――この世の果てまで……

――この世の果てまで……

 「絞めてよ。思いっきり……」
京子の口びるの端から唾液がゆっくりと流れ落ちた。ピンクのキティちゃんの枕カバーが視界に飛び込んでくる。
 京子の快楽に歪んだ表情に僕はいきそうになる。
本棚に視線を移し片っ端からそれを眼でなぞる。浅田彰「構造と力 記号論を超えて」80年代ポスト・モダニズムの旗手ともてはやされた浅田を分けもわからず何度も何度も読み、暗記した。今でもそらで覚えている、カッコイイと思ったからだ。それだけだ。

 それを、持続させるために繰り返し声を出さず呟いてみる。ははは、まさに構造と力じゃないか……。

 「……近代社会のダイナミズムは脱コード化の必然的帰結である。はあ、はあ、はあ……脱コード化の結果、コスモスは沈黙せる無限空間へと還元され、ノモスは解体して人々は共同体の外へ放り出される。コスモス、ノモス構造の解体は、そのままでは文字通りのアノミーに、つまりカオスの全面展開に、つながりかねない。はあ、はあ、はあ」

「ダメ、絶対いっちゃダメ!」
「……今や新たな解決が求められることになる。ここで近代社会がとった解決は、きわめて陳腐なものと言っていいかもしれない。ううっ……象徴秩序の紐帯が緩みきったところで、EXCESを抱えてじっとしていることに耐えられなくなったとき、人々はわれがちに一方向へと走り出す」
「いいよ……啓輔!いい……このままずっとずっと……」

「……何か絶対的な到達点があるわけではない。走ることそのものが問題なのである。一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられかりそめの相対的安定感を得ることが出来る。
 はあ、はあ、はあ、しかし、足をとめたが最後、背後から迫ってくるカオスが全てを呑み込むだろう。それを先へ先へと延期するためにこそ、絶えざる前進が必要になるのである。こうして、近代社会は膨大な熱い前進運動として実現されることになる……」

 ペニスは落ち着きを取り戻し、更に激しく往復運動を繰り返す。京子の首を締め付ける指に知らずに力が入った。

ヴァギナが収束を繰り返し、あの生暖かい生への渇望の中で、京子は死の苦しさに呻き声を上げた。

一瞬怯み、首を絞めていた指の力を抜いた。
「はあ、はあ、はあ、啓輔、今、本気?」
「だって京子のアソコ最高に気持ち良かったんだもの、何度もいきそうになったりして……」
「ばかあああ」
本気で蹴飛ばされベッドから転げ落ちた。
京子は痛そうにうっすらと指の跡がついた首筋をなぞっている。
「ご、ごめん……だって京子が先に言ったんだよ。思いっきり絞めてって」
「バ、バカ……ほんとに死ぬとこだったじゃん。限度ってものがあるでしょ、限度ってものがあ」
壁に貼られたゴダールのポスター、ベルモンドが「勝手にしやがれ」って叫んでいた。それとも、呆れてるのか。

 地下鉄のホーム、京子に突き落とされそうになったことがある。
「本気だったの」
「半分ね、半分お遊び」

 心臓が早鐘を打ったように脈打っていたけれど、このまま、逝ってもいい、そうしたらこの苦痛から開放されると片隅で思ったのも確かなことだ。
 生きてゆくことは退屈だ。退屈の上に苦痛を伴う。
 僕らは極端なところで結びついているのかもしれない。
 憎悪、熱狂、愛情、生、死、感情の行き着く地平の果てで僕らはお互いを確かめる。同じ匂い、僕らは分身なのだ。本来一つであるべき筈だったのにね。

 男と女は本来一つだったのだ。だから、永遠にお互いを求めるのだ。永遠に失われた自分のレゴの一片を求めて、求め、探しつづける。

 華奢な京子の裸の身体、痩せぎすな僕の身体、初めて彼女の中に入った時、僕はあまりにも完全に密着することに新鮮な驚きさえ覚えた。

 頑丈な椅子に後ろ手に縛られ、京子と絵梨香のセックスを見せられたりした。京子はバイで、気に入れば男でも女でも相手にする。
 女同士のセックス、永遠に続くのかと思った時間……腕が痺れて、その苦痛すら快楽に変化し、そして、僕はジーンズの中で激しく射精した。今まで感じたことのないその瞬間の絶頂を僕は今も忘れられない。
 「女の身体はね、欲望でできているのよ」
京子は身動きのできない僕を浴室へ引き摺ってゆき、椅子ごとシャワーを浴びせた。
「パンツの中あんたの欲望がへばりついてるんでしょ、キレイにしてあげるからね」
僕は京子のされるがままにジーンズを脱がされ、冷たいシャワーを下半身に浴びせられる。
縮んだ僕のペニスを見て、絵梨香が侮蔑の眼差しを向け、大声で笑う。僕は踏みつけられ、濡れたまま浴室に放って置かれる。
浴室のドアを出る時京子が一言言った。
「あんたはいつかきっと私を殺したくなるわね」
僕はそんな彼女を浴室のタイルに身を沈めたまま見上げる。
「そんな犬みたいに従順な眼で私を見ないでよ。懇願したって何も出やしないんだから」


京子、君を殺す!?
そんなことできるはずないじゃない、僕は君を愛してるんだ!
ちょっと歪だけれど僕は紛れもなく君を愛している。
京子の口癖「生殖を目的としないセックスは全て変態行為なの」どうやら、フロイトの受け売りらしいのだけれど、「全ての仕事は売春である」とJ・L・ゴダールも言ってる通り、みんな気付かないフリしてるだけ、あるいは、気付いているけれど、京子のようにあっけらかんと惚けているだけなのだと思う。
愛してると何度も何度も強迫観念に駆られたように京子に向かって言い続けていると決まってこう言うのだ。
「愛情のあるセックスと売春のファックとどこがどう違うのよ」と京子に問い詰められると僕はどう答えていいのか戸惑う。
「私のために死ぬくらいの覚悟ができたら啓輔、貴方のこと信じてあげてもいいわよ」
 平然と言ってのける京子に僕は沈黙で返すしかない。
そんな言葉を聞くと愛すらも揺らいでしまうのだ。
陰毛の果てにはきっと大いなる温もりがあって、それは、生と死の狭間でしか確かめることができない類いのものだったりするから、京子に冷たくされると僕は、子犬のように鼻をクンクン鳴らして憐れみを乞うしかないのだ。

 京子は時々僕を彼女の三面鏡の前に座らせ、入念にペデキュアだの、ファンデーションだの、リップだのを施して楽しむ。その時の京子の表情はアンニュイでとても優しいから僕は彼女のいいなりになる。
 ストッキングで僕の両手を縛りそのままバックから僕を犯す。
ベビーローションをたっぷりと滴らせたその指で僕を犯す。

 港区汐留 にある本社ビルでの定例会議で僕は、罵詈雑言を浴びせられる。
もちろん上司である京子からだ。
「貴方、そんな達成率と、いいかげんな報告で私が納得できると思う?バカじゃないの。バカ以下ね、いい歳した大人がねえ、そのまま着席しないで立ってなさい、いい!?会議の間中よ、そのバカ面みんなに覚えてもらいなさいよ」

 何も言わず僕は会議の間中会社の出張で貯めたマイレージで京子と行ったビンタン島の何日かを思い出している。薔薇の花で埋まったジャグジーで僕らは永遠とも思えるくらい愛し合った。
 三日間、ホテルから1歩も出ず、お互いを求めあった。

 京子の激に部下の男たちは俯いたまま、一言の反論すらできない。
僕はといえば、京子のちょっと捲れ気味の上唇の動きを見つめ続ける。
グロスで淫靡に光ったその口元から視線を外すことができずにいる。
黒斑の眼鏡の奥から上目遣いに僕を見つめる京子の視線が僕の欲望を掻き立てる。
 「したい?」と京子の視線が訴えている。
「君も濡れてるんだろ」と僕。

「貴方たち雁首並べて結局はこれ!?四の五の言ってないで結果を出してよ、結果よ……オッカムの剃刀って知ってる?」
「哲学者のオッカムですかあ?」一人が間の抜けた声を上げた。
「そう、科学的な真理はより単純な理論によって証明されるってやつよ、言い訳や、ご都合主義の会話なんて聞き飽きたわ、そんなもの殺ぎ落とせば、単純でしょ、仕事なんて、いい、来月達成率悪かったらクビよ、クビ……ここにいる全員クビ、覚えておいてね」
無言の会話はこの整然とした会議室に夕暮れの気配が忍び寄るまで続いた。

 本社ビルからほど近いメリディアンの一室で、京子はトスカーナ産のワインを片手に分厚い窓ガラス越しに台場の景色とレインボーブリッジを交互に眺めていた。その風情は会議室での京子とはまるで別人のようだ。
「ねえ、啓輔、貴方北海道詳しいでしょ、旅行しようか厳冬の摩周湖とか、阿寒とか……」
「どうしたの急に、らしくないな」
「ちょっとね、疲れちゃったかも……」
僕は背後から彼女を抱きしめ、その髪に軽く唇を中てた。密かなコロンの匂い、髪の間から項に舌を這わす。
ふっと京子の身体から力が抜け、僕にその身を委ねた。
「このまま30分くらいこうしていてね、そうしたら帰っていいから、ベッド一人で占領したいしね」
「枕投げはなしってこと?」
「そう、今日はね」
僕らはまるでうぶな恋人みたいにぎこちないキスを交わす。舌と舌が絡み合い、唾液が欲望を呼び覚ます。
「北海道のこと早い方がいいの?」
「うん、なるべく早くね、この会社に入って初めてだな、まともに有給使うのなんて……」


一ヵ月後僕らは羽田から北海道に向かう飛行機の中にいた。
前日、京子から珍しく携帯に電話があった。

「何言いたいか分かる?」
「多分ね……」
「身辺整理ちゃんとできた?」
「京子ほど、いろんなしがらみあるわけじゃないしね」
「電話じゃないといい難いことってあるし、分かる?」
「分かるよ、少なくとも分かってるつもりだけどね」
「で、これでいいの、私なんかと……これでいいの?」
「うん、あんまりね、確証があるわけじゃなんだけれど、これでいいんだと思う」
「ありがとう……これもね、面と向かったら言えそうもないからね、もう一度言っておくわ。ほんとにありがとう」

 千歳に降りるまで僕らは無言で、その間ずっと僕は京子の手を握り締めていた。
飛行場近くでナビ付きのレンタカーを借り、真っ直ぐ摩周湖に向かう。
吐いたりしたらイヤだから、何も食べたくないと京子が言った。
 僕らはコンビニで熱いお茶のボトルを買い、京子は美味しそうにそれを飲んだ。

 京子と僕、生き急いでいたのかも知れない。
京子の瞳を見詰めると「もう充分」って……お互いに27だ、もう充分なのかも知れない。
摩周湖は厳冬期でも凍らない。展望台から眺める摩周湖なんて小学校の修学旅行以来だ。

時々冷たい風が舞い、粉雪が顔面を打つ。
「綺麗ね……」
「うん、対岸の峰ね、カムイヌプリって神の山って意味らしいよ。まあこの辺はアイヌの人たちが言う神々の庭だからね」
「じゃあ、摩周湖は神様のプールね」
穏やかな笑顔、こんな京子を僕は知らない。

疎らな観光客が寒そうに早々と乗ってきた派手な観光バスに乗り込む。
レンタカーの中で京子が持参した睡眠薬を二人で一瓶開けた。
夕暮れも間近だ。一層底冷えのする風が僕らを取り囲み、誰もいなくなった展望台で暫く見詰めあった。

僕らは、冬枯れの木々の間をゆっくりと湖畔に下りてゆく。
「ここでいい?」僕が口を開いた。
「うん」子供のように無邪気な表情で京子が答えた。
「もう一度したかったな……」
「バカ……」
 薄れてゆく意識の中で京子の屈託のない笑顔だけが僕の心に残った。

――この世の果てまで……

――この世の果てまで……

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更新日
登録日
2012-02-29

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