Lost Melodies


 初夏の陽は、ゆっくりと沈んでいく。
 学校から帰り、私服に着替えた彼は、散歩に出た。
 この町に引っ越してきて、一ヶ月になる。
 学校にも慣れ、町の雰囲気にも慣れた。瀬戸内の古い町は、温かく彼を迎えてくれた。彼は、父の三度目の転勤に感謝した。
 町は、今までいた都会の住宅地とは違い、不可思議な雰囲気だった。
 町は、海に面していて、東西に細長い状態でひらけていた。目前には島が浮かび、島にそびえる山と町に覆いかぶさるように迫る山々との間で、町は緩やかに横へ横へと広がっていった。
 坂の町と言われるのも、頷けた。彼のアパートもそうであるが、多くの民家が山の斜面に建てられ、平地から見上げると、まるで積み木を積み重ねたように、段々と家が重なって見える。実際、その家々を横切る時は、急な坂や長い石段が続き、杖の一本も欲しくなる。自動車はおろか、自転車ですら自宅まで乗り入れられない所もあろう。
 古い寺は、山に沿って建てられ、観光を名目に新しく塗り替えられる町を静かに見下ろしていた。
 新しいものと、古いもののコントラストのせいか、それともその町の持つ個性の強さのためか、彼は、初めてこの地に足を下ろした時、幼い頃、祖父に感じた畏怖にも似た憧憬を抱かずにはいられなかった。
 彼の散歩はまず駅まで行くと、商店街を西から東へ進む。商店街はほぼ真っすぐで、アーケードは三つに分かれている。
 都会とは違い、この町の閉店は早い。彼が歩いている間も、一つ、また一つと店が閉まっていく。会社帰りの者、主婦、学生。皆、足早に過ぎていく。
 アーケードが切れた所で本屋に入り、彼は情報誌を買った。そして次の通りを海に向かって下りる。「下りる」と言うのは、その通りがわずかではあるが、海に向かって下り坂となっているからだ。
 まずお好み焼き屋がある。中から明るい声が聞こえる。なかなか美味しいと評判だ。その次が町でも一、二の食事処。それからスナック。十字路を左へ行けば飲み屋街となる。
彼は曲がらず、そのまま真っすぐ海へと向かう。
 海岸沿いを走る道路まで出ると、目前は市庁舎だ。潮の香りがする。市庁舎の裏手は海。とは言っても、狭い海だ。
 初めて見た時は、てっきり川だと思った。
 夕日に浮かぶ黒い島が、わずかな灯を星屑のように散らして横たわっていた。
 友達になった奴が、真面目くさった顔で、
「あれは、向かい側にある島で、向島と言うんだ」
 と言った。そして、この狭い海を指して、
「これは川じゃない。川のように見えるけど、れっきとした海なんだ」
 と念を押していた。
 彼は思わず苦笑した。
 土地の者とは、そういうものなのかもしれない。
 今、一人でその川のような海を見つめながら、可笑しそうに吹き出した。
 けっしてバカにしているのではない。否。羨ましかった。彼には故郷とかいうものがなかったから・・・。
 初夏の生暖かい風が、身体を擦り抜ける。
 陽は、日毎に厚くなる雲を照らし、金色の綿菓子を空に描いている。海は暖かで柔らかく、その上を渡船の灯が揺らめいて流れる。
 ふと、彼は、一人の少女に目をとめた。
 自分と同じように海を見つめる彼女は、外灯の下に立っていた。その身体は、青白い光に包まれているように見え、向こうを透けさせるようだった。
 彼は一目で、彼女が自分と同じ学校であると悟った。何のことはない。彼女は、彼の学校の制服を着ていた。
 長いおさげ髪で、丸縁メガネをかけている。小さくて、細くて、すぐ壊れてしまいそうだ。
 なんとなく気になって、そのままずっと見つめていた。
 潮風が鼻先をかすめる。生暖かい、嫌な風だ。
 風は、彼女のスカートの裾をもてあそび、通り抜ける。
 遠く、釣りをしている連中から、笑い声が起こる。市庁舎に反響して、海に流れる。
 彼女の顔が、しばらくその連中の方に向いていたが、また静かに海に向かい、微笑した。細い指を軽く曲げてメガネを外した。どうもメガネは、彼女の容姿を著しく損ねているようだ。メガネを外した彼女の顔は、美人とは言えなくも、端整で可愛らしかった。
 彼は、そのままくぎづけになる。
 自分を見つめている者がいようとは、カケラも思ってないのだろう。彼女は、メガネを何処かへしまうと、長いおさげ髪の片方に手を伸ばす。固く編まれた髪を、緩やかにほどき、もう一方もといた。
 風が、舞う。
 彼は、息を呑み、目を見開いた。
 まるで、彼女の周りにだけ風が起こったようだ。ほどかれた長い髪は、波のように風になびく。初めて得た自由を満喫するかのように舞い、押し寄せる波が伴奏をつける。
 彼女はそれを全身で楽しむように、腕を髪にからませ、背伸びをし、頭を軽く振って風を感じた。それから、天を仰ぎ、少し瞳を閉じて、泳ぐように一回転して――止まった。
 視線が彼のものと出会い、風は止んだ。
「あの・・・」
 彼が、口を忙しなく動かせながら、音にした一言。続きは出ない。おそらく顔は真っ赤だ。暗がりに感謝した。手は意味もなく動き、手話にもならない。
 彼女は、そんな彼を正面に見つめて、茫としている。綺麗な瞳を大きく見開いて、心ここに在らずという顔だ。
 狼狽えても仕方ない、と先に居直ったのは彼。
「ごめん。あの・・・。悪気はなかったんだ。同じ学校の人だなと思って、ついつい見とれてしまって・・・」
 彼女に近づきながら、何度か頭を下げる。彼女はまだ、状況を把握していない顔だ。
彼は困った。
「本当にごめん。俺が見てたことが、気に入らないんだね。誰だってジロジロ見られるの、嫌だもんね。ごめんよ。俺、消えるから」
 ずっと眺めていたかったが、見つかった上に、嫌われてはどうしようもない。諦めて散歩の続きをしようと謝りながら背を向けた。
「私、変じゃない?」
 声は、直接頭の中で響いた。一瞬反応できず、三秒後に振り返る。
「今、何か言った?」
 マの抜けた声で問うと、彼女の可愛い笑顔が返ってくる。
「そうよ。私、変じゃないかって訊いたの」
 今度はちゃんと彼女の口元から音が出ているようだ。
「変って?」
 彼女の方に身体を向けながら、呟くように問い返す。「変」の意味が分からなかった。
 彼女は面白そうにクスリと笑うと、軽くスカートをつまんで、一回転する。柔らかい髪が舞い、スカートがひるがえる。
「どこか、おかしくないかって訊いているの。足元はどう? 服は?」
「別に、おかしくないよ。あっ、ちょっとスカートの裾がほころびてるかな」
 見ると、何かで擦り切れたようになっている。
「あぁ、これはいいの。帰って繕わないとね。でも不思議。あなたとお話できるなんて、思わなかった。本当に、夢みたい」
 自分の格好を訊いたわりには、そのスカートのほころびは、さして気に留めず、彼女は屈託なく笑って、肩をすくめた。
「俺を、知ってるの?」
 面食らった感じで問う。彼は、彼女が誰なのか思い出せずにいた。同じ学校なのは分かっても、それ以上はケントーがつかない。
「やだなぁ。同じクラスなのよ。あなたの席は廊下側で、私の席は窓際の一番後ろ」
 彼女は口元で笑いながら、瞳で彼の反応を見つめた。それが、微かにおびえているような哀しい瞳だったので、彼は少し胸を詰まらせる。
「あっそうか。そうだ、そうだ。確かに同じクラスだね。ごめん、思い出したよ」
 本当は、まったく分からない。名前どころか、いたのかいなかったのかすら、定かではなかったが、彼のその一言で、彼女の顔からおびえが消えた。
「うれしい。私、あんまり目立たないから、もしかしたら分からないんじゃないかと思った」
 彼女は、素直に喜んだ。一かけらの疑いもない。
 彼はとにかく話をそらせたかった。
「どうして、こんな所にいるの? 家は近いの?」
「うん。歩いて三分かな。このあたりは庭みたいなものだから、毎日来るわ」
 そう交わしながら、並んで海を見つめる。
「でも、この時間に会うのは初めてだね。それとも、いつもはもっと向こうの海辺にいるの?」
 隣を気にしながら、彼が問う。柔らかい髪の少女が、肩越しに見える。思った通り、メガネを外した彼女は、小さな日本人形を思わせる端整な顔で、彼の好みの分可愛く見えた。
「私がここに辿り着くのは、いつももっと遅いから、会ったことないのよ」
 柔らかい口調が、またしても彼好みで、思わず赤面した。
「辿り着くって?」
 どうでもいいから話したくて、質問攻め。彼女が笑った。
「私、学校帰りは、古寺巡りしてるの」
「へぇ・・・」
 山に沿って点在する寺を繋ぐ細い坂道がある。綺麗な石畳が続き、それをたどると自然ほとんどの古寺を見て歩くことができた。それを称して「古寺巡り」と言う。この町の観光コースのメインである。昼間は観光客、夜はアベックの姿がちらほらする。
「とは言っても、ただ歩くだけ。お寺を見て歩いてるわけじゃないわ。途中、見晴らしのいい所に座って夕陽を見て、浄土寺まで行くの。時々、その向こうまで足を延ばして、ここに着くのは八時頃かな」
「長い道のりだね。俺の倍時間かけてる」
「あなたも、古寺巡りするの?」
 彼女が、目を丸くして問う。
「ん。変?」
「土地の人は、あまりやらないから」
「俺は、新参者だからね」
 困ったように笑って肩をすくめると、そういう意味じゃないのよと、彼女はムキになって答える。そんな素直な反応が可愛くて、笑顔で見つめると、彼女は赤くなって視線を反らせた。
 波が押し寄せている。心地よい響きが無言で薄暗い海を見つめる二人を宥める。
 空は、いつの間にか星が出ていた。西の薄暮のせいか、あまりよく見えない。
「昔は、もっとたくさん星が見れたのに・・・」
 彼女が見上げて、呟いた。
「島の奴は、満点の星空が拝めるらしいね」
 彼が、同じように見上げて言う。
「それでも、昔に比べると見えなくなったのよ。もし死んで、空に昇れば、もっとたくさん見れるかしら」
「ん・・・、どうかなぁ。反対に星になると、地上ばかり眺めてしまうんじゃないかなぁ。今こうして見上げているように、町の灯を見下ろしてるんだと思うよ」
 何気なく答えた言葉に、彼女の返事はなかった。ゆっくりと、視線を彼の横顔に向けて、見つめる。
「何か、気に障ること、言った?」
 気付いて彼は問うが、答えはない。彼女は、彼の瞳を避けるようにして、うつむき、そのまま黙っていた。
 もう一度、彼は夜空を見上げる。
 穴ぼこだらけの星空だ。たとえ死んで星になっても、隣の星とは遠すぎて、話もできないだろう。広い宇宙にポツリと取り残されて、泣きべそかくかもしれない。地上の灯が恋しくて、泣いて泣いて泣き疲れて、消えてしまうかもしれない。
 とにかく、現実的に考えよう。
「どうしても星が見たいなら、プラネタリウムにでも行けばいいよ。お星様になる話より、ずっと建設的だろ?」
「・・・・・・」
「プラネタリウムがダメならさ、千光寺にでも登ろう。町の灯が一望できて、ずっとお手軽だろ?」
 千光寺とは、この町の西よりにある山の中腹に建つ観光の名所だ。昼はロープウェイが動いているが、夜は細く急な坂を登るか、大きく迂回して緩やかな長い坂道を登るしかない。細く急な坂道の途中には、石に有名な作家の書いた一節が刻まれているが、夜はまったく分からない。陽が沈んでから行く所ではなかった。
 しかし、あえて彼は言った。深い意味はない。ただ、彼女に笑って欲しかっただけ。
「千光寺が嫌なら、浄土寺とかさ。他にも灯が見える所はたくさんあるよ。星が見えないからって、嘆くことないって」
 あまり彼女が深刻そうに俯いているので、自然彼の声は焦ってくる。しかし、彼の言葉が途切れた時、聞こえたのは笑い声。
「そこまで言われると、散歩に誘ってしまいそうだわ」
 柔らかく丁寧な言葉で、彼女は、彼を見つめて笑った。
 彼が、ホッと息をつく。
「本当に嫌でなきゃ、一緒に行かないか? 帰りはちゃんと家まで送るよ。その・・・俺でよければだけど・・・」
 言いながら、心の中で自分を疑う。なぜ、これほどまでに、彼女にこだわるのだろうか・・・。
 名も思い出せず、いたのかどうかすら分からない同じクラスの女の子を、成り行きとはいえ、散歩に誘うほど、彼は女の子に慣れていないはずである。それがどうだ。必死に彼女と一緒にいる時間を延ばしていく。まるで、明日はないのだと理解しているように、彼女を引きとめ、見つめている。
 彼女は少し考えると、
「でも、きっと私なんかとじゃ、面白くないわ」
 と小さく答える。
 言葉の端に、日頃彼女が受けている疎外感が窺えた。
「おまえなんか面白くない」と言われつけた者の哀しさがあった。
 彼はそれをまるで気付かないように、笑ってすます。
「面白いかどうかは、やってみないと分からないよ。それにやっぱ、一人より二人の方が楽しいに決まってる」
「・・・・・・」
「さぁ、嫌でないなら行こう。まずは、駅まで海岸沿いを通って行って、駅から山手に上って古寺巡りのコースを東に向かう。終点は浄土寺。それでいいかな?」
 なかば強引に言うと、すでに足は動いている。
 彼女の笑顔は、彼の背を追いかける。
「本当にうそみたい。誰かと一緒に歩けるなんて・・・」
 かすれた声が、彼女が泣く一歩手前であることを窺わせた。
 彼は、その声が決して哀しみのためのものでないことを祈りながら、彼女を促し歩き始めた。

 海岸通りは、けっこう車の通りが激しかった。途中、公園に寄りながら、二人とも無言で歩いて駅まで来た。
 駅前の横断歩道を渡り、踏切を越えると、外灯の少ない坂道がある。それを上がると道は二手に分かれていた。
「左に行けば千光寺。でも暗いし、人気もないし危ないから、右へ行こうか」
 彼は、彼女の反応を見ながら右を示した。
 彼女が納得したような顔で、頷きながらも左を見ている。
「この上に、小さな城があるんだけど、そこへアベックで登ると、必ずケンカになるんだって」
 柔らかい声にドキドキしながら、彼は空笑い。
「じゃ、やっぱ右だね。うん。行こう」
 一人で言って、一人で納得しながら、彼は右を目指した。
 国道の喧騒を背に、小さな道を行く。
 彼女は立ち止まったまま、薄闇に溶け込む少年の広い背を、哀しそうに見つめた。
 ただ一つの灯の下で、立ち尽くす少女の姿が、水面に映る像のように揺らめいた。
「どうしたの? 行かないの?」
 彼が振り返って問うた時には、彼女の姿は何の変わりもなく、はっきりと見える。
「ごめんなさい。ちょっと考えごと」
 明るく返して近づく彼女を待って、彼はまた歩き始める。並んで歩きたいのはヤマヤマだが、それはできなかった。道は人一人が通れるほどしか幅がなかったから・・・。
 しばらく無言で、いくつもの古寺を通り過ぎた。陽は落ち、小さな灯が点々と続くだけの薄暗い道だ。じっくり見て歩きたくても、暗すぎて分からない。
 下り坂と上り坂、石段を上がって下りて、見晴らしのいい場所で立ち止まった。
 町の灯が目に映る。遠く、夜空の向こうに明るい星。
「あれは、テレビ塔のライトね」
 彼女は、説明するともしないともいえない声で呟いた。
 ジーパンのポケットに両手を突っ込んで、彼は肩をすくめる。
「で、あの下の海沿いの派手なライトがパチンコ屋だね」
 黒く沈んだ島の影をバックに、その派手な赤や緑の灯が、場違いな道化者のように点滅している。
 彼女は楽しそうに笑った。
「あれは、一つのアクセントだわ」
「ふむ。確かに目を引くね。どのライトよりもキョウレツだ」
 大袈裟に頷いてみせる。
 彼女が声を出して笑った。
「そういう時は、向こうを見るの。島へ行く橋の上を、ライトが右へ左へ流れてる。ちっぽけな車のライトなのに、ちゃんと見えるの」
 そこから東の方角をさしながら、彼女が笑う。
 大橋と呼ばれる小さな橋が、こちら側の陸とあちら側の島とを繋いでいる。夜には、橋の部分に橙色の灯が同じ間隔で左右十個ずつ照らされた。島側の山に沿う車道には、白い灯が並んでいる。時折、小さな灯が右へ左へ動くのは、そこを通る車のものだ。
 彼女はどうやら通り過ぎる小さな灯を数えているようだ。
 彼もぼんやりと、同じように数える。
 ふいに、背後で声がした。
「よぉ、おまえ。今日はまだこんな所か」
 声の主は、同じクラスの奴だ。その横に女の子がピトッとくっついている。
「あぁ、こんばんは。今日は反対回りかい?」
 彼は問い返しながら、自分の傍をチラリと見る。同じ学校の、しかも同じクラスの奴であるにも関わらず、彼女は背を向けたまま振り向こうとしない。
 彼の素振りなどおかまいなしに、奴は薄闇に灯を点す様に快活に笑った。
「たまには気分転換しないとさ。毎日同じコースなんだ、目も回るよ」
 この町は小さい。
 学校が終わった後、アベックの散歩となると、コースも自然決まってくる。この二人も毎日飽きもせず古寺巡りで楽しい時間を埋めていた。彼とは毎日すれ違う。
「おまえ、転入してきて何日になる?」
 奴が問う。
「一ヶ月くらいかな」
「じゃ、ボチボチ一人歩きはやめて、彼女でもつくれよ。古寺巡りやってる独り者なんて、正直ジジイかババアだぞ」
 観光客がこれを聞いたら怒るだろうが、しかし、土地のものだと一も二もなく頷くだろう。彼が散歩の途中ですれ違うと言えば、この二人のようなアベックか、もしくはご老人だからだ。
「おまえだって、まだまだ若いんだ」
 口調がジジむさい奴に苦笑して、彼は自分の傍を想いながら、
「残念だね。今日は俺も一人じゃない――」
 そう言い掛けて、止めた。
 彼女がいない。
「なんだよ。もうボケ始めてるのか?」
 ぶっきらぼうな問いに、返す言葉もなく、彼は先程まで彼女がいた場所を見つめた。
「おかしいな・・・」
「可笑しいのはおまえだろ。何ボケてるの」
 尚も茶化す奴の袖を、女の子が引っ張った。放っておくと長くなる。二人でいられる時間は少ないのだ。世間話は明日にして。
 奴が気付いて笑った。
「おう、悪いな。じゃあ、俺たち行くわ。また明日な」
 明るい声で、奴は手を挙げて離れる。
「あぁ、また明日な」
 彼もまた、同じように手を挙げて答えた。仲睦まじく去って行く二人の背を見つめてため息。
「おっかしいな。さっきまでいたのに・・・」
 呟いて頭を掻く。薄暗い中を見回すが、よく分からない。夜景は先程とはまったく変わっていないのに、彼女だけが見えなかった。
 と――。
「彼女たちも、常連ね」
 すぐ傍で、声がした。
 驚いて飛び上がり、振り返ると、彼女は何事もなげに立っている。
「どこに行ってたの?」
 一瞬止まった心臓が動いているのを確かめて、彼はホッと息をついて問うた。
 彼女は肩をすくめて背を向ける。
「私と一緒だなんて思われると、あなたが困るだろうと思って、知らぬフリして向こうへ行ってたの」
「急にいなくなるから、驚いたよ。知らない奴らじゃなかったんだ。何も隠れることはないよ・・・」
 彼は真剣に訴える。あんまり彼女が哀しそうだから・・・。
 風が、吹く。
 嫌な風だ。
 彼女が半身を彼に向けて、遠くを見つめる。
「同じ学校の子だから、隠れたの。私と一緒にいたことが噂にでもなったら、きっとあなたは、今日のことを後悔するわ。あんな子、誘わなければ良かった、って・・・」
 生暖かい風が、冷たい声を聞いて重みを増す。
「どうして、そうやって自分を卑下するの?」
 静かな問いかけで、風が止む。
「そんなことしても、哀しくなるだけだよ。それとも、俺と歩くのが嫌で、そんなふうに言ってるの?」
「そんな・・・」
 咄嗟に、彼女が叫ぶ。
 彼は、わざと大きくため息をついて見せた。
「誰だって、嫌な奴と一緒になんかいたくないよ。だけど、君のようにいちいち逃げてると、皆は、君に嫌われてると思って声がかけられなくなるよ」
「・・・・・・」
「君を好きな分だけ、君を傷つけるのが怖くって近寄れない。きっとそういう奴って、いると思うよ。君が気付いてないだけさ」
 静かな暗がりに響く声。
 目前の彼女の姿が、心もとない灯のせいか、向こうを透けさせる。それでも、その綺麗な瞳は、灯よりも鮮明に、彼の心に焼きついた。
「ごめんなさい・・・」
 呟く声。
「いや・・・。言い過ぎたかな」
 照れた口調。
「じゃあさ、行こうか。気分直しに続けよう。終点まであと半分残ってるよ」
 明るい声に黙って頷いて、彼女は揺れて流れて先へ行く。
 彼が笑って、そこから見える町の灯をもう一度見た。
 灯は彼の笑顔とは裏腹に、厳しく、哀しい。
 言ってはだめ。行くんじゃないよ。
 早くお帰り。お家へお帰り。
 手遅れにならないうちに、やさしい灯の元へ、帰るんだよ。
 町の声は、彼を取り巻いた生暖かい風に遮られた。
 彼は、何事もないかのように彼女に続く。その横顔に微笑を浮かべて・・・。

 散歩は続いた。
 三重塔を横切って、細い坂道を下る。国道の傍まで出て、また坂道を上って行く。
「Hush a bye baby ・・・」
 彼女は、小さくしかし楽しそうに呟いた。
「何か、言った?」
 彼女から三歩遅れて歩きながら、彼が問う。
 彼女は手を背中で結んで、一回り。
「Hush a bye baby, on the tree top」
「――マザーグース?」
「そう。大好きなの」
 そう言って、彼女は英語で口ずさむ。軽くステップを踏んで、満面の笑顔を夜空に向けて、彼女は楽しそうに進んで行く。
 まるで何かの呪文のように紡がれる歌を、何度も繰り返しながら、彼女は進む。
「危ないよ。こんな狭い坂で転ぶと、怪我をするよ」
 声をかけながら、大きなストライドでゆっくりと後に続く。暗がりを感じさせない彼女の足元が、少し怖かった。
「あっ、そこに溝があるよ。ほら、前から人が来る――」
 彼の足が、止まった。
 彼女の足は、何にもとらわれない。
 ぶつかると思っていた人は、彼女の横をスッと通り抜け、彼女の身体に触れたようでもなく、彼女の足が溝につまずいた様子もない。
 彼のほうは、身体をずらして人を通さなければならなかったのに・・・。
「どうかしたの?」
 歌うのをやめて、彼女が問う。
「いや・・・。なんでもない・・・」
 そう言いながら、胸の内はざわめいた。目の錯覚だったのか・・・。
「どうしたの? あきれたの?」
 心配顔で近寄る彼女に向かって何かを問い質す前に、平気なフリをして見せた。
「英語がうまいんで、びっくりしてるんだ。ただ、それだけだよ」
 自分の足が震えている。気のせいか?
 彼女は、笑った。
「私、英語だけは好きだから」
 そう言う彼女の、いったいどこがどうだと言うのだろう。頭の先から足の先まで、目に見えておかしい所はない。
 どうかしている。きっと、女の子を誘うなんて慣れないことするから、目がぼやけてるんだ。そう、きっと・・・。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
 彼の仕草を見て、心配そうに問う彼女の瞳が、彼の心の中の疑念を覆い隠す。
「いや、何でもないよ。それより、もう少しゆっくり歩こう。足元が暗くて、危なっかしいからね」
 苦笑まじりの彼。
 彼女が、肩をすくめて笑顔。
「ごめんなさい。いつも一人でやってたから、つい・・・」
「マザーグースって言われると、ついつい、『誰がこまどり殺したの』とか、『そして誰もいなくなった』とかしか浮かばないな」
「推理小説が好きなの?」
 彼女が、小首をかしげて問う。
 彼女の歩幅に合わせて歩きながら、彼が思いつく限りの言葉で続ける。
「そうなんだ。あとは、ハンプティ・ダンプティかな。あの唄は、卵が答えになるなぞなぞ唄なんだろ?」
「・・・ハンプティ・ダンプティ・・・」
「そう」
 二人はやっと狭い坂道から抜けて、広い通りに出た。石畳からアスファルトに変わり、今度は坂道を上って行く。左手には、今年完成した図書館が、静かに眠っていた。
「ハンプティ・ダンプティ。落ちれば死ぬと分かっているなら、岩の上になど上らなければ良かったのに・・・」
 小さな小さな声が、風を呼ぶ。
 彼は、小首をかしげた。
「あれ? ハンプティ・ダンプティは、岩でなく確か塀の上に座ってるんじゃなかったっけ」
 あえて言うほどのものでもなかったが、少し彼女の口調が気になって、問うてみる。
 明るく返ってくると思っていた答えが、掠れていた。
「そっか。そうよね。そうだったわ」
 また、石畳になった。道は広いままだ。二人並んで歩けた。道の下には線路が見えた。 ちょうど通った貨物列車の音で、会話は途切れた。
 そのまま最終地点の浄土寺に着く。
 町の灯が、優しい。
「とうとう、ここまで来たのね」
 寺の前にある長い石段を見下ろして、彼女が呟く。
「遅くなったね。お家の人が心配してるね」
 彼が苦笑した。
 彼女がゆっくりと首を横に振る。
「楽しかったわ。誰かとこんなに長い時間、一緒に歩いたの初めて」
「学校の帰りはどうしてるの? 一人なの?」
「そう。やっぱり変でしょう?」
「いや、そうじゃないけど。女の子って、たいがい誰かと一緒だから」
 正直に答えた。
 彼女が、微かに笑う。
「だって、私なんかと――」
 言いかけた言葉を、彼が強く止める。
「また、そんなこと言ってる。そういうことは、今の顔を鏡で見てから言えば?」
 意識して鏡をのぞく時の顔と、自然に出た表情では、明らかに違う。その上、彼女のように、普段メガネをかけている子は、それを外しただけで、ガラリと雰囲気が変わってしまう。しかも、目の悪い子は、たいてい瞳が綺麗だ。
 今の彼の場合、傍の彼女が自分の好みな分、思わず力説してしまう。
「・・・鏡?」
 しかし、彼女にはよく分からなかったようだ。大きな瞳を向けて、問い返す。綺麗な瞳だ。何故かしら、人を惹きつける瞳だ。
 彼は、ドキッとして、照れ隠しに夜景を見た。
 町が呼んでいる。早くお帰り・・・と。
 彼女は黙ってしまった彼の肩を見上げた。今までこんなに身近に人を感じたことがあっただろうか。
 人の顔色ばかりを見て、ただひたすら自分自身の存在を消すことでしか、人の中にいられなかった自分。一人ぼっちで歩く町が、どれほど冷たく淋しかったか・・・。
 人が怖くて、一人になりたくて、・・・愚かしい。
 やっと、自分を見てくれる人に会えたと思ったのに、今はもう・・・同じ場所にはいられない。
 彼は、遠くを見ている。微笑を浮かべて。
 彼女は、ゆっくりと手を伸ばす。細い指が空を流れる。次第に薄れ行く足元。スカートの裾はほころび、セーラー服の所々も掠れている。
 柔らかい髪が波打ち、ざわめき、額を一筋の黒いものが流れていく。
 もう、嫌よ。一人は、嫌。
 心の呟きが、彼女の愛らしい顔を、鬼面に変える。
 誰でもいいの。一緒に、逝こう。
 今までずっと一人だったわ。逝く時も一人だなんて、哀しすぎる。
 伸ばす指が、透けていく。
 涙は、血の色。
 食い入るように、彼の横顔を見つめる瞳が、闇色に曇る。
 次第に掠れていく指が、彼の腕を奪う寸前で、――止まった。
「え?」
 呟きが、彼女を何事もない姿で映す。
 彼が、少し赤面した様子で彼女を見た。
「だから・・・。一緒に帰るヤツがいないなら、毎日一緒に古寺巡りしないかなって言ったんだよ」
「・・・・・・」
「やっぱ、一人より二人のほうがいいしさ。君とここまで来て、楽しかったし・・・」
 何を話したわけでもないが、彼女と並んで歩いた時間に、満足している。
「それこそ、君が嫌でなければ、ね」
 少し口ごもっている彼の声に、偽りはなかった。
 彼女が笑う。今にも泣き出しそうな瞳で、笑ってみせる。
「ありがとう。本当にうれしい」
 その答えに、彼はホッと息をついた。
「今度さ、休みの日にでも誘っていいかな」
 大胆な申し出にも、ありがとうと返し、彼女は一歩後ろへ下がった。
「それじゃ、もう遅いから、ここで別れましょう」
「え? どうして。ちゃんと家まで送って行くよ」
 不思議そうに問うと、彼女は笑って首を横に振った。
「いいわ。もう、ここで。ここから私の家は近いの。この石段を下りてすぐ」
「じゃ、なおさら――」
 強く押す彼を、笑って流して、彼女はもう一歩下がった。
「お願い。大丈夫だから、今日はここで・・・」
 彼女は、決して譲らない覚悟でも出来ているように、言った。
「そう・・・」
 彼は、少々落ち込んだが、めげない。
「明日は、送るよ。必ず」
 まだ名残惜しいが、往生際が悪いヤツと思われるのも嫌なので、彼はおとなしく引き下がることにした。
「それじゃ」
 笑いかけると、彼女も笑ってくれた。
「本当に、ありがとう。今日はとても楽しかったわ。本当よ。・・・覚えていてね」
 彼女が言った言葉。
 彼は頷いて、片手を上げる。
「また、明日ね」
 来た道を帰りながら、もう一度振り返って手を振った彼の瞳に、薄暗い中にたたずむかげろうのような少女が焼きついた。
 明日のことを考えると、自然に笑みが零れる。
「明日は、早めに学校へ行って、誰かに彼女の名を訊かなきゃね」
 横目に夜景が見える。彼の心を軽くするように、優しい灯が彼を待つ。
 彼女が、力なく手を振っている。
 彼の姿が見えなくなった時、彼女をまた、生暖かい風が包んだ。
 彼女の姿が足元から消えていき、青くかすんで向こうを透けさせる。彼女は、微かに浮かび上がり、まるで空中を流れるように風に乗る。その横顔に、星屑のような涙が光った。
 帰ろう・・・。
 彼女が目指したのは、石段の下の我が家ではなく、まだ奥へと続く石畳の向こう。
 山への入り口に建つ寺を通り過ぎ、細い山道を囲む雑木林を抜けて行く。何も、彼女を遮るものはない。飛んでいく彼女を、引き戻すものなど、何もない。
 揺れて流れて、彼女が行き着いたのは、大きな岩の元。
 その岩の上に立てば、おそらく、美しい町の灯が空に散りばめた星のように見えるだろう。
 しかし今、その岩の元にあるのは、死。
 ふわりとそこに舞い下りて、彼女は静かに自分の足元を見た。
 制服を着た少女が、地面に横たわっている。瞳は閉じ、身体のどこにも力はない。額を流れる血も、擦り切れた制服も、すべてもう何も語りはしない。
 それは、彼女自身だった。
「愚かなハンプティ・ダンプティ。落ちれば死ぬと分かっていても、こんな所で一人っきりで、町を眺めることしかできなかった愚か者。彼に出会ったことがせめてもの救いだったと思いながら、逝きましょう」
 掠れた声。
 彼女は、静かに瞳を閉じて、天を仰いだ。一筋の閃光が、天を目指したことを知る者はいない。

 翌日。
 彼は、いつもより少し早めに学校へ行った。が、校門を入った辺りで嫌な予感がした。その予感は、彼のクラスへ近づいていくうちに強くなった。
 廊下で女の子たちが泣いていた。男の子も、暗い顔で小声で話す。
「何かあったの?」
 昨日すれ違った奴をつかまえて問うと、
「静かに!」
 と囁かれた。
「うちのクラスの女子が、昨日死んだんだ。山の中でさ。ほら、あの窓際の一番後ろのやつ」
 そう言って指す机の上に、白い菊が置かれていた。
「その子、三つ編みで、メガネかけた子?」
「あぁ、そうだよ。いつも一人であそこに座ってただろ。お前は知らないかもしれないけど、けっこう遅い時間に一人で古寺巡りやっててさ。その山の中っていうのもコースの延長で、あいつはよく一人で行ってたらしい。大きな岩の下に倒れてたのを発見されたんだ。ひょっとすると自殺じゃないかって話も出てる」
「自殺?」
 彼は、問い返した。
 奴が、憂鬱そうな顔でうなずく。
「友達のいない、陰気なやつだったから、それを苦にってさ」
「でも、昨日の散歩の途中で会った時は、そんな感じじゃなかっただろ? あの時、君は彼女が自殺するように見えた?」
 問う声が、掠れていた。異様に口の中が渇いていた。
 奴は、眉根を寄せて彼を見た。
「何、言ってんの?」
 問われる意味が分かっていない。
 彼は、問わずにはいられなかった。
「昨日、散歩の途中で俺と会っただろ?」
「あぁ、会ったよ」
「その時、俺の傍に誰かいなかったか?」
 奴は、何故そんなことを問うのかと言いたそうな顔で、ゆっくりと首を振る。
「いや、あそこには、おまえしかいなかったよ。俺、目はいいからね。・・・それとも、何かいたのか?」
 彼は、何もかもを打ち消すように否定した。
「何でもないよ。何でもないんだ。きっと、君が見た通りだよ」
 彼の疲れた微笑の理由が分からず、奴は肩をすくめた。そのまま小首を捻りながら、行ってしまう。
 彼はもう一度教室の一隅を、遠い目で見た。
 おそらく、彼と出会った時、彼女はすでに死んでいたのだ。それならば、疑念を抱いたことも説明がつく。
 最後に彼女が呟いた「覚えていてね」という言葉が、今はっきりと聞こえる。その言葉を、彼女がどれほどの想いで言ったのかは、もう分からないが・・・。
 彼女の綺麗な瞳が、最後まで曇らなかったと信じたい。

 Hush a bye, baby ・・・

 彼は、彼女の名を思い出すことはできなかった。

                              

Lost Melodies

Lost Melodies

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted