独り言的な無題の一種

久しぶりのエッセイです。

昔から暴力に対して近しいところで静かに息を張りつめていることが多い子供だった。
暴力というのは不思議なものである。定義も曖昧だし、目に見えるものと目に見えないものがあるし、聞こえるものと聞こえないものがあれば、触れるものと触れることができないものがある。
人様々な意見があると思うけれど、わたしは本当に小さい頃から暴力が嫌いで、そして苦手だった。
それは今も変わらない。
ぼんやりと、幼少期のころから常にある一定の温度で自分のなかで暴力に対して一種トラウマのようなものが植え付けられていて、未だにこれを克服することが出来ない。
人間は要所要所、様々な色形温度で暴力を具現化している生き物で、だからわたしは未だに人間嫌いも克服することが出来ない。
初対面の人と話すときはこの年齢になっても未だに心臓がヒュッというような寒気で縮むし、親しい人と喋る時でも無性に恐怖心を感じる癖は抜けないし、ちょっとした雑音のような取るに足らない人ごみでも滞在時間が10分程度を越すと胃痛と腹痛が混ざり合ってこまめにトイレで嘔吐してしまうし、眠りにつくのも夢をみる恐怖でなかなか寝付くことが出来ない。(ちなみにこれは若干、未知の領域である寝ゲロ体験へ対する恐怖感も混じっている気がする。)
世の中には温厚で、暴力とはかけ離れた人だってたくさんいるし、わたしと同じように暴力へ対する恐怖心をいっぱい持ち合わせている人だってきっとたくさんいる。
でもわたしにとってしてみたら、温厚な人はもう”温厚で暴力の欠片も見当たらない”というそれがすでに一種の暴力だと感じてしまうし、わたしと同じような人の持つ”暴力へ対する恐怖心、猜疑心”もそれ自体もはやめいっぱいにわたしに対して振るわれる暴力になってしまう。
暴力とは何なのか。
答えはきっとわたしのような馬鹿者には一生分からない。
ただ生きる、それだけのこと自体で十分すぎるほど暴力になるし、そもそも暴力は生から生み出されるものだし、かといって一度死ぬことですらも簡単に莫大な暴力になる。

分かりやすく、目に見える形の暴力はたくさん体験してきた。
水をかけられるのも、靴のなかに画鋲が入っているのも、大切なものを切り刻まれて捨てられることも、髪の毛を工具バサミで切られるのも、胸を殴られることも、腹を蹴られることも、ビニール袋を頭に被せられることも、刃物を向けられることも、首を絞められることも、結構色々なことを経験してきたけれど、わりと目に見える形の暴力は理解しやすいのでその分苦痛が少ない。見方を変えれば快感の一種と呼んでも差し支えない部分すら見当たる。
目に見えない形の暴力が、ある意味では究極的に苦手かもしれない。
罵詈雑言、その場に満ちる空気空間での敵意、極度なストーカー行為、他人への冒涜、憎悪に満ちた愛、とか、ぱっと思い出せたのはこれくらいしかないけれどもう少し種類があるはずだ。まあ他人への冒涜に関しては多分に同族嫌悪的な種類の苦手加減なのだけど。
目に見えない形の暴力は、色形がはっきりしない分、その一つ一つに対して理解がしにくいものばかりに感じる。
価値観の違いも簡単に作用する。想像の範疇を超えた価値観、論理的に考えても直感的に考えても理解し難い価値観というのが実は苦手だ。価値観の違いというのはもちろん大切なことだし、必要なものだし、自分とは大きく異なる価値観を受け入れる重要さももちろん分かっているつもりだけれど、わたしは何であれ暴力に対する価値観というもの自体に対し、なかなかどうもキャパオーバー気味になるようだ。
一番、言葉にするのが難しくディープで繊細なものだからかもしれない。相手の説明した言外の意味まで正しく汲み取れるか、その辺りの膨張した不安感から来ているのかもしれない。

本当は皆、もっと昔の時点でこの案件には折り合いを付けて生きているのだけど、わたしは不器用だからうまく処理して片付けきれないまま、はみでたその部分がやけに重たく尾を引いて、ズルズルここまで来てしまっているみたいだ。
だからか最近、めっきり疲労困憊状態になることが増えてしまった。許容年齢の枠を超えたのだと思う。
そろそろ潮時だなあと直感的に思うことがやたらと増えた。というよりも慢性的になりつつある。
今はあの頃に比べたらずっと、語彙力も体力も知識も上回っていると信じているし、過去に合った事例を今もう一度体験することがあれば過去よりももっとうまくあしらったり付き合ったり処理することができると思う。
けれどわたしでは死ぬまで「解決」へ導き持っていくことは赦されない、不可能なんだということを、この頃ずっしりとした重みをもって実感させられ、体感させられることが増えた。それは語彙力や体力や知識が新たに拡張されたパラメーターに収まれば収まるにつれて、どんどん知らざるを得ないことだった。

無駄だったんだな、とポツリと思う。
何気ない努力ならいくらだってできるし、実を結んだように見せかけることもいくらだってできるけれど、そんなものは一瞬の波長の崩潰でいとも簡単に分散してしまって、時には破壊よりも濃密なガラスの破片へ洗練されることも、しみじみ感動してしまうくらいに納得させられてしまう。
虚無だ。
他の人はこれらとどういう風な折り合いを付け、対抗して、掻き分け寄せ集めた空間に収まっているのかを知りたくて、でもこれがSOSになり得ない事も知ってしまったし、行き着くところは赤ん坊も老人も、男も女も、裕福人も貧乏人も、結局は一つの形なのだ。
足掻けば足掻くほど疲労は溜まっていって、しかしこの場合この疲労を癒すものはこの世に存在しないことをいつか知っても、結局わたしは最後まで足掻かなければ気が済まないのかもしれない。限界値を越えて救われるようになるまで、真剣、必死に無駄な足掻きを続けて、わたしの望む理想はたった一つだけだということを誰かが受け入れてくれるまで、どんなに嗤われてもどんなに傷つけられても、見境無くわたしはこういう形で他の”個”に対してきっといかにも人間的で、暴力の中でも最たる浅ましい暴力を振る舞い続けなければいけないのだと認めなくてはならない。

独り言的な無題の一種

しかし暴力の一番難しいところは、結局のところ、お互いの間にそれなりの愛が無ければそもそも"暴力"が"暴力"として成り立たないというところで、そう考えれば暴力とそれなりに近しいところで過ごしているわたしはこれとない幸せ者なのかもしれないです。

独り言的な無題の一種

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-24

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