music of those days
本当に寂しそうな顔をするから「寂しそうな顔」と言うと、彼はもっと寂しそうな顔をした。
「祥子ちゃんは変わったね。昔はもっと・・・」
いや、やめよう、と彼は首を振ると、微笑みながらため息を吐いた。彼が少し身じろぎした拍子で、彼のさしているビニールの透明な傘から、冷たい雨の滴が2、3、こちらのほうへ飛びかかってきた。
「今、どんな風なの。生活は」
「楽じゃないけど昔よりも恵まれすぎた環境にいる」
私が答えると、彼は一瞬虚を突かれたような表情をしてから、短く「そっかあ」と答えた。
一瞬で彼と私の間に、もう埋める事の出来ないくらい広く深い溝ができたのを直感的に感じた。
「あの頃の音楽、聴いてる?祥子ちゃんが気に入ったって言ってくれたー・・・」
私がそのバンドの名前を挙げると、彼はパッと嬉しそうな笑みを浮かべて「それそれ!」と無邪気に声をあげた。彼が以前によく聴いていて私にも勧めてくれた、小難しい顔をしたボーカルが陽気な歌詞を歌うバンドの曲。その嬉しそうな顔をした彼があまりにも可哀想で、
「聴いてるよ、毎日。仕事終わりの帰り道とか、休日気まぐれで美容室に行く時なんかに、あの曲を聴いてるとあの頃みたいな気持ちに戻れるから」
と嘘をついた。おそらく彼の望んだ答え通りの答えを。彼が満足そうな顔をしたのをぼんやりとした気持ちで眺めた。でももう遅かった。
確かに変わってしまったかもしれない。わたしは他人に勧められた音楽を気に入らなくても聴き続けるような従順さを失くしてしまったし、自分の吐いたお世辞を本心だと信じ込む努力をすることもしなくなってしまったし、誰かと喋る時に心の中で渦巻く何かに寄り掛かることもしなくなってしまった。
しなくなったというよりは、できなくなったと言えばいいのだろうか。
すぐ横の大通りを車がひっきりなしに行き交う。
雨の音が、少し白けているわたしの気持ちをかき乱してくれているのが、せめてもの救いだった。
相変わらず学校は嫌いなの、習い事はいくつ続けれてるの、いつだったか紹介してくれた誰それは今どうしてるの、俺の会社はどこそこに新しい支店ができて今はそこのこういう役職に就いているんだ、祥子の好きだったあの美味しいイタリアンを出してくれるお店が先月閉店したんだよ、へえ、今も楽器続けてるんだ?————・・・
濃紺の傘をさしていて良かったと思った。いつものように、彼の今さしているようなビニール傘をさしていなくて、こんな塗りつぶしたような重たい色の傘、今しがた私たちの間に落ちてきたような溝の奥底のような色の傘を、気兼ねせずに身に纏えていて。
雨は降り続けている。ザアザアと。
彼も喋り続けている。ペラペラと。
私は相槌をちゃんと打てているだろうか。笑えているだろうか。彼に相応しい微笑みかたで、彼の目を見て、ちゃんとこの質疑応答のような受け答えをこなせているだろうか。
今目の前にいるのは、確かにあの頃私が純粋に愛していた部分の彼そのものの姿だった。あの頃と寸分違わず、けれど私はそれが悲しかった。無性に、悲しくて、悲しくて、仕方なかった。
昔はもっと、の後に彼がなんと続けようとしていたのかを、多分私は分かっていて、そのこともひどく悲しかった。きっと、一番、私が自分に例えられることが嫌いな形容詞を彼はあの寂しそうな顔で口にしようとしたのだ。
彼は傘の下で何の気なしに煙草に火を点けた。薄紫色の煙のすじが細くたゆらいで、傘の外にのぼっていった。
「あ、祥子ちゃんが好きだって言ってくれてた香りの煙草と違う銘柄吸ってるんだけど、このにおい大丈夫?不快じゃない?」
「ううん、全然。いい香りだね、私この香り好きだよ」
「良かった良かった、俺もこの香り好きでさ、味もおいしくて、まあおいしいって言っても煙草がおいしいって意味分かんないだろうけど、好きでさ」
ううん、全然。今私もそれと同じ煙草吸ってる。ううん、全然。実は私も煙草、おいしいって思うよ。ううん、全然。全然。全然、あなたの思い描いているだろう今のわたしはどこにもいない
。全然、知らないだろうけど。
風に横やられた雨がざあっという音と共に傘の内に流れ込んできて、彼の灯す煙草の先端の温かい火が消えそうにチラチラと揺れながら煙をゆらめかせていて、横にある大通りの路上には車に轢かれた鳩の死体が晒されていて、遠くに見える信号は赤から青、青から赤へとしきりに色を変えていて、急に、途方も無くここにいる自分が場違いなように思えた。
でさ、その時あの子が言ったんだ、『どうのこうのであれがこうこうこうなってて』てさ、それで俺つい———・・
私はもう彼の話をあまり聞いていなかった。
ぼんやりと、頭の中では彼の勧めてくれたあのバンドの曲の歌詞がぐるぐる思い出されていた。自分の持つ濃紺の傘の骨先から滴り落ちる雨粒に、無言で責め立てられ、急かされている気がした。
確実に今この空間に存在する、たった一つはっきりしていることなのだ。
あの頃と同じ携帯で、あの頃と同じマゼンタ色のイヤホンで、あの頃と同じ曲を再生しても、「昔はもっと弱かったのに、今じゃ一人でも自分の両足でしっかりと立っていられるくらいに強くなってしまった」ように見える私は、もうあの頃と同じ気持ちではそれを聴けなくなってしまったのだ————
music of those days
music of those days (あの頃の音楽)