博打家・・・バクチャー
プロローグ
プロローグ
博打(ばくち)という単語を辞書で引いてみると『財産や金品を賭け、花札やトランプ等を用いて勝負を争うこと。またはその行為』とある。これは別にトランプや花札を用いなくともサイコロでも麻雀でもこれに該当する。
それどころか何も用いずとも例えばコインを投げて奥の壁に当てずに最も遠くまで飛ばしたものの総取りでもよい。ジャンケンポンでもあっち向いてホイで決着をつけたって立派な博打になる。
要するにそれを行うもの同士が合意の上で、金品その他を賭けて行う勝負事を博打というのである。
英語ではギャンブルという。
これを生業とするものが、ギャンブラー。
ギャンブル……
ギャンブラー……
実に軽くて。良い言葉だ。
誰からも相手にされず、軽く受け流され、どこかに吹き飛んでしまいそうなほどばかばかしい響きを持つ言葉……。
ギャンブル…ギャンブラー…
わが国ではどうか……
『賭け事』か?
これはなんだか女々しい。それにいかにも上品に気取りすぎだ。
「おや。旦那さん、どちらへ?」
「はい。ちょっと賭け事に……」
なんだか、『習い事』とか『お稽古事』と同格のようで格好が悪い。
日本人はことばや文字から受ける印象で物事を色分けするようなところがある。
ギャンブルに当たる日本語は『博打(ばくち)』である。この『博打』という言葉の持つ響きからは、なんとも暗く陰湿なものを感じはしないだろうか。生業を表す呼名が『バクチ打ち』これもマイナーでなんだか蔑視の念が込められているように聞こえていやだ。
ならば『賭博(とばく)』か?
生業名『賭博師』これでは陰湿さの上に犯罪的なものまで加わってしまいそうだ。
ならば思い切って生業の呼称を『博徒(ばくと)』としてはどうか。
完全にいやだ。
背中一面に彫り物をした鉄火着姿の怖そうなお兄さんたちが「サア、半方(はんかた)ないか? 丁方(ちょうかた)ないか?」
と凄みを利かせて盆の賽(さい)の目を仕切っている姿だけが目に浮かぶ。
客はふたつのサイコロの出目の合計に願いを託すしかない。
脂汗を流しながらとり憑かれたように目をぎらぎらと光らせて、良い目が出ることを一心に念じることしかできない。
そのうち負けがこんできた客が不満を漏らし始める。
「おかしいんじゃネエか。丁半ってやつは。だってそうだろ賽の目は1から6までだ。ふたつ
足(た)しゃあよ、おめぇ、2から12だ」
「なにか文句でもあるんですかい? 兄さん」
入れ墨者が凄んでみせるが客のほうも黙ってはいない。腕に自信があるらしい。いや、それよりも何よりも、負けすぎている。
「黙って聞きやがれ。二個のサイコロそれぞれに偶数奇数は三つずつ。それをいいことに半も丁も五分五分だなんてほざきやがって。いいか耳の穴かっぽじって良く聞けよ。偶数と偶数を足しゃあ丁の目。偶数と奇数で半の目だろうが。」
「おう、そのとおりよ。五分と五分じゃあネエか」
「言いやがったな、こんちくしょう。なら、奇数と奇数ならどうだい。偶数じゃネエか。この 奇数同士の立場はどうしてくれるんでい」
「畜生。余計なこと、ばらしやがって」
あとは血を見るまで収まらない最悪の結末を待つばかりとなる。
『博徒』などという重くて暗くて陰湿な言葉を使うからそんな連想しか浮かんでこないのである。
なにかこう、もう少し軽くて明るい表現はないものだろうか?
ギャンブル……
ギャンブラー……
例えば……
バクチャー……
第1章 素晴らしき家族たち
1
朝の散歩をすませて家の前まで戻ってきたとき、高梨光(たかなし・ひかり)はまだ舗装もされていない急勾配を一台の軽トラックが喘ぐように上ってくることに気が付いた。マフラーから真っ黒い煙を吐きながら広い急坂を上って来るその姿は、坂道の傾斜を少しでも緩いものにしようと右へ左へと蛇行を繰り返している。スキーに例えるならプルーク・ボーゲンである。非力な300cc程度の軽トラック。しかも中古車を用いての我が家へのアプローチにこの急坂を選ぶのは叔父である仁(じん)をおいて他にはいない。高梨光はそう思った。
こんな早朝から何の用事だろう。思わず腕時計をのぞく。まだ八時前である。……
光の父、満(みつる)には三人の弟がいた。すぐ下が豊(とよ)、三番目が常(つね)、そして今坂を上ってくる仁(じん)。この三名である。豊は米軍関係の仕事に就いて、光がまだ幼いころ合衆国に渡った、向こうでの暮らしがよほど性に合うらしく、それ以来滅多に帰国することもなかった。だから光の記憶からもごく限られた部分以外、今はすっかり影の薄いものになってしまった。
それに比べて常と仁はたびたび長男の満一家と同居する両親のご機嫌窺いに顔を出した。常も仁も光をとても可愛がってくれた。光もすっかり叔父たちに甘え、やがて光と常、そして仁は年を重ねるにつれてまるで心を開きあった親友同士のようになったのである。
軽トラックの苦しげなエンジン音はまだ坂の下のほうから聞こえる。光も山道と家の前の道路が交差したところを玄関のほうへと右に曲がったばかりだった。仁がここに辿り着くまでまだ五~六分を要するだろう。とはいっても光が気付いたように向こうも光の姿を坂の上に見たかもしれない。だから光がこのまま家の中に入ってしまっては叔父の機嫌を損ねることになりかねない。とにかく登ってくるのは仁に間違いないだろうからここで出迎えることにしよう。そう思って、光は門口の格子戸を大きく開け放した。光の立っている門口から母屋の玄関までは高低差にして二メートル以上ある。
道路に面した格子戸を開け母屋の玄関までは石段を登らなければならなかった。その構えは大袈裟に言うと石垣の上に建つ小さな城郭を思わせる。門口の左側は石垣を切りとって周囲をコンクリートで固めたガレージでシャッターが下りている。スィッチは門柱の内側に埋め込まれていて、光がその小さなボタンを押すとカラカラと音を立てて巻き上がっていった。普通の乗用車なら三台は置ける広さがある。開ききったガレージの中を覗くと今も自家用車が二台並んでいる。黒のクラウンと白のカローラである。
叔父を向かえる準備を終え、苦しそうな騒音が少しずつ大きくなってくる方向を見やると、軽トラックはようやく無事に坂道を登り終えたようで、光のほうに鼻先を向けた。車はチカチカとライトを点滅させた。挨拶のつもりなのだろう。光も右手を大きく上げて挙手の礼を尽くした。
「あっ!」光は思わず小さな叫び声を出してしまった。
「なんだそういうことか!」
不意に光の頭の中に、こんなに朝早く、しかも土曜日にもかかわらず、仁がやってきた理由が閃いたからである。おそらく100%的中だろう。間もなく軽トラックは光の所まで辿り着いた。
運転しながら窓を開けた仁は「オイッス」と学生のような口調で挨拶をして車を止めた。仁(じん)はエンジンを掛けたままドアを開け、トラックから降りて来た。
「おはようございます」と礼を尽くす光に答えるのももどかしげに、「爺(じじ)、いたか?」と慌しくたずねた。口を開くと虫歯だらけのぎざぎざの歯並びがむしろ滑稽に見えた。その職業が白虎歯磨㈱の営業課長だというのだから見掛けで判断してはいけないと言うことか?仁の後を追うように、開けておいた格子戸をくぐる。
「居たんでないかい。俺が散歩に出たときはまだ眠っとった」
石段の中ほどまで登っていた仁に光は声をかけた。それにしても北海道訛はなぜ過去形が優先されるのだろう。
仁は立ち止まって、光を見下ろすような格好で振り返った。
「ところで今日、お前はどうするんだ? 光」
「僕も行こうと思ってたんだ」
「おう、なら一緒に行くべ。車、お前のでいいな」
「ああ、いいよ。叔父さんの車、車庫に入れたら行くから家ん中で待っててよ」
光が微笑むと、仁は何も言わずに背中越しに手を上げて見せ、家の中へと姿を消したが、玄関の引き戸が後ろ手に閉じられる瞬間、仁の尻のポケットに折りたたんだ競馬予想紙が差し込まれているのを光は確認した。やっぱりそうだった。今日は六月の第三土曜日。中央函館競馬の開催初日なのだ。例年ならば大学の長い夏休みが始まる時季である。自分から気を利かせて、あるいは常や仁から指示されて、本来は禁止されていることだが、代行して馬券を購入するための下準備に結構忙しく動き回っているはずった。しかし今年はと言えば……
二月の末に実施された追試験を受けて、光はようやく必要となる履修科目の卒業単位をとり終えた。大学を卒業した光は就職活動に奔走するわけでもなく、三月、四月とただ意味もなく東京に留まってだらだらと無駄な時を過した。
五年間通い続けた大学を卒業し、友人たちは一人また一人と就職を決めていく。その欣喜雀躍とした様子を見せ付けられ、光の気持ちの中に強い焦燥感が膨れ上がっていた。なのにやる気だけがまったくないのだ。何をしようと思っても力が入らないのである。どうやら光はそのころ軽い厭世観に苛まれていたようだ。だが光は断じてペシミストではない。いわゆる青春期に差し掛かった男の子なら誰でも通るあの一時期。大人たちは目が合わぬように気をつけ無視して足早に通り過ぎる、ニヒルでアンニュイでちょっとアウトローぽいあの時期が大学の卒業と重なって訪れただけのことだった。普通の男の子よりかなり晩生(おくて)だというだけのことなのだろう……。避けて通ろうとする世間の態度も晩生の男の子に間違った解釈をさせてしまう要因となる。
「サマになってるな……」とか、「カッコイイ」とか、そんな風に見られているのだと勝手に思い込んで悦に入ってしまうのである。しかしこれもそう心配することはない。世間は決してそんな甘いものではない。『穢い』とか『臭い』とか、せいぜいその程度にしか見られてはいない。やがては皆そのことに気がつくのである。到来した時期が遅かった分、光がそのことに気づくまでそれほど時間はかからなかった。
光は諦めて故郷に帰ることに決めた。二ヶ月ほどそれから時間を要したのは、旅費を稼ぐためだった。
そしてほんの四~五日ほど前に年少の学生達と一緒に夏休みの帰省でもするようにこの函館に戻ったばかりだった。
去年までなら休暇で戻ればいろいろな大学に散らばった高校時代の仲間達もひとりまた一人と故郷に戻り、いつの間にか小さな町は知った顔で溢れかえった。しかし流石に今年は違った。喫茶店に入って、いつもと同じ一番奥の席でじっと息を潜めていても、現れるのは年少者ばかりである。皆、就職しちまったのかなあ? 待ってさえいればきっと誰かが……。
いや、そんなことはありえない。光にしてもそれが現実だということには当然気が付いていた。気付いているからこそ仕事を探そうと、ようやく重い腰を上げて戻ってきたのである。しかし光は気が乗らなければおそるべく仕事が遅いタイプだった。だからどこかにここぞと言う勤め先が見つかっても、実際に身が固まるまでにはまだしばらく時間を要しそうだった。
光は仁の軽トラックをガレージに入れ、代わりにカローラを門前に止めた。ガレージのシャッターを閉めていると、玄関の開く音が聞こえた。
「九時出発でいいべ」
仁の大きな声が頭の上から聞こえた。
光は黙って右手を大きく挙げて見せた。
2
扇形に広がる函館市のはずれ。海峡の波が寄せては返す砂浜を望むように二十数軒の旅館やホテルが軒を連ねる温泉街がある。湯の池温泉である。
高梨家で毎年行っている夏の家族会が行われる松風閣はその中でも大正初めに創業の時を記す温泉旅館の老舗であった。門柱を入ると車寄せの向こうにこじんまりとした木造二階建ての温泉宿がある。それは温泉旅館というより高級料亭のような造りだった。正面から望むことはできないが客室は日本庭園に面しており、宿泊客はその中を散策することもできた。そしてその庭園自体がぐるりを板塀で囲まれるように作られていたので訪れた旅客たちはひと時の静寂を楽しむことができるのだった。そのほかにも随所に客に対する心くばりが行きわたっている宿であった。
経営している鬼原太一郎(きはら・たいちろう)は、いわゆる任侠道の渡世では名親分として名を馳せる人物だった。では平凡な一市民である高梨源吾が、侠客渡世と蔑視される社会となぜ接点を持つのか? それは意外にも単純な理由だった。
高梨光の祖父である高梨源吾と、侠客・鬼原太一郎とは小学校から中学校にかけて教卓を共にする同級生だった。簡潔に言えばこれがきっかけである。二人は気が合う友人同士として成長した。勿論、当時から太一郎が鬼原の看板を背負っていたわけではない。先代の貸元(かしもと)から太一郎が暖簾を譲り受けたのは、三十二才の春だった。先代鬼原組貸元がちょうど還暦を迎えたのを区切にした格好だった。
それより数年前、高梨源吾は二十八才で君子(きみこ)という商家の娘と結婚し、家督を継いだ。君子はそれから五年間で満と豊、そして常と言う三人の男児を産んだ。
鬼原太一郎はそんな親友の姿を正直に言って羨ましいと思ったが、そこは任侠渡世に生きる男である。弱みを見せるわけには行かない。自分はまだまだ遊びたいからと嘯いて笑っていた。
やがて戦争が始まり戦局が悪化し始めると源吾も太一郎も例外なくそろって召集され戦地に送られる。偶然にもこのとき配属された部隊も二人とも同じだったのである。そこで源吾と太一郎は生死をともにすることになる。
戦いぬき生き抜いた二人は何とか終戦を迎えることができた。アメリカ軍に投降したのである。
終戦を向えた時、太一郎は熱病に苦しんでいて、一時期は意識を失うほど悪化していた。源吾は片言の英語でアメリカ軍と必死に交渉し薬を回してもらい、太一郎の熱病は回復に向かった。そして二人はそろって無事に復員したのだった。高梨源吾、鬼原太一郎、ともに三十六の年だった。
復員してまもなく鬼原太一郎は嫁を取りその翌年一粒種の哲明(てつあき)が誕生する。そして同じ年の同じ日、高梨源吾の妻君子も四男・仁を出産したのだった。
だが、めでたいことばかりではなかった。この年、隠居暮らしをしていた鬼原の先代が、その生涯に幕を下ろした。因縁浅からずというのだろうか、高梨家と鬼原組との付き合いは途切れることなく長く続いているのである。
鬼原組の看板を掲げた事務所は、市内の別のところにおいていた。温泉旅館に強面が出入りしてはお客様を不快にさせるという気配りからだった。松風閣の事務所は多くの旅館がそうであるように、フロントの後ろ面にある。帳場職員は3名しかいないが、客室も十数部屋なので釣り合いが取れていると太一郎は考えている。事務室の片隅に明り取りの小さなガラスをはめ込んだドアがあった。ドアの上部に貼り付けた楕円形の白タイル製のプレートに社長室の文字が読める。太一郎はドアを開けた。一歩中に入ると立派なデスクが窓際に収まって、その前にごくありきたりの応接用の椅子とテーブル。壁の額縁には大きく『仁義』と書かれた墨書が見える。
「これはすぐ取り替えたほうがよさそうだ」
鬼原太一郎が渋い顔をして額縁を壁から外した時、まるで待ち構えていたようにデスク上に置いた黒の電話機が着信音を響かせた。
せっかく来ていただいたお客様に『仁義』はないだろう。そう思いながら太一郎は忌々しげに受話器を取った。
「組長かい? 久しぶりだな」
受話器から流れ出たのは高梨源吾の声だった。
「よう。高梨の爺ィだな? そうか。もうそんな時期なのか」
「お察しのとおりだ。もうそんな時季なんだ。今年もまた段取りなど、お願いできるだろうか?」
「任せてくれ。去年と同じ人数でいいのか? 日取りも月末の土曜日で……」
「ありがとう。助かるよ」
電話はそれだけで切れてしまったが、受話器を置いた高梨源吾の嬉しそうな微笑を浮かべた顔が太一郎にはくっきりと見えた。
「よし。これで大丈夫だろう」受話器を置いた高梨源吾は笑みを浮かべた。
予約や段取りはこれでよし。後は任せてさえおけば鬼原太一郎が上手いこと取り計らってくれるだろう。任せたからにはこちらでああだこうだ言わぬほうがいい。黙っていても言ったことはすべてこちらの顔が立つように段取りをしてくれるし、それによって鬼原の顔も立つのである。
どちらにしても夏の家族会についての打ち合わせはこれで終わりだった。高梨源吾の口調には満足げな響きが聞き取れた。
「行くぞおっ!」
仁の大声が玄関のほうから聞こえた。
「おおっ、今行く」
源吾は腰を上げた。
ちょうど着替えを済ませた光は腕時計を見た。八時四十五分。競馬場までおよそ四十分。まだ大丈夫だ。
一時間後、光たちは競馬場の近所に住んでいる常と合流し、スタンド席に並んで腰を下ろしていた。駐車場に車を入れ、競馬場入り口に辿り着いたとき、時計の針は九時四十五分を回っていた。第1レースの発走は十時ちょうどである。下見所(パドック)を見る暇もなく、新聞予想だけを頼りに馬券を買って何とか間に合ったと言うところだった。
正面には今車を走らせてきた真新しい舗装道路の向こうに穏やかな海原が初夏の太陽を浴びて輝いている。しかし光たち四名にそんな情緒を楽しんでいる心のゆとりはなかった。第1レースの出走を告げるファンファーレが高らかに鳴り響いたのである。ゲートインが進むにつれて四人の胸の高鳴りは徐々に大きなものになっていった。
3
北海道は比較的新しい時代になってようやく歴史の積み重ねが始まるように思われがちである。しかしそれはただ年表に記述しなければならない歴史的事変が少ないというだけのことで、北海道という土地がなかったわけではない。土地があったということは、それなりに人間の経済活動はあったものと考えたほうがいい。函館市には室町時代中期に河野政通が館を建てたと記録が残されているらしい。河野政通が何者なのかはまた別の話だが、とにかく歴史的には記述があるわけだ。ただ江戸時代になってからも松前藩に属していたり幕府直轄扱いだったりと揺れ動くものがあるのも事実である。存在感が少し希薄だったのだろうか?
北海道は屯田兵による開拓の歴史がほぼ総てで、道内のどこもほとんどひとつのスタートラインにつくやヨーイ・ドンで始まったように思われがちである。しかしそれは大きな間違いだ。函館市が歴史の表舞台に顔を出すのは一八六八年、戊辰戦争最後の戦いといわれる函館戦争、すなわちあの土方歳三が命を落とすことになる五稜郭の戦いである。この戦いが終わりこの国もようやく明治という新しい世の中へと第一歩を踏み出すことになる。そう考えると開発のテンポは他の地方とさして変わらないところまで追いついていたようにも見える。このように函館は表舞台に立った北海道の歴史を見ることができる町なのである。だから高梨家のように北海道の歴史を見てきた家を無条件で旧家として認めるなら、見渡せば幾つも存在するはずなのだ。それなのにいざ探そうとするとなかなか見つからない。旧家と言うフイルターで抽出されるのは何らかの商いをする家が多く、高梨家のように構成する個人それぞれが別の会社に勤めながら数家族が纏まって旧家の体を成しているケースは珍しかった。というより高梨家では年に二度の家族の集いを開催し、その団結した姿を見せることでいつしか家そのものに旧家としての風格をつけたと考えたほうが当たっている。本来の旧家は長い年月をかけて培った稼業を受け継ぎ、現在でも創業当時からの暖簾を大切に守りつつ商い続けている家をいうのだろう。そういう意味では高梨の家は少し毛色が異なっているかもしれない。
高梨家も含め今もなおその団結を保っているそれぞれの家の昔は、その土地に古くから暮らしていた人たちに対しては大きく胸襟を広げ招き入れるけれども、ふと流れ着いた一見者に対しては商売的な側面でしか付き合おうとしない、ひどく閉鎖的な家風であることが多い。しかし時代も移り変わり開拓が盛んになってくるにつれて、北海道の入り口である函館にはどんどん人々が流れ込み、人口も一気に膨らんだ。自ずと商いの種類も量も膨れ上がる。どこにでもあることだがもともと函館に住みこの町を作ってきた者たちと、新たに入ってきた人々との間にはあらゆる意味での軋轢が生じ始める。すると今度はそのようなトラブルを調停する役目を負った侠客たちが入植しはじめる。見方によっては彼らは調停を生業とするだけあって商いの上で生じたトラブルを解決する能力に長けていた。暖簾を汚すことなく商いを大きくしていこうと考えた場合、旧家の中にはそのような手合いを抱え込んで積極的に利用しようとするところさえ出てくるのである。こうして町はいつの間にか変貌を遂げ、その変貌に馴染めない輩は今度は逆に町から放逐されることになる。こうして町の基盤をなす家だけが,いわゆる旧家として残ることを許されるのである。勿論、家風のようなものも含めてのことである。
高梨の家がなぜ商いの暖簾も持たずにひとつの家の形態を護り続けてくることができたのか? それを知る人間は数少ない。
「友人だから言うわけじゃねえが、高梨はまず家長の源吾が正直者だ。その上一人ひとりがみな別々のまっとうな稼業で、わしら渡世に対しても他の商人たちに対しても決して邪魔をせん。博打は確かに好きだ。源吾、仁、そして光。しかしみな弱い。だが人様に迷惑はかけん。そのあたりだろうかなあ? まああそこは君子さんと言う婆さまがしっかりもんだからなあ」
付き合いの長い鬼原太一郎でさえそんな風に笑ってごまかすくらいしか言いようがないのである。
ともあれ高梨家の賭け事に対する後ろめたさとでも言うべきものは、だれの目からも他の旧家と比べてやや少なく見えるようだった。古くから語り継がれる『働かざるもの食うべからず』と言うような倫理観は若干希薄で、むしろ『濡れ手で粟のぼろもうけ』とか『棚から牡丹餅』と言う類(たぐい)の偶然の利益に思いを馳せることが高梨家の中心には理念のごとく貫かれている。その立場を守っている限り、みな一生を楽しく笑顔で過ごすことができる、というのである。それを覆すような意見の持ち主もどこにも見当たらないし別段世間に迷惑をかけると言うようなこともないので、高梨家は誰に咎められることもなくこの町で営みを続けているわけである。源吾を頂点としてその横に妻の君子を置いた家計図、つまり一番上が源吾夫妻で次の段が満、豊、常、仁の四兄弟とそれぞれの細君。満の下に光と妹二人。豊の下に豪と華の兄妹。常の下に浩忠と晃忠の兄弟そして仁の下には雅と京の兄妹。総勢十九名である。そのうちアメリカで暮らす。豊一家四名については除いて残り十五人を考えてみる。女性蔑視だと言われかねないが女房たちおよび妹たちを外した九名をサンプルとして比較してみてもギャンブルは総てだめだと言う人間はひとりもいない。賭け事は遊びなのだから適度に行うなら好きだというものが家族大方の意見になる。これはよく言われる模範解答である。実際にはそんな綺麗ごとでまとまるはずもない。一家族としてのとりまとめで、やや肯定ととることができるそのような模範解答が出てくること自体が、高梨家は賭け事公認と判を押したようなものなのである。特に今年の夏の家族会の幹事となっている源吾、仁、そして光の三名が高梨家のかかる一面を継承する者として高梨家の各世代を代表しているように思われているのかもしれなかった。しかし源吾としてはこのような風潮を決して歓迎したわけではない。四人の息子たちも九人の孫たちもごく一般的な堅気の衆なのである。源吾が採った方策が何らかの功を奏したのか否か、今はまだわからない。いつの日にか評価が出される。それを待つばかりなのだ。
源吾が打ち出した方針とは、国で認められているギャンブルしかしてはならない。この一点だった。国が認めているギャンブル。それは競輪・競馬・競艇・オートレースの四種の競争である。またパチンコはギャンブルとは認めたくなかったし、麻雀はあくまでも自己責任の範疇で終わらせること。花札、丁半のように一般的に見て明らかに非合法の賭博行為、例えば花札・丁半・手本引き等は総て禁止と言う通達を出した。高梨家の人々は何の不満も持たなかった。それはまるで源吾の自分自身に対しての戒めのように聞こえた。
4
鬼原太一郎は鬼原組の代貸(だいがし)を務めさせているひとり息子、哲明(てつあき)を呼んだ。哲明は五分と待たせず社長室をノックした。
「おう」
どすの効いた声で太一郎がノックに答えるのを待ってから、哲明は腰を低くして部屋に入ってきた。少し緊張気味に社長室に入って後ろ手にドアを閉めた。
哲明は、髪の毛がやや薄いせいか年より随分老けて見える。
「まだ還暦には間があるでしょう」などと他人から言われたこともあった。いくらなんでもようやく三十の声を聞いたばかりである。滅多にない言われ方ではあったが、還暦を持ち出されては心が萎えた。
「何かご用ですかい?」
「いや、用ってほどのことじゃあねえんだがな、まあ座ってくんな」と安楽椅子を指差した。
哲明はそういわれて椅子に座ろうと体制を変えたとき、何かが変わっていることに気がついた。壁に飾った額縁の書が、『仁義』から『友愛』に変わっている。
鬼原太一郎はソファに腰を下ろして哲明に視線を向けたまま、テーブルの上に置いた漆塗りの煙草入れの蓋を開けた。箱の中には一本一本セロハン紙で包装したキューバ産の細身の葉巻タバコがぎっしり並んでいる。
太一郎は一本取り出しセロハン紙を取り除くと口に咥えた。ほとんど同時に哲明がライターの火を差し出した。
「お前もどうだ? 一本。貰いもんだが」
太一郎は勧めたが由之助は「いえ。健康のためってやつでして……」と丁寧に固辞した。
「なあ哲明」
太一郎は葉巻の煙を口の中に少しの時間転がして、ふうと吐き出した。
「どうかしたんですか?なんだか元気がないですよ、親父さん」
日ごろ元気が良すぎるほどの貸元が何故かしんみりとした口調で切り出したので、哲明は思わずその目を覗き込んだ」
「ああ。ちょっと意見を聞かせて欲しいことがあってな」
「私の意見で役に立つなら」
「われわれのこの渡世だが、今後どうなっていくのだろうか」
鬼原太一郎は葉巻の火を灰皿にもみ消した。
「わしももうすぐ六十も半ば。この渡世にこれから先も明るく開けた未来があるのならそれにあわせた身の回りの整理整頓をせにゃならん。しかしわしの藪睨みではどうも未来は先細りもいいところらしい」
哲明は頷いた。
「かつてはやくざ者にも堅気の衆から喜ばれる仕事がありました。それが今はない」
「やはりそう思うか」
「この先も厄介者のレッテルを貼られるだけの存在でしかないでしょうね」
「お前もやはりそう思うか」
「誰だってそう思うでしょうよ。誰しもがスマートに仕事をして稼いで行ける社会が遅かれ早かれやってくる。そうなった時いつまでもかつてのしがらみにとらわれたまま動きがとれずにいたら、組は多分潰されてしまうでしょう。」
哲明は遠くのどこかに視線を漂わせた。
「社会なんてそんなものでしょう。今出来上がっている世間は先に進むことしか考えていないんです。ここまで来るためにどんな布石を敷いて、誰がどういう風に手を汚してきたか。そんなこととは無関係にね。後ろを振り返ることなんかしちゃあいけないんですよ」
哲明は諭すような口調で太一郎に答えた
「やはりそう思うか。おまえも」
太一郎も哲明に反論はしなかった。
哲明のほうがなにも言い返さない太一郎を不思議そうに見つめたほどだった。
「なあ、哲明。」太一郎はひと言ひと言をかみ締めるようにして言葉を継いだ。
「いまおまえは鬼原の代貸しとしてわしの仕事の多くをこなしてもらっている。来年になったならおまえのその仕事を、立場を含めて誰かに引き継がせようと思っているんだが……」
さすがに太一郎のこの言葉は哲明を驚かせるものだった。
「私が何か失敗を」
「そうじゃねえよ。わしは来年からこの松風閣の経営と組の台所を別物にしようと考えているんだ。そこで今はまだ誰とはいえねえが、他の誰かに鬼原の跡目を渡して、おまえには松風閣の経営を任せたいと思っている」
「松風閣を?それは組を誰か意中の人物に譲るってことですか?」
哲明は囁くように言った。
鬼原太一郎は哲明の目を見据えて首を横に振った。
「そうじゃねえ。おまえもこの渡世にはもう日が当たることは無えと言ってたじゃねえか。なら組をたたむしか仕方が無えだろうってことさ。そうはいっても鬼原の家で飯食ってきた組員だって十人ばかりはいる。その家族なんぞを含めたら結構な数になるだろうさ」
太一郎は言葉を切って哲明の反応を待つ。哲明は頷いた。
「先代から引き継いだ組をたたもうって言うんだから、情けねえ話なんだがな。これまで鬼原を持ち上げてくれた若い衆たちを、あとは勝手にといって放り出すことだけはしたかあねえ」
「と言うことは……」
「わしはもう潮時だと思うとる。この渡世はおまえの意見と同じように、先が見えた。どうあがいてもこれ以上は望めまい。誰か安心できる人間を代理役に立てて鬼原の財産をできる限り組のものたちが次の落ち着き先を見つけるまでの費用に分け与えたいんだよ。まあ言ってみれば退職金ってところだな」
「それじゃあ、親父さん……。組をたたむってのは本気で……」
これからはもう切ったはったの渡世でもない。これまで鬼原が取り仕切ったカルタや賽ももう過去の遺産になるのだろう。哲明も太一郎の決断に大賛成だった。
太一郎は大きく頷いた。
第2章 夏の思い出
1
どんなに頑張ってみても所詮博打のひとつである。だから競馬での収支などプラスになろうはずがない。高梨家の遊び人たちもそんなことは他人から言われるまでもなくよくわきまえていた。
百円単位で買うことができる馬券だが、一度購入するとその瞬間およそ25%が主催者の懐に入る仕組みである。簡単に言うと購入したとたんに百円は七十五円に価値を下げてしまう。こうして問答無用で価値を下げられた掛け金を全員でやり取りするというわけだからプラスになるわけはない。だが、大勝ちしたという経験は、賭け事をやる人間なら誰でも幾度かはあるはずだ。プラスになることがない博打のはずがなぜか……。簡単なことだ。全体の売り上げから主催者の取り分を引いた残りを大笊に入れておいて、的中者だけがその票数に応じて分け前を得るという仕組みになっているからである。的中の喜びが博打の最高のエンディングだが、負けと言う現実も同時に存在することを忘れてはならない。三通りの馬券を購入して、運よくその内の一点が的中し時など、多くの博打好きはこの的中した一点の馬券についてのみを自慢し、語ろうとする。しかしともすれば闇に葬られがちな他の二点のことを忘れてはいけない。残る二点に着目すればハズレ馬券を買ってしまった、つまり負けたということなのだ。多くの博打好きはこれを都合よく意識の外に追い出してしまうのである。
初心者によくあるらしいが、初めて買った馬券が偶然にも的中し思いがけない高額の配当金を手にすることが多いらしい。いわゆるビギナーズラックである。確かにその一度きりで二度と賭け事はしないというスタンスを貫くことができるならば、確かにラッキーなそのビギナーさんは競馬の収支をプラスで終えることができるだろう。そのような特殊な例を除けば、回を重ねるにつれみな一様に収支はマイナス方向に向かい始める。そして最後には……
これが高梨源吾の持論だった。源吾はことあるたびにこの考えを力説した。源吾の息子たち、すなわち博打好きの常と仁そして孫である光にも源吾の考えは暗誦できるほどにしみこんでいる。源吾としては要するに最後にはマイナスになるのだから、羽目を外さぬよう戒めるつもりだったと思う。しかしいざ勝負に出ると、いつもハズレ馬券の山を築いて熱くなっているのは源吾だったような気がする。
高梨源吾の説く賭け事哲学はほぼ的を得ている。函館競馬場に出向いた常や仁、そして光の三人もそれは認めている。意見が分かれるのはその先のことだった。叔父の常はどちらかと言えば源吾の言うことをそのまま受け入れ、おとなしい競馬を楽しもうとするタイプだった。それに対して仁はより攻撃的だった。
「最終的には儲かんねぇって言うんなら、儲かるように仕組んじまったらいいんでないかい」
仁は少しじれったそうな顔見せて、「要するにな、光。ハズレ馬券の売り上げを増やすか当たり馬券の数を減らすかどっちかに力を尽くせってことよ」と口をとがらせた。
仁の口調はその中に既に何らかの企てが練りこまれていることを感じさせるものだった。仁の言葉に興味を持った光は仁の目を覗き込んだ。
「そんなこと、できるってかい?」少し懐疑的に光がたずねると、仁の瞳が悪戯小僧のような光を見せた。
「ちょっとやってみるべ」
仁は光の袖をぐいぐい引っ張ってごった返すパドックへと急いだ。
パドック(次のレースに出走する馬の下見所)は次のレースに出走する馬たちの調子を見極めようとするファンたちがひしめき合っていた。仁は光に「いいか、俺の言うことに適当にあわせるんだぞ」と耳打ちして、パドックを覗き込む人だまりに体を入れた。ぎゅうぎゅうづめになったどの人間も、予想新聞や専門紙に赤ペンなどでメモを取っている。
仁はと言えば別に馬を見るわけではなく、群衆の中の一人ひとりが新聞紙に書き込むメモをそれとなく盗み見している。
やがて仁のすぐ前に立った男が、専門紙の上に予め5と大きく書いておいた数字を抹消するように赤ペンでバツを重ね書きし、代わりに3と書き直した。仁はそれを見逃さなかった。男が消した5番はほとんど人気の無い馬で、代わりに書き入れた③番は本命馬に近い人気を持っていた。おそらくこの男、競馬場に入るまではこの第2レースは人気薄の5番が穴馬として面白いと考えていた。しかしパドックで実際に馬を見るとやはり3番のほうが強いだろうと考え直した。そんなところだろう。仁はにやりと笑って、その男にも聞こえるような大きな声で言った。
「なあ、光。2レースの⑤番絶好調みたいだな」
「そうだね」
「いや、昨日田中先生に会ったんだけれど、5番は勝負気配だって言ってたしな」
男のほうに目をやると5という番号が復活したところだった。
「秘技。ハズレ増やし!」
仁は光に向かってニヒルに囁くと笑顔を見せた。
光は思わずため息をついた。確かに標的となったこの男は折角見切りをつけて消した5というハズレ馬券をまた復活させて購入したわけだから、無駄な出費をさせられたといえなくもない。しかしひとりである。いや、もし力を入れてこの“秘技ハズレ増やし”による犠牲者を増やしたところで、配当金を操作することなどできはしない。そんなままごとレベルの博打では断じてないのである。
2
北海道の初夏は一日の気温の変化を見ても、暑さを感じる時間帯が限られている。日中こそ汗ばむほど気温は上がるけれど、光が大学生として五年間を過ごした東京のように、連日30℃を超す日々が続くわけではない。毎年六月半ばには帰省した光は、決まって風邪をひいた。日中と明け方の気温差が大きいためである。明け方はタオルケット(夏用のタオル地の毛布)一枚だけでは肌寒い。だから布団に入るのがまだ暑さの残る時間だったりすると、そのまま気持ちよく眠り込んでしまう。すると明け方のひんやりした肌寒さに見事に一本取られるのである。穏やかな気候といわれる道南の小都市函館も、北海道であることに違いはなかった。それが今年に限っては今のところまだ風邪の兆候である鼻水や咳に悩まされずにいる。例年より幾分暖かいような気もするし、もっとメンタルな原因なのかとも思う。つまり、友人たちが社会に出てしまい、光自身もその影響を受けて生活が規則正しくなっていることである。光は他人事のようにそんなことを考えた。
光たちがスタンドに陣取った時刻には競馬場の気温もすっかり暖かくなり、午前中の競走が終了したころにはこの時季の平均気温を上回る陽気となった。ここで約一時間の昼休みとなる。午前中に実施された第4レースまでの結果を見ると的中率では光がトップで1・3・4の3レースを的中させていた。優秀な成績である。だが配当金の上では第2レースしか的中させていないにも拘らず仁が遥かに上回っていた。穴馬券を本線で的中させたからだった。このように競馬では馬券の買い方、つまり買い目の比率によって収支に大きな違いが出る。
最近は多くの競馬好きたちがひとつのレースに幾点もの馬券を購入して的中率のみを自慢しているけれど、それは本当じゃない。
「ばかばかしい」
光はいつもそう感じていた。
競馬は勝負である。わが国で僅かに認められた、いや国が管理することによってのみ認めた歴(れっき)としたギャンブルなのである。勿論、的中させることが大前提の博打であることに間違いはない。だが賭けかたを間違えると、せっかく当てはしたものの収支ではマイナスになることが間々ある。ならば的中率というのは何だ。何点も購入して当たり馬券を何とかもぐりこませ、トリガミ(購入金額より配当のほうが小額)になってまで的中的中とはしゃぎまわって何になるのだ。大切なのは勝率、つまり黒字決算とすることだけなのだ。当たってナンボという言い方をするけれど、この“ナンボ”というのはプラスのときのみ意味を持つのである。
今日この時点までの成績はというなら第1位・高梨仁、第2位・高梨光。以下負け組み。これだけなのだ。
「博打は勝負事。結果のみが判断の対象だ。だから収支がマイナスならばマイナス1万円もマイナス10万円も同じことだ」
仁がいつも口にすることばだった。そして光も同じ意見だった。
光たち四人が休憩所を兼ねたスタンドロビーのベンチに腰を下ろし、予め売店で買っておいた幕の内弁当を広げようとしたとき、鬼原太一郎が息子の哲明を従えて近付いてきた。
「おう。やっぱり来ていたか。お前さんも年齢(とし)のせいか調子落ちと見たが?」
太一郎がからかうと源吾はまるで若者のような身のこなしで立ち上がった。
「やかましいやい。このすっとこどっこいが」
「あいかわらず威勢がいいなあ」
太一郎は笑いながら握手を求めた。
源吾も笑顔を見せて太一郎の暖かく肉厚の手を力をこめて握り返した。
「飯まだだろ。きっと来ると思って買っといた。一緒に喰おうや」
仁が親同士のふざけあいに渋い顔をしながら、手提げ袋に入れた弁当を哲明に手渡した。
「すまんな、仁君」太一郎が礼を言った。
「とんでもない。いつもお世話になりっぱなしで」
「こんなところで食うのもなんだから、部屋の方に行きましょうや」
哲明が太一郎の目配せを受けて皆を先導するように歩き出した。
警備員が立つ磨き上げられた階段を上ると、特別観戦室と書かれたドアがいくつか並んでいた。一般のファンは滅多に入ることができない特別室である。そのまま廊下を少し進むとホテルのフロントロビーのようにも見える特別室専用の馬券売り場と払い戻し所があり、可愛らしい制服を身に着けたフロアの案内係が笑顔で出迎えた。
哲明は3号室のドアを開け「さあ、どうぞ」と高梨家のメンバーを中に入るよう促した。これまでにも鬼原とは何度か連れ立って訪れたことのある競馬場だったが、そのときは普通の指定席だった。高梨家の四人にしてみれば競馬場とは思えない、思わず尻込みをしてしまいそうな豪華な空間だった。
「すごいな」
思わず光が声に出した。
特別観戦室は広さにして20畳はあろうかと思われるワンルームだった。深々と沈み込むほど柔らかなそファーや安楽椅子を具合よく配置し、レース実況放送やオッズを流すモニターテレビが備え付けられ、この函館だけではなく、小倉や新潟の競馬場で行われているレースのまでリアルタイムで観戦することができた。そればかりか部屋の片隅に置かれた冷蔵庫にはビールや各種のソフトドリンクが詰め込まれていた。
そして部屋に入って正面は馬場を見下ろすバルコニーで、ガラス張りのアルミサッシの引き戸を開ければいつでも出ることができるようになっていた。
「こんなすごい部屋をいつも使っているのか?」思わず仁がため息交じりでつぶやいた。
「今日は特別さ。親父の気持ちと思ってくれ」
哲明は仁の耳元に顔を寄せて囁くように言った。
幕の内弁当で腹を満たした高梨家の四名と鬼原組の渡世人二名はサッシのガラス張り引き戸を大きく開け、バルコニーに出た。眼下には一攫千金を夢見る人の群れが、これから目の前のトラックで繰り広げられるであろう午後の激闘を待ち構えている。下の階からではあまり良く見えないコースの向こう正面も、四階にあるこの特別観戦室からだとその総てを見渡すことができた。競馬場の向こう側には住宅群の屋根が広がり、さらにその先には津軽海峡へと続く海原が穏やかなうねりを見せている。陸地に沿って視線を移動させると函館のシンボルである函館山が陽炎のように揺らいでいた。
光は部屋に入ったとき鬼原の代貸が何事か仁に囁くのを見た。
何を言われたのか気になって仁の方へ歩き始めたときマーチが鳴り響き、第5競走出走馬の本馬場入場が始まった。
3
第5競走のパドックをモニター画面で確認し、高梨家の四6人は、それぞれの思惑で馬券を買い終え特別観戦室に戻ってきた。馬券購入も部屋を出るとすぐ目の前に発券機ではなく、対面型の有人の窓口が数箇所並んでいる。透明のガラスに半円形の穴を開けた仕切り板の向こうに制服姿の女性職員がにこやかな笑顔を見せて席についている。もう少し若ければ申し分ないのだが……。光はそう考えて苦笑した。窓口の左に機械式とそして右側には高額払い戻しのための有人窓口がみえる。高額払い戻しとは100万円を超す配当金が購入者の手に渡る場合のことだから滅多なことでは利用するチャンスはなかろう。
さて、鬼原組の渡世人の内トップのふたりがわざわざこんな立派な部屋まで準備して自分たちを招きいれたからには、それなりの話があるのだろうと解釈して源吾をはじめ常、仁、そして光までもが急いで部屋に戻ってきた。
太一郎と哲明はバルコニーを背にして置かれた安楽椅子に腰掛け、しかめっ面を見せている。目の前のテーブルには、缶入りのビールとコーヒーがまとめて置かれていた。いつの間にか哲明が準備したものらしかった。
高梨の全員が部屋に戻ったのを確認して、鬼原太一郎は静かに話し始めた。
「悪いがちょっと話しを聞いてもらえんかな?飲みながらでいいんでよ」
太一郎がひとこと言うと、高梨源吾と仁は太一郎の顔を見る形で向かい側のソファーに腰掛けた。光と叔父の常はソファの後ろに立って太一郎を見つめた。
「スタートまでまだ十分ほどある。別段、高梨にどうこうってことじゃあないんだが、こうして懇意にさせてもらっているから話だけはしておこうと思うんだよ。すぐ終るんでな」
「何だ。改まって」
源吾が先を促した。
「ああ。いや、わしらの渡世のことなんだがね。実は、息子とも相談したんだが……」
太一郎は自分たちが生きている世界がどんどん小さくなっている事実を説明した。
「最近じゃあ任侠道に命を張る渡世人も少なくなっちまった。ほとんどのことが堅気の集だけで解決できる社会になっちまったからな。わしらの出る幕が無くなっちまったってわけよ。寂しい話だが実際にそうなんだから止むをえん」
鬼原太一郎の目は本当に寂しそうに虚ろだった。
「この町に限ったことじゃあねえが、形が固まるまではよわしらはいろんな揉め事を解決させる手段としてよくお呼びがかかったもんだ。それがどうだ。ゼロだよゼロ。いやむしろ過去のことを詳しく知っているってえことだけで毛嫌いされる始末よ……」
太一郎はそこまで話したところで誰も飲み物に手をつけていないことに気付き「おう。遠慮しねえで飲んでくれよ」とテーブルの上の飲み物を勧めた。
コーヒーに手を伸ばした光意外はみな缶ビールのプルトップを引いた。
源吾は話を頷きながら聞いているだけだったが、太一郎の話が一段落したところで口を挟んだ。
「生計はどうするつもりなんだ?」
「源吾、おまえ、わしらの生業の中で、ノミ屋ってのがあったこと覚えとるか?」
太一郎は昔を懐かしむように視線を空中に泳がせた。
「ああ。知っとるとも」
「昔はあんなもんがけっこう重宝されてな。いい売り上げだった。しかし今はもうほとんど上がりがない。本物の競馬会自体が電話投票とかいうもんを開始したとたんみな寝返った。わしまでもな」
太一郎はそういうと大声で笑った。
「そうだろうが。ノミ屋みたいな違法で危なっかしいところに誰が頼むもんかい。それに競馬会の直営だから当たったときの配当だって発表どおりじゃねえか。」
「どういうことです?」と常が口を挟んだ。
「使ったことがねえから知らんのも当然だな。常くん」
太一郎はしっかりと常の目を見た。
「ノミ屋っていうのは私設の馬券売り場のことだよ。国がやっている競馬会のように巨額の資本金があるわけじゃあねえし、そのノミ屋ごとに国が計算したものと配当の数字が異なることが多いんだ」
「……」
「つまりオッズだよ。たとえば日本全国での売り上げから弾いたオッズじゃこのアキアカネという馬が大穴で100倍の配当になるとする。ところがノミ屋に入った注文では何処で情報が混線するか知らんが大量の購入の申し込みが来ることがある。飲み屋の金庫に入った売り上げから計算すれば、5倍もつけばいいくらいのな。だがな、常くんノミ屋で計算したオッズを使うことなどできようか?」
言われて常はかぶりを振った。100倍と発表されたものを5倍で我慢しろといわれても了承できるものではない。
「わかるべ? だからノミ屋では配当は国の発表通りってことにしとる。ただし上限100倍
という約束をしてのことだ」
「ああ、なるほどね」
だまって聞いていた光が感心して頷いた。
「わかったようだな、光くんは。どこかで信憑性のある穴情報を得た誰かが、ノミ屋に大口で申し込んだとする。そしてそれが当たったとする。……それでおしまい。そのくらいリスクを背負っているんだよ。わしらの業界も。ところがただひとつリスクを背負わない、“国”って奴が介入してきた。息の根を止められたって言うところよ」
太一郎はビールを呷った。
「わかったよ。お前がそういうからには組をたたむってのもやむ終えん結論なんだと思う。それで?」
源吾が心配そうに再度尋ねた。
「松風閣の経営だけで行くつもりだよ。わしが表に出ては鬼原組の看板がどうのってはなしになるだろうから、組をたたんだらすぐわしは隠居して哲明に跡目を……いや社長業を引き継いでもらおうと考えているんだ」
「松風閣?うん。まああそこなら歴史も深いし客も入ろう。しかし、今の組員たちのことはどうするつもりなんだ? 三十人近くにはなるんじゃあねえのかい? 家族も含めりゃの話だがな」
源吾の言葉に太一郎は頷いた。
「妻帯者九名、女房子供含めて二十四人。独身組員十二名。こいつらを路頭に迷わせることはできねえ。組の財産、といっても事務所の土地建物だけだが……これを処分して退職金代わりに渡そうと思っとる」
第5競争のスタート時刻となった。場内にファンファーレが高らかに鳴り響く。
鬼原太一郎は「話はそれだけだ。そのうちもう少しはっきりしてきたら、源吾、お前にも頼みたいことが出てくるかも知れん。そのときには知恵を貸してくれ」
そういって立ち上がるとバルコニーへと出て行った。
見下ろすと第5競走の出走馬たちが次々にゲートへと誘導されるのが見えた。
4
函館競馬初日の全競走は夕方四時半に終了した。まだ十分に明るさの残る競馬場を出て、駐車場で鬼原太一郎らと別れた高梨家の四人は、光の運転する車で帰路に着いた。勝負の結果を見ると初日にしては皆まずまずで、大きく負けた者はいなかった。
例年ならばレースの話に花が咲くところだったが、鬼原組長のことが皆気になっていて、あまり盛り上がらない。せっかく北海道シリーズが始まったというのにこんな状態では先が思いやられた。帰り道を三分の一ほど進んだ所で場の沈んだ雰囲気を察した常が助手席から前に顔を向けたまま提案した。
「オヤジ。せっかく集まったんだから飯でも食っていかねえか? 家には俺から電話しとくんで」
「おっ。いいな」
仁が即刻同調する。
「車はどうするんだ? 光だって飲みたいべ」
源吾は光を気遣った。
「代行車でも使えばいいんでねえか」
「よし。ならそうするべ」
源吾のひとことは絶対だった。
「俺の知ってる店でいいべ?」
常が確かめるように言うとすぐ後ろのシートに腰掛けた仁が「兄貴でも使う店があるのかよ。デパートの大食堂なんかじゃだめだぞ」と悪態をついた。
「ばか言うな。こう見えても市の建設部長なんだぞ、俺は。自分で言うのもなんだが、結構偉い」
普段はどちらかというと口数の少ない常が仁の軽口を封じ込めた。
「よし。常に任せよう」
仁の隣から源吾がきっぱりと告げた。
「任せてくれ」
常は光に小さな声で十字街と呼ばれる繁華街に車を進めるよう支持した。光は言われたとおり車を進めたが、計器盤に組み込まれた時計を一瞥するとまだ六時にもなっていない。
「まだ少し早いんでないかい?」
光は常の指示を待った。
「七時には開ける店だからな。一時間ちょいか……」常は少し考えて「それじゃ一時間、麻雀かパチンコでもして時間潰しするかぁ?」と振り返って源吾に目を向けた。
「常に全部任すっていったべや」
まもなく光は市営の駐車場に車をすべり込ませた。
四人はそろって車から降りた。
「そこの角を右側に行ったところに朝日館て名前のパチンコ屋がある。暇つぶししながら待っていてくれ。店の段取りと家へ連絡とって戻ってくるから」
「早く戻って来いよ」仁が言う。
まだほんのりと明るさを留める店先で、掃除したり暖簾を掛けたりと開店の準備に慌しい店員たちの姿が、ちらほらシルエットになって見える。
「ああ、そんなにかからんさ」
常は仁に後を頼んで、その風景の中に溶けていった。
待たせることもなく、常は戻ってきた。準備はできてるのですぐ開ける。そういう女将からの伝言を聞いて、それなら女将に甘えようということになった。外へ出るとほんの三十分ほどの内に日はすっかり落ち、軒を並べる店々の行灯にも灯が点っていた。まだまだ客足は遅かったけれども、あちこちの暖簾をくぐる客の姿もちらほら見え始めている。
常は“すみれ”という暖簾を掛けた和風の瀟洒な小料理屋へと源吾たちを案内した。
暖簾をくぐると女将が出迎えた。
「お待ちいたしておりました、常さん」
店の名を意識したすみれ色の和服の上に割烹着を着けた瓜実顔の女将が嬉しそうに出迎えた。その姿はまだ三十代中というところだろうか。
「上のお部屋を用意させていただきましたのでどうぞこちらへ」
女将の後に続いて階段を上り四名は八畳間ほどの座敷に通された。座敷の中央に置かれた漆塗りの宅の上には二人ずつ向かい合う形で既に席が用意されている。
源吾を上座にそれぞれ席につくと常が女将に「オヤジの源吾。弟の常。甥の光」と三人を紹介した。
女将は入り口のところに正座し「ようこそいらっしゃいました。女将の由紀枝でございます。高梨部長さんにはいつもご利用いただいております」と名乗ってから常の後ろまで進んで「お食事はお任せということでよろしいですね。お飲み物はとりあえずおビールで?」
常は女将のいうままにただウンウンと頷いた。
女将は卓上のビールの栓を抜き四人のグラスの注いだ。
「それではすぐお持ちいたします。どうぞごゆっくりなさってくださいませね」
女将はそういって部屋から出、襖戸を静かに閉めた。
光は当然、仁にしてもあまり足を運んだ経験のない雰囲気の店だったので、女将が部屋を出た瞬間なんだか力が抜けたような気分になった。
「本当に結構偉いんだな」
仁が感心して常を見つめた。
酒が進むにつれて話題は鬼原組長の話になっていった。
鬼原太一郎はいったい何が言いたくてあのような場まで設けたのだろう? 源吾にしても仁にしても、確かに太一郎や哲明との付き合いは長い。気心が知れているといっても良いだろう。ただし高梨家は真っ当な堅気の商売であり、向こうは侠客渡世に身を置いているわけだ。だからその辺りは注意して、お互い必要以上に干渉しあわぬように注意してきたはずだ。鬼原太一郎にしても源吾とまったく同じ土俵に乗ることはできないことくらい弁えている筈だった。
組をたたむということはそんなにリスクを伴うことなのか。今まで何十年も付き合っているにも拘らず、高梨家の四人には判らない事だらけだった。
「組員についてのことなんじゃねえかな?」と光が囁くように口にするのを仁が受け取った。
「組員がどうしたって?」
「だからさ、就職がなかなか決まらなかったらどこかに入れてやってほしいとかさ」
「じょ、冗談言うなや、光!」
「働き場所の推薦っていうか、紹介くらいしてやれないのかい」
光が詰め寄ると仁は呆れ顔でため息をついた。
「できるわけねえべさ。皆、背中に綺麗な絵ぇしょってるんだ。あっしぁやくざもんですって自己紹介しているようなもんだべや。光、お前は相当頭悪いんだから、自分の就職の心配でもしてろ」
仁にそういわれて、光は黙り込んだ。
「失礼します」と声がして次の料理が運ばれてきた。
手馴れた風に空いた器を片付け新しい料理を並べる和服姿の仲居に、「あと酒を何本か。熱燗で」と注文した。
女が出て行ってから仁が光の顔から源吾に視線を戻した。
「もしかしたら鬼原組長は組をたたむことで高梨に何か迷惑でもかかるとか、かかる可能性があるとか、そういうことを心配しているのかもしれねぇなあ」
「どんな?」常が詰め寄る。
「知るか。やくざの話だ」
源吾が大きく頷いた。
「そういうことだべ、きっと。そしてまだ判らねえのよ。何が起こるか。親分にもな。だからわしらも今はただ待つことしかできねえわけよな。もしなんかあれば、またそんとき声がかかるべや。困ったもんだ」
源吾は仕方なさそうにいった。
5
七月も中を過ぎると北海道にも真夏とか盛夏と呼ばれる季節が訪れる。北海道は涼しいと思われがちだが、期間が短いだけで関東あたりと比較してもほぼ変わらない気温の上昇を見る。何もしようという意欲さえおきない、あの暑い日差しに包まれるのだ。高梨光もカーテンを閉めきって扇風機を強にセットした自分の部屋とか、喫茶店の一番奥のボックスやギンギンに冷房を効かせた映画館というような、若者にとって夏の健康的居所とはいいがたい自分だけの巣窟を探し出し、その中でじっと息を潜めていることが多くなった。そんな具合だからせっかく決意した就職活動についても止まったままで、仕事を見つけようという決意は本気なのかどうかさえ疑わしいものに思われた。
子供のころはこの時季でも津軽海峡からの潮風が優しく吹いて、心地よい清涼感に浸ることができた。いや、それは光の胸の内で誇張された夏の想い出なのかもしれない。異常気象に見舞われているというような話しも聞かないし、思い当たる出来事もないわけだから、光が無意識にデフォルメした印象というほうが正論なのだろう。祖父高梨源吾の様子を見ても太一郎からの連絡もまだ何もないようだ。言ってみれば天下泰平、すべて世はこともなしというところだった。
そうこうしている内に高梨家恒例の家族会が一週間後に迫った。夏の家族会というのは高梨源吾が決めた高梨家の恒例行事だった。高梨源吾には満・豊・常・仁と男ばかり四人の子供がいる。それぞれ既に家庭を持っていて、満は五人家族。豊、常、仁はそれぞれ四人家族の世帯を築いている。
源吾夫妻を中心にして皆がっちりと団結した不思議なほど仲の良い家族で、何か問題でも起きたときには家族同士協力して事に当たった。
源吾はそのすばらしいチームワークが、夫々の女房たちの努力によって出来上がったものであることをよく理解していた。そこで一番下の息子、仁の結婚が決まった時、源吾は嫁たちの苦労に報いようと、年に一度家族ぐるみの懇親会を開催することにしたのだった。勿論スポンサーは源吾自身である。
第一回目の計画を立てていたとき、古くからの有人である鬼原組長である鬼原太一郎が何処からか計画を聞きつけて、ぜひ協力させてくれと申し出た。その言葉に甘えて最初の家族会に老舗の温泉旅館を利用したのだった。
第一回目の家族会は大盛会のうちに終了した。それぞれの家族たちもストレスの発散ができ、ますます打ち解けあうことができたようだった。
ところが……
利用した松風閣への支払いのときになって、ちょっとしたいざこざが生じた。宿を経営している鬼原組の太一郎が源吾の前に立ちはだかったのである。
「軍隊では命まで救ってもらったし、その他にもいろいろと世話になってるわしじゃ。そんなお前から金を貰うなんてぇことができるわけが無えべ」
これが鬼原太一郎の主張。
「おかげでこんなに楽しい家族会を行うことができた。それを無料なんてことにされちゃあ、家族たちに対してわしの面子が立たん」
これが高梨源吾の主張だった。
任侠道に生きる者と堅気の日の下で暮らす者の、いうならば意地の張り合いだった。お互いに気が短い性格だったので殴り合いにでもなりかねない雰囲気になった。
「いいか、俺たちは堅気だ。堅気っていう単語を広辞苑で引いてみろ。“地道で、まっとうな職業についていること。また、その人”となっとるべ。それがヤクザから饗応を受けたりしちゃあ堅気じゃなくなってしまうべ」
「何をしゃらくせえ。広辞苑にゃあこうも書いてるべ“遊興などにふけらず、地道でまじめなこと”ってな。遊興にはふけっているべや。100%遊興だべ。この、遊興男!」
こんな具合だった。
常が気転を利かせ、割って入った。
「まあまあ。二人とも大人げないべ。なあじいちゃんここは引き下がれないって言う親分さんの顔もあるだろうしな。一歩引いたほうがいい。それから親分さん。こちらとしてもそれぞれの仕事上、侠客渡世の方々から饗応を受けたなんてえことが万が一にも明るみに出ちゃ、おしまいなんですよ。ここはひとつ中を取りませんか?」
「どうやって?」
源吾と太一郎は同時に言った。
「見積書を出してください。相場の七割程度になる額で。そしてそこから出精値引という形で、最終金額を見積額とするわけです。親父はその金額を支払うって寸法です」
大人気ないけんかにお互い折れどころを探していた二人は常の提案を呑んだ。
初回こそそのような思わぬ出来事に慌てた家族会だったが、翌年からはもう揉め事はなかった。むしろその出来事が取り決めのようになって、家族会が現在まで続いている要因になったといえるかもしれない。次週の家族会に出席するのは源吾と君子夫妻と四人の息子たちおよびその家族。合わせて十九名の予定だった。その中で次男の豊家からは残念だが出席できないという連絡が入っていた。豊は、勤めがアメリカの会社で、家族全員アメリカ暮らしをしていて帰国することもなかなか難しく、実際に参加できたのは過去三回ほどしかない。今回も数日前に残念ながら帰国は不可能だという便りが源吾宛にエアメールで届き、源吾をがっかりさせていた。
その家族会がもうすぐ来週に迫っていた。源吾は準備の状況を聞いてみようと太一郎に電話を入れてみた。
太一郎は総て準備は整っているので何も心配することはないと伝えた、源吾はその声が何か妙に元気針がなように感じたのである。
「なんだか元気が無いようだがどうした?」
源吾が気遣うと太一郎は「なにもねえさ。お前さんの取り越し苦労てやつさ」と、笑って答え電話を切った。
第3章 トラブルメーカー
1
誰かが自分を呼んでいる。
居心地の良い場所から抜け出すのが嫌でじっと息を潜めていると、声はだんだん大きくなってくる。
「……なさい……。……おきなさい……。光、そろそろ起きなさい。お祖父様が呼んでるわよ」
声の主は母の多佳子だった。うっすらと目蓋を開くと、光がなかなか目を覚まさないので少し苛立った様子で母はベッドサイドに立ちはだかっていた。
まだまだ眠り足りないぼんやりした頭をしぶしぶ持ち上げるように、光はベッドの上に体を起こした。
「祖父(じい)ちゃんが? なんだろ」
光は小首を傾げた。枕元に置いた目覚まし時計の針は九時半を過ぎている。
「さあてね? 今日は土曜日。またお誘いじゃあないのかねぇ」
多佳子は苦笑しながら締まっていたカーテンを大きく開いた。昨日と変わらない強い陽光が射しこむ。朝からこんな調子だから、またうんざりするような暑い一日になりそうだ。光は大きなため息をついた。
「ほら、早く行っておあげ。庭にいらっしゃるから。あんまり遅くなると叱られるよ」
もう五十歳近い年齢のはずだが多佳子は年よりは若く見えた。襟の無い薄手のコットンシャツにお気に入りのジーパンをはき、腰にはエプロンを回している。顔だけを見ると年相応なのだがその格好が年齢を何年か押し戻すようだった
母から言われたとおり光は階段を下りて回廊を進み縁側に出た。広い庭を望む縁側のガラス戸は既に大きく開かれており、源吾は築山の麓に沿って並べた大小様々の盆栽に水をやっていた。
「おじいちゃん、何か御用ですか?」
「おう、やっと起きたか。この暑さなのに光もタフだなあ」と軽く嫌味を効かせてから「ところで光。今日わしは午後からになるが、仁と行く予定だ。もし光に何も予定がなければだが、一緒に行かんか?」
「いいですよ。常オジは今日は?」光が訊ねると源吾は残念そうに顔をしかめた。
「残念だが常は出張中で東京に行ってるらしい。仕事だから仕方が無い」
源吾は光の質問をそこで制して「家族会の進行について、確認しなくちゃならんべ。もう来週に迫っとるんだからな。少し遅くまで時間がかかるかも知れんが、……」と、少しためらいがちに続けた。
鬼原組のことで何かあったな。源吾の様子から光は直感的にそれを察した。
「親分から何かいってきたんですか」
光はそう聞いてみたい気持ちをかろうじて抑えて、代わりに源吾の目をじっと見つめた。
「お前は話が早くていい」
源吾は苦笑して頷いた。
「長く渡世を張っていると、自分の組ひとつたたむにもいろいろと軋轢が生じるらしい。あの親分、生真面目なところがあるからなあ……。話を聞いてほしいっていうのよ。まいったなぁ…」
「いいよ。俺は時間なんか何時になったって。仁オジと三人で聞いてあげようよ。その上で何かできることがあるのかどうか判断すりゃあいいんだから」
「んだな」
源吾は納得して笑顔を作って見せた。
「それじゃ昼十二時ちょうどに出発でいいの?」
「ああ。十分だ。仁は途中で拾っていこう。時間だけ連絡しといてくれねえか?」
「了解」
光は少しおどけたような仕草で答え、居間へと向かった。
居間は十六畳の和室である。というより八畳の二間続で、仕切りの襖を大きく開け放して広く使っていた。冬になると間の襖を締め切るので八畳間になる。
廊下を進んで居間の入り口の前に電話が置かれている。光は居間に入る前に受話器をとって仁の電話番号をダイヤルした。都合よく仁が電話口に出た。
「あ、仁叔父さん。おはようございます」
「おう、光か。おはよう」
この後に続く会話といえば「どうした?」とか「何か用か?」となるのが普通だと思う。そうするとこちらとしても説明が必要になってくる。
たとえば……
「あ、仁叔父さん。おはようございます」
「おう、光か。おはよう。どうした? 何か用か?」
「じいちゃんがさあ、今日午後から行くっていってたけど、聞いてるよね」
「しかし、何で午後からなんだ?」
「知らないよ、そんなこと。きっともうじき家族会だから、セーブしてるんじゃないかい?」
「ジジイめ、しっかりしてやがる。まあいい。で、何時ころだ。迎えにきてくれるんだべ」
「多分十二時十五分くらいになるから、家にいてください」
と、普通ならこんな会話となる。
会話が長いものになればなるほど、如何に歳が近いとはいってもそれなりに気を遣ったり言葉を選んだりしなければならない。
しかし仁の場合は簡単だった。
「何時よ?」
「多分十二時十五分くらいになるから、家にいてください」
これで用は済んだ。
光が居間に入ると光の父高梨満と二人の妹たち和代と朋代が居間の中央に置いた漆塗りの大きな正方形の食卓に、三人とも光に背中を向ける格好で席についてた。正方形の入り口側の一辺に満が。そして満と直角の一辺に妹たちが並んで座っているわけである。入り口から入ると三人は光に背を向けた形に見える。
「おはよう」と、三人は振り返って朝の挨拶をし元通りの方向に視線を戻した。視線の先には一台のテレビが置かれており三人とも画面に見入っている。やがて源吾が庭から戻りテレビを背中に背負う位置につく。源吾の隣に寄り添うように光の祖母・君子が、満の横に多佳子。そして満の正面に光が座る。これが定位置だった。休日土曜日の遅い朝食だった。
家族会を間近に控えたこの日の朝食は、本来ならもっと和気藹々とした楽しいものになるはずだった。しかし鬼原組長のことが気になっている源吾と光の、押し黙った様子が朝の空気を重苦しいものに変えてしまっていた。
2
鬼原組の組事務所は五稜郭という史跡の裏手にあった。
明治元年、戊辰戦争最後の戦いで榎本武揚ら旧幕軍の一部が占拠し、独立政権を打ち立てたというあの五稜郭である。結局その独立政権も翌年には明治の新政府によって潰されてしまうのだが……
現在は五稜郭公園として大規模に整備され、星の形をした外堀に囲まれた函館観光の目玉として賑わっている。
太一郎が事務所として選んだ場所はその五稜郭公園に程近い場所である。程近いといっても掘割に沿って回り込んだ公園の裏手から小さな林に分け入った所で、観光客や一般人が利用する道路や施設などからその姿を望むことはできない。太一郎の気配りだった。
建物はワンフロアーが25坪程度の質素なビルだった。真夏の焼け付くような陽射しもようやく少しずつ力を落とし始めた。最終競走まで競馬を堪能し函館競馬場を後にした高梨家の三人は、光の運転するカローラで鬼原組事務所の敷地へと入った。鬼原組専用駐車場と記入した看板が立つジャリを敷き詰めた駐車場には黒塗りの高級車が一台と、極一般的なファミリーカーが3台とめてあるのが見える。まだ5~6台分のスペースがあるようだった。光はカローラを駐車場に止めた。
何の変哲も無いスチール製の片開きドアの横には、幅30×長さ60センチほどの檜材に、鬼原組と墨書きした看板が掛けられている。看板は長い歳月に亘って鬼原組と太一郎の歩む様をしっかりと見届けてきたためか、人生の重さを感じさせてしっとりと滲んでいた。
組長の鬼原太一郎はビルの最上階に自らの執務室を構えていた。ビルの入り口からまっすぐに伸びる通路の正面にエレベーターが見える。最上階で扉が開くと、鬼原組事務所と刻印したプレートを貼り付けた硬質ガラス製のドアがあった。
ガラスのドアだから事務所内部が見えそうなものだが、パテーションが視界を遮るように配置されていて外側から事務所の様子を窺うことはできなかった。
高梨源吾は腕時計を覗いた。午後五時ちょうどを指している。太一郎と約束した時間である。
源吾が目配せするのを確認して、仁が先に立ってドアを押した。
パテーションを回り込むように事務所に入ると、屯(たむろ)していた十数名の組員たちが一斉に立ち上がり、源吾たちに鋭い視線を投げた。しかしそれはほんの一瞬のことで、殺気立ったその視線は瞬く間に穏やかなもの戻った。
「いらっしゃいませ。ご苦労様です」
全員が口をそろえて唱和するように挨拶した。
「今日は開いとらんのかい?」
源吾は床のほうを人差し指で指し示した。
すぐ下のフロアーには八畳間程度の休憩室がいくつかと、やや縦長の大広間になっている。大広間では時々花会(サイコロや花札を用いた賭博)が開かれていることを源吾は知っていた。
「へい。最近はなんだかんだとサツの取締りが厳しいもんですから。滅多に」
黒のシャツに白のネクタイをつけた坂東由三が代表して答えた。四十台後半の精悍な顔つきをしたパンチパーマの男である。
「さあ、こちらへどうぞ。組長がお待ちです」
坂東由三はそういって高梨の三人を組長室に案内した。
三人が坂東由三に案内されて組長室に入ると、一枚板の豪華なデスクについて帳簿に目を通していた組長の太一郎は、眼鏡越しに源吾たちに目を向けた。そしてパタンと音を聞かせて帳簿を閉じ、すくっと立ち上がって源吾たち三人に部屋の中ほどに置いたソファを差し示した。
源吾たちは太一郎に勧められるままソファーに腰を下ろした。使われている年月を感じさせ、尻の下でスプリングが軋んだ。
「どうだった? 今日のレースは」
太一郎は源吾の正面の安楽椅子に腰を下ろし、世間話でもするようにそう切り出した。
「直線が短い上に頭数も少ないからな。先に行ったほうが勝ち。そればかりよ」
「そうだろうな……」
気の無い返事をして、太一郎はドアの方に向かって「誰かいねえかぁ」と大きな声を出した。「お呼びで?」
顔を出したのは坂東由三だった。由三はドアの外で次の指示を待った。
「哲明はまだ戻らんか?」
「へい。先ほど電話がありまして。あと一時間もかからねえで戻られるようですが」
由三の答を聞いて太一郎は腕時計を覗いた。
「そうか。一時間てえと六時半近くになりそうだな。それじゃ由三。勇寿司に5名で予約入れてくれ。今から行くと。それから哲明と連絡がついたら、事務所へ戻らずまっすぐ勇寿司に来るよう伝えてくれ」
「へい。判りました」
「すぐ出るから、誰か若いもんに送るよういってくれねえか」
「へい。それじゃあヤスに送らせます。すぐ車を回させますんで、お待ちを」
坂東は組員たちが屯する事務所に向かって「ヤス」と大きな声で呼んだ。
走るようにやってきたのは二十歳そこそこにみえるサングラスをかけたスキンヘッドの若者だった。倉重安雄は由三の前まで来るとすぐサングラスをはずして内ポケットに入れ、直立不動の姿勢をとった。由三は太一郎からの指示をそのまま伝えた。
ヤスが駐車場へと出て行くのを見届け、由三は「用意できましたらお知らせしますので中でお待ちください」と一礼して引き下がる素振りを見せた。
「今日はわしも遅くなるだろうから待たんでもいい。」
太一郎は由三を呼びとめ、財布から一万円札を数枚抜き出して渡した。
「ヤスが戻ったら今日はもう事務所は閉めていいからな。皆に美味いものでも食わせてやってくれ」
「ありがたく頂戴いたします」
深々と頭を下げる由三を見て、太一郎は部屋に戻った。
それほど待たせることもなくビルの正面に車が回された。
「それじゃ、飯でも食いにいこうや」
太一郎が先に立って事務所のガラス戸を開け源吾たちが後に続いた。下まで見送りをしようとする子分たちを見送らんでもいいと制して、太一郎はエレベーターのすぐ前にある階段を下り始めた。
「相変わらず健康そうで何よりだ」
「どういうことだ?」
「いや、エレベーターがあるのに階段を使うとはな」
「エレベーターなど使うものかい。かえって時間がかかる。ほんのワンフロアー下るだけだ。ほれ、すぐそこが建物の出入り口だよ。小さな事務所だ。二階建てのな」
鬼原太一郎が下のフロアーに下りきったとき。出入り口のドアが開いた。顔を出したヤスが「どうぞこちらに」と、すぐ近くに止めた黒塗りの高級車に四人を案内した。
3
勇寿司と大きく筆字で書いた暖簾が、涼しさを取り戻した心地よい風に揺れていた。しかし無言のまま暖簾をくぐる鬼原太一郎の表情にも、後に続く高梨家の三名の顔にも、緊張感が漂っている。太一郎が先に立って入り口の引き戸を開けた。引き戸の開く音に板場から威勢のよい歓迎の声がかかったが、それは「へい!いらっしゃ……」と尻すぼみになって消えた。四人が店の中に入ると、雰囲気を察して女将が顔を出した。
「これは組長さん。ようこそいらっしゃいました。いつもどうもありがとうございます。お二階の座敷ご用意させて頂きましたので、どうぞこちらへ」
女将に案内されて四人は、不審の目を露に板場に立つ板長の前を、まるで右手と右足をそろえて出すようなぎこちなさで奥の階段へと向かった。部屋に通されても四人の緊張は消えなかった。原因を作った鬼原太一郎にとっても、どのような相談を持ちかけられるのか見当も付かない高梨の三人にとっても、緊張感は高まるばかりだった。
部屋の中には漆塗りの大きな卓が据えられていた。上座のほうに三名分の座椅子が置かれ対面するように二組分がセットされている。
太一郎は源吾に向かって「今日はお主が上座に座ってくれないか」と口に出し、上席を掌で示した。
女将は信じられないものを見てしまったという眼差しで太一郎を見つめた。
高梨源吾はうろたえ、仁と光は立ちすくんだ。このようにへりくだった太一郎を見たのは初めてだった。
組をたたむことを考えている。太一郎はそう言っていた。函館競馬の初日だったから六月末のことだ。あのとき源吾は組員やその家族のことはどうするのかと心配になって太一郎に問うた記憶がある。太一郎は十分わきまえており、事務所を売却した金を退職金代わりに支給するつもりだと言っていた。函館競馬初日の特別観戦室での話は、確かに両家にとってはジャブのようなもので具体的には何もなかった。しかし鬼原太一郎にとっては大きな何かがあったのだろう。源吾は自ら探りを入れるようなこともなく、むしろ忘れてしまっていたといっても間違いではない。だから源吾は今になって太一郎に対して申し訳ないことをしたと後悔し始めていた。
鬼原太一郎が持ちかけようとしている相談事はいったいどんなことなのだろうか? はたして源吾が乗り出して対処できるものなのだろうか? いや、願わくば誰が考えても高梨家では対処できないといえることのほうがありがたい。源吾は知らず逃げ腰になっている自分に気がついた。
四人の呪縛を解こうとするかのように、床脇棚(とこわきだな)に置かれた電話が鳴った。最初に勇寿司の女将が我に返って受話器をとった。
「ちょっと待って」
電話口にそう言い置いて、女将は太一郎に「哲明様からですがお繋ぎしても……」と確認した。
「繋いでくれ」
「はい繋いでください」女将は頷いて受話器を太一郎に手渡した。
太一郎はウン、ウン。と相槌を打つだけで受話器を置いた。
「なにかと忙しくしていてなぁ、あいつも。もうじきやってくるだろう」
太一郎がそういって腰を下ろすのを見て、高梨家の三人もそれを見てそれぞれの席に座った。
「女将。それじゃとりあえず熱燗を五~六本つけてくれ。あと、料理は板長に任せるのでよろしく頼む」
鬼原太一郎は努めて平静を装うように指示して女将を下がらせると、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。
女将が引き揚げてから仲居が酒と突きだしを運んでくるのにそれほど時間はかからなかった。鬼原太一郎は源吾たち一人ひとりに酌をして回った。その様子は太一郎が源吾たちにどうやって話を切り出したらよいか、話のきっかけを探る時間稼ぎをしているように見えた。
「なあ太一郎、俺と貴様の仲じゃあねえか。そんなに緊張してどうなるってんだ。こっちまで緊張が移っちまうじゃねえか。ははは」
源吾が場を和ませようとそう冷やかしたが、最後の笑い声は甲高く上ずって「ヒヒヒ」と聞こえる卑屈な声となってしまった。
「ありがとうよ。だがもう少し待ってくれんか? 哲明が何か新しい情報を持ち帰るかも知れんから」
太一郎はそういうと猪口になみなみと注いだ熱燗を一息に飲み干した。それを見て高梨家の遊び人たちも太一郎にならった。
四人は黙々と飲むだけだった。酒の肴にいろいろな話題を出してみるのだが、わざとらしい取って付けた様なものにしかならず、ついに皆諦めて飲むことに専念し始めた。それしか哲明が来るまでの時を過ごす術が思いつかなくなってしまったのである。だが哲明が到着するまでそれほど長い時間を待たされたわけではなかった。女将が始めに運んだ酒がちょうど空いたところだったから、時間にするとせいぜい十五分か二十分ほどのものだったであろう。
哲明はしかし部屋に入るなり場の気まずい雰囲気を察したようだった。
「申し訳ありません。すっかりお待たせしちまったようで……」
哲明はひとこと詫びてから太一郎の隣に腰を下ろした。
「で、話はさっきの電話のとおりなんだな?」
太一郎は哲明に確認した。
「譲る気配もありませんや。私の力不足で。すみません」
哲明は父親に頭を下げた。
「よし。わかった」
鬼原太一郎はついに心を決めたように、哲明に向かってきっぱりと言い切った。
太一郎が座椅子を外し畳の上に正座するのを見て哲明も父に習った。高梨家の三人にきっちりと礼を尽くした形をとったわけである。高梨源吾、仁、そして光の三人は鬼原太一郎がこれから語ろうとしていることに興味を抱き、その口元を凝視した。
4
七月も中旬ともなると、さすがに北海道にも夏の太陽が降り注いだ。じっとしていても額から汗がにじみ出る季節となった。
組をたたむ。
それは自ら言い出したことに違いない。親友の高梨源吾にそう宣言した以上、いかなることがあろうと男として取りやめることなど考えられない。息子の哲明に意見を求め、自分の見解が的を射ていると確信した鬼原太一郎だった。確信したからこそ、その見届け人として否応なく源吾に白羽の矢を立て、胸の内を打ち明けたのだ。
堅気の社会に発生するいろいろな揉め事を、非合法な手段を使ってでも丸く収める。それが侠客渡世の役割だった。そしてその仕事に見合った報酬を受け取る。いわゆる調停役である。かつては法の網の目が大きかったせいもあって、渡世の羽振りもよく、大手を振って歩いた時代もある。遠い昔のことだ。
今は合法的に解決する手段がいくらでもできた。“○○市役所苦情処理係”、“××区消費者救済センター”、“○○法律事務所法律相談室”等々、枚挙に暇が無い。後々にまで遺恨を残しそうな侠客たちの団体などに処理を依頼することなど考えられぬ時代になっている。
侠客渡世に身を置く太一郎たちに、ソロモンの栄華とでも言うべきかつての栄光などもはや何処にも残されていない。非合法の組織がひとつ消えようとしている。それは常識社会から眺めるなら、喜ばしいことでしかない。
侠客渡世と暴力団とはまったく別ものなのだが、堅気の世界では同じようなものと考えられている。問題の種とでも呼ぶしかないそのような存在価値を失ったトラブルメーカーは、一刻も早く消えてくれたほうが世のため人のためである。そんな風潮が現在の社会の中には蔓延している。鬼原太一郎はそのような気運を察知していた。
どの道先の無い稼業なら、すぐにでも手を打ってこれまで尽くしてくれた組の者たちを何とか救いたかった。組の若い衆にまだ十分な力があるうちに、真っ当な仕事を見つけてほしい。これが太一郎の組長としての親心とでも言うべきものだった。
もうひとつ太一郎に決断を躊躇させることがあった。それが多分に鬼原太一郎の精神的なためらいであることは太一郎本人も十分に自覚していた。太一郎にとって組を解散するということは、先代から受け継いだ鬼原組の看板を放棄するということなのである。父がどんな思いで組を大きくし自分に引き渡したのか? それを思えばまさに断腸の思いだった。
自分の中で結論を出せず苛立つ気持ちを持て余し、いっそのことここで息子の哲明に総て身代を譲ってしまおうかと考えたこともあった。そうすることが可能ならば心の重荷はなくなり楽になるのだろう……。自分は古い人間なのかもしれない。そう問うてみるのだけれども出るのは答えではなく溜息ばかりだった。すると何処からか胸の中に声が聞こえた。
「それは卑怯者の結論ではないか。長たるものが道を決めようとするとき、しがらみなどに悩んでどうする。お前の思うとおりに生きるしかない。ここで躊躇しては何も進まないではないか。決めた道を歩むということは負けたということではない。前進することなのだ」
それは先代の声であった。精神的に疲れきった胸の中に先代の声が語りかけ、太一郎を戒め、励ましたのである。鬼原太一郎の頬を決意の涙が伝った。それは男の涙だった。
これが太一郎が重い腰を上げるまで更に十日間の日を要した顛末だった。
目の前に旧桟橋の面影を漂わせる薄汚れた船着場、今はもう史跡とでも言うしか庇いようの無い古い町並み。北洋の上がりで町中が息づいていたころは相応の賑わいを見せた界隈も、衰退とともに色あせ、今はただひっそりと沈黙した景観を見せるだけになっている。その一角にコンクリートの小さな三階建ビルが、後ろに幾つもの倉庫群を従えるようにして建っていた。
倉庫群の向こうは急な上り坂が何本も走り、そこにへばりつくように数え切れないほどの住宅が建ち並んでいる。
ヤスは黒塗りの高級外車を水島海運の正面に横付けした。何事かと驚いた若い衆が飛び出して出入り口を固める。いずれも一癖ありそうな強面であった。
道路に面した広い間口の出入り口はガラスの四枚引き戸になっており、外側には巻上げ式のシャッターが今はすっかり開かれていた。開け放した引き戸のぶ厚いガラスには、大人の目の高さほどのところにサンドブラストの吹き付け文字で社名が掘り込まれている。文字は水島海運(株)と読めた。
敷居の向こう側は広い土間で、その先に上がり框と何の変哲も無い畳敷きの大広間がある。人足寄場なのだが屯する人数は少ない。五~六名の揃半纏を羽織った若い衆が、忙しそうに走り回っているのが見えるだけだった。
ヤスは車を出て右手に回り込み、後部座席のドアを開いた。鬼原太一郎が車を降りるのを見て、南雲宗次という格闘競技の選手のような体躯をした水島組の若頭が急ぎ足で近付いてくる。
鬼原太一郎に視線を送って、若頭はその日焼けした顔に笑顔を浮かべた。
「これはこれは鬼原の組長さん。ようこそいらっしゃいました」
「親分はいたかい?」
鬼原太一郎は北海道訛りの過去形で訊ねた。
「はい。上の事務所に居りますが、少しお待ちを」
南雲宗次は近くにいた若い衆に「鬼原の組長さんがお見えだ。どちらにお通ししたら良いか、親分に内線で聞いてこい」と命じた。
「へい」と返事をして内線電話を取った若い衆はすぐ若頭のところに戻り「連合会の事務所でよろしいそうです」と小さな声で伝えた。
「どうぞこちらへ」
返事を聞いた若頭は太一郎を先導するように上階への階段を上り始めた。
太一郎は歩きながら「どうだい最近の景気は?」と、若頭の背中に向かっていった。
「さっぱりです。下ろしたくても下ろす荷が入らねぇんでさ」
南雲は背中を見せたまま答えた。
水島海運は大型貨物船に荷役人足を派遣する仕事を生業としている。南雲がそういう以上業績はあまり芳しくないのだろう。
「そうかい。そいつはいけねえなぁ。顔色がいいんでよ、景気も上々と思ったんだが」
太一郎は若頭をからかうように言って笑った。
「かなわねえな、親分さんには。こいつはゴルフ焼けってやつでしてね」
南雲もそういって笑い声を出した。
階段から二階の廊下に出てすぐ正面に、ただ連合会事務所とだけ書かれたドアがあった。南雲はドアをノックした。
「お連れしました」
若頭ははきはきした口調でドア越しに声をかけた。
「おう。入ってくれ」
少ししわがれた声がドアの向こう側から返ってきた。
若頭は大きくドアを開き体を引いて鬼原太一郎に道を譲って「どうぞお入りを」と勧めた。
水島海運社長の水島健之助は、連合会会長を兼ねていた。部屋に入ると会長用デスクの横に立った水島健之助は、歓迎の笑みをたたえて太一郎を迎えた。南雲宗次が太一郎に続いて部屋に入るのを見て水島は「お前は下に戻っていいから」と命じた。
「ありがとうな」
太一郎が声をかけると若頭は「ごゆっくりなすってください」といってドアを閉めた。
「ご無沙汰しておりまして」
鬼原太一郎が挨拶すると水島健之助はソファを勧めて、自分も太一郎の向かい側に腰を下ろした。
「こっちこそ。元気そうで何よりだ」
水島会長はにこやかに挨拶を返したが、七十歳を越えたであろうその目には、太一郎が何をしにやってきたのか探ろうとする光が宿っていた。
「今日は、お願いがあって参上しました」
鬼原太一郎は話を切り出した。
5
鬼原太一郎からの申し入れを聞いた水島海運社長の水島健之助は事の緊急性を感じ取り、この土地に事務所を構えるもうひとつの勢力、四葉幸福会に電話をいれた。水島健之助からの知らせを聞いて四葉幸福会会長の二階堂与右衛門(にかいどう・よえもん)は、連絡の内容にひどく驚いた。二階堂与右衛門はもう九十歳に手が届こうかという高齢だったが、無理をしてでも行くから明日にでも緊急幹部会を開催しなければならんと言い張った。
北海道南部に位置する函館市は太一郎や水島健之助が生きる渡世の上で外見上は見事に秩序を保っていた。
金看板を譲り受けると新任の親分はその縄張りを守ることそして一刻も早く自分の顔を売ること、この二点を本分とばかりに振舞うようになる。すると他の組が仕切っている島内のほうが、自分のものより羽振りがよく見えて来たりするものらしい。羨望という名のフィルターが自動的にかかるからだ。羨望はおのずと闘争心に変わり始める。これまで穏やかな日々が続いていればいるほど急激に……
あそこだけは何とかして、いや、何としても自分の縄張りにしたい。欲望という名の邪心が大きく膨らみ、ほんの些細なきっかけで縄張り争いといわれる抗争への引き金を引かせるのである。
このようなつまらない争いごとを回避するため、連合会を組織した三組織はこの地において縄張りというものを普通とは違う形で捕らえようと決心した。それぞれが生業とする仕事を分野別に色分けをしたのである。
水島海運は造船・荷役を含む海事の全般を担当。四葉幸福会は建設工事を。そして鬼原組が舞台・興業関係そして賭け事など遊興全般を受け持つというように、地理的な線引きではなく仕事の内容で分担を決めたのだった。
そのほかバー、キャバレーなど風俗店についてはカードを配るように担当する店を配分し、新たに参入してくる店についてはローテーション方式で割り当てることにした。この方法であればお互いの生業の中に土足で踏み込むこともなくなり、有事の時には、三組織が協力して事に当たることができるようになるはずだから、組のためにも得策だろう。発案した鬼原組の先代貸元はそう確信したのである。
同じ渡世に生きる上で無意味な抗争は避けるべきだ。鬼原組先代の主張したことである。他の代表ふたりも心の奥では同じ考えを持っていたので三人の親分衆は取り入れて見ることにした。
始めは試行ということだったこの方式は、思ったより無理の無いすべり出しを見せ、仕事も円滑に進み出した。
このようにバランスのとれた状態は渡世としては希なことだった。かつては切った張ったの血生臭い抗争があったことなどすっかり影を潜め、三組織とも全うな堅気衆と同じように明るい太陽の下で仕事をするようになった。
このことで、連合会を作り上げた三人の力量は高く評価されるに至ったのである。
そうはいっても体の中を流れるのはやはり無頼の血であることに違いはない。徒党を組んでの抗争こそなくなりはしたが、他人同士の付き合いが多くなった分、個人的な喧嘩やいざこざは逆に増える様子をみせはじめた。
そうなると堅気の衆は結束して渡世人の集団を悪と決めつけ、排除のための運動を起こしたりし始める。哀れなのは渡世人のほうだった。小競り合いであっても堅気の衆が勝つと、負けた渡世人側は警察に捕まって悪行けしからんと投獄されるし、渡世人側が勝てば勝ったで暴力行使の理由で投獄された。昔は協力しあって町を良くしようと生きてきた筈なのに……
やがて渡世人たちが皆そのように感じ始めたとしても何の不思議もなかった。
「あっしたちが申し上げてえことは、以上です」
鬼原太一郎は昨日と同じ話をあらためて話し終えた。連合会に提出された鬼原の申し出について連合会長は自分が間違いなく四葉幸福会に伝えはしたが、せっかく提出者本人がいるのだからと再度説明を求めたのだった。
「きは…きは…くミちちちょき…いいたい…わかった…ほっほっほかの…めいわく…かい?んだべや」
二階堂与右衛門は半年近く前に脳血栓を発病し現在その治療中だった。呂律が回らなくなった兄の言葉を横に付添った弟の二階堂草庵が通訳した。
「『鬼原の組長。お前のいいたいこたあ良くわかった。だが、そいつは他の組に大きな迷惑をかけてしまうことになるんじゃあねえのかい? んだべや』兄はこう申しとります」
通訳を確認して二階堂与右衛門は大きく頷いた。
この日連合会事務所に集合したのは各組を代表する上位二名ずつ。鬼原組から鬼原太一郎と代貸しの哲明。水島海運㈱から社長の水島健之助と若頭の南雲宗次、そして四葉幸福会から会長の二階堂与右衛門と弟の副会長、二階堂草庵。この六名だった。
連合会のだだっ広い事務室に横長の会議用テーブルを三角形に配置して各組の二人が一卓に並んで席に付いた。お互いに顔を突き合わせて話ができる配置である。
「迷惑? ある程度は止むを得ないかもしれんなあ」
「今ま…で何年…こっこっこのさっさっさん………ねえか。…どこかの…が一回…足引っ張……でもした…? …親父の……守ってきたじゃあ…か。太一郎…それをおま……が……うのかい」
「『今まで何年間もこの三人でやってきたじゃあねえか。どこかの組が一回でも足引っ張るような動きでもしたか? お前の親父の理想を守ってきたじゃあねえか。太一郎よそれをおまえ自身が壊しちまうのかい』と言っとります」
鬼原太一郎は言葉が出なかった。二階堂与右衛門は口が回らなくなってもなお平和で過ごす事ができたときのことを必死になって訴えようとしているのだ。
だまりこくった太一郎を見て哲明が慌てて話を繋いだ。この手の交渉では黙り込んだほうが負けなのである。
「会長さんのおっしゃることは私らの中の正論でさぁ。堅気の考えはまた違うんですよ」
哲明の答えに二階堂与右衛門は怒りをあらわにした。
「なんなんなん……こっこっこっ……の…がああっ!」
「『なんだと! この、若ぞうがあっ!』と申しとります」
「四葉の会長さん、そうお怒りにならずに聞いてください。私らは確かにうまくやってきた。しかしそれも上辺だけ。考え方は今でも極道のまま。任侠渡世にどっぷり浸かったままでさぁ。兵隊の数だって会長のところが八十人足らず。水島の社長のところが百人くらい。うちと来ちゃあ二十人そこそこ。合わせたって二百人いるかどうかって所じゃねえですか。対して堅気の衆はこの函館市だけで十万人からいるんですぜ。警察なんかもほとんどが市民側。昔のように揉め事調停を私らに依頼する堅気集ななどどこにもいなくなっちまった。それなら逆にあっしらが堅気になったほうが話は早いし、いい世の中になるんですよ」
哲明の話しを聞いて太一郎は頷いた。
哲明もずいぶん大人になったものだ。太一郎は自分の息子を頼もしく見つめた。
話はもつれた。緊急会議は五時間に及んだが結論は出ず、近いうちに再協議ということになった。
「なあ、鬼原の。組長、いや貸元の言いたいこともよぅ判る。しかしどうだい? ここはもう少し我慢をして様子を見るってぇことにはできねえのかい?」
これが水島海運㈱水島健之助の最大の譲歩だった。
「勘弁しておくんなさい」
鬼原太一郎はきっぱりと断った。
「わかった。」
水島健之助は寂しさと憤りが交じり合った切ない目を見せた。
「二三日、組の事務所にいてくんねえか。こっちで相談して、必ず連絡する」
健之助は鬼原父子にそう命じてから二階堂与右衛門の様子を探るように見た。
二階堂与右衛門は目を閉じて頷いた。
第4章 解散の条件
1
「連合会はわしたちが組をたたむことを認める条件として、迷惑料を支払えといってきやがったのよ」
鬼原太一郎は忌々しげに打ち明けた。
しかし太一郎の打ち明けたこの難題が、源吾たちにとってまったく予測の付かないことだったのかといえば、決してそうではなかった。連合会が提示してきた迷惑料を支払うというその行為は、高梨家に限らず堅気の世界ではむしろ一般的に行われていることではないか。迷惑料、違約金、退会手数料。言葉は様々だが数多くの契約行為について回るものと捕らえてよいだろう。鬼原太一郎の住む渡世に本件に関する契約書とか覚書が存在するかどうか、源吾たち三人はもとより、鬼原太一郎もまったく知らなかった。かつて先代の鬼原組長が水島海運㈱社長そして四葉幸福会会長との三者で取り決めたことだからである。
水島社長と四葉幸福会の二階堂与右衛門会長はきっと事の顛末については知っているはずである。だが二人の口からその事を聞くことは不可能に近い。いざとなれば堅く口を閉ざす腹に違いない。
しかし仮に記名押印した正式な書付など存在しなかったとしても口頭での約束があることさえ証明できるなら契約条項として立派に成り立つのである。
金さえ払えば足を洗うことができるのなら、これほどすっきりとしたけじめの付けかたは他には無い。高梨源吾はそう思った。
「そりゃあ方法としては後腐れが残る心配もいらんし、手続きも簡単で結構なことじゃねえか?」
高梨源吾は三人を代表するように安堵の声を出した。
悩みに悩んだ末に相談した太一郎に、源吾の答えは他人事のような響きを持って聞こえた。
親友といっても結局は異なる渡世に身を置いているわけだから、相談を持ちかけた自分のほうが軽率だった。ふとそう思うと太一郎は寂しさに取り憑かれた。やがてその寂しさは腹の中で徐々に怒りへ姿を変え、鬼原太一郎は高梨源吾を睨みつけた。
「その数字にもよるだろうが」
太一郎は声を荒げた。
源吾は太一郎の口調で親友の気持ちに気づいた。確かに提示された数字が簡単に話の付く程度のものだったなら、わざわざこのような席など設けてまで源吾に相談する筋合いのことではないのだ。それを承知の上で太一郎は源吾に何かを頼もうとしているのである。だから軽々しく口を挟んではならないことだったのだ。
「そうだよな。許してくれ」源吾は素直に詫び、「で、言ってきた額は?」と太一郎に先を急かした。
「途方もなくといったほうがいいくらい法外な金額だった。それで幾日か前から哲明を金額の交渉に行かせていたんだが、取り付く島もねぇってやつで……」
太一郎の憤りも源吾が折れたことで静まったようだった。
「水島海運の水島健之助にしても四葉幸福会の二階堂与右衛門会長にしてもそんなに話の判らん男じゃあなかったんだが、出てきた答が答なもんで、わしらとしてもどう対応したものかと……」
「いや、哲明がもう金額の交渉ってことで動いちまったんだから、その線で進めるしか方法はないと思うな。俺は」
それまでただ黙って話しを聞いていた仁が、口を挟んだ。酒好きの仁の顔は既に赤く変っている。ただ滅法酒には強く、幾度か酒宴に同席した太一郎と哲明にしても、一度も仁の酔いつぶれた姿を見たことはなかった。深酒をして酔いが仁の限界に達すると、その途端に眠ってしまうという実に性質(たち)の良い酒飲みだった。
「どうしたらいいかということについてはこれから考えるとして、ここで交渉の方向転換はすべきじゃないと思いますよ」
仁は自分の杯に酒を注ぎながら言い切った。
「なぜかな? 仁くん」
太一郎はことさら穏やかに仁に問い返した。
「当たり前のことでしょう。会議を開いた上で水島と四葉が突きつけた条件を親分さんは蹴ったわけですよ。金額が法外だという理由でね。ただ哲明を代人として金額の交渉に入ったということは、大筋その方向で行こうと意思決定をしたことにもなるわけだ? それがここでまた他の手立ては無いかと模索し始めるなら、こちらの腹がまだまだ決まっていないと種明かしをするようなものでしょうや。違いますか? え、親分さん」
仁による状況分析は的を射ていると太一郎は頷いた。
「きっと連合会の水島と二階堂が提示してきた金額は、その金が欲しいということではなく、むしろ鬼原組を連合から脱退させたくないという意味合いのほうがずっと強いものなんだと俺は思いますがね」
「その通りだとわしも思う」太一郎は相槌を打った。
「で、提示された額ってのは?」
源吾が訪ねた。
太一郎は人差し指と中指をVサインのように立てて見せた。
「二百万か」高梨源吾はつぶやいた。
「桁が違うよ」
「二千万だと!」
あきれる源吾に太一郎は追い討ちを掛けた。
「もう一桁上だ」
「に、二億円だと!」
源吾たちは揃って叫び声を上げた。
それは迷惑料としてはもはや常軌を逸した金額に違いなかった。
鬼原太一郎はそのような巨額の金をいったいどうやって工面するつもりなのか、源吾は首を捻った。また鬼原太一郎がこのことについて、いったい何を源吾に期待しているのか、それもまた謎のひとつだった。
いくら頑張っても、高梨家には二億円の余剰金はないのである。鬼原太一郎にしても高梨家の経済状態がどんな具合なのかということくらい知っているはずなのだ。
太一郎は源吾に対して、頼みたいことがある、といった。それは決して借金の申し入れではない。とすれば……
「なあ太一郎よ、お主、このことでわしたちに頼みたいことがあるといっていたな。そいつは一体なんだ? 言っておくが我が家に二億の金なんて無いからな」
太一郎は愉快そうに笑った。
「金を貸してくれとは一度だって言っちゃいねぇだろうが」
「じゃ、何を……」
源吾が言いかけたとき、光が割り込むように口を開いた。
「そうか、わかった。わかりましたよ、親分さん」
光は真剣な顔をして太一郎を見つめた
2
高梨光は松風閣の大浴場で少し白く濁った硫黄泉特有の匂いがする温めの湯に肩まで浸かり、心地よさに身任せていた。
長方形をした大きなタイル張りの浴槽は長辺一辺が硝子張りの壁に接しており、その向こうには中央に広く池を置いた日本庭園が広がっている。庭園は光が入っている大浴場も含めて温泉宿全体を、黒の板塀で囲まれていた。
午後四時半。空はまだ十分な明るさをとどめている。
恒例となった高梨家の家族会当日となった。幹事としてその約目を引き受けた源吾、仁、そして光の三人は何かあれば対処しようと少し早めに松風閣に入ったのだった。しかし完璧といってもよいほど鬼原哲明が段取りを済ませてくれていたので、高梨家の三名を心配させる事柄は一切なかった。
三人は哲明に厚く礼を言って、せっかく早く来たのだから一足先に疲れを癒そうと、大浴場へと向かったのだった。
光は湯に浸かりながら一週間前の出来事を思い起こしていた。それは一瞬光の頭の中を過ぎったひらめきだった。
「そうか、わかった。わかりましたよ、親分さん」
「ほう。光くん。わしたちが高梨に頼みたいと言うことが判ったと?」
鬼原太一郎が優しい表情で光に向き直った。
「光、無責任なことを口にしちゃいかんぞ」
源吾が光を窘めた。
「構わんから言ってみなさい」
鬼原太一郎にいわれて、光は太一郎を見て嬉しそうに笑みを浮かべた。
「親分さんは私たちにその途方も無い金額を何とか作ってほしい。そう思っているんですね」
源吾と仁は驚いてのけぞりかえった。
太一郎は目を大きく見開いた。
「おお。実にその通りだよ。光君のいう通りなんだ」
鬼原太一郎は光の勘のよさに舌を巻いた。
「何を言い出すんだ、太一郎」
源吾が強い口調でそういった。どう考えてみても二億円などという金額を調達できようはずもないのだ。
「高梨の全財産を寄せ集めたとしても、せいぜいその十分の一あるかないかと言う所だ。手助けしたいのは山々だが、無理なものは無理というしかなかろう」
源吾は手元のお絞りを手に取って、額の汗をぬぐった。
「おぬしたちが二億円もの金など工面できないことはわしにも良くわかる。堅気の衆の懐にそんな大金が入れられていることなど、失礼だがありえないだろうさ」
「だから親分さんは、貸してくれじゃなしに、作ってくれと言ってるんですね」
得意満面に言葉を返す光を、仁が口調を強くして「何を言うんだ、光」と窘めた。
見かねた仁がきつい口調で光の暴走を抑えようとした。
「構わんのだよ、仁君。光君のいう通りなんだからな。それにしても源吾、わしはお主の一派の勘のよさには良さには舌を巻くよ」太一郎は少し笑ったが、すぐ真顔に戻って「わしが頼みたいというのは、正にそのことなんだよ。ここから先は哲明に説明させる。何せわしは数字に弱い」
太一郎から命じられた哲明は、わかりやすく噛み砕いて説明した。
鬼原組には二十六名の若い衆がいた。まだ組員たちに解散の話しは出していない。しかし組を解散することになったときには、彼らの当面の生活を補助してやりたかった。
鬼原組長の勝手な判断で行う解散で、金で解決する話ではないということは承知の上だった。 せめてもの侘びと感謝の念を込めて、ひとりに付き平均八百万円の一時金を渡してやりたかった。次の勤め先が見つかるまでのつなぎを考えてのことだ。その額を合計すると約二億一千万円になる。
鬼原組の台所事情はといえば相当苦しいものがあった。手持ちの資産を寄せ集めても五千万円程度しかない、五稜郭公園裏の土地建物を売却すれば二億円でほどにはなるだろうが、仮に売れたとしても半分近くは税金で持っていかれるはずだ。一億二千万円程度が残るかどうかなのだ。合わせても一億七千万円。これまでの長い歴史の中で買い揃えた書画骨董の類を処分してもせいぜい5千万円がいいところだろう。総てを合わせても二億円を少し超える程度である。そんな中から連合会に二億円もの迷惑料を支払ったなら、退職一時金の支給など夢のまた夢となってしまうのである。
そこで太一郎は哲明を表に立てて迷惑料の交渉を行うことにした。二億円などという金額はその算定に根拠など何一つないはずだから、せいぜい一千万程度で穏便にことを済まそうと持ちかけたのだった。しかし水島海運㈱も四葉幸福会も頑として首を縦に振らない。
今まで長い年月にわたってこの函館市をうまく取り仕切ることができたのは、連合会が三者で構成されそのほかの勢力を完璧に排除するという姿勢を採ったからである。ここに来て鬼原が廃業するということは、バランスを欠くことを余儀なくさせる重大な違反行為といえる。それは鬼原の食い扶持を残る二社で平等に分割したとしても、もはや納得のいくものは望めないだろう。組の規模から見ても鬼原には失礼かも知れんが水島と四葉にとって鬼原の縄張りというか、役どころというものはそれほど触手の動くものでもない。むしろ連合会における鬼原組の役目が、鬼原によって正常に機能していることが最も重要なことなのだ。だからどうしても解散するというなら今年の十二月三十一日が新年へと移り変わる前に、迷惑料として二億円をきっかりと、耳を揃えて持って来い。それ以外に解散を許す方法は無い。連合会の二者による意志はそう決まっていて動くものではなかったのである。
「わかりやした。それじゃあ年末までに二億円。みみぃ揃えて持っていきますんで。そのときにはヨロシク」
哲明のほうが穴を捲る形になった。これで二度と交渉の席は用意されなくなったのである。関係を元に戻すためには、仲立ち人を立てて哲明から詫びを入れなければならない。しかし詫びを入れるという選択肢は何処にも無い。これから先、自分たちは水島や二階堂たちとは違う世界で生きてみせる。鬼原哲明はそう決心した。
勇寿司で哲明から語られた説明をそこまで思い返したとき、光の頭の上から手桶一杯の湯が
勢い良く降り注いだ。光はびっくりして浴槽の中でひっくりかえった。慌てて湯に沈んだ体勢を立て直し後ろに視線を送ると仁が大笑いして突っ立っている。
「何をボケエっとしているんだ。宴会まであと四十分ばかりだ。そろそろ上がるぞ」
仁は上機嫌で脱衣場へと出て行った。
窓外の日本庭園もすっかり夜色を見せ、いまはまだ薄いシルエットでその輪郭を教えているが、やがて闇の中に溶け込んでしまうのだろう。
光も慌ててあがり湯をかぶり、仁の後に続いた。
3
ハンドマイクを手にした光が少し恥ずかしそうにステージの中央に歩み出る。家族会に出席する高梨家のメンバーは既に大広間に設えられた夫々の席に付いており、その場から光に向かってひやかし半分の盛大な拍手を送った。
「皆さん。本日はお忙しい中お集まり頂きまして、ありがとうございます。今年も恒例の家族会の日になりました。幹事を務めさせてもらいます光です。今夜はご厚意によりまして、この宴につきましては鬼原組が進行を担当してくださることになりました。盛大な拍手でお迎えください。鬼原組のヤスさんです」
光が紹介するとスピーカーを通して大広間にファンファーレが高らかに鳴り響いた。
席に付いている高梨家のメンバー全員が拍手で迎えると中、上手から大きな体をした若者が足取りも軽やかに現れた。まだ二十歳そこそこに見える長髪の若者だったが、そのロングヘアーがいかにもわざとらしい。よく見ると、いや、よく見なくともカツラであった。光が紹介した通り鬼原組のヤスが頭の上に明らかにそれとわかる長髪の鬘を乗せて、水を得た魚のように躍り出たのであった。
ステージ上でヤスにマイクを渡して一礼し、光はステージを降りた。
「ドーモでーす。高梨家の皆さん、本日は松風閣特設ステージにようこそぉ! ついにやってまいりましたねぇ。家族会。年に一度の楽しい楽しい、待ちに待った夏の恒例行事。高梨家の家族会でーす」
小学校三年生のときの運動会で始めて校内放送係なって以来、中学を卒業するまでずっと自ら進んで放送係を続けるほどヤスは放送が大好きだった。しかし高校に進むとすぐ両親の離婚という不幸な出来事が安を襲うことになった。高校も経済的事情で中途退学を余儀なくされ、 ヤスの夢は消えた。ヤスはぐれた。喧嘩と酒におぼれる日々が続いた。そんなヤスを救ったのが鬼原太一郎だった。鬼原組が面倒を見ているカラオケスナックで、ヤスの歌声が爽やかな響きで太一郎の胸に届いたのである。
余興用ステージの裏には特別放送室があり、モニター画面を見ながら音響や効果の調整をしているのは板東由三だった。ヤスが張り切っているのに比べ由三は辛そうだった。放送の調整など完全に門外漢で、二三日前にヤスから器械の操作方法を急遽教えてもらっただけでこの場に臨んでいた。集まっているのが組長の大切なお客様であることを知っている板東由三だけに、失敗は許されないと決めてかかっていた。だから何から何まで、板東由三にとっては苦痛でしかなかった。宴席の時間は長くて三時間。その間だけ何とかしのげばいいんだ。由三はそう言い聞かせて器械を操作しているのだった。
ステージを正面に見る形で高梨源吾と君子の本膳料理が三の膳まで揃えられ源吾も君子も幸せそうな笑顔を見せて席に着いている。源吾夫妻の席を縦棒にしたコの字形にする並びで、大広間の窓を背にして長男満家の満、妻の多佳子、そして光の妹たちが楽しげに笑い顔を見せている。続いて常と静香夫婦と高校生になる二人の子供たちが並んで席を埋めていた。
仁と郁江夫妻とその大学生になった息子そして中学二年生の娘は満の家族たちと向かい合う形で、大広間の出入り口となっている襖を背にしていた。
仁の家族から少しだけ間を置いて用意された席が光の席、つまり幹事席ということだった。
高梨源吾の挨拶とたっぷり一時間ほどの会食の後、皆が楽しみにしていたイベント・タイムに移った。
「さあ、お待ちかねイベント・タイムで~す。早速はじめましょう。最初の余興はどなたでも参加できますよ。そう皆様お待ちかねの遠くにポン。なんとあの遠くにポンです。競技に参加なさりたい方々はこれから受け付けますのでね、どうぞステージに上がってくださいね」
ヤスが雰囲気を呷るような口調で呼びかけると、宴席の総てのメンバーが立ち上がってステージへと向かった。
「説明しま~す。ステージの右側に白テープを貼っときました。白テープから出ずに左側の壁に向かってですねぇ、こう、百円玉を抛ってください。テープから壁までは五メートル。壁にこつんとぶつかったりころころ転がってステージから転がり落ちたならその場でアウト。有効投球のうち一番遠くまで飛ばした者が勝ち。そのゲームの百円玉を総取りできるって寸法でーす。さあ、それじゃあ早速ゲーム・スタート」
スピーカーから流れ出す曲がクワイ河マーチに変わった。
「由三兄貴もだいぶ慣れてきたようだな」
ヤスは思わずにやりとした。
「さあて、それでは一番バッター。常さん御一家の長男、浩忠君どうぞ!」
指名されて白線の前に立った高梨浩忠は手のひらを上に向けて広げ、その中央に置いた百円硬貨を手首のスナップを効かせて柔らかく抛った。硬貨は放物線を描いて壁まであと1メートルばかり手前に落ち、壁のほうへ向かって少し転がってやがて止まった。壁まであと45㎝というところである。
「お見事、浩忠君。では次は満さん御一家の朋代さん。どうぞ!」
ヤスはテンポ良く紹介する。
朋代のストロークは構えからして浩忠とは異なっていた。手の平を握手でもするように縦にし、親指の爪の上に硬貨を乗せた構えだった。
「秘技、爪コイン」
朋代はきっぱりと言い放ちじっと壁際を凝視する。クワイ河マーチがフェードアウトし、代わりにドラムの音が盛り上げる。
朋代は人差し指のばねを利用して親指を弾き抜いた。硬貨は天井のほうに向かって高く舞い上がっり浩忠のコインを15センチほど置き去りにしてステージ上に落下。その場で独楽のように二三秒間くるくる回り、やがて横倒しにチャリンと音を出して止まった。
「おおっ」
一族の中から歓声が沸きあがる。
高梨家のメンバー一人ひとりが修練を積んだ“遠くへポン”に対する執念は凄まじく、新しい技が乱れ飛んだ。そして第一回戦は仁の女房である郁江が最後の選手だった。郁江は白癬の
後ろに立ち、じっと目をつぶり精神を集中させている。
やがてかっと目を見開くと親指と人差し指で硬貨を挟み持ち、捻りを効かせて床に叩きつけた。
「恐るべし…秘技、ひとべらし!」
仁は女房の技を見せ付けられて立ちすくんだ。
コインは力強く回転しながら、まるで先にポジションを決めていた夫々の硬貨を狙うようにステージ上を走り、次々にステージの外へと弾き飛ばしていく。残った硬貨はポジション的に見て勝ち目のないコインばかりだった。
ステージの上はヤスの進行が巧みだったこともあって大いに盛り上がった。光がほっとしていると、和服姿の仲居が光に近付いて「すみません。鬼原の親分さんがお呼びなんですが」と告げた。
光は頷いて中居に案内されるように部屋を出た。
階段を上って二階の突き当たりに楓の間と表札の付いた部屋があった。中居が「失礼します」と声をかけると、内側からドアが開けられた。
「宴会中に申し訳ない」
鬼原太一郎は光にひとこと詫びて「どうだい? 先日の件だが」と付け加えた。
「はい。一応こっちの案はまとめてみました。明日にでも答えを持っていこうと考えていたんですが」
光が答えると太一郎は嬉しそうな顔を見せた。
「そうかいそうかい。なら明日を待つこともねえべ。宴会も十時には終るだろうからよ、その後ででも聞かせてもらえんかな? ここで待ってるんでよ」
太一郎はそういって光に杯を渡し、酒を注いだ。
4
鬼原組のヤスは遠くにポン10セットを終了させると、カラオケ大会、そして源吾夫妻がスポンサーとなったビンゴゲームへとイベントを進行させた。
豪華な食事と酒、小博打そしてカラオケで憂さばらしをした高梨家の家族たちは、心地よい疲労感に包まれていた。
進行係を努めたヤスは様子を見て宴会を打ち切り、ステージ上のマイクをスタンドから外した。
「さ、おなかのほうも一杯になって宴会ももういいやって感じですね。それじゃああとは、体力の残っていらっしゃる方々だけでやっていただきましょうかね。この席はここで名残惜しいんですけれどもね、閉めとさせていただきます。もしこの後体力バッチシの方、麻雀でもやりたいって方がいらっしゃいましたら、この隣の部屋に自動卓3台を準備してありますのでご利用ください。朝9時までオーケーですのでご遠慮なく。それからお風呂のほうは二十四時間いつでもご利用いただけますのでね。のんびりとお過ごしください。それじゃ高梨家の家長、高梨源吾さまに乾杯のご発声をいただき楽しかった会を終了したいと思います。お願いできますでしょうか?」
嬉しそうに立ち上がった高梨源吾はステージに上がるとヤスに歩み寄り、そのごつい手を強く握りしめた。ヤスは涙顔になって源吾の手を握り返した。
「由三さんですか、裏方は?」
マイクをスタンドに戻そうとしているヤスに源吾が囁くとヤスは小さく頷いた。
「紹介したいから呼んでくれませんか」
ヤスは困惑の表情を見せ、それでも思い切って源吾に「だめです」と返答した。
「なぜ?」
「お気持ちはありがたくお受けしますが、人には決して群衆(ひと)の前に出ちゃあならねえ人間ってのもいるんじゃあねえんでしょうか。若造がなまいき言いました堪忍してください」
ヤスはそれだけ言って、マイクをスタンドに戻し終えると源吾に場を譲った。
恒例となった家族会の宴席も盛会の内に終了した。幹事の光は楓の間に内線を入れた。宴会が終ったのでこれから伺っていいかとたずねると、「時間はたっぷりあるから明日の麻でいい。今日はのんびりしてくれ」という答えが返ってきた。先ほど呼びつけられたときには一刻も早くという様子だったので、光は少し不思議に思った。きっと哲明にでも窘められたのだろう。
「それでは朝食の後でよろしいですね」
光は受話器を置いた。
「今夜でなくともいいんだな?」
質問に光が頷くのを見て、常は嬉しそうに顔をほころばせた。
「それじゃあよ。ひと風呂浴びてから、かるーくつままねえか?」と、親指と人差し指を使って麻雀牌をつまむ格好をして見せた。
常の提案に賛成して常、仁、源吾、そして光の四人は風呂から上がるとまっすぐに大広間の隣に設えられた麻雀部屋に向かった入った。部屋の中では既に光の妹たちの和代、朋代の姉妹、と常の子供たちの浩忠、晃忠(あきただ)兄弟が卓を囲んでいた。どうやら和代が大勝ちしているらしい。
「がんばってるな」
光が笑って声をかけると和代はVサインを出して見せた。
和代は麻雀の腕前にかけては光も一目置くほどの腕前だった。このメンバーならまず負ける心配はないだろう。
「あんまり勝ちすぎるなよ。泥棒呼ばわりされたくなけりゃあな」と光が諭すと、和代はぺろりと舌を出して見せた。
四人は部屋の一番奥の卓についた。皆を宴会の酒のせいだろうか、心地よい睡魔が襲っていた。
「明日のこともあるから今夜は時間を決めてやろう」
仁が提案すると源吾と光が賛成したので常もしぶしぶ了解した。
源吾たちはこれまでになく神経過敏の状態に陥っていた。一週間ほど前、太一郎、哲明親子が源吾たち高梨家のばくち打ちたちに頭を下げて頼み込んだその内容が、四人の心に重くのしかかっていたのである。
「結局鬼原の組長は二億の金を競馬で捻出するつもりだということだろ。それを俺たちに任せるというのはどうかと思うんだがなあ」常はタバコの煙をフウと吐き出して「鬼原の組長たちのほうがうちよりずっとプロフェッショナルだろうが。損得の結果責任までその中に含められるなら、そんなもの引き受けられるもんじゃあねえべや……五筒(ウーピン)」といって麻雀牌を河(ホウ)に切った。
「それ、ロン」光が手牌を晒して「メン・タン・ピン・イッパツ・三色・ドラ・ドラ。倍満です」と笑う。
「うっ」
常は一瞬苦しげに息を呑んで顔をしかめた。
「トビじゃ。トビ。三連続トビ」
常は箱に残った僅かの点棒を麻雀卓の上にぶちまけた。
「血も涙もねえやつだな。お前は」仁は大声で笑った。
「太一郎はな、わしらに賭けているのよ……」
言葉がひとつ源吾の口からポツリとこぼれた。
「えっ」三人は同時に源吾に視線を向けた。
常と仁は驚いた。しかし光だけは大きく頷いて源吾に同意する顔を見せた。
光は「親分さんは私たちにその途方も無い金額を何とか作ってほしい。そう思っているんですね」と以前言ったことを記憶している。その真意はたった今源吾がこぼした言葉と同じ意味だった。そうだ。鬼原の親分たちはここに居る四人に賭けているのだ。光は改めて感じた。
「あいつのことだ。結果責任なんてぇもんは考えてもおらんべ。常は今、太一郎たちがプロだといったがな、そいつは間違いってもんだ。やつらは賭場を仕切ることについて言えば確かにプロじゃろう。だけどよ、やつらは博打はしねえよ。博打の恐ろしさをよく知っとるからな。この間、寿司屋で太一郎が言ったことを思い出してみろ。丁半やカルタで盆を立てても、組が大きな稼ぎをすることのできる時代じゃあなくなった。太一郎はそういっていたべや。つまり寺銭なんて細かいものなんだべなぁ。その点競馬ならば当たったときの利幅が大きい。だからここは思い切ってお前たちに頼みたい。月に幾度かは100%間違いないというレースがあるべや。資金は準備するからなんとかやってみてくれ。そう頼んどる」
「その通りだと思います」
光は源吾の遠くを見るような目を見つめた。何故か祖父が大きく感じられた。
「明日太一郎と話をするが、お前たちは何も言うな。総てわしが対応する。ただ黙って同席さえしといてくれりゃあそれでいい」
高梨源吾が腕時計を覗くと、針は午前二時を指していた。
「さあそれじゃあ少しでも眠っておくべや。ところで常。金ちゃんと払えよ」
源吾はゆっくりと席を立った。いい出しっぺは負けるというジンクスどおり、常のひとり負けで対局は終了した。勝ち組三人の後に続いて麻雀部屋を出た常の姿は、魂を抜かれた後の抜け殻のように見えた。
5
温泉宿に宿泊した朝の食事は何故か箸が進む。普段家にいる時には朝食を抜くことが多い人間でも、温泉宿での朝食では幾度も御代わりをしたりする。小鯵の開きなどの焼き魚に、味海苔、そして生卵か納豆、香の物と味噌汁。それだけで小さい茶碗であれば白飯三膳はいけるのではないだろうか。
朝七時半に昨晩宴席のあった大広間で朝食をとり終えた源吾は、常、仁、そして光の三人を従えて楓の間へと向かった。きっと太一郎は源吾たちが早く来ぬかと待ちわびていることだろう。
「いたかい?」
ノックしてドア越しに声をかけると、案の定「おう。入ってくれ」と間をおかず返事があった。
一行は源吾を先頭に部屋に入った。十二畳の和室に置かれた座卓を前に鬼原父子は床の間を背にして高梨家の勝負師たちを出迎えた。
二人とも笑顔を見せている。源吾が持ってきた回答がどういうものになったのか早く知りたい。太一郎、哲明父子の笑顔はその気持ちを押し隠そうとするときの作り笑いに違いなかった。源吾はもちろんのこと光たち三名にもそれはすぐにわかった。
源吾は鬼原の正面に配された座椅子についた。常と仁の兄弟、そして光は部屋の出入り口を背にして座布団を並べた。
「昨晩は盛り上がったよ。いろいろと世話になった」
源吾は心から礼を言った。
「なあに、わしにとっても恒例行事みてえなもんじゃあねえか。何の苦もねえことよ……」
「ありがとう。さあて、どうやら気になって仕方がねえって面をしとるんでな、早速本題に入ろう」
「そう願いてえ。このところ胃が痛くてたまらねえんだよ」
「やれやれ、こんな親分さんはどこにもいないだろうさ」
源吾は肩をすくめて哲明を見やった。
哲明も不安げに視線を宙に漂わせていた。
源吾は腹をくくったように太一郎を見つめた。そして……
「お前さんの依頼を受けてやることにした」
源吾はその場の全員が聞き間違うことがないよう、ゆっくりと噛み締めるように言った。
太一郎と哲明の口から安堵のため息が漏れた。
「ただし、ふたつ条件がある。」
太一郎と哲明の目に再び不安が戻る。
常たち三人も膝を乗り出した。
「なあに、たいしたことじゃあない。だから書付も残さん。口約束でいい」
源吾は少し笑って、「ひとつはわしらは予想をするだけということだ。つまりわしたちは自分が勝つことだけを目的として予想をするという意味だ。自分のためだけにだ。お前に大金を儲けさせるための予想をするわけじゃあない。他人の馬券は買わん。だからわしら家族には資金も要らねえし、お前さんがいくら勝負したのかなどの報告もいらねえ」
「了解した。で、もうひとつの条件とは?」
「わしらは、わしらが提供する予想について何の責任も負わんということ。これが二つ目の条件だ。競馬は勝負事だ。賭けるか止めるかは、いわゆる自己責任ってぇやつだからな。つまりどんなに確実と思われる予想でも外れるときは外れるもんだ。最後に決め手となるものは、勘しかない。このことをよく肝に銘じておいてほしい」高梨源吾はきっぱりと言い切った。
「それで結構だ」
鬼原太一郎も大きく頷いた。
源吾は控えている常たち三人のほうに向き直り「このくらいしか、わしたちにできることは無かろう」と念を押すように訪ねた。
「喜んで協力させてもらいましょう。なあ常。光」
仁が代表して答え、常と光は拍手で同意を示した。
「すまねえ。迷惑をかけて……」
太一郎のしわくちゃの頬を涙が伝った。
「さて、それじゃ確認させてくれ。太一郎は競馬の電話投票に加入しているか?」
「わしは基本的には競馬はやらんのだが、客人が馬券をどうしても買いたいなんてこともあったんでな。一応加入はしとる。あまり使ってはおらんがな」
「そうか。ならば今度の目的で勝負馬券を買うときにはそれを使うようにしてくれ。だがな競馬場にも時々は足を運んでくれや」
「何でよ? 水島や四葉の息のかかった奴らが、鬼原がどうやって金を作ろうとしているかを探ろうとしとるはずだ。競馬場に出入りしとるところを見られりゃあ、わざわざ教えてやることになろうが」
鬼原太一郎の言い分を聞いて高梨源吾は気味の悪いものを見るような目をして太一郎を睨んだ。
「まだボケるには早いんでねえか? わざわざ教えてやれってことよ。いいか太一郎、さっきも言ったように、本勝負は誰にも見られんように電話投票システムで。競馬場では皆が見ている中で五百円、千円の小博打を打つわけだ」
「そうか、判った。そんな小博打じゃ二億円はとうてい稼げねえだろうから、逆にやつらの選択肢からは消えちまうってことか」
太一郎は飲み込みが早かった。
「それにしてもよくそんな姑息なことを思いつくものだな。堅気の衆って人種は」
太一郎は冗談半分にそう言って笑い、卓上に置いた木製の煙草入れから葉巻を一本取り出して咥えた。
太一郎は細く巻いた葉巻煙草を源吾にも勧めた。
「おう、上物だな」
源吾も一本を取り出しセロハンを剝き口に咥えた。間をおくことなく哲明が火を点けてくれた。
高梨源吾は葉巻の煙を口の中に転がしゆっくりと吐き出してから、太一郎を咎めるような口調で、「おぬしは姑息だというが、わしらはな力で勝負することはできんのよ。だから戦術を練るわけだ。こんな程度のことは民間会社の商売じゃごく当たり前に行われていることよ。おぬしは鬼原組を解散して堅気の世界に草鞋(わらじ)を脱ごうとしているわけだな。……そのお前がこれしきの戦法に驚いとるとは情け無いんじゃねえか。堅気の世界ってやつはよ、そんなに甘い所じゃないんだぜ」と口にした。
まさか軽口を真剣に捕らえられるとは思っても見なかった。鬼原太一郎は少し慌てた。
「判ってるって。冗談に決まってるべえ」
太一郎はかろうじてそれだけ言うと力なくハハハと笑った。
第5章 遠き夢を追って
1
鬼原太一郎との密約は単に本命サイドのレースを探すということではなく、的中する馬券のフォーカスを教えるということである。それは高梨家のバクチ打ちたちにとって、考えていたよりもはるかに難しいものになりそうだった。
競馬予想紙の印やコメントを見て判断し、このレースはこれしかなかろうと結論を出しても結果はまったくあてにならない。何の制約もなしにただ気楽に競馬に興じていたときのほうがはるかに的中した。たとえ当たったとしても高梨家の四人の予想がぴたりと一致することなど皆無で、たまたま誰かが数点購入した買い目の中に、的中フォーカスが紛れ込んだだけのことだった。つまり後の三人はハズレなのである。命を賭けている鬼原太一郎にそんないい加減なものを高梨家の推奨馬券として提示することなどできるわけがない。四人の推奨馬券がそれぞれ五通りあったとして全部で二十通り。その中に運よく当りが含まれていたとしても、確率は二十分の一でしかない。そんな予想ならば子供だってできる。推奨馬券として太一郎に届けるならさらに絞り込んでいかなければならない。ならばなぜファンは大枚を各レースに賭すのだろうか? それが博打なのだ。もはやそこに存在するものは神々しいまでに洗練されに自己を犠牲にした、あるいは自分本位の行為といっても構わない博打だからである。一対一の果し合いにも似た自虐的行為といえるかも知れなかった。
競馬ファンが馬券を買おうとするときに参考資料となるものといえば予想紙である。いわゆる競馬新聞というもので、駅の売店などで誰でも簡単に購入できる。競馬新聞は十紙ほどあり、各紙それぞれ独自の切り口で予想を展開しているので、ファンは自分の好みによって選択して購入すればよい。
各紙とも一般的なスポーツ新聞であれば三四部は買うことができるほど高価なものである。
それでも僅か数時間で競馬によって巨万の富を獲得しようと胸を膨らませたファンにとって、情報源として競馬新聞は必須アイテムなのだった。ただし予想紙には利用するときひとつだけ注意しておかなければならないことがある。各紙には各紙が推奨する買い目はもとより、それを導き出すに至った数名の予想スタッフのコメントや買い目までを掲載していることである。各記者やトラックマンと呼ばれる厩舎回りの買い目まで、按配良く紙面を飾っている。星の数ほどあるそれらの予想がファンの頭をかえって混乱させることなどお構いなしだ。しかもファンは混乱した頭の中でさらに自分の考えを含めて各レースごとの買い目を決めるのだから、結果は概ねハズレとなって当然なのだ。予想は馬券購入の段階で既に良く言っても『予感』、悪く言えば『ヨタ話』のレベルにまで落ちてしまっているのである。
ところが……
日によっては予感が予想を凌ぐことがある。ヨタ話が本命馬たちを蹴散らして、その通りの結論をフィードバックしてよこすことさえあるのだ。『ついている』とか『運が良い』という言葉で表現されるなんだか良くわからない気の流れのようなものが一役買うらしい。どちらにしても偶然の結果に過ぎないのだ。たとえばカレンダーの日付が五月十日だったので5-10の馬券を購入したところそれで当たった。また、彼女の誕生日が二月七日なので2-7を押さえたらその通り決まって万馬券をゲットした。等々、枚挙に暇がないけれども、このような偶然による的中をバクチ打ちは忌み嫌うものだ。何故かというと偶然というエリアには自分が入り込む余地がないからなのである。勝負師は予想をして結果を出すもの。そんな昔かたぎの意識を捨てきれないバクチ打ちはまだまだ多くいるわけで、高梨の遊び人たちもどうやらその中に含まれるのかもしれなかった。
何はともあれ鬼原太一郎との約束を果たさなければならない。多分ツキの流れを呼び込むには足繁く競馬場に通い、競馬場の空気に溶け込んでそれと一体になることが肝腎だ。高梨家の四人は真剣にそう思っていたのである。
チェックアウトを済ませた高梨家の遊び人たちは、タクシーを飛ばして開催もあと二週間を残すばかりとなった函館競馬場に入った。
太一郎から相談を持ちかけられたとき、源吾は女房の君子だけには話を通していた。というより騒動が家族まで巻き込む恐れもあり、受けるか否か思い悩んでいたところを君子に見咎められたのだった。
問い詰められた源吾は止む無く太一郎から頼まれたことを有体に君子に白状したのである。
「友人といったって太一郎はヤクザだろうさ。変な関わりは持たんでおくれよ」
君子の返事をせいぜいそんなところだろうと予測した高梨源吾だった。源吾は説明しながらも自分がどんどん深みに落ち込んで行くのを感じていた。
ところが君子は説明を一通り聞き終えると、源吾が予測したこととはまったく別のことを口にしたのである。
「男にゃ面子ってものがあるんじゃないのかい、お前さん。鬼原の親分がおまえさんにそんな難題を持ちかけたってことは、太一郎がおまえさんを信じきってのことに違いない。男冥利に尽きると思わなきゃあ罰が当たろうってもんさ。ここは何を置いたって引き受けるしかおまえさんに道はあるもんかい」
実質的には高梨家のすべてを切り盛りしている君子のこの発言は源吾に勇気を与えることになった。
今朝太一郎と哲明父子に、後ろに息子たちと孫を従えた形で協力を告げたときの源吾の態度は、結構決まっていた。それはやはり女房、君子のお墨付きがあるためだったのだろう。親友とはいえ鬼原組というヤクザ社会との協力であった。堅気である高梨源吾の気持ちの片隅に、マイナーな影を落とす痼が無かったといえばうそになる。そのこだわりを女房が見事なまでに消し去ってくれたのである。
「さあ、今日は自由行動だ」
源吾は修学旅行にやってきた小学校の先生のように云って、自分でもそれに気がついたのかあははと声を出して笑った。
常、仁、そして光も源吾が何を云いたいのか良く知っていた。
「わかった。今日一日それぞれがどうしたらいいか考えて、明日から会議だね」
光も笑顔で皆の様子を見た。
「皆、笑っとるけどよ、結構大変だぞ。親分のセンスも要求されるべぇからな」
珍しく常が一番先に核心となることを言った。
大きく頷いたのは仁である。
「そこだよ。実際に買うのは親分だからな。だからどういう形で親分が買いやすい知らせ方ができるかも考えておかなけりゃならんべ」
立ち話が長くなりそうなのを見て源吾は皆を制した。「今日はまずわしらが競馬と一体になることができるかどうか。そのことだけを考えてくれや。それから先は光がさっき言ったように明日の晩、本家で会議を開くことにする」
高梨源吾は上機嫌でそういい置くと「さあ、2レース、2レース」と足取りも軽くスタンドへ入って行った。
その後姿を見送りながら仁が光に視線を向け「おい、光」といいかけた。
光は笑顔でそれを制し「大丈夫。目を離さないから」と祖父を追ってスタンドの中に消えていった。
2
鬼原組を解散したいという申し出を受けた水島健之助と二階堂与右衛門は、数日中に結論を出すと言い聞かせて太一郎を帰した。その後二人はそのまま連合会事務所に残って数時間を費やして相談をしたのだったが、どうにも結論が出ない。先代の鬼原組長からの提案で函館市の仕切り方を定め、これまでの長い年月うまくやってきた三組織だった。いや、仲良くやって来すぎたせいなのだろうか。組織の分裂など水島健之助にも、長老と呼ばれる二階堂与右衛門にも未だ経験がなかった。考えてみればたった三者の連合である。たった一者の離脱であっても協力体制が簡単に崩れ落ちるだろうことは、誰にでも予想が付くはずだった。自分たちの責任でしかないのである。だからできることなら穏便に解散を思いとどまらせたかった。しかし鬼原の意思は固い。鬼原に代わる別の一家を呼び寄せることもできるが、これまでのような安定した運営ができるかどうか不安が大きい。というより水島にしても四葉にしても年をとり過ぎており、新しい勢力を抑えきるだけの迫力がもはやないことを自覚していたのである。
法外な解散手数料を支払ってもらうことになると持ちかけて、解散を諦めさせてはどうか。
ほとんど手詰まりと思われた両者の話し合いの場に、このアイデアを出したのは水島海運㈱の南雲宗次だった。鬼原組にしても今まで長い年月仲良くやってきた渡世である。仮に説得できなかったとしても立つ鳥跡を濁さずというように、そう無茶なこともするまい。
健之助も与右衛門もこの提案に飛びつき一案として検討してみるということで合意した。
両者とも他の手立てはないものかどうか明日一日考えて、もし南雲の提案した方法でいくなら解散手数料をいくらにして鬼原にぶつけるかなどを検討し、明後日の午後一番に再度ここで調整してから鬼原に渡そうということにしたのである。
連合会事務所を出、二階堂草庵は四葉幸福会の事務所まで兄を送った。
函館市の駅通りに面した『二階堂建設』と大きく看板を掲げた十階建の自社ビルで、その最上階のワンフロアーが四葉幸福会の事務所だった。かつては会長が外出から戻ったときには多くの組員たちが並んで出迎えたものだったが、今は外聞もあり幹部の意見に従って禁止している。それでも水島海運㈱を出るとき草庵が連絡を入れておいたので、組員の一人が気を回して車椅子を用意して待っていた。
タクシーを降りた草庵は「御苦労」と組員に声をかけると後を任せ、その足で四葉幸福会の経営するバー・カミユに向かった。
カミユの暖簾をくぐるとまだ三十代後半そこそこに見える和服姿のママが「まあ、いったいどうしたのかしら。ずいぶんお見限りだったわね、草庵和尚さん」と嫌味とも歓迎とも取れる挨拶をした。
「まあまあ、そういうな」
お絞りで顔をぬぐいながら笑い、「ちょっと電話をかけさせてくれ」と断って草庵は内ポケットから革張りの手帳を取り出した。草庵は水島海運の電話番号を確認してからレジ横の電話ボックスに体を入れた。
電話口に出たのは南雲宗次自身だった。
「はい南雲です」
「俺だ」
「あ、草庵和尚。先ほどはどうもお疲れ様でした」
「いや、なに。まあここまでは予測が付くことだったからな。こういう事態がきっと生じると俺は思っていた。トップが年をとりすぎたっていうのにしがみついているってことさ。水島も四葉もな。しかも今まで鬼原も含めて仲良くやりすぎた」
二階堂草庵は南雲宗次の声を待ったが、受話器からは草庵が何を言おうとしているのかを探ろうとする沈黙だけが流れ出していた。
「うちの与右衛門もおまえのところのオヤジも多少出始めとるんだよ、ボケがな」
業を煮やして草庵が言うと、ようやく「そうなのかな」と、か細い声が返ってきた。
「そうともさ。ところでな、宗次。おまえ、これからでも出てこられんか?ただし俺と会うってことは誰にも知られんようにしてだが……おまえに言っとかにゃあならんことがあるんだ」
「わかりやした」
南雲宗次の躊躇なく応える声に安心して、草庵は電話を切った。
カウンターから見るともなしに様子を窺っていたママが「よろしいかしら、もう?」とやってきた。
ママは草庵の返事も待たずに横に腰を下ろした。
「いやはやなんとも忙しくってなあ。すっかりご無沙汰したよ」
草庵は眩しそうにママを見て笑った。
「それにしても随分とヒマそうじゃねえか」
「時間がまだ早いからよ」
ママは答えて、ちょうどボトルと水割りを作るためグラスやアイスキューブを運んできたボーイに「タカシくん。今、何時になった?」と聞いた。
「まだ七時を回ったばかりです」
「なんだ、まだそんな時間なのか」
二階堂草庵は本当に驚いた。疲れがたまっているのでもうかなり遅い時間かと勘違いしていたらしい。
「でも草庵さんも大変だったわね。会長さんのこと。もう随分よくなられたんでしょう?」
「言葉がね、まだなんとも……。おかげで大忙しさ。通訳ってのも大変なものだ。本当のことを言えば俺は四葉幸福会なんてヤクザとは何の係わりもないのに、会長の弟だってことだけで勝手に副会長なんてことにされちまってる。言ってやりてぇよ。おれは堅気だってな」
「そうもいかないでしょう。でも……」
ママは手際よく水割りを作って二階堂草庵の前のコースターに置いた。
「何か飲めばいいっしょ」草庵が思わず北海道訛りを出すと「それじゃビールいただいてもいいベか?」とママも合わせた。
二階堂草庵が本当は四葉幸福会の組員ではないというのは事実だった。当然副会長などの役職も兼ねてはいない。ただ二階堂与右衛門の実の弟であるのは間違いなく、そのため通り名として副会長草庵などと呼ばれているのだった。
草庵は函館市の山麓にある仏門然法寺の歴とした住職だったが、経を読むより色町で飲んでいるほうが良く似合う生臭坊主として知られている。自宅には気が向けば帰るという具合で、月のうち半分近くは温泉宿や花町で夜を明かしていると噂された。自宅は然法寺に隣接した裏手にあった。玄関は山門をくぐり本堂の横手から回り込むように続く墓地への石畳を歩かなければならならず、草庵はそれが嫌だったのである。有体に言うと幽霊が怖かったのだ。また幽霊をクリアしても玄関を入ると更にずっと怖いものが待ち構えているのだった。
草庵の妻、二階堂亜紀子は社会福祉という大義名分を掲げ、幸福園という名前の大規模な養護施設を経営していた。もちろん後ろ楯になっているのは草庵である。
水島海運の若頭、南雲宗次も幸福園で育てられた孤児であった。
もう二十数年前になろうか、当時から遊び癖のあった草庵が雨の中をタクシーで夜遅く帰宅すると、山門の前に立ってオンオンと声を出して泣きじゃくっている子供がヘッドライトの光芒を受けて浮かび上ったのである。
子供は歳のころならまだ三歳になるかどうかというところで、どうやら両親に捨てられたらしく、背にリュックサックを背負っていた。育ててくれという意味で米か何かが入っているものと思った草庵は、荷物ごと子供を背負って石畳を自宅までつれて帰ったのだが、ひどく重い。一瞬、子泣き爺かと疑ったほどだった。玄関を入ってから子供が背負っていたリュックサックを開けてみるとぎっしりと砂が詰まっていた。
両親がなぜ砂など入れたのか、本当のところはわからずじまいになった。草庵が子供を保護していることは十分に噂となって広がっているはずだったが、親が南雲宗次を訪ねてきたことは一度たりとも無かった。では子供が南雲宗次という姓名だとなぜ判ったのか? それは例のリュックサックにそう書かれていたことだけが根拠である。半年ほど宗次の面倒を見た二階堂草庵は止む無く宗次の里親を探すことにした。そのとき手を挙げたのが水島海運㈱の健之助だったのである。
無精子症という病で生涯子供を持つことはできぬものと悲しんでいた水島海運㈱の水島健之助は、渡世上付き合いの深い草庵の兄でもある四葉幸福会の会長、二階堂与右衛門から紹介されて南雲宗次と対面した。そして一目で気に入り、あっという間に養子縁組を済ませたのである。与右衛門が気に入ったわけは、念のため受けさせた身体検査で宗次の肉体を見たことだった。宗次は三歳児とは思われぬほどのマッチョだったのである。水島健之助はそれを見て、これは将来大物になるだろうと直感したという。
宗次は成長するにつれ、どの年代においてもリーダーシップを発揮した。大学こそ進学しなかったが、水島の跡目は南雲宗次だと誰もが認めるまでの男として立派に成長した。しかし宗次は南雲という姓を捨てようとしない。自分はこの姓名のままで命を賭して水島海運に尽くしたいといって一歩も譲らなかった。水島健之助もついに折れて、まあそのうち判ってくれる日も来るだろうと苦虫を噛み潰したような渋い顔をしたものだった。
二階堂草庵がそんな経緯を思い出していると、やがて南雲宗次がバー・カレンのドアから顔をのぞかせた。
3
水島海運㈱若頭の南雲宗次は受話器を置くと、最近では水島健之助社長の個室同然の使い方をしている連合会事務所への階段を上った。ドアをノックし「おう」と返事があるのを確かめてから宗次は、ゆっくりとドアを開けた。
水島健之助は応接用のソファに背を持たせ、靴を脱いだ脚をテーブルの上に投げ出していた。
健之助はつぶっていた目蓋を力なく開き、南雲宗次に弱々しい視線を向けた。七十歳を越えた体に半日近くかかった今日の会議は相当きつかったと見える。
「どうした?」
水島健之助は足を下ろし宗次のほうに顔を向けたまま、脱いだ靴を足で探した。
「鬼原にぶつける金額を考えとられたんですかい?」
「ああ」
健之助は頷いた。算定基準も何もありはしないのだからどうしてよいのやらわからず、その顔には苦渋の色が一杯に広がっている。
「あまり真剣に悩まれることもないように思いますぜ。あっしは」
宗次が健之助を気遣う声を聞いて水島海運社長の目に少しだけ光が戻った。
「だってそうじゃありませんか? 鬼原に吹っかけてやろうってぇ金額ってのは、マジで鬼原から巻き上げようってぇ額じゃねえんでござんしょ? 到底払うことなどできねえから、解散することは諦めた。そういわせりゃいいわけで、だとすりゃあいくらだっていいわけでしょうが。一億円でも二億円でもね」
「んだな。その通りだよ。よく言ってくれた」
宗次の言葉を聞いた水島健之助は、目から鱗が落ちる思いだった。
「ところで社長。申し訳ないんですが……」
「なんだ?」
「今日はこの辺で失礼させていただきてえんですが。よろしいでしょうか? いえね、ちょっと野暮用がありまして」
宗次は水島の顔の前にはにかんだような表情をして自分の小指を立てて見せた。
「おう。いいともさ。まだまだガキだと思っていたのによ。ゆっくり遊んできな」
水島健之助は笑いながら、札入から一万円札を数枚取り出して「何かの足しにでもしてくんな」と宗次に手渡した。
宗次は荷役人足の溜場でそろそろ帰り支度の掃除など始めた若い衆を呼び、タクシーを手配するよう命じた。
「タクシーなんか呼ばなくたって私がお送りしますよ」と、若い衆が言うところを「いやいや、俺個人のことだから」と断り、宗次は五分と待たせずやってきたタクシーに乗り込んだ。
草庵和尚は自分会うことは誰にも知られるなといっていた。しかし人口十五万人程度の小さな町である。何処で誰に見られているか判らなかった。南雲宗次は駅前に建つデパート前で車から降り、一度デパートの雑踏に身を隠した。歩きながら内ポケットからサングラスを取り出して顔を隠し、宗次はそのまま人ごみを抜けて裏口から外に出た。カミユまであとは細い路地伝いに五分ほどである。路地に入ると人の数もそれほどおらず、草庵との約束は守ることができた。黒字に赤の光文字でバー・カミユの行灯が見えた。躊躇無く近付きドアを開けると、奥のボックスから「こっち、こっち」と二階堂草庵が手招きした。
「どうも遅くなりやした」
腰かける前に宗次は深々と一礼した。
随分長い時間待たせたのではと心配しながらやってきたらしい宗次を見て、草庵は満足げに微笑んだ。どうやら思惑通りに動き出したらしい。二階堂草庵は上機嫌だった。
「悪いが十分ばかり二人で話をさせてくれ」
ママが少し濃い目の水割りをつくり、南雲宗次の前に置くのを待って二階堂草庵は人払いをした。
「どうだ水島の社長は。相当悩んでいただろう?」
「気の毒になるほど悩んどりました」
「にっちもさっちもいかなくなった時、おまえの口からあんな解決策が飛び出しゃあよ、誰だって飛びつくに決まってる。計算どおりだ。こういうのを計算どおりっていうんだぞ」
草庵は勝ち誇ったように宗次を見つめた。
確かにあの提案は内容もタイミングも宗次が草庵から指示されて口を挟んだものだった。しかも水島健之助は宗次が提案するまでは、悩みに悩んでいた。これもまた草庵の予測どおりなのだ。
「それで、水島は今も悩みっぱなしかい?」
「いえ。気の毒なもんですから私がアドバイスを……」
「ほう? なんていってやった?」
二階堂草庵は少し視線をきつくしたが、宗次が水島健之助に話した通りを正直に打ち明けると、突然大声で笑い出した。これには宗次のほうが驚いた.
「そうかい。そうかい.いやあ愉快だ、そいつは」
草庵は笑いながら女たちを手招きして呼び戻した。
「まあ、草庵和尚さん。今日は随分ご機嫌で」
ママが呆気にとられたように他の女の子たちを見やると、皆笑顔を見せながらもどうしたものか判らずお互い首をすくめあっている。
「今夜俺が言いたかったのはそのことだったのよ。そうかい。もう言っちまったってかい。ならわざわざ来てもらうことも無(ね)かったなあ。あははは……」
二階堂草庵の大笑いはなかなか収まらなかった。
南雲宗次もバー・カミユの女たちも四葉幸福会、いや然法寺住職である二階堂草庵の上機嫌に包み込まれその夜は終始和やかな飲み会が続いた。
すっかり酔いも回りもうそろそろ限界と思われるところまで飲んで、草庵と宗次はそろそろ帰ろうかということになった。同じ方角だからタクシー一台に相乗りでと宗次が気を配ると、草庵は少し機嫌を悪くしたのか首を横に振った。
「いや帰りは別々だ。いいか宗次、今晩は楽しかった。だがな最後まで気を許しちゃあなんねえ。この店、今晩客はとうとうわしらだけだったろう。だから最後までここにおった。もし誰か客がくりゃあな、店を変えようと考えとった。」
「そうでした」
宗次は頭をかいた。今夜二階堂草庵と会うことは内密という約束だった。そのことを今思い出したのである。
「申し訳ありません」
「まあいいってことよ。今度、鬼原に数字をぶつけたあとで、鬼原の出方を見てから一杯やろうや」
すくっと立ち上がると「それじゃあまた来る」と二階堂草庵は背中を向けた。
女たちにエスコートされて草庵は店から出ていった。
南雲宗次は自分の迂闊さに顔が赤らむのを感じた。9回裏2アウトまで完璧に押さえておきながら、最後に出てきた二戦級のバッターにサヨナラホームランを打たれたような口惜しさだった。それにしても二階堂草庵はいったい何を策しているのだろう? 南雲は気にかかっていた。先ほどまでの喜びようや、また近々飲もうと宗次を誘ったことで、草庵が何かを計画していることは明白なのだが、それが何なのか宗次にはまだわからなかった。
南雲宗次はママが戻ってくるのを見て、帰りの車を呼ばせた。
4
源吾から競馬と同化せよと命じられた光は午前中のレースが終了し昼休みに入ったときにはもううんざりしていた。
第2レースから第4レースまでの午前中にスタートを切る三競走は、専門紙を見る限りどれも本命サイドの競走になりそうだった。どのレースを取り上げても出走馬の構成がいかにも堅そうなのである。主軸となる馬が一頭だけで、専門紙の情報によればこれがめっぽう強い。そして首位には届かぬまでも、二頭が2着の座を競り合っている。記事は皆同じような見解を載せ、どの予想紙にも『順当』とか『首位不動』という太い文字が躍っている。迂闊にもその情報を鵜呑みにした光たちは、競馬と同化するための練習レースとして格好のレースに違いないと判断してしまった。得てしてそういうものだが、これら三つのレース結果が逆に高梨家の遊び人たちをますます混乱させる原因となってしまったのである。
源吾を追ってスタンド内に駆け込んだ光は祖父がゴール前の硬い樹脂製の椅子に腰を下ろすのを見届けて、自分も源吾から二列ほど後ろの席が空いているのを見つけて腰を下ろした。 腕時計を覗くと第2レースの締め切り時刻まであと10分ほどになっている。おもむろに予想紙を広げる。
なるほど。これは堅そうだ。一番人気の5番のサオトメマリー号には光が購入した専門紙の予想陣6名とも◎(本命)印を打っている。相手馬としても1番ニコラスレディーと7番ミルキーナタリアが人気を分け合っていた。そのほかの馬は概ね無印である。こういう場合には首位不動ということで1-5と5-7で馬券はOKということなのだろう。
光は源吾のところに歩み寄った。
「じいちゃん。買ってこようか?」
高梨源吾は驚いて振り向いた。
「なんだ、光。そこにおったのか。自由行動だっていったべや」
「一緒にいたって自由行動はできるさ」
「んだな。したら買ってきてけれや」
源吾は財布から千円札を二枚と買い目を記入したメモ用紙を光に手渡した。メモには光が考えたものと同じフォーカスが書き込まれていた。
光が馬券を買って席に戻るとまもなくファンファーレが鳴り渡りゲートインが開始された。12頭総てがゲートに入り、函館競馬第2競走はスタートした。ダッシュ良く飛び出したのは一番人気馬5枠5番サオトメマリー。その後ろに1枠1番のニコラスレディー。三番手には7枠9番ケイナが1番に競りかけるように続く。6枠7番ミルキーナタリアは一馬身ほど離れてその後ろという位置取りで第2コーナーを回って行った。向う正面に入ると三番手につけていた9番が早くもスパートをかけトップを行くサオトメマリーにまで迫る。しかしやはり3コーナーから4コーナーで失速。馬群に沈んでいく。最後の直線に入ると5番は余裕で他馬をどんどん引き離しセーフティ・リードをとってゴールイン。二着も1番ニコラスレディーが粘りきった。
結果からいうと連勝複式は1-5で、光も源吾も見事的中である。してやったりと一瞬ニンマリとしたが払戻金を見ると1-5は売上票数の面でも最も売れており、1.4倍という断然の一番人気だった。ふたりとも的中した1-5のほかに5-7も同額買っていたから支出2千円に対して払い戻しが1千4百円。収支はマイナスである。源吾も光も投資額が少ないのでそれぞれ600円程度の損失で済んだけれども、これがもし1千万円単位の勝負を賭けていたならばマイナスは一気に気の遠くなるほど巨額なものになってしまう。そして鬼原はそれをしようとしているのだ。
源吾と光は顔を見合わせた。二人の目はどちらも明らかに「これではだめだ」と訴えていた。
「どうしよう……」
しばらくの沈黙の後、光は思わず泣き言を漏らした。
源吾は少しためらったが光に対して弱みを見せるわけにはいかなかった。
「逃げるわけにはいかねぇからな。こんなレースがそう数多いとは思わんが、わしらが予想しても買うのは太一郎の判断だ。だから二点とも提示してよ、太一郎にどっちかを選ばせるっていう方法(て)もあるべや」
逃げるわけには行かないという源吾だったが、それは明らかに逃げでしかなかった。
「なんかちょっとズルいんでないかい? それって」
光は冷ややかな視線を祖父に向けた。
「ズルいもんか。今朝やつにも言って聞かせたべ。大本命だって消えるときは消える。そういって聞かせたべや。もう忘れたか。光は」
気圧された源吾は少し語気を荒げた。
「僕が言ってるのはテクニカルことじゃなくてさ、もっとスピリチュアルなことだよ。確かにおじいちゃんは鬼原の親分さんに大本命だから当たるとは限らないといってたよ。それは僕も聞いてた。でもそれを盾にして二つのうちどっちにするかはあなたの勝手というのはどんなものかな。下手すりゃ友達なくすよ」
「それじゃどうすりゃいい?」
源吾はがっくりと首を落とした。
「2点買いで決まるなら購入の割合を指示してあげることかな。トリガミにならないようにね。だけど……」
「そうか。じゃあそうしよう」
「それができれば苦労はないんだけれど、そう簡単なことじゃないよ……」
「できるべぇ、そのくらいのことは。わしらもよくやるべさ」
「理屈ではできるんだけど、場合によってはものすごく難しいんだ」
「どういうことかもう少し解かりやすく説明してくれや」
源吾は苛立ちをそのまま光にぶつけているようだった。
あまり祖父を興奮させてもいけない。簡略に説明する方法はないものだろうか。その格好の材料が次の第3競走にあることに光はすぐ気がついた。
「説明はいくらでもさせてもらうけど、その前にもうじき第3レースだよ。じいちゃんどうするの? また買ってこようか」
「いやもう少し考えて自分で買いに行くから、おまえ買うなら行って来ていいぞ」
「そうかい。じゃあ3レースも堅いと思うけど、損しないように考えて買ってね」
捨て台詞を残して席を立った光の意図に祖父はまだ気付いていないようだった。しかし光がわざわざ説明するまでもなく、その真意にすぐ気がつくだろうことを確信していた。
光は馬券売り場を通り過ぎ、その先にある休憩ロビーに向かった。ロビーには売店があった。缶入りのジュースを買って、ロビーのベンチでくつろいでいると常と仁がやって来た。
「爺は?」
仁が光の横に腰かけた。
「スタンドにいる。3レースを考えてる」
光は仁に答えて、先ほどまでの源吾とのやり取りをかいつまんで話した。
「なるほどな。なら今頃はもう気がついているべな」
話を聞き終えて仁は大きく頷いた。
「さっきのレースだったら5-7の配当が6倍近くあったから1-5を5千円程度買って勝負しても、ほかに5-7を千円買っておけば十分に押さえの役を果たしたはずだ。けどなぁ、今度はそうはいかんべ」
「本命は8で間違いない。相手も7か4だべ。ほかは絶対にこない。断言できる」
常が力をこめて宣言した。
「まあそう力むなって、兄貴。みんなそう考えてるんだからよ。それよりもオッズ(予想配当倍率)はどうなってる?」
光は専門紙を広げて見せた。スタンドからここに来るまでの間にオッズを表示するテレビが置いてあったので、念のために赤鉛筆で書き写してきたのである。仁は専門紙を覗き込んで「やっぱりな」といって頷いた。
「どうなってる?」
「どうもこうもあるもんかい。さすがに攻めの仁様もお手上げよ」
仁は常の質問にぶっきらぼうに答えてから、専門紙を僕の手から専門紙をひったくるようにして取り上げて常に手渡した。
「げっ」
ひと目見るなり常は絞め殺されるような声を出した。
買い目は第2レースと同様二点しか考えられない。そしてその予想配当金は7-8で決まれば130円。4-8ならば220円なのである。
しばらくの間常は押し黙った。きっと頭の中で次のような計算をしているに違いない。
「もし7-8を1万円買ったとして、的中すれば3千円の儲けだな。しかし4-8になってしまえば1万円がパーになる。なら、押さえとして4-8を5千円買い足すとするか。そうすれば2.2倍だからプラス千円だ……。いや違う7-8を既に1万円買ってしまったのだから
トータルマイナス9千円か……。それじゃあマイナス9千円を埋めるために4-8をもっと買い足すか。3万円ばかり……。これで7-8は合計4万円だから当たれば5万2千円だな。プラス1万2千円ってことだ。すごいじゃないか。待てよ、4-8を5千円買っているんだっけ。するってえと投資総額は4万5千円だ。回収が5万2千円だからプラス7千円。まずまずだな。
で、……結果が7-8じゃあなくって4-8だったら、回収が1万2千円……マイッタ3万3千円――」
きらりと輝いていた常の瞳が次第に力を失って潤み始め、その視線も宙を泳いでいることに光は気がついた。
「なかなか上手くいかねぇもんだべ」
常が心の中で必死になって計算する声を聞き取ったように、仁は優しく慰めた。
「じいちゃんが心配だ。行ってみようか」
常の様子を見て、光は源吾のことが心配になってきた。歳も歳だから血が上ってバッタリということだって十分あり得るのだ。光は常と仁を従えるようにして源吾のところに急いだ。
源吾が無事スタンドに座っているのを見て三人は安堵のため息を漏らした。
「このレースはケン(馬券を買わずに観ること)じゃ」と源吾が淋しげにいうのを聞いて光が
「三人ともそうしたよ」と慰めた。
第3競走は誰もが思ったとおり7-8という結果で終った。
高梨家の遊び人たちは第4レースの馬券をそれぞれが思うとおりに購入し、少し早いが込みだす前にということでレストランに入った。レストランといっても大衆食堂のようなものである。別々のものを注文して、出来上がりの時間までばらばらになるのも嫌だったので、仁が勝手にカツカレーの食券を4人分まとめて買った。
「本音と建前って言葉があるべ。つまり鬼原に出す買い目は建前でいいべや。誰もが納得できる説明つきのものだ。推薦する買い目も一点でいいべ? あと、買うかやめるかは親分に任せりゃいいんでないかい」
カツカレーを頬張りながら切り出した仁の意見に源吾も常も、そして光までもが大きく頷いた。仁は思いの丈をさらけ出すように続けた。
「競馬と同化しろといったって、それは無理な相談だ。欲が絡むからな。もともとそういう遊びだべや、競馬なんちゅうのは。だけどな、常。光。兄弟2レース第3レースとふたレースやってみた。第3レースはケンだったけどな。で、どうだった。楽しかったか? 俺は苦痛ばかりだった」
確かにつまらなかった。光も同じだった。競馬の楽しみは裏返して考えると、ほぼ外れるというところにある。そんな自虐的な考えが浮かぶ。いくら鬼原の親分の頼みだとしても、苦痛が付きまとうならもはや楽しみとはいえない。だから仁のいうことのほうが正論だ。光はそう思った。
「自分が楽しめんですっきりと馬券が当たろうはずもねえべやなぁ……」
「んだな」
驚いたことに源吾も同意した。親友の顔をどうにか立ててやりたいと思って引き受けた仕事だった。それが考えていたより遥かに難しいことを思い知らされたのである。源吾の辛さは光たちにも良くわかった。
「本命とか穴馬とかそういう問題じゃない。これだっていうものがな。それを探し出すのが競馬の醍醐味よ。問題は建前のほうをどうするかだ。堅そうなところでも良いし、親父が選んだ穴馬だって構わんのさ。信じる信じないとか、買う買わないは親分の自由よ。それでいいんじゃねぇか」
仁が諭すようにいうのを聞いて源吾はもう一度大きく頷いて「んだなぁ」と認めた。
仁が源吾に笑顔を向け「ほら、4R。そろそろスタートだべ」とレストラン内に設置したモニターテレビを指差したちょうどそのとき、画面の中のスターターが赤い旗を振り、ファンファーレが鳴り渡った。
5
北海道に残暑はない。九月の声を聞くと朝晩はもう肌寒ささえ感じる季節となる。つかの間の暑く華やかだった日々も幻ででもあったかのように幕を下ろした。木々が少しずつ色づき始め、人々は何事もなかったように、いや、ほとんどが本当に何事もなく夏を終え、つんとすまし顔で長袖シャツの上にカーディガンを羽織るだけだった。
ただ鬼原組事務所の一階大広間だけは今も盛夏がそのまま居座っているかのような熱気が充満していた。はっきりした目処が立つまでは組員たちには秘密裏にと考え発表を控えていた鬼原太一郎だったが、人の口に戸は立てられぬという言葉通りいつまでも沈黙を貫くこともできなかった。組員たちにも準備期間は必要なのだからそろそろ時は到来していると考えたほうがよさそうである。無責任な噂話が飛び交って組員やその家族までも不安にさせてはならない。太一郎はこのあたりではっきりした方向を組員たちにも示してやらねばと思い、九月に入ったこの日全員集合せよと号令をかけたのだった。
鬼原組は水島海運や四葉幸福会とは異なり、その構えはいたって小規模なものである。太一郎、哲明父子のほか、妻帯者組員が9名、未婚の若い衆が21名。これで総てである。扶養家族を入れても総数で50名に満たない。太一郎の命令は瞬時に行き渡り、胸の中に不安が膨らみ始めていた組員たちはたちどころに応じた。
かつてはしばしば丁半や手本引きの盆が立って活況を呈した鬼原組の大広間だったが、ここのところ取締りが厳しいせいもあって閑古鳥が鳴く始末だった。だから久々に大人数の賑わいを見せていることになる。盆を仕切りやすいように縦長の大広間の長辺に沿って、その向こう側には板の間を挟んでいくつかの小部屋が並んでいる。休憩のための和室で襖戸が開け放たれていた。
小部屋を背にした形で板の間の中ほどに鬼原太一郎と哲明が正座している。大広間には二人に向き合う形で前列に古参の組員9名が、その後ろに若い衆が整然と並んで座っていた。
神妙な顔をして前列に正座した9名の面構えを、鬼原太一郎は脳裏に焼き付けるようにゆっくりと見渡した。これまで組のために命を張ってきた生粋の侠客たちである。彼らにこれから告げなければならないことを思うと鬼原太一郎の目に涙が滲む。
組員たちも何か深刻な話だろうという気配をが感じているようだった。
「組員の皆さん……」
太一郎は覚悟を決めたように呼びかけた。
組員たちの間に不安のざわめき声が渦を巻いた。
そんな呼びかけをされたことは、長いこと草鞋を脱いでいる古参の組員たちにしても一度も覚えがなかった。いつもの太一郎ならば幹部九人の通り名をゆっくりと呼ぶのである。
「市ちゃん。次郎君。サブちゃん。シゲ坊。五郎ちゃん。六助。七平。ヤスオに。久どんどん」
そして後列に目を移し「それから後ろに控える若い衆。今日は良く集まってくれた。礼を云う」
太一郎が話し始めるとそれまでざわついていた大広間の中が水を打ったように静まり返った。
「おまえたちも風の噂ってぇやつで耳にしているかも知れねえが、この鬼原組は今年一杯で解散することになった。長ぇことおまえたちにゃ苦労をかけた。本当に感謝している」
鬼原太一郎は思い切って結論から話し始めた。
大広間の中に再びざわめきが戻る。それが何処までも大きく膨れ上がろうとするのを坂東由三が抑えた。
「静かにしねえかい。組長からご説明があるはずだ」
いつもは寡黙で穏やかな由三の言葉には強い力があった。ざわめきはほんの短い時間の内に収まった。
「時代の流れってものよ。」太一郎はざわめきが静まるのを待って話し始めた。「要するにわしらのような極道はこれからの世の中からはこれっぽっちも必要とされちゃあいねえってことだ。特にわしらが生業としているのは博打じゃあねえか。お前達も知っての通り、この部屋で盆を立てたのも随分昔のこと。今じゃあ取締りがきつくってなんにもできねえ有様だ。馬券の呑み屋の上がりだって減る一方だ。そりゃそうだわなぁ。競馬会と個人とが結託して電話投票なんてえものをおっぱじめる時代だからな。間違えないでくれよ。わしはおまえたちの努力が足りねえって云ってるんじゃあねえ。そういう時代になっちまっているんだよ。いつの間にかな。傘下の店からの見ヶ〆料だって昔ほどすんなりとは入ってこねえだろ。平和でトラブルもねえから、払うだけ無駄って気運ができちまってるからな。あんまり悪どく取り立てようとすりゃあよ、すぐ市民団体とか警察とかが動き出す」
組員たちは太一郎の話を真剣に受け止めていた。自分たちが今おかれている境遇と組長鬼原太一郎の話とを頭の中で照らし合わせたとき、太一郎が決してうそ偽りを言っているわけではないことが組員たちにも良くわかった。
太一郎は水を一杯飲んで口を湿らせ、さらに続けた。
「それじゃあもっと実入りの良い仕事に目を向けようかと考えれば、水島や四葉と必ずぶつかる。そうなりゃあ、うちは向こうと比べて小さすぎる。喧嘩にもならんべ……それならおまえたちがまだ十分動けるうちに組を解散して、おまえたちが堅気として生きていく道筋を見つけやすくすることがわしの役目だと思ったわけだ」
気が滅入るほど重い話だったが鬼原太一郎はできる限り明るい口調で話し聞かせた。
太一郎の話の後を哲明が引き継いだ。
「そこでだ、今、計算中なんだが年末に組員の皆には鬼原に籍を置いてからの年数や、独身か妻帯者か。妻帯者なら女房子供の人数、いや女房はひとりだな、ともかくそれに応じて再就職準備金を支給することにした。金額のほうは計算ができ次第通知する。……それから妻帯者と独身者で支給額が違うといっても今日現在でということだ。急遽これから嫁を貰ってもだめだぞ」
大広間の中に笑いが漏れた。
「ひとつだけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
右手をまっすぐ上に挙げて立ち上がったのは八番目の席に座っていたスキンヘッドの若者、ヤスだった。しかしヤスは長い時間の正座に痺れが切れていて、立ち上がったとたんその場にひっくり返った。
爆笑が沸き起こった。
「大丈夫かい、ヤス」
太一郎が気遣って声をかけると、皆の笑い声は止まった。
「おまえは確か二ヶ月前だったかな? 嫁もらったのは。ならセーフだ」
太一郎は楽しそうに笑った。
「そんなことじゃあねえんでさぁ」
ヤスは少し口篭もった。
「気にしねえで何でも云ってみな」
「私らもともとは暴れもんでした。何とかやってこられたのは組長のおかげだとおもっております。そんな私らでも、全うな仕事に就けるもんなんでしょうかね?」
ヤスの質問はきっと集まった者たち全員が聞きたかったことだったのだろう。一同は身を乗り出すように太一郎に視線を向けた。
「それはおまえたちの腹次第だ。生きていかなくちゃあならんのは、おまえたち自身なんだからな、そのための根回しや後押しならいくらでも引き受ける。あと四ヶ月ある。何か悩み事や困ったことがあれば、何でも云いに来てくれ。出来るだけのことはする」
鬼原太一郎はきっぱりと言い切った。
組員たちの中から漏れ始めた嗚咽が大広間一杯に広がるにつれて、鬼原哲明は自分の提言を受け入れた父太一郎が、今任侠道の歴史の扉を閉め鍵をかけようとする姿を見ているように思った。
第6章 謀略の影
1
八月ひと月の間に高梨源吾は3度鬼原太一郎に宛ててレース情報を発信した。結果から云うと二勝一敗である。なかなかの成績のようだが、確実と思われるレースを選んでのことだから自慢できるほどの勝率でもない。
舞台は函館から札幌競馬場へと変り、夏競馬も後半に突入していた。例年ならばさすがに地元函館で開催していたときのように毎週足を運ぶことは出来ないはずだった。同じ北海道内とはいえ他の都府県とは自治体の広さが違う。函館・札幌間の移動ひとつ考えても、急行列車を使って5時間はたっぷりかかる。土曜日の朝、第1レースから始めて日曜日の最終レースまで勝負することを考えると、金曜日の午後に出発してその晩、翌日と二泊しなければならない。日曜日の最終レースが済んで大急ぎで帰りの列車に飛び乗ったとしても、函館到着は深夜になってしまう。ちょっとした旅行である。
年齢のせいもあるのだろう、高梨源吾も如何に好きな競馬とは云え最近は体力的に辛いものがあることを隠し切れなくなっている。開催が札幌になったというだけのことで何もわざわざ出向かずとも、函館競馬場でも馬券は買えるわけだし、全レース実況中継で観ることもできるのだ。それで十分じゃないか。いつの間にかそんな弱気な思いが自然に頭に浮かぶ年回りになっていたのである。
常と仁も競馬観戦の旅と洒落ることなどそう簡単にできるはずがなかった。楽隠居暮らしの源吾と比べて遥かに融通の利かない大問題がふたりにはある。それはもちろん仕事と家庭が必ず手枷足枷となることだった。常も仁も役所や会社ではそれぞれ重い責任を担う要職に就いている。管理職だから有給休暇もない。部下に範を垂れるためにも競馬三昧の姿を晒すのは好ましいことであるはずがなかった。例えもうバレていたとしても……。
もうひとつ二人に自由な行動を許さないもの。それが家庭だった。
常も仁もどこにでもいるような一般的小市民である。家族や家庭を犠牲にしてまで競馬にのめりこんでいるわけではない。趣味としての範囲を越えない。良く聞く言葉である。しかしそれは毎月の給金だけで一家の暮らしを支える小市民の、悲しくも止むを得ない言い訳なのだ。そのことを十分理解していたからこそ、家族も競馬を道楽のひとつとして認めているのある。
そういう捕らえ方をするなら光の場合はその行動が制約される最も制約が少なかった。大学を卒業して5ヶ月も過ぎようというのに今もなお定職にも就かずぶらぶらしているわけだから、制約などあろうはずもない。もし何らかの制約があるとすれば、金銭的なものだけである。時間だけはたっぷりとあった。しかも自分が思うように使うことのできる時間である。それはあらゆる可能性を秘めた貴重な宝物であるはずなのに、次第に消耗して残り僅かになった時にならなければ気がつかぬものらしい。
高梨源吾は毎日を天真爛漫に過ごしている孫の姿を見て、羨望と腹立たしさが入り混じったような奇妙な感覚に苛まれた。これまでの源吾なら光を捕まえて小言のひとつも云わずには気がすまなかっただろう。だが今年の札幌開幕戦である。札幌競馬場で行われるレースが果たしてどのような傾向となるのか、どのような流れを見せるのか、なんとしても自分の目でしっかりと見極めておきたい。その考えが頭を過ぎったとたん、光に対する羨望は見事に消え去った。光が絶好の介護同伴者であることに気がついたからだった。
光が朝の散歩から戻ると母の多佳子が、朝食が済んだら部屋まで来るように源吾が云っていたと告げた。およそひと月前、函館競馬最終日が終了した翌日。月曜日のことである。
「光か? 入れや」
光が何か小言でも云われるのかと少しびくびくして祖父の部屋をノックすると、待っていたように源吾の声が聞こえた。
「すぐ済むからよぉ、そこのソファさ腰かけて少し待っていてくれねか?」
ドアを開くと源吾は光に背を向ける格好でデスクに向かっていた。何か書き物をしている様子だった。
後ろ手にドアを閉めて云われたとおりソファに腰かけたとたん、源吾はことさら優しそうな声で「おまえ今週末の予定、どうなってるべか?」と、光に背中を見せたまま尋ねた。
「今のところ別に何も入っちゃいないけど……」
光は少し不安げに祖父のようすを窺った。
「よし終わった」
源吾は筆を置いて立ち上がると光のほうに近付き、ほっとしたような笑顔を見せた。
「札幌初日、現地で試してみねえか?」
「土、日?」
「おう。そうだ。初日と二日目よ」
「二泊すんの?」
光が信じられないという顔で訊ねると、源吾は笑って頷いた。
「最近じいちゃん体力弱くなってきてるからよぉ、大丈夫だとは思うんだけんど、その、もしなんかあったときのためにナ……」
「そんなことはいいんだけど、俺、金が……」
汽車を使っての二泊旅行。しかも目的は競馬である。よほど早くから計画を立てて準備していなくては、確かに光にとって右から左へと融通のつく金額では済まないだろう。悲しいかな、無為徒食の浪人暮らし。あぶれ者である。
俯いた光の様子を見て源吾は優しげな表情を見せた。
「そんなこと判ってる。旅費も交通費も爺ちゃんが出すから、おまえは心配すんな。馬券買う種銭も二日間で3万円やるからよ。それ以上必要なら、あとは自腹で何とかせい」
「ああ、そういうことなら大丈夫だよ」光は即座に答えた。
「現金なやつだな。まあいい」
源吾が笑うと光は照れて頭をかいた。
「ところで光。おまえ、まだ勤め先決めてねえんだべ?」
光が素直に頷くのを見て源吾はやれやれという顔をした。
「いつまでもただ飯食ってるわけにもいかんべ。札幌から戻ったらそろそろ少し本腰入れてよ、職探さねばだめだな。満も少し心配しとった」
「わかった。僕もそろそろ決めなくちゃと思ってたんだ。そうします」
「なら今頼んだことはわしのほうから満に云っておくからよ。勤め先も決まらんのに、競馬旅行に行くなんて事は云いずらいべからな」
「助かるよ」
光は源吾の優しさを感じた。
学生時代には中山競馬場、東京競馬場はもとより、一人旅と洒落て新潟、福島の両競馬場にも足を運んだことがある光だった。住み慣れた町を離れて温泉などに宿を決め、それほど真剣に構えずにレースに対するのもまたなんとも心躍る別の競馬の楽しみ方である。光は源吾に礼を言って「それじゃ切符や宿の手配しようか?」と申し出た。
「ああ、そうしてもらうべ」
「宿は競馬場に行きやすいから札幌市内のほうがいいね?」
「おまえに任せるからうまくやってくれ。金曜の午後出発してなるべく早めに札幌さ到着(つ)くようにするべ。あんまりせわしないのは嫌だからな」
源吾は上機嫌で予め準備していたと思われる支度金と書いた封筒を光に手渡した。
「わかった。それじゃあ早速今日中に手配するよ。安心して任せて」
光は少し興奮していることに自分でも気がついていた。祖父との色気も何もありはしない旅なのに、何故か心が弾むのを抑えることができなかった。確かに源吾にとっては札幌開催の傾向をつかむという命題があるのだろうが、それはあくまでも建て前のはずである。鬼原太一郎のことも何もかも頭の中から払拭できたとき、始めてその答えをつかむことができるのだ。それを実証するためにも、せっかくのチャンスなんだから思い切り楽しんでこよう。光は自らのスタンスを固めた。
2
大手文房具、事務用品等のメーカーが主催する年に一度の合同見本市が、今年は盛岡駅に程近いイーストジャパンホテルで開催されていた。どのような商品のメーカーでも同じだろうが文房具、事務用品業界も例に違わず綿密な市場調査から各社独自の商品開発方針や営業戦略を導き出す。その結論に従ってメーカー各社は新製品またはその試作品を作り、展示会を開催する。それが合同見本市である。
展示を見に来てほしい相手、つまり客先は関連商品を扱う小売店や卸売商社である。ただし云うまでもなくメーカー側としては大量の販売実績がほしいわけだから、おのずと展示会の主要な標的となるのは小さな小売店ではなく、よりまとまった実績が見込める大手卸売商社となる。経済の上でそれほど発言力のない小規模小売店や、小さな卸し店などに対しては、どうぞ気の行くまでご覧になってください程度のぞんざいな扱いとなることもしばしばあった。
大手の商社側としても各商品について一括購入したほうがコストを安く抑えることができるわけで望ましいと考えるだろう。個々に価格のすりあわせという接点ができる。そこで見本市の主催者は、どうしても来場してほしい商社には会場となるイーストジャパンホテルの宿泊券を招待状とともに贈り、接待の予定まで組んで歓待するのである。招待された商社側もそこが格好の商談の場となることを知っているので、多少の旅費をかけてでも出席することが慣例になっていた。
しかし、そうはいってもそこでなされた話し合いは、商行為の勝ち負けを約束するものではない。仮にメーカーと商社との意見がぴたりと合い、大口の取引が成立したところで、それはまだ不安定極まりないもので、もし商社が小売店への売りさばきに支障をきたすような事態になれば大量の不良在庫を抱える危険もあるわけだ。メーカーにしても商社にしても力のない会社はあっという間に倒産の憂き目を見ることもある。どちらにしても各社独自の市場調査の正確さが明暗を分けることになるのである。
光の父、高梨満が営業本部長を務める大毎商事株式会社もそのような大手卸売り問屋の一社だった。そして例年のことだが大毎商事には今年も見本市への招待状が舞い込んでいた。
高梨満は見本市開催の前夜盛岡に入った。青函トンネルが開通し、青函連絡船が廃止されたことで、盛岡までの所要時間も6時間程度まで短縮された。とはいえこの先は開通したばかりの東北新幹線を使えば首都東京まで3時間もかからずに行けるというのだから凄いものだと満は感心した。
函館を出発して約6時間。盛岡駅在来線ホームに到着した高梨満は、改札を抜け今は盛岡駅の中核となっている駅ビルに出た。盛岡に来るのは二度目だった。以前はまだ東北新幹線のない時代で駅舎も駅前周辺も随分寂しげな佇まいだったことを思い出す。ずいぶん様変わりしたものだと満は感じた。広いバスターミナルとタクシー乗り場の向こう側を幅員の広い舗装道路が走っており、ひっきりなしに車が流れている。さほど高層の建物こそ見当たらないが大都市の顔を見せているのである。
腕時計を除くと午後7時を少し回ったところである。満は歩き出した。宿泊するホテルは駅を背に驚くほど交通量の多い大通りを5分ほど歩き、北上川をまたぐ海運橋を渡るとすぐ目と鼻の先なのだ。タクシーを使うまでもないので、歩くことにしたのだった。
予約したホテルは、明日見本市が開かれるイーストジャパンホテルと比べると、格式も規模もはるかに下だったが、顔を顰めるほどレベルが低いわけでもない。イーストジャパンホテルに前日から連泊しようかとも考えたが、きっと開催の準備で多忙だろうし、メーカーの担当者なも多く来ているだろう。彼らはみな満の顔を知っているだろうから、顔を合わせばいらぬ気遣いをさせてしまうことになる。そう考えて敢て近くの別のホテルを予約したのだった。
「高梨本部長」
突然後ろから大きな声で呼び止められた高梨満は驚いて振り返った。
見覚えのあるスーツ姿の若者が、少し不満そうな顔をして立っている。若者の後ろには満と同年代に見える上等な背広を身に着けた恰幅の良い男がにこやかな笑顔を見せている。こちらの男とはまだ面識がない。
若者は満に近付いて手に持ったスーツケースを強引に受け取ると「水臭いじゃないですか。本部長」といってぺこりとお辞儀をした。見本市に出品している大手文房具・事務用品メーカー㈱スナダの営業マンで大毎商事を担当している駒沢弘文という男だった。
「駒沢君か。驚いた。なぜ?」
「本部長。私どもの総務部長、南雲義孝です」
満の質問に答える代りに、駒沢は後ろに立った男を満に紹介した。
「南雲と申します。高梨本部長さんにはいつもたいそう可愛がっていただいていると、駒沢から聞いておりまして、一度ぜひご挨拶をと思っておりました」
南雲は丁寧にそういって名刺を差し出した。
『株式会社スナダ・総務部長 南雲義孝』と印刷されている。
「とんでもない。こちらこそ駒沢君にはいつも便宜を図ってもらっています」
満も笑顔を返して名刺を渡した。
「それじゃ高梨さん。夕食まだですね?どうかお付き合いください。美味い濁酒を飲ませてくれる店がありましてな」
南雲は通りかかったタクシーを止めるて満を押し込むと、「駒沢君。それじゃ本部長さんのチェックインを済ませてきてくれ。先に行ってるから」と部下に指示してから満の隣に乗り込んだ。
連れて行かれたのは繁華街もはずれに近い場所にある瀟洒な和風の佇まいをみせる店だった。無地の麻暖簾に墨書で『わだち』と書かれている。南雲が先に立って暖簾をくぐると女将が走り寄って満面の笑顔を作って迎えた。
「本当に来てくださったのね。嬉しいわ」と愛想を云って女将は南雲と満を小上がりに通した。
「まずはビール。あとはよしなに。しばらくしたら、若いもんがひとり来るから」
ほぼ段取りは付いているのだろう、南雲義孝は簡単に注文を済ませた。
女将が下がるのを見届けた南雲義孝は突然高梨満の前に正座しなおし、「申し訳ありません」といって深々と頭を下げた。
「え?」
何のことかわからずためらう満に、南雲義孝は言葉を繋いだ。
「当社(うち)の駒沢から、大毎商事の高梨本部長がきっと今日中に盛岡に入られると聞きましてな、是非お会いしたいからと、この席を設けさせたのは私なんです。ところがイーストジャパンには予約は入っていない。やはり明日になるのではと云いますと、そんなはずはないと確認の電話を御社に……」
「なるほど。それで向こうのホテルに予約していることを知った。そういうことですか」
「その通りです。予約は私どものほうでイーストジャパンのほうに移させていただきました」
本当に申し訳なさそうに南雲は言って、もう一度深く頭を下げた。
「いや、それは構わないんですがね。ということは何か私に話があると?」
高梨満がそう訊ねた。
「はい。実は高梨さんが根っからの函館人だと伺いまして、それならば私が心の中に持っております影を払拭する力をお借りできるのではなかろうかと、勝手に思い込んだわけでございます」
南雲はひどく回りくどい言い回しで答え、じっと満の目を見た。
女将がビールを運んできた。
南雲義孝、駒沢弘文に送られて満がホテルの部屋に入ったのは午前2時を回ったころだった。
満はシャワーを浴びるのももどかしく、ベッドにもぐりこんだ。明かりを落として目を閉じると、すっかり酔いの回った頭の中に南雲の話がぐるぐると渦を巻いた。
「18才から22の歳の頃函館に住んでいたことがあり……」
「子供ができましてな……20歳のときでした、いやあお恥ずかしい……」
「宗次という名をつけて可愛がったのですが貧乏で育てていけず……然法寺という寺の山門に置き去りにしてしまったんです……」
「家内は事故にあって……」
「風の噂によりますと宗次はなにかよからぬ組織に入っていると……」
「何とか私が摘み取ってしまった宗次の幸せを、宗次に返してやれぬものかと……」
南雲義孝は然法寺山門に置き去りにした息子、宗次のことを気にかけているようだった。
満は然法寺という寺があることは知っていたし、その住職二階堂草庵がかなりの遊び人だという噂は耳にしていた。しかし草庵和尚と面識があるわけでもなく、南雲宗次なる人物が寺に関係したところにいるのかどうかも知らなかった。満は正直に告げたが意外にも南雲義孝はさして落胆した素振りも見せなかった。
「駒沢から高梨本部長は実直な方だと聞いておりました。やはりそうですか」
そう答えただけだった。ただ、満に向けられたその視線には、何かを懇願するような光が宿っていたのである。
高梨満も南雲義孝の視線を受け、その意味を理解した。南雲は満の父源吾の友人が所謂『よからぬ組織』の中にいること知っていて、その線から情報が得られないだろうかと頼んでいるのであろう。満はそう確信した。
「分りました。できるだけのことはして見ましょう」満は力強く言って南雲義孝に視線を返した。南雲は嬉しそうに「どうかよろしくお願いします」と笑顔を見せた。
結局『わだち』に駒沢がやって来たのは、南雲が用件を話し終えてまもなくのことだった。
きっと南雲総務部長から30分ほど時間を置いて合流するようはじめから指示されていたのかも知れない。そこまで思い返したとき、少々飲みすぎた高梨満に強い睡魔が襲いかかった。
3
窓の下の夕日に染まる埠頭から、つい先ほどまで荷を積み込んでいた小さな貨物船が出航していく。この日最後の荷役を終えた人足たちが帰り支度を始めると、夕日も速度を上げるように山陰に沈んでいった。水島海運社長の水島健之助は窓の外に視線を漂わせていたが、やがて宵闇が広がると自ら窓にブラインドを下ろした。明かりを灯し忘れていた部屋に夜が忍び込んだ。安楽椅子に深く沈んでいた南雲宗次が立ち上がってドアのところまで行き、出入り口のすぐ横のスイッチを押した。事務所の蛍光灯が灯り、部屋に明るさが戻った。
水島健之助がソファではなく執務デスクに戻ったのを見て、南雲宗次は部屋の隅に立てかけていた折たたみ式のパイプ椅子をデスクの前に広げ健之助の正対するように腰かけた。
「どうだ、鬼原のほうに何か動きは見えねえか?」
健之助は不安を抑えるように、デスクの引き出しからマルボロの箱を取り出して蓋を開けた。中はからだった。南雲宗次がすぐ自分のポケットからケントを取り出した。蓋を開けて箱の底を人差し指でトンと弾くと、うまい具合にタバコが一本ひょいと頭を覗かせる。宗次が差し出すと、健之助は黙って引き抜いて口にくわえた。間をおかず宗次はライターの火を近付け、健之助が紫煙をフウと吐き出すのを見て残りのタバコを箱ごとデスク上に置いた。
「別段変わった動きは何もねえようで……。ただ見張っておりますと馬券を買う回数が少々増えとるようですがね」
宗次は自分もタバコに火をつけて、傍らのスタンド式の灰皿を引き寄せた。
「競馬ァ! 競馬だと?」
健之助は目を丸くした。
「あのジジイ、競馬なんぞで二億もの金を稼ごうって云う腹なのか。ンなことできるわけねえべさ!」
「できるわけありませんや」
宗次もきっぱりと言い切り「腹据えて、でかい金を一気に賭けりゃあ、まぐれ当たりで勝つことがねえとは言い切れませんがね」と、つけたした。
「あのジジイにそんな度胸はねえだろうさ」
「何度か勝負してるところを覗いて見たんですがね、勝っても負けても一度に勝負する金額はせいぜい十万円止まり。あれじゃあ二億なんてのは夢のまた夢でさ」
「そりゃ無理だ、無理、無理。あははは」
健之助は愉快そうに大声で笑った。
四葉幸福会の二階堂与右衛門と協議したとは云ってもあの長老にそれほど判断力があるようには見えないから、結局迷惑料として二億円もの大金を吹っかけたのは水島の社長だということになっていた。当然泣きを入れてくると高をくくっていたところ、鬼原は穴を捲ったようにそれを受けた。受けたからには目算が立っていると考えるのが普通なのだが、何の動きもないのである。あるとすれば堅気の高梨健吾一家と、なにやらこそこそ相談しているだけなのだ。
高梨源吾の一家は健之助が知る限り、確かに競馬好きのギャンブル一家だったはずだ。しかし所詮素人である。いや仮にプロだったとしても買う馬券がすべて的中するなどということはありえない。もしそのようなことが可能なら星の数ほどいる競馬評論家や予想家などはみな豪邸にでも住んでいて然るべきではないか。
「倍率十倍の馬券を十万円一点買いして的中したとしますか。百万円になりまさぁ。その百万円を一点にぶち込んで、これまた当たったとします。配当は同じく十倍。これでようやく1千万円だ。こんな具合に転がして二億円稼ぐにゃ、百レース以上必要なんですぜ。今年もあと4ヶ月だ、全国合わせたってレースの数は4百そこそこ。それも未勝利戦とか下級条件戦とか
訳の解からねえ勝負が大方でさぁ。できると思いますか。連続して百レースも当て続けることが」
宗次は健之助にもよく分るように説明した。それは誰でも考え付く簡単なことだったが、それだけ的をついているともいえた。
「だが、それならョ、宗次」水島健之助は真顔に戻り「鬼原のジジイは堅気の高梨ナンタラちゅう男たちまで引っ張り出していったい何をしようとしとるんだろう?」
「そこなんですよ。気にかかるのは。馬券のほうがマジにだめだとして、それじゃあ二億の金の稼ぎ先はなんだ? それはやっぱり高梨家という堅気の衆を引きずり込んだことなんじゃねえでしょうか」
南雲宗次も真剣な目で健之助を見つめて、二本目のタバコに火を点けた。
「どういうことだ?」
「たとえば、社長。社長の方針に従わねえ堅気の衆がいたとしましょうか。社長ならその堅気、どうしてやります?」
「そりゃあ、おめえ。とっ捕まえてギッタギッタよ。いてえ目に合わせてやるだろうさ」
「でしょう。でもそのあとどうなります? 普通」
南雲宗次は茶目っ気たっぷりに健之助を見て「サツの取締りが厳しくなりませんか?堅気の衆に暴力を振るったってことで、組の強制解散ってなことに……」と続け、一度言葉を止めて健之助の答えを待った。
「確かにな。そうかあのジジイ、そんな姑息な手を考えていやがったのかあ……。鬼原のところがパンとしたままでも、こっちが潰れちまえば迷惑料もへったくれもなくなるわけだからな」
水島健之助の瞳に熱い火が燃え上がったように見えた。
「私は鬼原の親分が高梨の一家を担ぎ出した腹をそう見ているんですよ。だから、間違っても水島(うち)や四葉の若いもんたちが高梨のやつらにだけは手ぇ出さねえように、社長のほうから言い含めておいたほうが良かぁありませんか」
水島健之助は大きく頷いて何本目かのタバコを灰皿の中にもみ消し、デスクの上に置いた電話の受話器をとった。
しっかりと頭の中に記憶した番号をダイヤルする。数回のコール音の後、男の声が聞こえた。
「四葉幸福会」
「会長は。いや、副会長の草庵はいるかい?」
「なんじゃと! 貴様何処のどいつじゃ! 名乗らんかい!」
「ばかやろう! 水島海運の水島じゃ」
「し、失礼いたしました。少々お待ちを……」
電話の声はすぐ二階堂草庵と代わった。
「どうもお世話になっとります。二階堂草庵です。はい、たった今まいりまして……」
草庵和尚は丁寧に言った。その声の後ろに、折檻されているような男の悲鳴が重なって聞こえた。
水島健之助は二階堂草庵に先ほど南雲と話をした内容を告げ、二階堂与右衛門会長に了承を得るよう頼んで電話を切った。
「これでとりあえず大丈夫だべ。まあ向こうに座るべや」
健之助は宗次に安楽椅子を勧め、サイドボードからシーバス・リーガルのボトルとグラスをふたつ取り出してテーブルに置いた。
「まあ、一杯やれや」
珀色の液体をグラスに注ぎ片方を宗次に手渡した健之助は、乾杯するようにグラスを挙げた。
「何があるかわからねえ渡世だからよ、これからも鬼原の動きには気い配っていてくれや。頼んだぞ」
水島健之助はそういって芳醇な香りのする高級ウイスキーを一気に飲み干した。
4
札幌競馬を二日間堪能した高梨源吾と孫の光は、函館に戻る特急列車に揺られていた。まだ電化されてはおらず、いわゆるジーゼルカーと呼ばれる列車である。それでも車両が真新しいので普通急行に比べてはるかに快適な乗り心地だった。背もたれも若干ではあったけれど後ろに倒すことができたし、席もボックスではなく総てが進行方向に向いていたので、足を放り出しても他人に迷惑をかけない。何よりも1時間も早く函館に到着するのが嬉しかった。
光は普通急行を手配していたのだったが、二日間の戦績が抜群だった源吾が奮発して特急に変更したのだった。
ジーゼル特急は室蘭線経由の函館行きで、札幌を出ると千歳、苫小牧、東室蘭、長万部、大沼公園そして函館と進んでいく。
列車が午後四時半に発車すると同時に、二人とも背もたれを倒して眠ってしまった。気がついたとき特急列車はもう東室蘭を過ぎた辺りを滑るように走っていた。窓外はすっかり暮れ、家屋や街灯の明かりだけが飛び去るように流れていく。
車内販売がちょうど弁当を持って回ってきたので光は幕の内弁当と茶を二つずつ買った。
「晩飯にしようか」
窓側に座った源吾に弁当を渡すと源吾は嬉しそうに包みを開いた。
「爺ちゃん。鬼原の親分さんはちゃんと爺ちゃんの言う馬券、買ってるのかな?」
弁当に端をつけながら光は源吾のほうに目を向けた。
「大きな声で言っちゃあいかん。誰が聞いてるかわからんからな」
源吾はささやくような声で言った。
「気になるんだよ。どうなっているのか」
「いいか、光。親分と約束したときのこと思い出してみろ。わしはあのジジイにこういったべ『わしは自分のためにだけ真剣に予想して馬券を買う。だから資金も要らんし、教えたとおりに買ったかどうかの報告も要らん』そう云わなかったか?」
「云ってたね」
光は土瓶の形を模した小さなポリ容器の蓋を開け、中に満たされた湯に緑茶のパックを放り込んだ。
「なぜかわかるか?」
「――」
「それはな、……」
源吾は言いかけたが、突然言葉を止めて頭を振ると「いや、それはいい。とにかく聞いたって奴は何も云わんべな……わしらには見当もつかん影響が出るかも知れねえのよ。そういう世界なんだべなぁ、太一郎が住んでる渡世ってやつは」と呟いて一度大きなため息をつくと、それ切り口を閉ざした。
光は源吾の寂しげな顔を見ると、それ以上なにも聞けなくなった。
高梨源吾と光は、札幌駅で買った雑誌を広げ、別段面白くもない記事を目で追いながら時間を過ごした。それなりに楽しかった旅行が、最後の最後に気まずい雰囲気になってしまっと光は感じていた。
やがてジーゼル特急列車は函館に到着した。
ガタンとひと揺れあって列車は止まった。高梨源吾が光を伴って函館駅のプラットフォームに降り立ったのは午後9時になろうとするときだった。
函館駅の駅舎を出たところで、ふたりは盛岡出張から戻った満と偶然にも鉢合わせになった。
駅前のタクシーブースに並んでいると、駅の中から重そうなボストンバッグを手に持った満が姿を現したのである。満たちのいるタクシーブースのほうに歩いてくるところを見ると、どうやら同じようにタクシーを使おうとしているらしい。
「父さん」
すぐ近くまでやってきた所で光は声をかけた。
「おう、今着いたのか? おまえたちも」と笑って合流した。
光を助手席にのせ、源吾と満は後部座席に座った。
「谷地頭(やちがしら)」
行き先を指示してから、満は源吾のほうに向き直って、「親父、ひとつ頼まれて欲しいことがあるんだがな」と、切り出した。
「なんだ?」
「仕入先のお偉いさんで、鬼原の組長さんに合いたいという人がいるんだよ。紹介してもらえんだろうか……」
「一応明日にでも連絡をしてみてやる。だが、あのジジイ今大忙しって所だべぇから、いい返事もらえるかどうかは分らねえぞ」
盛岡での顛末を正直に話した満に源吾はそう云った。
「いや、そう急ぐことでもないだろうから。とにかくアポとってほしいんだ」
満は南雲義孝のあの懇願するような目を思い返して、源吾に強く念を押した。
5
「これはこれは、本当によく似ていなさる。いやはやなんとも恐れ入りやした。なあ、哲明」
鬼原太一郎はテーブルを挟んでソファーに腰掛た男と記憶の中の水島海運若頭の姿を重ね合わせて、愉快そうにちょうど茶を運んできた哲明を見た。
ひと月ほど前、高梨家の家族会が開かれた温泉旅館、松風閣の社長室である。
テーブルの上には太一郎の目の前に男の名刺が乗せられている。名刺の文字は㈱スナダ総務部長・南雲義孝と読める。
「本当ですね、誰が見ても親子だとすぐ分りますよ」
二人の前に茶を置いてから太一郎の隣の椅子に腰を下ろした哲明も、義孝を一目見ただけで素直に認めた。
太一郎に云われるまでもなくその男は水島海運の南雲宗次がそのまま歳を重ねたような顔つきで、ワイシャツの上からでも十分に分る筋肉質の体つきまでよく似ていた。鬼原哲明は不謹慎にも、水島健之助と険悪な関係になっているこんなときでなければ、南雲父子の対面の場をセットして同席させてもらい、まるでバラエティ番組の『そっくりさん大会』にあるような場面を楽しんでみたいものだと思ったくらいだった。
「そうですか。そんなに似ておりますか?」
南雲義孝は今ではもう面影すら浮かばなくなってしまったわが子宗次を思い、目を細めた。
義孝は太一郎から受け取った『㈱鬼原組 代表取締役・鬼原太一郎』と刷られた名刺を、恭しく名刺入れに収めた。
「さて、南雲さん」
鬼原太一郎が非礼を詫びるように頭を下げてから話し始めた。
「高梨家の満くんが貴方から頼まれた件につきましては、満君の父である源吾から伺いました。私としても十分理解したつもりでいます。可愛い盛りのお子さんを置き去りにしなければならなかった貴方のご心中を思えば落涙の念を禁じ得ません。私ら侠客の渡世を生きるものとしましては、今すぐにでも水島海運に話をつけ、貴方と宗次君の再会の場を取り持つのが筋だということ、よくわきまえております。宗次君が水島海運に草鞋を脱いでいることも承知しておりますし、水島海運の社長、水島健之助のこともよく存じておるのですからな」
太一郎は一度言葉をとめるとテーブルの上で湯気を立てる煎茶を啜りのどを潤した。
しかし、南雲義孝は鬼原太一郎の様子に僅かなためらいがあるのを感じ取っていた。
「何か問題でも?」と、義孝は思い切って口に出して聞いてみた。
「実はですな、南雲さん。まったくお恥ずかしい話なんですが、恥を晒すつもりで申し上げましょう。実は現在(いま)鬼原組と水島海運とはある事情で険悪な関係にありましてな。仮に私が、貴方の申し出を受けて申し出たとしても水島は聞く耳を持たねえでしょう」
「なら、場所さえ教えていただければ私が勝手に……」
「それはいけません」哲明がたしなめた。「貴方が一度鬼原組の門をくぐったことはまだ向こうには知られちゃいないでしょう。しかし時間の問題だ。だって仕事の関係で高梨の満さんにお会いになったりするんでしょうからね。水島が貴方の動きを見た後で、水島を訪ねたりすりゃあ、貴方のその姿だ。向こうは貴方が私らに頼まれて宗次を連れ戻しに来た。そう思っちまうでしょう。もちろん貴方も危険だし、我々も高梨も……」
「よさねえか。哲明」
太一郎が厳しい口調で息子を制した。
「水島を訪ねて行かれるかどうかは南雲さんの自由だべや・わしらに止める権利などどこにももありゃしねえだろう」
太一郎は哲明をたしなめると、今度は南雲義孝のほうに向き直った。
「だが南雲さん。哲明の言うことも間違いじゃあないんですよ。だからここはひとつ辛抱して、仕事を終えたならばそのまま東京に戻ってはいただけませんでしょうか?」
「息子のことは諦めろと?」
義孝は気色ばんだ。
「いやそうではありません。私のほうで何とか根回しして必ずその場を作りますんで、それまで待っちゃあいただけませんかねぇ」
「どのくらい待てば……」
「遠からず。としか今は申し上げることはできません。ただご承知置きいただきたいのは、私たちが今闘っている事についてです。私たち父子はこの時代に侠客道はもはや不要だと考え、まずは私たちの組自体をたたもうとしているんですよ」
鬼原太一郎は水島海運と険悪な関係になってしまった経緯を、南雲義孝に横で聞いている哲明がやきもきするほど事細かに説明した。
「わかりました、鬼原さん。よく分りました。貴方の言葉を信じてそれまで待つことにします。今日は勝手なお願いをして申し訳ありません」
黙って頷きながら鬼原太一郎の話を聞いていた南雲義孝は、その申し出を快く受け入れた。
「何の。勝手なお願いをしとるのはこっちのほうです」
太一郎は義孝の目を見つめて、右手を差し出した。
南雲義孝はその温かい掌を強く握り締めた。
やくざ物に送られてきたと見咎められても困るだろうからと太一郎はハイヤーを手配した。南雲義孝は丁重に礼を言うとそれに乗って高梨満の勤める大毎商事へと走り去った。
「おう、満君か。鬼原です」一太郎は受話器の向こうの高梨満に呼びかけた。
「話は確かに聞いたよ。あんたの云うとおり信用できる男だった。まあ、悪いようにはせんから、安心してくれ。ああ、今そっちへ向かった。それじゃ、源吾によろしく」
太一郎は受話器を置いた。
出入り口のところに立っていた哲明が近付いて、太一郎が加えた葉巻に火を点けた。
「大丈夫なんですか? あんなに詳しくさらけ出しちまって……」
「わからん」
太一郎は哲明が予想もしなかった答えを口にした。
「わからんって……」
「源吾から会ってやってくれんかと頼まれた。本当ならそれだけで十分なはずなんだが、その後でわしは南雲義孝のことをあれこれ調べてみた。どういうところから調べても、源吾が云うとおり信頼できるという答えが返ってきたよ。後悔した。なぜ、ふたつ返事でわかったと源吾に言ってやれなかったかと……」
「わかりました」
哲明はその様子を見て、太一郎が言おうとしていることの総てが理解できたように思った。
第7章 最後の大博打
1
然法寺住職である二階堂草庵は、予後が思わしくなく再入院した兄の与右衛門を病床に見舞った。担当医の話では「そう長くは持つまい。年を越せれば」という段階に来ているらしく、その見立ては草庵にもなるほどと頷けるものだった。
兄をひとしきり励ました草庵は病院を出ると、タクシーを拾いその足で水島海運へと向かった。
薄水色のポロシャツにチェックのジャケットという軽いいでたちである。一週間のうち、金曜日から日曜日は休日として、法事などもできる限り代わりの坊主や別の寺に委託するという方針を貫いていたが、兄が取り仕切る組からの上がりもあるので暮らし向きが狂うしいわけでもない。他人の迷惑など顧みる草庵ではなかった。
人足溜りで水島健之助と南雲宗次が連合会事務所の方にいると聞いた二階堂草庵は、水島海運横の入り口から階段を上り連合会のドアをノックした。
「どなた?」
押し殺したような返事が返ってきた。
「草庵です。ちょっとご機嫌伺いに」
草庵は猫なで声で答えた。
ドアを開けるとデスクについていた水島健之助が立ち上がってソファのほうを手で示した。
「よくこられた。まあゆっくりしていってくだされ」
「ありがとうございます」
草庵は進められるままにソファに腰かけた。
南雲宗次が健之助のデスクに置いたインターホンでコーヒーを持ってくるように命じた。待たせることもなく下働きの若い者がポットに入れたコーヒーとカップを運んできた。ドア口で受け取り男を下がらせると、宗次はテーブルまで運んでコーヒーを注ぎ分けた。
「どうだい? 与右衛門さんの容態は……」
水島健之助は入院している四葉幸福会の代表を気遣う素振りを見せた。
草庵は神妙な面持ちで首を横に振った。
「あまり芳しくないのですよ。医者が言うにはもうあと数ヶ月だろうと……」
「なに、そんなに悪いのかい?」
「はい。何せもう90歳になりますからな、弱る一方で……」
「そうかい。そいつは難儀なことだな。しかしまあ見方によっちゃあ、わしらが作った暖かい渡世の中でよ逝かせてやれそうじゃねえか。それだけでも良しとしなくちゃな。いや、こりゃあまさしく釈迦に説法だ」
健之助は大きな声で笑った。
「と言うことは、鬼原組のほうに何の動きも……?」
「あんなばか父子にゃ何にもできねえさ。まあ、わしのほうでしっかりと見張っとるから気にすることもねえよ」
水島健之助はふんと鼻で笑って話を変えた。
「で、今日はこの後何か予定でも?」
「はい。今夜は寺で法会がございましてな。これからすぐ戻りまして準備を」
二階堂草庵は、健之助が誘いをかけていることに気がつき、咄嗟に逃げを打った。
「なんだ、そうかい。そいつは残念だ。久しぶりに一杯やろうかと考えたところだったのにな。諦めてまたの機会にしようかい」
「申し訳ありません。では今日のとごろはこれで」
草庵が立ち上がると水島健之助は「寺までお送りしてきな」と、南雲宗次に命じた。
然法寺へ向かう車の後部座席に揺られながら草庵は少しの間じっと目を閉じて難しい顔をしていたが、もうまもなく到着しようかというところまで来て決心したように目を開いた。
「与右衛門がそんなに終わりに近いなんてことは思わなかった」
宗次はハンドルを操りながらミラーに映る草庵の神妙な顔を見た。
「お気の毒です……」
「なあ宗次。おまえ今夜、時間はとれねえか?」
突き当たりの角を右に入ると然法寺の小さな山門が見えた。南雲宗次は車を止めて「今晩は法要があるんじゃねえんですかい?」と答えて運転席から出ると、回り込んで草庵の側のドアを開けた。
「嘘っぱちに決っとるだろうが、そんなことはよ……それで、どうだい今晩」
二階堂草庵は再び誘いをかけた。
何か重要な話があるらしいと予感めいたものを感じた南雲宗次は「時間はお約束できませんが、この間のバーでよろしいですか」と、頷いた。
「分った。わしは8時頃から行っとるんでな、もし来られんようになったら連絡をくれんか」
二階堂草庵は山門をくぐり石段を登って行った。
連合会事務所に一人残った水島健之助は草庵和尚を乗せた車が遠ざかっていく音を聞き、次第に喜びで体が震えだすのを覚えた。健之助はとうとう耐え切れずその場にがばと立ち上がって、「ばんざーい。ばんざーい」とひとり万歳をした。
「とうとうこの水島健之助が総てを支配するときがやってくるのだ」
これまでの長い年月、確かに和やかな日々を過ごしてくることができた。四葉幸福会にも鬼原組にもそのことについては感謝すべきだろう。だが考えてみれば、その穏やかで平和な時代が自分たちに何をしてくれたというのだ。堅気の目ばかりを気にして日が当たらない場所に甘んじ、力を蓄えるどころか痩せ細る一方ではないか。鬼原は解散すると言い出す始末だし、四葉は会長が死にかけていると言うのに、跡目を継ぐ奴もいない。二階堂建設のばか社員どもにはなにもできないだろうし、弟の草庵も坊主だからこの渡世に入り込むことは無理というものだ。鬼原には二億円という金はできないだろうから、詫びを入れてきたときに「いや、よくやった。解散を許そう。はい、ご苦労さん」と認めてやれば感謝して去っていくだろう。もし二億円を捻出してきたとしても「おうよくできたなあ」と褒め称えて解散させてやれば同じことだ。
奴らが気づいた実績も何もかもが自分のところに転がり込んでくる。四葉の組員たちもみな まとめて引き受ければいいことだし、もしいやだというなら追い出してしまっても構わない。えばいいことなのだ。どちらにしても侠客と呼べる人間はこの土地に自分を置いて他にはいないのだ。後は折を見て人望が厚い南雲宗次に跡目を譲って、自分は楽隠居を決め込むだけだ。なんと充実した人生ではないか。
水島海運社長、水島健之助は再び“ひとり万歳”を始めた。
2
高梨源吾がアメリカに住む次男の豊から国際電話を受けたのは9月下旬、いよいよ函館にもつらい季節を予感させる寒風の吹く日が目立って多くなってきた頃だった。用件は、仕事の関係で数年ぶりに帰国する。源吾が軍隊時代に世話になったというオーラス・レンチという名の元海軍将校と一緒で、レンチもぜひ合いたいといっている。日程の都合で函館に戻る時間はないので、源吾の方で東京まで出てこられないか、というものだった。
オーラス・レンチ。それは源吾にとって決して忘れることができない名前だった。源吾は終戦を迎えたとき、熱病で生死の境を彷徨っていた鬼原太一郎を救うためアメリカ軍に投降した。
その二人に親身になって尽してくれたのが当時の米国海軍少佐オーラス・レンチだったのである。オーラス・レンチ少佐による手厚い介護や、医薬品などの提供によって太一郎も源吾も救われたのである。源吾と太一郎が無事に祖国の地を踏むことができたのは、オーラス・リンチ少佐ののおかげだと言うことができた。
豊に源吾はふたつ返事で了解を告げ、もし差し支えなければ太一郎も同伴したいのだがと話すと、豊は構わないだろうと答えた。
日取りはちょうど一週間後。10月○日。時間は夕方6時。ホテルにいてくれれば豊の方でレンチを案内していくということであった。
国際電話を切るとすぐ高梨源吾は鬼原組にダイヤルし太一郎を呼び出した。
「レンチ少佐がよ、ウチの豊と一緒にナ、東京さ来るんだってよ。おまえも会いたかろうと思ってな。どうだ一緒に行かんか?オーラス・レンチに会いに」
「おうそれは懐かしい。あの少佐はわしにとっちゃ命の恩人だからな。ぜひ同行させてくれ」
太一郎は懐かしそうに目を細めて了解したが、ふと思いついたように「なあ、源吾。折角の機会だ、一日早く東京に入らんか? おまえともいろいろ話したいし……」と、注文をつけた。
その言い回しが妙に思わせぶりに聞こえたので、きっとこちらにいてはできぬ話があるのだろうと受け取り、源吾は「わしは構わんよ」と応じた。
鬼原太一郎は源吾に礼を言うと、ならば段取りはぜひ自分のほうでさせてくれと申し出て電話を切った。
翌朝、太一郎は鬼原組社長室に坂東由三とヤスを呼びつけた。ふたりは何事かというような神妙な顔つきで駆けつけた。
「おまえたちに頼みてえことがあるんだ。まあ、座ってくれや」
太一郎は二人をソファーに並んで座らせると、肘掛け椅子に腰かけて手に持ったJR時刻表をテーブルの上に置いた。
「まずひとつ目は、来週はじめから2、3日間高梨のジジイと旅に出てくる」
太一郎は予め付箋をはさんでおいたJR時刻表のペ-ジを開き赤の色鉛筆で丸印をつけた上野行き寝台特急を指で示した。
「こいつをわしと源吾の二人分買ってきてくれねえか。それから、帰りはこいつだ」ページをめくると上野発の下り時刻表にやはり赤丸がついている。
「間違えねえようにメモしといてくれよ。行きは今月○日。帰りは×日だぞ。それから……寝台はA寝台でな」
「飛行機のほうが楽なんじゃあねえんですか?」
坂東は心配そうに言った
「だめなんだよ、高梨のジジイ。飛行機はからきしなのよ」と笑って太一郎は一度執務机に戻り、引出しから封筒に入れた現金を持ってきた。
「20万円入っているから、足りるべ」
封筒を坂東由之助に渡した太一郎は、いたずら小僧のように目をきらきらさせながら「それともうひとつおまえたちに頼みてえことがあるんだ」と言ってにやりと笑った。
コートの襟を立ててもまだ冷たいと感じるほど街は冷えこんでいたし、ウィークデイでもあったためか、大門(だいもん)と呼ばれる繁華街に人出は少なかった。バー・街の灯の小さなボックス席に坂東由三と倉重安雄は向かい合って腰かけ、バーボンのオンザロックを渋い顔つきで飲んでいた。つい先ほどまで若いホステスがそれぞれの横について場を盛り上げていたのだが、話が次第に深刻になると由三が「おまえたち少し向こうに行ってろ」と所払いしたのである。
ほかに客はカウンターのバースツールに腰かけて、ママ相手に雑談しているスーツ姿の男がひとりいるだけである。その客も店の中が薄暗いために由三たちからは殆んどシルエットにしか見えなかった。
「それにしても可笑しいでしょうが、鬼原(うち)の親分も」
ヤスが食ってかからんばかりの剣幕で由三につばを飛ばした。
幼いころ放送部で鍛錬した声量である。思わず由三がもっと小さな声で話せと窘めた。
「すみません。でもね兄貴、組を解散しようかって忙しいこの時にですぜ、なんで東京見物なんですか!それもスッ堅気の高梨のジジイなんかと」
音量は小さくなってもよく通る声だった。
「東京見物なんかじゃあねえかも知れねえべや。組の皆のための旅だと俺には云ってたぞ」
「そんなわけねえでしょう。もしそうなら少なくとも哲明若をつれて行きなさるはずでしょうが」
「滅多なこと云うもんじゃあねえ。親分も若も俺たちのために駆け回って下すってんだ。良い所まで段取りも進んでいるようだし、俺たちとしてはお任せしとくほかねえだろうさ」
板東由三は話を止めてカウンター席の客のほうに一瞥を投げて、すぐ視線をヤスに戻した。
「で、親分はいつ東京に向かうと云ってらした?」
「へえ。確か○日です。列車は札幌始発の上野行き寝台特急で、函館発は○時○分でした……」
ヤスがそう答えたときカウンターの客が黙って立ち上がり、静かに店から姿を消した。
カウンターの清掃をボーイに頼んで、ママが板東由三とヤスの腰かけたボックスにやってきた。
「ごめんなさいね。ほったらかしで}
ママはお愛想を言うと「ひとついただいてよろしいかしら?」と艶っぽい目で二人を見た。
「どうぞ」
由三が云うのを聞いてカウンターを振り返って「たかし君。ウーロン茶、お願い」と注文した。
「店ん中が暗くてよく判らんかったが、さっきの客は水島の?」由三は聞いた。
「そうよ? 水島海運の南雲宗次さん。若頭っていうの?……。いい男よ」
と答えて目を細めた。由三とヤスは顔を見合わせてこくりと頷いた。
南雲宗次は水島健之助がこの時間ならほぼ間違いなく行きつけのクラブ・アンジュールに入り浸っていることをよく知っていた。いい年をして娘ほども歳が違う麻美というホステスにぞっこんなのである。逃げるようにバー・街の灯を飛び出した宗次は、さほど遠くないクラブ・アンジュールまで走り、到着するや乱暴にドアを開いた。
蝶ネクタイの似合う、係りの若者が、「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶するのを制して、宗次は「社長、来ているかい?」と怒鳴るように尋ねた。
その声が店の中にまで届いたのだろう「宗次か。ここに居るぞ。どうした? 血相を変えて」
水島健之助の声が返ってきた。
南雲宗次はボックス席から伸び上がるように手招きする健之助を見つけると、係が案内しようとするのも振り切ってずかずかと歩み寄り「どうやら動き出すようですぜ」と、驚きを隠せない水島健之助に耳打ちした。
3
列車は午後9時15分。高梨源吾と鬼原太一郎を乗せた上野行き寝台特急北極星は、ガタンとひと揺れ感じさせて定時に函館駅のホームを離れた。飛行機を使えば僅か2,3時間の行程である。それを概ね半日かけて行こうというのだから、傍から見れば酔狂としか言いようがない。しかしひとつの時代を精一杯生きてきたふたりにとって、それはともに過ごすことのできるかけがえのない時間になる。源吾も太一郎も心からそう思った。二名用A個室に備え付けられた二段式寝台の下段をソファー代わりにして腰かけた高梨源吾と鬼原太一郎は妙にしんみりと列車のゆれに身を任せていた。
考えてみれば太一郎と列車に乗ったのは復員してきたときだったかも知れない。ふと源吾はそんなことを思った。終戦の後函館に戻ってからはふたりとも、友人関係を保ちながらも別の道を歩み始めた。堅気と渡世人というまったく相容れない世界である。以来ふたりが同じ列車で旅をした記憶など源吾の頭の中にはない。だとすればあの高梨家に恒例の夏の家族会だけがふたりの友情を繋ぎとめる役割を果たしたのだろうか? 思わずそのような情けないイメージが浮かび上がってくる。
確かに源吾は侠客の世界について何も知らないし、太一郎は堅気の勤め人の社会に関しては疎いのである。かといってそれぞれの世界に入っていこうという気持もない。完璧に共有しているものといえば戦時中の辛い思い出しかないのである。きっと鬼原太一郎にしても同じような思いがあるのではないだろうか。
明日の夜再会を楽しみにしているしているオーラス・レンチ元少佐には心底感謝しているふたりだった。
レンチ少佐も勝者敗者の分け隔てなく本当に親身になって二人に接してくれたのだろう。
それでも――
分け隔てはあるのだ。今はまだ……
「それにしても、快適な乗り心地になったもんだな」
太一郎にそう声をかけられて源吾は我に返った。
「終戦のときは腰が痛くてなあ。あの揺れにはまいったって」
「なあ、太一郎。少しは役に立ってるのか?」
源吾は楽しそうに笑う太一郎を制して、気にかけていたことを口にした。
「おう。ありがとうよ」
案の定、太一郎はそれしか言わなかった。
ノックする音がして、スライド式のドアが開いた。検察だった。検察を終えると車掌は「どうぞごゆっくりお寛ぎください」と愛想を言って去っていった。
「さて、」太一郎が立ち上がり「すること済ましてしまうか」と、源吾に言った。
「そうするべ」
源吾も立ち上がると二人して通路に出た。
「間違いなく乗ってるんだべな」
「間違いない。わしらがふたりで動くって情報をわざと流したんだ。何か策略があると思うはずだ。そうなりゃあ水島には南雲宗次しか信頼できる者はいねえからな」
鬼原太一郎は声を潜めて答えると先に立って進行方向へ歩き始め、源吾も太一郎に続いた。
デュエットという二人用個室が並ぶ車両の突き当たり間で進むとドアが自動で開き、鉄路を踏む列車の音が大きくなった。旅の風情である。ドアを出ると洗面所とトイレのスペースの先に大きめの自動ドアが見える。ドアの向こうは連結部を挟んで次の車両になる。太一郎は構わず先に進んだ。車両が変わると入ってきたドアを中央にして左右両側に乗降口があった。
乗降口デッキに出た太一郎は乗降口側に寄って通路から身を隠せと源吾に命じ、源吾が左側に寄って構えるのを見て、自分は右の乗降口側に体を寄せた。
「便所の脇を通ったとき、誰かに見張られとるような気配がした」
太一郎が囁いた瞬間自動ドアがスライドして、筋肉質の大柄な男が二人に気がつく素振りもなく通り過ぎた。
「おい。宗次!」
太一郎が大きな声で呼び止めると、男は飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。南雲宗次であった。
馬圧が悪そうに目玉をキョロキョロさせる南雲宗次に鬼原太一郎は「安心しろ。わしらは逃げも隠れもしねえよ。ちょっと顔貸してくんな」と笑った。太一郎と源吾が自分たちの個室へと向かうのを見て、宗次も観念して後に続いた。
部屋に備え付けのスツールを引っ張り出し、南雲宗次に腰かけるよう云うと鬼原太一郎は、紙袋から函館を発つときに買っておいた缶ビールとつまみをテーブルに広げた。
「まあ、一杯やろうや」
缶ビールのプルトップを引いてそのまま宗次に渡すと「おまえも勝手にやってくれ」と太一郎は源吾にも勧めた。
「宗次。こっちがわしの親友の高梨源吾。……そして源吾、こちらが水島海運の若頭の南雲宗次だ」と太一郎は初対面の二人を紹介した。
「高梨源吾です」
「南雲宗次と申します」
「よし、飲むべ。飲むべ」
太一郎は場を和ませるような言い方で缶ビールを掲げた。
「なあ、宗次。さっきも言ったがわしらは逃げも隠れもしねえから安心してくれ。それから云
っておくが、わしらの今回の旅行はお前さんが考えているようなものじゃねえ。おまえさんはきっとわしが組を解散するための金策に源吾と動いていると勘ぐっているんだろが、それはお門違いだぜ。今回の旅の目的はふたつある。教えてやろう」
太一郎はそこまで言うとビールを一口飲んでのどを潤した。
南雲宗次は黙って太一郎の話に聞き入っていた。
「ひとつはわしらが戦地から復員したとき世話になったアメリカ人将校に会うこと。そしてもうひとつは宗次、おまえを連れ出すことだったんだよ」
「何ですと」
宗次は目を大きく見開いて太一郎を睨みつけた。
「まあ、そう怖い顔しなさんな。今のわしの組と水島の関係を考えりゃあ直接社長に頼むこともできねえだろうが。だから板東由三とヤスに命じてな、わしが源吾と旅に出るって話をおまえに聞かせた。そうすりゃ、おまえは必ず出てくる。そう思ってな」
「鬼原の親分さん。私のことをばかにしていなさるんですかい?」
宗次は少し気色ばんだ。
「情けねえこというなよ。はっきり云おう。実はおまえに会ってもらいたい男がいるんだ。そのセッティングを今函館でしてもお前だって素直にゃ席に着けんだろうし、水島とておいそれとは許可を出せまい。だからこんな姑息な手を使ってお前を引っ張り出した。すまなかったな」
「誰なんですか? そいつは」
「すぐに分る。会いさえすりゃあな。心配するな。今こじれとる問題とは関係のねえことだから」
「だからいったい誰なんですか」
太一郎がのらりくらりと答えるのだえ宗次はじれったそうに訊ねた。
「ここにいる源吾の長男で、満さんという方がいなさるんだが、その仕事の関係で㈱スナダという会社がある」
「ああノートや三角定規なんかを作っているあの最大手事務用品メーカーの㈱スナダですか」
「ほう、知っとったとはな。その会社の総務部長を務めとる男だよ」
「それが私とどんな関係が?」
「今はまだ云えんのだ。ただ明日、会いさえすればすぐ分るだろうさ」
鬼原太一郎はそこまで言って話を打ち切った。
今は少し関係がこじれているが、太一郎は信用できる男だし決断力もあると宗次は思っていた。身内を悪く言いたくはないが、水島組の水島健之助や、然法寺の二階堂草庵和尚のように策略を巡らせて他を陥れるタイプの人間ではないと信じていた。その鬼原太一郎がこんな奇策を弄してまで自分を連れ出したのにも、それなりの理由があるに違いない。どうやら自分の顔も社長の顔も潰すことにはならないようだし、流れに任せてみようと南雲宗次は腹を決めたのだった。
4
㈱スナダの受付で鬼原太一郎が総務部長に取次ぎを願い出ると、話は既に通っていたと見え若い女子職員が「こちらへどうぞ」と三人を応接室③と記された部屋に案内した。大理石を模した樹脂製フローリングを貼った八畳ほどの洋室は、一点の曇りもなく美しく磨き上げられていた。
三人がソファーに腰を下ろすと、待たせることもなく南雲義孝がドアを開いた。義孝は満面に笑みを浮かべて三人を迎えた。その顔をひと目見た瞬間、宗次にも事の次第が呑み込めたようだった。南雲義孝の瞳の奥にはあの日息子を置き去りにしなければならなかった悔恨と、宗次に心から詫びたいという気持がはっきり現れていた。また宗次の方にも辛かったであろう父の気持を察する優しさがあった。
鬼原太一郎が立ち上がり深々と頭を下げた。
「大変長いことお待たせして申し訳ないことでした。ようやく約束を果たせましたよ」
「何を仰るやら。さ、頭を上げてください。貴方を信じておりました。ありがとうございます。本当にありがとうございました」
南雲義孝は涙をぽろぽろ落としながら、太一郎の両手を握り締めた。
高梨源吾は南雲宗次に微笑みかけ、その肩をぽんと叩いた。宗次は総てを悟ったようにこくりと頷いた。
「宗次」太一郎が云った「どうだ、すべて呑み込めただろう? おまえもいつかこの日が来ると考えて、水島から養子にならんかと誘われたとき南雲の姓のままでいたいと言い張ったんだろうが。さあ今日一日ゆっくりと父上に甘えるといい。そしてできる限りの親孝行をしてくりゃいい……」
「親分さん……」
宗次が何か言いかけるのを無視して太一郎は源吾のほうに顔を向けた。
「それじゃあ源吾、わしらはそろそろ退散ってぇことにしようか。これ以上は野暮ってぇもんだ」
源吾は黙って頷くと南雲父子を応接室に残し、太一郎とともに部屋を出た。応接室③のドアが音もなく閉まると同時に、部屋の中から「おとうさん!」「宗次!」というふたつの声が重なり合って聞こえ、マッチョ同士のぶつかり合う音が激しく響いてきた。
㈱スナダを出ると秋晴れという言葉だそのまま当てはまる上天気だった。青空は何処までも高く澄みきって、心地よい微風が頬をなでて過ぎる。周囲には気を遣わなくてはならない顔もない。太一郎にとっても源吾にとってもその開放感は何にも替えがたいものだった。源吾と太一郎は㈱スナダの巨大なビルを出て新橋駅方面に向かって歩き始めた。ボストンバックひとつにまとめたそれぞれの荷物をコインロッカーから出し、東京都内を少しぶらぶら散策しつつ品川駅前に取ったホテルに向かおうということにしたのである。オーラス・レンチとの約束は午後6時30分ころだった。仕事が終り次第向かうということだったので“頃”などというあいまいな約束時間になってしまったが、とにかくホテルで待機していてくれというのだからそうするより他なかった。
とりあえず昼飯でも食おうと、適当に目に留まった中華料理店を選び席に付いた。都会のセンスに溢れる洒落たつくりの店だったが、味のほうはそれほどでもなかった。食事をし終えたところで腕時計を覗くと午後1時を回ったばかりであった。
のんびり歩を進めていると日比谷公園に出た。広場を巡る遊歩道のあちらこちらに石造りのベンチが置かれている。源吾と太一郎はどちらからともなくそのひとつに腰を下した。
「あと3ヶ月だな」
高梨源吾はポケットからハイライトを取り出すし、一本咥えてライターで火を点けた。紫煙がそよ風にたなびいた。
「大丈夫なのか? 金のことだが」
源吾は太一郎に心配そうな視線を向けた。自分が提供する情報が2億円もの稼ぎを産む。そんなことは考えられないことだった。鬼原太一郎もマルボロを一本咥えた。
「なあに、心配ねえよ。期日なんてどうでもいいじゃねえか。金額はともかく,迷惑料を積みさえすりゃいつでも組を閉めることができるって言う証文を書いたことになるわけだからな。やつらは」
太一郎は笑うと自分のタバコに火を点けた。
「それにな、お前からの情報も役に立っている。少なくともやつらは俺が競馬で稼ごうと躍起になっていると思っているはずだからな。そこにばかり目が向いている」
「何か画策しているのか?」
「融資を受けようとか、そういうことじゃあねえがな。……」
太一郎は云おうか云うまいか少しためらったが、やがて思い切ったように「今回の金額、つまり二億円ってのはどう考えたってべらぼうな金額だと思わねえか?」と源吾に聞いた。
「思う。バカみてえな数字よ! お前がよく辛抱しとると感心しとったよ」
「辛抱はするさ。これまで好き勝手なことやらせてもらったのに、ここに来て一方的に組をたたもうって言うんだからな。しかしそれにしても2億円はねえだろう」
太一郎は足元に捨てたタバコを靴底で踏み消し、呆れたような口調で源吾に同意を求めるように云った。
「お前の云うとおりだと思うが、それで……」
「わしは、あの2億円という額をはじき出したのは、宗次じゃねえかと思っているんだ」
天を仰ぐような格好をして太一郎は言った。
「――」源吾は言葉に窮した。
「二階堂与右衛門はもう力がない。水島健之助にゃあウチに対して迷惑料を課すなんていうアイディアを捻り出す能力なんぞありゃしねえさ。だとすりゃあ後ろで糸を引いているのはきっと二階堂与右衛門の弟、二階堂草庵だろう。わしは草庵が南雲宗次に入れ知恵したんじゃねえかって思っているんだ」
「解散させることができねえほど高額の手数料を吹っかけてやりゃあいいと?」
「金額なんぞどうでも良かったんじゃないべかなぁ。宗次は純粋に組織の存続だけを考えて2億円なんて法外な金額を水島を通して提示させたのょ。当然わしが解散を諦めると思ったんだべ。ところがわしは受けた」
「なるほどな」
「だがな、いま冷静になって考えてみればそんな綺麗ごとだけじゃねえような気もするのよ。ちょっと敏感すぎるんだ。わしの動きに対するチェックが……」
「宗次が考えていることとは違うと?」
源吾が驚いて訊ねると太一郎は頷いた。
「どうせ作れやしねえと見越して吹っかけた額だ。本当に組を閉めさせねえ気なら、もう少し傍観しといても良かあねえかな?」
「と言うことは……」
「本当はうちの組を解散させたがっているってことよ。多分鬼原がどのくらい稼いだのか知ろうとして敏感になっとるんだろう。2億円などできなくても、支払えるだけで良いと認める気じゃねえか。そんな気がするのよ」
「だとすれば、宗次は?」
「コケにされていることになる。水島はもう天下を取ったものと思っているはずだ。二階堂与右衛門はもうだめらしいからな。自分は何にもできねえから、後の実務は宗次に任せておきさえすりゃいい。そう考えているんだろうさ」
「もうひとりの、何とか言う坊主は?
「草庵か? やつも水島のそういう考えには気付いているべ。あいつこそ渡世人じゃねえから、自分で組をしきろうと思っても無理だ。だから宗次にいろいろ入れ知恵して、引き抜こうとしているのよ。迷惑な話だと思うだろう、宗次の身になってみれば」
太一郎はそこまで云うとにやりと笑って立ち上がった。
「行くか」という太一郎の声に源吾も立ち上がった。
有楽町の近くで流しのタクシーを拾った。ふたりとも予約した品川のホテルに到着するまで沈黙を通した。このとき高梨源吾は、鬼原太一郎が何らかの大博打に出ていることを確信したのである。
5
青い瞳の老アメリカ人はホテルのロビーに入ると高梨源吾と鬼原太一郎の姿をすぐに認め、急ぎ足で近付いてきた。しかしアメリカ人は源吾たちの3,4m手前で一度立ち止まり、ここまで案内してきた高梨豊を振り返った。豊は満面の笑みを湛えて、オーラス・レンチにさあどうぞとでもいうように右掌でふたりの老人を指し示した。
レンチは大きく頷いた。源吾と太一郎も「マジョリティ・レンチ!」と口々に叫んでレンチに駆け寄った。三人はロビーの中央で手を握り合い、抱き合った。約四十年間の空白が一気に時の要素で満たされていくようだった。
オーラス・レンチはアメリカ人にしてはそれほど上背があるほうではなかったが、それでも源吾や太一郎と比べると大きな体躯をしており血色も良かった。背の低い源吾や太一郎のほうが肌艶や皺の多さを見ると、同じ四十年間で多く歳をとってしまったように感じられる。
三人がお互いの健康を確認しあった頃合を見計らって、高梨源吾の次男の豊が源吾のすぐ横までやって来た。
「親父、元気でそうだね?」
「おう、豊。しばらくだな。元気そうで何よりだ」源吾は息子と握手を交わし「今回は函館まで戻る暇がねえって云ってたけど、母さんが会いたがってた。無理なのか?」と訊ねた。
「ああ、明日の昼にはもう発たなくちゃならないんだ。だけど今年は年末に家族みんなを連れて戻るつもりさ。正月は函館で過ごそうと思ってる。母さんにもそう云っといてくれよ」
豊は源吾にそれだけ伝えてから鬼原太一郎に近付き「いつも父がお世話になっております。鬼原の親分さん」と、深々と頭を下げた。
「なんの、こっちこそ何かと世話かけとるよ。今日もこんな機会をこしらえてもらって、ありがとうよ」
太一郎も深く頭を下げた。
オーラス・レンチはそんな日本人同士のセレモニーを、不思議なものでも見るように黙って見つめていた。
オーラス・レンチ元海軍少佐を囲んでの晩餐は、レンチの希望もあってホテルに程近い『魚恒(うおつね)』という料亭に用意された。通訳を務めた豊がセットした、豊を含めて四名だけのささやかな会席だった。終戦当時レンチの部下であった若い兵たちも、今は上級の将校クラスになって何人かは横田ベース辺りにいるらしかった。折角の機会だから招待しようかと幹事役を引き受けた豊が問うと、オーラス・レンチは源吾や太一郎にとって必ずしも良い想い出ではなかろうと断ったと云う。後に豊からその話を聞いた源吾たちは最近では忘れてしまっていた他人に対する心配りというものを、レンチから逆に教えられたような気持になった。そのようなオーラス・レンチ少佐の下に投降した源吾たちが幸運だったに違いない。
「あれからかれこれ40年が経ちます。レンチ少佐もお元気そうで何よりです」
源吾がレンチの猪口に酒を注ぎながら云った。
「私も来年85歳になります。40年とは長いようで短いものですなあ。あの頃はみな若かったが……」
オーラス・レンチは猪口の燗酒をくいと飲み干すと、口をつけた部分を指先で軽くぬぐう仕種をしてから源吾に差し戻した。
「ゴヘンパイ……でしたね」
レンチは笑い、源吾が受け取った猪口に酒を注いだ。
思い出話に花を咲かせているうちに時間は瞬く間に流れた。源吾も太一郎もめっぽう酒には強いほうで、以前なら何時間でも付き合っていられたものだったが、最近ではさすがに歳には勝てなくなってきていた。
「レンチ少佐。豊との仕事の関係でまたこちらに来られたときにはお声をおかけくださいいつでも大歓迎させていただきます」
源吾はそう云って同意を求めるように鬼原太一郎を見た。
「そうですとも。なにしろ私たちが今ここにこうして居れるのは、ひとえにレンチ少佐のおかげなんですから」
オーラス・レンチは少し寂しそうに首を横に振った。
「それはもしかすると少し違うかもしれません。私はむしろ打算的だったのです」と思いがけないことを話し始めた。
「私は本来非常に好戦的な人間でした。勝利のためには味方の屍も平気で踏み越えていく。そんなタイプの男でした。しかし終戦間近になってから着任した、貴方たちと知り合ったあの収容所で私の考えは変わりました。良い方向へではありません。貴方たちから見るとずるい考え方にです。私の目から見れば貴方たちの関係は異常なものに見えました。自分の命の危険さえ顧みず、相手を本当に真剣に思いやっているのですからね。正直言ってばかだと思いましたよ。私は戦争に勝つことは確信していましたが、その後のことを考えると怖くなりました。平和になった世界で私たちは貴方たちを相手に外交という仕事をしていくことになるわけです。そのとき貴方たちのそのような献身的といえる団結力が脅威になる。そう考えました。だから誠意を尽くしているように振舞ったのですよ。先行きを考えた狡猾さに違いありません。しかしこの度日本に来て貴方たちと再会し、始めて知りました。私の取り越し苦労だったことを……」
話し終えてオーラス・レンチは深々と頭を下げた。その肩が小刻みに震えていた。
「同じことですよ、レンチ少佐。おかげでこうしていられるんですから。……またぜひお会いしましょう。わしらも長生きして待っていますよ」
鬼原太一郎はレンチの両手を強く握り締めた。
オーラス・レンチを豊に任せ、源吾と太一郎はホテルに戻った。フロントでキーを受け取るとき、係りの男が南雲宗次からのメッセージメモを渡した。そのメモ用紙には、自分は明朝一番の飛行機で函館に帰るということ。 父、義孝が朝9時に挨拶に伺うということ。
そして函館に戻ってからでは云えないかもしれない、源吾と太一郎への礼の言葉が記されていた。
第8章 華麗なる賭事
1
「行ってきまーす」
朝七時、高梨光は元気よく家を飛び出した。
「ああ、行っといで」
母、多佳子の声が背中を押した。
十一月に入って光はようやく重い腰を上げるように働きはじめた。といっても正式に社員として採用が決まったわけではなく、アルバイトである。職種は倉庫管理及び配送の仕事で、簡単に言うと仲買が仕入れた商品を倉庫内の定められたスペースに収納管理し、指示される数量を市内の各小売店に配達するというものだった。正規職員の中途採用を募集している会社もいくつかはあった。しかし一年もあと2ヶ月あまりとなったこの時季だから、そうそう好条件の勤め口は見つかるはずもない。どうしたものかと思案していたところ、慌てて決めて後悔するくらいなら年明けまで待って正規の新卒者募集を視野に入れたほうが好いのではないか云うと父の助言もあり、年内はアルバイトでもして繋いでおこうと、光も腹を決めたのである。
未舗装の急坂を下り200mばかり歩くと、函館八幡宮の参道である幅の広い舗装道路と交差する。交差点を右に曲がると程なく市電の停留所があった。安全地帯を兼ねた市電の停留所に立つと、一両編成のくすんだ紺色をした車両が朝靄の中をのんびりと下ってくるのが見えた。光の立っている谷地頭(やちがしら)の停留所が終点で、客を降ろすと折り返しの函館駅前経由柏木町行の電車になるのである。
光は近付いてくる電車を眺めながら大きく深呼吸をした。ほんの少し潮の香を含んだ朝の空気が身体に染み渡るようだった。アルバイトに通い始めてまだ一週間ほどしか経っていなかったが、今になってようやく社会人の仲間入りをしたような気恥ずかしい充実感が光の胸の内に沸いてくる。坂道を降りてきた市電の車両がやがて停留所に入線して、ブレーキの軋む音を聞かせながら停止した。
前側の乗降口が開いてリュックを背負った観光客と思われる若いカップルを一組だけ降ろすと降車口は一度閉じた。電車のパンタグラフが方向を変える。
光は電車を降りたカップルを目で追った。近くには立待岬という景勝地や石川啄木の墓所がある。その後この時間ならのんびり歩を進めれば、午前中に函館八幡宮から函館公園辺りまで動くこともできるだろうか。そんなことを思いながら二人の様子を見ていた光は、「おはようございます、光さん」と後ろから声をかけられて振り返った。声の主は鬼原組の倉重安雄、だった。
「ああ、ヤスさんおはようございます。どうしたんです?こんな早くから」
黒のサングラスをかけた強面に臆することなく、光は眩いまでに磨き上げたヤスのスキンヘッドを見つめて親しげに挨拶した。市電に乗ろうと光の後ろに並んでいた数人の通勤客たちが胡散臭いものでも見るような視線を光に浴びせた。
「すみません、突然声をかけてしまって」
ヤスが詫びを云ったとき市電の乗車口が開いた。光は身体を引いて後ろに並んだ通勤客に道を譲った。
「働き先は十字街(じゅうじがい)の付近でしたね? 電停までお送りしますんで私の車にどうぞ」
ヤスはすぐそばに停めた黒塗りを示した。
「はい……ありがとうございます」
勧められるまま車に乗り込むとヤスはすぐアクセルを踏んだ。
「実は光さんにお願いがございましてね」
ヤスは巧みに車を繰りながら、コンソールボックスを開け、中から一通の封書を取り出して光に渡した。
「申し訳ねえんですが、こいつを源吾さんにお渡しいただきてえんでさ」
「祖父に……ですか? 家に居りますからヤスさん直接持っていかれたら?」
光がいぶかしげな声で言うのを聞いてヤスは「とんでもねえ」とでも云わんばかりに目を見開いた。
「そいつはいけませんや。堅気さんのご自宅にあっしらのような半端者が伺っちゃあ、迷惑をおかけすることになりますから……」
「それはそうと、なんですかこれは?」
「組長からの書状です。電話でもすりゃあいいんでしょうがね、最近は盗聴まで気ぃ使わなくてはならねえもんですから……」
「と云うことは、祖父がお伝えしている予想があまり功を奏していないということですか?」
「いえ、そうじゃねえんでさ。段取りのほうはうまくいっとるようなんです。私らのような若い者にも組を解散するときの手当てをびっくりするほど出していただけると言葉を頂きました。おっと、このことは内密でしたんで、その辺ヨロシク」ヤスはため口のような言い方をして微笑み「ただ、組長の考えは、今んとこあんまりうまくは行っていないように水島と四葉に見せておきたい……。というかやっぱり競馬じゃ無理だと思わせておきたいってぇ腹なんですよ。後ふた月。結構皆ぴりぴりしとりますんで、光さんも十分注意してください。海から荷が上がるときなんぞは荷役労働者が水島の奴等ってこともあるから特にね……」と続けてから車を停めた。もう十字街の電停だった。
「本当は会社に横付けしたいんですが、やっぱりまずいでしょうからね。此処までで勘弁してください」
「いえいえ、かえってどうもありがとう。じゃあ、間違いなく祖父に渡しておきます」
光は云って封書を鞄にしまいこんだ。
ヤスとの約束どおり光はその晩仕事から戻るとすぐ源吾に封書を渡した。源吾は黙って頷くと手渡された封書をもって書斎に入っていった。夕飯まではまだ少し間があったのでソファーに腰かけてテレビを見ていると、十分ほどして光を呼ぶ源吾の声が聞こえた。ヤスからの書面のことが気にかかっていたので、光は小走りに書斎へと急いだ。
部屋に入り後ろ手にドアを閉めた光を見て、源吾は黙って書面を手渡した。光はソファに腰を下ろして書面を広げた。そこには達筆なペン字で、どうにか解散に関しては目途がついたという報告と経緯が記され、その後に、これからのおよそ二ヶ月間、敵を油断させる目的で馬券購入の回数を増やしこちらが焦っているように見せかけたいので馬券情報を少し増やして欲しいという依頼。電話連絡に際して盗聴の恐れがある為、余計なことは言わぬようにして欲しいということ、そして最後に高梨家の家族に対する礼の言葉添えられていた。
高梨光はソファーの上で大きなため息をひとつついた。書面の内容で、光が知っていることといえば競馬に関する件と、ヤスから聞いた何とか目途がついたようだという結果の部分だけだったのである。
「そういうことだったんだ……」
この祖父さんもなかなかやるもんだな。そう思うと光は思わず苦笑せずにはいられなかった。
「常叔父さんも、仁叔父さんも知っているの?」
もしそうだとしたら自分だけ子ども扱いされていたことになる。光は少し自尊心を傷つけられたような気がした。
「誰も知らんことさ」源吾は首を横に振った。「敵を欺くには、まずなんとやらって云うだろうが。そういうことだよ」
源吾は愉快そうに云って愉快そうにからからと笑った。
部屋の外から居間の戸が開く音と「晩御飯の支度ができました」と呼ぶ多佳子の声が聞こえた。
2
バー・街の灯のボックス席に沈み込んだ水島健之助は、ターキーの水割りで喉を潤しながら南雲宗次からの報告を受けていた。鬼原太一郎を監視するために東京へ行かせた宗次が戻った。健之助は一刻も早く報告を聞きたかったが、夜を待たなければならなかった。海運業関係の会合があって時間を割くことができなかったからである。ようやく終了したのが夜の7時を回っていた。出発する時の宗次の意気込みは尋常でなかった。鬼原太一郎の行動の内容によっては、ここまで健之助の思惑通りに進んでいることも危うくなるかもしれない。
水島健之助が呼び出すと南雲宗次は十分も待たせることなくバー・街の灯に駆けつけた。
「あら、宗次さん。いらっしゃいませ」
ママが横に腰を下ろそうとするのを「ちょっと今夜は込み入った話があるから」と水島健之助は所払いするように下がらせた。
「それで、どうだった?」
宗次が目の前に腰かけるや否や健之助は口を開いた。
「それが特にどうといったこともありませんでした。云って見れば取り越し苦労ってぇやつでしてね。社長にはご心配かけましたが」
「何もなかったと云うのか?」
「まったく鬼原の組長と高梨源吾の個人的用向きの旅でした」
「そうかい、なら何も心配するこたぁねえんだな」
南雲宗次は念を押す健之助に頷いて見せた。
「どう頑張っても競馬で二億円もの上がりを手にするなんてことは、できるわけがないですからね。鬼原が金を工面できる見込みは皆無と云って良いでしょう。それより社長。社長は本当に組をたたみたいと云ってきた鬼原の申し出を突っぱねるつもりなんですか?」
「ン……」
水島健之助は宗次の目を下から見上げるように覗き込んだ。
「何が云いてぇんだ」
「いえ。社長の腹ん中が私にはよく判らねえんですよ。そうじゃありませんか、四葉幸福会の二階堂与右衛門会長が今にもって時だ。社長がうまく立ち回りさえすりゃあ水島の天下を作れるはずでしょう……。私は、社長がそこまで考えていなさるんじゃねえかと思っとりました」
南雲宗次はずばりと考えを口にした。
水島健之助は宗次に腹の中を見透かされて自嘲的に唇の端を歪めた。
「宗次。お前のいうとおりよ。何のいざこざも無く転がり込んだ機会を逃す手は無い」
宗次は氷が溶けて少し薄くなった水割りにバーボンを注ぎ足した。一気に喉の奥に流し込む。強い酒の焼け付く刺激が、宗次が仕掛けた勝負の開始を告げる打ち上げ花火のように広がった。
「やっぱりそうですか。」
「いけねえって云うんじゃねえだろうな」
宗次の言葉に水島健之助は少し気色ばんだ。
「とんでもない。いや、そうであってこそ社長だと思いましてね」
宗次は健之助のグラスにバーボンを注いだ。
「それじゃもし金策ができなくても……」
「そうよ。よく頑張ったなって頭でもなでてな、解散を認めてやるのさ」
健之助は上機嫌になって笑った。
「そいつはいいですねえ。美談だ、そいつは。で、金は?」
「え?」
「金ですよ。鬼原がいくらかでも用意してきたら?」
「それは……出すだけは貰っておくさ」
「そいつはいけねえな」
宗次はきっぱりと言い切った。
「何でだ?」
「いいですか、社長。仮にも社長は水島の中に四葉を吸収しようとしているんですぜ。四葉幸福会だって今は立派な看板掲げているんですぜ。そこの若い衆がのっけから素直に従うとは思えねぇ。そうでしょうが。だからここでもうひとつ美談を、いや、男を見せ付けるんですよ」
「――」
「いくら持ってくるかは分らんですが、社長は鬼原に向かってただこう云うんですよ。金は餞別代りにくれてやる。持って帰れ。……どうです美談でしょうが。これを見せ付けられりゃあ四葉の連中も社長のことを男の中の男と認めようってもんでさ。幸いなことに会社は今、金に窮しちゃいねぇ」
「お、おう……そ、そうだな。分った。そうしよう」
自分の天下が来るということしか考えていなかった水島健之助に、南雲宗次の意見は納得のいくものに聞こえた。
「さすが社長だ。決断が早い。それじゃあ私も社長の決めなすったその考えに従って動かせていただきます」
宗次はたたみ込むように云ってグラスを傾けた。
「どうやら宗次にも、近い将来俺の跡目を継いで水島を背負っていく立場になるという自覚が生まれ始めたらしい」
水島健之助は自分に意見した宗次の姿を頼もしいものに感じていた。
店のドアが乱暴に開かれ、冷たい風が流れ込んだ。
「水島の社長はいるか!」
男がひとり満面に怒りを露に、店に飛び込んできた。鬼原組のヤスであった。
その剣幕に水島健之助は棒立ちになり立ち竦んだ。南雲宗次が水島とヤスの間に立ちはだかる。
「何だ貴様は!」宗次が一喝するとヤスの出足が止まる。
「何で黙って組の解散を許しちゃくれねえんだ。二億の迷惑料ってのは何のことじゃ!」
一度足が止まったヤスがそう怒鳴り散らして、前に割り込んだ宗次に掴みかかったが、反対に押し戻され床に尻餅をついた。なおも立ち上がって突進しようとするヤスを宗次は思い切り拳で殴りつけた。ヤスはカウンターの付近まで吹っ飛び、バースツールが数脚派手な音を立ててヤスとともに転がった。
「やめて。やめてちょうだい」
ママが血相を変えて叫び声を上げる。
宗次は倒れているヤスの胸倉をつかんで引き起こした。
「下らん因縁つけとる暇があったら、金の算段でもしねえかい。おまえら若いもんがいくら暴れたって親分さんは喜ばんだろうが。この、ばかたれが!」
ヤスをたたき出そうとドアのほうに足を踏み出したとき、鬼原組の板東由三がドアを開け、心配そうに顔を覗かせた。
何があったのか由三は一目見て理解し「申し訳ありません。気をつけていたんですが」と詫びた。
「なんだ。由三さんか。気をつけてもらわんとな」
「へい。このお詫びは近いうち必ず……」
「いいから、連れて帰ってくんな」
南雲宗次はヤスを由三に引き渡すと店の外に押し出した。
3
第29回有馬記念は中山競馬第10レースに組まれ、昭和59年12月23日午後3時25分にスタートを切ることになった。2枠ミスターシービーと4枠シンボリルドルフの三冠馬に日本馬として初めてジャパンカップを征した7枠カツラギエースを加えた、いわゆる3強対決が実現する。報道や競馬会が大きく取り上げてやたらと煽るものだから、機運は弥が上にも盛り上がった。そしてこれが高梨源吾にとって鬼原太一郎に情報を提供する最後のレースとなるわけである。
その朝七時、日課としている朝の散歩に出かけた源吾はいつもより少し早く切り上げて一度家に戻ると、たまたま早く起きてきた光を誘って近くにある市営の公衆温泉に向かった。巨大な銭湯を思わせる施設で、鉄分を含んだ赤錆色の熱めの湯が心地好い。朝早くから夜遅くまで開いているので市民の憩いの場として結構賑わっていた。
「なあ、光」温泉に肩まで浸かりながら源吾はすぐ横で目を閉じている孫に声をかけた。
「太一郎に流す最後の情報なんだが2-4にしようと思っとるんだが……」
「外れるよ」光はきっぱりと言い切った。
「わかっとる。だがそのほうがいいのかもしれん。どっちにしてもあと一週間で答えが出るわけだから」
「そうかもしれないね」
光は源吾の云いたいことを理解したのか、ぽつりと云ってまた目をつぶった。
「今日、有馬記念が終ったら、常と仁にも総てを話そうと思っとる。どうせふたりとも来るだろうからな」
言語が云っているのは鬼原太一郎から源吾にあてた手紙に記されていたことに違いなかった。
「別に話さなくったって……」
「そうはいかんさ。あと一週間で鬼原組の件に決着がつくんなら、わしの気持にも決着をつけたいからな。それに、明日は豊が家族を連れて戻るじゃろう。白状できるのは今日しかねえべ」
「なら、そうしたらいいよ。すっきりして、来年の金杯を迎えたほうがいいからね」
孫にそういわれて源吾は楽しそうに顔をほころばせた。
帳簿のチェックをしていた手を休めてふと壁にかけた時計に目をやった鬼原太一郎は、もうこんな時間かと電話を引き寄せた。受話器をとって松風閣にダイヤルする。
「はい。松風閣でございます」
太一郎は明るくて元気の好い声が受話器を通して聞こえてくる。
「私だ。哲明は来ているか?」
「はい、お見えです。お繋ぎしますので少々お待ちください」という受け答えの後すぐ「はい。哲明です」という息子の声が聞こえてきた。
「源吾から連絡はあったか?」
「はい、つい先ほど入りました。2-4だそうですが……」
「そうか。いよいよこれが最後だなあ」
太一郎は自分の言い方が妙に感傷的だったことに照れ「それじゃその通り2-4を買ってくれ。ほかは要らん。金額はいつもの5倍だ」
「5百万円ですか?」
「頼んだぞ.。ああ、それから29日に組の解散式を開こうと思っているんだが、今からでも段取りはできるか検討してくれねえか?」
太一郎は受話器を置いた。
鬼原組事務所の電話は盗聴されている可能性が大きかった。それに対するために、いろいろと符丁を用意していた。いまの哲明とのやり取りで2-4の馬券を買っておけというのはそのままだが、500万円という金額は5千円の意味だった。盗聴している人間に太一郎が500万円一点で勝負するものと思わせるのが狙いなのだ。2-4の予想配当は概ね4倍である。的中すれば2千万円が鬼原の懐に転がり込むと踏むだろう。期限内最後のレースである。そう計算させることに何の意味があるのか。簡単なことだ。期限内最後の勝負なのだから、もし的中すれば目標に届く。そう思い込ませることができるわけだ。逆に外れたら2千万円足りないという証になる。
水島健之助は太一郎が指定された額を用意できようができまいが、解散は許す腹だろう。だがそのそれぞれには四葉幸福会や鬼原組も含めた渡世人たちに水島が男を見せる上で大きな違いがある。調達できれば鬼原太一郎は誰憚ることもなく組を解散できる取り決めである。もともと健之助が解散を阻止するという目的で吹っかけた金額である。準備できなければ憐憫をかけて解散を許してやるという格好を見せることができるが、もし反対に耳を揃えて持ってこられては水島健之助の顔は丸つぶれということになるだろう。要するに調達されてはならない金額なのだ。何はともあれ結論はもうじき出る。太一郎は思わず自分の表情が緩むのを感じ、それを悟られぬようわざと渋い顔を作る努力をしなければならなかった。
正午を過ぎた頃、仁が家族を連れてやってきた。場外馬券売り場となる函館競馬場に自宅が近い常は、源吾や光の馬券も一緒に購入してから来るということだった。源吾も光も買い目は既に決めていたので購入を頼んだ。常は源吾と光が頼んだ馬券を持って午後2時半にやって来た。もちろん家族連れである。最近は寒さで閉じられていることが多かった中仕切りの襖が開けられて、二間続きの広いリビングに変身する。暖房がいきわたるまでは逆に冷たい空気がこちららにまで流れ込んでくるのを我慢しなければならない。しかしテレビの前に広げた食卓に酒とちょっとしたつまみものが出され、高梨家の遊び人たちが酒盛りを始めると、寒さは急速に熱気へと変わっていった。やがてテレビ画面に中山競馬場の様子が映し出されるとその盛り上がりは最高潮に達した。
そして……。15時25分。有馬記念は定刻にスタートを切った。まず7枠カツラギエースが大方の予想通り先頭に立ち逃げの手を打つジャパンカップの再来となるのか……。それを見て4枠シンボリルドルフがスッと二番手に付けてこれをマークする手に出た。観客席を埋め尽くした十数万人の間から歓声とも叫声とも区別のつかないどよめきが湧き上がる。2枠ミスターシービーはいつもよりやや積極的に、しかし後方から三番手という位置につけて時を待つ構えらしい。そのまま淡々としたペースでレースは流れ3,4コーナー中間からペースが上がる。カツラギエースが逃げ足を伸ばすところを終始マークしていたシンボリルドルフが並ぶまもなく交わしていく。後方から一揆の追い込みを見せるミスターシービーは届かず3着。
タイム2分32秒8のドラマは1着4枠シンボリルドルフ、2着7枠カツラギエースで決着を見たのだった。
「よーし!」
高梨家の遊び人たち総てがゴールの瞬間そう叫んだ。全員的中だった。
「よーし!」
水島健之助は思わず叫んだ。馬券を買っていたわけではない。鬼原太一郎が500万円をつぎ込んだというレースの結果がハズレだったからである。これで太一郎の負けが決定したからだった。
病床についていた二階堂与右衛門は病室のテレビで有馬記念の実況中継を見つめていたがゴールの瞬間ほっと安堵のため息を漏らした。与右衛門は看病していた弟二階堂草庵の妻、亜紀子を枕元に呼び、なにやら耳打ちするとそのままふっと目を閉じ、穏やかな表情のまま二度と目を開くことがなかった。
4
何事もなかったように一夜が明け月曜日となった。大騒ぎだったこの一年を締める最後の一週間である。師走の賑わいは明日のクリスマスと重なる今日からがピークとなるはずで、町は朝早くから営業の準備を始めているようだった。
水島健之助もいつもより早く目が醒め、散歩でもしようかと思いついて身支度を整えると外へ出た。よく晴れた好天気だったが冷え冷えとしており、健之助は思わず羽織るように着ていたジャンパーのファスナーを首まで引き揚げた。自宅周辺を一回りして戻って来ると家の中で電話の鳴る音が響いている。あわてて部屋に入り受話器をとると宗次からだった。
「社長ですか?」宗次は確認して「四葉の二階堂与右衛門会長が亡くなられたそうです」と告げた。
不謹慎にも思わず「やった!」と叫びそうになるのをかろうじて抑えた健之助は、「そうかい。そいつは気の毒になあ」と心にもないことを口にして、電話で顔が見えないのを良いことににやりと笑みを浮かべた。
「通夜は今日の夕方6時。然法寺で。はい、草庵和尚の寺です。出棺が明朝8時で、告別式は10時からということです」
「そうか分った。おまえ、今、会社か?」
「はい会社です。来られるんでしたら迎えに上がりますが……」
「おう。用意して待っとるから、来てくれや」
急いで身支度をし終え一服しているとやがて南雲宗次がやってきた。宗次の運転する車で社に向かう道々、健之助は弔問に際しての段取りなどを確認していった。宗次は社長の言うこと一つひとつに真剣に対応して、自分の意見と異なることがあれば適切なアドバイスをした。
「香典は20万も包めば十分だろう」
しかしもうすぐ社屋に到着しようとするとき、ふと健之助の口から出たその言葉に宗次は顔を真っ赤にして噛み付いた。
「何を言ってるんですか、社長! 仮にもこの町を仕切ってきた三者連合の会長が亡くなったんですぜ。その上、残った二者のうち片方は、いま組をたたもうとしているんだ。自ずと社長が今後この街を仕切っていかざるを得ない立場になるわけでしょうが。社長だってそれを狙っていたと云っていたじゃないですか。ならば葬儀の席でもその裁量が注目されることになるってことは知っておられるはずだ。皆、じっと見ていますぜ。社長の一挙手一投足を。この間も云ったでしょうよ。組を再編するために男を見せるときだってね。それが20万ですって? 情けねえこと云わんでください。少なくともその五倍。いや十倍は身銭を切って見せてやりましょうや」
「分った……」
健之助は気圧されたようにぽつりと云った。
会社に到着し宗次は車を停めた。運転席から出て後ろのドアを開け、水島健之助を降ろした宗次が「自分の足元ばっかり気にしとるようじゃ大親分にはなれませんぜ」と追い討ちをかけると、健之助はがっくりと肩を落としたまま階段を上っていった。
葬儀の準備は二階堂草庵が直々に采配をふるいその日のうちに整えられた。予測される弔問客を考えると一般的な葬儀とはかなり異なるものとなるはずだ。治安維持のためには警察による警備まで必要となるのである。四葉幸福会と二階堂建設の職員を適所に配置し、弔問客の誘導から式の進行やその他一切合財を夜遅くまでかかりはしたが二階堂草庵はてきぱきと指示していった。さすが寺の住職だけあって慣れたものである。
準備が整ったとき草庵は妻の亜紀子から急用があるので一度戻ってきてほしいと連絡を受けた。二階堂草庵は確認をすませ、自宅へ引き返した。自宅の玄関を開けると亜紀子が身支度を整えた姿で草庵を出迎えた。
「お客様がお待ちです。本堂の方にお通ししております」
「来客? いったい誰が」
法衣に着替えて不振そうに亜紀子を見ると「菊野谷先生です」と亜紀子は無表情のままで云った。
菊野谷章太郎は四葉幸福会が相談事を持ちかけている菊野谷法律事務所の弁護士だった。
兄、与右衛門に大層可愛がられていた男で、草庵はこの弁護士が嫌いだった。二階堂草庵が亜紀子とともに本堂に顔を出すと菊野谷章太郎は座布団の上に胡坐をかいて座っていた。
「これはこれは菊野谷先生。お久しぶりでございます。今日は何か?」
二階堂草庵はつとめて穏やかに云った。
「いやあ、このたびは与右衛門会長さんが亡くなられたと伺いましてなあ。突然のことでお悔やみ申し上げる次第です」
菊野谷弁護士は正座しなおして深々と頭を下げた。草庵よりはるかに若くまだ五十歳代前半なのだが、頭頂部は河童の皿のようにつやつやと磨かれている。
「そう突然のことでもありませんでしたがね」
菊野谷弁護士が何のためにやってきたのか草庵には見当がつかなかった。しかしわざわざ葬儀も始まる前にやってきたところを見ると、それなりの用件があるのだろう。
「先生」草庵は少し急かすように云った。「明日の葬儀の準備やら何やらで、あまりゆっくりと時間をとることができないんですよ。込み入ったお話なら日を改めていただけませんか」
「あ、これは申し訳ない。今日伺った用件はですな……」言いながら傍らに置いた黒い皮製の鞄を膝の前に引き寄せ、弁護士は中から一通の封書をとり出し、両手で持ち直して額の前に恭しく掲げた。
「二階堂与右衛門会長様よりお預かりしておりますご遺言のことなのですが」
「遺言? 兄はそんなものを残して……」
「はい。私どもに依頼がございましてな。正式に作成させていただきました。既に法律的には効力を発揮しておりますので、簡単にご説明させていただくだけで宜しいかと。なあに十分もあれば済みますが、如何いたしましょうか?」
弁護士は草庵の顔を覗き込むように見た。
菊野谷弁護士が二階堂与右衛門の遺言状を開封して説明した事項は草庵を絶望の淵へと叩き込んだ。遺言の内容は大きく分けると三つの分類と見ることができた。一点目は二階堂与右衛門故人の財産に関すること。二点目としてその管理方法。そして三点目に四葉幸福会に関することが認められていた。
「まず第一点目。故人二階堂与右衛門氏の個人的財産についてですが……」
弁護士は説明を始めた。
二階堂与右衛門には草庵夫妻以外に身寄りはなかったので、他に同席して聞かなければならないものもいない。
「現金、銀行預金等約2千5百万円。土地・不動産が評価額でおよそ3千万円その他諸々が約
170万円。詳細は後日再計算してお持ちしますが、全部で5千7百万程度と思われます。その総てを二階堂亜紀子さんの経営しておられる幸福園に譲渡するということです。はい、全部。100%」
なるほど。兄貴もうまいことを考えたものだと草庵は思った。実質的には同じ丼の中の金になるので、どう流用しようが幸福園を隠れ蓑にできるわけだ。しかしそれは大きな勘違いだった。
弁護士は続けた。
「なお二点目に、譲渡金の管理は菊野谷法律事務所が代行するものとする。幸福園はその運営に必要となる用途目的にのみこれを使用することを可とし、収支決算、会計報告等公式な報告書、文書上に公表されるものでなくてはならない。と書かれております。まあ平たく云えば、草庵さん、貴方が飲んだり買ったり、博打するために使っちゃいかんということですな」
そこまで云って菊野谷は「ははは」と面白そうに笑った。
「何だその態度は! このやろう」
草庵はいきり立って菊野谷に掴みかかろうとしたが、亜紀子が慌てて法衣の裾を引っ張ったのでその場にひっくり返った。
「畜生! おまえなんぞ解任してやる」
平然と座り続ける菊野谷弁護士を忌々しそうに見上げたまま草庵は怒鳴った。
「解任ですと? 私は貴方に雇用されている覚えはありませんぞ。あなたはそもそも四葉幸福会の人間ではない。堅気の坊さんでしょうが」
いささかも動ぜず弁護士は言い放った、
「それに、ご遺言の三つ目の事柄に、こう記されております。四葉幸福会は時勢の現状に鑑みて、もはやその存在意義なしと決断するに至る。よって本会を解散し、希望する会員を含め、あくまでも合法的組織として二階堂建設株式会社に編入するものである。すなわち四葉幸福会はもうなくなったということなんですよ。草庵和尚さん」
二階堂草庵は菊野谷弁護士を追い返してから再び二階堂建設へと引き返した。遺言状にあったとおり四葉幸福会の解散に、総員異論がないのか確かめたかった。ひとりくらい暴れ者がいてもよさそうな気がした。確かに今さら堅気の仕事に就いても、と考える人間も半数近くはいた。しかし遺言に記されていた通り、最早そのような時代ではなくなっているのだから同じ建物の中で合法的に営まれている二階堂建設への編入を望んでいる者も同じくらいいたのである。
二階堂草庵は三十五名ほどいたこのまま渡世人として生きて行きたいという者たちに、兄の後を引き継いで草庵自身が四葉幸福会を束ねるから、ついてくる気はないかと誘ってみた。しかし首を縦に振るものはひとりもおらず、総ての瞳には草庵に対する軽蔑の色さえ見えるほどだった。
古くから四葉幸福会に籍を置く組員が代表して立ち上がり、二階堂草庵に向かって啖呵を切った。
「草庵和尚さんよ、あんた仏門の人だろうが。自分に都合のいい駆け引きばっかりしとらんでよぉ、少しは世のため他人のために尽くせや。ぶち殺すぞ、いい加減にしねえと」
二階堂草庵は総ての目論見が崩れ落ちていくのを感じ、泣きながら外に飛び出した。
5
二階堂与右衛門の葬儀も滞りなく終わり、同時に町の任侠渡世の一角として長い歴史を誇った四葉幸福会も消滅した。二階堂草庵も総ての野望を打ち砕かれ、御仏の前に座してひたすら読経に明け暮れる日々を送るようになった。二階堂という一時はこの地に名を馳せた侠客の歴史が幕を下ろしたのである。
鬼原組からの解散の要求に真っ先に異議を唱えた四葉幸福会がそれより先に亡くなってしまう事など、誰にも予測のできないことだった。会の中で渡世に残りたいと云っていた者のうち数人はそれぞれの知己を頼って他の町へと流れ、その他は水島の門戸を叩いた。水島海運社長の水島健之助はその総てを受け入れ、年末31日に顔合わせを行うという名目で組員全員を招集した。健之助が日取りを大晦日に決めたのは、鬼原組に命じていた迷惑料の納入期限がその日だったからである。南雲宗次の進言を容れたもので、始めに自分がどんなリーダーなのかを組員たちに見せつけるためのセレモニーだった。
朝のうちはどうにか上がっていた雪が昼少し前から再び舞い始め、寒暖計も赤い棒を0度℃から上に行かせようとしない寒い大晦日であった。大方が昨日の内に年を締めていたので積もった雪を踏み荒らすものもなく、町はその総てを白一色の下に隠してしまったようだった。
四葉幸福会から入ってきた新組員たちともともとの水島海運構成員合わせて約150名は、三和土に並びステージ代わりにした人足溜りに立つ健之助と南雲宗次を凝視していた。
鬼原組の鬼原太一郎組長は時刻通り午後一時に、哲明を従えてやってきた。ふたりが姿を現すと土間に並んだ若い衆から期せずして拍手が沸きあがった。
「おう、鬼原の。よく来られた」
太一郎も哲明もともに手ぶらなのを見て健之助は笑みを浮かべ、「有馬記念は残念だったなあ。如何に博徒とは云っても、やっぱり競馬では無理だったと見える」と、冷やかすように云った。
集まった水島の組員たちの中から笑い声が聞こえた。
「その通りでしたよ社長さん。ウチの親父にもよくわかったようでしてね。博打は博打だってことがね」
哲明がまったく動じることもなく平然とした口調で云うので、健之助は少し苛立ちを覚えた。
「そうかい。何よりだ。……それで、解散は諦めたのかい? 頑張ったんだがここまでしか工面できなかった。これで勘弁してもらえないか? そう云ってくると思っていたんだがな」
健之助は少し皮肉をこめた視線を哲明に向けた。
「莫迦云っちゃあいけませんや、社長さん」
哲明は強い視線を健之助に返し「お約束したでしょうが。年の内に耳ぃそろえて持ってくるってね」と凄んで見せた。
哲明が入り口に待機していた由三とヤスに目配せした。ふたりは夫々がひとつずつ大きなジュラルミン製のケースを肩に担ぐようにして運んでくると、南雲宗次の傍らにある天板を乗せた作業台の上に置いた。
「2億円ある。受け取ってくんな」
鬼原太一郎は穏やかに云った。
水島健之助は予想もしなかった展開に一瞬たじろいだように見えた。
南雲宗次は水島社長がどのように対応していくのかを黙って見守ることにした。いま健之助は自分が設定したクリアーされてはならない障壁を、鬼原組によって乗り越えられてしまったのだ。つまり、面子を潰されたわけである。健之助がいままでと同じようにあたふたと優柔不断な態度を晒し続けるならば、㈱水島海運には侠客渡世を張っていく技量はもはやないといっても良い。それは自分ばかりではなく組員たちも同じ思いなのではなかろうか。南雲宗次は健之助の出方に注目した。
「ほう。そいつは驚いた」
健之助はまず気持のままを鬼原太一郎と哲明父子に告げた。しかしその言葉は落ち着きを取り戻していた。
「約束したでしょうが」
鬼原哲明のほうが声が上ずっている。
「場を弁えろ、哲明!おまえはもう何も云うな!」と、太一郎が窘めた。
健之助は宗次に命じ椅子を用意させると太一郎に座るように勧め、太一郎が腰かけるのを見てからその正面に自分も座った。南雲宗次と鬼原哲明は夫々の親分の傍らに寄り添う形で立った。
「苦労させたな、水島の……」
健之助がそう云うのを聞いて太一郎はもとより、宗次も驚いて健之助を見つめた。
「二億円なんて金額が妥当なもんだなんてことは俺はこれっぽっちだって思っちゃいなかったんだ。長い事渡世を張ってきたおぬしが突然やってきて組をたたむなんて云うもんだから、何処まで本気なのか確かめたかったのよ。おぬしは俺に見せ付けるように競馬なんぞに現を抜かし始めた。やっぱりおぬしは冗談半分なんだと思った。当然だろう。馬で2億円など稼げるわけがねえからな。いまようやくわかったぜ。おぬしはできねえ工面をしとると見せかけておいて、俺の鼻を明かしてやろうとしていたわけだ……」
一度言葉を止めて健之助は愉快そうに笑い、太一郎の顔を指差した。
「やっと判ったかい? このバカ社長」太一郎も大声を張り上げて笑った。
「解散するって云うお主の気持が本物だって判かりゃあよ、そうなるのも仕方がねえと端から思っとった。それにしても二億円だ。苦労したろう。すまなかったな、鬼原の……。俺の負けよ。口惜しいがな。その金は受け取れねえよ。いや受け取るつもりなんか更々ねえ。そりゃそうだろうさ。明日から俺はおぬしの仕切っとった島を譲り受けるわけだからな。それだけで十分ってもんよ。水島海運からの解散祝いだと思って持って帰ってくれや」
「いいのかい?」
太一郎は云った。
両親分は立ち上がり、どちらからともなくお互いの両掌を堅く握りしめた。
様子を見守っていた水島海運の新旧組員たちの間から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
出入り口まで下がって見ていた由三とヤスは、その目に感動の涙を一杯に湛えて肩を震わせていた。
鬼原哲明はゆっくりと南雲宗次のところまで歩み寄り、右手を差し出した。宗次はその掌を
強く握った。
鬼原組のつわもの達を見送り人足溜りでささやかな御用納めを済ませると、構成員たちは夫々の新年を迎えようと帰っていった。三和土の両端と中央の三箇所に置いたストーブの中で
燃え尽きた石炭ががさりと音を立てた。
「社長。完璧でしたね。お見事でした」
宗次は火の始末を始めながら、放心したように椅子に腰かけている水島健之助に労いの声をかけた。それにしてもほんの少しの間に社長も大きくなったものだ。宗次は別人を見るような気持ちで健之助を見ていた。いままでの水島健之助ならば、あんなに上手くはいかなかったはずだ。やはり新しく生まれ変わる組織をまとめて行かなければならないという自覚がそうさせたのだろうか? どうやら新生水島海運も上々の船出を切ることが出来たようだ。宗次はそう思った。
「なあ宗次。おまえ、俺に何か話があるんじゃねえのかい?」
感慨深げに立っている南雲宗次に健之助がぼつりと云った。
宗次はストーブの火の始末をしていた手をとめて健之助を振り返った。心の中を見透かされ、自分の胸が激しく鼓動しているのが分った。いつ言い出そうかと悩んでいたのだが、今日まで言い出せずにいたことがあった。
「いいってことよ。何も云うな」健之助は笑った。「おまえに出て行かれちゃあ本音云うと苦しいが、止むをえんな……。親父さんを大切にしてやりなよ」
「なぜそれを……」
「狭い町だからな。いつだったか、おまえに瓜二つの男が歩いとるのを若いもんが見とって、俺に報告してきたのよ。そのときは偶然だろうと気にもしなかったがな、しばらくして鬼原と高梨のジジイが東京に行ったろう。おまえが後をつけたのは当然のことだが、あの二人の動きが妙にわざとらしくてな、もしかしたらと思い始めたってわけさ」
「……」
「東京から戻った後、おまえはやたらとこの俺に注意進言をするようになった。まるで俺の教育係りにでもなったようにな。俺は直感したよ。おまえが出て行こうとしているのを」
「申し訳ありません。その通りです」
「謝らんでもいい。俺はおまえを実の子と思って育ててきた。その子が羽ばたいて行こうとするのを邪魔することなんぞできるわけがねえ。……ところでひとつ教えてくれ。おまえと飲んでいたとき、鬼原組の若い衆が飛び込んできたことがあったろう? おまえがたたき出したがな。……あの騒ぎはヤラセだったのか?」
「とんでもねえ。あの時は私も心底驚きました」
宗次は咄嗟に嘘をついた。本当のことを白状したなら、それは鬼原と共謀して健之助を騙したということになるのだ。宗次は、それだけは口が裂けても云えないとだと思った。
「そうか、分った。それじゃあ先に帰る。いい年を迎えてくれ」
水島健之助は少し寂しそうに云った。
「私もすぐ終りますから待っとってください。家までお送りしますんで」
宗次が水を向けたが、健之助は「いや、今夜は近くにちょっと寄りたい所もあるんでな」と、
辞退して宗次に背を向けた。
「いろいろとお世話をかけました。社長こそ良いお年をお迎えください」
宗次は止む無く、年末の挨拶を健之助に返した。
「ありがとうよ」
健之助は背中を向けたまま片手を小さく上げた。
宗次はストーブから離れ戸口まで行こうとしたが、その前に水島健之助は自分で引き戸を開けて出て行った。暗くなってきた雪の町へと姿を消していく健之助を、宗次は戸口に佇んで見送るしかなかった。
6
高梨家では何年ぶりかで帰国した豊とその家族たちをまじえ、源吾夫婦、息子たちそして孫たちの三世代が揃った賑やかで楽しい正月を迎えようとしていた。
豊の女房と子供たちも海外生活による数年間のブランクを感じさせることなく、瞬く間に皆と打ち解けあって母国での新年を満喫しているようだった。いま考えると源吾と君子夫婦の息子たち四名とその家族たち全員が、一つ屋根の下で新年を迎えるのは初めてのことかも知れなかった。
常と仁は如何に旧家といってもこの人数では寝る場所もなかろうから、大晦日の晩には一度家に戻って正月が明けてから出直すといっていた。しかし酒が回って盛り上がってくると、源吾が雑魚寝でも好いんだからこのまま泊まっていけと云い出したのだった。男四人の兄弟たちも納得し、源吾と君子を囲んでの年越しパーティーが始まったのだった。源吾夫妻の孫たちも大はしゃぎで忽ちトランプやゲームなどの準備を始めた。
源吾は心から楽しそうに、子供たちに囲まれて笑い、会話し、酒を飲んでいた。
祖父の気持の中であのことの整理がついたのなら好いのだが。
源吾の様子を見て光はそう思った。
あの日……
有馬記念が終った後、源吾は結局常にも仁にも何も云わなかった。きっといまもまだ何も話してはいないのだろう。それならそれで良いではないか。光は少し気楽に考えようと思った。
人は誰でも自分だけしか知らないことができたとき、それを他人に云うべきか云わざるべきかで思い悩むことがある。そしていつの場合もその結論を出すことができるのは当人でしかない。
源吾がもしあの手紙に書いてあったことを常や仁に話していないのなら、話さないということをも含めて源吾が打った一手になるわけだ。ならばなぜあの日源吾は光に鬼原太一郎からの手紙を見せたのだろうか? それは、多分、その場の勢いで打ってしまった間違った一手だったのではなかろうか。 今になってそれに気付き、源吾は必死に待ったをかけているのだ。
「手紙は読まなかったことにしてくれ」と懇願しているのである。
簡単に言うと光が手紙を読んで知ったのは次のようなことだった。
高梨満から南雲父子を引き合わせるため鬼原太一郎と南雲義孝との会見の場を作ってほしいと依頼された源吾は、義孝の人となりを調べ上げた。太一郎は源吾にとっては確かに親友ではあったが、極道である。敵も多くいるはずだから如何に息子からの頼みとは云え、無警戒に面談させるようなことはできないのである。
そのときの調査によって源吾は南雲義孝という人間が信用できる人間であること、そして現在は満が云っていたとおり東京の大手企業で総務部という中枢となる部門を統括しており、金融関係にも強いつながりを持ち、大きな信用を得ていることを知る。
この事実を基に、源吾は一篇のシナリオを思いつく。書き上げたそのシナリオは、南雲父子の心情を駒にした大博打を打ち、鬼原組が必要としている2億円という莫大な金額を南雲義孝の信用を基盤にして金融機関から融資させるというものだった。そして源吾が頭の中に描いている結末は、受けた融資もたちどころに返済することができ、そのうえ法外な金額を吹っかけてきたやくざたちに報復することさえ可能だというものであった。
鬼原組長の手紙には南雲宗次から連絡があり、どうやら事は計画通りに終る見通しがついたようだと記されていた。いろいろ相談に乗ってもらったが、源吾を信じていてよかった。手紙はそのような内容で結んでいた。
だが、光は複雑な思いを拭い去れないままでいた。気楽に考えようとすればするほど様々な憶測が脳裏を過ぎる。
始めに考えたとおり源吾が単純に待ったをかけているだけのことならば、決して簡単なことではないにしても、光としては忘れてしまうだけのことで終わる。しかしもし光には敢えて太一郎からの手紙を見せ、かつ常と仁には何も知らせないで置くことが源吾の計略であったと考えるなら、自分は未だに騙され続けていることになるのである。
もちろん「叔父さんたちは知ってるの?」と常や仁に告げ口することもできなければ、「どうなんですか?」と源吾に問いただすこともできることではない。そんなことができるのはプライドも何もない馬鹿だけである。……
もしかしたら源吾はそこまで考えて……
いま息子たちに囲まれて心から楽しそうに笑っている源吾の様子を見ていると、光の胸の内に敗北感のようなものがこみ上げてくるのだった。
それは妙に爽やかな敗北感ではあったけれども……
「クソ爺イめ!」
思わず叫びそうになるのを光はかろうじてこらえた。
まるでその声が聞こえたかのように「おい、光。おまえもこっちに来い。一緒に飲むべや」
と、源吾が大きな声で光を呼んだ
ど、どーん。ど、どーん。
近くの八幡宮で打ち鳴らす太鼓の音が聞こえてくる。年が明けたのだろう。
エピローグ
中央競馬は毎年一月五日に東西で初日を迎える。中山競馬場と京都競馬場の第一回初日で、メインレースは11レースの『中山金杯』及び『京都金杯』である。ともに実力の伯仲した出走馬がそろい難解なレースになることが多い。
年末から新年にかけてあれほどにぎやかだった高梨家も元日の午後には常と仁の家族たちが夫々の家庭へと戻っていき、三日の夕刻には豊の一家がまたアメリカへと旅立つため、函館空港から東京へと飛び立つと、急に寂しくなってしまった。そして昨日、四日からは満も常も仁もいつもの仕事が始まって、例年と同じように新しい年がスタートしたというところである。
光は今週一杯正月休みを取っており、仕事は来週月曜日からということにしていた。アルバイトの気軽さと云われてしまえば返す言葉もなかったが、今年四月にはどこか探して入社しようと思っている。だから気楽な生活も今年でフィニッシュとなるのだろう。
光は源吾、常そして仁から頼まれた馬券を買い終え、最後に自分の馬券を買って売り場を離れた。通路を抜けてスタンド前に出るとうっすらと雪を被ったゴール前の直線が何の動きもなく晴天の下に横たわっている。スタンドを見上げると場外馬券を買い終えた何人かの客たちが、寒そうにコートの襟を立てて大型ディスプレーに映し出されるレース実況を見守っている。
『まもなく中山競馬第6レースの発売を締め切ります。お買い求めになられる方はお急ぎください。なお発売はベルと同時に終了いたします』と場内放送が流れた。
光はふと悪戯心を覚え立ち上がると馬券売り場に引き返して、頭にひらめいた6レースの何の根拠もない馬券を一点だけ購入した。
スタンドの樹脂性の堅い椅子に腰を下ろしたとき、発売終了を告げるベルが鳴り響いた。
大型ディスプレーの中でスターターが赤い旗を振り、ファンファーレが鳴り渡った。
ゲートインが終了し、一呼吸置いてゲートが開く。光の買った馬は最後の直線に入るまでは好位置につけていたが、そこまでだった。レースは人気薄の馬二頭が逃げ残って決着したらしい。スタンドの上のほうで観戦していた数人が、何やらザワザワとしている。やがて確定の表示と配当金の発表があった。
……連勝複式2-6。三万五千八百円……
その瞬間ざわついていた客の中から安っぽいジャンパーを着たひげ面ががばっと立ち上がり、よく響き渡る大声で叫んだ。
「どうだあーーっ! これが博打の醍醐味よーーっ! 一万円が三百五十万円じゃ」
男はなおも叫び続けた。
「これが博打なんじゃー。博打じゃーっ!」
光の耳にはスタンドのあちこちに反響するその声が「バクチャー……。バクチャー……」と叫んでいるように感じられた。
(了)
*この物語はフィクションであり、登場する人物・団体名等は総て架空のものです。
博打家・・・バクチャー