混沌のバベル
序章 バベル
「や、やめろ…!」
男は根元に黒が見える金髪を揺らし、尻餅をついて叫んだ。
「来るな…!」
だらりと垂れた右腕を庇いながら、必死で後退する。が、男を追い詰める影はゆっくりと、だが躊躇なく男に歩み寄っていく。あろうことかその身には電気を纏い、目は獲物を狙う肉食獣の如く青く光っていた。人とは思えぬ異形。目が反らせない。嫌な汗が背中を伝う。
「わ、悪かったって…!あ、謝るからさ…!だから…」
男は恐怖で荒い呼吸を繰り返しながら、視界の端で地面に転がる仲間たちを見た。ある者は顔の形が変わり、ある者は右足を焼かれ、ある者は泡を吹いて倒れている。死んではいないものの、皆息は絶え絶えで意識は遥か彼方だ。言うまでもなく、それはこの目の前の奴の仕業である。
男たちは、この辺りではちょっと名の通った不良集団だった。金もないが、やりたいことも特にない。そんな怠惰な思考を持つアウトロー気取りの若者の集まりで、時に暴走し、時に喧嘩をし、時には犯罪まがいのことにも手を染めていた。
そして今晩もいつも通り、ちょっと金を拝借しようとしたのだ。偶然そこらを通りっかったちょっと目つきの悪い青年相手に。そう、早い話が恐喝である。それは認めよう。多対一でボコろうとしたのも認めよう。だが――
(こんなのって有りかよッ・・・・!)
十分ほど前の悪夢が頭を過り、歯の根が合わなくなる。男は奥歯を噛みしめて必死にそれを堪えた。だが、そう。本当に悪夢だった。
『おい、てめぇ何ガンたれてんだよ。慰謝料だ、金出せ』
リーダー格の男がそう言って青年の胸倉を掴んだのが始まり。が、その直後何故かリーダーは痙攣して硬直し、その隙に鳩尾を蹴り飛ばされ吹っ飛ばされていた。カッとなって続いて向かった仲間たちも、何故か泡を吹いて倒れあっさり返り討ち。残り三人になってようやく、ヤバいと本能で悟って逃げようとしたが、青年はそれを許してはくれなかった。何をしたのか、一撃であっさりと二人をのし、あっという間にこのザマだ。
そりゃあ、こっちだって喧嘩には少しばかり自信があったが、所詮素人の集まりだ。だが、それは向こうだって同じなはずで、素人同士の喧嘩なんて数が物を言う。恐らく仲間たちは皆そう思っていただろう。少なくとも、まさか相手がこんな化け物だとは想像だにしていなかったはずだ。
「あ…あ、あ…あぁ…」
男は声にならない声を上げて、片腕で必死に後ずさりをしたが、すぐに背中に冷たい感触を感じた。ぎょっとして振り返ると年季の入ったビルの壁があった。もう逃げられない。青年はそれを嘲笑うかのようにゆっくりと距離を詰めてくる。
「やめろ…!やめてくれ…!」
男はかちかちと歯を鳴らして、青年の右腕を見た。その腕はバチバチと青い電撃を放っている。そうだ、皆アレにやられた。どんなカラクリか青年はスタンガンの如く放電をしているのだ。
やがて、青年は男の側まで来ると足を止めた。煌々と光る青い目で見下ろされ、思わず息を呑む。が、最後の気力と意地とプライドを振り絞って、男は青年を睨みつけた。
「バケモンが…!」
その言葉に青年は薄く笑った。背筋が凍るような不吉な笑み。そして電荷を帯びた右腕を振り上げると
「死ね、バァカ」
男の顔面を押さえつけ、放電した。
「あ"あ"あ"ああぁぁああ……‼」
男の絶叫が夜の裏路地に響き渡った。
一章 ツクノトリ
ある人は『才能』だと言った。
ある人は『進化』だと言った。
ある人は『神秘』だと言った。
ある人は『破滅』だと言った。
一体どれが正しいのか―――私には、未だに分からない。いや分かることなどないのだろう。……多分、永遠に。
◆
暖かい風が桜の木を一撫でして、淡い桃色の花びらを散らせていく。木の足元に落ちた花びらは、こんもりとした山となり、春特有のつむじ風に吹かれてくるくると回る。
窓際の一番後ろの席で頬杖をついて、その様を見ながら、渡辺紅葉は教卓で話す担任の話をぼんやりと聞いていた。
全国の渡辺さんならよく分かるだろうが、この苗字だと入学して一番初めの席は決まって窓側になる。それも大抵、一番後ろの隅っこ。あいうえお順だから当然といえば当然なのかもしれないが、″わたりさん″でもいない限り、席も出席番号も決まって最後だ。
隅っこはどこか疎外されているようで少し寂しいが、紅葉は案外この席を気にいっていた。後ろの席は多少だらだらしていても、先生にバレることはそうないし、何より春の日射しは柔らかで気持ち良い。いい匂いでポカポカしていているし、どことなく眠気を誘うようで……
「もーみじ」
「は、はい!?」
俄に名前を呼ばれて、紅葉ははと顔を上げた。どうやらいつの間にか、本当に眠りかけていたらしい。危うく垂れかけていた涎を慌てて啜ると、目の前に立っていた友人、早瀬夏帆は顔をしかめた。
「いつまで寝てんのよ。もうホームルーム終わったよ」
「え!ほんと!?」
「ほんとよ、あんたが涎たらしてる間に、とっくにね」
「……それはご内密でお願いします」
入学早々、涎女なんてあだ名をつけられては堪らない。紅葉は素早く口元を拭って、証拠を隠滅すると、立ち上がった。
夏帆は既に派手な赤色のリュックを背負い、帰る気満々のご様子だ。高校入学二日目の今日は、教科書を配り簡単な自己紹介をしただけで下校なのだ。新品のスクールバックを開けて、新品の筆箱と新品のポーチと新品のノートを詰める。
知り合ったばかりのクラスメイトも次々と教室を出ていっていた。
「紅葉ちゃん、夏帆ちゃん、じゃあね」
数人の新しい友人たちは、若干のぎこちなさを含んみながらも声をかけてきた。
「バイバーイ、また明日」
彼女たちに手を振り返して、夏帆と共に教室を出る。
散り始めた桜の大木を見上げながら校門を潜ると、俄かにつむじ風が吹いてきて、慌ててスカートを押さえた。高校の制服はチェックのスカートに黒のブレザー。中学はセーラー服だったから、どことなく新鮮で心が踊る。
スカートは入学式の日、母に短すぎると言われて、長めにしていったのだが、学校に着いたら吃驚仰天。皆、優に膝上丈ではないか。結局、夏帆にスカートを上手く折ってもらったのだが、家に帰ると母に顔をしかめられた。彼女曰く、そんなに短いと駅の階段で下から見えちゃうわよ、とのことらしい。確かに、スカートが短くてスースーするのは少し慣れない。が、ここは我慢である。
学校を出て、駒沢通りを歩いていると夏帆がそうだ、と口を開いた。
「あの店、今日やってるって」
「おーじゃあ行こうよ」
「そーね、お昼も兼ねていっちょ寄ってみますか」
紅葉の提案に夏帆も頷いて同意した。ちなみに『あの店』とは中目黒駅にある、カレー屋である。学校説明会に来た時偶然見つけて、合格したら二人で来ようと話していたのだ。
「でもいいよね!帰りに寄り道とか高校生って感じ。渋谷とか新宿とかも行ってみたいなー」
紅葉は期待に満ちた表情で、夏帆を見た。が、それはあっさりと一蹴された。
「今日ぐらいよ、そんなこと出来んの。授業だって始まるし、だいたいあたしは部活入るからムリ」
「えーナツちゃん冷たい……」
女子高生といえば、恋に青春に放課後の寄り道ではないか。電車でよろめいて運命の出会いをして、文化祭で青春を謳歌し、放課後はカフェでお喋りするのだ。これぞ、華のセブンティーン、夢のスクールライフである。
頭上にピンクの妄想を膨らませる紅葉に、夏帆は呆れ顔で溜息を零した。
「あんねぇ……あんたは夢見すぎなんだよ。脳内お花畑かっての。どうせ、電車通学で運命の王子様が~とか、放課後はまったり談笑~なんて考えてんでしょ? 」
まるで心のうちを覗いたような寸分違わぬ台詞。紅葉は足を止めて、ポカンと夏帆を見つめた。
「……もしやナツちゃん超能力では?」
「違うわ、アホ。何年幼馴染みやってると思ってんのよ。だいたい、あんたは分かりやす過ぎんの」
夏帆は立ち尽くす紅葉の頭を小突いて、スタスタと歩いていく。紅葉は慌ててその背中を追った。中肉中背の紅葉と違って、夏帆はスラリと背が高い。その分歩くのも早いのだ。追いかける足は自然、早足になる。下ろし立てのローファーは、まだ皮が固くて歩きにくい。小走りでようやく追い付いて、紅葉は夏帆の隣に並んだ。
「やっぱナツちゃん、バドミントン続けるんだね」
先程の夏帆の台詞を思い出して呟くと、彼女はまぁね、と頷いた。
「目黒高校のバド部は結構気合い入ってるし。明日の部活見学行って、入るつもり。紅葉も行かない?」
「えーどうしようかなぁ……」
紅葉と夏帆は幼少の頃からの付き合いで、中学時代も共にバドミントン部だった。が、部長でエースだった夏帆とは違い、紅葉は極めて平凡で大会に出たのも数度きりだ。別にそれを僻むつもりはないし、夏帆が才能に傲ってはいるわけではないことはよく知っている。
中学では、常にレギュラーを張っていた夏帆を身長のおかげだの、顧問のお気に入りだのと陰口を叩く者もいたが、そうではないと紅葉は思う。夏帆はいつも遅くまで残って自主練をして、部の雰囲気が緩んでる時でも一人真剣に練習していた。そこには部長としての責任や立場もあったのかもしれないが、誰よりも努力していたことには違いない。そんな彼女の姿を昔から一番近くで見てきたのだ。当然、僻む筈がない。
ただ、それと高校でも部活を続けるというのはまた別の話だった。
「私上手くないし……」
紅葉は制服のリボンを整えて、言い淀んだ。
思えば、昔から夏帆は運動神経がよく、紅葉がバドミントンを始めたのも彼女の影響だった。元来、紅葉は決して運動が得意な質ではない。むしろ、球技なんかは苦手なぐらいだ。徒競走は常に三、四位、ドッジボールは避け専である。
「あんたはアレよ、競争心が足りないの。バドだって良いとこまでいくのに、最後が獲れないんじゃない。あんたの優しいとこ嫌いじゃないけど、絶対損してるよ」
「そうかなぁ…」
確かに勝敗だの順位だの、昔からあまり興味がない気もする。皆で楽しくやれればそれでいいと思う。仲良く楽しめるのが一番だ。そう思ってしまうのは、やはり競争心が足りないのだろうか。
「まぁ考えとくね」
紅葉は答えを保留にして、話題を移した。
「それよか私お腹が空いたよ。お腹と背中がくっついちまう」
「まだ十一時半じゃない。春休みダラ ダラしてるから。あたしがランニング誘っても来ないしさ。……そーいや、あんたちょっと太ったんじゃない?」
夏帆はにやりと笑って、紅葉の腹をつつく。 紅葉は慌てて飛びのいてバックで彼女を撃退した。
「ふ、太ってないし!ナツちゃんと走ると置いてかれるんだもん。それに春休みはジャガジャガジャキーの人形の応募券集めてたの。これでも忙しかったんですー」
「出た、あの不味いやつ。だいたいそれが太る原因じゃない」
「分かってないなぁ、ナツちゃんは。あれはクセになる味って言うの」
「全くもって分からんね」
取るに足らない会話をしていると、やがて駒沢通りと山手通りが交わる交差点に出た。ここを左に曲がれば直に駅が見える。平日の昼間だと言うのに交差点は車も人もそこそこ多かった。
「次でいっか」
点滅しかけた信号機を見て夏帆が呟いた。
「ひーよー」
欠伸を噛み殺しながら紅葉も、相槌を打つ。やはり本日は些か麗らか過ぎて、大分眠い。眠気を覚まそうと伸びをして―――紅葉はぎょっと目を見開いた。
「あ……!」
眠気も安穏とした気分も一気に吹き飛んだ。
信号が赤に変わったのにも関わらず、杖をついた老婆が一人、横断歩道の中程にいる。恐らく信号が変わったことに気付いていない。
車線を見ると、遠くからダンプカーがスピードを上げて走ってくる。青信号だから当然だ。だが、こちらも老婆の姿は見えていない。
信号待ちをしていた人々が、異変に気付いてどよめき出す。老婆もようやく、信号に気付いて慌て始めた。が、如何せん腰を曲げて杖をついた老婆だ。狼狽えて杖を手放しよろけてしまった。転倒し、慌てて起き上がろうとするが 、焦りが先行して上手くいかない。ダンプカーの運転手はまだ気付かない。黒い影と轟音が老婆に迫る。このままじゃあ、不味い。
「……っ……!」
――その時、どうしてそんなことをしたのか、紅葉自身にも分からない。後に振り返っても分からなかった。
もしかすると、老婆の姿が、去年の冬に死んだ祖母に重なったのかもしれない。受験勉強に必死で、漸く見舞いに行った時には、祖母は痩せこけ、物騒な機械に繋がれていた。以前の明朗とした面影など微塵もなく、身を起こすことすら出来なかった。それを、後悔したのかもしれない。し、本当は理由などなかったのかもしれない。
とにかく、気付いた時にはバックを放り出して、老婆の元へ駆け出していた。
「紅葉……!」
いつになく切羽詰まった声で叫ぶ、幼馴染みの声を振り切って、道路に飛び出す。今までないぐらい、強くアスファルトを蹴って駆ける。間に合え、間に合え、どうか間に合って…!
紅葉は老婆の元へ辿りつくと、素早く彼女を起こして手を取った。が、それと同時に轟音が近づいてくる。
切羽詰まった運転手と目が合う。ダンプカーが咄嗟にハンドルを切ったが、もう距離は数メートル。
――駄目だ、間に合わない。
そう、直感した。嫌に景色が止まって見える。ダンプカーゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。誰かの悲鳴と金切り声が妙に遠くで聞こえた。咄嗟に老婆を庇って、目を硬く瞑る。心臓がドクドクと波打つ。呼吸が荒れる。
あと、一メートル。黒い影が頭上を覆う。
ここで、私は死ぬんだ。
はっきりとそう悟った。
死亡、絶命、往生、天国、地獄、煉獄、虚空、自我、消滅、孤独。
様々な単語が頭の中を駆け巡る。感じたのは後悔というより、恐怖だった。嫌だ、怖い。こんなところで死にたくない。まだ、何もしていないのに。まだ、何も出来ていないのに―――
そう思った瞬間、『何か』が弾けた。体がカッと熱くなる。そして、その『何か』堰を切って溢れ出した。
◆
夢を、見た。
夢の中で、紅葉は鈴の音のする薄暗闇を走っていた。何故走っているのかは分からない。とにかく、一心不乱だった。
どこからか、水の匂いがした。耳を澄ますと鈴の音に混じって、足元からサラサラと音がする。どうやら足元を小川が流れているらしい。
薄闇に目が慣れてくると、ゆっくりと辺りが輪郭を持ってきた。どうやらここは川辺で、所々に花が咲いている。花は彷彿と白い光を発していて、暗闇ではなく薄闇なのはそのせいらしい。普段なら立ち止まって、その神秘的な幻影にみいったことだろう。だが、今の紅葉はそんな余裕はなかった。
まるで何かに突き動かされるように必死に走る。暫くして、自分が何かを追っていることを思い出した。だが、何を追っているのかは依然として分からない。喉はカラカラで、体は熱い。足にも疲労が溜まっていて、凄く苦しいのに、足を止められない。追いかけなければ手遅れになる、そんな強迫観念に突き動かされていた。
やがて、ポツポツと薄明かりの灯る闇の向こうに、ぼんやりと人影が見えた。何故か、その人が自分が追ってきた人だと直ぐに分かった。
「―――!」
荒い呼吸の下から、声を振り絞って影の名を呼ぶ。だが、悲しいことに声は出なかった。待って、そう言って引き留めたいのに掠れ声が僅かに出るだけ。必死に追いかけるのに、距離も一向に縮まらない。
不意に、固かった筈の地面がぐにゃりと崩れた。慌てて足を抜いたが、一歩踏み出す毎にどんどん足場は悪くなっていく。焦る気持ちとは裏腹に、どんどん背中は遠ざかっていく。
ついに、ズボッと右足が深く地面に嵌まり、転んでしまった。身体中に泥がつく。
「待って……!」
今度はしっかりと声が出た。
すると、影は不意に足を止めて振り向いた。離れていて顔はよく見えない。だが、その人は小さく微笑んだようだった。そして、優しい声で「もみじ」と名を呼んだ。懐かしい、なつかしい声。昔よく聞いていた声だった。
その人は紅葉が立ち上がるのを見届けると、再び背を向けて歩き出した。
――行ってしまう。
紅葉は再び走り出しそうとしたが、体はずぶずぶと地面に呑み込まれていく。
「待って……!行かないで……!」
今度はいくら叫んでも、少年は止まってはくれなかった。淡く光る花畑の中に、ゆっくりと入っていく。そして、ついにはその姿さえ見えなくなってしまった。
◆
「待っ……」
自分の声で目が覚めた。
体は汗びっしょりで、呼吸は乱れている。暫く、先程の夢を夢だと認識できなかった。未だにあの幻想郷にいるような気がした。…それにしても、不思議な夢だった。妙に鮮明で、凄く懐かしい……あの少年は結局誰だったのだろう。
「紅葉…!」
夢現の間をさまよっていると、聞き慣れた声が降ってきた。徐々に焦点が合い、心配気にこちらを除きこむ幼馴染みの顔がはっきりとしてくる。
「…ナ、ツちゃん……?」
呟いた声は掠れていた。何度か咳払いをして、ようやく喉の調子が戻ってきた。ゆっくりと身を起こすと、若干の目眩と頭痛がした。
「ここは……?」
記憶の糸を辿って、ゆっくりと辺りを見回す。そうして、漸くダンプカーに跳ねられかけたこと思い出した。
どうやら、ここは病院らしい。紅葉は白いベットの上に寝かれされていた。
窓から差し込む陽光は既に赤く、時計を見ると既に五時を回っている。あの事故からほぼ三時間。随分長いこと眠っていたようだ。だが、なんとか助かったらしい。特に骨折もなさそうだ。だが、どこか妙な違和感を感じた。何なのかは分からない。が、夏帆が抱きついてきたことで、それはあっさりと吹き飛ばされた。
「ほんっとヒヤヒヤしたんだからね!異常無しって言われたけど、中々起きないし、寝苦しそうだし。ほんと良かったぁ」
涙ぐむ幼馴染みの態度が珍しくて、少しくすぐったい。夏帆は紅葉の顔を見て安心しとように笑った。
「おばさんは、あの婆さんの息子さんと話してる。もうすぐ戻ってくると思うよ。……おばさんも大分慌ててたよ。あたしも救急車なんて初めて乗ったし、ほんと焦ったわ」
『おばさん』とは、紅葉の母のことである。幼馴染みである夏帆も当然よく知っている。
「はは……ごめんね。っていうか、ありがと」
紅葉は頭を掻いて謝礼を述べ、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「あ、あのさ、ナツちゃん。結局あの後どうなったの?あのお婆ちゃんは……無事……だった……?」
ダンプカーに轢かれそうになったことは覚えているが、そこで意識がぷつりと途切れている。あの時、何だか妙に体が熱くなって、頭が真っ白になって、それきりだ。
恐らく轢かれてはいないのだろう。もし轢かれていたら、今頃こうして話してなどいられない。だが、あの時ダンプカーが止まれたとは、とても考えられなかった。あれは完全に手遅れだったではないか。
「え……何言ってんの?紅葉」
が、夏帆はきょとんと紅葉を見た。
「あんた、あの婆さん助けたじゃない」
「へ……?」
確かに助けようとはしたが、助けられたのかはあやふやだ。だが夏帆は感心したように続けた。
「あたし、びっくりしたよ。紅葉があんなに機転の効く子だったなんて」
「う、うん…?」
頭を捻っている紅葉を見て、夏帆は訝しげにいながらも説明してくれた。
どうやら彼女曰く、あの時紅葉は道路に飛び出し、ギリギリの紙一重で、あの老婆を突き飛ばして、ダンプカーを避けたらしい。老婆は青痣をいくつか負ったようだが命に別状はなく、ダンプカーに跳ねられるのに比べたら、掠り傷にもならない、とのことだった。が、紅葉の方は危機が去って、その直後倒れたのだとか。そして救急車で運ばれて今に至るらしい。
「そ、そうなの……?」
自分でやった筈なのに記憶が曖昧だ。そう言われてみれば、そんなことをしたような、してないような。いや、でも夏帆の言う通り、そこまでの機転が自分にあるのだろうか。
首を傾げていると、夏帆はハッと顔を上げた。
「お医者さんは大丈夫そうだって言ってたけど……やっぱり後遺症が……!?まさか、記憶喪失!?」
「え!?ち、違うって!ちゃんと覚えてるよ!ちょっとぼんやりしてただけ!私はこの通り元気です。ほら、マッスルマッスル」
話がややこしくなりそうで紅葉は慌てて首を振った。事実、若干の頭痛を覗けば元気以外の何物でもない。力瘤をつくって見せると、夏帆はケラケラと笑った。
「プニプニじゃない」
「……そんなことないもん。ちょっとは筋肉あるもん」
流石にマッスルというのは無理があるかもしれないが。
一頻りふざけた後、夏帆は急にあらたまって「紅葉」と名を呼んできた。
「もう絶対こんなことしないで。今回は助かったからいいけど、次はどうなるか分かんないよ。あんたは昔っからお人好しのくせに案外頑固だし、無茶するしさ……」
「……」
「そりゃあさ、あの婆さん助けたのは良いことだし、婆さんの息子だって凄い感謝してたけど……あんたに何かあったらおばさん、絶対悲しむよ。それに、あたしだって……」
「…うん、ごめんね」
確かに彼女の言う通りだ。運良く助かっただけ。一歩間違えれば死んでいた。その事実に今更ながら、身震いした。
少し重い空気が漂いかけた所に、がちゃりと病室のドアが開いた。入ってきたのは紅葉の母、静だった。静は、紅葉の姿を見るや否や、一直線に駆け寄ってきた。
「あぁ……良かった……!」
一頻り紅葉を抱き締めて、顔を見て安心したように頷く。
「全くもう……事故りかけたなんて聞くから心配したじゃないの……!入学早々縁起でもない!」
「ごめんなさい……お母さん……」
普段の静は、名前の通り冷静で、滅多なことでは取り乱さない。珍しく憔悴した母の顔を見て、紅葉は少し心が傷んだ。
彼女は乱れた髪をかきあげて
「言いたいことは沢山あるけど……とりあえず、夏帆ちゃん。本当にありがとう。いつもこの子の面倒見て貰ってごめんなさいね。今度夕飯でもご馳走するわ」
「いえいえ、そんなこと……」
夏帆は困ったように笑って、首を振った。紅葉は母の言い草に少しムッとした。これではまるで、紅葉が小さな子供の様ではないか。確かに昔から何故か「夏帆ちゃんはお姉ちゃんみたいねぇ」とありとあらゆる人に言われてきたが、紅葉と夏帆はしっかり同い年である。母の言い方はあんまりだ。そうは思ったが、今回ばかりは何も言い返せなかった。
静は紅葉に向き直ると
「お医者さんは、倒れたのは極度の緊張のせいだろうって。軽い打撲はあるけど、脳波に異常はないから多分大丈夫だって言ってたわ。紅葉が大丈夫そうなら、入院も通院もいらないって言ってたけど……どうする?念のため、一晩入院してく?」
「ううん、大丈夫。家帰るよ」
紅葉はベットから下りつつ、答えた。特に体に異常はなさそうだし、入院は必要ないだろう。静は立ち上がった娘の姿を見て、ホッとしたようだった。
「なら帰りましょう。夏帆ちゃんも送ってくわ」
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」
夏帆は静に頭を下げて、礼を述べた。そうして、紅葉は帰路についた。
―――その時は何ともないと思っていたのだ、本当に。
◆
やはり、おかしい。
紅葉はズルズルと座り込んで自室の壁に寄りかかった。布団を被り、耳を塞いで、蹲る。だが依然として音は消えない。紅葉は深々と溜め息をついた。
「どうしちゃったんだろ……」
始まりは今から約一週間前、ダンプカーに轢かれかけたあの日だった。あの一件は、翌日にあの老婆の息子が紅葉の家にやってきて謝罪をし(静は少し腹を立てていたけれど)、一先ず片付いた。老婆も順調に回復しており、ダンプカーの運転手も逮捕はされなかったらしい。
それはとても良かったのだが。
あれ以来、紅葉は妙な違和感に悩まされていた。初めはどこかおかしい、そんな漠然とした感じだった。気のせいかとも思っていた。だが、その違和感は日ごとに膨れ上がっていった。
そして三日前、ついに紅葉はその違和感の正体に気付いた。率直にいえば『聴こえすぎる』のである。
そう、ありとあらゆる音が聴こえてくるのだ。それも事細かに。まるで、音の大洪水だ。
例えば、授業中。壁を突き抜けて隣のクラス、下手すれば隣の隣のクラスの話し声まで聞こえてくる。お陰で、肝心の自分のクラスの授業を聞き分けられず、授業は全く頭に入ってこない。このままでは入学早々、置いてかれそうだ。
人混みは煩すぎて頭が割れそうだし、夜は些細な物音さえ気になって眠れやしない。通勤ラッシュを避けるため、朝は早く起きるようにしたのだが、夜も中々寝つけないため、このところ紅葉はすっかり睡眠不足に陥っていた。
出来る限り、普通を装っているつもりだったが、昨日は夏帆にも隈が酷い、顔色が悪いと指摘された。恐らく母も気づいているだろう。
違和感は他にもあった。音の大洪水に比べれば、些細なものだが、このところ妙に夜、目が冴えるのである。それも半端な夜ではなく、バリバリの丑三つ時に。睡眠不足なのはこのせいもある。
おまけに違和感の正体に気付いてから、それらは更に強まっているような気もした。
「どうなっちゃったんだろ、私……」
部屋の見慣れた天井を仰ぎ見て、呟く。正直、恐い。このままでは音の大洪水に呑まれて、頭が割れてしまいそうだ。
心当たりなら、ある。言うまでもなく、あの事故だ。あの日から何だかおかしい。だが、何故こうなったのかは分からないのだ。事故に遭って耳が悪くなることはあれど、良くなることなどあるのだろうか。因果が分からないだけに、母にも言えなかった。そもそもこれは病院に行くべきなのだろうか。行ったところでどうにかなるのだろうか。
今日は土曜日で、静は買い物に行っていた。紅葉はこれ幸いと、久々の静かな時を堪能しようとしていたのだが、降り悪く、近所で家の建設が始まったらしい。十時を過ぎた頃から、ガガガガ、ゴゴゴゴ、キゴキゴ、もう煩くて堪らない。布団を被って暫く耐えていたが、直に布団も意味を成さなくなってきた。
ここまで人を恨めしく思ったのは始めかもしれない。
紅葉は諦めて、重い身体を起こして気晴らしに外出することにした。もうどこでも良いから、静かな所に行きたかった。だが、昼間の都内に人気のない場所なんて、そうある筈もない。
取り敢えず、財布を片手に家を出ることにした。このままでは頭と耳がイカレてしまう。
人の多い巣鴨駅の方を避けてぽてぽてと歩いていくと、やがて住宅街にある、見知らぬ公園についた。
小さな公園で、砂場と滑り台とブランコしかない。それも大分年季が入っている。だがそれ故か遊ぶ子供の姿はなく、静謐としていた。多分、休日だから皆、家族で出掛けでもしたのだろう。
「ふぅ……」
紅葉はフラフラとブランコに座りこむと、深い溜め息をついた。久々に漕いで見ようとも思ったが、キイキイと軋む音が耳に痛くてやめた。
ブランコに座ったまま、地面を横切る蟻の行列をぼんやりと眺める。蟻たちは白茶のかけらを三匹がかりで持ち上げて、せっせと巣に運んでいるようだった。蟻たちの進路を妨害しないように足を上げておく。
ぼうっとそれを見ていると誰かの声が蘇った。
――アリって、東京タワーから落ちても死なないんだよ。
ずっと昔、その『誰か』は今みたいに、餌を巣に運ぶ蟻の行列を見ながら、そう教えてくれた。
――えー本当?東京タワーから落ちたら死んじゃうよ、ぜったい。
紅葉がまさか、と反論すると、誰かは得意気に胸を張った。
――ほんとだって。この間図鑑で見たもん。
――ふーん。じゃあ、何で死なないの?
――蟻は体重がめちゃくちゃ軽いだろ?だから高いとこから落ちても、落ちるスピードがあんま上がんないんだって。
――へぇ……。
それは凄い、と蟻を少し見直した覚えがある。あれを教えてくれたのは、一体誰だったのだろう。
夏帆ではない。彼女はあれでいて虫が大の苦手で、蟻を見るのさえ嫌がった。
紅葉より少し年上で……そう、カブトムシを捕まえるのと木登りが上手かった。そういえば、昔は夏帆と三人でよく遊んだような……
「お姉ちゃん」
追憶に浸っていると、俄に声が聞こえた。びくりとして顔を上げると、五、六才ばかりなる少年が困り顔で立っていた。
「使わないならブランコ貸してよ」
「あ、ごめんね。どうぞどうぞ」
ブランコは二台あったが、一台は故障中でロープで縛られて使用禁止の札を貼られていた。紅葉は慌ててブランコから降りた。
「はい、どうぞ」
揺れるブランコを止めて、少年に笑いかける。が、少年はブランコに乗ろうとしなかった。
「いいよ?乗って?お姉ちゃん使わないから」
不思議に思って、声をかけてみたが少年は依然として立ち尽くし、顔を強張らせている。
「お姉ちゃん…目、どうしたの……?」
「へ……?目?」
少年の猜疑を含んだ声に、紅葉は咄嗟に目を抑えた。が、特に何ともないし、普通に見える。
少年は息を止めて紅葉を見つめている。気まずい空気が辺りを包み込んだ。
「もう、悟!勝手に飛び出してっちゃダメでしょ!ちゃんと左右を確認しなさいって、いつも言って……」
鉛のような沈黙を割るように、公園の入り口から、息を切らして若い女性が入ってきた。どうやら、この少年の母親らしい。彼女は息子の元に駆け寄って、紅葉の姿を認めると、小さく会釈した。
「ごめんなさいね、うちの子が迷惑かけたようで……」
「あ、いや…別にそんなことは…」
紅葉がそんなことない、と首を振ると母親は安心したように笑った。
「そう?ならいいんだけど。……っ…!」
が、紅葉と目が合うと急に顔を険しくした。
「ちょっと、貴女……!悟こっち来なさいッ!」
「え……?」
首を傾げる紅葉をよそに、彼女は慌てて少年の手を引っ張り、自分の元に寄せた。少年も怯えたように母親に抱き付いて、紅葉を指差す。
「ママーあのお姉ちゃん何か変だよ」
「へ、変って……」
幼気ない少年の言葉は結構傷つく。邪意が無いだけに、余計に。
ショックを受けている紅葉を、母親は顔を歪めて鋭く睨んだ。
「うちの子に近付かないで!」
そう吐き捨てて息子を掬うように抱き上げると、走って公園から出ていってしまった。
「何、今の……?」
残された紅葉は若干腹を立てながらも、呆然としてそれを見送った。人の顔を見て逃げるなんて失礼ではないか。そりゃあ紅葉は絶世の美女ではないし、受験期で三キロ体重が増え、春休み中に頑張って縄跳びをしたけれど半分しか減らなかった……のだが、いくら何でもあの態度は無いだろう。 目が合った瞬間、逃げられるほど凶悪な顔ではないと思う、多分。どちらかというと、紅葉はよく、眠そうな顔だとか、間の抜けた顔だとか評されるぐらいだ。
「失礼しちゃうねぇ、全く」
足元の蟻たちに愚痴を溢してみる。勿論反応はない。
何となく居づらくなって、紅葉は公園を出ることにした。綿菓子のような雲の浮かぶ青空を見上げながら、閑静な住宅街を歩く。時折、雀の鳴き声が聞こえてきて凄く長閑だ。先程の出来事と積み重なる寝不足で、ささくれだっていた気分も穏やかになってきた。
と、不意に紅葉は路傍に立っていたカーブミラーを見上げて――ぎょっと目を見開いた。
「何、これ……」
思わず左目に手を当てると、鏡の中の人物も同じ動作をした。それが、否応なしにこれは現実なのだ、と突きつけてくる。
――お姉ちゃん…目、どうしたの……?
――うちの子に近付かないで!
先程の母子の台詞が、頭に響く。ようやく、紅葉はその意味を理解した。
「そ、そりゃあ……こんなんじゃ……」
紅葉はカタカタと震える手を必死に押さえつけた。あの母親の態度も最もだ。
そう、紅葉の両眼は鮮やかな橙色に染まってた。いや、正確には虹彩が。まるで、充血しているかのように真っ赤になっている。
鏡の中から気味の悪い、二つの目玉がこちらを見つめていた。
「ヤダ……なに、これ……」
何度目を擦っても、赤は消えない。
それどころか、鏡の中の顔はどんどん醜く歪んでいっているような気がした。震えが、止まらない。顔はどんどん歪んでいって、ついには自分のものとは思えない獣染みた面が鏡の中に現れた。
「こんなの……嘘だ……」
夢に決まっている。悪い夢だ。夢なら早く覚めろ。が、恐る恐る頬をつねってみると、鋭い痛みが走った。痛覚は、あった。
つまり、これは現実。紛うことなき現実。この目玉は間違いなく自分のもの。その事実が紅葉を襲う。
「いやあああぁぁぁ!」
紅葉は頭痛も忘れて、鏡の前から身を翻して駆け出した。
見知らぬ通りを、訳も分からず泣きながら走った。時折、擦れ違う人々の怪訝そうな目線が身体中に突き刺さる。そりゃあ、休日の真っ昼間に街中を疾走している少女がいたら、気になるだろう。
息が切れて、動悸が煩い。音の洪水は先程にもまして酷くなり、忘れかけていた頭痛が再び頭をもたげてくる。鼻水を啜って顔を上げると、車のフロントガラスに写った二つの橙の眼と目が合った。慌てて俯いたが、一瞬見えた顔は先程にもまして歪んでいた。
怖い、恐い、こわい、コワイ。
私は、一体どうなってしまうのだろう。
涙と鼻水にまみれ、顔も頭もぐちゃぐちゃで、もう何が何だか分からなかった。家に帰ったらどうなるのだろう。静はどう思うだろう。一生このままだったらどうしよう。そんな思いが頭をぐるぐる渦巻いて、渦巻いて、五里霧中。
そうして、辺りをさ迷っているうちに、街を一周していたらしい。気づけば、家からの最寄り駅、巣鴨駅の近くの裏路地に来ていた。
表通りから聞こえてくる、休日を楽しむ人々の喧騒が耳に痛い。どちらにせよ、こんな姿では人混みには出れない。紅葉はずるずると座り込んで、ゴミ箱の裏に隠れた。膝を抱えて顔を伏せる。幸い、狭い裏路地は背の高いビルに挟まれていて、楽しげな通行人たちは蹲る少女には目もくれない。そのことに少しだけ気が休まる。駅前の喧騒が、がんがんと頭に響いてきた。耳を塞いでじっと耐える。
夢なら覚めてくれ、と何度も思った。思おうとした。もし、これが悪い夢ならどんなに良かっただろう。
頭が痛い、体が重い、吐き気がする。視界が涙で滲んで、ぐるぐると回って、やがて紅葉の意識は暗転した。
「おい」
上から降ってきた声で、意識が戻った。いつの間にか眠っていたらしい。重い瞼を開けて、頭をゆっくりと起こすと裏路地の入り口に人が立っていた。その人は紅葉の顔を見るとやっぱり、という顔をした。
「……!」
そこでようやく、紅葉は自身の異変を思いだして、顔を伏せた。が、間違いなくばっちり見られただろう。何か、言われるだろうか。出来ればスルーして欲しい。
が、そんな願いも虚しくその人は紅葉の元に歩み寄ってきた。
「面ァ上げろ」
「え……?で、でも…」
予想外の言葉に戸惑う。するとその人は少し苛立ちを含んだ声で、繰り返した。
「いいから顔上げろ。変なことはしねぇよ」
信じて、いいのだろうか。先程の母子の反応を思い出して、少し迷った。が、紅葉は言われた通り顔を上げた。
立っていたのは、鋭い目付きの男。少年というには大人びていて、青年と呼ぶには顔立ちにあどけなさが残る。だが、そこそこ背が高い故か、何となく後者の方が適切な気がした。高校生か大学生か……少なくとも、紅葉よりは年上だ。
彼は紅葉を見て呟いた。
「やっぱ異能者か」
「いのうしゃ……?」
掠れた声で鸚鵡返しに尋ねたが、彼は答えはくれなかった。
「付いてこい」
と、それだけ言って背を向けて歩き出す。紅葉は立ち上がりつつ、慌ててその背を引き止めた。
「ちょ、ちょっと待って……待って下さい!」
「…何だよ?」
「あ、えーと…うーんと……」
引き止めたのはいいものの、言葉に詰まった。そもそも別に何か用があったわけではないのだ。単にあまりの急展開についていけなかっただけである。脳ミソをフル回転させた結果、口を突いたのは、こんな間の抜けた台詞だった。
「わ、私は紅葉です」
唐突な自己紹介に彼は呆気にとられたような顔をした。何だこいつ、と顔にくっきりと書いてある。 どうやらそれは正しかったらしい。彼は気怠げに紅葉を見た。
「…だから何?」
「えーと、だから、その、貴方の、名前は?」
紅葉は真っ赤になって、咄嗟に誤魔化した。我ながら上手く会話を繋げたと思う。すると彼はあぁと納得したような顔をして、短く名乗った。
「淡路壱矢」
あわじ、いちや。それが青年の名前らしい。彼は再び踵を返してスタスタと歩いていく。暫くの逡巡の末、紅葉は彼に着いていくことにした。何でもいいから、この苦痛から解放されたかった。
出来る限り下を向き、ズキズキと痛む頭を堪えて人混みを抜ける。そうして辿りついたのは、駒込駅の近くの通りだった。本郷通りから東に反れ、音楽教室や文房具屋、うどん屋等の小売店が立ち並んでいて、商店街とアパートが一緒になっているような下町風の通りだ。紅葉も何度か来たことがある。
「ここだ」
そのうちの一件の洋食屋の前で、壱矢はようやく足を止めた。四階建ての建物の一階部分にあるオムライス屋で、看板には『ΨLIGARE Ψ』と書かれている。
入り口の脇には植木に入れられたコニファーと、今週のオススメが書かれた黒板が置かれていた。今週のオススメは『和風の明太子オムライス』らしい。ショーウィンドウ越しにはフードサンプルが置かれていた。
「こっち」
ドアには『open』の札が掛けてあったが、青年は建物の裏手に回った。紅葉も戸惑いながらもその後に続いて、裏口から店内に入る。積み重なっている米袋の山を横目に廊下を歩いていくと、スタッフルームらしき部屋についた。
モップや箒などの掃除用具と文房具、それからソファとテーブルもある。そしてそのソファでは、若い女性が身支度を整えていた。長い髪を高く結い、膝丈の紺のスカートに薄桃色のシャツを着ている。
「あら、壱矢君。どしたの、その子」
彼女は青年の姿を認めると、リップを塗る手を止めて声をかけた。その子、とはもちろん紅葉のことである。それから彼女は紅葉の橙に染まった瞳に気付くと、目を丸くした。
「もしかしてお仲間?珍しー」
「お仲間……?」
「あら知らないの?」
彼女は不思議そうに壱矢と紅葉を交互に見た。壱矢はそれには答えず、女性に聞き返した。
「紬さんは?店ですか?」
「うん、昼も大分過ぎたし、一応手空いてると思うけど……」
「わかりました」
青年はそう言うと、入ってきた裏口と反対のドアを開けて何処かに行ってしまった。
随分と素っ気ないというか、何というか。連れてこられたはいいが、どうすればいいのだろう。紅葉が立ち尽くしていると、女性はにっこりと笑いかけてきた。笑窪のある優しそうな笑みだった。
「こんにちは、こっち座ってなよー」
「あ、ありがとうございます」
ぎこちなく礼を述べて、言われた通り女性の隣に腰を下ろす。顔を見られたくなくて俯いていたが、彼女はそんなことも構わず話しかけてきた。
「ねぇ名前なんて言うの?」
「も、紅葉です……」
「もみじちゃんかー。可愛い名前だねぇ。私は芹ね、泉芹。漢字だと二文字になっちゃってさ、よく中国人みたいって言われるんだよね」
彼女はおどけたように笑った。確かに二文字とは珍しい。芹は「私は気に入ってるんだけどねー」と笑って、紅葉の頬をつついてきた。
「うーん、若いね。もちもち肌だ」
「…芹さんだって、十分若いじゃないですか」
気さくな芹の態度に少し気持ちが和らいで、紅葉は言った。見たところ彼女は二十代前半だ。紅葉よりは年上だが、まだまだお姉さんといった年頃である。
「嬉しいこと言ってくれるねぇ、紅葉ちゃんは。でも女の子の肌のピークは十七、八なんだって。紅葉ちゃんも日焼けは気をつけなきゃだめよ。色白なんだから勿体無い」
芹は相変わらずツンツンと紅葉の頬をつついてくる。
そうしていると青年が出ていったドアが再び開いて、店服姿の女性が顔を出した。
「あ、紬さん」
芹が女性に気付いて声を上げる。
とすると、彼女が紬らしい。芹よりもさらに年上で、恐らく二十代後半。短い黒髪を無造作に下ろしているが、中々の美人……というより、整っていると言った方が正しいのかもしれない。その中性的な顔立ちと長身から、一瞬男かと思った。が、名前からするにどうやら女性らしい。
紬は茶色いソムリエエプロンを取って、コックコートにズボンのラフな格好になると、芹に声をかけた。
「芹ちゃん、もう上がっていいぞ。お疲れさん」
「あ、じゃあ失礼しますね」
芹はバックを手に取って立ち上がる。そして紅葉に笑いかけた。
「紅葉ちゃんバイバイ、また来てね。私ここで働いてるから」
「さ、さようなら」
彼女は手を振り、店を出ていった。どうやら紅葉を一人にしないように待っていてくれたらしい。紅葉は心の中で密かに芹に礼を述べた。
「紅葉ちゃん、か」
紬は、紅葉の正面に腰掛けながら呟いた。その動作はゆったりしているのに、どこか隙が無い。自然と紅葉は居ずまいを正していた。
「良い名だな」
「あ、ありがとうございます」
紅葉は緊張すると、結構どもる癖がある。壱矢という青年に、ここに連れてこられて以来、ずっと気を張っていたのだが紬を前にして、それはいよいよピークに達していた。鷹揚な動作に反して、紬の纏う空気がどこか張り詰めているせいだろうか。
「そう固くなりなさんな、紅葉ちゃん」
紅葉が身を強張らせているのが伝わったらしい。紬は困ったように笑った。そして身を乗り出すと、じぃと紅葉の橙に染まった瞳を覗きこんだ。
「…っ……」
思わず、目を反らしてしまう。青年といい、芹といい、この店の人たちは、この異形をものともしないらしい。だが、やはり真正面から見られるのは怖かった。
母子の恐怖と嫌悪に染まった目線が頭から離れないのだ。まるで、化け物を見るような目付きで、紅葉を見ていた。……いや、強ちそれは間違ってもいないのかもしれない。カーブミラーに映った顔。あれは紅葉自身にも、人のものとは思えなかった。眼はギラギラと光り、獣染みていて、まるで飢えた野生動物のような……。母子の反応も無理もない。
もしかして、私は一生あんな目で見られ続けるのだろうか。そう思ったら、再び目眩がしてきた。
母は、夏帆は、どう思うだろう。学校の皆はどう思うだろう。いやこんな状態で学校になどいけるのだろうか。幾分か静まっていた音が再び溢れ出してくる。鼓膜を音が襲い、再三頭痛がやってきた。煩い、痛い、ムカムカする。動悸が早まり、酸っぱい胃液が喉の奥から込み上げてきて、紅葉は慌てて口を抑えた。
朦朧としていた紅葉を、現実に引き戻したのは、紬の声だった。
「力を怖れるな。呑み込まれるぞ」
ハッと顔を上げると、紬は立ち上がっていた。
「少し待ってなさい」
そう言い残してどこかに去る。そうして戻ってきた時には、カップを二つを載せた盆を持っていた。
「どうぞ」
クマが描かれた方のマグカップを紅葉の前に置き、隣に腰掛ける。 そしてトントンと紅葉の背中をさすり出した。その手つきが思いの外優しくて、ふっと気が緩む。気付いたら、ぽたりと膝に雫が垂れていた。それを皮切りに制御の効かない涙が次々と溢れてくる。
「ご、ごめんなさい」
まるで、これでは赤子のようだ。慌てて嗚咽を飲み込もうとしたが、次々と喉の奥に熱い塊が込み上げてくる。ここ一週間溜まっていたものが、一気に溢れてきたようだった。
「気にするな。泣きたい時は泣いたらいいさ」
紬がその言葉に、更に涙が止まらなくなる。情けないとは思っても、どうしようもなかった。
そうして一頻り泣くと、ようやく涙が引っ込んできた。手渡されたティッシュで鼻をかみ、薦められてマグカップを手に取る。カップの中では淡緑の透き通った液体が湯気をたてていた。一口飲んで、覚えのある味にピンときた。ほんの少し甘酸っぱい、素朴な味。
「カモミール……?」
「ほう、よく知ってるな」
紬は少し驚いたような顔をした。
「お祖母ちゃんが、昔よく作ってくれて……」
紅葉の父方の祖母は千葉の田舎、下総の方に住んでいて、庭には花や草がたくさんあった。
――子供なのにハーブが好きなんて、紅葉は変わってるねぇ。
紅葉が遊びに行くと、祖母はそう笑いながらカモミールを入れてくれたのだ。それから、カモミールにはリラックス効果があって腹痛にも効くのだとも、教えてくれた。
祖母は物識りだった。紅葉はそれを聞くのが好きで、よく彼女の家に遊びに行ってた。……でも、それももう叶わない。祖母は去年、病で死んでしまったのだ。紅葉が受験で、ろくに見舞いもいけなかった間に、あっさりと。罪悪感でしゅんとしていると、紬の声が降ってきた。
「大分戻ったな」
「へ……?」
戻ったって、何が戻ったのだろう。首を傾げる紅葉に、紬は無言で微笑んで折り畳みの鏡を手渡した。
「あ……!」
そこには、見慣れたいつもの自分の顔があった。ホッと安堵の溜め息をつく。そう言えば、あれだけ煩かった音も大分ましになっていた。
「恐怖はバベルの暴走を招く。力に傲るな、されど恐れるな、だ」
「ばべる……?」
聞きなれない単語。バベルの塔のバベルだろうか。
「まったく、壱矢の奴もちっとぐらい説明してやったらいいのにな」
首を傾げる紅葉を見て、紬は溜め息をついた。
「あの、ばべるって何ですか……?」
すると、紬は徐に立ち上がり、部屋の隅にある物置棚に歩み寄った。
「バベルとは異能。要するに」
そう言って、その上に置いてあった新聞紙の束を掴む。
「こう言うものだ」
すると、その新聞紙はパチパチと火花を帯だした。そして燃え始めたかと思うと、呆気にとられる紅葉を他所にあっという間に灰と化してしまった。
「す、凄い……。熱く、ないんですか…?」
もろに炎に手を突っ込んでいた。普通なら炎が燃え広がって焼身自殺だ。予想外の質問に紬は目を丸くしてカラカラと笑った。
「異能者はある程度、自分の力に耐性を持ってるもんなんだよ。あれぐらい平気さ」
そして、手に着いた灰をゴミ箱で祓い、ソファに座り直すと、結論付けた。
「異能とは、ずばり現代の科学では証明出来ない超常現象。超能力、とでも言ったらわかりやすいかな」
「へ?超能力……?」
予想外の単語に紅葉は目を丸くした。
「超能力って……あれですか?スプーン曲げ……サイコキネシスとか、タイムスリップとか?」
すると紬は夢があって結構、などと笑った。
「時空間を操る異能者など、私は会ったことないけどね。まぁ今の時代、いつ現れても可笑しくないかもな」
「はぁ」
話についていけず、とりあえず曖昧に頷いておく。紬は自分用に持ってきたお茶を一口飲んで、説明した。
「異能というのは基本遺伝なんだが、最近は突然変異も多いようでな。トンデモ能力者が増えてるとも言うし。人類の進化だなんだとほざく輩もいるが、実際どうなんだかね」
「???」
ますます分からない。紅葉の理解力が足りないのだろうか。頭にクエスチョンマークを浮かべる紅葉に、紬は「すまんな。話が反れた」と話題を戻した。
「とりあえず、貴女のそれも恐らく異能だ。何の力かは分からんが多分、変化系の何かだろう」
「バベル…」
紅葉はテーブルに置かれた鏡を見て、呟いた。異能、超能力。駄目だ、頭が付いていかない。認識と認知は別物なのだ。
紬は「いずれ分かるさ」と笑って
「ところで…異能のこと、今まで何も知らなかったのか?」
「はい……ていうか、今までこんなこと一度もなくって。ついこの間から、変な違和感があって…」
紅葉は己の掌を見て呟き、ここ十日弱のことを思い出した。
「一週間ぐらい前に車に轢かれかけたんです。それ自体は何ともなかったんですけど……でも、そしたらそれ以来何か耳が凄い良くなったみたいで。色んな音が聞こえて頭が割れそうで……それで今日気晴らしに外に出たら、目が真っ赤になってて……」
そしてあの青年に連れられて、ここに辿り着いたのだ。紅葉の話を聞き終えると、紬は納得したような顔をした。
「元から持っていた異能の因子が、命の危機で目覚めた……まぁ有り得なくもないか」
「因子、ですか?」
紬は微笑んで、分かりやすいように言い換えた。
「異能の発現は大抵幼年期だが、たまにいるんだよ。貴女みたいな覚醒者が。火事場の馬鹿力とか良く言うだろう?大抵はあれだ」
火事場の馬鹿力。紅葉にとって、その火事場があの事故で、馬鹿力がこの変な体質、といったとこだろうか。
「大変だったろう。貴女みたいな体質系の異能は特に、肉体にもろに出るからな。よく頑張ったな」
紬はマグカップを置くと、息をついた。当初の印象に反して、紬は優しい笑みを浮かべていた。
「い、いえ、そんなこと」
紅葉は慌てて頭を振り、今までの話を反芻してずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「あの…紬さんも、芹さんも、それからあの壱矢って人も……その、異能者ってやつなんですか?」
芹の「お仲間」という台詞を思い出す。その台詞からするに、恐らくそうなのだろう。案の定、紬はあぁ、と頷いた。
「この店には異能者が良く来るからな。……今の科学の世じゃ異能なんてろくな扱いを受けない。奇人扱いか、解剖台送りか。何にせよ、異能者には生辛い時代だ。でもだからこそ、持ちつ持たれつ。傲らず、目立たず静かに生きていけば……そうすればこんな力も、いつかは世に受け入れてもらえるかもしれない」
紬はどこか遠くを見つめながら、そんなことを言った。それから立ち上がると、紅葉に微笑みかけた。
「まぁまた来るといい。今日はもう遅いし、とりあえず帰りなさい。親御さんも心配しているだろう」
言われて外を見ると、西の方に沈みかけている夕陽が僅かに見えた。空にはカラスが跋扈している。最近日が伸びてきたといえ、どうやらまだまだ夏は遠いらしい。
紅葉は紬に見送られて、裏口から外に出た。商店街では街路灯がポツポツと付き始めていた。
「バベル、かぁ……」
帰り道、長く伸びた影を見ながら紅葉はぽつりと呟いた。
正直、超能力だとか異能だとか、未だ頭が混乱している。そんなもの、ずっとお伽話の世界のものかと思っていた。現実に存在したなんて思いもしなかった。十五年目の驚きの真実だ。だが、他でもない紅葉自身が、その異能とやらの存在を示しているあたり、受け入れざるを得ないのかもしれない。
そっと目を閉じる。視覚がなくなると、余計に音が聞こえてきた。どこかの家の夕飯を尋ねる子供の声だとか、どこかの老夫婦の会話だとか、出所もわからぬカサカサした音だとか。
だが、紬の言う通り恐れがなくなったせいか、溢れかえるような音はなくなり、頭痛も幾分ましになってきた。
――傲らず、目立たず静かに生きていけば……そうすればこんな力も、いつかは世に受け入れてもらえるかもしれない
ふと、先程の紬の台詞を思い出す。それと同時に、公園での母子の態度も。あれが変わる日も、いずれ来るのだろうか。
「なっちゃったもんは仕方がないもんね……」
謎の体質……ではなく異能。こうなってしまった以上受け入れるしかないのだろう。夏帆には「能天気」などと称されるが、昔から渡辺紅葉の長所は、切り替えの早さなのだ。
紅葉は目を開けて、両頬を叩いた。パンという軽快な音が住宅街に響く。久々に、気持ちの良い音を聞いた気がした。
二章 思い事、軋み事
「あんた、顔色大分戻ったね」
入学式から約三週間。昼間休み、唐揚げをもぐもぐやりながら夏帆は言った。あんた、というのは目の前でヨモギパンを頬張る紅葉のことである。
「そ、そうかな?ヴッ……!」
虚をつかれて、紅葉はかじったばかりのヨモギパンをうっかり飲み込んでしまった。ポサポサしたパンが器官に入り、息が詰まる。ゲホゲホと噎せていると、水筒を差し出された。
「ほらお茶飲んで」
「ゲホッ……!ありがど、ナヅぢゃん」
咳の合間から礼を述べて、水筒を受けとる。麦茶を飲んで何度か咳払いし、無事パンかすは撃退された。ふぅと息をついていると、夏帆の呆れ声が飛んできた。
「あんたねぇ…もうちょっとゆっくり食べなさいよ。パンは逃げないんだから」
彼女はそう言ってから、まぁと付け足した。
「そんぐらいの方が良いのかもね。紅葉、この間まで酷かったじゃん。顔真っ青だし、ろくに食べないしさ、不治の病にでも罹ったのかと思ったよ」
「そんなに?」
「うん、ムンクの叫びみたいになってた」
「……マジですか」
ムンクの叫びとは、これまた酷い喩えだ。 確かに二週間程前は、紅葉自身でさえも、このまま死ぬのではないか、とも思いかけたが。
でも最近は鋭すぎる聴覚にも慣れてきたし、あれ以来あの謎の変化が起こるようなこともなかった。一先ずホッとしている。
「にしても何だったの?ずっと頭痛いとか、吐きそうとか言ってたけど。悪いウイルスにやられた?それとも本当に不治の病?」
「うーん、何か風邪こじらせちゃったみたいでさ……」
ハハハ、と紅葉は頭を掻いて笑った。
まさか、異能だとかいうよく分からない力を持ってしまったらしい……とは言える訳がない。結局あのことは母にも話せなかった。話した所でどうにかなるとは思えないし、それ以上に反応が怖かったのだ。大切な人だからこそ、余計に。
(でも、何だか寂しいな……)
思えば、今までに夏帆に隠し事をしたことなどそうなかった。
紅葉にとって夏帆は、居るのが当たり前の存在で、建前だとか損得だとか、そんなもの抜きに何でも言える相手だった。し、夏帆も何やかんやで紅葉に色々話してくれた。対して力にはなれていないかもしれないが、信頼されているという自負はある。それだけに、隠し立てをしているという事実が胸に痛い。今まで話せないことなどなかったのに。
俯く紅葉を見て何かを思ったのか、夏帆は咳払いをして口早に言った。
「まぁ紅葉が元気になって良かったよ。あんたがしゅんとしてると調子狂うし、何かこっちまでしんどくなってくるしさ」
夏帆は照れた時や本音を言う時、早口になる癖がある。それに気付いて紅葉は嬉しくなった。
「グヘヘ、ナツちゃん優しいなー」
「何よその笑い方……気持ち悪い」
「えー結構本気で傷つく……」
キモい、ではなく気持ち悪いと言う辺りが、余計に。
膨らんでいる紅葉の方頬を潰して、夏帆は「そういえば」と言った。
「紅葉、バイト始めたんだって?オムライス屋とか言ってたっけ?」
「う、うん。お小遣い稼ごっかなって思って」
そう、実はあれから数日後、再びあの店を訪れたのである。その時、紬に聞かれたのだ。ここでバイトをしてみないか、と。
――バイト、ですか?
――あぁ。貴女も異能のことを少しは知っていた方がいいと思うんだ。それに丁度人手が欲しかった所でな。壱矢の奴は役に立たんし。どうだ?良かったらやってみないかい?
紬はそんなことを言った。
確かに言われてみれば、その通りである。紅葉は異能がどういうものなのかも、そして自分の異能が一体どんなものなのかさえも、今一分かっていなかった。それに高校生になったことだし、新しいことを初めて見るのもいいかもしれない……そう思って、紬の申し出を受けたのである。
「全く酷いね、あたしの部活の誘い断っといてバイトとは」
「ご、ごめんて。でもうちのバド部キツそうなんだもん……あ、でも部活には一応入ったよ」
「え、そうなの?何部?」
夏帆は初耳だと言わんばかりに目を丸くした。何だか言いにくい。
「しゃ、写真部……たまたま部室の前通り過ぎたらお菓子くれて」
すると案の定、夏帆は呆れ顔になった。
「単純過ぎっしょ。ぶーちゃんになるぞぉ紅葉。あんたの場合、食べ物屋でバイトってのも絶対ヤバイね」
ぶーちゃんとは言うまでもなく、豚のことである。
「な、ならないもん!毎日縄跳びすることにしたし」
「どうせ三日坊主でしょ」
「…そんなことないもん」
というか、そうであって欲しい。紅葉は一昨日新調した縄跳びを思い出して、改めて決意を固めた。
◆
途中、渋谷駅で乗り換えて、電車に揺られること約三十分。それが紅葉の通学ルートである。
初めの頃は、改札一つを通るのにも緊張していたのに(渋谷駅なんかは人が多いから改札で突っかかるともの凄く嫌な顔をされるのだ)、今ではもう慣れっこだ。というか新鮮味がなくなってきて些かつまらない。
これなら母の言う通り、自転車で行ける学校にすれば良かったと少しだ後悔した。紅葉の志望理由は極めて単純で、電車通学で、制服がそこそこ可愛くて、少し頑張れば入れる程度の所、だった。そこで夏帆が目黒に行くと言うし、それでいいやと決定したのである。母の言う通り、もう少し考えるべきだったのかもしれない。
そんなことを考えながら改札を通って駅を出ると、前に見覚えのある人影を見つけた。学ランを着ているが間違いないない。
「い、ち、や、さん!」
ととっと距離を詰めて、後ろから名を呼ぶと、彼はハッと振り返った。その瞬間、バチンと何か光ったような気がしたのは―――気のせいだろうか。
「…何だ、お前か」
紅葉を認めると、彼は拍子抜けと言わんばかりの顔をした。何と失敬な。少しだけカチンとくる。
オムライス屋『ΨLIGAREΨ』でバイトを初めて約一週間。しかし未だにあれ以来、紅葉は壱矢と話たことがなかった。そういえば、あの時の礼も言えてない。紅葉はぺこりと頭を下げた。
「あの、この間はありがとうございました。あの時壱矢さんが声かけてくれなかったら、私行き倒れてたかも」
「あぁ別に…」
が、返ってきたのは何とも言えぬ素っ気ない反応。紅葉はエヘンと咳払いを気をすると、気を取り直して話しかけた。
「学校帰りですか?」
「あぁ」
「どこら辺なんですか?高校」
「品川の方」
品川と言われても今一ピンと来ない。確か、芹が彼は高二だと言っていたが、どこの高校なのだろう。気にはなったが、流石にそこまで聞きはしなかった。
「品川って言ったらあれですよね、水族館。行ったことあります?イルカとかウーパールーパーとか、めっちゃ可愛いんですよ」
子供の頃、紅葉は家族で水族館に行ったことがある。その時にメキシコサンショウウオこと、ウーパールーパーを見たのだが、あれは何とも言えない良さがあった。あのチョコンと生えている足が凄くクセになるのだ。いとらうたげなり。
が、何故か夏帆を初め、他人からの評判はあまり良くない。壱矢も案の定、不審そうに紅葉を見てきた。
「…可愛いのか、ウーパールーパーって」
「可愛いですよ、あのアンバランスが何とも言えなくて。あの短い足とか、絶妙なスケスケ具合とか」
「ふーん」
壱矢は曖昧に相槌を打って、ウーパールーパーについて熱弁しようとする紅葉に意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「…ウーパールーパーって共食いするらしいぜ。それに変態するとすんげえキモい」
「え……」
共食い。その言葉に紅葉は呆気にとられて壱矢を見た。
「た、食べちゃうんですか?仲間なのに?何で?」
「んなこと知るか」
壱矢はむべなく、紅葉の問いを一蹴する。二重の意味でショックだ。
初めて会った時から薄々思ってはいたが、壱矢はすげないというか、愛想が無いというか。もしかして嫌われているのだろうか。この短期間で何かした覚えはないが、無意識の悪意というのが一番怖いのだと、誰かもいっていた気がする。少しブルーな気持ちになって、歩いていると公園の前を通りかかった。そして、その茂みの中で、五六人のの子供たちがゴソゴソやっていた。中でも、おさげの女の子は嗚咽を上げて泣き、もう一人の少年も泣きべそをかいている。
「どうしたんでしょう、あれ」
「……」
何だか不穏な雰囲気が漂っている。紅葉は彼らに近づき声をかけた。
「大丈夫?何かあったんですか?」
すると子供たちはちらりと顔を見合わせた。おさげの女の子はケージを抱えたまま、相変わらずすすり泣いている。暫くの間の後、ポニーテールの少女がおずおずと言った。
「大輝くんが、雪ちゃんのハムスター逃がしちゃったんだ」
雪ちゃん、というのは恐らく泣いている少女のことだ。が、つり目の少年は泣きべそをかいて目を真っ赤にしながらも、それに反論した。
「に、逃げるとは思わなかったんだよっ!ちょっと揺らしただけで入り口簡単に開くしよ!だ、だいたい公園にハムスター持ってくるのが悪いんだよっ!」
どうやら彼が『大輝君』らしい。彼の言葉を切っ掛けに、子供たちは男女に分かれて言い争いを始めてしまった。
「何開き直ってんのよ!謝りなさいよ!」
「大輝はもう謝っただろ!雪もいつまでも泣いてんじゃねぇよ!」
「泣いて当たり前じゃない!それにあれは謝ったうちに入りませーん!」
「はぁ意味わかんね!だいたい雪の奴、いっつもいい子ぶりやがって!しょっちゅう先生にチクるしぃ!チクリ魔かよ」
「そうだそうだー!ハムスター飼い始めた途端、公園に持ってきてさぁ!どうせ自慢したかったんだろ!」
「何言いがかりつけてんのよ!見つけなかったら、先生とお母さんに言うからね!弁償だかんね!」
論争は中々止む気配はない。それどころか被害者の少女雪に続いて、張本人の大輝という少年まで泣き出してしまった。
紅葉は戸惑いながらも、子供立ちの和に割って入った。
「あ、あのー」
言い争いをしてた子供たちの目線が一斉に紅葉の方に向く。
「要するに、そのハムスターが見つかればいいんですよね?」
「まぁそうだけど……いくら探しても見つかんないないし……小さいから、居場所も全然分からないし……」
始めに口を開いた少女が、ちらりとケースを抱えて蹲る雪を見て言い淀んだ。紅葉は彼女に微笑みかけて、ドンと胸を張った。
「それなら、このお姉ちゃんにお任せあれ!ハムスター探し、私が協力するよ」
「え?ほんとに……!?」
子供たちが不安と期待が入り交じった目で紅葉を見上げる。彼らを安心させるために、紅葉は大きく頷いた。
「うん。お姉ちゃん、ちょっと耳に自信あるから」
「お耳?」
「イエッサー」
紅葉は大きく深呼吸して、目を伏せた。感覚を研ぎ澄まして音を探る。
ここ数週間で実感したことだが、数ある音の中でも一番よく聞こえるのは人や動物の足音など、生き物が動き回る音。当初は、虫の羽音なんかが煩くて気が狂いそうになったが、今回ばかりはそれが役に立つ。
ハムスターが這い回るような音は一番聞き取りやすいはず―――
「うっ……!」
と、集中しかけたところで俄に後ろから引っ張られた。
「だ、誰!?」
ぎょっと振り返ると、立っていたのは壱矢だった。
「何ですか!いきなり……」
心臓が止まるかと思った。紅葉は口を尖らせて抗議したが、彼は無言で傍らに止まっていた車を指差した。正確にはそのドアミラーを。
「じぇ……!」
そこに写ったのは、若干赤くなり初めている己の眼。慌てて目をこすると、何とか戻った。制御は思ったより難しいようだ。
「あ、ありがとうございます……」
紅葉がおずおずと礼を述べると、彼は鼻を鳴らした。
「ほっとけよ、あんなガキ。異能使うつもりなのかもしんねぇけど、見破られでも厄介だ」
「……でも、泣いてるじゃないですか」
紅葉はちらりと子供たちを見た。雪と大樹を除いた子供たちは不思議そうにこちらを見ている。幸い、紅葉の異変は気づかれなかったようだ。紅葉は自分の掌を見つめながら「それに」と口を開いた。
「私、決めたんです。この力は人のために使おうって」
未だによく分からないこの力。正直、何の役に立つのかは分からないし、まだ完全には受け入れられない。でも持ってしまったからには受け入れるしかない。受け入れて、人のために使っていけば――
「そうすれば、きっと……いつか皆に異能の存在も受け入れてもらえるかもしれない」
紬の台詞を思い出しながら、紅葉は呟いた。彼女の受け売りだが、紅葉もそう信じたかった。
「と、いうわけで、良かったら壱矢さんも手伝ってくれませんか?」
顔を上げて壱矢を見ると、彼は困惑とも侮蔑ともとれぬ複雑な表情をしていた。
「……アホくせ」
暫くの後、彼はそうポツリと呟いた。
「どうせ人間だろ。奇人扱いされんのが関の山だぜ?」
今度は明らかに侮蔑を含んだ声音。たかが人間。そう言わんとばかりの口調だった。
「…貴方は人間じゃないとでも?」
我知らず、紅葉は彼を睨み付けていた。
「さぁな。そんなこと俺も知らねぇよ」
「……」
不穏な空気を察したのか、ポニーテールの少女が心配そうに声をかけてきた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「あ……う、うん。大丈夫だよ」
安心させようと笑いかけたが、上手く笑えただろうか。子供たちたちの輪の中心では、ハムスターの飼い主の少女に触発されたのか、大輝まですっかり泣きじゃくっていた。他の子供たちが、おろおろして彼らを慰めている。
壱矢はしゃくりあげる大輝を、目を細めて見下ろし鼻を鳴らした。
「だいたいさぁ、お前もいつまで泣いてんじゃねぇよ。自分のケツぐらい自分で拭け」
「ちょっと壱矢さん……!」
少年が一瞬びくりと肩を震わせ、泣くのを止める。が、すぐさま火がついたように再び泣き出した。 それもさっきより、ずっと激しく。気が付いた時には紅葉は壱矢の頬を叩いていた。
パァン!
と鋭い音が響く。仕舞った、とは思ったが怒りの方が勝っていた。
「貴方って最低……!こんな小さい子相手に、そこまで言う必要ないでしょう……!」
興奮と滅多になく声を荒げたので息が切れる。紅葉自身も、ここまで大声が出るとは思わなかった。
と、その刹那バチッと当たりに火花が飛んだ。比喩ではなく、本当に。
「ってぇなぁ…」
彼がゆっくりと顔を上げる。
彼の眼が、不吉な青い光を帯びた――ような気がした。思わず息を飲んで一歩下がる。が、それは本当に一瞬で、次の瞬間には彼は皮肉の混じった笑みを浮かべていた。
「人助けなら一人でやってろ。お人好しが。俺は帰るぜ。帰って漫画読む」
そして、そう吐き捨てると踵を返して公園を出ていってしまった。
「お、お姉ちゃん」
呆然とその後ろ姿を見ていると、少女が遠慮がちに声をかけてきた。
「大丈夫……?」
「…大丈夫だよ、ありがと」
紅葉は我に返って、ポンポンと少女の頭を撫でた。あんな風に本気で人を殴ったのも生まれて初めてだ。あんな衝動が自分の中にあったとは知らなかった。まだ、心臓がバクバク言っている。
「探そっか、ハムスター」
紅葉は気を取り直して、子供たちに向き直った。子供たちは呆気にとられたような顔をしつつも、頷いてくれた。
結局、ハムスターは公園の棲みにある木の根元をぐるぐるしていた。しかし見つけたはいいが、相手は四足動物。足の数はこちらの二倍で、その分すばしっこい。
紅葉と子供たちがそっと忍び寄り、飛び付いて捕まえるのを何度か繰り返して、ようやく捕獲に成功した。
そしてハムスターが無事ホームインした時には、時計の針は既に六時を回っていた。思いの外、時間が経っていたようだ。が、子供たちの笑顔が見れたし良しとしよう。周りの後押しもあって、大輝とハムスターの飼い主の雪も何とか和解の握手を交わしてくれた。
「はぁ……」
帰り道、子供の一人にもらった飴玉をコロコロやりながら、紅葉は溜め息をついた。
「やっちゃった……」
平手をかました掌は未だにじんじんと痺れている。ビンタをすると案外自分も痛いものらしい、と生まれて初めて知った。
謝るべきだろうか。だが加害者とはいえ、あんな幼い子供にあそこまで言うなんて信じられない。だが手を出したのは自分だし……。
悶々と悩んでいると、彼の声が蘇った。
――どうせ人間だろ。
所詮人間、たかが人間、人間風情。そういう口調だった。普通の人間と同じように学校に行って、暮らして、生きているのに。人の世で生きているのに。
それとも人智を超えた力を持つ異能者にとっては、普通の人間などそんなものなのだろうか?
◆
翌日、少し憂鬱な心持ちで紅葉はオムライス屋『Ψ LIGARE Ψ』に足を運んでいた。今日はシフトが入っているから行かなければならないのだが、どうにも気分が乗らない。別に仕事が嫌な訳ではない。むしろ接客は好きだ。今まで話す機会がなかったような人と話すのは楽しいし、勉強になる。食事というのは皆が共有出来て笑顔になれるものだ。
憂鬱な理由は言うまでもなく、昨日の公園での一件にあった。壱矢は今日来ているだろうか。来ていたとしたら、もの凄く気まずい。
謝らなくてはと思うものの、中々踏ん切りがつかないのだ。
(そりゃあ、手上げたのは私だけど……)
でも、あんな小さな子供相手にあんな暴言。許すまじきことなりけり、だ。
(それに……)
――どうせ人間だろ。
人間を見下したようなあの台詞。それが紅葉の中で、ずっとモヤモヤと燻っていた。
異能だか何だか知らないが、少し人より変わった力を持ってるからと言って、人を見下して良い道理があるのか。ついこの間まで真人間だった紅葉からすれば、そんなこと考えられない。というか、異能者と人を分けるなどなど思いもしなかった。
「失礼しまーす……」
恐る恐る裏口のドアを開けて、店のスタッフルームに入る。するとそこには壱矢……ではなく、彼と同じ年頃の見知らぬ青年が居た。
一目見て、中々整った顔立ちだな、と紅葉はぼんやりと思った。黒目がちで優しそうな顔つき。所謂イケメンというやつだ。恐らく染めているのだろう。頭は明るい茶色で自然な癖っ毛がついていた。
青年は店服のネクタイを閉めていたが、紅葉の姿を認めると微笑んだ。爽やかで感じの良い笑顔だった。
「こ、こんにちは」
格好からして、ここの店員だろう。とりあえず、ぺこりと頭を下げる。するとその人は笑って手を振った。
「そんなに固くならなんでもいいよー。紅葉ちゃんでしょ?」
「そうですけど……」
何故、名前を知っているのだろう。首を傾げる紅葉に、青年は説明した。
「いやぁ新しい子雇ったって紬さんが言ってたからさ、ずっと気になってて。壱矢も芹さんも紅葉ちゃんのこと話してんのに、俺だけ分かんなくて寂しいし」
僅かに訛りのある口調で彼は続けた。
「あ、俺は要ね。小崎要。好きに呼んでくれていいよ」
「じゃあ要さんで……」
見たところ紅葉よりは年上そうだ。そう思って言ったのだが、彼はおぉと目を輝かせた。
「良いね、要さんって。何か新鮮な感じ。紅葉ちゃんはええ子だねぇ。女の子ーって感じだし、可愛いなぁ」
「え、えーっと?ありがとう、ございます?」
急に慣れないことを言われて反応に困る。戸惑う紅葉をよそに彼はペラペラと続けた。
「紬さんはおっかないし、芹さんは冷たいし、壱矢はムサイしさ。つくづくこの店って女の子が足りないなーって俺思ってたんだよね。やっぱり接客業って華が大事じゃん?」
「そうなんですか、ね……?」
分かるような、分からないような。紅葉は曖昧に相槌を打ったが、彼は「そだよー」と頷いた。
「その点紅葉ちゃんは可愛いし華が……」
と、俄にどこからか何か茶色いものが飛んできて、要の後頭部に直撃した。彼はウゴッ、と奇妙な呻き声を上げて蹲った。
「悪かったねぇ、華がなくて」
冷ややかな声と共に、店へと続くドアから現れたのは芹だった。
「ちなみに私が冷たいのは要君にだけね。基本は親切、思いやりをモットーに生きてますから」
彼女は要に直撃したスリッパを回収すると、蹲る要を睨み付けた。
「ちょおっとイケメンだからって調子乗って。そんな歯の浮くような台詞よくペラペラ言えるねぇ、要君は。将来ホストにでもなったら?」
容赦ない毒舌の嵐を浴びせて満足したのか、芹はふんと鼻を鳴らす。それから紅葉に向きなおるとチッチッと指を振った。
「紅葉ちゃん騙されないで。要君はこーんな爽やかな顔して、すごーく女癖悪いの。イケメンの皮被ったナルシスト。女の敵よ。見た目に騙されちゃダメね」
「なんか……そうみたいですね……」
確かにそんな気がする。が、同意しかけた紅葉を遮るように声が飛んできた。
「そんないことないね」
見ると要が頭を擦りながら立ち上がっていた。
「俺は器用に恋愛してるだけだ。女の子が俺の魅力に釣られてやってくるんだよ。ちょうど花に引寄せられる蝶のように」
「わー出たよ、ナルシスト。死肉にたかるハイエナの間違いじゃないの?」
芹は慣れた様子で要をあしらう。どうやらこの二人は言い争っているのものの、結構仲が良いらしい、と紅葉は思った。二人の間には、それなりの時間のよって培われた打ち解けた空気が培われていた。
芹はロッカーに向かうとエプロンを外した。そして高く結っていた髪をさっとほどくと、素早く横に結び直した。その間約四秒弱。まさしく神業的スピード。
「やっぱり芹さん器用ですね」
それに紅葉が目を丸くすると、芹はフフフと笑った。
「異能上ね、結構練習したのよ。髪型変える度に美容院行きじゃ面倒臭いから」
「確かに」
紅葉はつられて笑いつつ、二三日前のことを思い出した。その時も今と同じように芹の神速的髪結びを見て、紅葉は呆気にとられていた。すると彼女は面白そうに笑って言ったのだ。
ーー私の異能は『髪』でね。五秒以上下ろしてると髪がズンズン伸びてくるの。ウケるでしょ?まぁ特に役には立たないけどね。強いて言えば、将来ハゲる心配がないってとこかしら。髪結わくのが大変なだけで、ほとんど良いことないのよ。
ちなみに今では本気を出せば三秒で結び直せるらしい。芹はコックコート脱いでカーディガンを羽織ると、要に釘を刺した。
「とにかく要君、紅葉ちゃんに手出したらダメよ。もし手出したら、私が髪の毛ぐるぐる巻きの刑に処す」
「手出すなんて人聞き悪いなぁ。ね、紅葉ちゃん?」
「えーと、どうでしょう……?」
「ほーらそうやってすぐ困らせる。私の可愛い後輩を汚さないで」
芹は要から引き離すように紅葉を抱き寄せた。急な衝撃に思わず「うぐっ」と呻く。芹は紅葉の頭をポンポンとながら続けた。
「だいたい要君は異能からしてたち悪いのよ。危険云々以上に嫌らしい」
「何だよ、芹さん。黙って聞いてれば人の異能を汚物みたいに。そうやって人の個性にケチつけるなんて酷いね、失礼だね、冒涜だね。俺は自分の異能、気に入ってますから」
要はふんと鼻を鳴らす。どうやらすこぶる曰く付きの異能らしい。
「あの、要さんの異能って何なんですか?」
紅葉はやっとのことで芹の腕の中から顔を出して、尋ねてみた。すると芹はここぞとばかりに言った。
「要君の異能は『フェロモン』よ。人を魅了するオーラって言うの?それを出せるの。ま、言わば催眠術。イケメンだけに余計にたち悪いのよねぇ」
「たち悪くなんかないさ。めっちゃ便利だよ。お金忘れても購買のおばちゃんにまけてもらえるし」
要は得意気な顔をして胸を張る。が、芹は深々と溜め息をついた。
「そうやって、あっちこっちで異能乱用して。何かあったらどうするのよ。紬さんも言ってるでしょ。異能に傲るなって」
力に傲るな、されど恐れるな。その台詞は紅葉も聞いたことがあった。
しかし要は不満そうに反論した。
「良いだろ、ちょっとぐらい。異能は才能。与えられた才能を使うのは当たり前。スポーツ選手も芸能人もみーんなやってる。イケメン万歳フェロモン万々歳」
彼は節をつけてそう言って、それにと続けた。
「俺の異能はそこまでもたないし。対象もせいぜい二三人だし、効果も十数分。大事になんて至らないさ」
「はいはい、わかりましたよ。お調子者め」
要の言い分を芹は呆れた様子で受け流す。そしてロッカーからバックを出すと、肩にかけた。
「それじゃあね、お二人さん。私は用事があるからこれで上がるけど、さっさと着替えてバイト行きなされ。紬さんが待ってるよ」
「ほいほい」「さようなら」
要と紅葉が手を振ると、芹はパンプスを履いて裏口から出ていった。
そして彼女の言う通り、直に店の方から紬の声が飛んできて二人は急いで店員服に着替えた。
バイトというの思いの外難しい。これが『Ψ LIGARE Ψ』で働きだして約二週間、生まれて初めての仕事で紅葉が感じたことである。
紅葉の担当はホール、つまり接客で、主に注文を取ったり、料理を運んだり、その他にも清掃、客の誘導、精算云々をする。元来人と話すのは好きな質だが、メニューを覚えるのが中々大変なのだ。
オムライス屋といえど、デミグラスにホワイトソース、カニクリームと色々種類があるし、ライスの味もバターやら和風やらあって地味に多い。それにサラダやデザートも加えるから、とても一朝一夕では覚えきれない。最近漸く慣れてきたところだが、注文をとるのは未だ緊張する。紬曰く大切なのは『smile&consideration』要するに笑顔と気遣いの心を持って接客を、ということらしいが、前者はともかく後者は中々難しい。自分なりに気をつけているつもりでも、以外と細かい所に気が回ってなかったりするのだ。
子連れの客には子供用の椅子とスプーンを、だとかお冷やの減りには気をつける、だとかぼんやりしてると気付かないことが結構ある。特に夜は忙しいから大変だ。だがぼんやりしがちな紅葉にとっては良い社会勉強にはなるし、賄いのオムライスは美味しい。紅葉はこの新しい環境を結構気に入っていた。
本日も最後の清掃を終えて店服から制服に着替え、帰路につこうとしていると、後ろから声をかけられた。
「もーみじちゃん」
一瞬びくっとして振り向くと、要が自転車を押しながらヒラヒラと手を降っていた。
「一緒に帰ろ」
「えーとでも要さん自転車、ですよね?」
茶色の車体をちらりと見て言ったが、彼はあっさりと首を振った。
「いーのいーの。女の子一人じゃ夜道は危ないでしょ。明るい通りまで送ってくよ」
要は自転車に跨がって素早く紅葉の元まで来ると、車道側の隣に並んだ。そして自転車を降りて紅葉に尋ねてきた。
「どう?仕事慣れてきた?」
「まぁ一応……でも今日もオーダーミスしちゃったし」
セットの注文だったのに、うっかり単品にしてしまったのだ。夕方、混む時間だとたまにやってしまう。
「しゃーないって、慣れないうちはそんなもんだよ」
要はケラケラと笑って、それにと付け足した。
「紅葉ちゃんは可愛いから大丈夫」
「……騙されませんよ、私」
『紅葉ちゃん騙されないで。要君はこーんな爽やかな顔して、すごーく女癖悪いの』
芹の言葉を思い出しして、要を軽く睨むと彼は一瞬呆気にとられたような顔をした。
「意外と手厳しいねぇ紅葉ちゃん」
「だって芹さん言ってましたもん」
紅葉がふんと顔を背けると、要は何故か噴き出した。
「分かって、もう言わないよ。仲良くしましょう紅葉ちゃん」
「本当ですか?」
「ほんとほんと」
要が至極真面目な顔で頷いたので、紅葉はまぁいいかと表情を和らげた。確かに芹はあぁ言っていたが、何やかんやで要と仲が良さそうだったし、悪い人ではなさそうだ。
夜道を歩きながら話してるうちに、要のことが少し分かった。年は高二でこの近くの高校に通っているらしい。
「紅葉ちゃんよりは一つ先輩。壱矢とはタメね」
彼はカラカラと自転車を押しながら言った。
「あぁ壱矢さん……」
壱矢。その名を聞いて忘れかけていた先日の一件が甦ってきた。我知らず苦い顔になっていたのだろう。要は不思議そうな顔をした。
「あれ?紅葉ちゃん、壱矢のこと嫌いなの?もしかして仲悪い?」
別に嫌いという訳ではない。ただーー
「だって……壱矢さん愛想悪いし無口だし、口開いたかと思えばろくなこと言わないし、小さい子に暴言吐くし……人間を……見下してるみたいなこと言うし……」
紅葉は彼への不満を尻すぼみに並べ立てて言って、深い溜め息をついた。
「まぁ悪いのは私といえば、そうなんですけど…」
言い澱む紅葉に要はどんと胸を張った。
「どれどれ、ここは一つ先輩が相談に乗ってあげよう」
「えー……」
果たしてその先輩は頼りになるのだろえか。何だか軽いノリで片付けられそうだ。
一瞬躊躇ったが、紅葉は先日の一件を話してみることにした。下校中に偶然会ったこと、公園でのこと、そして平手打ちのことも。
話を聞き終えると要は目を丸くした。
「じゃあ紅葉ちゃん、あいつにパァンってやったの?可愛い顔して意外とやるなぁ」
「あ、あの時はうっかりっていうか、ついカッとなって……」
紅葉は慌てて弁明した。が、何故か要はケラケラと笑い出した。
「いやーあいつが女の子に平手打ちされたとか、マジウケるわ」
「ちょっと笑わないで下さいよ!こっち
は真剣なのに」
「ごめんごめん。なんか想像したらツボに入って」
口を尖らす紅葉に要は頭を掻く。そうして一頻り笑って漸く笑いの波が収まっだらしい。急に真顔になって言った。
「紅葉ちゃん当分身辺気をつけた方がいいかも 」
「え!?」
それは、まさか壱矢が平手打ちの仕返しに来るということだろうか。一瞬見た彼の不吉な眼が脳裏に浮かぶ。あの時、一瞬、ほんの一瞬だがぞっとした。正直怖いと思った。
焦る紅葉見て要はケラケラと笑った。
「ま、これは冗談だけど」
「……冗談なんですか」
何だか遊ばれているような気がする。ムッとしていると、要は「ウソウソ、いやホント」などと、よく分からないことを言って咳払いをした。
「オホン……まぁあいつは色々痛い目見せられてきたみたいだからなぁ。人はあんま好きじゃないのかもね」
「痛い目?」
「そ、異能なんて世間じゃろくな扱いされないだろ」
「あ……」
ふと、初めて異能を知ったあの日、向けられた母子の目を思い出した。畏怖、恐怖、憎悪、嫌悪。それからが入り交じった目線。何にせよ、そこにあるのは負の感情だった。
「俺なんかはさ、家族全員異能者だし。異能が当たり前だったってゆーか、世間にとっての異常も日常だったからさ、普通の人間との差なんて感じたことなかったけど」
角を曲がり、遠くに見える大通りの灯りを見据えながら要は続けた。
「俺もあんま知んないけど、壱矢は結構苦労してきたみたいでさ。だからまぁ、あんまり人を良く思えないのも当然っちゃあ当然なのかもって。……それにあいつは異能が異能だからなぁ。俺や芹さんみたいな一発芸とは違うし」
「一発芸?」
「そ。異能者っつってもピンキリだろ。ちょっとした特異体質のみたいな一発芸のもあるし、それこそ人も殺せるような異能もある。壱矢の奴は電撃能力。間違いなく後者だよ。実際、紬さんと会った時もやってたみたいだし」
「殺ってた!?ひ、人をですか?」
紅葉は思わず、すっとんきょうな声を上げていた。
そんな相手に平手打ちをした自分はどうなってしまうのだろう。まさか殺されはしないだろうか。……いや、もしかしたら、するかもしれない。
「いやいや違うって。流石にあいつも人殺しはしないっしょ」
一人慌てふためく紅葉に要は苦笑した。
「喧嘩だよ、けんか。人間相手にばんばん異能使ってたみたい。で、そこを紬さんが止めに入ったってわけ」
「紬さんが?」
「そ。あの人は異能を人に向けるなって、拘るからねー。それどころか異能なんて滅多に使うもんじゃないって言うし。あんだけの力持ってんのに勿体ない。もし俺が発火能力なんて持ってたら、もっと有効活用すんのになぁ」
要は緩くなっていた制服のネクタイを引っ張りながら呟いた。
「有効活用?」
「えーと、世界征服とか、ガス代無料とか?」
「それって大分レベルが違いますよ……」
紅葉は思わず噴き出してしまった。確かにガス代がかからないのは便利そうだが、世界征服と同列となるとちょっと違う。何というか、規模が。
「そう?」
「そうですよ」
紅葉が頷くと、要は顎に手を当てて「遭難した時には便利そうだよなぁ」などと呟き出した。どうやら他の使い道を考えているらしい。
そうして暫くの後、まぁと口を開いた。
「俺は異能なんてちょっと風変わりなただの才能だって思うし、もちろん異能者だって人間だと思うけどね。実際は人間の一人や二人、捻り殺せるような異能者も少なからず居るわけでさ。そういう奴ら程、自分が人間だっていう自覚が薄くなるんだと思う。……実際にラグナロクみたいな奴らも居るしね」
「らぐなろく?」
聞き覚えのない単語。紅葉が首を傾げると、要は珍しくその柔和な表情を固くした。
「異能者は新人類だの何だの言ってる、イカれたテロリスト集団だよ。普通に生きたいなら絶対に関わらない方が良い。……あそこは人間を捨てたバケモンの巣窟だ」
そう言えば初めて会った時、紬もそんなことを言っていたような気がする。
「要さんって……意外とちゃんとしてるんですね」
紅葉は率直な心情を呟いた。当初は軽そうでいい加減な印象だったが、案外しっかり考えているらしい。少し見直したというか、印象が改まった。
すると要は不満そうに眉を寄せた。
「意外って何だよ、紅葉ちゃん。俺は普通にしっかりしてるだろ」
「えー……だって要さん、見た目とか言動とかチャラチャラしてるんですもん。芹さんもあぁ言ってたし」
「それは風評被害。俺はジェントルマンなだけさ。去るもの追わず来るもの拒まず。それでも来るものが多いのはしゃーないね。俺の魅力」
「……」
要はあっさりとナルシシズムな発言をして、呆気にとられる紅葉を尻目に更に言った。
「それに俺にとって、いかにモテるかは異能の向上と同義。言わば、俺は日々力の高みを目指してるってこと。お分かり?」
「……いえ全く」
紅葉の中の要に対する好感度メーターが再び下がる。
やっぱりナルシストだ、この人。悪い人ではなさそうだけど、度を超えすぎて最早何も言う気も起きない。
芹の言ったことがようやく分かった気がする。
これからのことを想像して紅葉は密かに溜め息をついた。
◆
とある五月晴れの日曜日。
雲一つない青空の下、鼻唄混じりに自転車を漕いで、紅葉は『Ψ LIGARE Ψ』に顔を出した。今日のシフトは午前から昼過ぎまで。土日の昼時は最も客の出入りが激しく忙しいから頑張りどころだ。
本日の天気も相まって、スタッフルームで一人、紅葉は機嫌良く気合い注入の即興歌を歌っていた。
「ララーラ♪今日も一日頑張るぞ~♪やったるぞ~♪よよいっのよい♪」
異能に目覚めて以来、超聴覚を持つようになった紅葉は、ある程度の距離なら人の接近を感知できるようになっていた。もちろん足音で、である。身長体重老若男女、それによって音の質は大分異なるが、それでも少なからず歩くときに足音はする。そしてこの時はそれがなかった。だから当然、まさか聞いている人などいるまい。そう思って割りとノリノリだったのだ。
が、何時でも油断は大敵らしい。突然店に通じるドアがガチャリと開いた。
「あソーレよよいのぉ………!?」
ぎょっとして振り向くと、立っていたのは店服姿の背の高い女性。この店の店長、言うまでもなく紬である。
「き、聞いてました?今の……」
「い、いや?中々個性的な……失敬。クッククク……ユニークな歌だったぞ。いや本当に……ククク」
そう言いつつも、彼女は時折肩を震わせている。本人なりには気を使って笑いを堪えているつもりらしい。だが、その気遣いが余計に傷つく。いっそのこと爆笑してくれた方がまだ救われる。
おまけに笑い声が何だか怪しい。まるで悪役の笑い方だ。
紅葉のじとっとした目線に気づいたらしい。彼女は腹を抱えつつも謝った。
「す、すまんな。…何だか微笑ましくて………いや、その、あれだ…こんな天気だしちょっとハイになるのも仕方ない……クククッ」
暫くの後紬は何度か咳払いをして、漸く笑いを飲み込むと紅葉に向き直った。
「の、ノリノリのところ悪いんだが、今日はバイトの代わりに、医者に行ってくるといい」
「医者、ですか?」
予想外の言葉に紅葉は首を傾げた。
「私、特に悪いとこありませんけど……」
渡辺紅葉の第二の長所は、健康優良児であることだ。極稀に風邪は引くが、基本無遅刻無欠勤の皆勤賞である。
が、紬はそうではないと首を振った。
「私の知り合いに医者をやってる人がいてな。貴女の異能、まだ分かっていないだろう?行って診てもらってくるといい。……普通に生きてく上では異能など必要ないが、それでも自分のことは出来るだけ知っておいた方がいい。もしもの時に少しは役に立つかもしれないからな」
「もしもの時……?」
「あぁ最近は何かと物騒だからね」
それに、と彼女は付け足した。
「今後の為に、場所を知っておくといいよ。異能者は場合によっては普通の医者にはかかれん場合もあるから」
異能というのは、風邪などで体の抵抗力が落ちると無意識に発動することがあるらしい。特に紅葉のような、変化の異能はそれが顕著だという。
「なるほど……」
紅葉はふむふむと頷いた。確かにあの変化した状態で普通の医者などにかかったら、内科より先に眼科に回されそうだ。
と、そこにガチャリと裏口が開いて眠たそうな青年が入ってきた。
要ではない、ずばり壱矢である。
一瞬彼と目が合って、紅葉は慌てて視線を反らした。結局あれからろくに話しておらず、何だか凄く気まずい。
重苦しい沈黙を破ったのは紬の声だった。
「挨拶も無しとは酷いもんだね。私は傷ついたよ」
皮肉のこもった口調でそう言われて、壱矢は面倒くさそうに、そして凄く嫌そうに口を開いた。
「……おはようございます」
「はい、お早う」
対する紬はさっぱりと挨拶を返す。そして思い出したかのように、ポンと手を打った。
「ところで壱矢君。来て早々何だが一つ頼まれてくれないか?」
「何?」
珍しく壱矢君などと呼んできた紬に、壱矢は怪訝そうに顔を上げる。二人の間にはどことなくピリピリとした雰囲気が漂っていて、紅葉はハラハラしながらそれを見守っていた。
が、当の紬はあえてか、素かそんな空気を無視して、にっこりと微笑むと言った。
「今日、紅葉ちゃんを宗さんのとこに連れていってあげて欲しいんだ」
と。
「え……」
驚いたのは紅葉もだった。が、口を開いたのは壱矢の方が早かった。
「はぁ!?」
と素頓狂な声を上げて、慌てて口を塞ぐ。そして平時の無表情に戻ると
「何で俺が……あんたがいけば良いだろ」
「私はこれから忙しいんだよ」
「なら一人で行かせろよ。行けんだろ、別に。一応東京都内だぜ」
こればかりは紅葉も同感だった。病院がどこにあるかは知らないが、一人でも行ける。これでも、もう高校生なのだ。というか壱矢に嫌々連れてかれるぐらいなら一人の方が余程ましだ。
が、紬は首を横に振った。
「あそこは結構田舎だし、夜は人通りも少ない。迷子になったら大変だろう?……それに最近はラグナロクや例のショーの嫌な噂も耳にする。まさかとは思うが万が一の為にな」
ラグナロク。その単語に壱矢は一瞬、眉を潜めたがふんと鼻を鳴らした。
「ガキの御守りなんて俺はごめんだ。まだここで仕事してた方がましだね」
「たったの一つ違いじゃないか。紅葉ちゃんがガキならお前もガキだ」
だいたい、と紬は続けた。
「接客もまともに出来ない奴が偉そうに言うな。挨拶もろくに出来ないようじゃ社会に出てやってけんぞ。今のお前に必要なのはコミュニケーション能力。In other words,It is the most important that communication skills. make sense? 」
妙に流暢な発音でそう言って、紬はパンと手を叩いた。
「はいリピートアフターミー」
「うぜぇ……」
壱矢はげんなりした顔で紬から目を反らす。
「だいたい俺はバイトさせてくれなんて一言も言ってないぜ。あんたが勝手に雇ったんだろーが」
「お前みたいな奴は野放しに出来ん。何しでかすか分からないからな。お前の将来が心配だよ、全く」
紬ははぁと大仰に溜め息をつく。
「……お節介ババアめ」
壱矢はチッと舌を打ってぼそりと呟いた。が、それは紅葉にははっきりと聞こた。そして紬の耳にも一応届いていたらしい。
「あ?何か言ったか?クソガキが」
一変、青筋を立てた紬が、いつになくがらの悪い口調で壱矢に詰め寄る。ハラハラと見守る紅葉を他所に、壱矢も負けじと彼女を睨み返した。
「近ぇんだよ、クソババア」
「ほぉ……?」
その瞬間、紅葉はプチンという音を聞いた……ような気がした。どうやらそれは紬の堪忍袋が切れる音だったらしい。
彼女は足で裏口の戸を蹴り開けると、ぐっと壱矢の袖を掴み
「つべこべ言わず、とっとと行かんかい!」
意外な力で投げ飛ばした。開いた戸から壱矢が転がり出て、やがて外からドスンと鈍い音が聞こえたきた。
「ちょっとは礼儀というものを覚えろ、阿呆が」
紬がドアの向こうに向かって、吐き捨てる。そして呆気にとられる紅葉に、打って変わって穏やかに微笑みかけた。
「というわけで、紅葉ちゃん。壱矢に連れていって貰いなさい。なに、あんなんだが腕はそこそこ確かだ。口の悪いナビ付きスタンガンだと思えば問題ないさ」
「ゴリラか、あいつ……」
外に出ると、身を起こした壱矢がパンパンと服を叩きながら、店の戸口を睨んでいた。正確にはその奥にいる紬を、だが。
「あの、壱矢さん。別に私一人でも行けますから」
紅葉は壱矢を見下ろして少しキツい声で言った。
嫌々行かれるぐらいなら、紅葉だって一人の方が良い。
「ふーん……場所も知らねぇのに?」
が、壱矢は嘲笑うように紅葉を見上げた。
そりゃあその通りといえば、そうなのだが。返答に困って、頬を膨らませたり引っ込めたりしていると、意外なことに壱矢は立ち上がりながら
「まぁ行ってやるよ。……紬さんに後々言われんのも面倒だし」
そう言って踵を返すとスタスタと歩き出した。
◆
『みやのひらーみやのひらーでございます』
途中何度か乗り換えて、電車に揺られること約一時間半。
東京の西の果て、奥多摩……よりは少し東にある青梅市の宮ノ平駅で、ようやく紅葉達は電車を降りた。
二人の他に電車を降りたのは、老夫婦一組とジャージ姿の少年だけで、日頃新宿駅のような人混みに慣れている紅葉にとっては何だか新鮮だった。
「って、何じゃこれ?」
ホームから出ようとし、見慣れないものを見つけて紅葉は思わず足を止めた。
ずばりそれは金属の棒の上に、電子カードをタッチする場所がついている謎の物体。呆気にとられていると、背中に声が飛んできた。
「改札だよ」
壱矢はそう言って、慣れた様子でパスモをタッチして、紅葉の横を通っていく。
「改札!?これがですか?」
「そう言ったろーが」
壱矢は少し面倒臭そうに振り替える。
「へー……何でこんな?」
紅葉は不思議に思いつつも、壱矢に倣ってその改札を出た。独り言として呟いたのだが、意外なことに答えが返ってきた。
「無人駅なんだよ、ここ」
「無人……?駅員さんが居ないってことですか?」
「そう」
「え!?じゃあ、ただ乗りし放題!?」
「そういう奴の為にああいう改札がある」
「あ、なるほど……」
紅葉はポンと手を叩いた。ホームに改札を置けば、車掌や他の乗客の目があるということか。
ホームから長い階段を降りて外に出ると、長閑な風景が広がっていた。一戸建ての民家が立ち並び、所々に畑や空き地まである。二車線の道路が通ってはいるが、車通りはそこまで激しくない。
遠くの方には山々が見え、周りには自然が広がっていた。家の回りにあるような、高層ビルやデパートなど一つもない。それどころか、見渡す限りコンビニさえ見当たらない始末だ。紬の言う通り、中々の田舎である。とても東京とは思えない。
「長閑だ……」
感心して辺りを見回す紅葉を他所に、壱矢はスタスタと歩いていく。地元を出発してからずっとこうだ。紅葉が話しかけない限り、滅多に口を開いてくれないし、話しかけてもけんもほろろの対応だ。
この間のことを根に持っているにしても、もう少し打ち解けてくれてもいいのに、と思う。会話がないというのは何となく気まずいし、寂しくなる。
「うーん……空気がきれいだー」
カーブの多い道を歩きながら、聳え立つ山々を見て伸びをする。
自然が多い故だろう。地元より空気が格段に澄んでいる。それに、都内と違って人も少なくずっと静かだ。聴覚が発達し過ぎた紅葉にとっては凄く有難い。
最近は音の洪水にも慣れてきたとはいえ、やはり人混みや通学時の駅などは些か辛いのだ。
「そう言えば、そのお医者さんって異能者なんですか?」
ふと気になって、前を行く壱矢に尋ねてみる。すると「あぁ」と簡潔な答えが返ってきた。が、少しの間の後、壱矢は付け足した。
「でも佐代さんはただの人間だ」
「佐代さん?」
「その医者……宗一郎さんっつーんだけど、その人の奥さん。……優しい人だよ」
「へぇ……」
優しい人、という評価に紅葉は目を丸くした。要もあぁ言っていたし、壱矢はあまり人が好きではなさそうに見えた。だから、人を良く評するのは少し意外だった。
依然として会話の無いまま、十五分ほど歩くと、道路のような橋の下に川が流れている所に来た。
「わぁ川だ!」
透き通ってて中々水も綺麗だ。水は真上に登った太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。道路の柵から身を乗り出して、水流を見る。
「ほら見て、壱矢さん!川ですよ」
思わず前を行く背中に声をかけると、彼は煩わしそうに振り返った。
「多摩川だよ。……そんなに珍しいか 」
「こんなに綺麗なのは初めてですもん。多摩川ってこんな所まで通ってんだ……」
多摩川といえば、東京湾まで注ぐ川である。それがこんな西方から流れてきているとは。
「都会っ子かよ」
目を輝かせる紅葉に壱矢は鼻を鳴らした。馬鹿にしたような言い方に少しカチンとくる。
「ふん、どうせ私は生まれも育ちも豊島区ですよ。未だに本州出たことないし……っていうか壱矢さんは違うんですか?東京外出身?」
「…俺は千葉生まれだ」
「へぇ……お引っ越ししたんですか?」
「あぁ」
壱矢はうなづいて再び歩き出す。紅葉も川を眺めるのを諦めて、渋々踵を返した。と、俄に不穏な声が微かに響いてきて、紅葉はハッと足を止めた。
「い、今の……」
「今度は何だよ?」
再び立ち止まった紅葉に七面倒そうに壱矢が尋ねる。
「今、悲鳴が……」
「はぁ?悲鳴?」
恐らく彼には聞こえていない。紅葉でさえ僅かに聞き取れる程の、でも確かな人の叫び声。
目を閉じて耳を澄ますと、もう一度確かに聞こえた。男の切羽詰まったような叫び声。音源は……下。
紅葉はハッと柵に手をついて下を流れる川を見た。見たところ、人の姿はない。
だが、川辺には鬱蒼と木が生い茂り、ここからだと詳細は分からない。もしかしたらその中でーーー
「壱矢さん!」
今にも歩き出しそうな彼の名を、紅葉は慌てて呼んだ。
「下……川辺です!多分、誰かが困って……」
言ってるそばから聞こえてくるのは再三の悲鳴。まるで、断末魔のようなーー嫌な予感が頭を過る。
「……っ!」
紅葉は身を翻して駆け出した。
「……は?」
一方、取り残された壱矢は走り去っていく少女の後ろ姿を、呆然と眺めていた。
その横をブゥーーンと音をたてて、おんぼろのトラクターが無遠慮に通りすぎていく。
「川辺って……」
彼女の言葉を思い出して、下を見下ろす。確かに川辺はある。だが、だから何だ?それに悲鳴がどうのと言っていたけれど、そんなもの聞こえなかった。
(あぁ、でもあいつ耳良いんだっけ……?)
そんなことを、紬が話していたような気もする。それで悲鳴とやらを聞き付けて走っていったのだろうか。
……何足る間抜けというか、お人好し。悲鳴が聞こえたということは則ち、不味い事態が起きているということだ。わざわざ自ら渦中に飛び込んでいくなんて。
壱矢は柵に片手をついて、眼下の川辺を見た。
「……馬鹿じゃねーの……」
◆
来た道を戻り、川辺に降りられそうな場所を探す。
すると、道路の脇に年季の入った古い石階段があった。大分傾斜のあるそれを足早に下りていく。急がなくては……。嫌な光景が脳裏を過る。
と、不意に予想外の段差があってぐらりと身体がよろめいた。
「ぎょえ……!?」
落ちる、そう思った瞬間、腕を掴まれ重力とは逆の力で引っ張られた。
「あ、ありがとうございます……」
礼を述べつつ振り返ると、切れ長の目の青年が立っていた。
「い、壱矢さん……」
彼は紅葉を引っ張り起こし、低い声で短く告げた。
「戻るぞ」
「で……でも下で悲鳴が……!見捨てる気ですか!?」
「……他人だろ、ほっとけ」
壱矢はあっさりと言い切って、川辺の林を一瞥する。
逆光で影になっているのに加え、階段と元々の身長差のせいで見下ろされていて、どことなく威圧感がある。
紅葉はごくりと唾を飲み込んで、彼の手を振りほどいた。
「なら私一人で行きますから。壱矢さんは上で待ってて」
ロクデナシめ、心の中で不満を呟いてくるりと踵を返す。だが、何となく予想はしていた。今度は慎重に、でも早足で階段を降りていく。と、暫く降りた所で背中に壱矢の声が飛んできた。
「俺は、お前を無事連れて帰ってくるよう紬さんに言われてる」
彼はそこで一旦言葉を切って、忌々しげに顔を歪めた。
「……様子見だけだ。ヤバそうだったら戻るぞ」
意外な言葉。紅葉の驚きをよそに、彼はスタスタと階段を降りていく。
「ありがとうございます……」
紅葉は戸惑いつつも礼を述べて、階段を降り始めた。
「なんか暗いですね……」
川辺の林の中に入って、紅葉はちらりと上を見上げた。
真上に登った本日の太陽は、大分活動家でポカポカと辺りを照らしていた。が、ここでは鬱蒼とした木々の間から、僅かに木漏れ日が射すだけで、中々薄暗い。
枯れ葉の積もった地面を踏みながら、出っ張った根と転がるゴミに注意して林の中を進んでいく。ここならバレないと、人々がゴミを捨ててったのだろう。地面には空き缶やら雑誌やら割り箸やらが散乱していた。
すると、不意に嫌な臭いが鼻をついた。
錆びた鉄の臭い。ずばり、血の臭いだ。
壱矢もそれに気付いたらしい。鼻をひくつかせ、眉をひそめる。
加えて、紅葉はもう一つのことも感じていた。近くに誰かが、いる。押し殺しているようだが、確かに息づかいが聞こえるのだ。
「おい……これって……」
壱矢が口を開き何かを言いかける。が、それより先にどこからか、ガサリと音がした。
「……!」
瞬間、バチンと青い電気のようなものが辺りに走り、同時に壱矢の眼が青く染まっていく。
彼が音のした方へ一歩踏み出した瞬間
「ま、待ってくれ……!」
その方から声が聞こえてきた。声に続いて、木の陰から男が顔を出す。年は三十そこそこで、髪も服もボサボサのボロボロ。顔や手足は泥にまみれ、顔には疲労と憔悴が色濃く滲んでいた。おまけに脇腹には鋭い傷が入り、血がポタポタと流れている。
「ば、異能者なのか……?」
男は上擦った声で、二人をこわごわと見た。
「……あんたもか」
壱矢は男を、そしてその脇腹の傷を見て目を細める。
と、俄に男はその場に膝まずいて、頭を下げた。
「た、頼む……!助けてくれ……!いや、助けて下さい!追われてるんだッ……!」
呆気にとられる二人の前で、彼は地面に頭を擦り付、て尚も続けた。
「や、奴らはほ、本当にに容赦なくて……!組織を抜けたいって頼んでも、断られるから、逃げようとしたら、あいつが……あいついが……!」
男の脇腹からは依然として血がドクドクと流れ出ている。
紅葉は慌てて彼の元にかけよった。
「か、顔を上げて下さい!傷が、余計に……」
「あ、ありがとう、お嬢さん」
男は苦しげな表情に必死に笑顔を作っておどおどと礼を述べる。
すると今まで黙っていた壱矢が不意に呟いた。
「組織って……ラグナロクですか?」
ラグナロク。その名にハッと紅葉は男を見た。よくは知らないが、要や紬の話を聞いた限りでは、危険な思想を掲げる異能者のテロ組織。関わらない方がいい、そう言った要の声が甦る。反応を伺い見ると、男は苦い顔で頷いた。
「そ、そうだ……」
が、直ぐに首を振って付け足した。
「で、でもッ!俺は奴らが正しいなんて思ってない……!あ、あそこはイカれた化け物の巣窟だ……!まともな人間なんて一人もいないッ!」
男は目にありありと恐怖の色を浮かべて喚く。が、それとは逆さに壱矢は冷めた目でそれを見下ろしていた。
「……でも逃げてきたっつーことは、あんたもその一員なんでしょう?別に俺らがたすける義理なんてない」
「壱矢さん!」
紅葉は彼を鋭く睨んだ。何もそこまで言わなくても。相手は手負いだし、憔悴しきっている。
が、男は諦めたように首を振った。
「いや、お嬢さんいいんだ……兄ちゃんの言う通りだよ。……あいつの誘いに乗った俺が馬鹿だったんだ……」
「あいつ?」
紅葉が聞き返すと男は、泣きそうな顔になった。
「や、奴らの下っ端の一人だよ……たまたま会って、酒奢ってもらって愚痴溢したら、一緒に来ないかって誘われて……
!やけくそだったんだよ……!あ、あいつが……小百合が、俺を化け物なんて言うから……」
男の声はだんだん啜り泣くように変わっていく。
紅葉と壱矢は思わず、顔を見合わせた。男は嗚咽混じりに続けた。
「そ、そりゃあ、異能のこと黙ってたのは悪かったよ……!で、でもほんとに俺、全部一生隠し通すつもりで……!なのに、それが娘にあんな形で遺伝するなんて……」
男は懺悔するかのように、一心不乱に言った。紅葉たちの存在など、最早忘れているようだった。
「ら、ラグナロクなんかに入っといて、今更だけど……一目でいいから、どうしても俺、娘に会いたくて……!小百合にもちゃんと話したら、もしかしたら……またって……」
そこまで言うと、男はいよいよ嗚咽を上げて泣き出してしまった。鳥の鳴き声がする穏やかな森林に、男の泣き声が響く。
「壱矢さん……」
紅葉はこわごわと彼を見上げた。彼は何とも言えぬ微妙な表情で、男を見下ろしていた。
「いやぁ泣かせるねぇ、大悟さーん」
と、不意に上から声が降ってきた。
ハッと三人が一斉に上を見上げると、そこにいたのは奇妙な髪色の青年。緑というか、黒緑というか。足を曲げて高い枝にかけ、その不思議な色の髪を垂らして、蝙蝠の如くぶら下がっていた。
「き、樹介さんッ……!」
青年を目にした男の顔が一瞬にして恐怖に染まる。彼は蛇に睨まれた蛙の如く、ぺたりとその場に座り込んだ。
「いやぁ……オイラ感動して涙出てきちゃったよ……」
青年はブラブラと体を揺らしながら、目元を拭う。男は震えながらも、必死に青年を睨み付けた。
「ば、ばばかにするな……!」
「いやいや、してないって。割りとマジで感動したぜ?オイラ。一瞬見逃してやろうかと思ったぐらい」
確かによく見れば、若干目尻が光っているような気もする。
「でも、裏切り者には死を、ってあの人も言ってたし?オマエに色々漏らされたらたまんないもんね」
そう言って青年がブンと腕を振る。すると彼の右腕が瞬く間に、太い枝のようなものに変わった。
「へ……?」
呆気にとられる紅葉の前で、青年はグルン勢いをつけて身を起こすと、太い枝の上に飛び乗った。
「まっそういう訳で、グッバイトゥモローランド!」
良く分からないことを叫んで、枝から飛び降り一直線に男に向かう。青年の右腕、もとい太い枝がビュンと唸り、男と傍にいた紅葉を狙い定めた。
紅葉の瞳が橙に色付く。
不味い、そう思うのに体が動かない。あの日のダンプカーのように、ゆっくりとゆっくりと蔦が迫ってくる。
「…どいてろッ……!」
と、不意に脇腹に強い衝撃を喰らい、男と共に、離れた木の根元まで吹っ飛ばされた。紅葉は男と共に、離れた木の根元まで転がった。
標的の居なくなった枝は、轟音と共に地面に叩きつけられた。噎せ変えるような砂埃が辺りを舞い、落ち葉が散乱する。衝撃で木々が揺れて、鳥たちがピーチク喚いて、一斉に飛び立っていった。
「お?」
砂埃が晴れ、青年は割り込んできた壱矢を見て首を傾げた。
「何だ、オマエ。あの男の仲間?庇おうってのか?」
「さぁ……?俺にも良く分からん」
「何だそりゃ」
青年は可笑しそうにプッと噴き出す。緑の髪を揺らして一頻り笑った後、青年はふぅと息をついた。
「ま、悪いけどこっちも仕事だ。あの人の言うことは絶対だもんね。だから悪ぃけど、邪魔すんなら容赦しねぇよ?」
青年が不敵な笑みを浮かべ、トンの地面を踏む。
「……!」
不意に足元に何かを感じ、壱矢はハッと下を見た。見ると、地面をから生えた枝のようなものが、足首に巻き付いていた。ぎょっとしてる間に、不意に枝に足を引っ張られ、体制を崩される。
「おらよ、っと……!」
青年の掛け声と共に、ボコボコと地面が隆起していく。そして、瞬く間に枝の全体が顔を出した。枝は地中を通って、青年の脚へと繋がっていたらしい。
青年が足を振り上げると、ぐん、と木の枝が上に伸び、壱矢を逆さ釣りにした。
「イッヒッヒヒ~空中ブランコでだぜぃ」
青年は壱矢の足首を掴んだまま、ブラブラと枝を揺らす。弄ぶように近くの木に近付けては放し、激突寸前の所でまた止める。
「馬鹿にしやがって……」
壱矢は逆さの視界の中、舌を打った。昼飯前で良かった。食後だったら確実にリバースコースだ。
壱矢は鋭く青年を睨め付けた。
「俺はなぁ……」
瞳が青く染まっていく。
「コケにされんのが大っ嫌いなんだよ……!」
充電完了。声と同時に壱矢の体から電気が放たれる。足首から枝に電気が伝い、木の枝は瞬く間に炭と化した。
青年は咄嗟に枝を元に戻すが、感電は免れない。漏れた電気が体に流れ込み、青年は鈍いうめき声を漏らした。
続けて壱矢は身軽に着地すると、地面を蹴って青年に飛びかかった。首筋を狙って拳を振るう。が、寸前の所で交わされる。でも感電の影響で動きは遅い。飛んできた蹴りを流し、足に電気を乗せて首筋を蹴り飛ばすと
「がっ……!」
青年は呻き声を上げてふっ飛んだ。青年の体が木の枝に激突し、葉が散る。再び砂が舞い上がって、辺りは砂塵に包まれた。
◆
「いたたた……」
紅葉は脇腹の痛みに呻きながら、ゆっくりと身を起こした。
どうやら壱矢が助けてくれたようだが、少々粗っぽすぎるような気がする。まぁ、あの枝に押し潰されるよりはずっとマシなので、文句を言えた義理ではないが。
地面に手をついて、紅葉はふと妙な違和感を感じた。地面が妙に柔らかいというか、何というか……。
紅葉はハッと下を見た。するとそこにあったのは地面ではなく、男の体。
「うわ……!ぎゃあ!」
紅葉は咄嗟にそこから飛び降りた。丁度、運悪く男を下敷きにしてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい……!ケガしてるのに……」
慌てて謝ったが、男は気を失っていて反応がない。胸が苦しそうに上下しているから、生きてはいるようだが。
「あ、あの大丈夫ですか……?」
何度か声をかけて、軽く揺すってみると男の瞼がゆっくりと開いた。
「あ、あれ……?俺……」
男は一瞬朦朧としていたが、紅葉の顔を見るとハッと身を起こした。が、脇腹からの傷が疼いてうっと呻く。
紅葉が慌てて男の背中を支えると、彼は強ばった笑みを浮かべて礼を述べた。
「ありがとう……すまないね」
男の脇腹からは依然として赤黒い血が流れ続けており、止まる気配は全くない。
と、不意に背後で眩しい閃光が弾けて、紅葉と男は咄嗟に振り返った。見ると、数十メートルほど離れた所で、壱矢と先程の青年が一戦を交えていた。
壱矢が青年に飛び掛かり、首を狙った打撃を青年が交わす。組み合う二人を呆然と眺めていると、隣で同じくそれを見ていた男が恐々と尋ねてきた。
「あの兄ちゃん、強いのか……?」
「…壱矢さん、ですか……」
紬は″腕はそこそこ確か″と言っていた。でも、どうなのだろう。紅葉には異能者同士のやり合いがどんなものなのかすらも分からなかった。
「樹介さんは……頭はちょっとアホだけど、ラグナロクの幹部の一人だ……。勿論強い。俺なんか足元に及ばないぐらいだ……。あの兄ちゃんがどんなものか知らないけど、ちょっと荷が……」
男は言いつつ、樹の幹に手をついてユラユラと立ち上がった。そして紅葉に小さく微笑みかけた。
「助けを求めたりなんてしてすまなかった……あの時は必死でね……つい、君たちのような関係のない若者を巻き込んでしまった……本当に申し訳ない。……でも、嬉しかったよ。お嬢さんが心配してくれて。君は優しい子だ、ありがとう」
礼を述べて男はふらつきながらも、壱矢と青年の元へ歩き出す。
「ま、待って……!そんな怪我で、何を……」
紅葉が慌てて呼び止めた。まさかその手負いの状態で加勢に行くつもりだろうか。
男はゆっくりと歩みを進めながら、苦しげな声で答えた。
「俺が大人しく殺されれば、樹介さんもこれ以上……君たちには手を出さない筈だ……。ラグナロクの大義は曲がりなりも、異能者の団結だからね……」
「……」
荒い呼吸で激しく揺れる彼の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
待って、と引き留めることは出来なかった。このままでは、壱矢は死んでしまうかもしれないのだ。でも引き留めなければ、彼が……。
紅葉は思わず奥歯を噛み締めた。
私には、何も出来ない。男を助ける術も無いし、壱矢に加勢するだけの力も無い。ただの身勝手な思いから、助けたいなどと言って、結局何も出来ていないのは自分ではないか。
壱矢は何となく分かっていたのかもしれない。危険なことが起こるかもしれない、と。どうしようもないこともあるのだ、と。だから紅葉を止めたのだろうか。
紅葉が俯いていると、ふと男の足音が止んだ。ハッと顔を上げると、男が立ち止まって、壱矢と青年の方を呆然と眺めていた。
「あの目……」
「目?」
一瞬、自分のことかと思った。が、どうやらそうではないらしい。
紅葉は男の元にかけよって、その顔を見上げた。そこには、恐怖と驚愕と興奮が三つ巴に入り交じった表情があった。
訝しく思いながら、男の目線を辿っていくと、少し離れた所で砂塵に包まれて壱矢が立っていた。青年の姿は見当たらない。砂塵の中だろうか。
「あの兄ちゃんの異能、放電か何かかと思ってたけど……まさか」
男は紅葉に向き直った。
「彼の異能、知ってるか?」
「壱矢さんの……?いえ、あまり……。放電じゃないんですか?」
てっきりそんな感じだと思ってた。が、男は壱矢を見たまま、首を振った。
「多分、違う……あの兄ちゃんは……恐らくガイアだ」
男は大分興奮しているようだった。声にそれが滲み出ている。が、紅葉には何が何だか、さっぱり分からなかった。何だ、がいあって。
「……知らないのか?」
ポカンとする紅葉に男は不思議そうに首を傾げた。
「えーと、はい……私、異能のことつい最近知ったばかりで……」
というか、つい一ヶ月程前までは真人間だったのだ。ガイアなど聞いたこともない。
男は近くの木に寄りかかって呼吸を整えると話し出した。
「ガイアっていうのは、自然使いのことだよ。文字通り、自然現象を操る異能者。滅多にいるもんじゃないし、俺も見るのは初めてだけど……。あぁでもラグナロクのボスもそうだって聞いたことあるな……」
「はぁ」
紅葉は曖昧に頷いた。今一良く分からない。男は紅葉が理解していないのに気付いたらしい。慌てて言い直した。
「つ、つまりね……あの兄ちゃんは多分電撃使いだ。ガイアの一種だよ」
「……それって、放電と違うんですか?」
どちらも結局バチバチするのではないか。しかし男はまさか、と首を振った。
「そりゃあ違うよ。自然使いは遠距離も狙えるし、単純に異能の底も深いって言われてる。身体能力も人なんかよりは総じて高いって説もあるけど……まぁラグナロクの奴らに言わせれば、ニュータイプの中のニュータイプってとこだ」
ただ、と男はちらりと壱矢を見て呟いた。
「異能が強すぎるせいかな……暴走しやすいし、まともな人格の奴はいないって言うけどね」
◆
砂塵は中々晴れない。だが、やるなら今が好機だ。壱矢は五感に集中しながら一歩踏み出した。
が、不意に砂埃の向こうで何かが動くのを感じた。影が、近づいてくる。嫌な予感に嗟に後ろに飛んだが、砂塵の向こうから鋭い刺の生えた木の枝が伸びてきて、肩を貫かれた。
「ッ……!」
鋭い痛みが全身を走り、血が辺りに飛び散る。刺が鋭かったのか、思ったより深い。肩を押さえていると、砂塵の向こうから青年の声が聞こえてきた。
「いってぇ……。やるなぁオマエ。すんげぇパワー」
徐々に砂埃が薄れ、視界が効くようになると、青年の姿が明らかになった。右腕が先程の太い枝から、鋭い刺枝へと変わっている。一体何の異能だろう。
「樹木化か……?」
呟くと青年は己の右腕をちらりとみて、あぁと頷いた。
「オイラの異能?ピーポーン。まぁそんなもんよ」
青年は首筋を擦りながら、痺れの残る体を無理矢理立ち上がらせた。
「オマエは何だ?放電か?……ウナギ野郎め。痛すぎてオイラ泣きそうなんだけど」
「……そりゃあどーも」
壱矢は適当に返して、ちらりと肩の傷を見た。血は相変わらず溢れ続けている。そう簡単に止まりそうにはない。やるなら、短期決戦だ。
だが、幸い相手は勘違いしてくれているようだし、暫くは動けなそうだ。
壱矢は青年の挙動に集中しながら考えた。周りには高木もあるし、射程距離に入れればどうにでもなる。だが、問題はあの刺枝。近付けば、餌食にされそうだ。
間合いを保ったまま、睨み合う。
突如、壱矢は左手で足元の空き缶を広い上げると、勢い良く青年に投げつけた。
「お……?」
唐突な謎の動作に、青年は呆気に取られ一瞬反応が遅れる。が、その一瞬が大事だった。一瞬の後に、ポカンとそれを眺める青年の目のまで缶が爆発した。
「なっ……!」
アルミが飛び散り、青年の体を直撃する。その隙に地面を蹴って青年との距離を素早く詰めた。十分な射程距離。壱矢は青年を中心に円を描くように放電した。すなわち、回りの木々を狙って。
根元を電気で焼かれ、木々がぐらりとよろめく。青年は迫り来る巨木を見て、ようやく全てを理解した。
「オマエッ……!まさか……!」
青年は迫る木々の隙間から、壱矢を見て目を見開いた。薄い笑みを浮かべ、煌々と不吉に光る青い眼と目が合う。
「くそ、やろ…がッ……!」
眼前に迫った木々を前に青年は顔を歪めた。そして次の瞬間、唸るような地鳴りと共に、巨木は容赦なく青年を押し潰した。
混沌のバベル