄物の楼閣は夜空の闇に吸いこまれていきそうなくらい高く見えた。星がちらちらと瞬きながらわたしたちを見下ろしている。犯人にわたしたちの存在を悟られないよう、懐中電灯はポケットに入れたままだ。薄い月明りの下で、桜沢の表情はおぼろげにしかわからない。
 ゴミ山を見上げる姿勢のまま、桜沢が呟いた。
「なぁ、ヒロ。将来のことって、考えてるか?」
「いや、まったく。でも、普通に中学校に行って、普通に高校に行って、普通に大学に行って、普通に就職するんじゃない?」
「……学校にちゃんと行く気はあるんだ」
「そりゃ、そうだよ」
「ここに来てるから、てっきりユノとかカズとか、あるいは俺みたいに、碌に学校に行く気はないのかと思ってたよ」
「さすがに学校には行くよ。面白くはないけど、行かない理由も別にないし。でも、たまにはこうやっていつもと違うこともしたいね。今日はやり過ぎだけど」
「ユノやカズとつるみ続けるつもりなのか?」
「できればね」
「やめとけよ。それはヒロの為にならない。ヒロ、お前はあいつらとは違うんだよ。お前は特別だ。普通の中学、普通の高校、普通の大学なんかじゃヒロには役不足なくらいだ」
「たとえそうだとしても、ユノやカズはもう友達じゃないか」
「その友達がヒロの足を引っ張るんだよ。ユノやカズの性格とか将来を考えてみろ。何も考えずに行動して、秩序なんてお構いなしで、中学だろうが高校だろうが途中で行かなくなって、頭をちっとも使わん場所で働いて、無教養な仲間と酒と煙草をのむだけのどうしようもないやつらなんかとつるんでたら……」
「やめろよ、祐一」
 わたしは桜沢の言葉に怒りを感じた。ユノやカズは、多少悪い事をするかもしれないが、根っから悪いやつじゃないし、友達思いの面もある。桜沢にあいつらの将来を決められたくなんかないし、どうしようもないわけがない。
「ヒロがそう言うなら、あいつらの将来についてはこれ以上言わないよ。でも、ヒロの将来については言わせてもらう。あいつらとつるんでたら、ヒロの才能は全部無駄になる。ヒロはもっと、ヒロをちゃんと評価してくれるところに行かなくちゃいけない」
「ユノもカズも俺を評価して、仲間に入れてくれただろ」
「ああ、悪事を働いて楽しむための仲間にな。俺がやったように、お前もそのうち万引きくらいはやらされるだろうし、次の仲間に自転車をプレゼントしたり、あのホームレスのおっさんからダンボールを貰う役割はヒロになるかもしれない。どんどんそういうことに慣れていくだろうな。でも、ヒロはそういう風に評価されるべきじゃないし、そんなことに慣らされるべきじゃない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ。これからは四六時中勉強の話しかしてないやつらと仲良くしろってことか?」
「そうだ。その通りだ。ヒロは授業中にゲームと読書ばっかりしてて、宿題は答えを写して、それでもなお習うはずの内容は全て頭に入ってる。テストもどうせいい点を取ってるんだろ? 自分で気づかないのか? 今日解いた科学の問題、あれは高校で習う知識を使うコラムの部分なんだ。小学生向けに解説はされてたけど、何回読んでも俺にはさっぱりだった。でも、ヒロはその解説を一度読んだだけで理解して、俺にもわかるように解説し直してくれた。びっくりしたよ。あれが本当のヒロだ」
「偶然解っただけだよ。それに、勉強なんてたいして価値のあることじゃない。クラスの友達もテニススクールの友達も、誰もそんなことは気にしちゃいない。確かに、ちょっとは教科書を読んでるけど、それは点数を取って親の不機嫌を回避しなくちゃいけないからってだけだよ」
「親を喜ばせるためだけにちょっと勉強して満点をとれるやつがそこらじゅうにいると思ってるのか? お前は何もわかってない。今日、図書館で新聞を読んでただろ。俺もあの内容を理解したいけど、書いてあることは難しいし、漢字は読めないし、いつも二、三個記事を読んだだけで飽きるんだ。それを、ヒロは涼しい顔して隅から隅まで読んでた。羨ましいよ。だから、ヒロはこんなところでユノやカズと一緒にずぶずぶと沈んでいって欲しくないんだ」
「それを言うんだったら、祐一の方がよっぽど学校にいくべきだよ。学校なら祐一が知りたそうな難しいこと、たくさん教えてくれるだろ。それをサボってここにいることを楽しんでるんだから、祐一は俺に何も言えないはずだ」
「楽しいもんか。確かに、山の麓の小屋とか、一〇三号室はいい。平日の昼間にいても誰も何も言わないし、図書館よりも静かで本に集中できる。でも、ユノやカズといたってちっとも楽しくないよ。悪事の楽しさは一瞬だし、いつも後悔する。だから、実は、この月曜から学校に行こうと思ってたんだ」
「へぇ、行けばいいじゃん」
「……最近、親が俺の状況に危機感を持ってきたらしくてさ、俺を私立の中学に行かせようとしてるんだ。公立じゃ環境が悪くて不登校になるってね。そこまで偏差値も高くなくて、勉強はそこそこで入れるらしいんだけどさ。暇だったからその私立についてちょっと調べてみたんだ。そしたら、けっこう面白そうだった。そこそこと言っても、うちのクラスのやつは半分も入れないだろうけど」
「そこに入るために学校に行って勉強するってことか?」
「そうだ。さすがにちゃんと小学校に行ってないと、そんな中学は入らせてくれないからな。でも、その学校でさえまだ面白くないと思うんだ。この前、チャリでその学校まで行ってみたんだが、結局、ちょっと偏差値がある私立だって、俺らの小学校とそんな変わらないようなやつらが校門から出てきてたよ。ユノやカズみたいに、下品に笑ってるやつもいた」
「どうせその私立も面白くないなら、小学校に行ったって意味ないんじゃないのか?」
「今日決めたんだ、明後日から学校に行こうっていうのは。なぁ、ヒロ、俺と一緒にその中学に行かないか? もちろん、ヒロと行くんだから、一番上の、特別進学コースを受ける。俺はヒロと一緒にそういう世界に飛び込みたいんだ。そうすれば、絶対に面白い」
 わたしにとっても、桜沢はこれまでに会ったことのないタイプの友人だった。小説の話をして、肩を並べて新聞を読み、問題の解き方について訊いてくるなんて。桜沢は大事な友達で、確かに、これからも付き合っていきたいと思っていた。けれども、この誘いに乗ることはできなかった。
「祐一、これは俺の勝手なこだわりなんだが、俺は私立に行かせてくれなんてことを俺の親に頼みたくないし、親もガリ勉私立のガリ勉コースに入るなんて許さないと思う。そういう親なんだよ」
わたしは自分の親について簡潔に桜沢に話した。
「あいつらの考える『まともな』道を歩ませようとしてくるところは一緒だな。でも、俺のところの場合、普段は関心ないくせに、こういう時にだけいきなり偉そうに介入してくるんだ。それはそれで面倒なんだぜ。それで、ヒロはどうするつもりなんだ?」
「公立に行くよ、普通にね」
「そうか、それなら、俺も公立に行くよ。親の言うことは却下する。昔やってたスイミングやピアノを辞めた時みたいにね。私立に行ったって、ヒロみたいなやつと会えるとは限らない。明後日からよろしくな」
 そう言って桜沢は手を差し出してきた。闇に浮かぶ彼の手の輪郭をわたしは見つめた。そこまで桜沢がわたしを認めてくれていることは純粋に嬉しかった。けれども、確認しなければならないことがある。
「祐一、一つだけ訂正してくれ。ユノやカズはそんなに悪いやつじゃない。それに、俺だって、そんな高尚な人間じゃない。盗品の自転車を喜んで乗りまわすし、ユノやカズの悪事のスリルを素で楽しんでるんだ」
「……わかったよ。でも、後悔することになっても知らないぞ。俺の方があいつらとの付き合いは長いんだから、もっとひどいところを見てる」
「肝に銘じておくよ」
 わたしたちは視線を合わせ、互いの手をぎゅっと握った。気恥ずかしくて、ちょっとだけ自分の身体と顔が熱くなっているのを感じ、わたしは真夜中の暗さに感謝した。もし実際に顔が赤くなっていたら、それほど恥ずかしいことはない。
「ところでさ」手を離した直後、わたしの顔を見たまま桜沢が言った。「将来は普通の人と結婚するつもりか?」
「できればな」
 わたしはわざと、大きく肩をすくめて言った。
「車の中にいる普通の女の子は、どうやら森田ってやつのことが好きらしいぜ」
 わたしは絶句した。
「麻倉さんだったっけ。ヒロ、あの子のこと好きだろ」
 桜沢のにやけた顔が闇に透けて見える気がした。
「祐一、それ、どこで知ったんだ?」
「好きかどうか聞いてるんだよ。あの子とここで会った時から、ヒロの態度と話し方でバレバレだけどな」
「好きだよ。で、本当なのか?」
「もちろん。ヒロがケーキを取りに行ってる時に訊いたんだ。『ヒロは麻倉さんのことが好きみたいだけど、正直どう?』って。そしたら、びっくりしたあと伏し目になって、長い睫毛を震わせながらこう言うんだ『森田くんのことが好きなのに』って。本当に素直でいい子だと思うよ」
 桜沢がおどけながらそう言うのを聞いて、わたしの身体からすっと熱が引き、顔が冷たくなっていくのが分かった。わたしは暗闇に再び感謝した。女の子に振られて蒼白になった顔など絶対に見られたくはない。
「時間、大丈夫か?」
 桜沢にそう言われて、わたしはポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認した。既に出発してから四十分が経っていて、交代の時間をとっくに過ぎていた。わたしが無言で画面を桜沢に見せると、桜沢は鉄パイプを拾って立ち上がり、わたしを置いて車の方へ歩き出した。わたしもなんとか足に力を入れて立ち上がり、鉄パイプを半ば引きずるようなかたちで持って桜沢の後をとぼとぼと歩いた。胸に空洞ができたように自分自身の重さを感じられず、身体は冷たいのに脳は熱くて、まるで宙に浮いているような感覚だった。
 桜沢の持つ懐中電灯に照らされた場所で、ユノとヒロは車体に凭れかかったまま座り、なにやら小声で話し合っていた。二人はわたしたちの足音に気づいてこちらに視線を向け、まず、ユノが勢いよく立ちあがって両手を合わせ、「すまん」と言った。隣で桜沢が舌打ちし、「おい」と小さく、しかし気迫のこもった声で呟くのが聞こえた。
「どこまでやったんだ?」
 桜沢の怒声が産業廃棄物不法投棄場に響いた。
「そんな大声出すなよ、犯人に聞こえたら終わりだぜ」
 謝罪の言葉とは裏腹に、ユノの調子はいつも通り軽い。
「ヒロ、来てみろよ」
 桜沢はそう言うや否やユノとカズの傍を通り過ぎ、閉まっていた後部ドアを開けて、車中を懐中電灯で照らした。わたしは桜沢の横で、呆然自失となった。立っていることさえ難しかった。何をされたかは明らかだった。彼女は服を着たままだったが、足元に下着が落ちていた。麻倉は泣いていた。体育座りの姿勢で、両手で顔を覆い、小さな嗚咽をあげていた。わたしも泣いた。膝をつき、その場にうずくまって大声をあげて泣いた。何が悲しいのかは分からなかったが、自然と涙が出てきたのだ。隣で桜沢がユノと口論する声が聞こえた。
しかし、この夜、他人のための感情には限界があることをわたしは知った。次第に涙が途切れ、わたしは顔を上げることができた。そのときの感覚では一時間以上泣いていた気もするが、おそらく十分も経っていなかったはずだ。大量の涙とともに大声をあげ続けることなど、体力的にも、心理的にも不可能なのだ。
視線の先には麻倉がいた。桜沢が後部座席に置きっぱなしにした懐中電灯が、先ほどと同じ姿勢で泣く彼女の太ももを中心に光をあてていた。顔や腕に引っかかれた跡があり、ところどころに青いあざもあった。
わたしはもう、その横顔を可憐だとは思わなくなっていたし、むきだしの腕や足をみてもぞくぞくしたりはしないし、上下で柄が違う下着に目を奪われることもなかった。彼女の魅力を構成していた身体的部分はもうユノとカズに奪われてしまったし、心理的部分は最初から森田のものだったのだ。彼女の、時折見せる、身体と心の隙がわたしの愚かな願望をかきたてていたに過ぎないのだ。もう、そこにわたしの入る余地はなく、それゆえ、わたしの心から彼女は追放されたのだ。
 わたしはおもむろに立ち上がった。それを察して、桜沢がわたしの肩を叩いた。
「ヒロ、ショックなのはわかるが、こらえてくれ。そんで、これからどうするか考えよう。このままだと、俺ら全員レイプ犯として刑務所行きだ」
「ああ、わかってる」
 刑務所行き、という言葉にわたしは背筋が寒くなった。カズは座り込んで、この期に及んで何も考えていないような顔つきで桜沢を見上げていて、ユノはふてくされた表情で下を向き、踵で地面の砂をいじっている。
 わたしは桜沢の目を見た。お互いの顔が至近距離にあり、桜沢は、まるでこうなったのはわたしのせいだとでも言わんばかりにわたしを睨みつけてきた。わたしも精一杯睨み返したが、こんなことで意地を張る気にもなれず、先に視線を逸らした。そのとき、ダッシュボードの上に何かがあるのにわたしは気づいた。前部ドアのガラス越しに見えたのだ。わたしは桜沢の傍を通って前部ドアの方へ歩み寄った。桜沢はわたしがユノに手を出すと思ったのか、「やめろ」と言ってわたしの腕を掴んだが、わたしはそれを振り払った。ユノもわたしの気迫を感じ取ったのか、わたしの進路から退き、臨戦態勢をとった。
 けれども、無論、わたしの目的はそんなことではなかった。わたしは前部座席のドアを開け、ダッシュボード上の、輪状のそれを手に取った。それは犯人が麻倉を縛るのに使ったガムテープだった。ほぼ新品で、ある程度の重みと冷たさを感じる。
 手中のガムテープを見つめ、わたしは一つの考えを思い立った、胸の空洞を、その考えが少しずつ満たしていくのを感じた。
わたしは振り返って、誰に向かってでもなく、真正面の闇を見ながら言った。
「なぁ、俺に少し考えがあるんだ」
三人とも素早く反応し、互いに表情が確認できる位置まで集まって来た。彼らは真剣な面持ちでわたしを見ている。
 わたしが何も話さないでいると、桜沢が「聞かせてくれよ」と呟いた。
 わたしはゆっくりと、静かに語りだした。
「すごく簡単な話なんだが、これで麻倉をもう一回縛って、ここから脱出しないか? 要するに、全てを俺らが来る前の状態に戻すんだ。そうすればいずれ犯人が戻ってきて、麻倉を処分してくれる。そうすれば、ユノとカズがやったことはなかったことにして、全ての罪を犯人になすりつけることができる」
 数秒の沈黙のあと、桜沢が言った。
「それでいいのか、ヒロは」
「もちろん。桜沢こそ、いい子の心は痛まないのか?」
「俺はいつだって自分の保身を考えてるよ」
 ユノとカズは黙ったままだったが、わたしと桜沢はそれを肯定と受け止め、二人を置いて、後部座席に麻倉を挟むように乗り込んだ。麻倉はわたしの顔を見て目を見開き、次いでわたしが持っているガムテープに視線を移して顔を引きつらせ、身体を強張らせた。
 懐中電灯は引き続き置きっぱなしにして、桜沢が麻倉の両手首を持ち、わたしがそこにガムテープを巻いていった。麻倉は抵抗し、「やめて」とか「清水くん」などと上目遣いでわたしに叫んだが、それはわたしの神経を逆なでするだけだった。潤んだ瞳も、端正な顔立ちも、わたしの名前を呼ぶ上ずった声も、何もかもが憎く思えた。彼女がわたしを裏切ったのだとさえわたしは感じていた。わたしは、犯人がそうしたように、きつく彼女の両手首を縛り、ブラジャーを拾ってシャツを捲り上げ、彼女に着せた。
 次は足だった。元の状態に戻すため、桜沢が両足を抑え、わたしがまず下着を穿かせた。そしてガムテープで両足首をまとめて縛り、拘束は完成した。二人で彼女を持ち上げ、出会ったときのように俯せで寝かす。
 全ての作業を終えると、わたしたちは車外に出てドアを閉めた。閉める瞬間に、「いやっ」という金切り声が聞こえたので、わたしはうんざりした。
 わたしたちはおのおの鞄とリュックを肩にかけ、あるいは背負い、鉄パイプを拾い上げて帰路についた。先頭は桜沢で、彼は空になったダンボール箱も持っていた。次がわたし、ユノ、最後にカズという順番だった。懐中電灯はわたしが持っていたが、犯人が戻ってくることを考え、点けなかった。ゴミ山の適当な場所に鉄パイプを捨て、ダンボールは道路に続く崖の前で山中に捨てられた。 
 崖を登り終え、わたしたちは自転車のところに戻ってきた。桜沢を先頭にして山道を下る。下り坂なのでほとんど漕ぐことは必要とされず、手持無沙汰になってしまった。わたしは麻倉のことを思い返していた。むろん、昨日までの、わたしが憧れていた麻倉だ。いまさら心臓がきゅっとなって、ときおり森の切れ目から見える街の灯りとともに、わたしの息を詰まらせた。
 山を抜け、国道に出ると、そこには街が待っていた。人家があり、田んぼや畑もまばらにあった。深夜だが、山と違い、一定間隔ごとに街灯があって、薄明るい。
 何を思っているのか、桜沢の自転車を漕ぐペースはやたらと速かった。しかし、誰も文句を言わなかったので、わたしたちはまるで自転車競技をしているかのように走った。
 例のケーキ屋の正面を通り過ぎるころには、既に何台かの車とすれ違っていて、ヘッドライトがいちいち眩しかった。街の中心に近づくにつれ人家が密になり、商店や施設が増えてきたが、照明が消され、シャッターが閉じられ、ひたすら沈黙する建物の群れは、森とはまた異なる不気味さを演出していた。
 ついにわたしたちは百貨店の前を通り過ぎ、信号機付の横断歩道を渡って住宅街に入り、そして公園にたどり着いた。わたしたちは公園を横切り、藤棚の下に自転車を停めた。
 わたしたちは自転車から降りたが、誰一人ベンチには座らず、その場で立ち尽くしていた。ややあって、ユノが口を開いた、
「じゃあ、またな。今日は楽しかったぜ」
 そう言って彼は自転車に跨り、住宅街の奥へと消えて行った。カズが慌てて「またな」と言ってそれを追いかけた。わたしと桜沢は彼らに無言で手を振った。彼らの姿が完全に見えなくなってから、桜沢が「少し歩かないか」と言って、わたしの返事を待たずに自転車を押して歩き始めた。わたしはその横に並んだ。わたしたちは公園を出て、再び百貨店の前を通り過ぎ、わたしたちの学校の校区へと入っていった。
「何が『今日は楽しかったぜ』だよ、本当に頭がおかしいぜ、ユノは」
 桜沢が正面を見ながら言った。わたしも正面の、沈黙する街を見ながら答える。
「いや、本当の事を言うと、俺も楽しかったよ」
 思うに、桜沢は自由に慣れ過ぎているのだ。親の監視もなく、家でさえ何でもし放題で、何でも買えて、学校の友達相手なら、どんなテレビゲームやカードゲームでも勝つことができる。スポーツでも元々の運動神経が良く、用具も良いものを揃えられるのだから、科学や社会問題なんかに興味がある風変わりな少年にならない限り、彼には無限の自由があったのだ。
「祐一にはわからんかもしれんけどさ、いつも親に監視されてて、テニススクールとかにも行かされてて、別に誰から尊敬される才能やお金があるわけでもない。そうすると、こうやって規則を破ってまで暴れまわるのが楽しく感じられるんだよ。例えば、ホームレスの人からケーキを奪ったりね。それをすると、なんかそういう、自由のなさに勝ったような気がするんだ。祐一にとっては、単なるリスクなのかもしれないけどね」
「その気持ちはさっぱりわからん。それは、あの麻倉さんとかいう女の子を置いてきたことを含めて楽しかったのか?」
「確かに、ユノとカズが悪いんだってことはわかってる。でも、俺は森田と、そして麻倉さえも憎くてしょうがなかったんだ。信じてたものに裏切られた気がして」
「それは最低だな。俺はてっきり、新聞とかにも興味持つし、ヒロはもっとまともなやつかと思ってた」
「悪事に共感するところが少しあるから、そういう記事が面白いんだよ」
「全く共感できん」
「祐一の正義感が羨ましいよ」
「たいしたことはないよ。俺は結局、万引きもしてるし、お前の提案も受け入れた。単なる自己保身のためで、いまだって今日の件がばれないか心配だよ」
「あいつら、ユノとカズは今日のこと、言うかな?」
「言うと思うよ。特にあいつらの仲間にはな。そういうやつらだから。警察の耳に入らなければいいけど」
「俺は逆だと思う。あいつらだって、びびってたから俺の提案を受け入れたんだ。だから、しばらくは、少なくとも何か月か、おそらく何年かは言わないと思うし、それだけ経ったら、自分が何をしでかしたかなんて、さっぱり覚えてないと思うよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 わたしが自信たっぷりに言うのを聞いて、桜沢は肩をすくめた。
 桜沢が十字路を左折しようとしたので、わたしは止まって、桜沢に別れを告げた。
「俺の家、ここ真っ直ぐだから。明後日からよろしくな」
「ああ。いい高校と、いい大学に行って、いい人生にしよう」
 桜沢のその言葉にわたしは苦笑いで返すしかなかった。そんなことに興味はないし、まだまだ考えたくもないけれど、そういうかたちでわたしを尊敬してくれる存在は桜沢が最初だったから、少しは真面目に勉強しようかなと思った。
 わたしは桜沢と別れたあとも、自転車を押して歩いた。一人になると、急に緊張が解けて疲労が強く感じられ、もう漕ぐ気力も湧かなかったのだ。油の切れた機械のように軋む身体を引きずって、わたしは自宅のある通りに入った。
 わたしの自宅には明かりが点いていて、窓越しに放たれる光が深夜の住宅街で異彩を放っていた。わたしはまずいと思った。当然、怒られるのは間違いなく、両親はわたしが何をしていたかについて根ほり葉ほり訊いてくるだろう。普段の生活ですらそうなのだ。わたしをひたすら尋問し、友達はいるか、どんなことをして遊んでいるか、「ちゃんとした」小学生生活を送っているか監視するのだ。わたしの大好きな、一人で物語の世界に没頭する時間や、少しでも世間体が悪い遊び方は許されない。スポーツや音楽、そしてたくさんの友達にあふれた爽やかな小学生像に辟易してしまう。
 というわけで、わたしは今回も言い訳を考える必要に迫られた。絶好なのはこうだろう。テニススクールの帰りに友達とのお喋りに夢中になり、そのまま向こうの家にあがりこんで泊まらせてもらった。連絡をし忘れたのは友達の家でもテニス関連の雑誌をめくりながら憧れの選手について話していたからだと。
 しかしそうなると、あと何時間かをどこかで潰し、朝にきれいな格好で帰ってこなければなるまい。それはあまり現実的だとは考えられず、このプランを放棄しようかと思ったとき、わたしの思考は一人の友人にたどりついた。彼の家はおそらく二人が泊まるのに十分広く、事情を問い質す面倒な存在もおらず、シャワーも寝床も完備されているだろう。
 わたしは奮起して最後の力を振り絞り、十字路に戻って彼の行った方向へ自転車を走らせた。幸い、彼は自転車を押して歩いていて、その後ろ姿に声をかけることができた。
 彼の家は庭付きの一戸建てでやたらに広かったが、それを十分堪能する前に彼の敷いてくれた布団にわたしは飛び込んだ。そして、それまでに経験したこともないくらい早く、深く、眠りに落ちていった。
 
 長いラリーが続いたあと、機は熟したとばかりにネット際に出てきた森田の頭上を、わたしの打った高いボレーが越えていった。この勝負で、わたしは対戦成績を七勝七敗に持っていった。
「また負けた。前よりかなり強くなったんじゃないか?」
「そうかもな。次で勝ち越させてもらうよ」
 わたしがニッと笑って森田を挑発すると、森田は悔しそうに眉を寄せ、口先を尖らせた。
 正直に言うと、わたしが強くなったのではなく、森田が弱くなったのだ。麻倉がいなくなって以来、森田は露骨な不調に陥った。テニススクールの生徒全員で花を供えて以降、誰よりも熱心に練習に取り組んでいたが、無駄な大振りも、無理なコース狙いも、何度コーチに注意されても直らなかった。その証拠に、この時期の森田は下級生にさえ負けこんでいた。
 けれども、森田はテニスを辞めなかった、しばらくはそんな、無茶なテニスが続いたけれど、他人のための感情はやはりそう長く続かないらしく、スイングはコンパクトに、プレーはクレバーなものに戻っていった。それどころか、この期間の、あまりに自分に対して厳しい基礎トレーニングが良かったのか、彼の才能は中学生のときに開花し、見事、わたしたちの中学校のエースとなった。わたしはその頃には全く森田に歯が立たなくなっていて、主将ながら五、六番手のレギュラーという微妙な立ち位置で三年間を終えた。けれども、森田にとっては、この日からわたしに十連敗したのが中学校までのテニス人生で一番悔しいことらしく、テニス部卒業スピーチでもこのエピソードを披露していた。
 そんな森田とも、別々の高校に入って以来、疎遠になってしまっている。
 学校に関して言えば、約束通り、桜沢は次の月曜日から登校するようになった。わたしと桜沢はすぐにでも一緒に行動したかったが、いきなり仲が良くても周囲が訝しむと思い、二人で相談して徐々に仲良くなっていく様を演出した。だから、それ以来、わたしたちはずっと苗字で互いのことを呼び合っている。もちろん、二人とも地元の公立中学に進学し、県下トップの公立高校に合格した。大学は別々のところになってしまったが、今でも連絡を取り合っている。桜沢との出会いがなければいまのわたしはないだろう。なにせ、あれから大学に合格するまで、わたしの勉強に対する情熱を鼓舞し続けてくれたのは彼だったからだ。
 ユノとカズにはあれ以来会っていない。互いに連絡をしなかったし、あの公園にもあれ以来近づかなかった。わたしはいまだに、彼らの本名さえ知らない。
 桜沢の家に泊まった翌朝、わたしは桜沢家のシャワーを借り、服からなるべく汚れを落とし、いったん一〇三号室に戻ってラケットを回収し、自転車を乗り換えてから帰宅した。桜沢の家に泊まらなかったら、これらの処理をすっかり忘れていただろう。危ないところだった。
帰宅後、桜沢と一緒に考えた嘘八百を使って両親の怒りを抑え、わたしは難局を乗り切った。彼らは怒った口調で「心配した」を繰り返していたけれど、テレビを見ると、既に捜索願の出されている麻倉の行方に関する調査が始まっていて、世間体のためにそれを出さなかったであろうわたしの両親との差に、わたしは少し悲しくなった。
 その麻倉はというと、わたしたちがあの産業廃棄物不法投棄場を訪れた二日後にそこで遺体が発見され、翌週には犯人が逮捕された。犯人の凶暴な性格と行動が報道され始めたあたりで、桜沢はわたしにこう言った。「もし、犯人が麻倉を強姦せず、遺体も滅茶苦茶にしなかったら、俺らのやったことはばれてただろうな」
 わたしはどう思ったかというと、自分のしたことを強く後悔した。結局、わたしの他人に対する感情など本当に一時的で幼稚なもので、わたしを「裏切った」麻倉への憎しみも長くは続かず、麻倉が遺体になって見つかったと報道されたときには頭がおかしくなりそうなくらい感情が錯乱した。そういう時は小説も漫画もゲームも手がつかず、桜沢の家でずっと、あの日のことを話し続けた。
 試合を終えたわたしたちはいつものようにコーチに結果を報告し、森田だけがひどく叱られた。わたしは森田に謝りたい気持ちで一杯だったが、そのために真実を話すわけにはいかなかった。こんなとき、麻倉ならどう森田に声をかけるだろう。わたしの思索は夕空を漂い、そしてこう結論づけた。
 どんな言葉でも、麻倉が彼に言うから意味があるのだ。誰かが好きだというのは、そういうことなのだ。例えば、あのとき、連れ去られた女の子が麻倉ではなく、森田のことが好きだと言ったのも麻倉でなかったら、きっと、わたしはあんな衝動には駆られなかったに違いない。その感情を抑えられないくらい幼かったわたしには、この恋は早すぎたのだ。
 これが、わたしが十一歳だった夏の、わたしの人生にいまなお最も暗い影を落とす記憶である。

ある夏の日の告白

ある夏の日の告白

同い年くらいのやつが本を万引きしようとしていて、それを追いかけたら、なぜかそいつと友達になってしまった。 小学五年生の夏、学校とテニススクールに通うだけの日々に挿入された、少し刺激的な4日間。 あまりに未熟で幼かった日々の、少しだけ暗い初恋の物語。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-27

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著作権法内での利用のみを許可します。

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