猫と少女の記憶(前編)

猫と少女の記憶(前編)

前編

 朝靄に混じる微かな草の匂い。肌寒い風が、朝の訪れを告げながら幾筋も吹いていた。
 田園の片隅で悄然と崩壊の時を待つかのような、寂れた無人の駅に少女はひとり、佇む。戯れる風に腫れた頬が少し沁みるのか、片手を頬に沿えて。鳥の囀りが田畑に棲む生物たちに目覚めを促しゆくのを、ただ眺める。東から西へ飛ぶ翼。遠くで唸る耕運機。薄青に揺れる雲。
 そして静かな朝に、ひっそりと太陽は姿を歪める。

    ひとつ ふたつ
    ――それは、遠く、だれかと遊んだ童歌

 太陽が無表情にその身を細めてゆく。空の亀裂のような、光。
 大気は束の間の黄昏色に染め上げられてゆく。朝の静かな喧騒が遠ざかってゆく。冷たい青の色が失せて。
 ……どこか、ぴいんと張りつめた気配に顔を上げて、少女は目を細めた。
「日食?」
 長く太陽を見つめていられず、慌てて視線を外した。駅のホームに落ちる木漏れ日が、三日月のような形で幾つも揺らめいている。地に開いた亀裂のような、光。……へえ、と平板な口調で呟いて、膝をかがめようとした少女。その腕に何かがまとわりついて、さっと離れていった。ふと視線を右手首に向けると、そこにあったはずのブレスレットがなくなっている。慌てて視線を彷徨わせると、そこには、
 ――これ、大事なものなの?
 猫、だろうか。小さな生き物がその口にブレスレットを咥えて座っていた。猫にしては長すぎるその尾。黄昏色の景色の中で、大きな目が黒く煌めく。口から覗くのは丸い牙。頭の隅についた耳は少しも動かない。……猫、なのだろうか。
 ――ねえ、これ、もらってもいい?
 小生意気な顔。ちょこんと首を傾げた動作が、どうにも猫らしくない。爪が挑発するように、ホームを何度もひっかく。
「返して」
 少女が手を伸ばす。急かす様に手のひらを何度も伸ばす。
 ――ねえ、いいよね?
 素早い動作で身を翻して、猫は出口に繋がる階段を駆け上がっていった。
「返してって!」
 少女も慌てて駆け上がる。もどかしそうに最後の数段を上がり、角を曲がって――

    遥かから聞こえる幼い声に、私は振り返った    

 そこは、灰色の丘の上だった。眼下には、斜面にしがみつくようにして立ち並ぶ家々。景色を揺らめかせる陽炎。森の中へ消えてゆく道の先に、雲が落とす影。全てが灰色一色で塗りつぶされた、無表情な景色。色彩が全て剥がれ落ちてしまった町。途切れ途切れに聞こえてくる蝉の声も、色褪せてしまったようで。
 無言で圧力をかけてくるその景色の在りように、少女は眩暈を覚えた。
 ――ははっ。
 猫、が少女の睨みをひらりと躱して笑う。
「何よ……」
 尾を楽しげに揺らして、それは丘を駆け下っていった。口に銜えたままのブレスレッドが、小さく硬質な音を立て、それの足音を追いかける。咄嗟に少女もその硬質な音を追いかけて、丘を駆け下る。しかし、猫らしきそれは、猫にしては早すぎる足取りで、少女の視界から姿をくらませてしまった。
 幾つめかの角を曲がったところで立ち止まる。灰色の空に浮かぶ雲の白がやけに目についた。こめかみを伝う汗。弾んだ息。急ぐ呼吸を整えるために溜め息をついて。視線をずらした先に、誰かがいた。
 2つおさげを垂らした女の子。あれは――
 強烈な既視感に襲われて、少女は頭を振った。……あれは、昔の「私」だ。
 灰色に染められた景色の中、「私」は独り立っていた。何度も赤くなった目を袖で擦っている。辺りをはばからない開けっ広げな嗚咽。救いを求めたように彷徨わせた幼い「私」の視線が、少女の視線と交錯する。
「……、」
 咄嗟に声をかけようとして、しかしかけるべき言葉が見つからない少女。中途半端にかがめた少女の腰が下がりきる前に、「私」に呼びかける甲高い声。
『いた! どこ行ってたんだよ!』
 「私」よりも幾つか年上の男の子が駆け寄り、涙と泥で汚れた手を拭ってやった。ためらいがちに、乱暴に手を繋ぐ。「私」の嗚咽が一層強くなった。こうちゃん、とその少年に向かい、「私」が必死に嗚咽まじりで声をかける。
 その呼びかけにはっとした少女は、自らも「こうちゃん!」と叫んでしまった。しかし、男の子は少女の方を見向きもしない。……聞こえないのだろうか。
 嗚咽を止めることなく「私」は、ケンが、ケンがいなくて、と必死で言い募る。そんな「私」を持て余したような体の男の子は、自分の背後を指さした。そこでは、小型犬が落ち着きなく走り回っている。……「私」に飛び掛かる時を図っているのか。
『ケン!いた!』
 涙にまみれたまま破顔し、「私」はしゃがみ込んだ。勢いよく子犬がその「私」の腕に飛び込む。こうちゃん、ありがとう!と手放しで喜ぶ「私」に、男の子は照れたのか顔を背けたまま、再び少女の手を取った。その間でとにかく撫でまわされて上機嫌のケンが、素早く尻尾を振り続ける。
 ……その時、男の子と「私」の先に立つ建物の塀を軽々と飛び越えて、あの奇妙な猫が姿を現した。音も無く着地する。異様に長い尾をゆらゆらと揺らして、少女に近寄って来た。そしてブレスレットを咥えたまま、人間臭く小首を傾げる、それ。
 一方、傍らを通り過ぎたその猫に気付く素振りも無く、「私」と男の子は笑顔で手を繋いだまま、子犬を引き連れて去ってゆく。呆然と見送る少女の視界から、角を曲がって彼らが消えた。ただ後には沈黙が――
 ――ねえ、いらないの?
 足元でした生意気な声に、少女は我に返った。猫、がひとつ頭を振る。ちりん、と不自然に甲高い音がして。……ブレスレットの飾りがひとつ、ころんと滑り落ちた。真っ黒な道の上で、鈍い太陽の光を反射して光る。慌てて拾い上げる。
 ……掌の中にそれを抱き込んだ瞬間、視界に色が大挙して迫ってきた。少女のいる場所を起点として、鮮やかな色彩が広がってゆく。景色を揺らめかせる鮮やかな陽炎。丘の斜面に広がる、色とりどりの屋根を乗せて立ち並ぶ家々。緑揺れる森へ消えてゆく道の先に、雲が落とす濃い影。青く透き通る空を見上げて、その丸い飾りを光に翳してみる。その透明な歪んだ空に吸い込まれそうになって――

 ふっと少女が息を吐き出した瞬間、

    みっつ よっつ
    時に岩を跨ぎ
    時に川底に潜り
    時に新雪を踏んで

 少女は水の中にいた。慌てて水を掻こうとした手足がないことに気付いて、動転する少女。無我夢中で視線を彷徨わせる少女の脇で、ふふん、と小馬鹿にしたような声が聞こえる。……そこには、奇妙な形の魚が泳いでいた。異様にぬめりとした目。長い尾びれ。その先にひとつだけ飾りを欠いたブレスレットが絡まっている。ぐっと水を蹴って光の射す方へ向かった奇妙な魚を追って、少女も水を蹴った。――その尾びれで。体を幾度か揺らして、上を目指す。
 光踊る向こうに、また「私」がいた。迷子になって泣いていた「私」よりも、少し大きくなったように見える。捕まえようと手を伸ばしてくる「私」から逃げ、少女は水を掻く。隣では、魚の形をした猫もどきが違う手に捕まえられそうになっている。その尾びれから零れ落ちるブレスレットの飾りを、少女は慌てて口で咥えた。

    いつつ むっつ
    山を走り
    雲を越え
    小花の脇で立ち止まり

 そして、次の瞬間、少女は雀になって空を飛んでいた。眼下には、ランドセルを振り回す「私」。それを避けて口を尖らせる少年、こうちゃん。くるくると形を変える奇妙な生き物と一緒に、少女もくるくると姿を変えて「私」を追いかけた。少しずつ大きくなっていく「私」。古いアルバムをめくる時とは違った、高揚感の滲んだ懐かしさ。胸を躍らせてくるくると形を変える。懐かしい「私」に出逢うたびに、隣の生き物が落とす飾りを一つずつ拾いながら。

    ななつ やっつ ここのつ
    小川が飲まれていった、
    太陽が炙る砂地のむこう

 ……どれくらいの「私」を追いかけたのだろう。幾つかの季節を巡り。幾つかの苦い経験も「私」と超え。様々な人ともう一度出会い、別れ。一足先に大きくなってゆく少年を追いかけて、「私」の背も伸びてゆく。よく一緒に悪さをした友達と、何度も喧嘩と仲直りを繰り返して。大人の揚げ足をとって怒られた彼が、よく「私」に八つ当たりしてたっけ。……そう、思い出し笑いに何度も口を緩ませる少女。

 ……そして、徐々に「私」はあの夜に近づいてゆく。

    とお、はどこにも見つからない

 そのことに気付いた少女が一転、顔を曇らせた。しかし、猫もどきは強引にくるくると姿を変えて、少女を誘う。次の「私」を追いかけて。体調を崩しがちになって一緒にできない遊びが増えた少年に対し、腹を立てる「私」。なかなか仲直りできず、落ち込む「私」。仲直りがてら強引ながらも少年を外に誘い出せて、喜ぶ「私」。……そして、あの夜。

猫と少女の記憶(前編)

後編は後日公開します。

猫と少女の記憶(前編)

ひとつ ふたつ。――それは、遠く、だれかと遊んだ童歌。遥かから聞こえる幼い声に、私は振り返った。 ……一匹の獣に誘われるように、少女はあの夜へと過去を遡る。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted