ひらく
It's A small World.
朝。駅のホームは、いつも静かだ。口を開けて止まっている電車に私は乗り込む。降車駅までは四十分かかるが、乗り換えもなく、ここが始発駅の為、最初から最後まで座っていられる。私がいつも乗るのは、十五両編成の車両のうち後ろから三番めの車両。ここだと駅で降りた時、すぐ目の前にホームを上がる階段がある。
私は、いつもの特等席に腰掛けると、鞄の中から一冊の文庫本を取り出した。本には愛用のブックカバーが掛かっている。
私は本が好きだ。ファンタジー、実用書、恋愛小説、冒険譚、歴史書、SF、ミステリー・・・実に様々なジャンルの本を読む。本は、私に新たな経験、感情、知識を与えてくれる。一冊一冊の本には、異なる世界があり、それぞれが異なる世界への窓口なのだ。
本を開くと、私の世界だ。周りの景色は消え、音さえも耳に届かない。書かれた文字の一つ一つを目で追い、頭の中で映像に変換する。その間、何が起ころうと私を現世へ呼び戻すものは存在しない。それは目的の駅に着くまで続く。知人に降りる駅を間違わないのかとよく聞かれるが、私のような自他共に認める真の読書家にそのような事はありえない。習慣というのは恐ろしいもので、必ず降車駅で本から顔を上げる癖がついているのだ。もし降りる駅を間違える事があるとすれば、それは単なる自称読書家だけである。
本のページ数にもよるが、私は平均で一日一冊本を読む。今日の本は、最近話題になっている作家の最新作品で、タイトルは、『It's A small World.』とある。私は読んだことはないが、独特で不思議な作品だという評判を聞き、興味を持った。しかし、読書家である私の批評は辛口だ。一体どんな内容なのか、色々な意味で楽しみに思いながら私は本を開いた。
まず、文字の一つ一つが映像となって頭に入ってくる。場面は電車の中で、朝の出勤ラッシュ時らしい。私と同じ年齢、同じ背格好の人物が座席に腰掛け本を読んでいる。何の本を読んでいるのか興味が湧き、手元を覗き込もうとすると、突如、その人物が顔を上げた。周りをきょろきょろと見渡し、私を見る。いや、正確には上を向いたのだが、車内を上から見た俯瞰図が私の頭の中のイメージにあった為、そう思ったのだ。その顔を見て驚いた。それは、私だった。
反射的に私も本から顔を上げた。周囲を見渡してみるが、それはいつもと変わらない朝の風景である。上を向いてみると、私の目の前に立っているサラリーマン風の中年男性と目があった。咄嗟に目を逸らして下を向く。
なんだろう、この本は。驚きと恐怖が全身を襲った。しかし、それよりも好奇心の方が勝っていた。私は再び本に没頭した。
場面は変わらず電車の中で、車窓から見える外の風景や、車内にいる人たちの様子を順々に映し出していく。携帯をいじっている人、ウォークマンの音が漏れている人、眠っている人、新聞を読んでいる人、手鏡を覗き込みながら化粧をする人、また、私のように本を読んでいる人もいる。そこには、人の数だけ世界があった。
俯瞰図のように車内を見ているからか、それは大変新鮮に思えた。こんなにたくさんの人が一つの車両に詰まっていて、それでいて皆、別の世界を向いている。
電車が駅に止まった。車両は、新たな乗客を飲み込みながら流動する。ただでさえ窮屈なところへ更に拍車がかかる。その中に、一人の老婆がいた。私の席からは少し離れているが、顔を上げれば気付く距離である。ぎゅうぎゅうと押し寿司のように挟まれながら、隣に立つOLのたなびく髪をうっとうしそうに避けようとし、逆隣に立っているサラリーマンのおじさんに睨まれている。老婆に席を譲ろうとする人は一人もいない。皆が皆、世界に目を向けているようで、実は自分の世界に閉じこもっているのだけなのだ。
気付け、気付け・・・。私は、いつの間にか本の中の自分に向けて、心の中で声を掛けていた。気付いて、ある一言さえ口にすればいい。
「どうぞ」
ただそれだけ。たったそれだけの言葉で、人生が変わる。それまでぼんやりと灰色がかっていた世界が一気に色付いて鮮やかに花ひらく。しかし、私の思いなどお構いなしに、本の中の私は本に夢中になっているのか、全く微動だにしない。そんな自分にヤキモキとしながら、ふと私はある事に気がついた。本の中で老婆が居ると思われる場所を現実の世界で確認する。やはりそこに老婆の姿があった。もし、私がここで老婆に声を掛けたら、この本はどうなるのだろうか。
心臓がどくんどくんと音を立ててせめぎ合う。
私は、思い切って本を閉じた。よしっ、と心の中だけで気合を入れる。腰を上げると、老婆に向かって口を開いた。
Niche
五月の青空に小さな白いボールが吸い込まれていく。心の上澄みが抜き取られて、空っぽになった身体まで持っていかれそうになる。これが俺のカタルシス。
今日は、知人に誘われて、とあるゴルフコースに来ていた。ここは、伝説のアマチュアゴルファー赤星五郎氏設計の隠れた名コースでもある。自然の地形を生かして作られた起伏に富んだコースは難関だが故に面白い。また、溢れる自然と景観の良さも魅力の一つだ。
空は快晴、風も凪、まさに絶好のゴルフ日和である。
「ミスショット!」
・・・にも関わらず、さっきから俺は、ミスショットばかりを繰り返していた。青い空から吐き出された白い球が丘の向こうに消えていく。しまった、あの勢いだと林に突っ込んでしまう。周囲の嘲笑と野次に作り笑いを返し、俺は慌ててボールを追った。
軌跡から予想した範囲を歩き回っていると、突然、俺の鼻を異臭が刺した。思わず鼻を手で抑えて周囲を見渡すと、林の中で何かが動く気配を感じた。
何かの動物だろうか。ゴルフ場には、しばしば野生の動物達が顔を出す。以前俺もシカの親子が木陰で寝そべっているのを見た事がある。特に猟の解禁時期になると、狙われた動物達がゴルフ場へと逃げ込んでくる。彼らは、人間(ゴルファー)が自分達に危害を加えない事を知っているのだ。木を切り山を拓いて作るゴルフ場は自然破壊だと叫ぶ輩がいるが、俺は逆に人間と動物が共生できる未来ある場所だと主張したい。
しかし、俺が林の中に見つけたものは、シカでもタヌキでもない。人間の姿をした生き物だった。
「あー・・・どうも」
それは日本語を話した。ひょろりと伸びた背に鳥の巣頭。無精髭。いつ洗濯されたのかを疑うほど捩れたジーパンとTシャツ。片手にやけにでかい毛皮の帽子を持っている。一見、浮浪者に見えなくもないが、どうやら列記とした人間のようだ。
「ど、どうも。失礼ですが、清掃員の方か何かですか?」
「あー、まぁそんなもんで」
「この辺りに、私の球が飛んできませんでしたか?赤い富士のマークが・・ついて・・・」
最後まで言う前に、俺はその不審さに気付いた。男が片手に持っている帽子から足が生えている。
「な、ななな、何ですか、それはっ」
男は、俺が指差したものを少し持ち上げて見せた。
「ノウサギですよ。正確には、トウホクノウサギというんですが」
ぎょっとした。男が死体を持ち上げた時、裏返ったウサギと目が合ったような気がしたのだ。飛び出した目。それは、一瞬で顔を背けたたくなるような酷い惨状だった。
「ゴルフカートに轢かれたんでしょう。こいつらは夜行性で昼間は大抵寝ているんですが、ゴルフ場のあった場所に、元々彼が気入ってた寝床でもあったんでしょうなぁ」
淡々と告げられる言葉に、私は後頭部をがつんと殴られたような気がした。晴天の霹靂とはまさにこのことだ。
「まー私の専門ではないんですがねぇ・・・」
驚いて腰が引けている私を他所に、男は人に頼まれただの何だのと呟いている。思わず俺の思考回路が飛んだ。
「た、食べるのかっ、それを!」
男が死体を持ち上げ匂いを嗅ぐ。
「食えないでしょ、さすがに。ウサギの肉は水水しくって私は案外好きですけどねぇ。いくら身体の丈夫な人でも、腹ぁ壊しますよ」
それとも、あなた食べてみますか?と、本気なのか冗談なのか解らないことを言う。それにしても動物に詳しいと思える発言の数々。これではまるで・・・
「動物愛護団体か。・・け、警備員を呼ぶぞっ」
セリフとは裏腹に、声が震えている。男が肩をすくめる。
「私は自分の好きなことをしている。あなたもそうでしょう」
男は、そこを動かない。雑木林の中に立つ男と、グリーン芝の上に立つ私。二メートルも離れていないというのに、まるで私と彼の間には、見えない壁があるようだ。
「あんたは一体、何者なんだ?」
「生物分類上は君と同じ種だが、ニッチが違う。まぁ、アカネズミとヒメネズミの差くらいには、ね」
俺には全く解らない話題で、男はニヤリと笑った。
「おおーい。ボール、まだ見つからないのかぁ」
丘の向こう側から知人の声が俺を呼ぶ。ああ今、と答えて再び林の方を向くと、そこに男の姿はなかった。ただ、獣の臭さだけが僅かに漂っていた。
後日、知人からの電話で、あのゴルフ場が閉鎖されたことを知った。動物愛護団体だか自然保護団体だかが訴え出たのだという。どこかの有名な大学助教授が調査を依頼され、地理的隔離を証明したという話だったが、やはり俺には解らない。
会社を出ると、夕方まで降っていた雨は、すっかり止んでいた。
『それより良い場所を見つけたんだ。次の休みにでも、どうだ?』
一瞬、私の脳裏にウサギの死体が浮かんだ。しかし、それだけだった。
「あぁ、行こう。楽しみだな」
私は携帯を切ってポケットに入れると、手にしていた傘を逆手に持ち、暗い宙に向かってショットを打った。
ルソーの夢
幼稚園の一室からピアノの音が流れ出て、園児達の歌声が世界に満ちる。
むすんで ひらいて 手をうって むすんで
またひらいて 手をうって その手を上に
幼稚園では定番の遊戯曲。歌詞に合わせて園児達が手を握って開き、叩いて握る。再び開いた手を、今度は下に、頭に、ひざに・・・。
その時、園児達の叫び声が聞こえた。歌声が途切れ、私も鍵盤から手を離す。
「どうしたの?」
「せんせぇ、ダイちゃんとユウタくんがケンカぁ!」
見ると、園児達の輪の中心で、二人の男の子がもつれ合いながら倒れている。
「こら、やめなさいっ!」
思わず声を荒げると、他の園児達の間から泣き声が上がる。しまった、と思った時にはもう遅い。組で一番泣き虫な女の子は、この世の終わりとでも言うように泣き叫び、騒ぎに乗じて組一番のお調子者の男の子が教室内を走り回る。
内心で溜息を吐きながら私は、床の上で取っ組み合っている二人の男の子たちを引き剥がしにかかった。上に跨っていたのは、小牧 雄太くんで、組一番の問題児だ。下敷きにされていたのは、山吹 正平くん。組で一番身体が大きいので、皆からは〝ダイちゃん〟と呼ばれているが、誰よりも気が弱い。
「どうして喧嘩なんてしたの?」
二人を並んで立たせ、視線を合わせて問いかける。今度は、他の園児達を怯えさせないよう、それでも喧嘩は悪い事なのだと伝わるよう口調に細心の注意を払う。
「ユウタくんがダイちゃんをぶった! あたし、みたもん!」
「本当? 雄太くん」
「ちがうもんっ。・・うてって、せんせぇがいうから、うっただけだもん」
〝むすんで ひらいて 手をうって・・・〟
要は、歌詞を逆手に取った屁理屈である。私は急に悲しくなった。
「雄太くんの手は、お友達を叩くためにあるんじゃないんだよ」
私の悲しみが伝わったのか、雄太くんの目に涙が浮かぶ。きっと理由なんて解っていないだろうけど、悲しいという気持ちを持ってもらえればそれでいい。逆に正平くんは、ずっと下を向いて黙ったままだった。
「ユウくんのアサガオが!」
翌朝、園児達が登園してくる中で騒ぎが起きた。年長組が中庭で育てていた朝顔の鉢が並ぶ中、雄太くんの鉢だけが倒れて土が零れてしまっていたのだ。傍にドッチボールの球が転がっていたので、昨日の自由時間に遊んでいた誰かが、ボールを当てた事に気付かず帰ってしまったのだろう。
「おまえがやったんだろう!」
突然、その場にいた雄太くんが正平くんをど突いた。私が止める間もなく、正平くんが地面に尻餅をつく。叱ろうとして、雄太のくんの表情にはっとした。彼は自分のした事にはっきりと傷つた顔をしていた。
「ちがう、ぼくじゃない・・・」
身体を動かすのが苦手が正平くん。それは、組の皆が知っている。泣き出した正平くんを宥めている内に、雄太くんは自分の朝顔と一緒にいなくなっていた。
Pantomime ; Posement et detache(パントミム「落ち着いて、明瞭に」)を弾きながら、やっぱり似てないな、と思う。『むすんでひらいて』の原曲と言われている曲で、作曲者は、フランスのジャン=ジャック・ルソー。幾年もの年月を経て、様々な国で様々な歌詞をつけられ変容してきた事が解る。いつしか『ルソーの夢』と呼ばれるようになったが、まさかルソーも、遥か三百年も先の未来で、それも祖国から遠く離れた日本という国で、子供達の遊戯曲として歌われるなんて想像もしなかっただろう。
私の夢は、ピアニストになることだった。ただでさえ厳しい狭き門である上、腱鞘炎に罹ったことが私の心を挫いた。そして、今に至る。まるで『ルソーの夢』のように。
雄太くんは、一人で教室の自分の席に座っていた。机上に置かれた朝顔は、雄太くんの涙を吸い込んで一緒に泣いているようだった。雄太くんも本当は謝りたいのだ。
「雄太くんが、お花さん咲いてくださいって、心を込めてお世話すれば、お花さん、きっと元気に咲いてくれるよ」
「・・・ほ、ほほっ、ほんとう?」
しゃくり上げながら、私に期待のまなざしを向ける。
「うん、本当。だから、雄太くんも、正平くんにちゃんと謝ろう」
友達に心を開いて欲しかったら、自分から心を開く。花も友達も同じだ。
それから数日後、雄太くんの朝顔は、他の園児たちのものに劣らず綺麗な花を咲かせた。その隣には、正平くん朝顔が並んで咲いている。
「〝まほう〟みたいだねぇ! すごいねぇ」
園児達の満面の笑みと共に、ルソーの夢が花開く。時代と共に進化してきた曲。それほどまでに愛された曲。私にも、その夢が見えるようだった。ルソーが作った曲のように、時代と共に進化する未来が。
私が鍵盤を叩くと、流れ出る音に合わせて園児達の歌声が重なる。
むすんで ひらいて 手をうって むすんで
またひらいて 手をうって その手を・・・
未来に!
さとり。
書く事も辛い程の出来事があった。生きていく事がただ辛い。そこで私は・・・
・・・解脱しようと思った。
その為に、子供の頃に読んだ『ブッダ』という漫画を思い出しながら、それに習おうと思う。
まず、彼は始めに髪を剃った。しかし、元々私の髪は薄い。それはもうシベリアのツンドラ地帯、はたまた中国のゴビ砂漠さながらの寂しさである。僅かに生える神髪を私は毎朝早起きして、念入りにブローする。それを剃るというのは耐え難い苦痛。だが、私の解脱への意志は固い。私は涙を堪えながら髪を剃った。
全てを終えると、見事に丸く美しい月が鏡の中で輝いていた。案外私の頭は綺麗な形をしている。それに、これからは髪の薄さを気にする必要がないと思えば、むしろ気分がすっきりした。
次は苦行だ。ブッダは、辛い苦行を続ける内に、その無意味さを知る。それは、実際に苦行した者にしか解らない。しかし、苦行とは一体何をすれば良いだろう。
とりあえず、食事を抜いて、身体を酷使する事にした。真夏の炎天下の中、水分も取らず運動をすれば、まさに現代の苦行だ。そこで運動し易い格好に着替えて玄関に立つと、妻からついでにと犬の散歩を頼まれた。
犬と一緒に近所を走るが、普段からの運動不足ですぐに息が上がった。会社の健康診断でメタボと診断された太鼓腹を揺らしながら走る、というよりは歩いているように周りからは見えただろう。それでも何とか近所をぐるりと一周し終えて家へ戻ると、むしろ身体の調子がよくなったように感じた。
いかん、これでは苦行の無意味さを知ることは出来ない。もっと意味のない苦行らしい苦行が必要だ。ふと、TVで見た、山奥の滝に打たれている修行僧の姿を思い出した。
しかし、近所に滝はない。そこで私は、物置から流しそうめんに使う竹を持ち出し、二階のベランダから吊るした。台所の水道からホースを引いて竹に縛り付ける。蛇口を捻ると、一階にある庭に向けて注ぎ落ちる滝・・・のようなものが完成した。私は海パン一丁の姿になって滝に打たれた。真夏の炎天下の中を走って火照った身体に冷たい水が心地よい。
いかんいかん、これは苦行なのだ。と自分に言い聞かせ、両手を合わせて目を瞑った。映像が途絶え、滝の音だけが聞こえる。
じょぼじょぼじょぼ。
・・・トイレに行きたくなった。しかし、これも苦行と思い我慢する。まぁ、海パン姿だし庭だし水が流れているし、ここで用を足してしまっても問題ないのではないか、という悪魔の囁きが聞こえる。そんな葛藤の最中、庭に面した通りを行く外人が「お~ジャパニーズ〝しゅぎょう〟!」と言いながら写真を撮る音が聞こえた。私は一体何をしているのだろう。
すると突然、水が止まった。怪訝に思って上を向くと、ベランダから妻の顔が覗いた。
「水を無駄にしないでください! 水道料金が嵩むでしょう!」
なるほど。やはり苦行というのは無意味なものなのだ。
それを悟った私は、次の段階へ進む事にした。苦行をやめたブッダは、一人の女性から乳粥をもらう。私は妻を呼んで、それを作ってくれるよう頼んだ。
「・・・・なんだ、これは」
私の目の前には、食卓の上で皿に盛られた白いものが暖かそうな湯気を立てている。
「何って、あなたが食べたいと仰ったんでしょう。ちちゅうですよ、〝チチュー〟」
〝チチュー〟というのは、〝シチュー〟の事だろう。そうだった、妻は最近、耳が悪い。乳粥とシチューでは全く違う食べ物である。洋食のシチューで仏陀となれるかどうか大変不安が残るが致し方ない。乳が入っているところは同じである。私は、シチューにご飯を入れると、じっくり味わってそれを平らげた。美味い。時間をかけて食べた所為か、一杯だけで腹が一杯になってしまった。
最後にブッダは、菩提樹の根元に座って瞑目し、真理を得る。
しかし、この辺りに菩提樹などという立派な木は生えていない。代わりに、私が趣味で育てている盆栽を抱え、地面に座った。これで無我の境地を得れば、私は解脱することが出来るだろう。
私は目を瞑った。まぶたの裏に、これまで行った数々の苦行が浮かんでは消えていく。それらは、平凡な日常において見慣れた筈の景色なのに、新鮮な色をしていた。
ぷ~ん、ぷ~んと蚊の鳴く音が私の思考を邪魔する。反射的に頭を振ったが、すぐに思い直し、身を正した。しばらく耐えていると音が止まった。身体がぞわぞわとするが、気にしてはいけない。すると不思議なことに、すーっと気持ちが落ち着いていった。
私は目を開けて空を見上げた。夜空の中で小さく輝く星を見ている内に、私は自分が世界と一体化したような気持ちになった。その瞬間、私は解脱した。
「私は悟りをひらいた。これで解脱への道がひらかれたのだ」
これからは私の事を〝仏陀〟と呼ぶように、と妻に伝えると、妻は躊躇なく素手で私の顔を思いっきり打った。
後悔の海
この年になってやっと解った事がある。死という名の扉だけは、誰の前にも平等に口を開けていて、それを潜る為の勇気だとか理屈だとかいった薄っぺらいものの為に私たちは今を生きている。
「私はエン」
「僕はランス」
同じ顔をした双子が言う。彼らの背後には、白い扉がある。
「この先に持って行けるものは、ただ一つ」
「富や名声は持っていけない」
私は恐怖した。この扉の先へ行かなくてはならない。でも、心細さが足を竦ませる。
「「君は、既にそれを持っている」」
二人の声が重なり、景色が歪む。双子と扉は姿を消し、私の目の前には一本の道が真っ直ぐと続いていた。
「探して」
「見つけて」
どこからか双子の声が聞こえる。そうだ、私は、それを見つけなくてはいけない。でないと・・・
「「どこにもいけなくなる」」
私は駆け出した。焦りと不安、そして恐怖を抱えながら。
道はどこまでも永遠に続いているかのようだった。左右に色とりどりの扉が見えた。その一つ一つを手当たり次第に開けて中を覗く。ジャングルの奥地、会社のオフィス、誰も居ない海辺、揺り籠の中で眠る赤子、月から見下ろす地球・・・扉の向こう側に、世界は無限に存在するかのようだった。これでは切りがない。
「はやく」
「はやく」
双子の声が私の焦燥感を煽る。ただあの扉の向こうへ行かなければならないという脅迫観念だけが私を突き動かしていた。
違う、違う・・・これも違うっ!
私は、左右に立ち並ぶ扉を呆然としながら眺めた。ふと、どこかで見覚えがある光景だと思った。そうだ、子供の頃、両親が経営していたホテルの廊下である。私の脳裏に幼い頃の記憶が蘇える。同時に、不思議な鍵の事も思い出していた。
いつからだったか、用途不明な鍵を僕は持っていた。それは、銀色に光る普通の鍵とは違って、金色に光る素晴らしい鍵だった。持っているだけで特別な気分になれた。僕は、その鍵で開ける扉を色々と想像してみては、胸を躍らせた。試しに、ホテルの一室に使ってみると、そこには見たことのない世界が広がっていた。トイレの扉、机の引き出しなど、実に様々な扉にその鍵を使っては楽しんでいた。その度に、僕の目には世界が色を変えて見えた。
僕には、魔法の鍵がある。
そうだ、あの鍵さえあれば、どこの扉でも望む場所に行く事が出来る。しかし、あの鍵は一体どこへやっただろうか。
「願えば」
「想いは」
「「形となる」」
双子の声に従い、私は自分のポケットを探った。そこには、ざらりとした感触と共に一本の鍵が現れた。今にも崩れてしまいそうな程に錆びた鍵を私は、傍にあった扉の鍵穴へとはめた。役目を終えた鍵は、ぼろぼろと崩れて砂になり、消えてしまった。扉が開くと、中から大量の水が溢れ出した。私は、濁流に飲み込まれて気を失った。
魔法の鍵は、扉だけでなく人の心さえも開く事が出来た。僕は、それを友達に使った。初めは面白いと思ったが、何度も使う内に怖くなった。鍵は、僕が忘れている間に、どんどん錆びていった。
ある時、どうしても魔法の鍵が必要になり、それを使った。結果、傷ついた自分の心に鍵をかけて、それ以来鍵の事は忘れてしまった。
気付くと私は、周りを海に囲まれた小島に一人ぽつんと横たわっていた。見渡す限り水ばかり。途方にくれた私の頭上から声が降ってきた。
「とおさん・・・、父さんっ・・・!」
私は顔を上げて、声の聞こえる方へと意識を向けた。
次に私が目を開けると、息子の尚希の顔があった。目にたくさんの涙を溜めて、真っ赤な顔で私の名を呼んでいる。私の身体からは、たくさんのチューブが伸びていて、私の書斎兼寝室のベッドの上に寝かされているようだった。目の端に、大事に飾っておいたキャラック船の模型が留まる。ああ、これだ! 私がそれに手を伸ばすと、再び私の意識は白濁した。
私は再びあの世界にいた。霧に覆われた世界で風を受けて立っている。周りはやはり海に囲まれていたが、私のいる場所は、小島ではなかった。キャラック船である。子供の頃から憧れていた船に今初めて、私は乗っているのだ。船は漕ぎ手もないのに大海原を進んでいく。これは今、私の心の中に吹く風を受けて進んでいるのだ。
目の前に、再び白い扉と双子が姿を現わす。双子が言う。
「大きな船だねぇ」
「立派な船だねぇ」
そうだろう、そうだろう。これこそが私の夢であり心なのだ。自信に満ち足りた表情で私は答えた。
「さぁ、いこう。私の新しい船出だ」
この船は、新大陸を発見したクリストファー・コロンブスの船サンタ・マリア号、世界一周を達成したフェルディナンド・マゼランらの船ビクトリア号と同じ型である。どんな航海だって乗り越えていける。
扉が外側へと開かれた。その先は、真っ白い光に溢れて何も見えない。そう、ここからまた始まるのだ。私を乗せた船は、白い光の中へと消えていった。
ひらく