ちいさな、よいこと
ウィーク・デイの住宅街にはどことなく意地の悪いものがあるように感じられた。のどかな風景ではあった。電線には同じ向きに頭を向けた雀たちがきちんと並び、思い思いにさえずっていた。小奇麗に整えられた家が建ち並び、消えかかった朝もやはその最後の力を振り絞って、町にうっすらとした淡い光のベールを添える。父親や母親、そして子供たちを一斉に駅へと吐き出した家々はひっそりと静まり返っていた。雀たちが何かに驚き飛び立った。羽ばたきの音が響いた。マチコには、そのすべてが自分には理解できない静けさに包まれているように感じられた。
「六歳の誕生日なんです」マチコは言った。パン屋は顔をあげずに、喉の奥でうならせるような音を出して返事をした。愛想の悪い人だな、とマチコは思った。悪い人ではないし、失礼だとも思わない。ただ、愛想が悪いと思った。店内には初期のマイルス・デイヴィスが流れていた。ショーウィンドウにはたくさんの種類のケーキやタルトが並べられている。どれも出来のいいお菓子だった。奇をてらったものはなく、斬新さもなかった。個性のようなものは一切なかった。けれど、そのいずれもが誰からも愛されることを目的として焼かれた、こじんまりとした品の良さを備えていた。周囲の棚に並べられたパンたちも同じだった。一番近くの棚には猫の顔のパンが並べられていた。右目から耳にかけての上半分が黒の猫だった。そこは黒のクッキー生地で焼かれていた。右と左に三本ずつのひげはチョコレートであしらわれていた。チョコレートは口や瞳も形作っていた。この無愛想な男がこんなに愛想のいいパンを作るのが何となく可笑しかった。「来週の月曜日ですね?」何事かを書きつけたパン屋が顔をあげマチコに確認した。「ええ、月曜に。お願いします」マチコはしばらく悩んだあとに、結局息子の誕生日にはチョコ・ケーキを頼むことにしたのだった。
「乗り物が好きなの」カタログのケーキは黒を背景として、ロケットが空を飛び、星の上では男の子が旗を地面につきたてて誇らしげに手を振っていた。
「旗の中の文字はどうします?『ハッピーバースデイ・マモル』でいいですか?」
「はい。あと、そのケーキに空を走る列車を入れて欲しいのだけれど」
「列車ですか?」
「ええ。列車が好きだから」マチコは何かとても気が利いたことを言ったように微笑んだ。
「そうですねぇ、それでしたらスペースがないのでロケットのかわりに鉄道を空に敷いて列車を走らせる、というのではどうでしょう」
「ええ、」と答えかけてから、マチコはその出来上がりの想像を確認してから付け足した。「素敵ね。それでお願いします」
「素敵なケーキになりそうですね」マチコは同意を求めた。
「ええ、そうですね」メモに要望を書きつけていたパン屋は、メモ帳に向かって笑顔を作った。パン屋のその反応に、マチコは自分が何か悪いことを言ってしまったような気にさえなった。
「うちの子は乗り物が好きなの」マチコは何かを確認するようにつぶやいた。
マチコは帰りしなにその店でいくつかのパンを買った。夫の好きなクルミパン、そして自分にシナモンロール、この店一番の評判であるバターロール、そしてマモルには猫の顔のパン。
マモルは同級生と一緒に学校への道を歩いていた。同級生は学校一のデブでいつも何かを食べていた。マモルと彼とは仲が良かった。その日デブはポテトチップスを食べていた。マモルは家ではお菓子はほとんど食べさせてもらえなかったのでデブが持ってくるお菓子はとても楽しみだった。二人でポテトチップスを回しながら、学校へ向かう。いつものことだ。だが、その日ちがっていたのは、マモルは縁石の上をバランスを取りながら歩いていたということだった。特に理由があったわけではない。ただ、その日は縁石の上を落ちずに歩いてみたかったのだ。デブはポテトチップスのほとんどを食べ終わり、最後の一口をマモルに渡した。マモルは縁石の上でそれを受け取った。そして袋を口に当て、ぐいと持ち上げて残りかすを全部流し込んだ。これも行儀が悪いといって家では絶対にできないことだ。そういう禁止されている一つ一つのことが、マモルには楽しかった。家と学校のどちらからも自由なこの長い――彼の家は学校から遠かったのだ――通学路は彼の楽しみだった。長い通学路が楽しみということは少年にとっては幸せなことだったに違いない。この日だけはそうではなかった。
縁石で上を向いた彼は足を滑らし、道路の側に転んだ。そこへ車が通りかかったのだ。さいわいタイミングが良かったため、彼は道路に倒れこんで頭を踏みつぶされるということはなかった。ただ、サイドミラーに額を強く打ちつけられた。車は百メートルくらい行きすぎたところで止まった。そしてバックミラーで様子をうかがっていたが、子供がふらふらと立ち上がって歩き始めたこと、サイドミラーも壊れていないことを確認して走り去った。
デブはびっくりして何も口がきけないでいたが、マモルが起き上がるのを見て泣き出した。マモルのほうは特に泣き出すわけでもなく、何の感慨もない白昼夢を見ているようなぼんやりした目で、頭が痛い、と言ってもと来たほうに向かって歩き出した。デブはしばらくのあいだ困ったようにそこで一人泣き続けていたが、やがて学校へ走り出した。マモルはポテトチップスの袋を持って歩いていた。ポテトチップスの袋を持って家に帰ったら怒られるので、どこかのごみ箱に捨てようと思ったが、頭がさっきよりも痛み出してくると、なんだかバカらしく思えてきたので排水溝のすき間に押し込んだ。
マチコが家に帰ると。ソファーに横になっている息子を発見した。息子に尋ねると、面倒くさそうに、車に轢かれた、とだけ答えた。特に大きな怪我はなかったが、顔色が悪かった。頭が痛いんだ、と彼は訴えた。マチコは息子を病院へ連れて行くことにした。マモルはジュースが飲みたい、と言って冷蔵庫へと歩いた。マチコはバッグに財布と携帯電話を放り込み、車のキーを探した。マモルに目をやる。口をつけて直接冷蔵庫のスポーツ飲料をごくごくと飲んでいる。飲み終えて、キャップを閉めて冷蔵庫へと戻そうとしたところで、彼は気を失った。全身の骨が溶けてなくなってしまったようにくしゃっと崩れた。マチコは悲鳴を上げた。
病院へと向かう車の中でヨシオは自分の息子に起こったことと、自分の身に起こりつつあることについて考えを巡らせた。大丈夫だ、きっと大丈夫、何も悪いことはおこりゃしない、落ち着け、そんな言葉をつぶやいた。だが、何が大丈夫なのかはわからなかった。そしてまた大丈夫だ、とつぶやいた。
病院へ着き駐車場に車を停め、乱暴にドアを開けた。だが、ヨシオはそこで動きを止めた。足が動かなかった。ヨシオはこのまま足が動かなかったら、いや、動かないでほしい、と思った。そして頭を振ってばかばかしい、と思った。大丈夫だ、と呟いて、彼は一本ずつ足をゆっくりと地面につけた。
受付までは暗澹たる気持ちで進んだ。早く息子のもとへたどり着きたい、という思いと、自分がそこで目の当たりにする事実に対して目をつぶってしまいたい、という思いとが交錯した。ドアに近づくと、それは自動で開いた。彼はその様子を呆然として眺めた。自分の日常が崩れようとする中でも、自動ドアは、いや世の中は今までと何も変わることなく、規則通りにやっていくのか、というのが信じられなかった。自分一人だけその幸せな日常から取り残されるのだ、と考えると気分はさらに暗くなった。
受付で名前を告げると、看護服を着た女が事務的な口調で息子の部屋を案内した。
病室に入ると何本かのチューブを繋がれた息子と、神経質そうな顔をした若い医者と、妻が目に入った。マチコは夫の姿を認めるとヨシオに縋り付いた。そして泣きながら、嗚咽とまじりあってわけの分からない何事かを必死に彼に伝えた。ヨシオは彼女を一度強く抱きしめると、大きく息を吸い込んだ。大丈夫だ、と妻に言い聞かせた。ここに来るまでの間何度となく自分に対して呟いたが、それは今度は妻に向けられたものだった。そして鼻にチューブをつっこまれた息子に対しても。
彼は妻を落ち着かせると医師と視線をかわし、意味ありげにうなずいた。
「私たちは一時的なショック状態だと考えています」医師は説明を始めた。
「昏睡、ということですか?」
「いえ、先ほども申し上げました通り、一時的なショック状態で昏睡、とまで呼ぶ状況ではありません」医師はきっぱりと断言した。「ただ、脳に衝撃があったのは事実ですし、精密な検査が必要だということも事実です。ただ昏睡ではありません。深く眠っているだけなのです」
ヨシオにはその違いがわからなかったが、納得したかのようにうなずいた。
「では息子は目を覚ますのですね」
「ええ」
「それじゃあ、いつ目を覚ますのですか?後遺症は残るのですか?」
「断言はできませんが数時間か、おそくとも数日のうちに目を覚ますでしょう。後遺症の方は検査をしてみないと何ともいえません」医師は一つずつゆっくりと言葉を選びながら答えた。ヨシオは、夫の腕を掴んだ妻の手がきつく握りしめられるのを感じた。
「でも、安心してください、深く眠っているだけなのです。昏睡ではありません」医師は彼らを元気づけるかのようにそういった。だが、彼らにはやはりその違いが一体どれほどのものなのかわからなかった。
医師や看護婦が部屋を出て行ったあと、ヨシオとマチコは愛する息子のそばに椅子を並べて座った。しばらくの沈黙が流れたのち、マチコはヨシオの肩に顔をうずめた。ヨシオは妻の肩に手を回しそれを支えた。
「どうして?」マチコは呟いた。ヨシオは答えなかった。何かを答えようとしたが、答えられなかった。もっともそれは問ですらなかっただろう。
「この子どうなっちゃったの?」
「さっきお医者さんが言ってただろう、ただ深く眠っているだけだって」
「でも、」
「大丈夫だよ。昏睡しているわけじゃないんだ。だから大丈夫」ヨシオは医師の言葉を繰り返してみた。それがどう大丈夫な理由になるのかはわからなかったがそう答えるほかなかった。それは妻に答えるというよりも自分に言い聞かせるような言い方だった。妻は顔をうずめたまま何も言わなかった。
「大丈夫だよ。深く眠っているだけなんだから」
何時間ものあいだふたりは一言も口をきかなかった。お互いに息子のベッドに体を移して、その小さな額や頬を撫でたり、その手触りの滑らかな髪の毛を梳いたりした。そして何かを言おうと口を開いたが、決まって言葉は出てこなかった。そしてまた椅子に戻り、両手で顔を覆った。
やがて点滴の交換に来た看護婦が、
「何もずっと二人で付き添われていることもありませんよ」と、言った。
「先生も大丈夫だとおっしゃっていることですし、私たちもこうして看護しています。家のこともあるでしょうし、ちょっとのあいだだけでも、どちらかだけでもお帰りになっても大丈夫ですよ。お気持ちはわかりますが」
「あたしは残るわ」妻は反抗的な口調で断言した。
「きみ、少し家に帰りなよ。ここは僕が見てるからさ。家に帰るんだ。そして食事をとり、シャワーを浴び、着替えてここに戻ってくるんだ」
「あたしは残るわ。あなたが帰ればいいじゃない」妻は何かに腹を立てるように言った。
「うん、僕も帰る。だが、まず君が帰るんだ。そして少し休む。そして君はここに戻ってくる。僕はそれから帰るよ」
「いやよ。あたしは帰らないわ。絶対にここを離れない」
二人のあいだの険悪な雰囲気など、さも存在しないというような風で看護婦は手際よく点滴を外し、新しい点滴をマモルに取りつけていた。
「いつまでもそんなんじゃ参っちまうだろう?だいたい何か悪いことをしようっていうわけじゃないんだ、家に帰って、戸締りだってしなきゃならないし、フラッフィーに餌だってやらなきゃならない。いや、これからしばらくはだれかにあずかって面倒も見てもらわなきゃならないし、僕たち自身だって、」
「犬なんかどうだっていいわ!」妻は大声で怒鳴りつけた。だがまぁ、確かにその通りだ。看護婦は作業の手を一瞬止めてから、再びその続きに取りかかった。ヨシオは自分自身でも一体何が言いたいのかよくわかっていなかったことに、いや、それ以前に自分が何かを言おうとしていたのかどうかさえ全くわかっていなかったことに、気づいた。そしてそのことは彼をひどく混乱させ、不安にさせた。誰かが自分のとるべき行動を指示してくれればな、と心から思った。
しばらくのあいだ誰もしゃべらなかった。やがて作業を終えた看護婦が出て行ったあとで、ヨシオが口を開いた。
「やっぱり僕はちょっと家に帰るよ。ここに泊まるにしても荷物とかもとってこなきゃならないしね。何か持ってくるものはあるかな?」マチコは前を向いたまま何も答えなかった。ヨシオはしばらくのあいだ返事を待っていたが、やがてあきらめると部屋を後にした。部屋を出るまでは自分が妻と息子を見捨てていくような後ろめたさを感じたが、部屋を出るとそういった気まずい罪悪感はあっという間に消えた。
いつの間にか雨が降っていた。そっと忍び寄り、いつの間にかあらゆるものを陰気に濡らして通り過ぎていくような雨だった。赤信号で彼はとまった。車の通りのほとんどない、そして人気もない信号だった。信号の向こうには延々と続いていく道路がいくつかの起伏に沿ってゆっくりと波打ち、はるか遠くのカーブに消えた。憂鬱な曇り空の下では、その光景は悪趣味な夢か、出来そこないの中世の宗教画に出てくる風景のようだと思った。リアルだが現実感が欠けている。前かがみにハンドルにもたれ、そこに頭をうずめた。ルーフトップに張り付く雨の音だけが生々しく耳に届いた。ときおりしずくを集めた梢から落ちる雨粒の屋根を打つ音が響いた。薄暗い静けさを叩くその湿った響きは自分を追い立てているように思えた。そういった音を聞いていると、これは現実なんだ、と思った。それも良くない現実だ。
顔をあげると信号は黄色から再び赤に変わったところだった。横断歩道には若い男が疑わしげな目でこちらを眺めていた。男は傘をさしていなかった。黒のオイルスキンを着込んでいた。信号が青に変わると、男は襟を頬まで引っ張り上げて歩道を渡っていった。ハンドルに片手を置いたままヨシオは男が歩道を渡っていくのを眺めていた。途中で男は敵意のこもった眼でヨシオを睨みつけた。ヨシオはちょっとびっくりしたが、男が渡り終わってしまうと、そんなことはどうでもよくなっていた。信号が青に変わるまでのあいだ、雨を掻き落とすワイパーの動きや、水滴に連なって落ちていく水の筋をぼんやりと眺めていた。
信号が青になった。ヨシオは車のギアを入れた。
先ほどの若い男を追い抜き、その時派手に水を撥ねかけてしまった。男はまたこちらを睨んでいるだろうか。ちょっと気になったが次のカーブを曲がるころには水を撥ねかけたことなどもう忘れていた。
家の鍵を開けて中に入るとそこには誰の気配もしなかった。自分が帰るとき、家に誰もいないということが実に久しぶりだったことに気が付いた。靴を脱いで廊下を渡り、リビングの電気をつける。冷蔵庫の下にはスポーツドリンクのペットボトルが落ちていた。ヨシオはそれを拾い上げると冷蔵庫にしまった。冷蔵庫の扉を閉める音が廊下の闇に消えて行った。家の中がひどく広く感じられた。
それから熱いシャワーを浴びて服を着替え、ソファーに深く座り込んだ。大きく息を吸い込んで自分の状況について整理してみた。自分の人生は幸福だった。家族は両親ともに健在だったし、恵まれた家庭だったと思う。兄弟はみな立派にやっているし、大学の友人は誰に紹介しても恥ずかしくない人間たちだった。一度大学を出た後、しばらく会社に勤め、そして今度は大学院へと進み経営学の修士号を取った。そして友人の起こした会社の共同経営者におさまり、十分な収入にありついた。家族は二人。美しい妻と、かわいらしい息子。住んでいるのは品のいい住宅街。高級住宅というわけではないが、こじんまりとまとめられたつくりは気に入っている。うん、ここまでは問題ない。そして、と思う。そして、悪いことが始まった。彼は大きく息をはき出した。ここまでは確かに幸福だった。だが、それは注意深く落とし穴を避け続けてきたからであり、また、それ以上に自分が幸運だったからである、ということも彼は知っていた。自分に与えられた幸福は偶然で、どれだけ注意しようとも、悪いことが降りかかってきたらそんなものはあっという間にどこかへ行ってしまうのだ、ということも。だが、大丈夫だ。悪いことはこれからたくさん続くだろう、けれど、自分がしっかりしさえすれば、まだ何とかやっていけるはずだ、と。そう言い聞かせた。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。何か食事をとろうかと思って冷蔵庫を開けたが、やめた。全く腹なんか減っていなかったからだ。コーヒーメーカーが湯を立てる音だけが響いた。しばらく考えてからヨシオはコーヒーメーカーのスイッチも切った。
家を出る前に親や兄弟、友人にひととおり電話をした後で戸締りをして家を出た。犬の面倒は兄貴に頼んだ。
病院へ着くとエレベーターを使い病室へと向かった。ドアが閉じるとき、このまま逃げ出してしまいたい、という思いが頭をよぎった。ドアが開き、虚ろな目でガラスの外を眺めてベンチに座っている患者の横を通り過ぎ、病室の前に立つと、両足をそろえて立ち、一呼吸置いた。そして威厳を取り戻すと、取っ手に手をかけドアを開いた。中では妻が部屋を後にした時とそっくり同じ格好で椅子に座り、息子に向かい合っていた。
この小一時間のあいだには何も起きなかったのだろう。妻の隣に座っても、彼女は何も言わなかった。
「あとは僕が付き添っておくよ」
「検査があるわ」
「検査?」
「そう、検査よ」
「僕は何も聞いてないよ」
「だってあなたは今までここにいなかったじゃない」彼女は非難めかして言った。そして二人は押し黙った。
しばらくの後に最初とは別の医師がやってきた。サトーと申します、この度は、という簡単なあいさつを交わしたのち、彼はマモルを検査する、ということを伝えた。
「一体何の検査なんです?」
「レントゲンですとか、CTといったものです。脳に異常がないか、後遺症の兆候がないか、などを調べます」サトーは事務的な口調で言った。
「マモルはいつになったら目を覚ますんでしょう?」
「確かなことは申し上げられません。私を含め、何人かの医師が見たところではこの昏睡はそれほど深刻な状況ではない、と考えています。検査の後にまた詳しいことをご報告できるでしょう」
昏睡、という言葉に二人はどきりとした。
「昏睡なのですか?」
「昏睡、というよりは、眠っているというのに近いと思いますね」医師は特に気に留めるふうでもなく訂正した。「何か重大な外傷がある形跡もないですし、正確にはそういう状況です。いずれにせよ検査をしてみればさらに詳しいことがわかるでしょう」
マモルは車輪付き担架にのせられて部屋の外へと運ばれて行った。
「もちろんお二人のご心配はもっともだと思いますが、我々は、どちらかというと念のために検査します。異常がないことを確認するための検査です。これは誇張でもなんでもなく、厳正な事実です。検査が終わったらすぐにご報告いたしますので、少しお休みになってはいかがでしょう」サトー医師は促すようにマチコに言った。マチコは一瞬目を上げたが、何も答えなかった。
「ええ、そうさせていただきますよ」ヨシオが代わりに答えた。
サトー医師が出て行ったあとで、二人はマモルがいたときと同じように並んで座った。
「家に帰って少し休むんだ」ヨシオはきっぱりとした口調で言った。マチコは何も聞こえていない、というふうに前を向いたままだった。
「いつまでそんなことしてるつもりなんだ?」ヨシオはいらいらしていた。マチコは前を向いたまま、「そんなことってなによ」と呟いた。特段意味があって呟いたわけではなかった。ただ夫の言葉尻につっかかりたかっただけだった。だが、やがて自分がつぶやいた言葉にはもっと火種を大きくする力があることを発見した。それを口にしてはいけない、と感じたが、どうしても言ってしまいたいと思った。いや、自分はそれを言わねばならない、とさえ思った。夫の顔が一瞬緊張が走り、それはすぐに隠された。何事かをごまかすために装っているのがわかった。その顔はマチコに、この人を傷つけてやりたいと思わせるのには十分だった。
「そんなことってなによ、」彼女は夫を睨みつけた。自分でも無茶苦茶なことを言おうとしているのがわかった。なんでそんなことをいうのだろう、と思った。もう止まらなかった。「自分の息子が車に轢かれて目を覚まさないっていうのに、そばについているのが、そんなことだっていうの?」
「そういう意味じゃない、そんなことは君だってわかってるだろう?」ヨシオはこめかみのあたりを指で押さえ強く揉みながら言った。
「じゃあどういう意味なのよ!」マチコはどなりつけた。「あなたにはマモルが目を覚まさないことだってどうだっていいんでしょう?」出来るだけ相手を傷つける言葉を、力の限り悪意のこもった言葉を投げかけてやりたいと思った。
「一体どうしたっていうんだ」ヨシオはわけがわからない、というふうにゆっくりと頭を振った。「そんなこと思うわけ、」
「あなたは帰っていいわよ。帰りなさいよ、」マチコは遮って叫んだ。「家でゆっくりしてらっしゃいな。明日もお仕事が早いんでしょう?帰ってゆっくりと休んで、仕事に行けばいいじゃない、でもね、あたしはここに残るわ、だってそうでしょう、マモルが目を覚まさないかもしれないのよ、体中にチューブを差し込まれて、わけの分からない検査を受けるのよ。あたしは心配なのよ。検査が終わっても、医者ははっきりとしたことは何も言わないか、私たちにはわからない言葉を並べたり、いえ、昏睡だとか、昏睡じゃないだとか、深く眠っているだけですとか、全然とんちんかんな事しかいやしないのよ、そんなどうだっていいこと真顔で言われてあたしはどうしろっていうの?バカみたいじゃない、マモルが目を覚まさないっていうこと以外どうだっていいのよ、あいつらも、あんたも、マモルのことなんかどうだっていのよ、この病院で、本当にあの子のことを考えてるのはあたしだけよ、だからあたしはここに残るのよ」
マチコは俯いて彼女の言葉を聞いていたヨシオの拳が握りしめられるのを、そして肩が怒りに強張るのを見た。怒りを必死に我慢しているのを見て取った。自分に対する怒りを我慢する夫を意気地なしだと思った。マチコは夫に、我を忘れ、怒鳴り散らしてほしかった、ひっぱたいてほしかった。
「もしかしたらマモルはしばらくかかるかもしれないんだ。こんなことじゃ二人とも参ってしまうよ、こんなことはいつまでも続けられやしないんだ。僕たちが参ったらどうする?僕たちがしっかりしなきゃ。それは君だってわかっているだろう?」マチコは正論だと思った。頭のどこか冷静なところは彼の言うことは全く正しい、と思った。そして今聞きたい言葉は正論なんかでは全くなかった。そんなことは一番聞きたくなかった。
「帰りなさいよ。そうよ。さっきみたいにね。息子が二度と目を覚まさないかもしれないって時にそのそばを離れられるんだものね、感心するわ、本当よ、それで次は、もしずっと目を覚まさなかったら、金だってかかる、僕は君たちのために働かなきゃならないんだ、わかるだろう、っていうんでしょう?ええ、わかるわ、すごくよくわかるわよ、あなたの言う通りよ。みーんなあなたの言う通りよ、あなたはいつだって正しくて立派よ、あなたのおかげでなんでもうまくいくわ。こんな風にね。あなたみたいなご立派な父親がいて、マモルも喜んでるでしょうね、」女性特有の論理の飛躍と、自意識過剰な被害妄想と、甘ったれた責任転嫁がごちゃ混ぜになって、もはやマチコ自身も何を言っているのかわかってはいなかった。
一瞬、間をおいて顔をあげたヨシオの目がマチコを捉えた。表情と理性を失った顔の中に憎しみに近いまなざしがあった。マチコはその迫力に一瞬気圧されたが、いや、一瞬ひるまされたことに抵抗して、彼女はより一層まくしたてた。「うわべだけ心配そうな態度取って、本当はどうだっていいんでしょう、だからあなたは私たちを放って帰ったのよ、またそうやって、」
病室に乾いた音が響いた。
「いいかげんにしろ」ヨシオの右手がマチコの頬を打った。
「君は家に帰れ」
しばらくのあいだどちらも身動きをしなかった。やがてヨシオが大きく、そして静かに息を吐き、強張っていた肩から力を緩めた。
「家に帰るんだ」マチコは怒りのこもった眼でヨシオを睨んだ。もっとも、彼女が憎んでいたのは自分自身だったのだが、その視線はヨシオに向けられていたのだ。
「いいかい、君は疲れているんだ、家に帰って少しでもいいから休むんだ。何もぐっすり眠れと言ってるわけじゃない、ほんの仮眠だけでもいい。熱いシャワーを浴びて、そして何か腹に入れる。それでまたここに戻ってくる。検査のことで何かわかったらすぐに知らせる。いいね」
マチコはぶたれた頬の痛みに手をやろうとして、彼女の中の虚勢がそれを止めた。彼女はバッグを乱暴にひっつかみ、「なにも食べたくなんかないわ」と言った。
「それなら砂糖とミルクのたっぷり入ったコーヒーでもいい。なんでもいい」
「食欲なんかまるっきりないのよ」そう言って彼女は病室のドアをぴしゃりとしめた。
自分はコーヒーさえ飲まなかったな、とヨシオはふと思い出した。
家に帰ったマチコは郵便受けに投げ込まれていたピザや生命保険のチラシや回覧板を取り込み、ダイニングテーブルの上に重ねた。テーブルの椅子にしばらくのあいだ座り込んでいた。帰る道からずっと自分が夫に対してしたことについて考えていた。そしてマモルのことを。彼が二度と目を覚まさないということを。やがてそれらは複雑に絡み合って、思考の彼方へと沈んでいった。嫌な思いだけが残った。自分がひどくちっぽけな存在に感じられた。結局のところ、自分は、あそこに残ることで何がしたかったのだろう、と思った。自分が苦しむことで、誠実さを示せると思ったのだ。誠実?いったい何に対して?自分の人生に降りかかりつつあるものに対して?馬鹿げてる。あの病室の椅子に座っていた女は、自分が苦しむことでマモルが目を覚ますかもしれない、と固く信じ込んでいた。もちろん妄想じみた思い違いだということくらい彼女だってわかっていた。だが安易に馬鹿げた勘違いといって切って捨てられないものがそこにはあった。そんな思いに出口はない。自分を支えてくれる愛情を確認したかった。自分を支えてくれる人間を傷つけて、自分も傷つきたかった。そしてそれでもなお自分を支える愛情に揺らぎがないことを確認したかった。自分を導く愛情が、どんな状況でも、強く正しい方向に導いてくれることを確認したかった。正気に戻って、息子と自分たちが取り囲まれた状況に真正面から取り組むきっかけをつくってほしかった。現実から逃げようとする自分を引き戻してほしかった。誰かの責任で。私は自分が負わなければならない苦しみに立ち向かう勇気がなかった、そしてその尻拭いを夫にさせたのだ。それも夫と自分を傷つけることで。甘ったれだと思った。
「気持ち悪い」彼女は自分に対して呟いた。それだけをいうと椅子から立ち上がり、電話の留守番メッセージを再生した。何件ものメッセージがあった。夫の両親や、親族や、会社の人間からの電話だった。夫が各所に連絡を入れておいたのだろう。状況が知りたいから、時間ができたら連絡をくれ、そちらに行こうと思うが病院はどこだ、といったものだった。きっと夫がいまごろ病院でそういった事務的なやり取りをしているのだろうと思った。息子の昏睡と、先ほど自分が彼に押し付けた重荷を背負ったままで。
自分も親族に連絡を入れたほうがいいだろうか?もちろんいいだろう、だが、と思う。いまは電話なんかしたくなかった。チラシや回覧板を整理し、テーブルのビニール袋も片づけた。ビニールには朝のパン屋のロゴが入っていた。そのロゴは彼女の気分をより一層沈ませた。そこには数時間前の自分の思いが――誰も不幸でなかったころのものだ――残っていた。中を開けてみると夫のために買ったクルミパンがあった。息子を喜ばせるために買った猫のパンがあった。パンの中の猫は買ったときと同じ可愛らしい目でこちらに微笑みかけていた。その笑顔を手につかんでじっと眺めていたが、やがて耐えられない、という風に、
「最低」と言って、パンを袋に戻しレンジに突っ込んだ。彼女は台所の床に崩れて泣いた。声にならない怒りの文句と、音にならない嗚咽だった。
やがてマチコは立ち上がった。猛烈に誰かに電話したいと思った。ここに留守電を残すような人でなく、事情を知らない誰かに。受話器を見つめてしばらく立ち止まっていたが、けっきょくやめた。
彼女は洗面所で服を脱ぐと、洗面台の蛇口をひねって縁に両手をついた。しばらくのあいだ目を閉じて排水溝へと吸い込まれていく水の音に耳を澄ませた。そして右手で水をすくいゆっくりと顔に擦りつけた。もう一度同じことを繰り返し、髪を後ろへとかきあげた。頭の上で髪の毛を拳で握り顔を上へ向かせた。目を開いた。女の顔があった。くたびれきった女の顔だった。自分を憎む卑怯者の顔だった。鏡の中の自分を見たくなかった。彼女は顔を下げてその女から目をそらし、頭を振った。風呂場へ入り、シャワーの栓をひねった。
熱いシャワーを浴びると頭がいくらかすっきりした。そして夫の言うことを思い出した。鍋でミルクを沸かし、たっぷりの砂糖を入れてホットミルクを作った。台所の椅子の上に膝を抱えて座り、それを飲んだ。夜の家の広すぎる静寂のなかでホットミルクの温かさは彼女の芯にまでしみいった。心を捉えるような暖かさだった。彼女は短い間だけすすり泣いて、そして眠りについた。大丈夫きっと明日にはよくなっている。いいえ、よくならないかもしれない。だけどそれを受け入れよう、もう逃げるのはやめよう。と思った。眠りが訪れた。
マモルは週明けになっても目を覚まさなかった。週末はヨシオとマチコがかわるがわるマモルのそばについていた。途中彼らの両親や、兄弟が訪ねてきてくれた。彼らの心のこもった励ましや、数時間のあいだマモルのそばに代わりについてくれたことは非常にありがたかった。けれども、マチコはヨシオを傷つけたことを謝りたいと思っていたので彼らのいる場ではいささか言い出しづらかった。また、ヨシオの方でも、訪ねてきた親族に毎回同じ状況を説明することに、そして慰めの言葉にたいして、気落ちを悟らせないように対応することに、少々疲れていてマチコとの時間をつくれなかった。時間があれば待合室のベンチで仮眠をとるか、どちらかが交代で病院に残り、家との間を往復した。
そして月曜を迎えた。彼は会社に残していたいくつかの仕事を片付け、明日からは休みを取ることにしていた。今日のうちにやり残した仕事と、今週のうちに済まさねばならない仕事にめどをつけておきたかった。仕事には全く集中できなかったが、それでも彼はやるべきことにけりをつけた。ほとんどがいつもとかわらぬ作業だったが、何倍もの疲労を感じた。社内の、何かを憐れむような雰囲気もたまらなかった。何気ない動作のいちいちさえ彼をくたびれさせた。
仕事が終わったのはもう夜遅くだった。家に帰るとネクタイをほどきソファーに倒れこんだ。彼はだいぶ昔に煙草をやめていたが、久しぶりに吸いたかった。数日分の仕事を、まったくはかどらないまま気力で終わらせてきたために、ひどく疲れ切っていた。だが、これから病院で待ち受ける疲労は、それとは全く違う種類のものだった。これほど多種多様な疲労を抱え込む日も自分の人生でまたとはあるまい、と思うと心底うんざりした。自分は最低だと思った。「あんたも、マモルのことなんかどうだっていいのよ、」というマチコの言葉を思い出した。たしかにそうなのかもしれないな、という安っぽい自己嫌悪と自己憐憫にしばらくのあいだ浸り、そして、くだらん、と呟いて頭を振った。きっと疲れてるだけだ。
電話があったのは彼がシャワーからあがった時だった。
「ああ、どうも。ケーキのことなんですがね」受話器の向こうから非難がましい口調で男がいきなりそう言った。
「はい?」ヨシオは疲れていたせいでその口調に少しむっとして答えたが、それが思いのほかとげとげしいものになったことに自分でも驚いた。もっともそれは相手も同じようで、電話の男は声を失って一瞬の空白が流れた。気まずい沈黙だった。ヨシオは言いなおそうかとも思ったが、やめた。言い直すにはくたびれすぎていた。
「いやね、こっちはずっと待ってたんだ、連絡もなくて、こんな時間まで待ってた。そうい言い方はないでしょう」
「申し訳ないんだが、何の話だか分からないな。だいたい、いきなりそんなこと言われましてもね。誰だか知らんが、失礼だ」
「わからんだって?こっちに言わせれば、ケーキなしであんたたちがどうやって誕生日を祝うのか皆目見当がつかないがね。ああ、よそに頼んだのか?そうだろう?まぁいいさね。そんなことはどうだっていい。だけどこっちはあんたたちに頼まれて実際にケーキも作ってたんだ。そして店もしめないでこうしてずっと待ってた。電話にも出ない。俺を惨めな老人だと思ってバカにしているのかもしれんが、」といって一呼吸置いて強調するように言った。「それにしてもたちが悪すぎる」
「ちょっと待てよ。僕はあなたが誰かも知らないし、何に対してそんなに怒っているのかもわからない。もし私が何かをしたなら謝るが、」
「だからさっきから言ってるだろう。ケーキだよ。ずっとあんたを待ってた。俺が言いたいのはそのことだ。とぼけてすまそうなんて思わないこったな、やろうと思ったら俺はあんたの家の住所だってわかるんだぜ」ヨシオはその一言でいたずら電話であると確信した。さっきまでは自分に負荷をかけて仕事を片づけた緊張感と、これから病院で強いられる緊張とで高まった神経のまま必死にこの件について考えていたが、そう確信すると、張りつめた思考が一気に弛緩した。
「僕は疲れてるんだ、イタズラにかまってるほど暇じゃない。それにあんたその声、もういい年なんだろう?こんな不毛な暇つぶしはやめたほうがいいと思うね、みっともないぞ。もしあんたがさっき自分で言ったとおり、惨めな老人だったにしてもね。あんたは単なる冗談のつもりかもしれないが、はっきり言って今の僕にとっては本当に迷惑なんだ。警察に突き出してやろうと思ってる」ヨシオはぼんやりとする頭で、何も考えることなく、ただ感情のままに頭に浮かんでくることを言葉に並べた。それが思いのほか辛辣なものであることにも気付かなかった。彼はいらいらしてはいたが、別に相手に対して怒りを抱いていたわけではなかった。ただ疲れていたのだ。疲れに任せて、自分の思うままにすらすらと感想を言ったのだった。だから ヨシオは受話器を持ったまましばらく待っていた。そのまま切ればよかったのだが、ごく当たり前の会話と同じように、自分の会話に対する相手の反応を待っていた。
「先にしかけてきたのはそっちだからな」電話の声には明らかな敵意がこもっていた。ヨシオは声に含まれたその敵意ににはっとした。
「いたずらならよそにするんだな、下らん電話をするな」と、ヨシオは受話器に怒鳴った。
電話はもう切れていた。
ヨシオとマチコはこの数日のうちに不安を分かち合えるようになっていた。もちろんそれで不安がなくなるわけではないし、ましてや軽くなるわけでもない。だが不安を分かち合えることは、二人にとって大きな救いになった。あいかわらず口数は少なかったが、そこには以前のようなぎこちなさや敵意に満ちた雰囲気はなかった。医者はマモルの状況について昏睡なのか、眠っているのか判断をしかねていたが、それもどうでもよかった。彼らの意見が昏睡に固まりつつあることも知っていたが、この夫婦はもうすでに誰よりもその事実を受け止めていたし、二人で困難に立ち向かっていく覚悟を決めていた。
「マモルはいつ目を覚ますのでしょう?」息子の手を握って彼女は聞いた。
「本当はもういつ起きてもおかしくないんです、」と前置きした後で「もう一度検査をしたいと思います」とサトー医師は言った。
「うちの息子は昏睡状態なのですね」とマチコは聞いた。
「今の状況ですと、そうだと言わざるを得ません」とサトーは申し訳なさそうに言った。
マチコは、そうですか、とだけ呟いた。さほどショックはなかった。ヨシオは息子の手を握る妻の手に、自分の手をそっと重ねた。
「何も異常がないのです。脳にも体にも。本当にただ眠っていて、目を覚まさないだけ、としか言いようがないのです」
医師たちが出ていくまでヨシオは妻と息子の手を握り続けた。
「今日は僕が見てるよ」ヨシオは言った。妻は頷いて夫の肩に頭を預けた。ヨシオは彼女の頭の重みと微かな吐息を感じながら、自分たちの覚悟を確認していた。大丈夫だからな、といって息子の頬を撫でた。妻は一度彼の手をぎゅっと握りしめて、そして立ち上がった。
「いたずらがあるかも」彼は思い出して彼女に伝えた。
「いたずら?」
「電話さ。気にしなくていい。おとといから何回かかかってくるんだけどね、本当は出なけりゃいいんだけど、仕事の電話だったり親戚やら病院からかかってくるかもしれないしね。出ないわけにもいかなくってね」
「わかったわ」
「無理に電話に出ることもない」
「ええ、でも、」といって彼女はヨシオの手を握り直し「大丈夫」と言った。
結局その日は何事もなかった。彼女はいつもの日課を機械的にこなした。家に帰り、シャワーを浴び、食事をとり――食欲だけはめっきりと少なくなったまま戻ってはこなかった――深くは眠れぬ睡眠をとり、雨戸をあけ家の中に新しい朝日をたっぷりと採り入れた。玄関に出ると新聞を取り込んだ。そしてチラシを分類し、きちんと収納ラックに収め、夫や自分の服を洗濯し、それを気持ちのいい日の光のもとに干した。すれ違う近所の知り合いたちに礼儀正しく挨拶をし、遠慮がちに語りかけられる気遣いの言葉には丁寧に礼を言った。花壇の花に残らず水をやり、玄関から家の前までをほうきで丁寧に掃いた。部屋の掃除だけはできなかった。息子のおもちゃは彼が事故の前の日に散らかしたままだった。それだけはできなかった。家絵の軒先だとか、そういったところの整理をしただけだった。
そして数日間のあいだ夫と彼女で病院と家を交代で行き来した。夫が家にいる間に一度いたずら電話があったきりで、彼女は電話のことなどすっかり忘れていた。電話が鳴った。
「もしもし」
彼女は電話を取る。一瞬の間をおいて、
「やぁ、あんたか。そのせつはどうも」見知らぬ男の親しげな声が流れてきた。マチコはすぐに夫の言ったいたずら電話のことを思い出した。とっさに電話を切った。そして嫌な気分になった。
数分後に再び電話が鳴った。マチコは少し迷ったがけっきょく電話を取ることにした。こういうときだからこそ、それがどんなものであれ、悪意には一つ一つ丁寧に立ち向かわなければならないと思った。
「いきなりきることはないだろう」電話のむこうで男がにやつくような声を上げた。
やはりさっきの男だった。先ほどは不意を突かれたが、今度こそは毅然と立ち向かおう、と思っていたが、
「なんでこんなことするの?」自分で言いたいこととは裏腹に、懇願するような言葉が出てきた。口調は激しいものだったが、どことなくそらぞらしいものがあった。それは言葉の弱さをごまかすためのものだった。男はそんな彼女の気持ちを見透かすように笑って、
「そっちがはじめたことだろう」と冷笑するような口調で言った。
「私たちが一体なにしたっていうのよ!」マチコは怒鳴った。
「何をしたかって?そりゃちがうね、何もしなかったじゃないか。俺はあの日ずっと待ってたんだ、」と男が笑いながら言うのを遮って、「一体何の話してるのよ、わけがわからないわ」とマチコは言った。
「そろいもそろってあんたたちは俺をバカにするんだな。二人そろってとぼけようっていうんだろう?俺みたいなやつは無視しておけばいずれ黙るってか、相手にもしたくないってか、ふざけるんじゃないぜ、どうしてあんたたちが俺にそこまでの仕打ちをしようとするのか全く分からんし、俺が敵意を向けられるようなことをしたとも思わんがね、だけど、わかった。あんたたちがそういうつもりなら俺だってやってやる。徹底的にやってやる。見損なうなよ、俺はあんたらから見たら惨めでちっぽけな男かもしれんがね、威張るんじゃないよ、そんな男にだってね、意地くらいはあるんだ」男はさっきまでの余裕のある態度から急変しせっぱつまったように一気にまくしたてた。
「一体何がしたいのよ」マチコは強い調子で叫んだが、声は震えていた。誰かから、それも見も知らぬ男からわけの分からぬ悪意を向けられることは初めてだった。
「なにってこともないさ。あんたらに謝らせることと、代金を払わせることさ。それともなにか、俺にあんたたちの為にマモルの誕生日を祝えっていうのか」
マモル、という言葉が出た瞬間にマチコは全身の力が抜けた。何も考えられなくなった。そしてやっとのことで「マモルって言ったの、」という声を絞り出した。
男は自分の出したその言葉がもたらした反応の、予想外の効果に満足して、
「そう。そうだよ、マモルだよ。お宅のマモル君。誕生日だったろ?楽しかったか?」
マチコは電話を切った。電話の前に座り込んだ。早く夫とマモルのそばに帰りたかったが、立ち上がることができなかった。足に力が入らなかった。バッグはソファーに放ってあった。彼女は底まで這って行った。バッグを掴むと、それを抱きかかえて床にうずくまって泣いた。それでも彼女は立ち上がることができなかった。息が苦しかった。泣きながら彼女は玄関まで這って行った。
「あいつよ、」と言ってマチコは抱きかかえる夫の胸の中で顔をあげた。
「あいつって?」ヨシオは威厳のある態度をとっていたが、不安は隠しきれていなかった。
「わからないわ、でも、」
泣きながら訴える妻の異様な迫力に圧倒されながらも、彼は冷静でいようと努めた。そして彼女を落ち着かせるように遮ると、ゆっくりとした口調で尋ねた。
「いたずら電話か?」
「そう、そうよ、」彼女は夫の胸ぐらをきつく握りしめた。
「あのくそ野郎」ヨシオは思わず呟いた。
「ちがうの、そうじゃなくて」
マチコは一瞬迷うようにためらってから、
「あいつマモルのこと知ってたのよ」と言った。
ヨシオの表情が一瞬固まった。
「君が先に名前を出したんじゃないのか?」
「そんなことしない、それに」といって唇をきゅっと噛みしめた。「あいつマモルが誕生日だったことも知ってた」
「思い違いじゃないのか?あいつが僕たちのことを知っているわけない」
「でもたしかにいったのよ、マモル君の誕生日は楽しかったかって」
ヨシオは少しの間考え込んで、
「そういえば最初に電話をかけてきたときも誕生日がどうのって言ってたな」
マチコの顔から色が引いた
「きっと新聞か何かで僕たちのことを知った変態がマモルのことを調べたんだろう。クズめ」
「でも、お金を払えって」
ヨシオは言葉を失った。
「なんだって?」
「謝ってお金を払えって。たしかにそう言ったわ」
「なんて奴だ。次にかかってきたら僕が出る。きっちりと話をつけてやる。出方しだいでは警察に突き出してやる」ヨシオは彼女の肩を強く握って言った。
「けどなんでマモルのこと知ってるのよ」
「さっきも言っただろう、なんかのきっかけでこの事故のことをしって、それで調べたんだよ。世の中にはそういう事故や事件を調べて、被害者にいたずら電話をかけて追い詰めるのを楽しみにしている人間もいるんだ。クズだよ。本当のゴミだ。だけどね、僕たちはそんな連中に負けちゃいけないんだ、わかるね?」
マチコはこの一連の出来事はそんなシンプルな事でなく、なにかもっと暗示的なものが含まれているように思った。だがそれを言葉にすることはできなかった。彼女は無言でうなずいて再び夫の胸に顔をうずめた。
しばらくの間は彼女は家に帰らなかった。二、三日の間実家に帰ることにした。ヨシオが家に帰ってこまごまとした家事をこなし、そして電話を待った。何本かの電話がかかってきたがそれはいずれもきちんとした要件の電話で、マモルやこの夫婦を心から気遣う電話だった。一本だけマンション投資の電話がかかってきたがそれを丁寧に断った。ほかには新聞勧誘の訪問セールスがあった。背は大きくないががっちりとした体つきの頭の悪そうな男だった。乱暴な口調でしつこく迫ってきたので、ヨシオは声を荒げて彼を追い返した。男は玄関を出るときに、くそやろう、と言ってドアを閉めた。
そして病院に戻った。
「今日も電話はかかってこなかった」マモルは実家から帰ってきた妻にそう告げた。
「そう」そう短く答えた。だが、数日間休んだことで、言葉には元気がこもっているのがヨシオにはわかった。彼は少しほっとした。
「もうかかってこないかもしれないな。それで君はもう大丈夫なのかい?まだ休んでてもいいんだよ?」
ヨシオは本気でそう思い始めていたが、マチコはこれで終わったとは思っていなかった。根拠は何もなかったが、マチコにはそれがわかった。だがそれは夫には言わないでおこうと思った。
「ううん、大丈夫。それにいつまでも実家にいたんじゃマモルのそばにもいてやれないし、家のこともあるし。全部あなたに任せるわけにもいかないわ」マチコは微笑んだ。
病室を出てエレベーターでロビーに降りた。廊下を渡る時に、救急の病室のベンチに腰掛けている一家の前を通った。病院独特の陰気さと清潔さが入り混じった空気とは別の、悲壮な空気が彼らの周囲を包んでいた。それは遠目からもわかった。そしてベンチで中年の女性が祈るように両手を合わせ前にかがみこんで、なにごとかの声にならない呟きをぶつぶつと呟いていた。夫と思われる男性は眉間を指で押さえたまま動かなかった。目じりには深いしわが刻まれたままだった。金髪に髪を染めた中学生くらいの女の子はつまらなそうにベンチに横になってファッション雑誌を読んでいた。
この一家が深刻な状態にあることがマチコにもわかった。前を行き過ぎる通行人たちは、遠くから一家の様子を確認して、その前をまるで彼らが存在しないかのように通り過ぎた。前を見て決して視線をそらさなかった。彼らの悲愴な空気の前でそっと息を吸い込み、とめた。ベンチの前を行き過ぎてから再びゆっくりと吐いた。ただし、視線をそらさぬまま、顔の横で彼らの様子を眺めることは忘れなかった。
マチコも一週間近く病院にいる間に無意識のうちにそういう身のこなしを身につけていたのだが、何となく彼女はこの一家の母親と思われる女性に目をやった。何となく彼女と自分に共感するものがあったかもしれない。そういった微妙な気持ちの変化がもたらす足音の変化を、気配を、敏感に感じ取ったのか全員が一斉にマチコの方へ顔を向けた。そしてマチコの姿が病院の職員でないことを認めると男性と娘はまたもとの動作に戻った。だが、女性だけはベンチを立ちあがってマチコの方へと歩み寄った。
「ミツルは、うちの息子はどうなったのですか、」中年の女性は何かを求めるような眼差しでマチコにすがりついた「本当にいい子なんです、もう悪いことなんかやめて、まっとうに生きてたんです、あの子はこれからやっと本当に生きられるんです、お願いです、あの子を、」マチコは不思議と彼女の懇願に聞き入っていた。
「やめるんだ、この人は、違う」父親が母親の肩を両手で支え、マチコから引き離した。
「本当にいい子なんです、」母親は引き離された後もマチコに歩み寄ろうとして父親に引き留められた。娘はベンチで寝っころがって一部始終を雑誌を読む横目で眺めていたが、
「やらせときゃいいじゃん、本当うちの親って、ダっさ」と言って雑誌にまた目を戻した。
母親は娘に目をやったが、まるで何事もなかったかのようにまたマチコに言葉をはき出し始めた。父親は娘を敵意のこもった眼で睨みつけたが、何も言わなかった。
「私たちにね、旅行をくれたんです。心配かけてばかりだったけど、もうゆっくりしてくれていいんだ、これからはちゃんとしたところを見せて喜ばせてあげる、って親孝行をしてくれたんです、あの子が、初めての親孝行でした、でももう旅行なんかいりません、ただ、あの子がいればいいんです、だから、お願いです、ミツルを助けてやってください、お願いです、」母親はマチコに懇願し続けた。
「親バカもここまで来るとね。あんなやつ、ろくでなしじゃないの!」娘は雑誌を横において立ち上がり、怒鳴った。「あんたね、あいつがいままで散々勝手やってきたの忘れたつもり?家の金盗まれてさんざん殴られて、何も出来なくて震えてたくせに、ちょっと真面目に働いて善人ヅラしてりゃ、それでもう全部チャラになんの?どうせ長続きなんかしない、二三年もしたら、また元に戻るにきまってる、勝手に出てって、人の家めちゃくちゃにしといて、死ねばいい、当然よ、あたしは許さないわよ、あんなやつ。死ねばいいのよ」途中から娘の頬には涙が伝い始めていたが、やがて声をあげて泣き出した。父親は目をそらした。母親は娘の言葉など聞こえていないという風だった。二人の反応を見て、「お前らみんな死んじまえ!」と言い放って彼女は泣きながら駆けだした。母親の目が走り出した彼女を追うことはなかった。
「お願いします、」
「うちの息子も車に轢かれて目を覚まさないんです、」とマチコは言った。「もう十日になります」言おうかどうか迷ったが、他人の弱音につられてしまったのだろう、マチコはそういうと、自分の中で緊張していた何かがすっと力を失っていくのを感じた。
その声は母親に、その心の奥深くに届いたようだった。彼女はしばらく黙りこみ、マチコの言葉を何度も噛みしめるように心の中で繰り返した。そして自分の娘を抱きしめるかのように、優しくマチコの頭を抱き寄せた。母親の胸に抱かれると、彼女は不思議と涙が出てきた。見も知らぬ人間の胸に抱かれて泣いているということが全く自然であるかのように思えた。奇妙な安心感があった。だが母親をだましているような後ろめたさがあった。自分は弱い人間だと思った。結局のところ、自分は誰かに弱音をぶつけたかっただけなのだ、そしてその相手に自分より追い詰められた人間を見つけて、こうして利用しているのだと思った。ミツル君がどうなろうとどうでもよかった。だが母親には申し訳ないと思わなかった。入り口のところで金髪の娘がこちらを眺めているのが見えたが、彼女には申し訳ないと思った。
家に帰ってからは数日分の家事がたまっていた。手慣れた作業に埋もれることができるのは彼女にとって本当に心安らぐ数少ない時間の一つだった。嫌なことを考えるのはたいてい何もしていないときだった。ときおり作業の手を休めながら、先ほどの家族について考えた。そして、なにはともあれ、うちのマモルは生きている、と思った。そのことに心の底から感謝した。電話が鳴った。マチコはそれがいたずら電話だとわかった。
「もしもし」マチコは電話を取り、数秒間の無言を確認してから、くたばれ、と言って電話を切った。電話のむこうではソニー・ロリンズの呑気なメロディが流れていた。
それから数時間の間に何回かの電話がかかってきたが、マチコはその中からどれがいたずら電話なのかわかるようになっていた。友人や親せきたちが電話をかけてくる時間帯の傾向とは違う、かかってくる時間に独特の癖があるのを知らず知らずのうちにつかめるようになっていたのだ。夫が最近は電話がなかったといっていたが、きっと彼がいる時間帯のせいだと思った。
何回かの電話を軽くあしらった後に、
「マモル君は元気かい?」と男はだしぬけに聞いた。
マチコはその言葉に一瞬力が抜けそうになったが、何とか気を取り直して、死ね、くそ野郎、と怒鳴った。
男はマチコの反応の微妙な違いを感じ取り、楽しそうにその部分を小突き回すことに決めたようだった。
「怒るなよ、あの子に言いたいことがあるだけさ。誕生日おめでとうってね。マモル君によろしく」
マチコは電話を切った。耐えられなかった。しばらくの間、自分の体を抱きしめて電話の下にうずくまっていたが、突然はっと思い当ると立ち上がって車のキーを取った。家事も、何もかも放り出して、病院に向かった。マモルのもとに帰らなければならない、と思った。悪い予感がした。
病院につくと先ほどのベンチの前にはあの家族はいなかった。娘の読んでいた雑誌だけが椅子の上に放り投げられていた。雑誌の中では髪の毛をまいた派手な女の子が白い歯をのぞかせて可愛らしいポーズをとっていた。彼女は彼らの行方が気になったので、看護婦をつかまえて訊ねてみようと思った。向こうから看護婦が歩いてくるのが見えた。マチコは開きっぱなしになった雑誌のページを閉じて、ベンチの端にきちんと置きなおした。
「すみません、ここにいらっしゃった方たちはどうなったんですか?」
看護婦は少し怪訝そうな顔をしてマチコを眺め、
「ご知り合いですか?」
「いえ、ただ私の息子も昏睡で入院していて、あの家族のかたに慰めてもらったんです、」と言って言葉を切った。知り合いかどうかと聞かれて困ってしまった。あの人たちと自分は一体なんだっていうんだ?それ以上言うことがなかった。
看護婦は少しの間考えてから、前を向いて独り言のようにつぶやいた。
「亡くなりましたよ」
そしてもと歩いていた方向へ進んでいった。
そうですか、と呟いた。なぜかあの娘の駆けだした時の憎しみに満ちた表情が浮かんできた。
彼女はぎこちない足取りでエレベーターに向かった。うまく体に力が入らなかった。だが、誰も気にも留めなかった。ここではぎこちない歩き方をする人間なんかたくさんいたし、そうじゃない人間はたいてい自分のことで頭がいっぱいになっていた。エレベーターまでの道のりで切羽詰まった顔をした男と二回すれ違った。
エレベーターの中では二人の看護婦と乗り合わせた。マチコが乗り込むまでは楽しい会話をしていたようだった。彼女たちはマチコを見ると表情から笑みを消し、同時に厳粛な表情を作った。そしてなにかすまなそうな雰囲気のエレベーターがとまり、マチコが下りると、彼女たちはまたもとの表情に戻って会話の続きを始めた。
病室のドアを開けようとしたときにちょうどヨシオが飛び出してきた。
「君か、おどろいたな、もう帰ってきたのか、ちょうど今、」ヨシオは慌てた口調でそう言った。
「マモルは?」マチコは遮って訊ねた。
「そう、マモル、ちょうどいま目を覚ましたところなんだ、サトー先生を呼んでくる」
「待って、」マチコは、そういってドアを出ようとするヨシオの袖をつかみ彼をひきとめた。今、ここを離れてはいけない、と彼女は感じた。理由はわからなかったが、そうしなければならないということだけはわかった。
「一体どうしたってんだ?」ヨシオは訝しむように言ったが、その声は弾んでいた。
「だめよ、私たちは今そばにいなきゃだめなの」
最初ヨシオは彼女の言っていることがさっぱりわかっていなかったが、やがて彼女の声が含む緊張や、真剣なまなざしからただならぬものを感じ取ると彼の顔からも緩んだ笑みが消えた。彼は混乱して何も言えなかった。
二人が沈黙のうちに見つめ合った数秒の後、マモルはベッドから起き上がった。二人はそれを見ると一瞬の間をおいて彼のもとへ駆け寄った。マチコは息子を抱きしめた。
「マモル、わかるか、お父さんがわかるか、」ヨシオは息子の肩を掴み、何度もかたりかけた。
マモルは、まるで二人がどこにいるのかを探すかのように、何も映らない目で病室をぐるりと眺めた。そしていきなり、顔にぎゅっと苦痛に満ちた皺がよった。そしてまるで何年かぶりに息を吸い込んだというように大きく息を吸い込み、ベッドに倒れこんだ。やがて顔からふっとしわが消え、彼は深くゆっくりと、気持ちよさそうに息をはき出した。
それがマモルの最後の息だった。
病室ではサトー医師が何かを説明してくれたが、この夫婦にはまったく頭に入らなかった。解剖すれば死因がわかるかもしれません、といったがヨシオは、いや、ダメだ先生。そんなことは絶対にダメだ、と言った。
サトーは彼らのことを心から気の毒に思ってくれていることがわかった。いくつかの――うわべだけ取り繕ったようなものではなく――本当に心のこもった慰めの言葉を口にした。だがそれは全く違う言葉で語られる告白のように、彼らには全く理解できない善意に満ちているように、感じられた。夫婦は互いを強く引き寄せ、深く悲しみを共有していた。周りの音は何も意味をなさなかった。
家に帰る車の中では二人は無言だった。一言もしゃべらず、泣きもしなかった。二人を結びつける何かが、彼らを悲しみの淵から押しとどめていた。特に理由もなく彼らは悲しみに耐えていた。二人は久しぶりに一緒に家に帰った。新婚当時のように家の玄関を一緒に開けた。マチコが鍵を差し込む間ヨシオはそれを眺めていた。その微妙な時間も昔と一緒のままだった。家に入り、何事もなかったかのように、二人は何事もなかったかのように振る舞った。ヨシオは上着を脱ぎ、腕時計を外し、クローゼットにしまった。キッチンに戻ると、マチコは食事の支度をしているところだった。鍋に水を張り、コンロにのせた。そして火をかけようとレバーに手をかけた。レバーを回せなかった。手が震えていた。もう限界だった。彼女はレバーを握ったまま泣き始めた。堰を切ったように泣き始めた。やがてその場に座り込んで泣いた。ヨシオは彼女に近づき、隣に座った。マチコは彼の腕に抱かれて泣いた。
「あの子、死んじゃったのよ、ねえ、死んじゃったのよ、どうしよう、」
ヨシオは何も言えなかった。答えようもなかった。隣で泣いている妻を抱きながら、急に住み慣れた家から現実感が消えていくのをぼんやりと感じていた。やがて隣で泣いている妻の温もりも現実でないように思えてきた。息子の死と共に彼の中の何かが一緒に死んだ。
しばらくの間、二人は自分たちの愛情が恋愛感情以外のものによって支えられ始めていることを発見して困惑する少年少女のカップルのように、茫然と宙を眺めていた。視線はカレンダーに赤で書きつけられた丸や、殴り書きのメモや、描かれているヨーロッパのどこかの村の写真のあたりを漂ったが、何かを見ているというわけでもなかった。彼らには子供を失った夫婦が最初の夜をどういう風に過ごせばいいのかなんてまったく見当もつかなかった。全く何もかもがわからなかった。食卓で食事をとっていいのかもわからなかったし、シャワーを浴びていいのかもわからなかったし、ベッドで眠っていいのかもわからなかった。そのどれもが、してはいけないことのような気がした。もっとも、彼らは腹なんかまったく減っていなかったし、眠りたくもなかったし、風呂にだって入りたくもなかった。いつまでもここに座り込んでいるつもりなのか、と思いつつもキッチンの床に座り込む以外に彼らにできることはなかった。電話が鳴り響いたが、彼らの注意をひくこともなかった。
やがて、何度目かの電話でマチコは立ち上がった。ヨシオは正面を向いたままだった。
「殺してやる、くそ野郎!」と彼女は電話を取るなり怒鳴った。電話のむこうではその殺意のこもった態度に驚いたのか、しばらくのあいだ、返事がなかった。マイルス・デイヴィスのソロが流れていた。男は電話を切った。そして、マチコは何かに驚いたようにしばらくの間受話器を持っていたが、やがてレンジへと向かい、その中からビニールを取り出した。中からは誰にも食べられなかったパンが出てきた。パンは腐って酸っぱい臭いを漂わせていたが、猫はあいかわらず可愛らしい笑顔で彼女に微笑んでいた。彼女はそのパンを壁に投げつけると、頭を掻きむしり、唸り声をあげた。ヨシオは彼女の様子を眺めていた。
「殺してやる、わかったわ、あいつよ」
ヨシオは立ち上がった。
「電話のあいつ、誰だかわかったわ、パン屋よ」そういうとマチコは玄関へ走り出した。ヨシオは彼女を落ち着かせて事情を聴こうとしたが、彼女はもう、家を飛び出していた。息子のために買った――そしてもう食べる者のいなくなった――パンはちぎれて、半分はクッキー生地が粉々になっていた。残ったほうの半分だけで微笑んでいた。彼はパンに一瞥をくれると、彼女の後を追った。
パン屋は店を閉めた後だった。クローズの札がかけられていたが、鍵はかかっていなかった。中ではパン屋がカウンターの奥に腰を下ろし、レジに向かっていた。マチコたちが店内に入ると胡散臭そうに彼女たちを眺めた。
「ああ、あんたか。そっちは旦那さん?」
「よく調べたわね」マチコは言った。
「調べるも何も。ケーキならまだとってある。もう腐っちまって食えたもんじゃないがね。持って帰ってもよし、俺が捨ててもよし。ただ、金はきちんと払ってもらうぜ」
「たかだかケーキの為に、よくあんなことができたわね」
「たかだか、っていうのはあんまりじゃないか?別に俺だって好きでこんなもん焼いてるわけじゃないし、おたくらみたいな立派な方々からしたら、こんな仕事は下らん仕事に思えるかもしれないけどね、それでも俺はこれを焼いて毎日生きてきたんだ。約束をすっぽかして、俺に散々に悪態ついて、金も払わないような人にどうこう言われる筋合いはないね」
「だまれ」ヨシオはすごんだ。
二人の尋常ならざる迫力に男はひるんだ。
「面倒事はごめんだ。だいたいそっちから仕掛けてきたんだろう」カウンターの書類の上に置いてあった石のペーパーウェイトを握りしめて顔のあたりに掲げた。
「あんたのせいであの子は死んだのよ!」とマチコは叫んだ。叫んでしまうと、パン屋に対する怒りが消えて行った。あぶくのように弾け、そしてすうっと空気の中に溶け込んでいった。怒りがなくなってしまうとそこには元の悲しみが戻ってきて、するりと入り込んだ。
ヨシオは倒れそうになるマチコを支え、恥を知れ、と言った。
「あの子はね、先週車に轢かれたのよ。そしてずっと目を覚まさなくてね、そのまま死んだわ。今日よ。マモルは元気ですかって?答えてあげるわよ、あの子はね、死んじまったのよ」マチコはもう耐えられないというように泣き出した。
パン屋はしばらく口をきけずにいたが、
「知らなかった」と言って、エプロンを脱いでレジの上に置いた。「本当に知らなかったんです」
ヨシオはまた恥を知れ、と呟いた。
「申し訳ないことをした、いや、取り返しのつかないことをした」
パン屋がそういうと、そのあとは誰もしゃべらなかった。マチコの泣き声だけが閉店後の店に響いた。パン屋はカウンターの上に乗せた手をひっくり返し、掌の皺を眺めた。手を強く握りしめ、そしてまたレジの上に置いた。誰もどうしたらいいのかがわからなかった。マチコたちはもはや怒りのようなものはなかった。この男に復讐したかったわけではなかった。そしてこの男をどれだけ責めたところで、苦しめたところでマモルは帰ってこないし、全くの不毛であるということもわかっていた。パン屋は自分がどれだけこの夫婦を苦しめたのかに気付いて、謝罪したかった。だが、それを自分が言い出していいものなのか迷っていた。彼らに怒鳴りつけられて、謝罪を求めて欲しかった。
やがてパン屋は、彼らに椅子をすすめた。
「座ってください」カウンターの奥に一度戻り、中から椅子を持ってきた。最初夫婦はその椅子に座ることを拒んだ。
「座ってください、お願いです」彼らは向かい合って座った。
「私はあなたたちに取り返しのつかないことをした。こんなこと言えた立場じゃないが、許していただけないでしょうか」男は言った。
マチコは泣いたまま顔をあげなかった。
「私を悪人だと思っているでしょう。でも、そうじゃないのです。それはわかっていただきたい。こんなことするつもりはなかったんです。昔はこんなんじゃなかった」そう言ってパン屋はまた自分の掌の皺を眺めた。「私には子供がいません」パン屋がそういうと彼らは顔をあげた。
「私にも昔は家庭がありました。妻がいました。彼女はもうずっと昔に亡くなりました。子供のいなかった私はそれからずっと一人で暮らしてきました。昔はきちんと人としての生き方がわかっていた。でも、この何年間か、私は自分がしてきたそういう生き方を思い出せなくなってしまったんです。一人で年老いて生きる人間が、そういうきちんとした生き方をするのは大変な事なんです。私は歳を取ってはいるが、それでもまだこれから先何年も何年も、一人で生きて行かなきゃならんのです、誰ともその苦しみを分かち合えんのです、そう考えると、なんていうかその、あまりにも酷だと思えてくるのです。残酷だと」
それから彼らは、お互いの苦しみを語り合った。息子を失った悲しみ。この年まで子供がいないのがどういうことか、店を閉めた後に、誰の気配もしない店内でひとり次の日の準備をして朝を迎えることがどういうことか。毎日毎日どこかの幸せな家庭の為にケーキを焼き続けることがどういうことか。焼いたケーキの数はもう何千個にもなるだろう。世の中には自分には訪れない幸福が、いかに満ち溢れていることか、彼らは語り合った。何時間もかたりあった。パン屋は彼らにパンをすすめた。夫婦は食べた。食欲なんかまったくなかったが、食べた。食べるとそれは、体に活力をみなぎらせた。自分たちのどこからそんな力が溢れてくるのかわからなかった。パンを半分にちぎると香ばしい香りが広がった。突然、言いようのない空腹が彼らを訪れた。この十日間の間、一度もなにかを食べたいと思わなかった。実際まともなものはほとんど何も口にしなかった。だが、この時初めて彼らに食欲が訪れた。それは猛烈なものだった。こんなにも何かを食べたいと思ったのは初めてだった。まるで何日間もの漂流の末に食事にありついたような食欲だった。彼らはパンにかぶりついた。口の中いっぱいに広がる香りは、何かを噛みしめる感触は、口の中においしい食べ物をいっぱいに突っ込む幸福は、味は、彼らを満たした。彼らの中で欠けていた何かを満たした。涙が出てきた。それでも食べ続けた。彼らがパンを食べるのを見て男は喜んだ。
「食べてください、食べると元気が出る。もっともっと」
そういうと男は奥に引っ込みパンを焼き始めた。そして夫婦は男と語り合いながら焼きあがるのを待った。やがて焼きあがったパンの匂いが店内を満たした。男はバターロールを二つにちぎって二人に渡した。ちぎれたバターロールの断面から、匂いが目に見える粒子のように飛び散るのが三人にはわかった。
「どうぞ食べてください。ここはパン屋で、あたしはパン職人です。パンはいくらでもある。食べきれないほどある」
三人は椅子に座り、パンにかぶりつきながら、それぞれの苦しみや悲しみを分かち合った。やがて空が白み、朝日が昇ろうとしているのがわかった。だが、誰も席を立とうとはしなかった。
ちいさな、よいこと