独りぼっちって、寂しいよぉ 【後編】
シングルマザーとして頑張って子育てをしている女性が増えているが、この作品はシングルマザーとして生きる女性の姿を綴ったものだ。困難を乗り越えて逞しく生きて行こうとするが寂しさもある。はたして主人公の女性はどんな生き方をしたのだろうか。
一方別の切り口から読むと一人の男が自分の実娘の出生の秘密を一生守り通すハードボイルドな男の物語でもある。
百 辣腕ルポライターの運命 Ⅱ
コミユウはキャディの尾行を始めてもう一ヶ月近くにもなっていた。だが、キャディは毎日娘二人を学校に追い出すと、真面目にゴルフ場を往復するだけで、これと言ったネタにありつけなかった。変ったことと言えば、彼女は一週間に概ね一度の間隔で、近所の友達仲間とカラオケボックスで歌っておしゃべりをすることくらいだ。友達はどうやら娘と同学年の親どうしらしかった。
コミユウは尾行中キャディのことを調べ上げた。
キャディの名は北山玲子で、今年三十六歳、ゴルフ場からバスで五つ停留所を離れた所の小さなアパートに旦那と二人の娘と四人家族でつつましく暮らしていた。旦那の北山は八王子郊外の自動車の板金工場の職人で毎日軽自動車で通っていた。北山の月々の給料は多くは無かったが、妻の玲子が稼いでくる金と合わせると家計には余裕があると思われた。
いくらしつこいコミユウでも、一ヶ月も見張っていて何も出て来ないので、流石に疲れて来た。それで、そろそろキャディーを追うのは止めようと思いつつあったが、遂に彼女はいつもと違った行動に出た。彼女は勿論ルポライターが自分を見張っているなどとは思いもしなかったのだ。
その日、昔、彼女が結婚前に付き合っていたトシオから珍しく携帯メールが入った。彼は玲子より二歳年下で、当時はよく彼のバイクのタンデムシート(後の座席)に跨って、彼のお腹に手を回して二人でツーリングに出かけたものだ。その時の彼の引き締まった背中の感触は今も忘れられないでいた。彼は年下だったが、玲子の方が熱を上げていた。なので、ツーリングの帰りには必ずラブホに寄って抱き合ったものだ。
彼が年下の彼女を見つけて結婚すると言った時は玲子はものすごく落ち込んだが、そんな時、スナックで知り合った男に慰められて、気が付いた時にはその男と結婚していたのだ。
その男は北山と言って四人兄妹の次男だった。男は優しいやつで、玲子と結婚後に娘が続いて二人も産まれた。その娘も今は小六と小四に成長して、最近は女の子らしくなってきた。それで、北山は最近は二人の娘にべったりで玲子をほったらかしにしがちだったので、しばしば玲子はやきもちを焼くくらいだった。
「オレ、先月離婚したんだ」
「へーぇ? あたしのこと、振っておいて、別れるの早いわね」
「それがさぁ、オレの稼ぎが悪いとか言いやがって、上手く行かなくてさぁ、彼女の方から出てった。オレ、この一年間膝っ子抱いて寝てるんだ。そんな時玲子のことを思い出しちゃって」
「今更なによ。人の気持ちも知らないで」
「オレ、玲子に済まなかったと思ってる。んで、会ってくれないかなぁ?」
「ダメよ。あたしは、今は真面目な主婦してるんだからさ」
「ダメ? オレ、ここのとこ淋しくてさぁ」
「だったら、いい子見つければ」
「玲子、冷てぇなぁ。やっぱ会いたいよ」
玲子は昔の彼とのことを思い出していた。彼と抱き合った時は、彼は激しく突き上げてきて、玲子はいつも彼の激しさにつつまれて頂上に達したものだ。玲子は若かったから、上り詰めた時は自分を忘れてしまうほど、痺れるような刺激に酔わされた。今の旦那の北山に抱かれる時は優しいのだが、いつも玲子が上り詰める前に終わらせるので、玲子の中では不完全燃焼が続いていた。
「じゃ、一回切りだよ。約束できる?」
「嬉しいな。一回切り、約束するよ」
それで、その日、カラオケが終わって、皆と別れてから、玲子はトシオの指定した駅前から少し離れた公園に向かった。
コミユウはバレないようにキャディの後を追った。彼女が公園に入ると、樹の陰から若い男が飛び出して、彼女に抱きついた。男は抗う彼女を抱きしめて、無理やりキスをした。彼のキスのやり方は昔とちっとも変っていなかった。コミユウはその様子をデジカメで撮っていた。コミユウの使っているC社製のデジカメは高感度で、フラッシュなしで薄暗い所でもはっきりと明るく撮れるやつだ。やがて男とキャディは近くのラブホに入って行った。
その様子も落とさずコミユウは撮影していた。玲子は久しぶりにトシオの激しい愛撫に、あっと言う間に上り詰めてしまった。この痺れるような感覚も昔とちっとも変っていなかった。別れる時は玲子とトシオは時間をずらせて別々にラブホを出た。やはり、玲子の中に他人の目を恐れる、後ろめたい気持ちがあったのだ。
「今時の主婦の60%は不倫やってると何かに書いたあったな」
コミユウはそんなことを思い出しながら二人がラブホから出て来るのを待った。だが、出て来たのはキャディだけだった。
百一 辣腕ルポライターの運命 Ⅲ
コミユウはデジカメで撮った北山玲子と男のキスシーンや一緒にラブホに入っていく写真をプリントショップで二枚ずつプリントしてもらった。それをポケットに入れて翌日北山が勤めるゴルフ場に出かけて、彼女が仕事を終わって出てくるのを待ち伏せしていた。
今日は北山玲子の下の娘の誕生日だ。それでプレゼントとケーキを買って帰ろうと予定していた。だが……。
ゴルフ場を出て、バス停に向かっていると、
「北山さん、待ってたよ」
あのいけ好かない男にばったり会った。
「あたし、急ぎますから」
「姉ちゃんよぉ、そうはいかねぇよ」
「前にお断りした通り、もう何も話すことはありませんから」
「まだ何も話してくれてねぇじゃないか」
男は振り切ろうとする玲子の腕をつかんだ。
「何するのよっ!」
道行く同僚の何人かが玲子の大きな声を聞いて立ち止まった。彼女達は男を取り囲んで口々に、
「この人に乱暴したらあたしたちが証人になるから」
と玲子をかばった。
コミユウはポケットから写真を一枚取り出して、
「北山さんよ、丁度いいや。この夕べの写真、ここにいるみんなに見てもらおうか」
と玲子と元彼のキスシーンの写真を玲子の目の前にかざしてヒラヒラさせた。玲子は写真を見て、
「彼のこと、ここにいる人たちも主人も知ってますから、どうぞ見せて下さい」
と言い返した。これにはコミユウも一瞬守勢に回らせられた。だが、彼は手練手管に慣れていた。
「そうかい、そうかいこっちも見せようか」
とラブホに入る写真を取り出して見せた。
「すみません、話しが長くなりそうだから、お先に帰ってて」
玲子は同情してくれている同僚にそう言って先に帰ってもらった。
「あんた、物分りがいいね。じゃ、ここではなんだから、話を聞かせてもらえる場所に行こう」
とコミユウは無理やり近くに停めておいた自分の車に玲子を押し込んだ。エンジンをかけると、コミユウは国道を突っ走り、少し先のラブホに乗り入れた。
「ファミレスとかにしてもらえませんか? あたし、こんなとこじゃ困ります」
コミユウは玲子の言葉を無視した。玲子は少し怖くなってきた。それでコミユウに従って仕方なくラブホの部屋に入った。
「手短に話を済ませて下さい」
「あんたなぁ、話だけで許してもらえると思ってんのか? そうはいかんぜ」
コミユウは玲子の言葉に構わず玲子をベッドに押し倒してスカートを捲り上げた。
「ダメッ、こんなことされちゃ困ります」
玲子の声は震えていた。
「あの男と不倫はよくて、どうしてオレと不倫しちゃダメなんだ? 不倫なんてものは一度やったら、後は二度でも三度でも同じだぜ」
コミユウは玲子の下半身を裸にするとブラウスの下から手を突っ込んで、ネチネチとオッパイを揉み始めた。玲子は目を閉じて歯を食いしばって我慢していた。やがて男の物が玲子の中に突っ込まれそうになった瞬間、
「お願いコンドームを着けて」
と言って、部屋にあったコンドームを取って男の物にかぶせた。コミユウは黙って玲子の好きにさせた。かぶせ終わるのを見てコミユウは自分の物を玲子に突っ込んだ。玲子が目をつぶっている隙に、コミユウはセルフタイマーを片手でセットしてデジカメを横の棚に置いた。うまく撮れたら完璧だと思いながら、玲子を苛めた。コミユウは一発終わると、
「そろそろ、話を聞かせてもらおうか」
と言った。
百二 辣腕ルポライターの運命 Ⅳ
「あんたなぁ、あんたが最初から、正直に知ってることを全部オレに話してくれたら、オレはこんな回りくどいことをやらんでも良かったんだよ」
「……」
「オレのあだ名、教えてやろうか。オレはな、業界じゃ毒蛇って呼ばれてるんだ」
玲子はこの男がすごく怖くなった。
「言っとくけどなぁ、オレはあんたから金とか物をもらいたいとは思ってないぜ。オレが欲しいのはあんたが知ってる情報だ。くだらんウソなんかついてないでさ、それさえちゃんとオレにしゃべってくれたら、オレはあんたたち親子四人の平和な暮らしをメチャメチャにする気はないぜ。けどなぁ、今夜、あんたがまだウソを付き捲るなら、許さんぞ。あんたの家庭をメチャクチャにしてやるよ」
玲子はもう隠し通せないと思った。
「あんた、考えて見ろよ。ウソついて得するのは誰や。自分の平和な生活と、あんたがかばおうとするお客の幸せを比べたら、直ぐ結論が出るだろ? そりゃ、自分の生活の方がずっと大事なのと違うか?」
「はい。全部話したら、本当に苛めないと約束してくれるの」
玲子はもうこれ以上頑張ってもダメと思った。それで、コミユウに甘えるような哀願するような声で本当にこれ以上付き纏わないでくれるのかと聞いた。玲子は下半身裸にされたままだと気付いて、ショーツとかスカートをかき集めて着た。
「あんたの答えを聞いてからだ」
「全部正直に話します。だから、話したら、もう許して下さい」
「そうか、正直に答えろよ。そうしたら約束を守ってやるよ」
「あの日、お客さんは何人だった」
「二人でした」
「ようし、そうだ。そう、正直に、素直に話せよ」
「二人の名前、知ってんだろ?」
「はい。男の人は剣持弥一さんです。あのゴルフ場の常連さんです。もう一人は綺麗な年配の女性でした。その方はたまに来られます」
「女の名前は?」
「確か二宮恭子さんだったと思います」
「女のことで他に知ってることを言えよ」
「良くは知りませんが、会話から多分S電機の副社長の奥さんだと思います」
「S電機と言うと、あのでっかい会社か?」
「はい。間違いないと思います」
「剣持とか言う男はどこに勤めてるんだ?」
「知りません」
「本当に知らんのか?」
「はい。あたし、もう全部話すつもりですから」
「そうだ。やっといい子になったな。話違うけど、あんたのもの、すげー良かったぜ。オレ、何人も女とやったことあるけどな、あんたみたいにいいもの持ってる女は初めてだ。あんたの旦那はいいなぁ」
「あたしのものって何ですか?」
「ホレ、あんたのオ◎ンコだよ」
玲子は聞いて損したと思った。この男がまたやらせろとしつこくしたら困るなぁと思った。
「あんた、正直になったな。オレがあんたのそのいいやつを、また使わせろと言ったら困ると、今考えてただろ? 顔に出てるぞ」
「はい。絶対に困ります」
「アホな女だなぁ。絶対に困ると言えば、男はまた欲しくなるんだよ。男に向かって、絶対になんて言葉を使うなよ。オレは、あんたが正直に答えてくれたら、今後一切近付かんよ。あんたの生活を壊さないって約束を守ってやるよ」
玲子はほっとした。それで、この際何でも答えてやって、今後一切関わりを持ちたくなかった。
「男のことだけどな、剣持とか言ったな。そいつのこと、他に知ってることがあるか?」
「ゴルフ場の元オーナーのお坊ちゃんと言われてます」
「そうか。幾つぐらいのやつだ?」
「良く知りませんが、多分三十代前半だと思います」
「女の方は?」
「四十代だと思います」
「質問は終わりだ。どうだ、簡単なことだろ? 最初から正直に教えてくれてたら、お茶の一杯くらいおごってやったのに」
「結構です」
「そうむきになるなよ」
そう言って、コミユウはポケットから出した十枚くらいの写真を玲子の目の前で粉々に破って、ゴミ箱に放り込んだ。
「これで証拠写真は全部だ。約束は守るから安心しな」
そういってコミユウはさっさと出て行った。後に残された玲子はしばらく呆然としていたが、これで、あの男と縁が切れたと気が付いて急いでシャワーを使って汚れた部分を洗い、家に電話を入れた。
「チビちゃん、ごめんね。遅くなったけど、これからお誕生日のケーキ買って帰るから待っててね」
コミユウはでかいネタが手に入って、最高の気分だった。
「S電機の副社長夫人、こいつは金になるぜ。とことん調べてドカーンと一発ぶちかましてやるぞ」
と独り言を言いながら東京に向かって車を走らせた。
百三 辣腕ルポライターの運命 Ⅴ
剣持を狙って、ライフルで銃撃した井口は、重犯罪の被疑者なので、警察に身柄の拘束を受けていた。井口は金がなかったので、国選弁護人を付けてもらった。井口の国選弁護人は鉦本と言う珍しい名前の七十代の老人で、自宅の四畳半に事務机を一つ置いただけの貧しい事務所だった。
コミユウこと小宮山雄三郎は井口の国選弁護人を探し当て、この日、鉦本の家を訪ねた。
「鉦本さんですか? 珍しい苗字ですね。それに、庭の盆栽は実に見事ですなぁ。これだけ揃うと、手入れが大変でしょう」
コミユウは小さな庭に所狭しと並べられた盆栽を話題にした。
「わしみたいな仕事でもしとらんと、これだけの世話はできませんなぁ」
「そうでしょう、そうでしょう。あの奥の松の木の盆栽はまた格別ですなぁ」
「ワハハ、まだあんたさんの名前も用件も聞いてなかったですなぁ」
「あっ、遅れましたが、私、こんな者です」
と名刺を渡した。名刺には週間P、肩書きは記者と書いてあった。
「あの週間Pですか、またなんぞ、わしに用でもできましたか?」
「折り入ってご相談をしたくてお邪魔しました。それはそうと、あの松の木、四、五十年は経ってますか?」
「小宮山さん、あれに目を付けなさるとは、盆栽、詳しいですな。あれは今年で丁度樹齢が百二十年になります」
「へーぇ? そんなにですかぁ。それはまた失礼しました。そうすると鉦本さんのお爺さまの代からのものですか?」
「そうですな。あれは、盆栽仲間の祖父からの受け継ぎなんですよ」
コミユウは盆栽の話ですっかり鉦本と親しくなった。
「先生、今井口さんの弁護人をなさってますね」
「井口君ねぇ、まだ若いのにバカなことをしましたなぁ」
「彼には時々面会に行かれるのですか?」
「一週間に一度、散歩がてらに寄ってやってます」
「今度はいつ頃寄ってやるんですか?」
「来週にでもと思うとります」
「先生、世の中は間違っていると思いませんか?」
「……」
「あの事件について少し調べてみました。世の中は井口さんが加害者、彼に誤って撃たれたゴルフ場のキャディさんが被害者、世間は加害者と被害者の関係だけ問題にして、なぜ井口さんが止むを得ずにこんな事件を起こしてしまったか、本当の加害者については殆ど問題として取り上げていません。彼が銃撃に至る前の段階では、彼は被害者と言っても良い立場だったと私は思っています。それが、井口さんにこんなことをさせてしまった原因を作った剣持と言う男が事件の関係者から外れていて、何か理不尽なことだと思いまして、井口さんから二、三伺って、私はこの事件の背景を調べて、井口さんを応援する論陣を展開したいと思っているのです」
「ほうっ、なかなかしっかりとしたご意見ですなぁ」
「井口さんについて先生に伺うのは先生の守秘義務に抵触しますから、出来れば先生のカバン持ちにして頂いて、ご一緒に出かけて、私から直接彼に聞いてみたいのですが」
「うーん……」
「難しいですか?」
「あんたの考え方を聞いたので、一応良しとしましょう」
「先生、ご迷惑をおかけします。必ず彼を応援する記事にしますから」
「所で、剣持と言う男は警察から何も発表がないのに、良く知ってますなぁ」
「私、こう見えてもジャーナリストのはしくれですから、それ位のことはとっくに調べがついてます」
「ほうっ、なかなかの情報通ですなぁ」
「週間Pほどの記者ともなれば競争が激しいのでこれくらいはやれませんといつ蹴飛ばされるか分りません」
「アハハ、どこの世界も厳しいもんですなぁ」
「私は剣持と言う男は悪だと思ってます。この男の悪を週刊誌で大々的に報道して、井口さんに同情する世論を盛り上げたいとおもっているんですよ」
「先生、当日の私の肩書きですが、鉦本法律事務所 助手 小宮山雄三郎でよろしいでしょうか?」
「ああ、それでいいよ」
鉦本に礼を言って退散すると、コミユウは早速[鉦本法律事務所 助手 小宮山雄三郎]と言う名刺を作った。住所は鉦本の名刺の住所にした。
「これで良しっ、役所は印刷物に弱いから、これを出せば信用するだろう」
当日、鉦本の後に従って、井口の面会に出かけた。面会所の入り口で鉦本は顔パスで通してもらったが、コミユウには、
「身分証明を見せて下さい」
と言われた。コミユウは運転免許証と先日作った名刺を一緒に出した。係官は名刺を一瞥すると、ご苦労様と敬礼して名刺と免許証を返してよこした。
鉦本からいくつかの質問があったが、井口は素直に質問に答えた。鉦本が目配せしたので、
「井口さん、剣持に横取りされたフィアンセの方のお名前と住所を教えて頂けませんか?」
井口は彼女は坂上万里江で、今の住所は横浜市港北区××町○○番地、電話番号は045-****-**** だと教えてくれた。
「剣持は当時どこの会社に勤めていたか分りますか?」
「会社は分りませんが、新宿のホストクラブで知り合ったと彼女が言ってました」
「ホストクラブでしたか」
「はい」
剣持のことは井口の彼女の口を割らせれば簡単に分ると思った。それで、
「私の質問は以上です。どうか気持ちを強く持って頑張って下さい」
と井口を励ました。
コミユウは鉦本に礼を述べて、別れた。
百四 辣腕ルポライターの運命 Ⅵ
その日の午後、渋谷から東横線に乗って、コミユウは大倉山と言う駅で降りて、横浜市港北区の坂上万里江が住むアパートを探し当てた。時間が早すぎて、坂上は留守だった。
あまり大きな建物ではないが、坂上は四階建ての三階の端に住んでいた。コミユウは近くのコンビニでにぎり飯を買って、小さな公園で食べて時間を潰した。腹ごしらえを済ますと、コミユウはいつものように見張りを始めた。十月も半ばを過ぎると日が短い。午後六時を過ぎるとあたりは暗くなった。
その日、七時少し前に坂上と思われる女がアパートの階段を登り始めたので、ずっと目で追うと、やはり三階の端っこの部屋に消えた。
コミユウは例の高感度のデジカメで坂上の様子を撮った。
「今日はここまでだな」
コミユウはその日は坂上に接触せずに東京に戻った。
コミユウはいつも取材の手伝いをしてくれる鬼頭竜司を可愛がっていた。痩せた体に顎がしゃくれていて、蟷螂みたいな感じなので、コミユウは鬼頭をカマキリと呼んだ。本人も別に嫌がる風でもなく、
「おいっ、カマキリ」
と呼ぶと返事をした。
そのカマキリに剣持について聞き込みを頼んでいた。
「おいっ、カマキリ、なんか収穫はあったか?」
「新宿のホストクラブを随分探し回って三軒、関係しているやつに聞いたんですが、ずいぶん前に足を洗ったらしくて、たいした情報は取れなかったです」
「だめかぁ」
「いや、一人だけ、今年会ったやつが居て、なんでも目黒の林と言う和菓子屋の職人の楢崎と言うやつに聞いてみたらどうだと言われました」
「まだ行ってないのか」
「時間がなかったもんで」
「じゃ、明日二人で行こう」
楢崎とはもちろん武雄のことだ。
翌日、コミユウとカマキリは揃って目黒の林菓房を訪ねた。
「こちらに楢崎さんおられますか?」
「どちら様ですか?」
コミユウは鉦本法律事務所助手と書かれた名刺を出した。店番の女の子は奥に引っ込んで、しばらくすると楢崎と名乗る青年が現れた。
「わたしに何か用ですか?」
武雄は外向きの言葉で自分のことを[わたし]と言った。
「ちょっと聞きたいことがあるのですが」
「わたしで分ることなら」
「楢崎さん、つかぬことですが、剣持と言う男をご存知ですか?」
「剣持さんに何かあったんですか?」
「いえ、今どちらにお住まいか知りたいのですよ」
「困ったなぁ。分りません」
「剣持と親しいんじゃなかったですか?」
「親しいと言えば親しいですが、普段会うことがなくて、細かいことを聞かれても分りません」
「剣持はこちらに現れることはあるんですか?」
コミユウは剣持と武雄の関係が分らないため、剣持を呼び捨てにして、武雄にさんを付けた。
「ここのお嬢様にたまに会いに来られることがあります」
「それは助かりました」
武雄はつい相手の話に乗せられて、晴子との関係に口を滑らせてしまってから、気が付いて[しまった! 余計なことをしゃべったな]と後悔した。
急にガードが固くなった武雄にコミユウは直ぐ気付いた。手馴れたルポライターなので、相手の言葉の中で大事なことには敏感だったのだ。
「何かまずいことでもありますか?」
武雄は急に無口になり、
「これ以上何も話すことはないから帰って下さい」
と答えた。コミユウは、
「ははぁーん、こりゃ、何かあるぞ」
と直感した。小声で、
「おいっ、カマキリ、今日は引き上げよう」
と合図を送り、二人は武雄に丁寧に礼を言って立ち去った。
「カマキリ、お前はここの娘に張り付いてくれ。バレないように気を付けろよ。オレの感じゃ、必ず剣持が現れるはずだ。そうしたら、徹底的に尾行してくれ」
「コミさん、分かりました。ここはオレがやります」
「頼む。オレの方は明日坂上万里江から情報を取って、それからD町の二宮恭子を徹底的に洗い出してやる」
翌日コミユウは坂上の帰りを待ち伏せしていた。だが、その日は明け方まで帰らず、結局一日戻らずに無駄になった。
「くそっ、こんなことなら尾行してあいつの弱みを掴んだ方が早かったかな」
コミユウは仕方なしに翌日も待ち伏せした。坂上は夕刻七時過ぎに戻ってきた。
「すみません、ちょっと聞いてもいいですか?」
四十代と思われる男からいきなり声をかけられ、万里江は一瞬ドキッとして身構えた。
道でも尋ねるのかと思いきや、
「剣持と言う男をご存知ですね」
と聞かれて万理江は仰天した。それで、
「そんな人知りません」
と答えた。
「バカ言え、あんたの元彼の井口に聞いたんだぜ」
「でしたら、井口に聞いて下さい。あたし、今は関係ありませんから」
彼女はどうやら銃撃事件をテレビや新聞で見て知っているようだ。
「あんた、良く知ってるはずなんだがなぁ。隠したら週刊誌であんたのことを書きなぐってやるぞ。それでもいいのか?」
コミユウがたたみ掛けると、万里江は携帯を取り出してどこかへ電話した。
「済みません、今知らない人から脅されてます。直ぐ来て下さい」
万理江はそう話し、相手の質問に答えているのだろう、今居る場所を相手に答えた。
「おいっ、電話の相手は誰だっ」
コミユウは万里江の腕をつかんだ。万里江は怯えた顔をして小声で、
「110番に通報しました」
と答えた。これにはコミユウも慌てた。
「コノヤロー、覚えておけ。その内にオレさまに土下座させてやるからな」
と捨て台詞を置いてさっさと立ち去ろうとした。
「あなたっ! 待ちなさいよ。直ぐパトカーが来ますから、そこで答えてあげますよ」
そうこうしている内にパトカーのサイレンが近付いて来た。コミユウはぶつぶつ言いながら駅の方に走った。
結局、コミユウは坂上を追い詰めるのは諦めた。
百五 辣腕ルポライターの運命 Ⅶ
鬼頭竜司、つまりカマキリは、コミユウの言いつけに従って、林菓房の娘の監視を始めた。コミユウによると、絶対に剣持がその娘に近付くはずだ。カマキリもコミユウと同じような予感を持っていた。
店の者に顔が割れてしまっているカマキリは、できるだけ目立たないように物陰に立って監視を続けていた。
一週間も監視を続けたが、娘はどうやら妊婦らしく、近所に買い物に出る以外は殆ど店の中から出てこなかった。
そんな時、カマキリに不良っぽい二人の少年が近付いてきた。
「あんた、こんなとこで何張り込んでんだようっ」
「……」
「おいっ、おめぇ、目障りなんだよ。ここいらをうろうろするなよ」
「余計なお世話だ。おまえらこそあっちに行ってろ」
「おめぇ、ウゼェやろうだな。ここいらのデカは全部知ってんだ。おめぇはデカじゃねえな。探偵ごっこやってんのかよう」
「お前らガキには用はねぇ。仕事の邪魔だ。とっとと失せろ」
「このやろう、聞き分けの悪いやろうだな」
少年の片方が蹴りを入れてきた。カマキリはこいつらと揉めると監視がしずらいと思って、
「覚えてろっ」
と言って立ち去った。高校生くらいのガキだが、二人とも体がでかい。体力勝負じゃ負けるとも思ったのだ。
「兄貴が言ってた通り、この前来たやつの一人がよぅ、ここのとこ毎日張り込んでやがるから、今日オドシをかけといた」
「すまんな」
カマキリを脅かした少年の一人が武雄の携帯に電話して、状況を報告していた。
「これからもしばらく警戒してくれや」
少年たちは武雄の仲間だった。
「こんど来たら、ちょい甚振ってやります」
「いいけどなぁ、やり過ぎるなよ」
「わっかりました」
カマキリはコミユウに頼んで、近くのウイークリーマンションの一部屋を借りて、そこから双眼鏡で監視を続けた。ある日、武雄と晴子が連れ立って外出したので、カマキリは尾行した。顔を知られてしまっているので、いつもより距離を取ってバレないように努めた。
尾行をしたが、一日顧客と思われる所を五軒回って、何事もなく店に戻った。
「クソッ」
カマキリは何かあると期待していたが、何も不審なことがないのでイラ付いていた。
翌日弁当を買いにコンビニに行ったら、先日脅した少年達にばったり出くわした。カマキリはそ知らぬ顔で通り過ぎて、弁当を買うと急いでマンションに戻った。
夕方、コンコン、コンコン。マンションのドアがノックされた。カマキリはここに訪ねて来る者は誰もいないのにと思いながら、ドアを開けるとこの前とは別の不良っぽい少年が三人立っていた。
「何か用か?」
カマキリは少し怖い顔を作って応じた。
「あのぅ、コなんとかと言うオッサンが公園に来てくれって」
「小宮山と言ったか?」
「そんなような……」
カマキリは少年のあとをついて、薄暗くなった公園に向かった。そこに先日蹴りを入れてきた少年も入れて七人か八人も少年達がいた。カマキリは、
「コノヤロー、こいつら、はめやがって」
と戻ろうとした。
だが、バリバリッ、ダダダッ、とけたたましくエンジンをふかして、バイクがカマキリの行く手を塞いだ。バイクはぐるぐる、ぐるぐるカマキリの回りを回った。先日蹴りを入れてきた少年がバイクを降りて、
「あんた、聞き分けが悪いやろうだなぁ。目障りだと言っただろ。分ってねぇな」
少年は右手でカマキリの衿をつかむと、左手でいきなりドスッとみぞおちに重いパンチを入れてきた。
「ウウウッ」
カマキリは腰を折った。そこに膝蹴りが入ってカマキリの顔面にヒットした。カマキリの鼻から鮮血が噴出した。カマキリがうずくまると、他の少年たちもバイクから降りて来て、代わる代わるカマキリの横腹に蹴りを入れてきた。カマキリは動けなくなった。
「おめぇよぅ。もうここらあたりをうろうろするなよ」
カマキリはその声を遠くで聞いたような気がした。
何時間経っただろう。公園の中でひっくり返っているのに気付いたカマキリは痛々しい体を起こしてどうにか泥を払うと、足を引き摺ってマンションに戻った。誰かが倒れいてるのを見つけて交番に通報されなかったのがせめての幸いだった。カマキリは今迄いろいろやってきたから、警察は嫌いだった。
カマキリはマンションを解約して、別の部屋を借りて監視を続けた。体のあちこちはまだ痛みが消えていなかったが、この仕事を始めてから、何度か同じような目に遭っているので、さほど気にもせず仕事を続けた。だが、痛めつけられるのは二度とゴメンだ。それで、行動には細心の注意を払い、外出する時はその都度変装してバレないようにして、弁当は遠くのコンビニで買った。
もう、一月以上見張っているが、林菓房の娘にこれと言った変ったことは起こらなかった。
百六 辣腕ルポライターの運命 Ⅷ
「すまんが、モハメドを使ってもいいかい」
「かまわんけど、そんな用ができたのか?」
「いや、果たしてどうなるか、今は分らんけど、東京からN女史(二宮恭子)をこっちに呼びたいと思っているんだが、彼女は多分金魚のうんこみたいに、メディアの人間をこっちまでくっ付けて来るんじゃないかと思うんだ。もしくっ付いて来たら、そいつ等をまとめてこっちで始末してしまおうかと思ってね」
「そりゃ、いい考えだ。しつこい奴等の何人かは今頃Nさんに辿り着いてしっかり見張っている可能性は高いね」
「すまんなぁ。じゃ、使わせてもらうぞ。それと、オレは十二月二十四日~二十五日の二日だけ東京に戻るつもりだ。その時バックアップを頼めないか?」
「伝さんに話しておくよ。間違いなくOKだと思うけどな」
先ほどから剣持は国際電話でロンドンから村上につないで、打ち合わせをやっていた。ややあって、村上から電話が来た。
「伝さんはOKだ。この際綺麗にしてしまえだってさ」
と村上は笑った。
「頼む。助かるよ」
「オレの方は万一を考えて三名ほどでバックアップするから安心しろよ」
剣持はN女史に電話を入れた。
「剣持です。お変わりはありませんか?」
「どうしたのよ。メールを下さってから、ちっとも連絡がないから、海外で野垂れ死んだんじゃないかと思ってたわよ」
彼女は元気そうだった。
「それで、来られそうですか」
「十一月二十日頃までだったら、大丈夫。主人にも言ってありますから。どちらに行けばいいの?」
「最終的には南仏が暖かくて良いと思うし、少し寒くても良いならスイスアルプスなんかもいいかなと思っていますが、実は、想像ですが、メディアがNさんと僕のことを嗅ぎまわっているのではないかと予想してます。それで、空港でどちらに行くかそれとなく探りを入れるやつがいたら、積極的に行く先を教えて、ドバイまで飛んでくれませんか? あいつらの手口は、Nさんがチケットを買ってから、航空会社に手を回して行く先やフライトナンバーを調べることが多いので、直接接触してこない場合もありますが、その場合でも、こちらで用心して対処しますから、安心して下さい」
「アラブのドバイ?」
「ん。関空(関西国際空港)から直行便がありますから、それを使って飛んで下さい。ドバイ空港で僕の組織の者が出迎えますので、指示に従って下さい」
「なんだかややこしいわね」
「はい。それくらい注意をしないとしつこいルポライターなんかは振り切れません。僕の方で組織を使ってNさんを尾行しているやつらを確実に突き止めるまで、指示に従って少し動き回って下さい。僕は近くに居ても、尾行を完全にまくまではNさんの前には決して現れません」
「なんだか外国のスパイ映画みたいだわね。あたし、かえってスリルがあって楽しいわ」
「アハハ、僕の方はマジでやってますよ。万一Nさんにつまらんことがあったら大変ですから」
「弥一君は相変らず頼りになるわねぇ」
それで、日本のカレンダーで十一月九日月曜日に成田を発ってもらうことになった。
コミユウはゴルフ場のキャディ北山玲子が白状した情報を元に二宮恭子のことを洗い出した。その結果、彼女は東横線沿線の高級住宅街の大きな屋敷に住んでいることを突き止めて、毎日彼女の行動を見張っていた。彼女には子供がいないせいか、毎日のように出かけた。コミユウは必ず尾行した。行く先はエステサロンだったり、政財界の有名人との会食だったり、音楽会や美術館と随分行動的だったが、予想に反して品行方正で不審に思われることは何も無かった。それよりも、コミユウは彼女の政財界人との交友関係の広さに驚いた。不思議なことにこれだけ幅広く色々な人物と交際していながら、芸能界の人間とは殆ど付き合いがない様子だった。だから、コミユウにしてみれば、彼女の弱みをつかむのに相当苦労しそうだと思い始めていた。
そんな時、彼女は銀座のJTBの店に立ち寄った。JTBのロイヤルロード銀座店は銀座並木通りを七丁目方向に向かって、シャネル銀座店の筋向いの東京朝日ビルディングの二階にあり、店内はサロン風で富裕層だけを対象にして旅行案内をしている。金を持っていないやつは相手にしていない店だ。コミユウは彼女が海外旅行を計画していると直感した。彼女が店を出てから、コミユウは鉦本法律事務所の名刺を使って、巧みに店員に接近した。だが、店員のガードは固く、まったく取り合ってもらえなかった。この手の金持ち相手の店は個人情報の管理には極めて厳しいのだ。コミユウはこんな風に撥ね付けられるとは予想していなかった。
「クソッ、金持ちは違うなぁ。旅行に行くにもこんな店をつかいやがる」
コミユウは仕方なしに、何か別の方法はないか思案した。だが、名案は浮かばなかった。
コミユウは仕方なしに彼女の自宅から少し離れた所に自分の車を停めて、車の中から見張りを続けていた。そうこうしている内に、十一月八日の日曜日に、彼女はハイヤーを呼んで、自宅から小さな旅行カバンを持って出かけた。コミユウは慌ててハイヤーの後を追った。コミユウはまだ彼女がどこに行くのか全く情報を掴んでいなかった。コミユウはあせった。めったに来ないチャンスを逃がしてなるものかと自分の車で必死にハイヤーの後を追った。ハイヤーは環状八号線を走り、蒲田方面に向かっていた。
「ははぁーん、羽田に行くんだな」
案の定、ハイヤーは羽田空港第二ターミナルで彼女を下ろすと走り去った。彼女は空港に入るとエアポートラウンジに入って、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
二宮恭子は首都高に乗ってから、ずっと自分の乗ったハイヤーを執拗に尾行している車に気付いていた。
「やはり、弥一君の感が当たったようね」
彼女は心の中でつぶやいた。
思った通り、尾行してきた車は空港までやってきた。それも、第二ターミナルまでついて来た。彼女はそれとなく運転している者の顔を確かめてから空港に入った。
彼女が空港のエアポートラウンジでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、一人の男がそれとなく近付いてきた。目をキョロキョロさせてあたりを見渡した後で男は、
「お一人ですか」
と声をかけてきた。恭子は声をかけてきた男が先ほど尾行して来た男だと分っていたが、初めて会った男として応じた。
「はい。一人です」
「今日ご出発ですか」
「はい。そのつもりですけど」
「どちらまで」
「初めての方に答えないといけませんか」
「これは失礼しました。私はこう言う者です」
とコミユウは鉦本法律事務所の名刺を差し出した。彼女は名刺を受け取ると一瞥して、
「助手ですか」
と言った。コミユウはやっと彼女との話の糸口をつかめたと思った。
「あなたはどちらまで」
「じつは久しぶりに少し休暇を頂けましたので、気ままな旅をしてみたいと思って、まだ行く先を決めてないんですよ。偶然にお会いした方ですが、あなたと同じ方向に行くのもいいかな? なんて今突然思いつきました」
恭子は[上手く言い抜けたな]と心の中でおかしくなった。それで、彼がこの後どんな行動を取るのか興味が湧いた。
「私、ベルギーに行く予定です。パリまで飛んで、そこから鉄道で」
恭子はわざとウソをついた。
「そうですかぁ。ベルギーかぁ。ベルギーへはまだ行ったことがないなぁ。パリなら成田からじゃないですか? 僕もベルギーまでご一緒させてくれませんか」
「構いませんが、航空機の予約が取れないと別々になりますから、ご一緒はできませんよね」
「そうだなぁ。困ったなぁ。じゃ、早速航空会社に当たってみます。何時のフライトですか」
「関空まで行ってみませんと」
「今日乗り継ぎですか」
「いえ、国際線は明日です」
「じゃ、今夜は大阪でお泊りですか」
「はい。パリのドゴール空港で待ち合わせすれば、別々のフライトでも大丈夫ですよね」
「じゃ、関空からパリまで空席を探して乗ります」
コミユウは関空行きの空席を予約して、関空まで飛ぶことにした。
「あたくし、用がありますから、これで失礼しますわ。ではパリでお待ちします」
彼女は支払いを済ますとラウンジを出て行った。
恭子はケラケラと一人で笑った。
「あの男、本当にパリに飛ぶかしら」
と。
関空に着くと、恭子はホテル日航関西空港に部屋を取った。明日はエミレーツ航空のドバイ直行便に乗る予定だ。夜、剣持に電話を入れた。
「予定通り、明日月曜日に関空を発ちます。あなたが言った通り変な奴が一人つけてきました。あなた、鉦本法律事務所をご存知?」
「知っているよ。井口の国選弁護人だよ」
「あら、それじゃ、変な男の目的がこれでハッキリしたわね」
「筋金入りのルポライターだと思うから、十分に気を付けて下さい。多分、明日は空港で貴女を見張っていて、行く先を突き止めてついてくると思います。騙されてパリに行くようなアマちゃんじゃないよ」
「そう? ちょっと怖くなったな。あたしがドバイに無事に着くように祈ってて下さいな」
「ん。気を付けて来て下さい。変な男に、もう余計なことを言わなくていいよ」
「はい。分ったわ」
百七 辣腕ルポライターの運命 Ⅸ
恭子がシャワーを使って髪を乾かしていると、剣持から電話が来た。
「予定通り、明日九日乗れますか」
「そのつもりですが、フライトの出発時刻が二十三時十五分、そちらへは十日の早朝五時三十五分にランディングのようです。なので、空席があれば、変更してこれから発つこともできるわよ」
「そうだなぁ。明日の夜まで時間を潰すのは面倒だね」
「では、エミレーツ航空に電話して、空席の確認をしますから、三十分ほどしてから電話を下さらない」
「分った。Nさん、どんな服装で来られますか? ピックアップするのはアラブ人ですが、英語は堪能なので、服装が分れば直ぐ見つけると思います」
三十分後に電話が来た。
「どうでしたか」
「日曜日はビジネスの方が多いようで、空席はなかったな」
「残念。では、明日の夜乗って下さい」
「早く弥一に会いたいな」
「明後日の朝でしょ? 直ぐ会えますよ。くれぐれも気を付けて下さい」
翌日は寝坊して、午前中はテレビを見ていた。昼食後、ホテルのリフレッシュクラブのジムで汗をかいて、その後エステサロンでゆっくり過ごした。夕食を済ませて、少し休んだ後、夜九時過ぎにホテルを出て空港に向かった。出国手続きを済ませてなかったので、出国手続きをすますと、ゲート付近の待合室で時間を待った。
コミユウは関空付近のホテルを次々に当たって、二宮恭子が泊まってないか確かめた。三軒目のホテル日航関西空港に彼女が投宿していることを突き止めると、ロビーで監視を始めた。
思った通り、翌日の午後、彼女はロビーの脇を通り過ぎて、リフレッシュクラブに入った。コミユウは根気良く待ち続けた。
夜の九時過ぎに、彼女はフロントでチェックアウトを済ませると空港に向かった。コミユウは気付かれないように注意して尾行した。
「あれれっ、どうも時間がおかしいな。パリ行きはエールフランスの昼間の便しかないのに、何でこの時間なんだろ? 多分、あの女はオレにウソをついたな。覚えてやがれっ」
コミユウはこの時点で彼女のウソを見抜いた。
空港に入ると、彼女はエミレーツ航空の出発時刻を確認していた。それで、コミユウは彼女がエミレーツ航空に乗るのだろうと思った。急いで空席予約の手続きをすると、幸い二十三時十五分発のドバイ行きしかなかったので、コミユウはドバイ行きの空席がないか聞いた。搭乗券は直ぐ手に入った。先に出国手続きを済まして、彼女はエミレーツ航空の待ち合わせロビーに居た。コミユウはサングラスをかけて、かつらを被り、簡単な変装をして見付からないようにして、彼女から少し離れた場所で待った。
ボーディングのアナウンスがあると、彼女は席を立った。どうやらビジネスクラスのようだ。ファーストクラスとビジネスクラスの搭乗者に続いて、コミユウはエコノミー席に向かって搭乗した。
飛行機は定刻に出発して、真っ暗な夜空に向かって飛び立った。
コミユウは直ぐ眠りに付いた。今の内にぐっすりと眠っておきたかった。
「明日は頑張るぞ」
眠りにつくと、彼はアラビアの砂漠の中で、彼女をレイプしている夢を見た。どうしてそんな夢をみたのか、それは多分魅力的な女性、二宮恭子のことが頭の中で渦巻いていたからだろう。
恭子は、昨日の変な男の姿が見えなかったので、今頃あの男はパリ行きのエールフランスの飛行機に乗ってパリを目指して飛び立ったと思って、独り心の中でくすくす笑っていた。まさか彼が同じこの飛行機に乗り込んでドバイを目指しているなんて想像もしていなかったのだ。
百八 辣腕ルポライターの運命 Ⅹ
剣持は一足先にドバイに来ていた。モハメドは仲間のアイールの他にもう二人ダーギルとキファーフと呼ぶ奴を連れてきた。どちらもアラブ人には良くある名前だそうだが、ダーギルは攻撃を仕掛ける者とか攻撃者と言う意味で、キファーフは敵との対峙とか戦闘と言う意味だと説明した。二人とも名前の通り体は大きく、鋭い目と筋肉質の頑強な体をしていた。
剣持は明日早朝にドバイに飛んでくる女性の客人の護衛を頼んだ。尾行してくる男が一人居るはずだが、そいつを見つけて、尾行中に捕らえて始末をしてくれと頼んだ。
彼等はお安い御用だと引き受けてくれた。先ずアイールが剣持が用意したハイパーグレーのジャガーXJに乗って空港に客人を迎えに行って、ピックアップしたら、市内をグルグル回って、その間に尾行車を見付ける手はずだ。回る経路は予め打ち合わせをした。確認をしたら連絡を入れるから、そうしたら真直ぐにアブダビに向かって走り、残った者が尾行者を始末するから、アイールはそのままアブダビのグランドコンチネンタルアブダビホテルに客人を案内してくれと頼んだ。剣持の名前で一部屋予約してあるから、剣持が着くまで、部屋に入って客人を護衛していてくれとも頼んだ。
「客人が前側の助手席に乗りたいと言ったらどうすればいい?」
とアイールが尋ねた。
「無視して後の座席に乗せてくれ」
「分った」
アラブ社会では運転手が男性の場合、女性を助手席に乗せない場合があるのだ。
残った四人は二台の四輪駆動のジープに分乗することにした。モハメドと剣持が尾行車の前に出て走り、ダーギルとキファーフがもう一台のジープに乗り、尾行車を追跡することになった。モハメドとダーギルは警官の制服を着て、自動小銃を持つことにした。二台のジープには各々100リッターの予備燃料を載せて行く。
打ち合わせを終わると剣持は四人に同額の1万ドルづつの謝礼をした。四人は当然のごとく黙って札束を受け取った。
エミレーツ航空のドバイ直行便は早朝定刻の五時三十五分ドバイ国際空港に着陸した。アイールは到着口で客人を待っていた。客人は真っ白なパンツに赤いブラウス、それに白い帽子を被っていると聞いていた。
アイールは到着口で客人を待つ間に、動物的勘でコミユウの姿を捉えていた。尾行者は多分あいつだろうと見当を付けていた。
恭子はビジネスクラスの乗客なので、最初に降りるように誘導された。降りると、手荷物が来るのを待って、小さめの旅行バッグを取って直ぐに入国手続きをして、到着口に急いだ。
アラブの男はイケメンが多く、女性には親切だ。到着口を出ると直ぐ、
「ニノミヤさまですね」
と片言の日本語で男が近付いてきた。
「はい」
「ケンモツからご案内を頼まれています」
彼はそこそこの日本語で語りかけた。恭子は男に案内されて、グレーのジャガーに乗り込んだ。
コミユウはエコノミーで降りるのを後回しにされて焦っていたが、幸いコミユウは手荷物が無かったので、直ぐに入国手続きを済ませて、恭子より先に到着口を出ることができた。キョロキョロあたりを見回したが、恭子の姿は見えなかった。
「まだらしいな」
そう独り言を言ってると間もなく恭子の姿を見つけた。見ると、直ぐにアラブの男が近付いてなにやら話をしてから、空港の出口に停めてあった車に案内して直ぐに発車した。
コミユウは慌ててタクシーを止めて、
「あの車を追ってくれ」
と運転手に頼んだ。
前方を走るジャガーはゆつくりと走っていた。どこか市内のホテルに直行するものと思っていたが、市内観光案内をしている様子で、市内の道路を右に折れ、左に折れてグルグル回るように走っていた。
だいぶ走った所で道路標識に、
[↑Abu Dhabi] と書かれた方向に徐々にスピードを上げて走り出した。大きな橋を渡ると、右手に海岸線、左手に砂漠が広がっていた。
道はほぼ一直線で、前を行く恭子を乗せた車は一定速度で走り続けた。しばらくすると後からスピードを上げて追い越して行くジープがあった。ジープは恭子が乗っていて尾行している車と自分の乗っているタクシーの間に割り込んだが、見通しの良い一本道の道路なので特に問題はなかった。
突然、後部でサイレンが鳴った。それと同時に追い越して行ったジープがスピードを落とした。タクシーの運転手は前を走るジープに合わせてスピードを落とした。追跡していたグレーの車は見る見る小さくなって遠くに行ってしまった。コミユウはあせって運転手に、
「追え、追い続けろ」
と催促したが、アラビア語でなにやら言ってどんどんスピードを落とし、遂に停車した。
後の車から自動小銃を肩にかけた警官らしき男が降りてきて、タクシーの運転手にアラビア語でなにやら話をした。話を聞き終わると、タクシーの運転手は手招きでコミユウに降りろと合図した。コミユウが渋っていると警官らしきガッチリとした大男が手を伸ばしてタクシーからコミユウを引き摺り降ろした。コミユウが降りるとタクシーはUターンして戻り始めた。すると、もう一人の警官らしき男がタクシーの運転手になにやら話をして、札束を渡した。タクシーの運転手は何度も礼を言って、その場からドバイを目指して走り去った。
コミユウが英語で、
「なんでこんなことをするんだ!」
と叫んだ時、後から後頭部を鈍器で殴られた。コミユウは気絶した。
気が付くと、コミユウは両手両足を縛られ、目隠しされてジープの後部座席に横たわっていた。
二台のジープはアブダビの少し手前の十字路を左折してアル・アインの方向に走った。左折して約50km近く走った所で道路を右に折れて砂漠に入った。砂漠のど真ん中を約100km走った地点でジープが止まり、コミユウを車から引っ張りだした。ダーギルがナイフでコミユウの上着やズボンを切り開いて、コミユウをパンツだけの裸にした。靴も脱がせて素足にした。ダーギルは剣持から絶対に相手に傷を付けるなと言われていたので、ナイフを使う時は肌に傷を付けないように注意した。
周囲には何もなく、遥か彼方まで砂漠が続いていた。コミユウは手足を縛っていた紐を解かれたものの、持ち物を全て没収され、切り刻んだ服も取られて、パンツ一枚だけの裸同然の姿で砂漠の真ん中に放り出された。
十一月の初旬でも、現地は日中30℃を越える暑さで、砂は50℃を越えていた。素足では熱くてどうしようもない。コミユウは手を合わせて、
「助けてくれ」
と頼んだが四人の男たちは無言だった。コミユウを放り出すと、直ぐ二台のジープは走り去った。コミユウはジープの車輪の跡を辿って走り出したが、足は火傷をするし、喉は渇くしで、1kmも行かない内に倒れてしまった。太陽の光は容赦なくコミユウの体を焦がした。コミユウこと小宮山雄三郎は次第に意識が遠くなり、遂に砂漠の真ん中で短い人生の終焉を迎えつつあったのだ。
その日の夕方、前に大失敗しているから、死体を確認しておこうと話しがまとまり、剣持たちはコミユウを放り出した地点に戻った。放り出した地点から約1km手前にコミユウの死体が見付かった。モハメドとキファーフがスコップで穴を掘り、死体を埋めて始末は完全に終わった。
ジープ一台を帰して、剣持はモハメドにアブダビのグランドコンチネンタルアブダビホテルに送ってもらった。恭子はアイールとすっかり仲良しになり、楽しそうにして待っていてくれた。アイールとモハメドに礼を言って、二人ともドバイに帰らせた。アイールが運転してきたジャガーの鍵は剣持が受け取った。
「貴女をしつこく尾行していた男がいたよ」
「へぇーっ、パリに行ったと思ったらしっかりとあたしの後をつけていたのね」
「だから言っただろ。相手はアマちゃんじゃないよって」
「それでどうしたの」
「……」
「言ってはまずいの」
「ん。何も話したくない。あんな奴の話は聞かない方がいいんだよ。何も聞いていなかったら、まんまんがいち、誰かに聞かれても、知りませんと胸を張って言えるだろ? でもさ、ちょっとでも聞いてしまったら、知りませんと言うのはウソをつくことになるよね。だから、何も話をしない」
「そうね、確かにそうね。知っていたら聞かれた時に話してしまうかも。話してはダメと言われたら、秘密を持ってしまうことになりますものね」
百九 弥一と恭子のランデブー
「フランス語のランデブー(rendez-vous) は英語で言えばアポ、つまりアポイントメントのことだよね。会う約束ってことで、医者に診察してもらう予約もランデブー」
「そうよね、日本じゃランデブーって言えば逢引、つまり愛し合っている男女がひそかに会うって意味よね」
「どうしてそうなっちゃったんだろ」
「あたしもよくは知らないけど、フランス語でメゾン・ドゥ・ランデブーはつれこみ宿、今風に言うとラブホのことだから、案外そんなとこから意味が変っちゃったのかも知れないわね」
先ほどからN女史と剣持がたわいもない話をしていた。恭子は久しぶりに剣持に会えたので、夜の営みが楽しみだったし、剣持はうるさいルポライターを一人、始末できたので気持ち的に軽やかになっていた。
「これから、どこに行きたい?」
「そうねぇ、久しぶりにフランスに行けそうだから、ロワール河沿いの古城巡りもいいかなと思いましたけど、今は寒い季節だから、やはり弥一さんお勧めの南仏がいいわね」
「地中海が穏やかだったら、サン・トロペにでも宿を取って、クルーザーを借りて海からカンヌ、モナコ、サン・レモと回って、リビエラの海岸からコルシカ島にでも遊びに行くってのはどうだろう」
「あら、そのコース、素的ね。美味しいご馳走の食べ歩きだわね」
どうやら恭子は気に入ってくれたようだ。
「じゃ、明日ドバイからシリア・アラブ航空でマルセイユ・プロヴァンス空港に飛ぶことにしよう。ジャガーはドバイの知り合いから借りたから、ついでに返してくるよ」
「弥一は頭の回転が速いわね」
「それってお褒め頂いてるの」
と剣持は笑った。
「そうよ、褒めてるのよ」
恭子がホテルのエステに行っている間に、剣持は三日ぶりに晴子にメールを書いた。晴子とお腹の赤ちゃんの健康は大丈夫か? 他に変わったことはないか? お店の仕事の方は順調か? ご両親は健在か? クリスマスイヴには必ず帰るから……などが内容だった。続いて村上に報告メールを送った。尾行者の携帯、パスポート、デジカメ、メモ帳などを没収して調べた所、雑誌週間Pの契約社員でルポライターの小宮山雄三郎だった。彼は時々kamakiri**@ezweb/ne/jpにメールをしている。相手のアドレスから、メールの受取人が誰なのか、パソコンおたくのポコちゃんに調べてもらってくれ。小宮山は砂漠で始末した。死体は確認して砂に埋めたからパーフェクトだ。モハメド他三名に一万ドルずつ工作資金を渡した。全部で四万ドルはちょっとした額だが、今後のことも考えて処理した。そんな内容だった。追伸で十二月二十四日~二十五日のバックアップをよろしくと書き足した。
メールを送信した所にN女史は戻ってきた。
「あー、さっぱりしたぁ」
恭子はご機嫌麗しかった。
「夕食に行こうか」
「ええ」
二人はホテルの中のレストランで夕食を済ませた。アブダビには欧米人や東洋人など、雑多な国籍の客が宿泊するので、食事は色々なメニューがあった。
夕食を済ませて部屋に戻ると、二人は早めにベッドに入った。剣持も恭子も銃撃されたゴルフ場のあと奥利根に行って以来会ってなかったので、しばらくぶりに会えて、ふたりとも気持ちが昂ぶっていた。ふたりは着ている物を全部脱ぎ捨てて、夜更けまで愛し合った。恭子は剣持の巧みな指先の刺激に酔って、二度も上り詰めた。恭子は剣持が好きだし、剣持の愛撫が自分にとても馴染んでいて心地良かった。女性にとって、男が愛撫をしてくれる時、遅くなく、早くも無く、自分が次第に陶酔していくペースでしてくれるのが一番心地がよい。それに、女性が合わせてあげる刺激で男が幸せそうな気持ちになっているのを見ると、女性自身も一層満足な気持ちになれるのだ。
剣持はホストクラブに居たせいか、あるいは元々の性格なのか分からないが、女性を深い、深い快楽の中に導いてくれるのがとても上手だと感じていた。なので、剣持にしてもらうと、
「あたし、弥一君でないとだめだなぁ」
といつも思うのだった。
恭子はベッドの中で、まだ目が醒めずにいた。剣持は身だしなみを整えて、新聞を読んでいた。恭子は昨夜の余韻をまだ楽しんでいるような幸せな顔で、
「あなた、早いわね」
とお目覚めの挨拶をした。
「ドバイを飛び立つ時刻まで、まだ少し時間があるから大丈夫だよ」
それを聞きながら恭子はまた眠った。それから、一時間も経ったのか分らないが、恭子は起きて身だしなみを整えた。
「朝飯、軽く食べておくといいよ。ここに持ってこさせようか」
「いいえ、レストランに行くわ」
朝食を済ますと二人はジャガーを飛ばしてドバイに戻った。ジャガーを知人に返してからタクシーでドバイ国際空港に行った。
出国手続きを済ますと、予定通りシリア・アラブ航空でマルセイユ・プロヴァンス空港に向かった。
空は晴れていて、眼下にアラビア砂漠が広がっていた。空から見下ろすと、その広大さに改めて驚かされた。続いて紅海らしき河が見えて、その先に横たわる地中海の上を飛んだ。しばらくすると、飛行機は高度を下げて、無事にマルセイユ・プロヴァンス空港に着陸した。
空港を出ると、空港脇のレンタカー事務所に寄って、レンタカーを借りて海岸線に沿ってサン・トロペを目指して走った。
夕方、サン・トロペに着くと、小さいが小奇麗な宿を探して泊まることにした。恭子は若い頃にパリのソルボンヌ大学に留学していたので、フランス語は流暢だった。剣持は英語はまずまずだが、フランス語は片言しかしゃべれなかったので恭子が一緒で助かった。
サン・トロペには大きなヨットハーバーがある。翌日は適当なクルーザーを探していよいよクルージングを楽しむ予定だ。
目黒で、大勢のガキどもにさんざん痛めつけられたが、変装をしてから、カマキリこと鬼頭竜司は妨害を受けずに済んだ。それで、毎日ウイークリーマンションから林菓房の娘を監視していた。だが、その後も変わったことは何も起こらない日々が続いていた。
コミさんはこの間、急に女を追って海外に行くと言ってから、ぷっつりと連絡が途絶えていた。多分海外からだから携帯が通じないのだと思っていたのだ。
百十 地中海のクルージング
サン・トロペは芸術家が好んで住む所らしい。元々別荘地だから、こじんまりとした清潔な感じの宿を探すのに時間がかかったが、どうにか適当な宿を見つけて泊まることができた。翌日はゆっくりと街中を散策してから、海岸に出てクルーザーを貸してくれる者を探して歩いた。恭子のフランス語が随分役に立った。
二人で聞き回っている内に、ピエールと呼ぶ漁師がクルーザーを貸してくれるかも知れないと聞いて、訪ねてみた。
「そうかい。あまり大きくなくて良ければ貸してやるよ。何日使うんだい」
「ユヌ スメーヌ、アンヴィロン」
恭子が約一週間と答えた。漁師は、
「それなら貸してもいいよ」
と答えた。料金は安かった。舟を見せろと言ったら案内してくれた。手入れが良く行き届いた白い小型のクルーザーだった。小型と言っても、簡易ベッドがあり、小さなキッチンも付いている。
「明日の朝出たいがいいか」
「いいよ。何時にここに来る?」
「そうだなぁ、八時でどうだい」
「分った。八時には直ぐ出せるようにしておいてやる」
それで二人が立ち去ろうとすると、ピエールが走ってきて呼び止めた。
「オレを雇ってくれないか?」
「えっ? あんたを? 漁はどうするんだ」
「休むから大丈夫だ」
思わぬ申し出に剣持は一瞬どうするか迷っていると、
「いいじゃない。この辺の海に詳しいんだから、一緒に連れてってあげたら」
と恭子が口をはさんだ。剣持はピエールに
「OK」
と答えた。ピエールは、
「えっ?」
と聞き返した。恭子が
「ダコール! (D'accord!) 」
と言い直したらピエールの顔がパッと明るくなって、ありがとう、ありがとうと何度も繰り返した。
翌朝八時にハーバーに行くと、ピエールは白いワークシャツにGパン、白い帽子で決め込んで、剣持たちを待っていた。ピエールの隣に花柄のワンピを着た若い女性が立っていた。ピエールは、
「僕の女房、マリアだ」
と紹介した。マリアは恭子がフランス語を話すのでなにやら話をしていた。後で聞いたら、ピエールは大切な旦那様だからよろしくと恭子に頼んだそうだ。
風はなく、とても穏やかな海だった。朝の太陽に波頭がキラキラと輝いてとても気分が良かった。操船はピエールに全部任せることにした。ピエールは最初思ったより礼儀正しく、真面目な青年だった。
サン・トロペからカンヌまでは直線で40km位しかないので、十時にはカンヌのハーバーに着岸した。ハーバーに係船するには手続きが要るが、ピエールが全部やってくれた。
船を降りると三人は海岸を散歩した。ピエールは詳しくて観光案内をやってくれた。
「ムッシュケンモツ、今夜はどこに泊まるんだい?」
「ニースかモナコだ」
「じゃ、午後には風が出るから、そろそろニースに行こう」
「分った」
それで、早々にカンヌを引き上げてニースに向かった。カンヌからニースは近い。お昼前にニースに船を停めると陸に上がった。係船の手続きはピエールがやってくれた。
「昼食後、あたしシャガール美術館に行ってもいいかしら」
「僕も一緒に行こう」
それで、ピエールと夕方五時にこのレストランで会おうと約束して、剣持と恭子は美術館に向かった。
上流社会の住宅地を抜けて、洒落た感じのシャガール美術館に着いた。この界隈のハイクラスの住宅は、日本の住宅では見られない広い敷地に贅沢な建物が建てられている。恭子はシャガールの作品をゆっくりと時間をかけて見て回った。柔らかい自然光を上手く取り入れた館内は気持ちが良かった。
夕方ピエールと再会した。彼は知り合いの所に泊まる。明日の朝、船で待っていると言い残して去って行った。
剣持はホテルを予約した。このあたりのホテルは高級な所が多く、料金も高い。一泊四万円以上が普通だ。剣持は泊まると決めたホテルと交渉して良い部屋をキープした。
翌朝、ハーバーに行くとピエールが仕度を整えて待っていた。
「今日はどこに泊まるんだい」
「イタリアのジェノバはどうかな」
「大丈夫だ」
それで、ニースからリヴィエラの海岸沿いにジェノバに向かった。サン・トロペからニースまではコートダジュールで景色が良いが、リヴィエラの海岸も景色が良かった。
百十一 嵐
ジェノバはイタリアの大きな港町だ。昨日、午後に港に入ると、小高い丘にあるブリストルパレスホテルに泊まることにした。ピエールも一緒にどうだと誘ったら、素直についてきた。ジェノバは大きな街なので、ホテルも多いし、ニースやモナコに比べるとルームチャージは高くはない。
ジェノバの朝は快晴で気持ちが良かった。だが、ピエールは顔色が冴えない。
「ピエール、体の具合が悪いのか」
思案顔のピエールは朝食を食べている食堂の窓から遠くを見ていた。
「マダム、ニノミヤ。今日は午後海が荒れそうだから、早く港を出たいんだが……」
今朝の天気を見た限り信じられないが、ピエールの言葉に従って、早々にホテルを引き払ってクルーザーに戻った。コルシカ島はイタリア語で、フランス語だとコルス島だ。目と鼻の先に見えるが、ジェノバからは約200km離れているから、クルーザーの巡航速度で行くと五時間はかかる。
港を出た時は、海面は静かで波も殆どなかった。だが、十一時頃になると、急に波頭が高くなり、風も出て来た。ピエールは昨日とうって変り、口を一文字に、真剣な眼差しで西の方を見ていた。剣持はライフジャケットを取り出して、恭子に着せてやり、自分も着た。ピエールは既に着ていた。間もなく波頭の先が崩れて白くなり、うねりが大きくなってきて、雨がぽつぽつ落ちてきた。ヨーロッパの気象用語で[北大西洋振動]と言うのがある。この現象はギルバート・ウォーカーと言う学者によって一九二〇年代に発見されたそうで、太平洋赤道部のエルニーニョ・南方振動と同じテレコネクションの一種だそうで、大気と海洋の相互作用により発生する現象らしい。大西洋上を吹く偏西風が弱い年は、熱波や寒波が長期化しやすく気温の上下が極端で、雨が少ない傾向にあるのだそうだ。こんな年は、低気圧の進路が南下して地中海沿岸の南欧や北アフリカでは荒天や雨が多くなるそうで、どうやら前線を伴って気象が急変したらしい。
小さなクルーザーは大波にもまれ、波のしぶきがザブッとクルーザーに襲い掛かってくるのだ。最初は笑顔で居た恭子の顔は青ざめて、体も船酔いでぐったりしてきた。剣持はピエールを手伝って、出来るだけ波にクルーザが平行にならないように二人でクルーザーの舵を取っていた。波に平行になると、転覆する危険があるからだ。
雨はざぁざぁ降りになり、視界も悪くなった。ピエールも剣持もびしょ濡れだ。気温が急激に下がり、二人とも唇が紫色に変っていた。
十三時頃にバスティアの港に入る予定であったが、一時間も遅れて、午後の二時過ぎにようやく港に入った。だが、波が大きく、なかなか接岸できなかった。岸から漁師らしき男たち数人が出てきて、係船を手伝ってくれた。お陰でどうにか岸壁に横付けできた。恭子は怖がってなかなか船から降りられなかったが、漁師たちに担がれるようにして埠頭に上がった。
ピエールは友達が居るからと、電話で呼び出して、三人はひとまずピエールの友人宅に転げ込んだ。
「コルシカに三日ほど滞在したい」
剣持はピエールにそう告げて、港から遠くないホテル、ピエタキャップに予約を入れて、ピエールの友人に礼を述べた後、恭子と二人でタクシーでホテルに向かった。ピエールの友人宅で着ているものを乾かしたが、まだ濡れた状態だった。ピエールは三日間、友人宅に泊めてもらうと言った。
嵐は夜半まで続いたが、翌朝は天気が回復した。剣持はホテルからレンタカーを予約して、車で島巡りをするつもりでいたが、恭子が熱を出して弱っていたので、予定を変更した。どうやら風邪を引いたらしい。
「弥一、ごめんね」
恭子は昨日の朝までの元気はどこかに飛んでしまって、ベッドにうずくまってぐったりしていた。ホテルのフロントに頼んで医者を呼んでもらった所、やはり風邪らしい。注射を一本打ってもらったら、午後には顔色が元に戻ってきた。
百十二 コルシカ島の思い出
昨日。医者に注射を一本打ってもらった恭子は、翌朝は体調が回復したようだ。昨日はホテルで一日ぐったりとしていたが今朝は、
「あたし、お腹が空いちゃった」
と嬉しいことを言ってくれた。剣持は、もう大丈夫だと判断した。
朝食を済ませた頃、ピエールと友人が恭子のお見舞いにやってきた。
「マダム、ご機嫌は如何ですか」
見ると手に花束を抱えていた。
「フランスの男性は女性に優しいなぁ」
と剣持は笑った。恭子は一昨日、波止場で数人の男性に担がれるようにして埠頭に降りたのが恥ずかしくてきまりが悪かった。だが、ピエールやピエールの友人の親切にはほろっとした。
「昨日はお熱が下がらなかったけれど、今日は大丈夫よ」
と腕を回して元気になったと見せた。二人とも喜んでくれた。
「ピエール、あたしね、もう船はダメ。ここから飛行機で帰らせて」
恭子は一昨日の嵐で死ぬかと言うほどの思いをしたので、もう船はこりごりだと言う顔をした。剣持は申し訳なさそうに、
「ピエール、すまんが、明日反対側のアジャクシオの町外れの飛行場からパリに帰るよ」
そう言って、費用の全てを精算した。ピエールと友達は礼を述べて引き上げて行った。
「恭子、ドライブなら大丈夫かい」
「車なら大丈夫よ」
「じゃ、一休みしたら、ここを引き払って、今夜はアジャクシオのホテルに泊まろう」
ホテルのフロントに山越えの道路は大丈夫かと聞いた。フロントの男は、一昨日山に雪が降ったから、遠回りだけれど海沿いの道を行くのがよいと行った。コルシカ島は島全体が山のような島だ。バスティアの港の反対側、西側のアジャクシオの港までは直線で100km程度だが、標高2500mくらいの峠越えをしなければならない。フロントの男は峠付近が雪で通行止めかも知れないと言ったのだ。コルシカ島の最高峰はチント山で標高が2710mもあり、スキー場もある。
それで、ホテルを引き払うと、剣持たちは標高の低い海岸沿いの道を走った。海沿いの道は暖かく、景色はとても良かった。山を見ると、上の方は真っ白に冠雪していた。島の南端のボニファッチオに着くと、目の前にイタリア領のサルデーニャ島が見えた。わずか数キロしか離れていないので、目と鼻の先だ。昼食はボニファッチオの港町で食った。剣持は魚介類の料理が美味しい所だと思っていた。コルシカ島は昔は貧しい島で、平野が殆どないために小麦が採れず、昔から栗やブタ、山羊などの食材を使った料理が地元の料理らしい。それで、ブタの料理を頼んだ。バスティアのホテルでは美味しい魚料理が出たが、魚介類を使った料理はどうやらバスティアやアジャクシオに限られるらしい。
島をぐるっと回って、午後の三時ごろアジャクシオの港に着いた。
ホテルはプライベートビーチを持っている、空港に近いカンポ・デ・ローロと言うところにした。観光シーズンではないので、ホテルは空いていた。チェックインを済ますと、二人はビーチに出て散歩した。先日の嵐の跡はなく、静かな地中海が広がっていた。ホテルで聞いた所では、ここの夕日は最高らしい。それで、日が落ちるまで、まったりと海岸に寝そべって過ごした。ビーチに人影がないことを確かめると、恭子は剣持に頬を寄せてきた。二人はしばらく静かな潮騒を聞きながら、そうして並んで横たわっていた。やがて、剣持はそっと恭子に唇を重ねた。太陽が西に傾き、地中海の水平線に隠れようとした時、赤い光線が恭子の頬に射して、恭子の頬が紅に染まった。二人は二度と来ない、この素晴らしいサンセットの僅かな時間、愛を確かめるように抱き合っていた。
あたりが薄暗くなってから、二人は立ち上がった。
「静かだ。本当に静かだ」
「ええ。二人の、コルシカの良い思い出だわね」
それから二人は手をつないでホテルへと戻った。
翌日、アジャクシオの空港から飛行機でパリに飛んだ。パリのオルリーの西空港に着陸すると、高速鉄道とメトロを乗り継いで、多恵と泊まった同じホテル、パリ放送局に近いセーヌ河沿いのHotel Squareにチェックインした。
都会のホテルで一晩ゆっくりしてから、明日恭子は東京に帰ることになった。
フランス最後の夜、二人はアブダビに泊まった時のように、愛し合った。
「東京にはいつお戻りになるの」
「年明けになるなぁ。用事で一日だけ戻るけれど、まだうるさいルポライターを完全に振り切った確証がないからね。もう少しほとぼりを冷ましてから帰るつもりだ」
「お戻りになったら、またデートして下さるんでしょ」
「もちろん、連絡を入れるよ」
翌日、恭子は短い旅を終わって、ドゴール空港から成田に向けて帰って行った。
「また、ロンドンのメグの所に帰ろう」
剣持は独り呟いた。
百十三 どれくらい食べてる?
目黒の林菓房の売上は、最近伸び率が鈍ってきた。それで、晴子と武雄は先ほどから、これからどうして行けば良いのかと話し合いをしていた。晴子のお腹はぷっくりと膨らんで、最近ではお腹の中の赤ちゃんが時々暴れるらしく、順調に育っているとは言え、ずっと座っているときつい様子だった。それを武雄は気にしながら、話をしていた。
「この前、一世帯当たり、一年間でどれくらいお菓子にお金を使っているのか調べて見るって言ってたわよね」
「ん。調べてみた。晴子さんは大体いくら位使っていると思いますか」
「そうねぇ、子供さんが居るのと居ないのとでは違うわね」
「色々な家庭があるから、平均でってことだけど」
「平均ねぇ。月々三千円位として、一年間で三万円か四万円ってとこかしら」
晴子は、少し多すぎるとは思ったが、一応自分の意見を言ってみた。
「ハズレッ!」
「あらっ、多すぎたかしら」
「いえ、少な過ぎますよ」
「ほんと? そんなに沢山支出してるの」
「オレも最初はおかしいなと思ったんだけど、本当らしいよ」
武雄は二〇〇六年~二〇〇八年に総務省が家計調査の一環として調査したデータを持ってきた。
「一番お菓子の支出が多い町はどこだと思う」
「そうねぇ、やっぱ東京かしら」
「アハハ、また外れちゃった」
「武雄の意地悪。データを見せなさいよ」
武雄は笑いながら、晴子にデータを見せた。
「へーぇ? 全国のトップは金沢市なんだ。えっ? 一年間で九万五千円も使ってるの? 平均だとすると、毎月一万円もお菓子代を使ってるご家庭もあるのね」
データは二人以上の世帯を対象に調査したと書かれていた。
「二番目は水戸市、三番目はさいたま市、四番目は山形市、五番目は宇都宮市って書いてあるわね」
「その金沢なんだけど、羊羹、饅頭は勿論、それ以外の和菓子、ケーキ、チョコ、アイスとシャーベッドなんかも全国一位だって」
「金沢は茶道が盛んだからだろうって地域振興研のコメントがあるわね。だとすると、京都なんかも上位のはずだけど」
「そうだね。京都はお菓子全体だと全国で三十番目で東京二十三区の十五番目よりずっと下だけど、羊羹と饅頭以外の和菓子は全国で六番目だから、納得できるわね」
「地域によって随分違いがあるね。水戸市はお菓子全体だと二番目だけど、和菓子は十八番目で、おせんべいが全国でトップなんだよな」
林菓房では、デパートの出店を増やそうと計画をしていた。だが、何を基準に出店するのか、今までは考えたことがなかったのだ。それで、総務省のデータを調べて、和菓子の消費の多い地域のデータも参考にしてみることにした。
「和菓子の支出だと、ベストテンは金沢市、松江市、松山市、熊本市、山口市、京都市、富山市、仙台市、岐阜市、名古屋市の順になってるはね。デパートへの来客数を念頭に入れると、何となくどこに出店するのが効果的か分るような気がするわね」
「はい。各都市のデパートと来客数のデータも一応調べてみます」
「そうねぇ、お願いするわ」
先日、剣持から晴子にメールが届いていた。剣持はクリスマスには必ず帰ると、はっきりと書いてきた。最初は随分先の話だと思っていたが、もう十二月に入ったので、直ぐにクリスマスだなと晴子は段々楽しみになってきた。
一方、カマキリは相変らずウイークリーマンションの一室から晴子の行動を監視続けていた。だが、監視を始めてから一度も剣持らしき人物は現れなかった。最近はコミユウからも何も連絡はないし、いい加減うんざりしていたのだ。
百十四 始末の計画
剣持たち、トレメンド・ソシエッタの者が始末をすると言えば、それは、大抵殺ってしまうことを意味する。トレメンド・ソシエッタは余計なことに首を突っ込んでくる奴等を必ず始末した。それで今迄組織を守ってきたのだ。トレメンド・ソシエッタの社員といえども、命令されていないことに首を突っ込んで、知ってはいけないことを知ってしまったことがバレたら、それは死を意味するのだ。これは、この会社の掟でもある。
剣持は、N女史と別れてから、直ぐにパリを離れてロンドンのメグの所に帰ってみると、メグは留守だった。それで、仕方なくネットカフェに立ち寄って、村上と晴子にメールを書いて送った。晴子への要旨は、十二月二十三日十三時四十五分にロンドンのヒースローを発つ。成田へは二十四日の午前九時三十分頃に着く。着いたら直ぐに目黒に向かう。昼頃林菓房の晴子に会う予定だ。クリスマスイヴだが、街中は身重の晴子さんには厳しいだろうから、車で箱根にでも行って温泉に浸かってゆっくりしたい。日帰りを予定しているが、大丈夫ですか?。
次に村上への要旨は、二十四日昼頃目黒の林菓房の晴子と言う令嬢に接触する。自分の感だが、恐らく敵は令嬢に張り付いて見張っている可能性が高い。そこで、車で行けば、奴等は必ず尾行してくると思われるので、尾行があれば、わざと天王州アイルの例の倉庫まで引っ張ってみる。倉庫のあたりでブロックを頼みたい。
そんな内容で送った。
二時間ほど、ネットカフェで時間つぶしをして、メグのフラットに戻ると、メグは帰っていた。
「なんだ、弥一かぁ。どこをほっつき歩いてたんだ? この役立たずがぁ」
メグはアルコールの臭いをプンプンさせていた。大分酔っているらしい。
「弥一、あたし、もうダメ。今夜ね、あたしをメチャメチャにしてぇ」
「メグが酔っ払うのは珍しいな」
「そんなこと聞いてないって。あたしをどうにかするのかしないのか、それを聞いてるの」
剣持はコップに水を入れて差し出した。
「酔いを醒ませよ」
メグはそれには答えずに、剣持によっかかって抱きついてきた。どうやら、今夜は相当落ち込んでいる様子だ。メグからのアルコールの臭いが鼻を突いたが、剣持はやさしく抱きしめて背中を撫でてやった。しばらく黙っていると、
「理由を聞かないのぉ」
と言った。
「聞いても仕方ないだろ? オレになんか出来ることでもあるのか?」
「ある。あたしをメチャメチャにしてと頼んだでしょ」
剣持はメグを抱き上げて、ベッドに横たえた。それから、靴を脱がし、Gパンを脱がし、ジャケットを脱がして、毛布をそっとかけてやった。太ももの付け根の内側に、キスマークが消えないで残っていた。
「こいつも苦労してんだなぁ」
と剣持は独り言を呟いた。メグは寝息を立てて眠ってしまった。
翌朝、剣持はキッチンの方でコツコツと音がして、目が醒めた。そこにメグが立って、朝食の仕度をしていた。
「もう少し寝てればいいのに」
メグの表情はいつものように可愛らしい感じに戻っていた。
「弥一、夕べあたしを抱いてくれたの?」
「なんだ、何も覚えてないのか? メグは燃え上がって消すのに苦労したぜ」
メグは恥ずかしそうに目を逸らした。剣持がウソを言ったのに、メグは信じたようだった。
「夕べ、外でなんか嫌なことがあったのか」
「彼と別れた」
「それってバンドのメンバーか」
「違うの。常連のお客よ」
「そうか、撚りを戻せそうか」
「今は分んない」
「オレ、十二月二十三日までここで世話になるからさぁ、良かったらオフの時にドライブでもしようよ」
「嬉しいな。あたし、ここのとこずっと出てないから」
結局、剣持は十二月二十三日、ヒースローを発つまで、時たまメグとドライブをしたり、飯を食いに出たりしてのんびりと過ごした。冬の寒い時期で外を歩くには寒すぎたので、殆どメグのフラットで過ごした。
十二月二十三日、剣持は予定通りヒースローを飛び立った。明日の昼には晴子に会えると思うと、楽しみが次第に大きくなった。
「オレ、やっぱまだ晴子が好きなんだなぁ」
そんなことを思っている内に、いつの間にか眠りについていた。
百十五 再会
ルポライターカマキリこと鬼頭竜司は兄貴分のルポライターコミユウこと小宮山雄三郎から今年いっぱい監視で張り付いているのに必要な活動資金をもらっていた。勿論その中からウイークリーマンションの借り賃も出していた。コミユウからはその後何も連絡はないし、林菓房の娘も動きが何もないので、監視は今年一杯で止めて、引き上げようと思っていた。
「剣持なんて野郎はもしかしてここには来ないのかも知れんなぁ」
カマキリはもう監視を続けることにうんざりしていた。
「毎日コンビニ弁当ばっかじゃたまらんぜ」
とブツブツ言っていた。
所がだ、暮れも押し詰まった十二月二十四日の昼過ぎ、いつも見ない乗用車が停まって、中から体のでかい男が降りてきた。カマキリはルポライターの動物的勘で、間違いなく追っている剣持とか言う野郎だと思った。案の定、中から腹が出っ張って重そうな菓子屋の娘とおふくろらしき年配のババアが出てきて、何やら話をしていた。カマキリは、自分の車に走った。エンジンをかけて、通りに出ると、まだ野郎の車は停まっていた。
「今度こそ、しっかりと尾行して、先ず、奴のねぐらを突き止めて、それから、隙を見て、やつからコメントを取ってやるぞ。井口が狙った本人だとはっきりしたら、週間Pでばっちり暴き立ててやるから覚えてろ」
カマキリは全身に緊張が走った。ルポライターとして、この瞬間が一番生き甲斐を感ずる時だ。
野郎の車は、腹のでかい娘を乗せて、走り出した。カマキリは少し間を開けて、後をつけた。幸いスピードを上げるでもなく、ゆっくりと走ってくれているので尾行は楽だ。目黒から首都高に乗ると、一ツ橋ジャンクションを浜松町の方に向かって走っていた。浜松町から平和島の方向に折れて、芝浦で一般道に降りた。そのまま直進して、天王州アイル付近で折れて倉庫街の方に走っていた。
「あのやろう、こんなとこに住んでやがるんか」
カマキリは剣持がこの付近に住んでいるんだと予想していた。この付近には高層マンションも沢山あるのだ。
剣持の携帯に村上から連絡が入った。
「おいっ、一台ぴったりついてるぜ」
「ああ、分ってる。このまま倉庫まで引っ張るから頼む」
「OK。任せてくれ」
剣持は林菓房を出た時から、後にぴったり付いて尾行している車を知っていた。それで、出来るだけ尾行を失敗しないように走ってやった。久しぶりに会った晴子には、
「ちょっと用があるから、寄り道をして行くから」
と了解を得ていた。それで、晴子は先ほどから黙っていた。例の空き倉庫の門は開けてあった。剣持は後ろの尾行車に分るようにゆっくりと門を通過した。
カマキリが門を通過しようとすると、すーっと前方に白いバンが出て来た。
「おいっ、邪魔だ」
と言いながら、カマキリは急ブレーキをかけた。後からもトラックが接近してきて、挟まれてカマキリの車は動けなくなった。トラックからサングラスをした運転手が降りて来て、窓をコツコツっと叩いた。カマキリが窓を開けると、
「あんた、邪魔なんだよ」
とカマキリの車の窓から手を突っ込んでドアを開けるなり、カマキリを車から引き摺り降ろした。カマキリの鳩尾に鈍いパンチが入った。前の車からも二人出て来て、カマキリは三人に挟まれるようにして、倉庫の中に担ぎ込まれて、そのまま手足を縛られて転がされてしまった。三人はカマキリの車と自分達の車とトラックを片付けて、門を閉めた。剣持の携帯に村上から連絡が入った。
「確保した。他の尾行がないか気を付けて行ってくれ」
「ありがとう」
剣持は倉庫をぐるっと回って、別の門からすーっと出て、再び首都高に乗って、羽田方向に走った。
晴子は、剣持に二回仕事の連絡らしき電話があったが、断片的で内容は全く分からなかった。
「ごめん。仕事の用は終わったよ。これから箱根に行ってゆっくり温泉にでも入ろう。長い間留守にしてたから、今日はゆっくりと話がしたいな。夕方は無理だけど、夜には目黒に戻ろう」
「はい。よろしくお願いします」
剣持はスピードを上げた。後方を注意深く見ていたが、幸い尾行車はなかった。大黒埠頭からベイブリッジを渡り、狩場からバイパスを走って、東名高速の横浜ICから入って厚木で降り、小田原厚木道路を通って箱根に抜けた。晴子はお腹が大きいので、ゆったりとした家族風呂のある仙石原の金乃竹と言う旅館に予約を入れておいた。宿賃はかなり高いが静かな良い旅館だ。
百十六 愛の誓い
小田原厚木道路を通って箱根に入ると、箱根新道を一気に上がって、芦ノ湖を回って仙石原に入った。天気が良く、十二月下旬とは思えない穏やかな暖かい日だった。剣持は仙石原の金乃竹と言う旅館の駐車場に車を入れると、チェックインを済ませて部屋に案内してもらった。竹取物語にちなんでデザインされたと言う館内は竹が多く使われていて、しっとりとした和風の趣があった。間もなく仲居がやってきて、あれこれ世話をやいてから、
「ごゆっくり」
と言って出て行った。
この旅館は箱根でも珍しい部屋毎に大きな露天風呂が付いていて、カップルでゆっくりとくつろぐにはとても良い宿だ。別荘のような感じで一階と二階が続きになっていて部屋は広々としていた。剣持はN女史と一緒に一度利用したことがあり、様子が分かっていた。
「少し時間が早いけど、先にお風呂に入らない?」
「あたし、時間がかかるから、剣持さん、先に入って下さらない」
「じゃ、僕が先に入る」
剣持は久しぶりに日本の温泉に浸かって、ヨーロッパの長旅の疲れを落とした。考えてみると、昨日はロンドンにいたのだ。
「お先に……。いいお風呂だったよ」
「じゃ、あたしゆっくりだから、ごめんね」
と言って晴子は剣持の後に風呂に行った。
お腹がこんなに大きくなってから、温泉に入るのは初めてだ。身体を流して、一人ではもったいない程の大きな露天風呂に入ると、いつもやっているように、手足を思い切り伸ばして大の字になって、のんびりと浸かっていた。旅館が空いているせいなのか、あたりは静粛で、晴子が動いて立てたお湯のチャプッとする音だけが聞こえるだけだ。晴子は自分が身重なのを考えて、こんな所に案内してくれた剣持の細やかな気遣いが嬉しかった。ここなら、他人に気兼ねなくゆっくりと浸かっていられる。お風呂に入りながら、晴子はふと、花言葉[私のことを思って下さい]と[忍ぶ恋]を持つ可愛らしい[姫岩垂草]を思い出した。最初は自分のことを何とも思っていないのかと誤解していたのに、沢山のメールを読むうちに、剣持が自分のことをこんなに思ってくれていると、嬉しくてまた涙が出てしまった。そんなことを思いつつ湯船に浸かっていると、突然お腹の赤ちゃんが動いて現実に引き戻されてしまった。
「とても、いいお風呂だった」
晴子は備え付けの浴衣に着替えて、身体を火照らせて出て来た。
「ここの風呂、いいだろ」
剣持は応じた。
夕飯は少し早めに出してくれと、先ほど仲居に頼んでおいた。それで、しばらくすると料理が運ばれてきた。ここの食事は本格的な京懐石料理だった。食事が終わって一服すると、二人は並んで窓から外の景色を眺めていた。
「お腹の赤ちゃんも元気に育っているようだね」
「はい。ここのとこ、時々暴れてびっくりさせられます」
「お腹、ちょっと触ってもいい」
「あら、恥ずかしいわ」
そう言いながら、晴子は剣持に触ることを許した。剣持はそっと晴子のお腹を触った。
「外から見てるより随分大きいね。これじゃかがんだりできないから、大変だろ」
「ええ」
晴子は剣持の手を意識していた。
「あなたも、赤ちゃんも僕が一生守ってあげるよ。僕には両親はいないから、もちろんご両親も一緒に守ってあげる。だから、安心して元気な赤ちゃんを産んでくれよ。赤ちゃんは男でも女でも、どちらでもいいよ。自分の子供として可愛がってあげるよ」
「途中で、お気持ちが変らなければいいのですけど」
「そんなことはないよ。それは誓って約束するよ。子供は嫌いじゃないから」
「信じてもいいんですね」
「ん。晴子さんも赤ちゃんも僕の宝物として大切にしたいな」
「ありがとう」
晴子はこの時、自分は剣持と一緒に歩いていけそうだと思った。
「どうだろう? 僕と結婚しても構わないというお気持ちはまだ決まりませんか」
「あたし、実は最初はすごく不安でした。でも、沢山のメールを頂いてから、剣持さんのお気持ち、良く分かりました。なので、今は構わないと思っています」
しばらく、二人は無言で見詰め合っていた。ややあって、
「そう。ありがとう。改めてプロポーズします。晴子さん、僕と結婚して下さい」
「はい」
晴子はこの時、胸がドキドキしていた。ついに返事をしてしまった。
「あたし、ずっと剣持さんのあとをついて行きます」
剣持は晴子を抱き寄せて、晴子の唇に自分のを重ねた。晴子は素直に応じてくれた。剣持はようやく、この人に自分の気持ちが伝わったと思うと嬉しかった。それで、しばらくの間、晴子をやさしく抱きしめていた。
剣持はスペインのトレドで買った象嵌のペンダントを晴子の首にかけて、
「これ、スペインのお土産。クリスマスプレゼント」
と言った。
晴子は精巧な象嵌のペンダント見て、
「素的。ありがとう。ずっと大切にします」
と答えた。
「結婚式は、赤ちゃんが産まれてから、晴子さんの身体が軽くなってからにしよう。そうだなぁ、四月頃なら大丈夫かな? それまでに、あなたの希望とか、夢を聞かせて下さい。今からなら日程がたっぷりあるから、良い計画ができるよね。二人で楽しい計画作りをしてみない」
「はい。よろしくお願いします」
夜、目黒に戻った。剣持は晴子の家の座敷に上がって、晴子の父義晴と母の貴恵に向かって、
「今日、ようやく晴子さんのOKを頂きました。晴子さんと結婚させて下さい」
両親はこの瞬間を待っていたようだった。
「こんな子持ちの娘でよろしければ、幸せにしてやって下さい」
義晴は剣持に頭をさげた。
「ありがとうございます。晴子さんを一生大切にします」
しばらく雑談をした後で、剣持は去って行った。
空き倉庫に転がしたカマキリに村上が低い声で話を始めた。
「あんたのことは大体見当が付いているんだ。お前はカマキリこと鬼頭竜司だろ」
村上は武雄の仲間のピー子に頼んで剣持から受け取った携帯メールのアド、kamakiri**@ezweb/ne/jpに適当にメール送って、カマキリを引っ掛けて、メールでカマキリのことをあらいざらい聞き出していた。
カマキリはしらを切った。
「そんな奴は知らねぇ」
村上はカマキリのポケットを探り、携帯を取り出して開いた。
「バカヤローが、おめぇ、モッチィと言う女の子とメール交換してるじゃねぇか。モッチィはなぁ、オレたちの仲間だよ。それでもしらを切るのかよぅ。このドアホやろう」
カマキリは驚いた。直ぐに自分が女にはめられたことを悟った。
「クソッ」
「おめぇ誰の後をつけてた? 言ってみろっ」
「剣持と言うヤロウだ」
「おめぇ、一人じゃないだろ? ダチ公が誰か言ってみろ」
「オレ一人だ」
「ウソつけぇ」
村上はカマキリの足の甲をかがとで踏んづけた。
「いてぇぇぇっ」
「だからよぅ、大人しく答えればいいのよ」
「……」
村上は目で仲間の鈴木に合図した。鈴木はコンロであぶった鉄棒を持ってきた。それをカマキリのほっぺたに押し付けた。ジュジュジュッと肉が焦げる臭いがして、
「アチィィィィッ」
とカマキリが悲鳴をあげた。
「どうだ、答えて見る気になったか」
「ダチは小宮山雄三郎と言う奴だ」
「今、どこに居る?」
「しらねぇが、何でも海外に出かけると言ってから会ってない」
村上はコミユウの始末は剣持から聞いて分っていた。
「他にもダチ公居るだろ?」
「他にはいねぇ。信じてくれよぉ。おれ熱いのはごめんだ。勘弁してくれよ」
「ほんとにおめぇとやつと二人だな」
「そうだ」
「週間Pの編集者と連絡を取り合ってるだろ?」
「あっちは兄貴のこみゆ……小宮山がやってるから、オレには関係ねぇ」
「剣持のことを誰に聞いた」
「オレは直接聞いてねぇ。小宮山がキャディを脅して聞いてきたんだ」
村上は大体聞きだしたと思った。
「もう、こいつには用はねぇ」
「助けてくれるのかよぅ」
カマキリは村上に拝むような口で聞いた。
「おめぇ、甘めぇんだよ。あんたを直ぐ楽にしてやるぜ」
「オレを殺すのか」
村上はそれ以後無口になった。
二日後、カマキリの真っ裸の遺体は岩手県大船渡港北部工業用地の空き地に雪をうっすらと被って捨てられていた。四ヘクタール以上もある大きな空き地で中に入る者もなく、発見されるのは恐らく年明けになるだろう。或いは白骨化した遺体で発見されるかも知れなかった。
仕事柄、コミユウもカマキリも捜索願は出されていなかった。彼等は半年位全く音沙汰無しで、ある日突然ひょっこり現れるような奴等だったから、周囲の誰も長期間顔を見なくとも不審に思う者は居なかったのだ。
百十七 心の内側
武雄は、クリスマスイヴに、剣持が帰国して、晴子と一緒に出かけたのは知っていた。晴子は武雄に何も言ってなかったが、武雄は気になっていた。
「晴子さん、剣持さんと出かけましたよね」
「ええ。顔を見たいって、わざわざロンドンから帰っていらして。また、あちらに戻られたようですよ」
「晴子さん、剣持さんとご結婚の話をされたんですか」
「ええ」
武雄は顔には出さなかったが気がきでなかったのだ。最近、武雄は晴子に恋をしている自分をはっきりと認識していた。
「それで、兄貴と結婚するんですか」
「一応そのつもりだけど」
「そうなんだ。年明け早々ですか」
「お腹がこんなだから、産まれちゃってからになると思うの」
「まだ正式に婚約はされてませんよね」
「正式にはしてないけど、口約束だわね」
晴子は武雄にしつこく聞かれて、正直に話そうか、話すまいか迷っていた。武雄が自分に好意を持ってくれているのも分っていたし、武雄の気持ちを考えると、もう少しハッキリしてから、ちゃんと話して了解してもらうのが良いと思っていた。
仕事が終わって、自宅に戻った武雄は、むしゃくしゃしていた。晴子になんとか自分の方に顔を向けてもらいたいと、菓子製造の技能検定を目指して勉強までしているのに、そんな気持ちを晴子に打ち明けられないでいる内に、兄貴分の剣持と結婚話が具体的になってきた様子なので、どうしてよいやら悶々として、その日は眠れなかった。
尊敬している兄貴分の剣持の結婚話を壊してしまう勇気もなかったのだ。
剣持は二十五日に成田からロンドンに発った。村上にバックアップを頼んでいたが、どうやら尾行者はいなかったようだ。それでも、機内に不審な奴がいないか、十分に神経を尖らせていた。ヒースロー空港に着いても、尾行者や不審な人物が寄ってくることもなかった。この分だと、年明けにでも帰国できそうだと思われた。
メグのフラットに戻ると、メグはなにか淋しそうな表情をしていた。東京から買って来た大福とかせんべいを出すと、嬉しそうに受け取った。
学生時代には可愛いやつだったんだけどなぁと、今疲れ果てた顔をしているメグを見ると不憫に思った。
「あら、あたしの顔に何か付いてる」
「いや、改めて見ると、学生時代と随分変ったなぁなんて思ってた」
「そんなに変った?」
「ん」
「ここに来てから、今迄一度も帰ってないから、母が見たら驚くだろうなぁ」
「親孝行だと思って、年が明けたら一度帰ってやれよ」
「弥一が帰る時、くっついて行こうかな」
「オレは構わないよ」
どうしたことか、今日はメグとこんな話を長々としていた。
百十八 新たな仕事
二日遅れて、晴子の手元にロンドンから可愛いクリスマスカードが届いた。勿論剣持からだった。
「来年は良い年にしたいな」
と書き添えてあった。晴子は、暮れいっぱいは多忙なので、お正月休みに、剣持との結婚の具体的な希望をまとめようと思っていた。そうこうしている間に、あっと言う間に正月を迎え、年を越してしまった。
一月半ばに、剣持から電話が来た。
「今度の月曜日の夕方、時間を取って頂くことは可能ですか?」
剣持は、晴子が花屋の仕事を長期お休みしていることをまだ分っていないらしく、月曜日になんて言ってきたので晴子は思わず笑ってしまった。頭が切れる人のようでいて、案外抜けた所もあるんだと思ったのだ。晴子は勿論OKと返事をした。
年が明けて、剣持は帰国した。帰国早々、約半年間の出来事と始末した結果を山田龍一と神山伝次郎に報告した。
「剣持はんや、もうブン屋は大丈夫やろ。それでや、あんたにはすまんのだけど、また仕事や。村上がな、どうしてもあんたと一緒にやりたいと言うんや」
山田が口を挟んだ。
「例の和菓子屋の令嬢とは上手く行っているのかね」
「はい。昨年末、結婚してもよいと返事をもらい、ご両親にも挨拶を済ませました」
「そうか、それは良かった。それじゃ、結納やらなんやら、仕度をせんといかんなぁ」
「はい。式は出産後にして、四月頃にしようと言ってあります。仲人さんも誰かに頼まなければなりませんが。僕としては伝さんにと思っているのですが」
「わしはあかんで。一番苦手や」
すかさず神山が断った。
「困ったなぁ」
と剣持は頭をかいたが、剣持の中では最初からそれは分っていた。神山の顔を立てるために言ったまでだ。案の定、神山が断ったので予定通りだった。
「新居はどうするんや」
「先方には聞いていませんが、一人娘ですから、僕が先方に世話になろうかと思ってます」
「そうか、先方さえ良ければ、それが一番ええな」
「所でや、新しい仕事だが、去年政権が代わって、霞ヶ関の連中は大変なんや。それで、うるさい議員の奴等のリストが届いてな、こっちで何とかしてくれんかと言う依頼や。金は何ぼでも出すから、あんじょうやってくれっちゅうわけや」
「スキャンダルとか金ですか」
「ま、そんなとこや。検察関係も必要なら支援してもええと言っとるんやけどな、わしは警察を信用しとらんから、こっちだけでやろうや」
剣持はリストをチラッと見て驚いた。
「伝さん、四十名もいるんですか」
「そや。そやから、村上はんが、あんたもいないと困ると言うんや。あんたはS姐さん(S女史)から引き継いだどでかい人脈を持っとるやろ。今度はな、その人脈も必要になるかもしれんなぁ。それに、あんたが使ってる楢崎はんの仲間の協力も必要やろ。村上はんがあんたを外せんと言うのがよう分るんや。今回は全員消さんでええから、少しは楽やろ」
剣持は、霞ヶ関の組織がいよいよ牙をむいたなと感じていた。
一月十八日、月曜日の夕方、剣持は銀座の御木本に晴子を案内して二階のブライダルリングの売り場で婚約指輪を注文した。晴子から真珠は大好きだと聞いていたので、御木本にしたのだ。その後、剣持は目黒から近い、高輪にあるホテルに一部屋を取って、晴子と静かな部屋でこれからの予定、晴子の希望など結婚に向けて色々細かい打ち合わせをしていた。
「僕はね、自分や自分の仕事を支えてくれる方々には金を使うんだけど、自分に対しては質素なんだよ。なので、今住んでいる所は六畳一間の小さな安アパートで、自分の車は軽自動車なんだ。自分一人ならそれで十分と思ってるんだ。子供の頃は贅沢させてもらったけれど、オヤジの会社が倒産して借金取りに追い回された時に将来の自分の生き方を修正したんだ。良かったら、今度僕が今住んでいる安アパートに来てみないか」
晴子は今迄剣持と会って、お金には不自由なくどんどん使う人なので、浪費家かも知れないと思っていた。それで、今日初めてこんな話を聞いて驚いた。
「近い内に是非お邪魔させて下さい」
「ん。晴子さんと夫婦になっても、僕は贅沢をしないから大丈夫だよ」
剣持が自分で資金管理をしている個人資産は日本とスイスを合わせて五十億円以上にもなっていた。それなのに、六畳一間の安アパート暮らしは全くアンバランスだったが、剣持は今の生活レベルを超えなければ、たとえ何があろうと道には迷わないと確信していたのだ。
百十九 晴子の結婚 Ⅰ
剣持が借りている安アパートの場所は、剣持がホストクラブに所属していた頃から変ってなく、新宿区坂町だった。坂町のアパートはJR四谷駅から約300m、地下鉄四谷三丁目から約700m、地下鉄曙橋駅から約500m、都内のどこに行くにも便利な場所だった。アパート前の小さな空き地が駐車場になっていて、そこに剣持のおんぼろ軽自動車が停められていた。
二月の比較的暖かな日を選んで、剣持の都合を聞いて、晴子は目黒からタクシーで、剣持に聞いていた住所に向かっていた。目黒から直線で7kmくらいしか離れていないので、道路が混雑していても、二十分もあれば着ける。今はタクシーにカーナビが付いているから、所番地を書いたメモを見せただけで、剣持のアパートの直ぐそばまで連れてってくれた。
男の一人住まいで、武雄の住んでいるマンションの部屋の散らかりようを以前見ていたから、晴子は剣持の住んでいる部屋も似たようなものだと思っていた。
「こんにちは」
「あ、晴子さん、いらっしゃい。どうぞ」
扉を開けて、晴子はびっくりした。剣持の所は武雄と違って小奇麗に整理されていたのだ。持ち物は殆どなく、大き目の本棚に難しそうな書籍がいっぱい詰まっている他は、キッチンの小さな流し台、小さな冷蔵庫、狭い風呂場に置かれた小型の洗濯機、見るもの全てが粗末な物だったが、小奇麗になっていた。掃除をするつもりで、手提げに雑巾を入れてきたが、雑巾には用がなさそうだった。押入れには下にせんべい布団が一組あるだけで、上はハンガーをかけてクローゼットのように使われていた。暖房はアラジンの石油ストーブ一つでクーラーもなかった。
剣持は質素だとは聞いていたが、
「今時こんなに」
と思うほど質素だった。今時の学生だって、こんなに質素にはしていないだろう。冷蔵庫の中も当座必要な食材がきちっと整理されて入っていた。
晴子は剣持が見かけによらず几帳面な人だなぁと改めて認識した。こう言うことは、やはり付き合って見ないと分らないものだ。几帳面さが過ぎると付き合って息が詰まるが、剣持は今迄お付き合いした感じでは、ほどほどに几帳面な性格ではないかと思った。
「晴子さん、なんか物珍しそうですね」
と剣持は笑った。その笑いの裏に、女性がどんな所に着目しているのかちゃんと分っているよと言われているようにも感じていた。剣持の部屋は晴子にとって、まさにサプライズだったのだ。
最初に結婚式は洋式か和式かと剣持が尋ねた。晴子は教会で挙式したいと言った。それには訳がある。晴子は中学、高校、大学とキリスト教系の西洋英和女学院で学んだ。晴子が通った学校はカソリック教ではなく、プロテスタント教だったが、教会には変りはない。剣持はこだわらないと言ったので、学校にゆかりのある教会は海外にしかないので、目黒から近い、日本基督教団高輪教会(プロテスタント教会)で挙式しようと言うことになった。
「お医者さんから、出産予定日を聞いてる?」
「はい。来月三月早々らしいです」
「そう。じゃ、四月の挙式は赤ちゃんのことを考えると早過ぎるかなぁ」
「出産後、一ヶ月以上経っていれば大丈夫だと思います」
「挙式の間、赤ちゃんをどうするのか、予定を決めているの」
「はい。学生時代仲良しだったお友達が近くにいますから、彼女に話をしてあります。彼女のお子さんは今三歳ですが、赤ちゃんを二、三日預かるのは大丈夫だと言ってくれてます」
「それは良かった。施設に預けるくらいなら、子供のために、挙式を延ばした方がいいと思っていたよ」
晴子は剣持の子供を大切にしたいと言う話しが口先でないと信じられるようになった。産まれてくる子供は自分の子供でもないのに、結婚式よりも子供のことを優先したいなんて、普通は言わないのではないかと思ったのだ。
晴子は、お腹の赤ちゃんが、まさか目の前に居る剣持の子供だとは全く予想もしていなかったのだ。剣持は、たとえどんなことがあろうとも、この真実を墓の中まで持っていく覚悟をしていた。剣持が打ち明けない限り、山田と、神山以外にはこの秘密を知る者はいなかった。山田も神山も口が堅い。だから、彼等から秘密が漏れることはまずないだろう。
百二十 晴子の結婚 Ⅱ
剣持と晴子が結婚式の計画について話をしている間に、お昼近くになった。
「晴子さん、中華は嫌いですか」
「いいえ。大抵の物なら食べられます」
「食べ物のアレルギーは?」
「全然ないみたい」
「それじゃ、ちょっと待っててね。八宝菜をチャチャッと作るから」
「あら、あたしがやります」
「あはは、それじゃ僕の料理を食わせられないよ」
晴子はまた一つサプライズがあった。今まで剣持と一緒に居て料理をするなんて縁のない男性だと思っていたのだ。
剣持のアパートの小さな流しの脇に置いてあるガスコンロはどこか古道具屋で拾ってきたようなもので、ガス管からゴムホースでコンロにつないでなくて、ガス管が直接コンロにつないであった。だが、剣持が火を点けて、そのコンロは家庭用のコンロでなくて業務用らしいことが分かった。料理学校で見たコンロのように火力が全然違うのだ。剣持は流し台の下から大きめの中華鍋を取り出すと、冷蔵庫から、予め細かく包丁を入れてある、ピーマン、にんじん、白菜、たけのこ、チンゲン菜、椎茸、それにうでた鶉の卵などを少しずつ取り出すと、鍋に油を注いでパット炎が立ち昇った所で野菜などを放り込んでさっと炒めて、塩と醤油の他に自分で作って、置いてあるんだと言う調味料を少し加え、片栗粉でとろみをつけてあっと言う間に野菜八宝菜を作ってしまった。
八宝菜を作る少し前に、小さなお釜に火を点けて、ご飯を炊き始めたので、八宝菜が出来上がった頃にはご飯はとろ火で蒸らされていた。八宝菜を作ると、直ぐに小さな鍋に冷蔵庫から取り出した小瓶の液体を入れて湯を沸かし刻んだ玉ねぎをちょっぴり入れた。しばらくすると、部屋中に中華スープの香りが充満した。スープも暇なときに鶏がらをくつくつと煮込んで自分で作ったスープの素だと説明した。
「できたよ」
と言って壁際に立てかけてあったちゃぶ台を広げると、その上にご飯とスープと八宝菜が並んだ。晴子は、剣持の手際の良さにまたびっくりしたが、一口食べてみて思わず、
「あら、美味しいっ!」
と喚声をあげてしまった。剣持は嬉しそうに晴子が食べるのを見ていた。電気炊飯器でなくてお釜で炊いたご飯も上手く炊けていた。
簡単にお昼を済ますと、お茶にした。
「武雄君とは上手く行ってるの」
「ええ。彼、とても協力的でお仕事の方、随分助かってます。先日彼と話し合って、試験的に名古屋と京都のデパートに支店を出そうかと思ってます」
「それは良かった。武雄君、すっかり貴女のとこの社員になったね」
「でも……」
「ん?」
「彼、あたしのことを好きらしいんです。口にはあまり出しませんが、毎日顔を合わせているので分るの。それで、剣持さんとのお話し、まだ具体的に出来なくて……」
「そうか。でもね、僕等が結婚してしまえば諦めが付くと思うよ」
「あたし、男性のお気持ちが分らなくて」
「ひとは様々だから、一概には言えないけど、結婚したら確かに気まずい面があるなぁ」
「はい」
「僕から一度話をして見るよ」
「あたし、助かります。よろしくお願いします」
剣持もまだ武雄にどう話を切り出すか心が決まってなかった。だが、後々のことを考えると、一度ははっきりと伝えておく方が彼も心の準備ができて良いのではないかと思った。
「新婚旅行だけど、産まれたばかりの赤ん坊をほったらかしにして出かけるのはどうかと思うんだ。晴子さんはどう思う」
「そうねぇ。赤ちゃんを他人に預けて旅行に出ると、きっと気になって仕方ないと思うわね」
「それで、僕の考えだけど、旅行は取りやめて、赤ちゃんが二歳位になってから、改めて三人で旅行でもしたらと思うけど、どうだろう。僕としては無理に新婚旅行に行かなくてもいいよ」
「だったら、旅行は止めましょうか」
「晴子さんさえ、それで良かったら取りやめていいよ」
それで、新婚旅行は計画から外した。
百二十一 晴子の結婚 Ⅲ
「新居だけど、新しい家に住みたいなら、借金なんてしないでも、家の一軒くらいいつでも建てられるけれど、僕はここを見て分ったと思うけど、布団一枚敷けるスペースさえあれば、他には何も要らないんだ」
「でも、愛する旦那様にそんなことできないわ」
「と言うことは新居に住みたいってこと?」
「ここみたいにと言っては失礼だけど、安いアパート一間でもあたしは構わない」
「晴子さん、一人娘でしょ? ご両親と一緒に住みたくないの」
「あたしはそれが一番いいんですけど、剣持さんに、それでは申し訳ないし」
「晴子さんがご両親と同居がいいなら、僕もその方がいいね。僕は両親いないし」
「じゃ、離れを建て増しできないか、母に相談してみます」
「いや、建て増しは必要ないよ。今晴子さんが使っている部屋の隅に僕の布団が敷ければそれで十分だな」
結局、新居は考えないで、晴子の家族と同居させてもらうことになった。
「あっ、大事な物を忘れていた。先日、御木本に頼んでおいた婚約指輪が届いたよ」
と言って、剣持は指輪のケースを見せて、晴子に渡した。
「開けて見ていいかしら」
「いいよ。晴子さんのご希望通りのデザインになっているはずだけど」
一生で一度だけ頂く婚約指輪だと思うと晴子は緊張したし、開けるのにちょっとドキドキした。剣持は一生物だからけちけちしないでと何回も念を押したので、エンゲージリングのジュエリーはダイヤモンドだったが、その両脇に真珠を配した洒落たデザインのリングを特注していた。代金は百五十万円と少ししたらしいが、剣持は平然としていた。晴子は開けて見た。そこには大き目のダイヤの両脇に真珠が上手に組み込まれていて、店で打ち合わせをした時のイメージよりずっと素的だった。
「嬉しい! 剣持さん、ありがとう」
晴子が着けて来たトレドのお土産の象嵌のペンダントが晴子と一緒に揺れていた。剣持は、そっとリングを晴子の手から取ると、脇に置いて、晴子のウエストを軽く引き寄せて晴子の唇にキスをした。今日はデイープだった。晴子は剣持の舌先に自分のものが刺激されて、全身に痺れるような嬉しさを感じ、自分の手がかすかに震えているのに気付いた。
こんな接吻は晴子には初体験だと言ってもよかった。晴子は恋愛がこんな形で自分を包んでくれるものとは今迄知らなかった。こうして剣持の愛に包まれている幸せを今確かに感じていたのだ。小説で[痺れる想い]などと書かれているのはこんな気持ちなんだと。
「さ、もう遅くなったから、ご両親が心配されているだろ? おんぼろの軽自動車だけど、お家まで送るよ」
剣持の声に我に返った。
「ありがとう。あたし、本当に好きになっちゃったみたい」
晴子はてれ隠しにちょっと舌を出した。
「おいおいっ、前から好いてくれてたんじゃなかったの?」
と剣持も結構てれている様子だった。剣持は身重の晴子をかばうように晴子の手を握って、駐車場まで案内した。軽はたしかにオンボロだった。もう十年以上乗っているらしい感じだ。しかし、軽に揺られながら、晴子はまだ幸せに酔いしれていた。
「ただいま」
晴子は貴恵に声をかけて、剣持を目で招いた。剣持は貴恵に挨拶すると、奥の義晴にも丁寧に挨拶して引き上げて行った。
帰り際、剣持は武雄の所に寄って、
「武雄、今度時間のある時に連絡を入れてくれよ」
と言い置いた。武雄は、
「はい。兄貴しばらくです」
と返事した。
武雄の連絡で、剣持は新橋の飲み屋に武雄を誘った。
「武雄、オレ、晴子さんと結婚したいと思ってるんだ」
「前から知ってます」
「いや、晴子さんの気持ちが決まるまではこんな話はできねぇと思っていたけどよ、最近ようやく話ができるようになったんだよ」
「……」
武雄は返事に困った。剣持はそれを察して、
「武雄、あんた晴子さんのこと、好きなんだろ?」
「はい」
「オレが結婚しちゃってもいいのかよぉ」
「オレ、どうしようもない時に、渋谷で兄貴に拾ってもらった恩がありますから、兄貴が結婚するのに文句を言えた義理じゃないっす」
「だけどよぉ、オレが結婚したら、あんたは晴子さんと仕事で顔を合わせるのが辛いのと違うか?」
「それはありますけど」
「どうする? 伝さんに頼んであつちの仕事に移るか?」
「オレ、和菓子作りに命かけてきましたから」
「じゃ、東京は祐樹にまかせて、関西に子会社を立ち上げて、そっちの社長にでもなって、武雄の夢を実現するってことなら応援してもいいぜ」
「兄貴、気を遣ってくれてすみません。オレ考えて見ますから、少し時間をもらってもいいっすか」
「いいよ。オレはなぁ、武雄の気持ちを大事にしてぇんだよ。良く考えて見てくれや」
その後、武雄は武雄の仲間たちの最近の様子、組織の運営などについて剣持に報告した。
「伝さんのとこに、でかい仕事が入ってさぁ、近い内にあんたの仲間に力を貸してもらわなならん仕事が出そうなんだ。協力するように奴等に話を通しておいてくれや」
武雄がベロベロに酔う前に、剣持は店を出た。
「じゃ、あんたの考えをまとめておいてくれ。もしも、関西に行くなら、渋谷の仲間のリーダーを誰にしたいかもな」
「はい。兄貴、今日はごっつぁんでした」
武雄は剣持がいつも自分を見てくれていると思うと、晴子のことは自分が我慢するっかないなぁと思った。
百二十二 晴子の結婚 Ⅳ
K大学のゼミの先生だった柏木教授宅に剣持はお邪魔していた。仲人を頼みに行ったのだ。教授夫妻は剣持をよく覚えていた。
「しばらく会わない内に、あなた随分大人になったわね」
と柏木夫人は悪戯っぽい目で剣持を見た。学生時代には教授より夫人の方と親しかったのだ。柏木夫妻は、もちろん快く剣持の仲人を引き受けてくれた。
二月の下旬、剣持は日比谷の松本楼に個室を予約して、山田龍一夫妻と柏木夫妻を招いて顔合わせをしてもらった。
「彼は学生時代、随分派手に遊びまわっていたから、私はそんな印象をまだ忘れないでいましたが、先日突然訪ねてきて、随分印象が変ったので驚きました。そうだよね」
と教授は夫人を見た。
「そうなんですよ。この人には葉山マリーナから何回もクルージングに連れて行って頂いたのですが、その頃はいつ見ても顔が真っ黒で」
と夫人は剣持の顔を見た。剣持は昔のことを言われていささか照れた。
「いやね、彼の父上とは親しくお付き合いをさせてもらったんだが、父上の剣持君と奥さんがあんなことになって、それからは、彼は一人で借金の返済に取り組んで、借金取りに何度も追い込まれて、修羅場を随分潜り抜けたようです。そうだったね」
と山田は剣持を見た。
「お陰で君は強く逞しくなったなぁ」
山田も昔のことを懐かしむように話をした。
「親父の借金を片付けてから、少しの間すさんだ生活をしていたようだが、いつまでもほっとけないので、父親代わりと思ってずっと見てやってます」
「お相手はあの有名な目黒の林菓房の娘さんだそうですね」
「彼が、あの子を見初めましてね、必ず手に入れて見せるなんて言いましてね」
と山田は笑った。
「それからと言うもの、彼はまだ無名だった林菓房に肩入れして、大口の顧客を随分紹介して、あっと言う間に今の規模まで成長させたんですよ」
山田はこの件では鼻が高い様子で話した。
「彼女は既にお腹に赤ちゃんがいまして、その子は彼の子ではないのだが、剣持君はそれでもいいからと言いまして」
「あら、そうだったの? 剣持君がそれでもって仰るなら、先方のお嬢様は余程美人で魅力的な方なんでしょ?」
と教授夫人が剣持に話を振った。
「富美江さんほどじゃないですよ」
と剣持は小声で教授夫人に答えた。
「あら、おっしゃるわね」
と夫人。みなの会話を先ほどから聞いていた山田の奥さんが初めて口を開いた。
「あのう、結納とか、先方へのご挨拶もありますでしょ? 剣持君、急ぐんじゃないの」
「はい。彼女の出産予定が三月早々ですから、できれば出産前にご挨拶に行けないかと思ってます」
剣持は教授夫妻に顔を向けて話をした。
「それじゃあと一週間だな」
と教授はポケットから手帳を取り出した。
「そうだなぁ、二月は二十七日の土曜日しか空きがないなぁ。大安ではないが、友引だから、ま、いいか。山田さんのご都合はいかがでしょう」
山田も手帳を取り出して見ていた。
「二十七日は一件だけ予定がありますが、これは調整しておきましょう。では、二十七日のお昼に揃って出向きましょう。最近は略式が多いから、柏木さんに行ったり来たり何度もご足労をかけずに略式で一度に片付けてしまいましょう。弥一君、先方にお願いして日程を合わせてくれんかな」
剣持は晴子の携帯に電話を入れた。晴子は両親に聞いてから返事をすると答えた。直ぐ電話が来た。
「あたしの方は二十七日で大丈夫です。五人ですよね。お食事、狭いですが、家でもいいですか」
「合わせてくれて、ありがとう。そちらのお宅で簡単な会食で済ませていいよ」
先ほどから剣持の携帯電話の様子を見ていた山田と柏木は、
「最近は携帯なんて便利なものができて、話しが早くまとまっていいですな」
と笑った。
結納品の支度は剣持が全部やっておくことになり、ひとまず話はまとまって、剣持はほっとした。
「結婚式は教会ですって?」
山田夫人が念を押した。
「はい。晴子さんがクリスチャン系の西洋英和だったので、是非教会でと言うものですから」
「私は二度ほど経験がありますが、山田さんはご経験、ございまして?」
柏木夫人が山田夫人に尋ねた。
「わたくし、初めてなんですよ。どこの教会?もう決めてあるんでしょ」
と剣持に尋ねた。
「品川の日本基督教高輪教会です。先日予約をしてきました。四月十六日の金曜日が大安なので、その日にしました」
「よく予約が取れたわね」
「たまたま空いていたらしいです。披露宴はすぐ近くと言うか筋向いにグランドプリンスホテル新高輪がありますので、ホテル側と打ち合わせをしまして、皆様にはホテルにお集まり頂いて、挙式だけ教会に出向いて、披露宴その他は全部ホテル側で手配して頂くことにしました」
「それは良かったわね」
と柏木夫人。
「山田さん、教会の挙式、正式には結婚誓約式と言うのだそうですが、今はエスカレーターに乗ったようなもので、わたくし達はただぼーっと突っ立っていたり、着席したり言われた通りにしていればいいのよ。簡単よ」
と言って笑った。
「それでしたらいいですが、私、今から緊張しちゃって」
と言って山田夫人も笑った。
山田は晴子のお腹の赤ん坊のことに付いて柏木には真相を何も話さなかった。柏木夫妻も赤ん坊のことについては、それなりの理由があるのだと思い、余計な詮索はしなかった。皆と別れてから、剣持は晴子に電話をした。
「仲人はK大学時代にお世話になった柏木教授夫妻が快諾してくれたよ。それで、今日は山田さんのご夫妻と五人で結納やら結婚式の話をしておいた」
「何から何までありがとう」
「晴子さんは元気な赤ちゃんを産んでくれることだけ考えていればいいよ」
「式場の教会もホテルも全部四月十六日でOKになったよ」
晴子は剣持は頼りになる人だなぁと改めて感心した。
「それで、お色直しとか引き出物とか色々細かいことは出産してからご一緒に行って決めよう。それでいいだろ?」
「はい。助かります」
百二十三 晴子の結婚 Ⅴ
「秘密とは、厄介なものだ。真実を知って得られる幸せよりも、真実を知らなかったために得られる幸せの方がずっと多いのだ。それなのに、人はなぜ真実を知ろうとするんだろう。一度真実を知ってしまうと、ろくでもないことに関わってしまうか、恨み、妬み、羨望の心が目を覚まして、自分を不幸にしてしまうことが分かっているのに、秘密をあばきたがる奴が多いのはなぜだろう。人は、知ってしまった秘密を正直に話さない奴をウソツキとののしる。知っている秘密を何も言わずに、口を堅く閉ざしている奴までウソツキよばわりして、秘密を知りたがる。人間は、その昔パンドラの箱を開けてしまったから仕方がないと言う奴もいる。だが、人の不幸を仕方が無いと片付けてもいいのか」
剣持は時々自問自答するのだった。
人の秘密を暴き、それを利用して相手を不幸のどん底に突き落としてしまうのが剣持たちの仕事だ。剣持たちは、そのことを良く分かっていた。だから、不幸にしたくない者の秘密は決して口外せず、真実を明かさないのだ。これはトレメンド・ソシエッタの組織の暗黙の了解事項だった。
「浮気や不倫だって、同じだろう。相手が浮気や不倫の真実を知れば、知ってしまった相手は不幸になるのだ。それなのに、世の中では、相手の浮気や不倫を知りたがる奴が多いのだ。なぜだろう」
剣持はいつも疑問に思っていた。
「人はおかしなものだ。他人の秘密を知ってしまうと、それを別の奴に話したがるバカが多いのだ。他人の不幸で自分の幸せが得られるとでも思っているんだろうか。実に不思議だ」
だから、剣持は自分の仕事とは裏腹に他人の秘密を暴き立てて、メディアで公表することに生き甲斐を感じているようなルポライターは世の中の屑、ゴミだと思っていた。
剣持は、もしも晴子が出産で入院するなら、自分にも連絡をして下さいと晴子の母、貴恵に頼んでおいた。滞りなく結納を済ませて直ぐの三月二日に貴恵から電話が入った。
「晴子ですが、急に陣痛が始まって、今日午後四時に入院させました」
「親子両方無事ですか」
「ええ、心配はないですよ。お時間が取れるなら病院にいらして下さい。晴子はきっと喜びます」
剣持はやりかけの仕事を村上に託して、急いで貴恵に教えられた病院に向かった。
「まだ出てきません」
と剣持の緊張した顔を見て貴恵が話してくれた。
「産まれてくるまで、ずっとここにいますから、お義母様はご用があるなら、どうぞお帰りになられても大丈夫です」
それから約三十分ほどして貴恵は、
「また出直してきます」
と言い置いて病院を出て行った。
剣持が病院に駆けつけて、三時間も経ってから、医師が出てきて、
「林様のお身内の方ですか」
と聞いた。
「はい。そうです」
一瞬、剣持は緊張したが医師は、
「おめでとうございます。女の子でした」
と教えてくれた。
「両方無事ですか」
「はい。どちらも元気です。一時間もすれば面会できますよ」
剣持は男でも女でも良かった。兎に角、自分の血を分けた子供が生まれたことにしばらく感激を覚えていた。
「本当のオレの娘だ」
剣持は心の中でそう叫んでいた。だが、
「この秘密は自分から一生絶対に明かすことはないだろう」
とも思っていた。剣持は貴恵に電話で知らせた。
緊張がほぐれてうつらうつらしていると、
「どうぞ」
と言う看護師の声に起こされた。そこに、丁度良いタイミングで貴恵が小走りに近付いてきた。貴恵は自分の初孫のせいか、興奮していた。
剣持と貴恵は揃って病室に入った。うっすらと目を開けた晴子は、剣持の顔を見ると、なぜか涙を目に溜めた。
「元気な女の赤ちゃんを産んでくれてありがとう」
剣持の口から自然にこんな言葉が出てしまった。晴子は微笑んでいた。赤ん坊は別の部屋に隔離されていたが、窓越しに貴恵と一緒に覗いた。
「お爺ちゃんに似たのかしら」
と貴恵が呟いた。
「そうかも知れませんね」
と剣持は話を合わせた。
武雄は、結局最後まで病院に姿を見せなかった。剣持に気を遣ったのか、理由は分からなかった。
一週間で、母子共に元気な様子で退院してきた。貴恵が何かと世話をしたがったので、晴子は助かった。十日もすると、晴子もすっかり元通りの元気を取り戻した。初めての赤ちゃんなので、扱いが分らない所もあったが、貴恵に教えられて母乳で育て始めた。女の子の名前は、義晴と貴恵に相談して[晴菜]にした。最初、晴奈とか春奈とかにしようか迷ったが、義晴が晴菜がいいよと言ったので晴菜に決まった。晴菜は産まれた時から体重があり、体の大きな娘に育ちそうに思えた。
百二十四 晴子の結婚 Ⅵ
エンゲージリングを御木本の銀座店で頼んだ時に、マリッジリングも注文しておいた。それを取りに剣持は銀座の店に寄った。エンゲージリングと違って、デザインはシンプルなものにした。店員は、
「結婚指輪は古代ギリシャ時代からあったもので、当時、左の薬指は心臓から直接血が通っていると信じられていたために、花嫁様の薬指に結婚指輪をはめる習慣になったのでございます」
と丁寧に説明してくれた。
ついでに、品川のホテルに寄って、引き出物他挙式に関わるカタログや案内書をもらって、林菓房に行った。赤ちゃんの名前を[晴菜]に決めたと晴子から連絡を受けていた。
剣持は林菓房を訪ねると、先ずコートを脱いでしっかりと手洗いとうがいを済ませ、それから晴菜に対面した。晴菜は剣持が手配したベビーベッドですやすやと眠っていたがとても可愛い顔をしていた。
晴子が、
「抱いてみる?」
と言うのを制して、剣持は母親の貴恵も呼んでもらい、結婚式の細々としたことを貴恵や晴子の希望を聞きながら次々と決めて行った。挙式の費用は建前として折半と決めてはいたが、剣持はなるべく自分の方で負担させてくれと頼んでいた。教会での式には約四十名、披露宴には百名程度に絞ることにした。
「この方をお招きしたら、この方も呼ばなくちゃなんて考えている内にあたしの方だけで百名にもなって、絞るのに苦労したわ」
と晴子は笑った。剣持の方は、四国に居る姉夫婦と子供、他には親戚付き合いは殆どなかったので、トレメンド・ソシエッタの同僚や、S女史関係の者、ホストクラブ時代からの付き合いのある友人など合わせて四十名ほどだったので、晴子の方は六十名にしてもらった。予定より十名枠が増えて晴子は喜んだ。もちろんその中には古谷真由美や白金の花屋の店主も入っていた。古谷真由美は晴子の姉のような存在で、その後も時々会ってお茶したりしていたので、教会の式にも出席してもらうように頼んでいた。
剣持は帰り際に晴子と晴菜の顔を見ながら、
「晴子さんのように一人っ子じゃ淋しいと思うから、もう一人くらい産んでくれるんだろ」
と聞いた。
「はい、そのつもりです。年子じゃ大変だから、二年は離して産みたいな」
晴子の顔がいくぶん赤くなり、晴子は恥ずかしそうに剣持の質問に答えた。
武雄は晴子が出産後、相変らず晴子と店の仕事に熱心に取り組んでいた。だが、剣持との結婚式の進捗状況や赤ん坊の晴菜のことを話題にするのを避けているように見えた。晴子も武雄の気持ちを察して、なるべく話題をそちらに向けないようにしていたが、結婚式には出てもらいたかった。
「武雄さん、お気持ちを考えると言い難いんですけど、あたしの結婚式には出て下さいますよね」
「はい。オレはそのつもりでいます」
「そう。ありがとう。披露宴だけでなくて、教会の式にも出て下さいますよね」
「はい」
晴子は武雄の返事を聞いてほっとした。
結婚式まではあと半月あまりしかなかった。晴子は堀口伸と別れた後、自分の結婚式なんて遠く遥か彼方のものと思っていたが、気が付いて見ると、もう目の前まで迫っていた。
まだ首の据わらない赤ちゃんは友人が預かってくれる約束になっていた。新婚旅行は取りやめたから、昼間だけで済むので気持ちは楽だった。
百二十五 晴子の結婚 Ⅶ
振り返ってみれば、わずか一年足らずの間に、晴子の身の上にはいろいろなことがあった。初恋の人、堀口伸を不慮の交通事故で亡くしてからと言うもの、剣持弥一のお陰で実家の家業は目を見張るほどに発展し、剣持の弟分の楢崎武雄や武雄の弟分の広田祐樹に出会えて、彼等が家業を支えてくれている。しかし、恋人に先立たれた晴子を襲ったあの恐ろしいレイプ事件の結果、晴子の中に残されたレイプした男の種が、今や可愛らしい女の子、晴菜になってこの世に誕生したのだ。
晴子は和菓子屋の一人娘だ。なので、相談相手になってくれる姉のような存在の人を、少女の頃から欲しいと思っていた。それが、幸いにもしっかりした美人のお姉様的な存在の古谷真由美にも出会えた。
晴子は、自分の結婚と言う[念願成就]が目の前に来ていることを思いつつ、[望みの成就]と言う花言葉を持つ、美しいピンク色の[花虎ノ尾]の花を思い出していた。
剣持は、昨日晴子からもらった結婚式への招待者リストと自分側招待者リストを合わせて、ホテルのブライダル担当者に渡して招待状の発送を依頼した。それで、
「四月十六日の金曜日、大安の日、いよいよオレも所帯持ちになるなぁ」
と感無量だった。剣持は今迄いろいろな女性と関係を持ったし、今でもつながっている何人かの女性はいるが、自分が見初めた晴子は剣持にとっては初恋の女と言っても良かったのだ。
晴子は愛する娘、晴菜の育児で精一杯で、外回りの仕事はもっぱら武雄に委ねていた。家業は順調だったが、結婚式の当日が近付くにつれて、落ち着かない日々が続いた。女性にとって、結婚は我が身を特定の男性に捧げる大イベントだ。落ち着かなくて当たり前だが、剣持が欧州に旅行中に送ってくれた沢山のメールの告白文にウソ、偽りのないことが最近になって良く分かった。今、晴子は剣持の優しい愛で包まれていた。
一頃、父母も自分も武雄と結婚できないかと望んでいた。だが、武雄は兄貴分の剣持に義理立てして、決して首を縦に振ってくれなかったのだ。だから、晴子の中では、つい最近まで剣持との結婚に迷いがあった。
「あたし、もう絶対に迷わないからね。あなたのお父様は剣持弥一さんに決めたわよ」
まだ産まれたばかりの晴菜に向かって、晴子は思わず声をかけていた。自分の気持ちを確かめるように……。
早いもので、その週の金曜日は結婚式だ。それで、火曜日の午後、品川のホテルにウェディングドレスのサイズ合わせに剣持に連れられて行って来た。トレーン(後の引き摺る部分)が少しある、真っ白なウェディングドレスを試着して鏡を見ると、後ろに眩しそうな顔をしている剣持が立っていた。
「すごく綺麗だよ」
剣持はお世辞ではない、気持ちがこもった低い声で晴子の耳元に囁いた。晴子は嬉しかった。
ホテルには晴菜を抱いて、剣持の軽自動車で来た。サイズ合わせの間、ホテルが用意してくれたベビーベッドで晴菜は大人しくしていた。
剣持は、
「今夜は晴菜のお風呂をオレにやらせてくれないか」
と突然言い出した。
「あら、大丈夫? まだ首が据わってないから心配だなぁ」
晴子は内心嬉しかったが、気持ちとは裏腹に心配だと言ってしまった。
「結婚してしまったら、時々入れてあげないといけないから、練習だ」
と剣持は笑った。
「あら、可愛い晴菜ちゃんをモルモットにしないで」
と晴子も笑った。結局、剣持は夕食後に母の貴恵にも断って晴菜と一緒に風呂に入った。温めの湯船で、剣持は晴菜の可愛らしい顔を見て晴菜を愛しいと思った。今までの人生で、こんな気持ちになれたのは初めてだった。
グランドプリンスホテル新高輪の広い庭の染井吉野の花びらが花吹雪となって舞い散る四月十六日は快晴で素晴らしい結婚式日和だった。
仲人の柏木夫妻、剣持の親代わりの山田夫妻も正装して早々とホテルにやってきた。晴子の両親、それに祖父母は車椅子姿でどうにか出席できるようだ。晴子に何度も結婚相手を紹介した福岡の叔父夫婦もやってきた。今日は待ちに待った晴子の晴れ舞台だ。
ホテルの控え室で双方の親族の紹介を終わって、挙式に出席する親戚の者、親しい友人、知人が揃ってホテルの筋向いにある教会に向かった。
晴子の美しいウェディングドレス姿を見て、出席者は皆感嘆の声を上げたものだ。晴子は柏木夫妻に腕を取られて静かに教会まで歩いた。ドレスの後のトレーンは四国からやってきた剣持の姉の子供たち二人が裾を持って歩いていた。行列はまるで映画のワンシーンのように素的だった。
教会の前の駐車場の片隅に、派手にペンキで♡"Just Married!"♡ と書かれた白い乗用車がエンジンキーを付けたまま停めてあった。
村上たちが、適当な中古車を仕入れて、車の両サイドと前のボンネットと後のトランクに♡"Just Married!"♡ や”Y♡H”等と落書きして、後のバンパーにドリルで五箇所に穴を開けて、そこに空き缶を十個ずつ繋いだロープが縛り付けてあった。教会で挙式が終わった後でこいつに二人で乗ってもらって、教会の隣のホテルのエントランスまでガラガラと缶カラの音を立てて走ってもらって、新郎新婦はそのまま披露宴の会場に上がってもらう筋書きになっていた。村上たちの心のこもった演出だった。
もちろん、車は隅の方に目立たないように停めてあったから、挙式の出席者の殆どの者はこの仕掛けに気付かなかった。挙式中に鈴木が教会の正面に移動しておく手はずだったのだ。
百二十六 晴子の結婚 Ⅷ
一同が教会に入ると、間もなく厳粛なバッハのカンタータ140番の演奏音が教会の中から流れてきた。
♪目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの 声……
教会の中では、続いて神父の聖書の朗読が始まった。列席者一同は[夫への聖書の教え]に静かに耳を傾けていた。
聖書の朗読が終わると、
「婚約者入場。一同起立」
と司式(司会)の声が響き、続いてワグナーの結婚行進曲が厳かに響き渡った。
剣持と晴子は手を取り合いゆっくりと祭壇に向かった。晴子の片側は父の義晴が支え、二人の子供がドレスのトレーンの裾を持って進んだ。祭壇の手前で、義晴と子供たちは席に戻り、晴子は剣持の腕に手を添えて、二人はうやうやしく祭壇に上がった。
司式の
「一同合唱」
の合図に、オルガンの伴奏が始まり、一同は賛美歌の合唱を始めた。
♪かいぬしわが主よ まよう我らを
♪若草の野べに 導きたまえ……
賛美歌 354番だ。
合唱が終わって、一同着席した所で、また聖書の朗読が始まった。
コリント第一の手紙13章。
朗読が終わると直ぐに、教会付属の聖歌隊が祝いの歌[シャロンの花]を合唱した。
神父の祈祷が終わり、生活共同体への聖書の教えの朗読が終わると司式の、
「一同起立」
を合図に一同は立ち上がった。
続いて司式の[婚約者誓約]の声が響いたその時だ。列席者の後方から
「待ってくれっ!」
と大きな叫び声がした。司式を初め列席者全員が何事かと後方を振り向いた。
悲壮な叫び声と共に後方から柄の大きな若い男が、中央の通路を祭壇に向かって突進していた。武雄だ!
武雄は祭壇に駆け上がると、新郎の剣持の前に土下座した。
「兄貴、すまんっ。オレ、晴子さんがいないと生きていけねぇ。一生に一度だけの兄貴への願いだ。晴子さんをオレに譲ってくれっ!兄貴、許してくれっ!」
神父も剣持も一同も、何が起こったのか、呆気に取られている間に、武雄は晴子の腕を取ってぐいぐいと教会の出口に向かって走った。
教会の外に出ると、一台の白い車が停まっていた。鈴木が車の側に立っていたが、花嫁姿を見ると助手席のドアを開けて待った。そこに武雄と晴子が走りこんできた。鈴木は武雄の顔を見てびっくり仰天した。剣持が来るはずなのに、どうしたことか楢崎が新婦の腕を引っ張って連れて来たではないか。一瞬の出来事で、鈴木は何のことか咄嗟に判断が付かなかった。
武雄は鈴木が開けてくれた助手席に晴子を押し込むとドアーをバタンと閉めて、自分は運転席に乗り込んで直ぐにエンジンをかけて発車した。
列席者の一同が教会の外に飛び出して来た時には、既に車体に♡"Just Married!"♡ などとハデハデに落書きされた車は、後ろに繋がれた缶カラをガラガラと引き摺って走り去ろうとしていた。
武雄は、隣のホテルに向かわずに、一般道を赤坂に向かって走っていた。真剣な顔に口を真一文字に閉じて、必死な形相をしてハンドルを握っていた。それで、晴子は話しかけることさえためらわれた。
考えてみると、晴子の中に武雄への一抹の想いが払拭されていなかったのがいけなかった。教会を飛び出す前に、武雄を振り払おうとすればチャンスはあった。だが、晴子は武雄に引かれるままに車に乗り込んでしまったのだ。
赤坂のPホテルの総支配人佐藤は、外出先から戻ってホテルのエントランスを入る所だった。そこに、♡"Just Married!"♡ とベタベタとペンキで書かれた白い乗用車が缶カラを引き摺って走りこんで来た。長年ホテル業で経験を積んできた佐藤は、直ぐに[こりゃ、花嫁の略奪だ]と勘が働いた。
武雄は車をベルボーイに託して、晴子の腕を引いてホテルのフロントに向かった。
「今夜一部屋借りたいのですが」
武雄の申し出にフロントの男は申し訳なさそうな顔で、
「お客様、大変申し訳ございませんが、生憎今日は全室塞がっております」
と答えた。武雄は参った。こんな時にホテルが満室だなんて予想もしていなかったのだ。
「何とか空けてもらえませんか」
武雄は必死に食い下がった。
「お気持ちは分りますが、全室満室で手前どもと致しましては……」
フロントの男もウェディングドレスを着たままで恥ずかしそうにして立っている晴子を見て、略奪された花嫁だと察しは付いていた。
先ほど、事務所に戻った総支配人の佐藤は、フロントの男と武雄のやりとりを聞いていた。佐藤はフロントの男に、
「スゥィートが一つ空いてるだろ?」
と囁いた。
「支配人、あの部屋は……」
「いいから、泊めてあげなさい」
「はい。かしこまりました」
フロントの男は武雄に向かって、
「実はスゥィートルームが一つ空いておりました。よろしければ……」
武雄は是非と言って直ぐにチェックインをした。そこに、先ほど車を預かってくれたベルボーイがキーと駐車場のナンバーを書いたメモを持ってやってきた。
「お荷物はありますか?」
「いいえ」
と晴子が答えた。ルームキーを受け取ると、エレベーターに乗って予約した部屋に行った。
一流ホテルのスゥィートルームは素晴らしかった。晴子は、
「こんな所に泊まるのは初めてだわ」
と心の中で呟いていた。
部屋に入ると、武雄は必死な形相で晴子が着ているドレスを脱がしにかかった。コルセットやパニエ、バッスル(ドレスの後を膨らませるための腰当て)まで着ているから脱がすにも手間がかかる。武雄の額には汗がうっすらと滲んできた。
ドレスを脱がし終わると、武雄は晴子をベッドに押し倒した。武雄のあまりの情熱に、晴子はただ従うしかなかった。武雄は自分も裸になると、晴子に覆いかぶさってきた。
「オレ、晴子さんを欲しかったんだ」
武雄は愛撫なんてものではなかった。乱暴に抱きしめると直ぐにパンパンに張り詰めた自分のものを晴子の中に押し込んできた。ほんの僅かな時間で武雄は上り詰めて、
「うっ」
と唸り声を発して晴子の中に射精した。新婚の初夜などとは程遠く、これではレイプされたようなものだ。だが、晴子の中では長い間自分を思い詰めて来てくれた武雄を受け入れてあげようと言う気持ちになっていたのだ。
武雄との儀式が終わって、晴子はシャワールームに駆け込んだ。武雄の子供ができたら、晴菜と年子になってしまう。それで、晴子はシャワーで隅々まで洗い流した。武雄は若いので、武雄の愛の液がいっぱい流れ落ちた。武雄とは反対に晴子は冷静だったのだ。
夜、晴子は心配している母親の貴恵に電話した。
「お母さん、ごめんね。赤坂に泊まっているから、心配しないで。あたしと武雄さんの洋服を誰かに明日の朝届けさせてくれない?」
貴恵は直ぐに了解した。同時に、武雄さんと一緒になるなら、結果的にその方が晴子の幸せになると納得していた。
誰かの書いた詩に[友情を若さ無邪気の所為にして、友のフィアンセ奪い盗る恋]などと言うのがあるが、[略奪婚]と言う花言葉を持つ[盗人萩]の花をその時晴子は思い出していた。
百二十七 略奪婚
結婚寸前の花嫁を略奪するなんて光景は、映画かTVドラマの中の話だと思っていた列席者達は目の前で現実に起こったハプニングに興奮してざわめいていた。それを司式がなだめて、皆を式場に入るように導いた。列席者が全員着席しても、なお、ざわめきはおさまらなかった。それで、様子を見て、剣持の親代わりの山田龍一が立ち上がり、
「若さと情熱には勝てませんな。こんな予想もしなかった事態になりましたが、遠路おいで頂いた皆様におかれましては大変失礼ですが、今日はホテルの方にささやかなご馳走を用意してありますから、どうぞご馳走を召し上がってからお帰り頂きますようお願いします。ここは、これ以上続けられませんから、さぁ、皆様ホテルの披露宴会場にお移り下さい」
そう言って、神父や司式にお詫びを言って皆と一緒にホテルに向かった。神父は、
「これも、神様の思し召しです」
と言って祈るような仕草で皆を送り出した。剣持は、
「神様の思し召しかぁ」
と呟いていた。
挙式には列席せずに、披露宴だけ列席するつもりで来た者も大勢いた。招待客はいましがた起こったハプニングのことを全く知らなかった。なので、招待客は美しい晴子のウェディングドレス姿を見るのを楽しみにしていたのだ。
披露宴会場に全員着席した所で、予め知らされていた司会の女性が、
「本日はご多忙にも関わらず遠路お越しいただきありがとうございます。お手元に式次第を書いたプリントがございますが、本日は少し予定の変更がございまして、新郎の父上の山田様から、最初にご挨拶を頂きます」
とアナウンスした。式に出なかった一同は何事かと山田の方を見た。
「実は、いましがた、結婚式の式場で剣持弥一と林晴子さんが結ばれる寸前に、弥一の弟分の楢崎君に新婦となる予定の晴子さんを連れ去られてしまいまして」
会場にどよめきが起こった。山田はそれを制して、
「そんなわけでして、今日は最愛のフィアンセを結婚直前に奪われてしまった哀れで不様な弥一を肴にして盛り上げて頂きたいと思います」
剣持はあたまを掻く仕草をして照れ隠しをした。
司会の女性は、もちろんこんなハプニングは初体験で、話す言葉を失っていた。山田に続いて晴子の父、義晴が立ち上がって、
「晴子がこんなことをするなんて、わたしも全く予想してませんでした。全く恥ずかしくて」
と額から流れ落ちる汗をハンカチで拭った。それを見て仲人の柏木教授が助け舟を出した。
「本日はえらいことになってしまいましたが、楢崎君の晴子さんを思う情熱が爆発してしまったんでしょう。剣持君には大変気の毒だが、晴子さんはきっとこれから楢崎君の愛情に包まれて、幸せな人生を送ることになろうと思いますので、今日は晴子さんの将来の幸せと林家の益々のご発展を祈って皆様と乾杯をしましょう」
さすが手馴れた教授だ。こんな時、何を乾杯するか分からないものだ。乾杯をしなければ宴会も始まらない。それをうまい具合にまとめてくれた。一同の杯が満たされたのを見て教授は、
「乾杯!」
と大きな声で叫んだ。それを合図にご馳走が運ばれて、宴会は次第に盛り上がってきた。
剣持に同情する者もいたが、大勢は武雄の武勇伝に話題が摩り替わって、略奪婚をテーマに盛り上がっていた。武雄が連れてきた林菓房の店番の女の子たちは、普段晴子と武雄の関係を見て来たので、武雄に同情して、
「良かったわよ」
「あの二人、似合いのカップルよ」
「あたしもあんな風に奪ってくれる男性が出て来ないかなぁ」
などと囃した。
予定の披露宴が終わって、剣持は山田に誘われて、柏木教授と共に呑み直しにでかけた。披露宴に招待したN女史から、[今夜慰めてあげる。後で連絡を頂戴]とメモを渡されていた。
武雄と晴子は赤坂のPホテルのスゥィートルームで朝を迎えた。朝食を部屋に持ってくるようにフロントに連絡を入れた所に、ドアチャイムがなった。
「あら、もうルームサービスを持って来たのかしら?」
と晴子がドアを開けると、店番のマキとアイリが武雄と晴子の着替えを持って立っていた。
「あらっ、マキちゃんとアイリちゃん、ありがとう。どうぞ中に入って」
と晴子は彼女達を招き入れた。晴子も武雄も着るものがないので、ホテルのガウン姿だった。
「昨日、披露宴って言うのかなぁ、披露宴で聞いたわよ。武雄、すごいじゃん」
「どうだった?」
と武雄。
「もう、略奪婚の話で盛り上がってさ、みんな晴子さんと武雄のこと幸せだって言っていたよ」
晴子はこの話を複雑な気持ちで聞いていた。
そこに、ホテルの朝食が運ばれて来た。思ったより品数が多く、量も多かったので、四人で朝食にした。
マキとアイリが帰って直ぐ、二人は荷物をまとめて、チェックアウトのためにフロントを訪れた。昨日とは別のフロントの男が、
「総支配人から、室料を一切頂くなと指示を受けておりますので、このままチェックアウトで結構です」
と言った。晴子は総支配人の名前を聞いてメモをして、フロントの男に、
「支配人様によろしくお伝え下さい」
と礼を述べて去った。
駐車場で後に繋いだ缶をトランクに押し込んで、二人は一旦晴子の実家の林菓房に戻った。
百二十八 新生活のスタート
赤坂のホテルを出て、
「武雄さん、高輪のホテルにドレスを返しに行くから、ちょっと寄って下さらない」
晴子は高輪のホテルで借りたドレスを戻してきた。二人が晴子の実家、林菓房に戻ると、晴子の父、義晴と母の貴恵は優しく二人を迎え入れた。貴恵は小声で、
「結果的に、武雄さんで良かったわね」
と晴子に耳打ちした。
「ええ」
晴子は両親や店のことを考えると、武雄と夫婦になるのが自然ではないかと思っていた。
義晴は、
「おいっ、武雄! 晴子を不幸にしたら承知せんぞっ!」
と武雄の頭を小突いた。武雄は、
「はい」
と神妙に答えた。
「お前達は駆け落ちみたいなもんだから、改めて結婚式はせんで、会社の者や友達を集めてここで披露パーティをやったらどうだ。それでいいだろ?」
「はい」
「あんたのご両親も呼ばないといかんな」
「はい」
「晴子! おまえ、武雄と一緒に剣持さんにはちゃんと改めてお詫びをしないとだめだぞ」
「はい」
武雄と晴子と同時に返事をした。
「今夜はここに泊まるか武雄のアパートにするかどっちでもいいが、住む所、どうしたいんだ?」
「この近くのマンションを借りるのがいいっす」
「じゃ、直ぐ探してこい」
「はい」
武雄は晴子に相談もせず返事をしたが、晴子はどっちでも良かった。
「武雄さん、婚姻届どうなさるの」
と晴子が聞いた。
「どうって? 出してもいいんだろ?」
と武雄が聞き返した。
「あたりまえだ。武雄が晴子をさらって行ったんだから、晴子は武雄の嫁さんだよ」
と義晴が武雄の顔を見た。
「武雄さん、晴菜もあたしたちの戸籍に入れていいわよね?」
「……」
武雄は一瞬晴菜のことを忘れていた様子だった。
「オレ、分らんから晴子さんに任すよ」
それで、晴子は友人宅に晴菜を引き取りに行く前に区役所に寄って婚姻届を出し、戸籍変更の手続きもしてから友人宅に向かった。
晴菜は自分達の戸籍に入れて、親子三人同じ戸籍にした。住所は決まっていなかったので、取りあえず実家にしておいた。
「晴子、昨日昼間一日だけって言うから晴菜ちゃんをお預かりしたけど、一晩だったら最初から言っておいてくれないと困るからぁ」
仲良しの友人の目じりは吊り上がっていた。産まれて一ヶ月しか経たない赤ん坊を預かる身にしてみれば、かなり心配だったんだろう。晴子はことの次第を説明して、どうにか友達の怒りを鎮めてもらった。
晴子は古谷真由美の都合を聞いて、晴菜と一緒に真由美の所に出かけた。真由美は、
「あなた、それで本当に良かったの? あたしは剣持さんとご結婚なさった方が良かったように思うけど」
予想に反して、真由美は武雄と結婚するのはどうかなと疑問を投げかけてきた。
「あたし、突然の出来事だったし、迷っている間にどんどんことが進んでしまって……」
「あたしはね、晴子さんを妹みたいに思っているから、なんか心配なのよね。今は二人とも熱々だからいいけれど、この先何十年も苦楽を共にするんだし、武雄さんは年下だから、何かと大変よ。あたし、一度結婚に失敗してるから、心配なのよね」
晴子は真由美の話も一理あると思った。
「とにかく、頑張りなさいよ。何かあったらいつでも相談にいらっしゃいな」
真由美は晴子に温かかった。
晴子が出かけている間に、武雄は近くのマンションの2LDKの部屋を見つけてきた。晴菜を抱いて三人でもう一度下見に出かけたが、不動産屋は即時入居できると言うので、その日の内に契約を済ませて、当座必要な物だけ武雄が運び込んで、その日の夜から新居住まいになった。
晴子は簡単な夕食を仕度して、その夜は武雄と二人で夕食を済ませた。
何もかにも変則的だが、武雄と晴子の新生活はどうやらスタートした。
剣持は結婚式が流れてしまった後、山田と柏木教授夫妻と夕食を済ませてからN女史に連絡を入れた。それで、次の日の朝までN女史と六本木のホテルで愛し合っていた。N女史は剣持を文字通り慰めてくれた。
「あたし、あなたのフィアンセの方を初めて見て、ああこの方なら弥一を取られても仕方が無いなと思ったわよ。綺麗な娘さんだったわね。こんなことになってしまって、あたしは良かったと思っているの。弥一を取られないで済んだから」
そう言ってN女史は笑った。
「あたし、弥一が好きだけど、今の主人も好きよ。同じ好きって言葉でもニュアンスはちがうわね。弥一が好きなのは恋人として、主人が好きなのはあたしを守ってくれる神様として……かな?」
「主人はあたしに好き勝手を許してくれてるけど、歳がすごく離れてるからかもね。もし、主人があたしに近い年齢だったらこうは行かないわね。きっと」
百二十九 夜毎の営み
晴子が新生活をスタートしてから、あっと言う間に一週間が過ぎた。新婚早々だから、夜毎に愛の営みがあるのは自然だ。
晴子は結婚前より早く起床して武雄の朝食を用意した。子育て中なので、先に武雄を送り出してから、毎朝手早く掃除と洗濯を済ませてから晴菜と一緒に林菓房に出かけるのが生活のリズムになってきた。昼間は授乳時間以外は母の貴恵が何かと手を貸してくれたので、思ったよりも仕事に精を出すことができた。
以前からもそうだったが、夕方から武雄は渋谷界隈の若者関係の仕事で出かけることが多かった。結婚後も相変らず帰宅は遅かった。最近は特に色々調整する仕事があるらしく、日によっては十二時を過ぎて帰宅することもあった。晴子は、洗濯物の整理をして、晴菜と一緒にお風呂も済ませて、夕飯の仕度を終えてからは大抵テレビを見ながら武雄の帰りを待っていた。
武雄は帰宅すると、以前と変わりがなく着ていた物をそこらじゅう乱雑に脱ぎ捨て、片付けることをまったくしなかった。晴子はそれを覚悟していたから、別に苦にも思わずに、毎日ちらかった武雄の洋服を片付けた。
武雄は衣服を脱ぎ捨てると、直ぐに、所構わず晴子を押し倒して晴子に覆い重なってきて、自分だけさっさと済ませてしまうと風呂に入った後寝てしまった。
晴子は、新婚早々だから、せめてもう少しロマンチックな雰囲気を作ってからして欲しいと思ったが、武雄はそんな晴子の気持ちなど考えていない様子だった。
また、晴子は晴菜と少し間を置いて子供を産みたかったから、避妊具などを使って避妊には気を付けていた。まさか、新婚早々武雄にコンドームを使ってくれとまでは言えなかったのだ。
結婚後一ヶ月を過ぎても、武雄との夜毎の営みは変らなかった。さすが最近では毎晩ではなくなったが、自分だけさっさと済ませてしまう所は全く変らなかった。
世の中の既婚女性の半分以上は結婚後、亭主以外の男性と関わりを持ち不倫をしていると言う話しがあるが、晴子の場合には、自分をレイプした男と、武雄と以外にはセックスの経験がなかったから、世の中の夫婦の間の営みは武雄のようなのが普通なのかなぁと思っていた。だから、最近では自分からして欲しいなんて思うことはなくなった。つまり、夫婦の間のセックスなんて、つまらないものだと思うようになっていた。映画やTVのドラマのようなのは、あくまでドラマとして描かれたもので、普通の家庭ではドラマのようではないのだと理解するようになったのだ。
そんな風で半年がまたたく間に過ぎた。ある夜、武雄が帰ってきて、いつものように晴子を押し倒して晴子に覆いかぶさろうとした時、どうしたことか、晴菜が目を覚まして泣き出した。
「おいっ、静かにさせろよ。オレの子でもないのに邪魔させるなよ」
と泣いている晴菜の方を見て言った。晴子ははっとして武雄が今言った言葉に驚いた。確かに、晴菜は武雄の子供じゃない。けれど、そこまで言わなくてもいいじゃないかと、悲しくなった。
それからと言うもの、晴子の中に武雄への愛情が消えうせてしまった自分に気付いていた。武雄の汚れた衣服の始末、食事の用意、掃除、洗濯、そんな日常当たり前にしてきたことさえ、
「自分は何のために苦労してるんだろ? 夫婦って何だろう?」
と考えてしまうことが多くなった。
林菓房では、武雄は両親とも上手く行っていたし、仕事も今迄通りこなしていた。だから、晴子の両親は晴子の気持ちの変化には全く気付いていなかった。晴子も、自分達の家庭内のことは外には出さないように気を付けていたのだ。
心の中が虚ろになって、風が吹きまくっているような今の気分を振り払うように、晴子は、ふと初恋の人、堀口伸のことを想っていた。伸君だったら、自分をこんなに悲しませるようなことはなかったのじゃないかと、懐かしさがこみ上げてきた。
秋の陽射しが爽やかな日に、晴子は思い切って晴菜をおんぶして、武雄に友人宅に行くからとウソをついて、秋の彼岸はとっくに過ぎていたが、神奈川県の山間の田舎に、伸の墓参にでかけた。
重いけれど、ペットボトルに水道の水を満たして持参した。花は墓に来る途中に咲いていた野菊や赤飯などを摘んで来て、墓前に供え、ペットボトルの水を墓と花にかけて、晴菜を墓の前に降ろして寝かせ、手を合わせた。
「晴菜ちゃん、ここにはお母さんが本当に好きだった人が眠ってるのよ」
晴子は晴菜に話すと言うより、自分に言い聞かせるように墓に向かって話をしていた。晴子の目に溜まった涙が、急に堰を切ったように頬を伝って流れ落ちた。
晴子は、どれくらいの間そうしていただろう。晴子の直ぐ後ろで、[カサッ]と音がした。晴子は、何気なく後ろを振り返った。
そこに、日焼けした顔の、伸の弟、堀口拳が立っていた。拳は、優しい眼差しで、晴子と晴菜を見て微笑んでいた。
「随分、お顔がやつれましたね」
晴子は拳にそう言われてはっとした。他人から見れば、今の晴子の顔は以前より随分やつれて見えたのだろう。確かに、最近は化粧にも力が入らず、毎日晴菜と淋しい日々を過ごしていたのだ。それが顔に出てしまっていたのだろう。
晴子は拳に誘われるままに、電車の駅の近くにある喫茶店に入って、しばらく拳と話をした。晴子は最近の自分の境遇について何も言わなかったが、拳は終始優しい眼差しで晴子と晴菜を見ていた。
晴子が拳と知り合った当時は、拳は外資系の金融会社で大きな資金を運用していたらしく、仕事に張り詰めていた。だが、話を聞いてみると、その後大金の運用に失敗して、挽回するのに苦労したらしい。最近ようやく穴埋めに成功して、久しぶりに母親の顔が見たくなって、実家に戻ったのだと説明した。考えて見ると、今日拳に会えたのは不思議な偶然だ。拳は今でも碑文谷のマンションに住んでいるそうで、晴子の所からそう遠くはなかった。それなのに、今迄全然顔を合わす機会がなかったのも不思議なことだった。お茶した後、拳と分かれて晴子は目黒のマンションに戻った。
晴子も武雄も剣持にお詫びに行く予定をしていたのだが、二人とも気持ちが進まず、つい延び延びにしている間に、完全にタイミングを逸してしまった。それで、お詫びを言わずじまいとなっていた。
武雄は、トレメンド・ソシエッタの下働きで剣持とたまに顔を合わせた。だが。剣持が「私的なことを仕事に持ち込むな」
と武雄を叱ったので、結局お詫びしそびれてしまったのだ。
剣持はその後、新政権の、役人に厳しい代議士にダメージを与えて失脚させる裏工作に取り組んでいた。ことがことだけに、皆が慎重に計画を練り上げて、年末あたりから、いよいよ実行に移す手筈になっていた。だが、この仕事の概要は武雄には一切知らされていなかった。
百三十 翻弄される晴子
武雄と祐樹は菓子製造二級技能士の国家検定試験の受験を目指して勉強していた。受験をするには十月に申請をして、翌年の一月に試験がある。
「お互いに受験を目指していることを誰にも内緒にしておかないか」
「ん」
「万一どっちかが落ちても誰にも言わないでおこうよ」
「おおっ、分った。それで行こう。兄貴は受かると思うけど、オレは自信がねぇからなぁ」
祐樹の方が武雄より自信がなかったので、祐樹は武雄と内緒にしておく約束をしていた。それで、十月に二人は申請書を出した。以前、武雄は晴子に自分の方を向いてもらうために、技能試験を受けようと決めて、祐樹を誘ったのだ。一級は七年間の実務経験が必要なので二人とも二級しか受験資格がなかった。
武雄は図らずも、晴子を剣持から奪って自分のものにできた。だから、もう技能検定なんて受ける必要がなくなったと思っていた。けれども、祐樹を誘った手前、それは言えなかったから祐樹と一緒に申請したのだ。
晴子は、武雄と結婚できたら、将来武雄に取締役になってもらって、ゆくゆくは社長になって、義晴から家業を引き継いでもらいたいと思っていた時期があった。常勤の役員会は概ね毎月行って、そこで業績の見通し、新たな出店の検討、従業員の採用や解雇など大事な話題について話し合ったり決定したりしていた。常勤の役員は両親と晴子だけだったから、家族会議みたいなものだ。社外の役員を入れた取締役会は年に一度か二度開く予定だった。それで、今年は十二月二十日前後に開きたいと役員全員に都合を聞くため通知を出していた。全員から返事があり。十二月二十日に開催することが決まった。武雄は役員ではなかったので、役員会の事務は晴子がやっていた。
晴子が武雄に愛情を感じなくなってから、以心伝心だろう、武雄の晴子に対する態度が次第に乱暴になってきた。晴子が体調が勝れない時、夜、武雄の求めに晴子が抗うと、武雄は晴子のほっぺたを張り飛ばして晴子を強引に求めた。そんな時は仕方なく晴子は我慢して応じていたので、武雄としているのが苦痛に感じられるようになった。それでも武雄は強引に求めた。まるで晴子は武雄の性の玩具のように扱われていたのだ。しかし、晴子は晴菜のこと、家業のことを思って、歯を食いしばって我慢していた。
昼間店で仕事をしている時は、二人とも何事もなく仕事をしていたし、武雄は晴子に対する態度とは反対に両親や店の者には優しく応対していたから、両親も周囲の者も武雄が晴子と結婚して益々充実してよく仕事をしていると思っていた。
だから、晴子は自分さえ我慢していれば良いのだといつも自分の気持ちを押さえ込んでいたのだ。だが、最近はストレスが溜まって、肩が張ったり、胃が痛くなったりする日が多くなった。堀口拳に言われて気付いたのだが、鏡を見ると確かに顔がやつれて醜くなっている自分がいた。
十二月の取締役会には山田は勿論、剣持や古谷真由美の他に福岡から叔父の林義彦もやってきた。橘公認会計士事務所が推薦してくれた鬼頭と言う男も出席した。叔父は山田と剣持の顔を見ると、
「晴子の結婚式ではえらいご迷惑をおかけしましたな」
と改めて謝った。父の林義晴が謝るつもりだったが、弟の義彦がうまく謝ってくれたから助かった。
「どう? その後上手く行っているの」
と真由美が晴子の顔を見た。
「え、ええ」
と晴子は曖昧に答えた。それで、真由美にはどうやら問題がありそうだと知られてしまった。両親や他の者には知られなかったようだ。だが、剣持は晴子の様子の変りようで何かを感じていた。剣持には、わずか一年も経たない間に、以前可愛らしくて綺麗だった晴子が、今はやつれたオバサンのように見えていたのだ。
父の義晴が、
「楢崎武雄君は晴子と世帯を持ったので、役員に加えて欲しい」
と皆に提案した。母の貴恵、叔父の義彦、山田と鬼頭は即座に賛成してくれた。だが、晴子が反対した。一同は怪訝な顔で晴子を見たが、真由美と剣持は晴子の意見に賛成した。それで、武雄の役員に就任する事案は否決された。晴子の両親はなぜ晴子が反対したのか分らなかった。だが、この時晴子は武雄との関係がそう長くは続かないのではないかと、何となくそんな予感をもっていたのだ。
年が明けて、一月に武雄と祐樹は技能士検定試験を受けた。結果は祐樹が合格し、武雄は落ちてしまった。こともあろうに、そんな時父の義晴は武雄に、
「取締役への昇格が今回は見送られた」
と伝えてしまったのだ。義晴は武雄が試験に落ちたことを知らなかったのだから無理もなかったのだが。
この時から武雄の態度に変化が出て来た。武雄は顧客とのトラブルを起こし、それをほったらかしにした。そんなことが何件か続いて、林菓房の売上が急速に落ちてきた。
武雄の気持ちを察して祐樹が、
「兄貴、元気を出してくれよ」
と励ましたがこれも逆効果で、
「お前は合格したからいいけどよぉ、オレのことはほっといてくれっ」
と言い返されてしまった。勿論、そんなことがあったなんて晴子は知らなかったのだ。顧客とのトラブルの内容を武雄は晴子に話してくれず、そんな日は帰宅後も荒れた。酒を呑んだ後で晴子を強引に求め、晴菜がぐずると強くではないが晴菜を足蹴にした。そんな日が何回もあって、これには我慢強い晴子も怒った。
「晴菜ちゃんに、なんてことなさるのっ!」
と晴菜をかばって晴菜を体で抱きかかえた。武雄は腹いせに晴菜を抱きかかえる晴子の横腹を蹴った。強くはなかったが、晴子はとうとう武雄との離婚を真剣に考え始めていたのだ。
翻弄と言う言葉がある。翻弄とは自分が思うがままに相手をもてあそぶと言う意味だ。最近の武雄の晴子への付き合い方はまるで武雄が晴子を翻弄しているように見える。晴子と武雄は夫婦だ。だが、夫婦だからと言って暴力を振るっても良いわけはないのだ。
「あたしって、どうして男についてないんだろう」
これが晴子の最近の偽りのない心境だった。
百三十一 離婚・何と理不尽な
「あなた、別れて下さい」
「突然、なんだよ」
「あたし、武雄とやっていく自信なくしたから」
「自信を取り戻せばいいじゃん。そんなこと簡単だろ?」
「あなた、あたしの生き甲斐の晴菜を邪魔にするから」
「オレ、別れるのは嫌だよ。兄貴に土下座して譲ってもらったんだからさぁ、絶対におまえを手放せねぇよ」
「晴菜のこと、嫌いでしょ?」
「オレの子じゃねぇから、好きでも嫌いでもないよ」
店が休みの日、晴子は武雄に離婚話を切り出してみたが、武雄は全く受け付けなかった。晴子は離婚届の用紙に必要事項を書き込んで、同意してくれと迫った。
「オレ、こんなもんに絶対にハンコ押さないからな」
武雄はふてくされてゴロンと寝転がってテレビのバラエティ番組を見始めた。
武雄との話し合いに失敗した晴子は、翌日、離婚関係に実績のある郡司博仁法律事務所の郡司弁護士を訪ねた。初老の目が細い穏やかな顔をした男だ。
「うーん」
先ほどから晴子の説明を聞いていた郡司は「楢崎さん、あなたの場合は難しいね」
と困った顔をした。
「ご主人の同意があれば、離婚手続きなんて簡単なんですがねぇ。あなたの場合はご主人が頑なに拒んでおられるので、結局は法律的な手続きをして裁判ってことになるんですよ」
郡司弁護士は茶をすすりながら、
「ご存知だと思うが、離婚には法律的に色々な形がありましてな。夫婦が、『おいっ、別れようか』『そうね、別れましょう』とお互いに同意した場合は夫婦間に離婚意思の合意があったとみなされて、届けさえ出せば離婚できます。理由なんて何でもいいのだよ。こんな場合は法律では協議離婚と言います。あなたの場合はご主人が同意しないと言い張っておられるようだから、家裁に離婚の調停を申し立てなきゃならんのです。裁判所が間に入って調停した結果、ご主人が、仕方が無い、別れてやると合意されれば、そこで離婚が成立するんです。だが、この場合はあくまでご主人が最後に合意する必要があるんですよ。こんなのを法律では調停離婚といいます。問題はね、楢崎さんご夫婦の場合、ご主人が絶対に別れないと言っておられるそうだから、調停離婚は無理だってことですな」
「それじゃ、他には方法がないと言うことですか」
晴子の期待に反して話の内容は暗い方向に進んだ。晴菜は弁護士と話をしている間に晴子の腕の中ですやすやと眠ってしまった。
「いや、調停離婚がうまく行かなかった場合、あなたの方から調停不成立になってから二週間以内に不服を申し立てれば、裁判所の独自の審判で離婚が成立する場合はあります。こんなのを法律では審判離婚と言うのですよ。でもね、この場合はあくまで裁判官の判断だから、あなたの場合、ご主人に決定的な不利が認められにくいので難しいと思うなぁ。だから、それでもダメな場合は裁判に持ち込むことになりますが、裁判で勝つためには、民法で定められた離婚原因がないとダメなんです。民法では、どんな場合か、いくつかに原因が分れます」
弁護士は一息入れてから続けた。
「一つ目は、ご主人が明らかに不倫とか浮気をされている場合です。この場合にはちゃんとした証拠があれば、確実に勝てます。じゃが、あなたの場合にはご主人があなた一筋で不倫とか浮気の証拠がありませんから、これは使えません」
と申し訳なさそうな顔をして続けた。
「二つ目は、ご主人の悪意で放り出された場合です。ご主人が家出をされたりして、家庭を放棄されたり、反対にあなたを追い出した場合は離婚の原因として認められます。生活に必要なお金を出してくれない場合ももちろん裁判所は離婚の原因として認めてくれます。あなたの場合は、生活費はあなたの稼ぎで賄っておられるようですが、ご主人が、五年間と言いましたっけ? ご実家の会社から給料を出してないことを分っていてご結婚されたんだから、裁判所は離婚の原因として認めんだろうと思います」
弁護士は続けた。
「三つ目は、ご主人の生死が三年以上分らない場合です。最近は失踪届けを出しても見付からないケースが増えてますから、世間ではよくある話じゃが、あなたの場合は当てはまりません。
四つ目は、ご主人がうつ病とか痴呆とか精神病を患われて、夫婦生活が成り立たないと認められた場合です。ご主人は正常だそうだから、これも当てはまりませんな。
五つ目は、一つ目から四つ目以外の原因で、結婚生活を続けられないと認められる場合です。要するに夫婦関係が破綻してどうにもならない事由があるときです。これは色々なケースがありますが、主なものでは、ご主人があなたやこの赤ちゃんを暴行したり虐待したりした場合です。あるいは、賭け事にのめりこんで大きな借金を作ったとか、飲み食い、女遊びで大きな借金を作ったとか、夫婦生活を続けられないような重病とか大怪我をされた場合とか、宗教活動にのめりこんで、あなたも信者になれと強要したり、ご主人がセックスができなくなってしまわれたとか、親族と相当に仲が悪いとか、あなたとご主人の性格が合わない、つまり性格不一致ですな、こんな色々なことが原因で夫婦生活を続けられないような場合は離婚の原因として認められます。じゃが、あなたの場合には暴行があったと言われても、腕の骨を折られたとか、皮膚にあざができて絶えないとか、その程度の暴行を証明するものがないので難しいんですよ。この子を蹴っ飛ばしたと言っても相当の暴行をされませんとなぁ、ただ軽く蹴られた位では、ご主人がたまたまはずみでやったまでだと言えば暴行とは認められません。あなたの場合も同じです。問題は性格不一致ですな。これは証明が難しいんです。裁判で、ご主人に『今後は反省して奥さんであるあなたに合わせます』なんてシャーシャーと言われてしまえばそれまでなんですよ」
弁護士の長い説明が終わった。
「先生、ありがとうございました」
「ご主人が離婚届に判を押してくれれば、それが一番いいんですがねぇ。じゃが、ご主人の同意もなしに、あなたが勝手にはんをついたら絶対にダメですよ。ご主人に万一訴えられでもしたら、公文書偽造であなたが罰せられますからね」
郡司は事務所を出て行く晴子を窓からじっと見ていた。子供を抱きしめて力なく去っていく後姿がなんとも不憫で、法律とは理不尽なものだなぁと思った。
晴子は弁護士事務所を後にして、まだ当分今までの生活が続くかと思うと、暗い気持ちになった。晴菜を抱きしめて、夕暮れの街をとぼとぼ歩いていると自然に涙がこみ上げてきて頬を伝って落ちた。
家に戻ると、珍しく武雄が戻っていた。
「どこに行ってたんだよぉ」
そう言うなり、いつものように晴子を押し倒してかぶさってきた。晴子は目をつぶって耐えた。武雄は自分だけ済ますと、
「メシ食ってまたでかける」
と夕食の用意を急かせた。
武雄が帰るまで起きているつもりが、晴子はいつの間にかテーブルに伏して転寝してしまった。
「まだ起きてたのかよぅ」
と言う武雄の声にはっとして目覚めた。武雄は疲れた顔をしてすぐに寝てしまった。
汚れた衣服はいつものように乱雑に脱ぎっぱなしになっているのを片付けて時計を見ると一時半を回っていた。晴子はどっと疲れが押し寄せてきて、くらくらと眩暈がしてその場に倒れこみ、朝まで床の上で眠っていた。
その日は三月二日、晴菜のお誕生日だと思うと、晴子は早いものでもう一年が過ぎたかと驚くばかりだ。
昨日、珍しく剣持の名前でベビー用品の包みがデパートから届いた。剣持は晴菜が産まれた時、ずっと病院で待っていてくれたのを思い出した。それで、晴菜の誕生日を覚えてくれてたのだろう。晴子はまた涙をこらえられなくなってしまった。嬉し涙か、悲しい涙か、自分でも訳が分からなかった。
百三十二 異変
早いもので、四月も終わりに近付いて、あたりには初夏を思わせる風が吹いていた。晴菜はすくすくと育ち、可愛らしさがまして、ちょっとの間立てるようになってきた。晴子は目が離せないので仕事中も注意が散漫になることがあって困っていた。晴子の言葉も、ほんの少しだが、分るのかと思うような時があった。
晴菜に気を取られながら帳簿を点検していた晴子は、
「あら、珍しいな。このお客様、今迄毎月きっちりお支払い頂いていたのに、先月分入金してないよ」
と一人呟いた。この大口の顧客からは毎月七十万~九十万円安定した注文をもらっていた。林菓房の顧客としてはありがたい客だった。
「もしもし、目黒の林菓房の楢崎と申します。平素は大変お世話になっております」
晴子は電話を入れてみた。
「何かご用でいらっしゃいますか」
電話口に出た女性は丁寧に応対した。
「つかぬことで大変失礼ではございますが、先月分、代金をお支払い頂いておりますでしょうか」
女性は、
「しばらくお待ち下さい」
と言い置いて電話口を離れた様子だ。ややあって、
「お問い合わせの件ですが、確かにお支払い致しております。もしまだでしたら、何かのお間違えだと存じますのでお調べ頂けませんか」
と返事があった。
「手前どもの領収書は残っておりますでしょうか」
「はい、今その領収書を見ながらお応えしております」
晴子は丁重にお詫びを言って電話を切った。
「おかしいな。このお客は武雄さんが回収しているんだけどなぁ?」
今迄、武雄は代金回収をきっちりやっており、今回のような間違えは初めてだった。
晴子は武雄を呼んでこの件を問いただした。
「あ、代金、ちゃんともらってるよ」
「じゃ、どうして帳簿に上がってないのかしら?」
晴子は自分の記入ミスかも知れないと思って独り言のように言った。
「……」
武雄は黙っていた。
「おかしいなぁ」
晴子は帳簿や預金通帳の残高などあちこち点検して記載ミスの原因を調べた。だが、どうしても先月分の約八十五万円がどこかに消えていた。
それから、約一週間ほど経って、店のレジを預かっているマキが、
「今日はこれだけです」
といつもなら一日の売上が十万円を越えているのに、どうしたことかその日は三千二百円と少ししか持ってこなかった。
「あら、どうしたの? 本当にこれだけ?」
マキは、
「はい」
と返事したがその後は口を濁した。
「何かあったの」
マキは言い難そうに、
「タケさんが十五万円持って行きました」
「そう。それならいいわ。お疲れ様」
晴子はマキにそれ以上何も言わずに帰した。
その日の夜、
「武雄さん、あなた店の売上を持って行ったわね。何にお使いになったの」
と聞いた。
「ちょっと必要があったんだ」
「そのくらいの金額なら、あたしに言って下されば良かったのに。武雄さんにはお給料を払ってないから、それくらいならあたしが出します」
「……」
武雄は黙っていた。晴子は武雄が夜に別の仕事をしているのが分かっていたから、そちらで急に必要になったのだろうと思っていた。
晴子に離婚を迫まられてから、武雄は以前より少しは晴子に気を遣うようにしていた。だが、晴子から見れば、殆ど変りはなかった。レジの金の話をした後も、武雄は相変らず晴子を押し倒してセックスを求めてきた。晴子はそうした武雄の欲求に最近は辟易としていたし、嫌悪感さえ抱いていたので、その夜も抗った。武雄はそんな晴子を張り飛ばし、足で蹴り付けた。そんなことが続いて、晴子は最近武雄に蹴られたお尻っぺたが痛む日が多くなっていた。今夜は武雄は晴子を四つん這いにさせて、後から晴子の中に突っ込んできた。晴子は犬や猫の交尾のような格好をさせられて恥ずかしかったが、ぐっと我慢してこらえていた。いつものように武雄は射精が終わるとさっさと風呂に入って寝てしまった。
晴子はいつまでも今の生活をだらだら続けたくなかったが、弁護士に相談した後は気持ちが萎えて、どうしていいのか分からずにずるずると伸ばしてしまっていたのだ。
武雄の異変に最初に気付いたのはトレメンド・ソシエッタの村上だった。
「おいっ、武雄、ちょっと来いよ」
武雄は村上に呼ばれて、
「はいっ」
と村上の所に行った。村上は武雄の左手をつかむと、武雄のシャツの袖をぎゅっとたくし上げた。村上は武雄を睨み付けた。
「オメェやってるな?」
「は、はい」
武雄は口ごもった。
「いつからだ?」
「先月からっす」
村上はそれ以上は何も言わずに武雄を帰した。
村上は直ぐに神山伝次郎に武雄のことを報告した。神山は、
「剣持も呼べっ」
と村上に命令した。間もなく剣持が来ると、村上の報告を伝えた後、
「直ぐ消せ」
と命令した。
「剣持、おまえさんはやり難いやろ? ここは村上はんに頼めや」
と付け加えた。
剣持と村上は相談して、すぐにミラノのマルコに連絡を取った。村上は武雄を呼ぶと、
「お前、パスポート持ってるのか?」
と聞いた。
「期限切れスレスレですけど」
「それでいい。直ぐ持って来い」
「今夜ですか?」
「そうだ。早いほうがいい。直ぐパリに飛ぶ。一緒について来い」
「は、分りました」
武雄は仕事で村上とパリに飛べると思うとワクワクした。
その日の夜のパリ直行便、成田二十一時五十五分発のチケットが取れた。村上は楢崎を連れて直ぐに成田を発った。武雄の急な出張は剣持から東尾と名乗って、晴子に電話で知らせた。
飛行機の中で、村上は武雄に聞いた。
「オメェの仲間で信頼できるダチは誰だ」
「シュンとテルと言う奴です。ここで連絡先は分るか?」
武雄はシュンとテルの携帯メールのアドを村上に教えた。
「両方男か?」
「はい」
村上は武雄の代わりを考えていた。
早朝パリに着くと、少し時間つぶしをして、ミラノに向けて発った。ミラノに着くとマルコが空港に迎えに出ていた。村上は武雄をマルコに紹介した。武雄は外国語は全くダメだったから、二人が何を話していたのか皆目見当が付かなかった。
「武雄、オレは直ぐ東京に戻る。オメェ、言葉はダメだろ?」
「はい」
「このマルコは片言日本語が分るから、マルコの指示通り動いてくれ」
「はい」
村上はパリ往きの航空機に乗って帰って行った。
「ナラサキ、イコカ(行こうか)」
武雄はマルコに従って車に乗り込んだ。ミラノの町外れの貧困街に車を乗り入れると、マルコは駐車場に車を停めた。
「オリテクレ」
武雄は言われるままに降りた。ここでどんな仕事をするのかは何も聞かされていなかった。旧い建物に入ると、マルコの友達らしい男が三人現れた。マルコは皆を紹介した。三人共日本語はダメらしい。
「ナラサキ、シバラクココニイテクレ」
マルコは地下の一室に案内して武雄にそう言って出て行った。ドアに外から鍵をかける音がして、武雄は不思議に思った。だが、村上の言いつけを守って、室内にあったベッドに腰掛けた。
しばらくすると、紹介された男の一人が食事を持ってきた。食事を載せたトレイの端に、注射器と小さな紙の袋が載っていた。武雄は直ぐに薬だと気付いた。食事の後、武雄は水に溶かして注射器で吸い上げて、腕に打った。直ぐに快感が訪れた。
ヘロインは美しい花を咲かせる芥子の実から抽出した麻薬だ。芥子はもちろん法律で厳重に栽培が禁止されているから、普通には麻薬原料になる芥子の花は見られない。現在は、昔日本軍が進駐中に広めたと言われる北朝鮮と民族主義過激派の資金源としてパキスタンとインドの国境付近、それにイランの高原、中南米コロンビアで大量に栽培されて密輸されていると言われる。ヘロインは麻薬の中の王者的存在で、微量を静脈に流し込むと、直ぐに快感が訪れて数分間持続すると言われる。話題の女優が鼻から吸引していたと言われるが、鼻から吸引しても効果はあるのだ。セックスをして、オルガスムスに達すると、女なら全身にしびれるような快感が訪れて、体に震えが来て、無意識に声を発する場合が多い。いわゆる[よがり声]だ。男は射精する寸前から射精中にかけて下腹部から快感が走る。
だが、ヘロインをやると、この快感が体中の至る所で始まって、セックスによる快感の何百倍もの快感が訪れると言われている。経験者によると、恐らく人が経験できる快感の最高の状態になれるそうだ。だから、一度やると、またやりたくなる。だが、しばらく続けると、薬が切れた時、体の関節に激痛が走り、肌にも耐えられない痛みが走り、強烈な倦怠感と不快感が訪れる。これが禁断症状だ。武雄は既に禁断症状が出る直前まで進んでいた。
ミラノの貧困街の旧い建物の地下室に、約一ヶ月も閉じ込められて、薬をやらされていた武雄は完全に中毒していた。昼間からラリって、薬が切れると喚いた。武雄の体はボロボロに変っていた。
武雄の様子を見て、ある日マルコは武雄に有効期限切れになっているパスポートだけ持たせて、ミラノの街角に放り出した。ミラノ警察は直ぐに発見して連行し、留置場に入れて日本政府に照会、確認を取った。大使館の職員が面会に訪れた時、武雄は留置場の片隅で冷たくなって転がっていた。武雄の遺体は引き取られて日本に送還された。
村上にマルコから連絡が入った。
「言われた通り始末したぜ」
「ありがとう」
厚生労働省の麻薬取締官はかねて渋谷の高級住宅街でヘロインの密売をしているイラン人とこの男に接触する者を監視し、内偵を進めていた。
厚生労働省の麻薬捜査官と警視庁が連携して一斉捜査、検挙に出たのは、武雄が村上に連れられてパリに発った翌日の出来事だった。武雄以外の者は全員その日の内に逮捕された。
一斉捜査があったその日、目黒の林菓房の店に背広姿の男が二人訪ねて来た。マキが応対した。
「この人は今こちらにいますか?」
顔写真と名前を書いたメモを見せられたマキは、
「はい。うちの人ですが、今日は朝から見てません」
と答えた。マキは事務所の晴子に連絡し、晴子が代わって応対した。
「わたくしの主人ですが、何か?」
捜査官は、
「今日はどちらへ?」
と聞いた。
「いえ、それが、昨夜出先から連絡が入りまして、急に仕事で海外に出かけたからと」
「行く先は?」
「分りません」
「奥様に行く先も告げずに?」
「はい。既に出発してから、東尾と言う方から電話があって知りました」
「東尾さんはお知り合いですか?」
「いえ、初めて聞いた名前です」
「では、戻られるか、あるいはご主人から何か連絡があれば、こちらにご連絡を下さい」
そう言って電話番号を書いたメモを残して去っていった。晴子は何のことやら見当が付かなかったが、冷めた夫婦関係だったので、気にはしなかったのだ。
一ヶ月ほど過ぎて、警察から連絡が入り、遺体を引き取って欲しいと要請された。晴子は驚いた。武雄に何があったのか、なぜ遺体なのか分らずに引き取りに行くことにしたが、一人では心細かった。父は高齢だし、武雄は店の金を使い込んだ末、この一ヶ月間休み、姿を見せなかったから突然の出来事を知らせて驚かせたくなかった。誰かに頼るあてもなく、晴子は堀口拳の番号に電話をしてみた。
拳は気持ちよく引き受けて力になってくれた。晴子は葬儀をする気も起こらなかったので、武雄との結婚披露パーティーに来てくれた新潟県村上市に住む武雄の実家の父楢崎武志に連絡を入れた。楢崎武志は快く引き取りに応じてくれた。
晴子のマンションまでは、警察の車が遺体を運んで来たが、遺体は簡単には運べない。葬儀屋に頼んで霊柩車を出してもらい、それで輸送することにした。
遺体を届けてきた警察の関係者に事情を聞かされて晴子は驚いた。それと同時に、武雄が店の金を使い込んだ理由をなんとなく納得できた。
百三十三 武雄の葬儀
晴子は、結婚以来、武雄との間が次第に冷たくなった経緯、武雄が会社の売上金を使い込んだことなどを初めて父の義晴と母の貴恵を前にして打ち明けた。両親は今迄二人がうまくやっているものとばかり思っていたので、衝撃を受けたようだ。貴恵はポロポロと涙を流して泣いた。
「晴子、母さんがちっとも気が付いてやれなくて、ごめんね。苦労していたのね」
晴子ももらい泣きしてしまった。義晴はそんなことも知らずに、晴子が武雄の昇進に反対したのを咎めたのを詫びた。
「でも、母さん、不思議なものね。あたし、あんなに武雄さんに嫌悪感を持っていたのに、死んでしまったら、なんだか武雄さんが可哀想な気持ちになってきたな」
「そうよ。いくら気持ちが合わなくたって、同じ屋根の下で暮らした夫婦なら、そんな気持ちになるわよ。父さんだって、若い頃浮気した時はあたしも父さんと別れてやるって真剣に考えたわよ。でも長い間に少しずつ怒りが収まったわね」
「それで、お葬式、行ってあげるの?」
「そうね、明日堀口拳さんが一緒に行って下さるって言うから遺体と一緒に新潟の義父のとこまで行ってこようと思って。葬式が終わるまであちらに居ようと思うの」
「そう、そうしてあげなさい」
「お葬式には武雄さんが連れてきた子達も行かせなきゃね。祐樹君と後で相談しておいてあげるから、お店関係のことはお母さんに任せていいわよ」
「ありがとう」
「晴菜はどうするの?」
「晴菜は武雄さんの子供じゃないから、また友達に預けて行くつもりよ」
「お友達の方、大丈夫なの?」
「結婚式の時は小さかったから迷惑かけたけど、今は晴菜も可愛らしくなって来たから喜んで預かってあげるって言ってたわ」
「そう、それじゃ預けて行ってらっしゃいな」
武雄の実家で葬儀予定を聞いた後、林義晴は林菓房社長名で大きな花輪と供花を、祐樹たちは社員一同として花輪と供花を、他に晴子の名前で大き目の供花を供えてくれるように村上市の地元の葬儀屋に手配した。
こちらからは、通夜と告別式に義晴と貴恵が行くことにした。店は葬儀で留守にする間、臨時休業にした。
翌日、晴子と堀口拳は喪服を持って拳の車で、霊柩車の後を追って武雄の遺体を村上市に運んだ。遺体は腐敗しないようにドライアイス詰めでキッチリと処置されていた。
「お葬式が終わったら、帰り道、どこかの温泉にでも寄って、お気持ちをスッキリさせてから東京に戻ったらどうですか?」
拳は晴子の苦労を聞いていたので、晴子に優しかった。
「そうね、あたしも気持ちを入れ替えて、これから頑張らなくちゃならないから、よろしくお願いします」
遺体を村上市の葬儀屋に届けた後、霊柩車は直ぐ東京に向けて去って行った。拳は晴子の葬儀が終わるまでビジネスホテルに泊まって待っていてくれると言ってくれた。
「お仕事の方、大丈夫ですか?」
とそう拳に聞きながら、晴子の気持ちは拳が帰り道も一緒に居て欲しかった。
「会社には断ってありますが、パソコン一台あれば、遠くに居ても結構仕事はできるんですよ。これが」
と拳は笑った。
告別式の日に、祐樹は店の子達やパートの有志の者たちを引き連れて、マイクロバスでやってきた。そのため、葬式は賑やかだった。
通夜と告別式は滞りなく終わり、晴子は祐樹たちに丁寧にお礼を言った。晴子は火葬まで付き添ったため、解放された時は午後三時半を回っていた。
両親は電車で帰ると言った。
「しばらくお父さんとお出かけしてなかったから、帰りはどこかに一泊か二泊して旅行して帰るわよ」
母は久しぶりに父と二人で旅行が出来ると楽しそうな顔をしていた。
「あら、泊まる所、もう決めてあるの?」
と晴子が聞くと、
「大分遠回りになるけど、能登半島にでもと思っているの」
と、もう母はしっかり行く先まで決めていた。
拳は以前レイプされた晴子を助け出した時に、信州だったことを思い出した。それで、やや遠回りになるが、磐越自動車道から郡山に抜けて東北自動車道で帰る道を選んだ。
「来る時は関越自動車道を通りましたが、ここからだと磐越自動車道が近いので、猪苗代を回ってもいいですか」
と晴子に聞いた。
「あら、猪苗代なんて久しぶりだわ。是非、そちらの方に連れてって下さいな」
晴子が同意したので、村上市から一般国道7号線を新発田で折れて、拳は安田ICから磐越自動車道に乗った。安田ICから猪苗代・磐梯高原ICまでは80km程度しかないので、四時前に村上を出て、夕方六時には猪苗代に着いた。拳はそこから国道115号を磐梯山麓に沿って走り、中ノ沢温泉の御宿万葉亭に向かった。小さな宿だが、温泉が良い。
宿に着くと帳場に、
「予約をしておりませんが、二部屋空いていませんか」
と聞いた。応対した女性はちょっと調べて「生憎、良い部屋ですが、一部屋しか空いておりません」
と答えた。
「困ったなぁ、じゃ他を当たって見ようかな」
拳は仕方なく別の旅館を探すつもりで、
「この界隈でこちらのようにこざっぱりした良い宿がないでしょうか」
と尋ねた。女性は、
「そうですねぇ」
と思案顔だ。その様子を少し離れた所から晴子は見ていた。拳と宿の女性との会話も聞こえていた。それで、晴子は拳の所に歩み寄って、
「あたしは拳さんと同じお部屋でも構いませんことよ」
と助け舟をだした。宿の女性が晴子を見て、
「よろしいんですか」
と聞いた。
「ええ、構いません」
結局、空いている部屋に泊めてもらうことになった。
女性は、すみれと書いてある部屋に通した。部屋は広くて新しかった。部屋に入るなり、晴子は窓の外を見て、
「まあ綺麗」
と呟いた。季節は五月も末で日が長く、まだ辺りは明るく、木々の若葉が綺麗だったのだ。
晴子は長い間忘れていた花のことを思い出して、明日は早朝林の中を散策してみたいと思った。
部屋に付属するお風呂も良かったが、清流沿いの露天風呂もとても良かった。お風呂から上がって、宿の周りを少し歩いて部屋に戻ると、夕食が運ばれていた。拳は先に風呂を上がって、テレビを見ながら新聞を読んでいた。晴子の顔を見ると、
「ご飯にしようか」
と晴子を手招きした。
夕食が終わると、二人でおみやげを見にロビーの方にでかけた。晴子は晴菜を預かってくれている友人と、古谷真由美に何か土産を買って帰ろうと思っていた。
この宿は、あちこちに山野草の鉢が置いてあって、それだけでも晴子を楽しませてくれた。
部屋に戻ると、布団が敷いてあった。拳は気を利かせて、布団をずらせて二組の布団を少し離した。晴子はそんな拳に好感を覚えた。
「晴子さん、済まないけど、ちょっと帳場でインターネットを使わせてもらうから。僕等の仕事は昼間より夜の方が忙しいんだ。夜になると欧米の市場が開くからね」
そう言って、車から降ろしたノートパソコンを抱えて出て行った。晴子は広い部屋にポツンと一人残されたので、布団に入ってテレビをぼんやりと見ていたが、そうしている内に、眠ってしまっていた。
すーっと扉を開ける音に、晴子は目が覚めた。だが、寝ぼけて自分の家と勘違いして、
「お母さん、まだ起きてたの」
と言ってしまった。それを聞いた拳は思わず
「ふふふっ」
と笑った。それで晴子は完全に目が覚めた。
「あ、恥ずかしいっ! あたし、寝ぼけちゃった」
そんなことで二人の間に急速に親近感が生まれた。拳は自分の掛け布団を開いてだまって晴子を手招きした。晴子は自然な気持ちで拳の横に横たわった。
明かりが消されて、窓からうっすらと光が入る他は、辺りは静まり返り、拳と晴子の息遣いだけが聞こえるようだった。拳はゆっくりと時間をかけて晴子を愛撫してくれた。拳は晴子の初恋の人、伸の弟だったが、晴子は伸に抱いてもらっている気持ちで拳の優しい愛撫に酔いしれていた。晴子の気持ちが次第に昂ぶってきた時に、拳はゆっくりと晴子の中に入ってきた。晴子は波が寄せては返すように、気持ちの良い感情の起伏を感じながら次第に上り詰めて行った。晴子が我を忘れて拳にしがみついた時、拳の暖かい物が自分の中で広がるのを感じていた。そのまま。拳は晴子をずっと抱いていてくれた。晴子は知らず知らず泣いていた。こんなに優しく男性に抱いてもらって、こんなに良い気持ちになったのは生まれて初めてだった。晴子が絶頂に達した時、無意識に拳にしがみつき、声を出してしまったようだ。
腕時計を窓から射す星明りにかざして見ると、午前三時になっていた。泊めてもらった部屋には大き目のお風呂が付いていたので、晴子はそっと拳から離れてお風呂に行こうとした。拳が気が付いて、
「どうぞ」
と小声で言った。
晴子は、体を流して、お風呂に入ると大の字になってしばらく窓から見える星空を見ていた。
「あたしって、結婚相手を完全に間違えちゃったな」
と今までの武雄との生活を思い出していた。
翌朝、晴子は一人で旅館の近くの林の中を散策した。予想以上に山野草が豊富で、久しぶりに楽しかった。昨夜感じていた拳の優しい愛撫を、肌がまだ覚えていた。晴子はちょっと恥ずかしさを感じつつ、また拳さんにどこかへ連れてってもらいたいな、などと思っていた。
東京に着いて、別れ際に拳は名刺をくれた。肩書きは部長となっていた。なんでも部下が百名ほどで、普段は目が回るほどなので、今度の旅行には癒されたと礼を言って碑文谷のマンションに帰って行った。
百三十四 離婚歴を戸籍から消す
葬儀が終わって、東京に戻ると、晴子は直ぐに弁護士を訪ねて、離婚手続きを取りたいと申し出た。弁護士は武雄の死の顛末を聞いて、かなり驚いたようだが、亭主が死亡したことで簡単な手続きで離婚は成立しますと話してくれた。
「楢崎さん、あなたの場合は離婚手続き後元の林晴子さんに姓を戻したいんだね」
「はい」
「更に、あなたのお子さんも林晴菜ちゃんに戻したいんだね」
「はい」
「それと、新しい戸籍には[楢崎武雄と離婚]と言う文字も無くしてしまいたいんだね」
「はい」
前に離婚手続きについて相談に乗ってくれた郡司博仁弁護士は丁寧に応対してくれた。
「先ず、ご主人が亡くなってそのまま放って置くと、いつまでたっても離婚したことにはならんのだよ。婚姻の相手方の死亡による婚姻の解消手続きを役所に提出するんじゃが、それには、離婚を証明する書類が必要なんじゃよ」
「はい」
「それで、最初にご主人の死亡証明を付けて、家裁に離婚を申請しなければいかんのじゃが、それは私が代理でやってあげましょう」
「よろしくお願いします」
「そこでだ、家裁の手続き中に、楢崎さんは今、お住まいの所を出て、どこか適当な場所に引越しなさい。普通は離婚が成立すると、ご両親の戸籍に戻るのじゃが、その場合には戸籍法十三条三号がありましてな、戸籍に入った原因及び年月日を記載することになっとるんじゃよ。それで、ご両親の戸籍謄本にあなたが戸籍に入った原因は[楢崎武雄と離婚]と必ず書かれてしまって、いつまで経っても離婚歴が消えんのじゃよ。離婚経験のある女性は大勢おられるんじゃが、大抵は親の戸籍謄本に離婚歴がかかれたままなんじゃよ」
「へぇーっ? そうなんですか」
「それでじゃ、離婚が成立すると、今のあなたの戸籍謄本に[夫死亡により離婚]とか、離婚の経歴が書き込まれてしまうのじゃが、離婚手続き後、あなたが今住んでおられる所に引っ越されたら、本籍地を移すのじゃ。そうすると、新しい本籍地に作った戸籍に入った原因は、単なる移転、つまり[転籍]としか記載されないのじゃ。それで、[離婚]という文字はあなたの戸籍から消えることになるんじゃよ」
「先生、ありがとうございます。理屈が良く分かりました」
「手続きは面倒じゃが、あんたの苦労は前に聞いておるから、この際綺麗にするのは気持ちの入れ替えのためにもいいことじゃよ」
郡司弁護士はにこやかに笑った。
「楢崎から林に姓を変更する手続きも、わたしのとこで申請手続きをしてあげましょう。離婚が成立したら、続けて姓を変更する申請をすることになるんじゃ」
「よろしくお願いします」
晴子はスッキリした気持ちで弁護士事務所を去った。
晴子は両親の所に直接戻らずに、近くにやや広めのワンルームマンションを借りて移った。弁護士の指導に従って、離婚手続きが終わってから、先ず今の楢崎姓の戸籍謄本の変更申請をしてから、林姓への変更手続きをした。
それらが全部終わってから、ワンルームマンションの方に新しい本籍地を作った。新しい戸籍謄本を見ると、確かに晴子と晴菜は林晴子と長女林晴菜と記載され、原因欄に[転籍]と書かれていて、どこにも[離婚]の文字はなかった。念のため、弁護士の指導により、元の戸籍の除籍手続きをした。転籍後、元の戸籍には誰も入っていないので、この除籍手続きによって元の戸籍は完全に消えてしまった。
その後本籍地を両親の所に変更しても[離婚]の文字は入らないのだ。
手続きを終わって気持ち的に清々した晴子は、猪苗代のお土産を持って、古谷真由美を訪ねた。真由美は今までの話を聞き終わると、
「晴子ちゃん、随分大変だったわね。昨年末あなたの会社の取締役会で顔を見た時は随分やつれてしまって、びっくりしたわよ。でも、今日はご結婚前の可愛らしくて綺麗な晴子ちゃんに戻ったわね」
真由美は晴子の表情や雰囲気の変化を的確にとらえて話した。そう言えば、武雄の葬儀が終わって晴菜を引き取りに行った時も友人は同じようなことを言っていた。女性同士はちょっとした変化でもチェックが厳しいのだ。
色々なことが終わって、晴子は晴菜を保育園に預けて、林菓房の落ち込んだ業績の回復に尽力した。だが、一度失った顧客の信用を取り戻すのは容易ではなかった。晴子は毎日顧客回りに精をだして、売上を増やす努力をしていた。
疲れてマンションに戻って、晴菜を寝かし付けると、晴子は何故か寂しくなり、誰かに愛されたいと女の部分が疼いた。猪苗代の夜、図らずも拳に愛撫されて、今までの人生で初めて性の歓びを体験させてもらった。それ以来、拳が優しく愛撫してくれたあの感触が頭の片隅から離れなかったのだ。
「あたし、拳さんに恋してるのかなぁ。でも、結婚はもうこりごりだなぁ」
夜中の一時過ぎに、晴子の携帯の着信音が鳴った。
「今頃、誰かしら」
携帯を開くと[堀口拳]からだった。
「もしもし、もう休まれてましたか」
「はい、いえ」
晴子は何だかドキドキしてしまって、曖昧な返事をした。
「起こしてしまったんならゴメン」
「あ、大丈夫です」
「たまたまコンサートのチケットを二枚もらったんだけど、今度の日曜日の夜、お時間は空けられますか? 晴菜ちゃん、大丈夫かなぁ」
「母に預かってもらいますから大丈夫です」
晴子は積極的な返事をしていた。
「場所は新宿の東京厚生年金会館大ホールです。クラシックですが」
「懐かしいなぁ。昔はよく行きましたけど」
「じゃ、場所は分りますね。十七時に入り口で待ってます」
百三十五 女と男の間の不思議
その日、晴子は母に拳にコンサートに誘われたからと、晴菜を頼んだ。
「安心して、楽しんでらっしゃい」
と母は気持ちよく引き受けてくれた。最近貴恵は晴菜がよくなついたので、可愛くて仕方がないようで、晴菜ちゃんと聞くと嬉しそうだった。そう言えば、晴子もおばあちゃんっ子だった。
仕事を早めに切り上げて、晴子は一人でマンションに戻ってシャワーで汗を流した後、しっかりとお化粧をした。無意識にではないが、なぜかインナーも気の利いた可愛らしいのに取り替えた。
「よしっと」
晴子は忘れ物がないか点検を済ませて出かけた。
新宿の東京厚生年金会館大ホールの受付付近で待ったが、拳は見付からなかった。仕方なく、拳に電話をすると、
「ごめん、遅れちゃった。今そっちに向かってる」
と返事がきた。日曜日なのに予定があったのだろう。少し待つと、遠くから小走りにやってくる背の高い男が見えた。その姿は二年前に事故で亡くした初恋の堀口伸とすごく良く似ていた。伸の弟だからと言えばそれまでだが、晴子は伸がやってくるのではないかと錯覚を起こすくらい似ていたのだ。
「待たせてごめん」
拳の額にうっすらと汗が滲んでいた。
コンサートは今売れっ子の冬川雅史と東西フィルハーモニー管弦楽団のコラボで、親しみのある曲ばかりだったので、晴子は久しぶりに楽しい一時を過ごした。拳は何かと晴子を気遣ってくれ、晴子は幸せな気分になれた。
コンサートが終わって、
「僕、夕飯まだなんだ。時間があるんだったら付き合ってくれない」
拳は遠慮がちに誘った。
「あたしもまだなの。どこかで食事をしましょうか」
拳はタクシーを呼び止めて、
「Kホテル」
と言った。KホテルはJR山手線のガードを潜ると直ぐだ。タクシーを降りると、
「お寿司は嫌い?」
と拳が聞いた。
「大好きです」
拳は、
「じゃぁ」
と言って七階のすし屋に案内した。
二人は寿司を食いながら先日寄った猪苗代の話しをした。
「猪苗代の奥の裏磐梯は紅葉が最高だね。秋に行ってみない」
とか、
「夏休みに北海道なんてどうだろう」
とか次のドライブの予定を拳は色々話した。晴子は勿論全部OKを出した。
食事が終わって、すし屋を出た。
「ここの四十七階にカラオケルームがあるんだけど、晴子さん、たまには息抜きしませんか」
「あたし、学生時代には友人とよく行きましたけれど、最近は歌ってないから古い歌しか知りません」
「古い歌の方がいい歌があるから、古くてもいいよ」
「じゃ、お付き合いしますわ」
二人は四十七階のカラオケ48に入った。
二時間単位でフリードリンク付きの豪華なカラオケルームだった。呑んで歌って、楽しい時を過ごした。晴子は少し酔っていた。足元がふらつくのを見て、
「少し休んで行きましょう」
拳はホテルに部屋を取って晴子を抱きかかえるようにして連れて行った。二時間ほどすると晴子の酔いは醒めてきたようだった。ベッド脇の時計の針は十二時を回っていた。
晴子は母に連絡をして、遅くなったから翌朝まで晴菜を預かってと頼んだ。貴恵は喜んで引き受けてくれた。晴菜は時々貴恵と一緒に寝るので晴菜も喜んでいたようだった。
「遅くなってしまったけど、帰る方向が同じだから、送って行きます」
拳が晴子の手を取ろうとすると、晴子はそのまま拳の懐に倒れこんだ。
拳は黙って晴子を抱き上げてベッドに横たえた。少しの間見詰め合って、二人は自然に抱き合っていた。
猪苗代の時と同様に、拳は晴子に優しかった。晴子は、再び拳に抱かれて、
「このまま時が止まればいいのに」
と思いながら陶酔の世界をさまよっていた。晴子は乱れたが拳も晴子に合わせて激しく愛撫した。
相性が良いと言う言葉が当たっているようだ。晴子も拳もお互いに時の流れが心地良かった。
二人がホテルを出た時は午前三時を回っていた。拳はタクシーを止めて、
「目黒へ」
と指示した。晴子のマンションの前で、拳は晴子にキスをして別れた。マンションに戻ってからも、晴子はしばらく愛された余韻を楽しんでいた。
翌日、珍しく、剣持から電話があった。
「お久しぶりです」
「実は、茶道の先生と話をしたんだけど、今度お弟子さんを上海に派遣してもらうことになりました。ご存知の通り、上海の富裕層の人たちは最近余暇を文化的な楽しみに使うのが流行っているそうで、日本の茶道を学びたい方々は案外多いのだそうです。それで茶道教室を開く準備を進めているのですが、和菓子をあちらに派遣された先生に直送して欲しいんだ。今は航空便を使うと一日か二日で届くから、和菓子の市場開拓として良い計画だと思いますが」
「初めてだから、自信はありませんけれど、チャレンジする価値はあるわね」
「お茶は元々中国から日本に伝わったものだから、普及すると思うな。普及すれば和菓子の需要は自然に増えますから」
それで、剣持と詳細な計画を練って、中国に進出することにした。剣持は話の最後に、
「晴菜ちゃんは元気してますか」
と聞いた。
「はい。お陰さまで元気に育って、最近随分可愛らしくなってきました」
「そう。その可愛くなった晴菜ちゃんにも一度会いたいなぁ」
剣持は最後は呟くような声だった。
晴子は中国へ進出する話を義晴と祐樹に報告した。祐樹は若いだけあって前向きで、上手く行ったらオレも一度上海に出張させて下さいと言った。
百三十六 懐妊?
「晴菜ちゃん、晴菜ちゃん……可愛くなったなぁ」
先ほどから剣持は晴菜を抱き上げて、ほっぺたにチューをしたり、我が子のように抱きしめたりしていた。不思議なことに、晴菜は剣持に実質的に初対面なのに、よくなついた。
その様子を見て晴子は、
「この人と結婚すれば良かったなぁ」
と心の中で、そんな風に思っていた。
その日は、中国への進出計画で上海に派遣する茶道の先生と仲立ちをしてくれる中国人の陳杰松(Chen jie song) さんと四人で顔合わせをした。陳さんは上海を拠点とする商社マンで日本語は達者だった。
顔合わせのつもりだったが、商売熱心な陳さんは流暢な日本語で説明を始めた。
「中国に菓子を輸入する場合は、主に[中華人民共和国食品衛生法]、[中華人民共和国貨物輸出入管理条例]、[中華人民共和国輸出入食品ラベル管理弁法]と、それから[食品ラベル関係の国家基準、これをGB規格と呼んでますが、日本と同じで色々な法律や規則で規制されています。以前は手続きが大変でしたが、今は輸入通関時に検査検疫の一部として、税関で承認を受ければよいことになりました。ですから、輸入申告→検査検疫→納税→税関通関と言う手順になります。検査は[食品衛生法]に従って、包装容器、包装資材、製品のラベル表示内容が検査されます。だから、ラベルは大事です。検査機関による輸入食品検査と検疫をパスして[輸入食品衛生証書]と[衛生証書]を取りますが、[衛生証書]はとても大事な書類です。包装とラベルだけちゃんとして下さい」
陳は晴子に念を押した。
「近い内に店の方にお出で頂けませんか? 工場の者にご指導をお願いしたいのですが」
陳は快く引き受けてくれた。
剣持は晴子と晴菜を送ると言って、例のおんぼろ軽自動車に乗せた。
「実は、楢崎が少し前死にまして」
剣持は驚いた顔で、
「えっ? 武雄君が?」
と聞き返した。本当は全て知っていたが、全く知らないことにしていたのだ。
「はい。仕事でヨーロッパに行くとどなたか知りませんが連絡を頂きまして、それが一月後に遺体で戻ってきまして」
「それはお気の毒に。もう落ち着かれましたか」
「はい」
「男手を亡くされて淋しいでしょ」
「いえ、最近堀口拳と言う方が時々会ってくれまして、いろいろ相談相手をして下さいますから大丈夫です」
「堀口拳さんと言うと、前に婚約されていたとかおっしゃる堀口君の弟さんですか」
「はい。そうです」
剣持は堀口拳のことを頭の隅に記憶をしておいた。
そうこうする内に林菓房に着いた。母の貴恵が出てきて、結婚式の非礼について謝った。
「もう過ぎてしまったことですから」
と剣持は怒った顔もせずに貴恵の謝罪を受け流した。
どうしたことか、晴菜は別れ際剣持にしがみついて離れようとしなかった。それをいいことに、剣持も晴菜を抱いてあやした。
「さっ、晴菜ちゃん、ママの方にいらっしゃい」
そう言って晴子は剣持の手から晴菜を引き取った。
剣持が乗った軽自動車のエンジン音が遠ざかると、貴恵と晴子は店に入った。
「晴菜ちゃん、剣持さんが気に入ったみたいだわね」
と貴恵。
「そうなのよ。この子、男の人に抱かれるのが嫌いみたいなのに、剣持さんには直ぐなついちゃって」
剣持は山田龍一のオフィスを訪ねて、林菓房と茶道教室の上海進出のことを報告して了承を得た。
「いいアイデアじゃないか。これからの時代は中国市場は大きくなるから、今から地盤を作っておくのはいいね」
山田は賛成してくれた。
「つかぬことですが、伝さんのとこで二年前始末した堀口伸の弟の拳をご存知ですか」
「ああ、よく知ってるよ。僕のとこのライバルだよ。彼は、何と言うか相場の流れを見る勘に切れがあってね、思い切りもいい。こっちが危ないと思って待ちをしている間に、大きな資金をドンと投資するんだが、これが見事に的中して時々やられてるよ」
そう言って山田は笑った。
「だから、彼はまだ若いのにもう部長まで行ってるよ。彼、僕のとこでもらいたい位で、以前水を向けてみたんだが、一向にこっちを振り向かなくてね」
山田は残念そうな顔をした。
「業界の噂だが、彼には相当の資産家がバックに付いているそうで、会社の信頼も厚いらしいよ」
剣持は山田の話を聞いて、一度会ってみたい男だと思った。晴子が最近付き合っている様子なのが気になってもいたのだ。
中国人の陳さんの指導で、あれこれ準備をしている間に、二ヶ月間があっと言う間に過ぎた。
晴子は昼食の準備をしていた所、どうしたことか、急に気持ちが悪くなり、吐きそうになった。それで、直ぐに気付いた。
「拳さんの子供が出来ちゃったな」
晴子は一人で呟いた。
その日の夕方、産婦人科に行ってみた。やはり、
「ご懐妊です。おめでとうございます」
と言われてしまった。
それから間もなく、拳と上野の都立美術館に行った。晴子は思い切って拳に打ち明けた。
「あのぅ、あたしのお腹に赤ちゃんができたみたい」
「えっ?」
拳は突然なので驚いて聞き返した。
「あなたから頂いた赤ちゃんがここに」
と晴子はお腹に手を当てた。
「そうか、出来たか。僕の子供だよね」
「はい」
「じゃ、お身体を大事にして産んで下さい。産まれてくる子供が父親無しじゃ可哀想だから、こんな言い方は失礼だけど、この際結婚してくれませんか」
「……」
晴子は突然だったので直ぐに返事ができなかった。まさか、こんな形で拳に求婚されるとは予想してなかったのだ。
「少しの間、考えさせて頂けませんか? それからちゃんとお返事をします」
晴子は二、三日拳との結婚のことを考えさせてもらうことにした。
「お考えになられた末、お返事がNOなら諦めますが、赤ちゃんは絶対に産んで下さい」
「はい」
晴子は拳に体を許した時から、妊娠するかも知れないと思っていた。晴菜と丁度三歳違いになるので、もしも妊娠したら、拳の子供を産みたいと思っていた。いえ、拳の子供ではなく、気持ち的には堀口伸の子供だと思って産みたいと決めていた。
晴子はこの二日間、拳との結婚について真剣に考えていた。晴子が出した結論は、拳と結婚はしないで、産んだら自分独りで育てることにしたのだ。
「晴菜のこともあるから、結婚してしまってから、万一また邪険にされたら晴菜が可哀想ばかりでなくて、自分が耐えられないと思うなぁ」
晴子はそんなことを考えつつ、シングルマザーで通すことに決めたのだ。
自分の考えがまとまると、深夜に晴子は拳に電話をした。だが、拳はまだ帰宅していないようだった。夜中の三時頃拳から、
「こんな深夜でごめんね。電話を頂いたようなので」
と電話をしてきた。
「はい。先日のお話のお返事を伝えたいと思いまして」
拳は急に弾んだ声になった。
「もちろん、OKだよね」
「いえ、それが、晴菜のこともあるし、悩んだ末、あなたから頂いた赤ちゃんもあたし一人で育てたいと思いまして。拳さん、ごめんね。拳さんから赤ちゃんを頂いたのはすごく嬉しいです」
晴子は自分の気持ちを正直に話した。
「晴菜ちゃんなら自分の子供として大切にするよ」
「でも……」
「分った。じゃ、こうしよう。僕は遠くから見ているとして、せめて養育費くらいは出させて下さい。それと、少し大きくなったら、たまには会わせて下さい」
晴子はそこまで考えてくれる拳の気持ちが嬉しかった。それで、拳の申し出を受けることにした。
百三十七 晴子と真由美
拳の子供はお腹の中で育ちつつあった。晴子は晴菜を出産後自分のボディケアをしている暇がなかったのは言い訳で、剣持との結婚話に続いて、武雄に略奪されて結婚してしまって、気持ち的に自分のスタイルまでかまっている気持ちの余裕がなかったのだ。晴菜は産まれた時の体重が3,250グラムだったが、最近のデータでは平均3,000グラムなので、平均を遥かに越える大きな赤ちゃんだった。それで、出産に時間がかかったばかりか、出産後型崩れしてしまった自分の容姿がなかなか元に戻らずに、ようやくましな体型に戻ったのは出産後一年以上も過ぎていた。
産婦人科の医者は、
「今迄、小さく産んで大きく育てて下さいと指導してきましたが、母親が妊娠中ダイエットをなさると、小さく産まれてきた赤ちゃんは大きくなると成人病に罹り易い研究報告があり、今では、母親にダイエットをしないようにご指導しており、赤ちゃんはお腹の中で大きく育てて下さい」
と言った。晴菜の時は、初産でもあり、妊娠中ダイエットするなどとは考えてもいなかったが、出産後の型崩れのイメージが脳裏にこびりついていて、今回は出来るだけ自分のシェイプにも気を使おうと考えていた。
晴子は、拳の子供を懐妊したことや、シングルマザーとして独りで育てることにしたことを、姉代わりの真由美にも報告しておこうと思い、真由美の都合を聞いて、中目黒の真由美の会社を訪ねた。
「あら、しばらくだわね。すっかり元気になったようね。顔とかスタイルが元通り綺麗になったわよ」
真由美も晴子の変りように直ぐ気付いた。真由美は昨年末林菓房の取締役会で晴子に会った時は、人が変わったようにやつれた晴子を見て心配していたのだ。
そう言う真由美はアラフォー世代で四十を少し越えていたが、まだ三十代後半と言っても全く疑われないほど体型が綺麗だった。
近くのカフェに入って、晴子は真由美に武雄の死亡の顛末、その後初恋の人、堀口伸の弟の拳との遭遇、何度かデートをして、拳の子供を懐妊、拳とは結婚せずに独りで育てるつもりだが、拳が養育費を出させて欲しいと言う条件を受け入れたことなどを報告した。晴子が話をしている間、真由美は黙って晴子の話を聞いていた。
「あなたも、ついてないわね」
真由美はようやく口を開いた。晴子は、武雄の話をしている内に、知らず知らず過ぎ去った苦しみが思い出されて、目から涙がこぼれ落ちた。
「でもね、あなたが二人目の赤ちゃんを独りで育てるって話は賛成よ。堀口拳さんが養育費を出して下さるなら理想的ね。晴子ちゃんがもう一人子供が欲しかったこと、出来ればご自分の思い出を温めて育てて行けること、最初のようにレイプされて授かった子供と違って、今度は自分で積極的に受け入れた拳さんの子供でしょ。色々考え合わせると理想的よ」
真由美は心から晴子の生き方に賛成してくれた。
「あたし、真由美さんにそう言って頂けて、本当に自信が付いたな」
晴子は自分の姉代わりとして、自分の気持ちを良く理解してくれる真由美がますます好きになった。
「母親になるあなたが、堀口拳さんの子供を産みたいと思って、多分拳さんはあなたにご自分の子供を産んで欲しかったのね。そうして産まれてくる赤ちゃんは幸せよ」
真由美は自分の息子のことと重ね合わせて今晴子のお腹に宿った子供は幸せだと本当にそう思った。
真由美と話を終わって、晴子は目黒の自分のマンションに戻った。
晴子は真由美に賛成してもらって、なんだか自信が湧いてきたし、気持ちもスッキリした。
留守デンに生命保険会社から連絡が入っていた。[明日お目にかかりたい]と録音されていた。
それで、翌日留守デンを入れた女性の指定した場所に出かけた。
「亡くなられたご主人の、死亡生命保険金ですが、会社で検討致しました結果、全額お支払いさせて頂くことになりました。警察の司法解剖結果、体内から薬物が発見されておりますので、特別給付などは一切出ませんが、ご了解頂けますか」
晴子は死亡保険金も出ないだろうと思っていたので、
「はい。了解致します。よろしくお願いします」
と答えた。
間もなく、掛け金の五千万円が晴子の口座に振り込まれた。晴子は半分は晴菜の養育費として貯金をして、残りの半分を銀行振り出しの横線入り小切手にして、新潟県村上市に住む武雄の父楢崎武志様宛てで書き留め便で送った。
晴子の報告を聞いてやったその夜、真由美はお風呂に入って、温めの湯船に浸かりながら、晴子が心を許した堀口拳の話を思い出していた。晴子の気持ちを察して、
「男についてないわね」
と言ったが、考えてみると、自分も九鬼清二の子供を授かってから、彼にはその後一度も会ってないし、今更会うつもりもないが、男にはついてなかった。
真由美は歳を取ったと言ってもまだ四十歳を少し過ぎた所で、世の中ではアラフォーなどと言うが女盛りだ。今迄、父の工務店を引き継いで、荒っぽい男達の中で、弱みを見せないように、我武者羅に仕事一途に頑張ってきたが、この歳になって、寂しい時もあるのに気付いていた。晴子の堀口拳のように、自分にも心を開いて受け入れられる友達以上の関係になれる素的な男が欲しいと思ったのだ。結婚はする気はないし、子供を産む歳は過ぎた。だから、たまに恋人のように楽しい一時を共に過ごしてくれるだけでいいのだ。
「そんな男がいないかなぁ。でもなぁ、妻子持ちじゃややこしくなるから、一人身の素的な奴……アハハ、無理かぁ」
そんなことを考えていると、不思議と益々男が恋しくなるのだ。
「やはり、自分も女なんだ」
普段は男のように飛び回っているが、時には可愛らしい女にもなって見たいと思った。
剣持は、晴子の恋人だった堀口伸の弟、堀口拳に一度会ってみたいものだと思っていた。だが、晴子に話を持ち出すわけにも行かず、山田の線の仕事がらみでも接点はなかった。
「まっ、いいか。その内何かの縁で会えるまで待つか」
剣持はしばらく今のトレメンド・ソシエッタの仕事に専念することにした。
林菓房の上海進出の計画は順調に進んで、既に二回、試験的な出荷を終わっていた。陳さんから連絡があり、茶道教室は好評で、会員が増えてきたと言っていた。それで、晴子は近々祐樹と部下の近藤の二人を上海に出張させようと考えていた。陳さんの計画が予定通りに進めば、今の工場では製造能力に限界があるので、新たな工場用地を見つけて新工場の建設に着手せねばならなかった。そんな、こんなで、瞬く間に新年を迎えることになった。晴子のお腹の中の赤ちゃんは順調に育って、晴子のお腹もぷっくりと膨らんできた。拳とはその後もたまに会って息抜きさせてもらっていたから、今の晴子は幸せだった。晴菜もすっかりお姉ちゃんらしく、可愛らしくなってきた。
百三十八 真由美の恋 Ⅰ
東京都世田谷区役所の職員をしていた藤堂弘樹は、区役所に近い所にあった畑を借りて宅地に転用、小さな平屋を建てて今迄住んでいた近くの借家から移り住んだ。昭和三十年早々の当時はこのあたりは畑が多く、農家は広い屋敷に住んでいたので、藤堂が借りた八十坪弱の敷地に建てた家は畑の中にぽつんと建った一軒家で、周囲の屋敷に比べると、とても小さく見えた。藤堂はそこで妻の弥生と一人息子の弘一と三人でつつましく暮らし始めた。
家の近くには、ちょっとした森があり、そこに彦根藩主井伊家の菩提寺、豪徳寺があった。弘一は子供の頃、この豪徳寺の境内で良く遊んだ。
弘一は、高校を卒業すると目黒区大岡山の東京工業大学に進んだ。父は区役所の職員で暮らしは地味だったから、弘一はこれといった遊びもせずに大学の四年間を平凡に過ごし、大学を卒業すると、都内のN電機本社に入社して、ずっと技術畑を歩くことになった。
N電機に入社して三年間過ぎたとき、同じ会社の総務部に勤務していた高卒の岩崎泉美と知り合い、二十五歳の時に結婚、一人息子だったので、弘一の両親と四人で暮らすこととなった。直ぐに長男の健一が誕生して、続いて二年後に長女の美和が誕生した。子供たちが大きくなるに従って家が手狭になり、二部屋増築した。
弘一が四十歳になった時、妻泉美は子宮ガンの手当てが遅れて転移が進み、半年後に他界してしまった。当時中学生だった子供たちは母の弥生が母親代わりをしてくれたので、弘一は安心して会社勤めを続けることができた。だが、妻が他界して一年後に父が他界し、続けて翌年母も他界してしまったので、まるで毎年葬式を出すような始末だった。母が他界した年に、弘一はN電機の生産技術部長に昇進、仕事が多忙となり、家事はもっぱら高校生の娘美和に押し付けてしまうようになっていた。
不幸が続いてばたばたしている間にあっと言う間に年月が過ぎ、弘一は既に四十六歳になってしまった。息子の健一は父の技術畑には進まずに、慶応大学の経済学部に進んだ。娘の美和はまだ高校生で受験勉強中だ。
子供たちが大きくなってきたので、老朽化した親譲りの家を建て替えようと思った。それで、弘一は大学時代の友人で建築工学を専攻した大谷と言う男に適当な工務店を紹介してくれないかと頼んだ所、
「中目黒で代々工務店をやっている古谷工務店に頼んだらどうだ」
と教えてくれた。それで、日曜日のある日、友人の大谷と一緒に工務店を訪ねて、社長の古谷真由美に会って、家屋の建て替えの相談に乗ってもらった。
間もなく古谷工務店からディテールに添えて概算見積書が届いた。費用は付帯設備その他一切を含めて約三千万円だった。弘一は妻の生命保険金に預金を少し足して、見積もり通りで進めてもらうことにした。手元には両親の生命保険金も手付かずで預金してあったから、資金面では全くの心配はなかった。
弘一は大谷に、
「見積書が届いたよ。僕は専門でないから、良く分らんなぁ。今度時間のある時に飲みながらでいいから、ちょっと目を通してくれるとありがたいんだが」
と電話した。
「お安い御用だ。けどなぁ、飲み代はおまえのおごりだぞ」
と返事がきた。
「もちろんOKだ」
それで、翌週の休日に新宿で落ち合うことに決まった。
休日の夕方、西新宿の住友三角ビル五十階のワインバーで弘一と大谷はワインを飲みながら、先日古谷工務店から届いた見積書を見て大谷の意見を聞いていた。
「正直に言って、かなり良心的な見積もりだな。金を出す方から見ると高けぇなぁと思うだろうが、細かく見ると、この設計だと他ではこの見積もりじゃ引き受けてくれんぞ」
「そうか。君に紹介してもらって良かったよ。エレクトロニクスのことなら大抵分るんだが、建築の方は全然分らんからなぁ。助かったよ」
「アハハ、今日はあんたのおごりだから、高いワインを飲むぞ」
大谷は冗談まじりに満足げな顔をした。
「所で、あんた今独身だろ?」
「ん。コブ付きの独身だ」
と弘一は笑った。
「実はな、あの古谷工務店の社長、独身なんだ。あっちもコブ付きだけど」
と大谷も笑った。
「どうだ、この前会った時、美人だったろ」
「ああ、綺麗な人だったな」
その後、二人は真由美の話を肴にしばらく飲んでから別れた。弘一は改めて先日会った真由美の姿を思い出しつつほろ酔い加減で、小田急線に乗って帰宅した。
百三十九 真由美の恋 Ⅱ
もう五年も前の話だ。鴇田幸次郎は夕暮れ迫る富士スピードウェイに立って、コースの路面の様子を入念に見ていた。明日は最後のレースが予定されていた。鴇田は、大学の工学部を卒業すると、子供の頃から大好きだった車の世界に入った。レーシングカーの技術開発と設計だ。実用車と違って、この世界は極端に言えば一秒を争う世界だ。なので、エンジン、ボディ、足回りなど空気抵抗との戦いもあった。
鴇田が入社したレーシングカー開発専門の会社は入社当時は社員一同大きな夢を持って仕事に取り組んでいた。だがしかし、度重なる不況で次々とこの世界から撤退する企業が出て、五年前に鴇田もレースのバックアップの最後の仕事を終わると仕事からあぶれてしまった。つまり失業だ。特殊な世界に身を置いていたので、転職するにも、いわゆるつぶしが利かず、良い仕事はなかなか見付からなかった。以前から毎年年明けに始まるダカール・ラリー、通称パリダカのバックアップサポーターの仕事を続けさせてもらっていたが、これとて毎年一回なので、これだけではマジ食って行けないので、オフの時は雑誌への寄稿や広告代理店の下働きをして食いつないでいたのだ。それでも、鴇田は大好きな車の世界から離れられないで居た。
鴇田には、東京工業大学時代から仲良しで、若い頃は週一で飲み歩き、今でも年に一回か二回一緒にメシを食ったりする親友がいた。
鴇田は車の世界に飛び込んだが、親友の藤堂弘一はエレクトロニクスの世界に飛び込んだ。現代のF1レースは走行中車両の調子を示す細かいデータを取り、コンピュータで解析してフィードバックする仕組みが普通なので、鴇田はしばしばデータ処理について、親友の藤堂から教えてもらったりしていた。
その藤堂から最近、
「オレ、家を建て直すことにしたよ」
と連絡があった。鴇田は若い頃は車に夢中で、最近は収入が安定しないと言うか、ありていに言えば食えないので、未だに独身だった。女友達は居るには居るが、元レースクィーンをやってた女の子とか、兎に角皆若い。
鴇田は若い頃両親を亡くし、今は親が残していった東京都豊島区の板橋にある旧い家に一人住まいしていた。羽振りの良かった頃には、先のことも考えずに、女の子と遊びまわったことが多かったが、今は重度の金欠病を患っていて、遊んでいる余裕はなかった。
藤堂は鴇田と会うのが楽しみだった。彼は海外で過ごした期間が長く、話題が豊富で長時間話を聞いていても飽きることがなかった。
藤堂は古谷工務店に新築を頼むことを決めて、契約した。通常は最初に三分の一、建前を終わってから三分の一、完成時残りを支払うのだが古谷真由美は、
「着工後三ヶ月位で完成しますから、完成した時に全額お支払い頂いて結構です」
と言った。二階建てで、総建坪は約五十五坪だったので、大谷が言った通り坪単価は高くはなかった。手持ちの土地は八十坪弱あったから、駐車場部分を差し引いても、小さいながら庭も残せた。最近長女の美和がガーデニングに興味を持ち、少しでもいいから、庭を残してくれと主張したのだ。
契約を終わって帰りがけに、
「つかぬことですが、藤堂様はゴルフのご趣味はありますか」
と古谷真由美に聞かれた。
「はい。ほんの少しだけ。接待ゴルフに刈り出されてもなんとかついて行ける程度です」
と恥ずかしそうに答えた。ゴルフの話はそれ以上は何もなかった。
古谷真由美は、若い頃から松山千夏と言う友達が居た。千夏は若い頃一度結婚したが、亭主と性格が合わずに直ぐ離婚した。離婚後、生活に困って、幼い頃から修行した裏千家の茶道と池坊流の華道を教える教室を自宅に作って、それで生活費を稼いだ。
良家の子女が多い街だったので、開業後、生徒数が順調に増え、自宅の教室が手狭となり、近くのビルの一室を借りて教室を拡大した。それが成功して、今では大勢の弟子を抱える教室を運営していた。千夏は茶道・華道教室が軌道に乗った時、息抜きのため、時々新宿のホストクラブに通ったことがあった。
そこで、剣持と言う男に知り合い、剣持とは今でも体の関係が続いていた。その剣持に頼まれて、和菓子を目黒の林菓房から仕入れることになった。だが、以前代金が支払われていないと言う問い合わせを受け、それがきっかけで、仕入先を変えてしまったことがあった。それを元に戻して欲しいと林菓房の取締役、林晴子が何度も詫びを入れ、彼女に熱心に頼み込まれて、今では旧来通り林菓房から和菓子を仕入れていたのだ。
松山千夏は、剣持の話はもちろんのこと、林晴子のことも真由美に一切話をしていなかったので、真由美が剣持や晴子と関係があるなどとは夢にも思わなかった。
若い頃はともかく、男も女も三十歳半ばを過ぎ、四十代になると、恋をしたり、異性と親密な関係になることに臆病になりがちだ。それは、長いと言えないまでも、男女の付き合いなど色々な苦労が教訓になって、気持ちが慎重になるためかも知れない。
百四十 真由美の恋 Ⅲ
「おい、今度の日曜日、一日体を空けられないか」
「突然何だよ。何かあったのか」
「別に大層なことじゃないんだけど、ゴルフに付き合ってもらいたいと思ってさ」
「ゴルフかぁ。しばらくやってないけど、気持ちが引かれるなぁ。けど、オレはダメだ」
「予定があるのか?」
「いや、金欠病でさ」
「なら心配するな。接待される方だ。諸々の費用はオレが全部持つよ」
「アハハ、頼れる奴は親友だけだな」
「じゃOKでいいんだな」
「親友の心配を無駄にはできんだろ」
藤堂からの電話に鴇田は笑った。
古谷工務店の社長、古谷真由美は藤堂を紹介してくれた大谷とお客様の藤堂を招いて夕食を共にしていた。
「この度は、私共を選んで下さってありがとうございました。大谷さんにはいつも良いお客様を紹介して頂いて助かっているんですの」
真由美は大谷の方を見た後、藤堂に向かって頭を下げた。
「おい、大谷、美人の社長さんを応援するなんて隅に置けんなぁ。いや、これは冗談で、今回お見積もりを見て、彼に説明をしてもらって、そちらの良心的な所を気に入ったんですよ」
「ありがとうございます」
真由美はまた頭を下げた。
「所で、藤堂様、木造建築は九月頃に建てるのが季節的に良くて、寒い時期と梅雨時は避けるのが常識なんです。ですから、三月、暖かくなってから着工させて頂いてもよろしいですか」
「そうなんだよ。最近は儲け主義で季節にお構いなく家を建てる工務店が多いんだが、木材は天然の素材だから、生き物と同じで気候を考えて建てなきゃならんのだよ。特に木組みなどは温湿度の影響があるから、木材にとって一番良い季節があるんだよ」
大谷が専門の立場で説明を加えた。
「藤堂様はご多忙と思いますが、一日ゴルフをなされるお暇はありますか」
真由美が藤堂の都合を聞いた。
「大谷も一緒か?」
と藤堂は大谷に聞いた。
「いや、今回はオレは止めとく。おまえさんの別の友達を誘ったらどうだ」
大谷は辞退した。
「そうですね。次の日曜日ならなんとか」
と藤堂は真由美に答えた。
「実は古谷さんは神奈川県西部にあるゴルフクラブの会員権をお持ちで、たまにお客様を誘ってゴルフをなさるんだよ」
「そのクラブなら僕も知ってますよ。とても良いゴルフ場です」
と大谷に藤堂は答えた。
「会員権は親譲りですから」
と真由美は遠慮がちに付け加えた。それで、次の週に決まった。真由美は自分の友達を一人誘うので、藤堂には殿方のお友達を一人誘って連れて来てくれと言った。真由美は親しくしている松山千夏を誘うつもりでいた。
次の日曜日、夫々別々に直接ゴルフ場に集まる約束となった。藤堂と真由美と千夏が三人揃ってクラブハウス前の駐車場で待っていると、ドドドッと鈍い音を立てて、珍しいクラシックカーが駐車場に入ってきた。藤堂が手を挙げると、サングラスをかけた格好のいい中年の男が車上で手を振った。どうやら幌を外して、オープンで走って来たらしい。
お互いの紹介を終わると直ぐに着替えてコースに出た。
プレーが始まると、上手下手が直ぐに判明した。上手かったのは鴇田だ。続いて真由美、藤堂と千夏は同じような感じだった。だから、鴇田と真由美が先に行って、後の二人を待つような感じになった。
「会社の社長でおられて、主婦されてる方が、休日の昼間からゴルフでも大丈夫なんですか?」
待っている間に鴇田は真由美に聞いた。
「今日もお仕事ですから」
と真由美は笑った。真由美は鴇田を女の目でちゃんとチェックしていた。四十歳半ばにしては、身体に脂肪が付いてなくて、クラブを振り下ろす腕は筋肉質でスタイルが良かった。グリーン上で芝目を見る感覚もなかなかだ。
二人は待っている間を利用して、色々な話をした。鴇田は真由美が思った以上に博識で、話は聞いて楽しかった。最初から乗ってきた車に脅かされて、それで点数を稼がれ、プレーを始めると真由美の一歩先を行く腕前で点数を稼がれてしまった。
一方、藤堂と千夏はおしゃべりを楽しみながらプレーをしているようで、なかなか上がってこなかったが、気が合っているように見えた。
プレーが終わって、シャワーも終わって、四人はクラブハウスの筋向いにあるレストランで少し遅い昼食となった。相模湾で獲れた地魚料理で有名な和食レストランだ。藤堂が寿司を選んだので、皆が寿司にした。
「おまえ、まだあのポンコツを転がしてるんだな」
「ポンコツとは失礼だな。あれだって天下のベントレー様だぜ」
鴇田がやり返した。
「良く高速を走ってこれたな」
「大丈夫。オレさまがちゃんと部品交換して高速でもバッチリと走れるようになってるんだ」
鴇田は車の話になると熱が入る。
「ご自分で整備なさるんですか」
と千夏が聞いた。
「彼ほどの車キチガイには今迄会ったことがないほどで、全部自分でやらないと気が済まないようですよ」
と藤堂が鴇田の代わりに答えた。
「ベントレーは日本ではあまり見ませんね」
と真由美。
「そうなんですよ。車はいいのですが、高くてね。今の新車だと良いやつで二千万から四千万円もしますから、なかなか買えません。ベントレーは元々英国の高級スポーツカーのメーカーで、女王陛下の愛車もベントレーでしたが、最近ドイツ資本に買い取られて面白くなくなりました。僕のは旧いですが、英国製です」
「旧いって何年製ですの?」
と千夏が興味深々で聞いた。鴇田はよくぞ聞いてくれましたと言う顔で
「確か一九四五年製だと思いました」
と答えた。
「へーぇ、凄いですね。そんな旧いのが高速道を走ってるなんて」
と千夏。
「友人が持っていたのですが、手に負えなくなりましてね、タダでいいから引き取ってくれと言われまして。整備をしましたらまだまだ乗れます」
車の話しが終わって、皆はバラバラに帰ることにした。
駐車場に出ると、真由美は鴇田のベントレーを見せてくれと頼んだ。鴇田はボンネットを開けてエンジン周りも見せてくれた。内装は本皮張りだが、ワックスをかけ良く手入れされていた。
「よろしかったら、今度これに乗ってドライブしてみませんか」
鴇田は真由美を誘った。
「あら、その手でいつも女性をお誘いになられるんでしょ?」
真由美はからかった。だが、鴇田は急に真顔になって、
「誤解されても仕方がありませんが、女性はめったにこいつに乗せません」
と答えた。真由美はその真剣な眼差しに心臓を抉られたような、何とも言えない力を感じさせられた。
「つまらない冗談を言ってしまってごめんなさい」
真由美は知らず知らず鴇田に頭を下げてしまった。
ドドドッ、鈍い音を立てて、左手を高く挙げてベントレーは去って行った。真由美はその後姿を黙って見つめていた。
「何見てるのよぉ」
千夏の声にはっと我に返った。
「真由美、このまま箱根にでも行って温泉に浸かってから帰らない?」
「温泉? いいわね」
それで、二人はそのまま箱根に向かった。
このゴルフ場からは三十分も走れば箱根だ。
真由美と千夏は露天風呂に浸かって今日の話をしていた。藤堂が奥さんに先立たれて子供たち二人と三人暮らしだと前置きして、
「藤堂様、どうだった?」
真由美が聞くと逆に、
「あなたこそ、鴇田さんはどうだった?」
とやりかえしてきた。
「かっこうのいい男ねぇ」
と真由美は答えた。
「藤堂さんは真面目な方ね。女性に気を遣う所も真面目に気を遣われるから、ずっと居るとかえって肩が凝るかもね」
と千夏が答えた。
「あなたの旦那様にと考えたらどう?」
「真由美、あたしのこと知ってるくせにぃ。あたしは真面目な方はダメね。鴇田さんなら考えてもいいかしら」
千夏の答えを聞いて、
「あら、彼は多分つまみ食いしようとしたら怒るかもね」
と真由美が笑った。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなくね。つまみ食いとバレたら、相手にしてくれないような気がしたな」
真由美が答えると
「へーぇっ、それじゃ、あたしファイトが湧いてくるかも」
と千夏は笑った。
「藤堂様は、ご自分のお家を今度あたしの所で建てて差し上げることになったんだけど、ご自分のお部屋の間取り、将来奥様をお迎えしてもいいように広くとおっしゃったから、再婚を考えていらっしゃるようね」
今日ゴルフを一緒にした藤堂と鴇田の話をながながとしていたが、二人は温泉を出ると無口になった。帰りの方向は同じだが、別々の車なので、二人は温泉旅館を出た所で別行動にして別れた。
真由美は鴇田のことをまだ思い出していた。だが、もしかしたら、千夏が先に手を出すのではないかとも思った。そのことが気がかりになっている自分に気付いて、
「あたしって、何考えていたんだろ」
と思わず一人笑いしてしまった。
その後、一週間が過ぎ、二週間が過ぎたが、鴇田からはドライブの誘いは来なかった。何となく鴇田のお誘いを期待していたが、あの冗談の一言ですっかり彼の気分を害してしまったのではないかと、その気がかりがいつまで経っても消えず、
「一度会って改めて誤らなくちゃ」
とか考えていた。
百四十一 真由美の恋 Ⅳ
情熱家の松山千夏の行動は早かった。彼女はこの男と思ったら、積極的に攻める。男を攻め落とす過程が楽しいのだ。今までも彼女の前で跪ずかされた男は何人も居た。だが、千夏は再婚する気持ちは全くなかった。だから、男が千夏に屈して、今度は千夏を落とそうとしてもなかなか落ちないのだ。そうすると、男は美しい千夏を欲しくて、欲しくて頑張る。千夏はその男の頑張る姿に刺激を感じて楽しむのだ。彼女は恋の駆け引きに至上の歓びを感じるのだ。だから、熱が冷めて男と別れると、また別の男に仕掛けるのだ。
そんな彼女でも、唯一例外があった。剣持だ。千夏は剣持に抱かれるといつも熔かされてしまう。なぜだか未だに分らない。恋が縺れて破綻に至ると、たまにトラブルが彼女に降りかかってくるのだ。ある男は彼女が経営する茶道・華道教室にいやがらせをしたり、またある男は待ち伏せと尾行を繰り返して、彼女の行動を邪魔したりする。千夏はそんな時はいつも剣持にすがって助けを求めた。剣持は不思議な力を持っていて、千夏のヘマを片付けてくれた。そんな頼れる男だから、千夏が関係を続けているのかも知れなかった。恋人でもあり、用心棒でもあったのだ。
千夏はゴルフのプレーが終わった所で藤堂に聞いた。
「藤堂さん、恐れ入りますが、名刺を下さいませんか」
「えっ? 名刺ですかぁ。今日は持ってこなかったなぁ。済みません」
「ではせめてお電話番号だけでも」
この瞬間、藤堂は松山千夏が自分に興味を持ったのかと思った。
「そうだ、思い出しました。車の中に名刺入れがありました。後ほどお渡しします」
結局別れ際に藤堂は会社の名刺の裏に自宅の電話番号を書き加えて、千夏に渡した。
「今日はありがとうございました」
千夏は丁寧に藤堂にプレーに付き合ってもらったお礼もかねて頭を下げた。
翌日の夜、千夏は藤堂の自宅に電話をした。いきなり鴇田の連絡先を聞くわけにも行かず、昨日はとても楽しかったと話した上、
「今度お時間がありましたら、私の茶室にお出でになりませんか? 美味しいお茶を差し上げたくて」
と話した。
「それはありがとう。茶道の嗜みは、全然ありませんから少し恥ずかしいですね」
と藤堂は答えた。
「所で、鴇田様にも一言お礼をと思っておりますので、恐れ入りますが、お電話番号を教えて頂けません?」
藤堂は、
「このまま少しお待ち下さい」
と言って鴇田の電話番号を教えてくれた。
「よしっと!」
電話を切ってから、千夏はにやにやした。
千夏は直ぐに鴇田に電話を入れた。だが、留守のようだった。験しに十回くらい呼び鈴を鳴らしたら、留守電のテープが回った。千夏は自分の電話番号を言って、折り返し電話を頂きたいと告げた。いつも思うのだが、留守電に連絡を吹き込むのが嫌だった。けれど、今回は頑張って用件を吹き込んだ。
翌朝になっても鴇田から何の連絡もなかった。だが、千夏は諦めずに、また電話をかけた。
「なんだ、まだ留守かぁ」
先方でむなしく呼び鈴の音が聞こえるだけだ。
鴇田は、ゴルフから帰った翌日、ネットカフェに泊り込んで、殆ど徹夜で雑誌の原稿を書き上げた。ようやく書き終わると、それを持って夕方雑誌社を訪ねた。鴇田より年の若い担当の編集者は、鴇田の原稿にさっと目を通して、
「鴇田さん、これじゃ全然ダメですよ。こんなもんで読者が読んでくれると思いますか」
編集者はねちねちと散々嫌味を言って原稿を鴇田に突き返した。
「締め切りは明日ですよ。遅れたら他の記事で埋めますからね」
と脅しもかけてきた。鴇田はムカムカしたが、この原稿料が入らないと生活に響くので我慢をした。若造の編集担当の男に頭を下げるのは腹が立って仕方がなかったが、これもぐっとこらえて頭を下げてきた。
「もしもし、電話を頂いたようですが、何かご用ですか」
千夏がやっと鴇田と電話がつながったと心を躍らせていたのに、先日とは打って変わって鴇田の電話の声は冷たかった。
「いえ、たいした用ではないのですが」
と千夏。
「でしたら、二、三日してからかけ直して下さい」
鴇田のぶっきらぼうな返事に千夏は驚いた。実際、この時、鴇田はたいした用もないのに、女と電話をするような気分ではなかったのだ。
千夏は負けてはいなかった。二日後、性懲りもなく、また鴇田に電話を入れた。
「先日のゴルフはとても楽しかったと一言お礼を言いたくて、それに鴇田さんのお声ももう一度聞きたかったですし」
鴇田は書き直しの原稿をあのクソヤロウに渡して散々嫌味を言われてなんとか今日は引き取ってもらって戻ったばかりだったから、まだ頭から湯気が昇っているような心境だったのだ。それで、
「そうでしたか。それはよろしかったですね」
と言って電話をガチャンと切ってしまった。千夏はもちろん、鴇田の気持ちを分かるはずがなかった。
「思ったより随分な男だなぁ。愛想の悪いやつ」
千夏は今迄男からこんな愛想の悪い電話をもらったことがなかった。
あれから二日経って、千夏はまた鴇田に電話を入れた。
「また冷たくされたら、止めるぞ」
と独り言を言いながらかけた。
「はい。鴇田です」
どうやら、今日は落ち着いた感じで返ってきた。
「お忙しいですか? お邪魔でなければ、お茶でもしませんこと?」
千夏はこれぞ猫撫で声と言わんばかりの甘い声を作って誘ってみた。
「僕の家の近くのコーヒーショップでよろしければ」
千夏は、
「しめた!」
と思った。
「近くと言うとどちらですか」
「ああ、済みません。池袋なら近いです」
千夏は山奥の田舎にでも誘われるのかと思ったら、なんだ池袋じゃないか、それだったら自分の教室が目白にもあるから隣だ。
「わかりました。池袋のどちらに伺えはお会いできますか」
「池袋駅、西部側、パルコの北側の先から歩いて二分程度の所に、皇琲亭、皇帝のこうと琲と書くコーヒー専門店でお待ちします」
それで電話が切れた。
「待てよ、皇琲亭と言えば多分あそこだ」
千夏は以前行ったことがあったのを思い出した。
千夏の自宅は東京都大田区の久が原と言う閑静な高級住宅街の中にあり、教室はメインが洗足池で目白にも小さい教室を持っていた。電話をかけたのが洗足池なので、東急目黒線で目黒に出て、目黒から山手線で池袋に出るので三十分と少しかかる。それを告げる前に電話を切られてしまったから、皇琲亭で待たせても仕方がなかった。
皇琲亭に着くと、鴇田は隅っこのテーブルで雑誌を見ていた。車関係の外国の雑誌だった。
「お待たせしました」
千夏は勧められて向かいの席に座った。
鴇田の話は面白かった。鴇田は先日の雑誌社とのことを話してくれたので、千夏はあのぶっきらぼうな電話の意味を全て理解できて、心の中にあったもやもやが消えてしまった。
数日後に、また鴇田を呼び出して、同じ皇琲亭で話をした。鴇田が、
「ドライブしませんか」
と誘うかと期待したがダメだった。それで、千夏は目黒の茶室に招待した。鴇田は千夏の誘いに気持ちよく応じてくれた。二人は、
「来週の火曜日に茶室でお会いしましょう」
と言って別れた。
百四十二 真由美の恋 Ⅴ
「ちょっといい感じのやつだと思ったんだけどなぁ」
真由美は鴇田から電話が来ないかと心待ちに待っていたが、三週間経っても電話が来ないので、もう鴇田とは縁がなかったと諦めた。
来週から藤堂宅の着工だ。古谷工務店では他にもいくつかの建築を抱えていたから、普段は忙しかった。住宅不況と囁かれて久しいが、長い間に培った人脈のお陰で、受注はそれほど落ち込まず、大切な熟練した職人を解雇せずに何とかやってこれた。着工に先立って、藤堂宅を訪ねて引越しの予定、旧家屋の解体などについて打ち合わせを済ませていた。だが、仕事なので、真由美は鴇田の連絡先は尋ねなかった。
真由美が鴇田のことを諦めてしまったその間、千夏は目白の教室に付属する自分の茶室に鴇田を誘っていた。
約束の火曜日の午後、千夏はきっちりと着物を着て鴇田を待った。鴇羽色の地に小花をあしらった小紋、銀色地に御所柄刺繍の名古屋帯に蘇芳色の帯締めをした着物姿の千夏は一際美しかった。髪は午前中美容室に行って整えて来た。
着物姿の千夏の所作は幼い頃から仕込まれただけあって、これも美しい。千夏は慣れた自分の土俵に鴇田を引き入れて勝負を決めたいと思っていた。車キチガイの鴇田は茶など慣れていないだろうと思った。それで、この雰囲気で千夏は優位に立って、今日こそ鴇田を自分の方に振り向かせてやると張り切っていたのだ。
ややあって、表で茶室を案内する女性の声がした。
「来たなっ」
千夏は一瞬緊張した。
「お邪魔します」
聞きなれた鴇田の声と同時に襖が開いて背の高い鴇田がぬっと現れた。
落ち着いた桜鼠色の江戸小紋、薄勝色(縹)の角帯、古代紫色の紬の羽織りに京紫の羽織紐、手に小巾着を提げ、白足袋姿はまさに伊達男だ。
「この男、会うたびに人を驚かせるなぁ」
顔には出さないが、千夏は心の中でまたしてもやられたと思った。
更に驚いたことに、鴇田は茶道の礼儀作法が身に着いていた。千夏の作戦は完全に挫かれてしまった。同時に、千夏の方が鴇田にすっかり嵌められてしまっていた。
雑談になった。
「この菓子はどこのものですか」
千夏が出した和菓子に鴇田が感心した。
「これは目黒の林菓房と言う和菓子屋さんから仕入れておりますの」
「へぇーっ、素材の良さが良く出ていて、なかなか美味かったです。目黒かぁ、一度訪ねてみようかな」
鴇田はすっかり晴子の所の和菓子に取りつかれたような顔をしていた。
「和菓子がお好きなんですね」
「いや、甘いものはそれほど好きではないですが、美味しい物には敬意を持ちます」
「美味しい女性も?」
と千夏は冗談を言ってみた。
「女性を取って食おうとは考えたことがないなぁ」
と鴇田は笑った。
「着物姿、お似合いですね」
千夏は話を変えてみた。
「ああ、これね、おやじが残していったものです。父は生前着物を良く着ていましたから」
「お父様はどんなお仕事を?」
「学者でした」
結局鴇田は、
「ありがとうございました。ご馳走様でした」
と言い残してあっさりと引き上げて行った。白足袋に草履を履いた後姿も様になっていた。残された千夏はすっかり鴇田の煙に巻かれて気が抜けてしまったようにぺたりと畳に座り込んでぼんやりとしていた。
百四十三 真由美の恋 Ⅵ
藤堂のとても真面目な生活スタイルを見て、真由美は誰か適当な女性を紹介して差し上げたいと思うようになった。藤堂は再婚を考えているようなので、真由美はそれが分ってからは自分の対象からは外していた。
そんなことを考えていたら、灯台元暗し、自分の幼友達で声をかけても良い香川早苗と言う女性がいた。
「あら、真由美、しばらくぶりね」
真由美が早苗に電話をすると、いつもの明るい声が伝わってきた。彼女はずっと図書館勤めを続けていて、太ってはいないが、ぽっちゃり系の可愛らしい顔をしていた。いつも髪をポニーテールにしていたがそれが、晴子のように良く似合っていて、一層可愛らしい感じにしていた。
たまにだが、誰が見ても感じの良い女性なのに、男性との縁がなくて、出遅れてしまった女性はいるものだ。彼女は幼い時から、どちらかと言えば晩生で男性には積極的でなかった。物静かな遠慮勝ちの性格だったからかも知れない。
「実はね、早苗に紹介させてもらいたい男性がいるの。彼は藤堂弘一とおっしゃって、奥さんに先立たれて、今は大学生の息子さんと高校生の娘さんの三人暮らしで、豪徳寺の近くに住んでいらっしゃるの。うちのお客様で、今迄何度もお目にかかってるんだけど、とても真面目な良い方で、再婚を考えておられるようなの。それで、早苗にどうかなと思って」
真由美は早苗を誘って、早速お茶をしていた。
「そうね、会ってみなくちゃ分らないけど、いい方だったら考えて見てもいいかな?」
それで、近々、藤堂を早苗に紹介する約束をした。
「こちら、わたくしの幼馴染の香川早苗さんです」
真由美は目黒に近い白金台の八芳園に席を予約して、藤堂と早苗の顔合わせのため、昼食をセットした。昼食後、
「わたくしは用がございますので」
と真由美は早々に引き上げた。八芳園には広い日本庭園があり、ゆっくり散策するにはとてもよい。
それから、二日ほど過ぎて、藤堂から真由美に電話があった。
「香川さんのことですが、あれから二人でお話をさせて頂きました。言葉が難しいのですが、彼女はとても良い感じで、僕としては自分のイメージにぴったりです。古谷さんにお骨折り頂くのは心苦しいのですが、僕の気持ちを香川さんにお伝え頂いて、もし、香川さんがお嫌でなければ、お付き合いを進めさせて頂きたいのですが」
藤堂はそんな風に伝えてきた。それで、真由美が早苗に伝えると、
「色々ありがとう。あたしも、先方に気に入って頂けたのなら承知しましたとお伝えして下さらない?」
そんな形で藤堂と早苗の交際が始まったようだ。藤堂は、
「この話は、施主と施工者の関係でなくて、古谷さんと僕の個人的な話として頂けませんか? つまりお仕事とは関係なくって意味です」
と真由美に念を押した。もちろん、真由美はその方が良いと返事をしておいた。
真由美が工務店から出がけに電話があった。
「どこから?」
「それが、お名前をおっしゃらないんです」
と言う電話を取った事務の女の子に、
「じゃ、あとでかけるから」
と言い残して真由美はでかけた。帰ってみると、机の上に電話番号を書き取ったメモが残されていた。真由美は番号を見て、
「どこからかしら?」
と呟いた。客先や取引先の番号としては記憶にない番号だった。
「ま、いいか。明日にでもかけてみるか」
真由美は最近多い財テクとか販売関係の勧誘の迷惑電話だと思った。それで、メモを机の上のコピー用紙入れに放り込んで、また次の仕事にでかけた。
翌日も多忙だった。夕方疲れて戻ると、仕事を止めて溜まった家事をこなした。それで、電話のことはすっかり忘れてしまった。次の日の朝、用紙入れに溜まったコピーを整理していると、小さなメモ用紙がはらはらっと落ちた。三日前の伝言メモで、その後何の連絡もなかったので、そのメモ用紙をくずカゴに放り込んだが運悪くカゴの外に落ちてしまった。それで、床に落ちた用紙を拾い上げると、何気なく受話器を取って、メモの番号に電話をかけてみた。呼び鈴が鳴っているようだが、なかなか出ない。電話を切ろうとした時、受話器からかすかに、
「もしもしトキ……」
と返事をする声がした。受話器を握りなおして、
「古谷工務店ですが」
と一応返事をした。
「失礼ですが、古谷さんですか」
と返事があった。
「はい」
と言ったものの、何処かで聞いたような、聞かなかったような、そんな声だった。
「もうお忘れになられても仕方がありませんが、先月ゴルフをご一緒した鴇田と申します」
「……」
真由美は一瞬胸が詰まった。
百四十四 真由美の恋 Ⅶ
「もしもし、鴇田です。今お話してもお仕事、大丈夫ですか」
「はい。ご無沙汰しております。ゴルフの時は楽しく過ごさせて頂き、ありがとうございました」
一瞬言葉を詰まらせた真由美に、鴇田は気を遣ったようだった。
「それで、早速なんですが、古谷さん、お休みできる日はありますか」
「そうですね。日曜日でしたらなんとか」
「次の日曜日のお昼前後、お時間を空けて頂くことは可能でしょうか?」
「はい。大丈夫です」
「では、先日原稿料がちょっと入りまして、それでお昼でも付き合って頂けないかと……」
「はい。喜んで」
「では、十一時にJRの中野駅北口改札口まで出て来て頂けますか」
「はい。伺わせて頂きます」
電話が終わって、真由美はなんか自分でも不思議なくらいに、胸がドキドキしていた。今日が水曜日だから、今度の日曜日は直ぐだ。
その日、真由美はいつもよりちゃんとお化粧をして、Gパンでなくて、スラックス姿で出かけた。
「北口、北口、忘れないようにしなくちゃ」
と心の中で暗唱して出た。十一時少し前に着くと、鴇田は既に待っていて直ぐに真由美を見つけてくれた。
「今日は電車ですか」
「はい。都内は電車の方が便利ですので」
そう言いながら、鴇田は駅近くの四季音 と言うこじんまりとした和食屋の暖簾を潜った。
「いらっしゃいませ!」
店員の掛け声に店内を見ると、こざっぱりとした感じの良い店で、昼のメニューは庶民的な値段だった。
テーブルに向かい合わせで座り、ビールと料理を注文した。
「お好きな食べ物も聞かないで勝手にお連れしてすみません」
開口一番、鴇田は真由美の好き嫌いも聞かずに連れてきたことを詫びた。
「原稿料を頂けたとか?」
と真由美が聞くと、
「たいした金額ではないですよ。実は、今は失業中でして食いつなぐために、時々原稿を書いています」
と言い訳をした。
「あら、失業中ですの? 前はどんなお仕事を?」
「レーシングカーの開発をやってました。開発と言っても小さな会社でしたから、レースのサポーターの土方仕事なんかもしましたよ」
と言って笑った。ちょっとはにかんだような表情が、長身で筋肉質の身体とアンバランスで、それがかえって魅力的だなぁと感じた。 ゴルフをしていた時にはそんなことは一言もなかったのでちょっと驚いた。
「藤堂様とは仲良しですってね」
「はい。同じ大学でしたから、学生時代から遊び友達でした」
「と、おっしゃると東工大?」
「はい。いつも車いじりをしたり、遊んでばかりでしたから、落第すれすれで」
とまた笑った。
「そう言えば車のお話し、楽しかったですよ。乗ってこられたクラシックカーも」
「話題が変わりますが、先日ゴルフをご一緒した松山さんにお茶のご招待を頂きまして、久しぶりに和服ででかけました」
「最近和服姿の殿方、あまり見かけなくなりました」
「はい。電車のなかじゃ、ちょっと恥ずかしいような気がしました。松山さんの和服姿にはとても綺麗で驚かされました」
真由美は千夏の手回しの良さに驚いたし、ちょっとやきもちを感じていた。
「どうかなさりましたか」
「いえ……和服は良くお召しになられるのですか」
「ああ、松山さんにも聞かれました。亡くなったオヤジが普段家の中では和服だったもので、沢山残して他界しましたから、借り物です」
とまた笑った。
「お父様はどんなお仕事をなさっていらしたの」
「西洋史の研究家で、T大で教えてました。鴇田は僕の母方の姓で、オヤジは秀村といいます。戸籍上は僕も秀村です」
「西洋史の研究家が和服愛好家なんて」
と今度は真由美が笑った。
「そう思うでしょ? 僕もそう思ってます」
またと笑った。
「古谷さんは工務店をやっていらっしゃるんですよね」
「はい」
「やはりご専門は建築関係ですか」
「はい。W大学で日本建築史の山中先生とか、建築生産史を小谷先生に教えて頂きました。お二人共、日本建築に造詣の深い先生です」
「所で、古谷さんは絵画にご興味はありますか」
「はい。多少」
真由美は遠慮がちに答えた。
「ウィーンにでかいシェーンブルン宮殿がありますよね」
「はい」
「あそこはハプスブルク王朝が代々使っていた離宮だそうですが、ハプスブルク家が繁栄していた時代は強大なオーストリア帝国で、ハンガリーや今のチェコあたりまでオーストリア帝国の領域だったそうです」
鴇田は父親譲りで多少西洋史の知識があった。
「あの宮殿を見ただけでも、当時の繁栄ぶりが分りますよね」
と真由美が応じた。
「その時代にオーストリア帝国の、今はチェコのあたりで誕生した画家がいました」
「それって、もしかしてアルフォンス・マリア・ミュシャじゃありませんこと?」
「そうです。良くご存知ですね」
「はい。ミュシャの絵、あたし大好きなんです。たまたま当って良かったな」
と真由美は笑った。
「そのミュシャの絵ですが、南青山に専門の画廊があるのはご存知ですよね」
「いえ、知りませんでした」
「そうか、お時間がありましたら、今日これからご一緒しませんか」
真由美は意外な展開に嬉しくなった。
「連れてって下さるんですか? 嬉しいです。是非、お願いします」
「ぎゃらりい自在堂と言う変った名前の画廊です。じゃ、早速出かけましょう」
二人は昼食を済ますと電車で青山に向かった。
画廊には思ったより沢山のミュシャの作品が展示されていた。真由美は久しぶりに好きな絵画を見て感動していた。その様子を鴇田は黙って見ていた。
画廊を見た後に、青山にある洒落たカフェでお茶をして別れた。別れ際に、
「突然お呼び立てしてごめんね。嫌でなかったらまたお茶に付き合って頂けませんか」
真由美はそんな誘いを予期していなかった。内心嬉しくて震えそうな気持ちを抑えて、
「はい。あたしでよろしければ、いつでも誘って下さい」
と返事をした。鴇田は嬉しそうな顔で、
「じゃ、今日はこれで」
と言って真由美が遠ざかり、地下鉄の乗り場の階段を下りるまで見送っていた。その日、真由美は最近なかった、とてもいい気持ちになれた。
百四十五 真由美の恋 Ⅷ
遅いお風呂から上がって、真由美は、鏡の前に座って、引き締めたい二の腕やバスト周りに化粧液を塗った後、身体全体にナイトクリームを塗っていたら珍しく電話がなった。
「もうお休みでしたか? 遅くに済みません」
鴇田幸次郎からだった。
「いえ、今お風呂から上がったところです」
「そうですか。お風邪を引くといけませんから、少し経ってまた電話をしましょう」
鴇田が電話を切ってしまうのを遮って、
「いえ、大丈夫です。何か?」
「いつも、マイペースでごめんね。古谷さん、クラシック音楽のコンサートなんてご興味はないですか」
真由美は学生時代に何度か友達とコンサートにでかけたが、それ以来あまり縁がなかった。けれども、鴇田と一緒なら、それもいいかと思い、
「あら、連れてって下さるんですか」
と聞き直した。
「よろしければ、切符が二枚ありますと言うか、古谷さんが多分付き合って下さるだろうと当て込んで二枚買ってあるんです」
「いつですか」
「来週水曜日ですが、開演時間が夜の七時なので、大丈夫かなと思いまして」
「そうですか。時間を作りますのでご一緒させて下さい」
「場所は初台の東京オペラシティのコンサートホールです。新宿駅で待ち合わせて行けば良いと思います」
真由美は少しワクワクしてきた。
「あのぅ、話しが少し長くなってもかまいませんか」
夜、ゆっくりと好きな人と電話をするなんて誰が嫌がるものかと思いつつ、
「はい」
と返事した。
「実はリストのピアノ奏者として有名なアンドレ・ワッツさんが来日されてまして、是非聴きに行きたかったんです。まだ幼い頃にオヤジが上野の文化会館に世界一と言われていたリスト弾きジョルジュ・シフラのコンサートに連れて行ってくれまして、それ以来、すっかりリストが好きになってしまったんです。ジョルジュ・シフラはもう死んじゃいましたが。いつも僕の世界に勝手に引きずり込んでごめんね」
「いいえ。これからも鴇田さんのペースで構いませんから、誘って下さい」
「リストのピアノ曲は弾くのが難しいそうで、それでリストの曲を上手に弾くピアニストのことをリスト弾きと言うのです。今回のコンサートでは、ピアノ・ソナタ ロ短調、ハンガリー狂詩曲、三つの演奏会用練習曲から第三番 変ニ長調[ため息]それに三つの夜想曲[愛の夢]などですが、多分古谷さんもご存知のメロディーがあると思います」
「楽しそうですね」
正直、真由美はしばらくぶりに素的な夜になりそうな予感がしていた。
水曜日の夕方、六時半に新宿駅西口の地下の交番前で待ち合わせをした。前と同様に鴇田は先に来て待っていてくれた。そこからタクシーに乗ってオペラシティーに行った。大きなコンサートホールは満席で、既に大勢座っていた。真由美たちの席は中央から少し左の方だったが、悪い席ではなかった。
演奏が始まると、鴇田が言っていた通りすごい演奏で、いつの間にか真由美も音の世界に沈められてしまっていた。万来の拍手が鳴り止んだ所で、
「どうだった?」
と鴇田が聞いた。
「いいです。すごくいいです」
真由美は適当な言葉が見付からずにそんな風に答えた。最後まで聞き終わると、他の客と一緒にホールの外に出た。
「今夜は遅いから、新宿で別れましょう。ここから新宿駅までゆっくり歩きませんか」
「はい」
オペラシティーの前の甲州街道を二人はゆっくりと新宿駅に向かって歩いた。もう十一時近いのに、通りはまだ人が沢山行き来をしていた。鴇田は真由美の肩をそっと抱きかかえるようにしてくれた。
「古谷さん、お名前をまだ聞いてなかったな」
「あら、言ってませんでしたっけ」
「はい」
「あたし、真由美です。真実の真に由美と書きます」
「これからは真由美さんと呼ばせて頂いてもいいですか」
「はい。その方が嬉しいです。鴇田さんのお名前も教えて下さらない」
「ああ、僕ですか。僕は幸次郎、幸いに次郎と書きます」
「でしたらあたし、こうさんと呼ばせてもらってもいいですか」
「はい」
それ以来、二人は真由美さん、こうさんとお互いに呼び合うようになった。
フランツ・リストの曲をこんなに真剣に聴いたのは初めてだったが、真由美はすっかりリストの曲が好きなってしまった。
ここのとこ、鴇田に会ってない。それで、千夏はしばらくぶりに鴇田に電話した。直ぐ鴇田が出た。
「お久しぶりです。また美味しいコーヒーでもご一緒しませんか」
千夏はお茶に誘った。
「ありがとう。でも止めときます」
「あらどうして」
「いや、別に理由はないですが、ちょっと……」
千夏はおかしいなと思ったが、無理押しをしなかった。
「あたし、鴇田さんに会いたいの。今度お時間のある時にまたデートして下さい」
千夏は一方的に攻めた。だが鴇田の口からは、
「いちおう心に留めておきます」
と素っ気無い言葉が返ってきた。
「なかなか難しいやつだな。覚えていらっしゃい。その内きっと落として見せるから」
千夏は電話を切った後で一人で呟いていた。先日茶室に招いた時に鴇田にすっかりやられてしまった悔しさをどこかで晴らしたいばかりか、それがもとで、千夏の方がすっかり鴇田に恋してしまったように感じていた。
百四十六 真由美の恋 Ⅸ
「それで、その後、藤堂様とどうなの」
真由美は香川早苗をカフェに呼び出して、藤堂とのその後の様子を早苗に聞いていた。
「それが……」
早苗は顔を赤くして俯いた。その様子を見て真由美はやはりダメだったかと思って、
「元気出してよ。またいい人を紹介してあげるわよ」
と励ました。所が、
「いえ、そうじゃなくて……」
「なによ、はっきり言いなさいよ」
と先を促した。
早苗は決心した顔になり、
「はい。はっきり言います。実は先週藤堂様と婚約しました」
「え~っ?」
真由美は耳を疑った。やっと早苗の顔に笑みが戻ったので、どうやら本当らしい。
縁と言うのは不思議なものだ。生まれて四十年間、男にはまったく縁のなかった早苗が、紹介して一ヶ月も経たないのに婚約をしてしまったのだ。
早苗はちょっと恥ずかしそうにして、話し始めた。
「藤堂さんって、真由美が言ってた通りね。すごく真面目で優しいの。それで、あれから直ぐにあちらのお宅に招待されて、子供さんも一緒に食事をしたの」
「それで?」
と真由美は催促した。
「それで、慶応に通ってる息子さんの健一君はとても喜んで、オヤジはまだ若いからいいんじゃないと言うのよ。でも、高校生の、美和ちゃんって言うんだけど、美和ちゃんは母親が亡くなってからずっと主婦代わりのような存在だったし、まだお母さんの面影が忘れられないらしくて、いいとかダメとかはっきりと言わないの。あたし、藤堂さんを好きになっちゃったから、何とか美和ちゃんのお許しも欲しかったの。それで、少ししてから『二人でディズニーランドに遊びに行かない?』ってお誘いしたら、『いいわよ』ってOKが出たから、二人で遊びに行ってきたの。そうしたら、美和ちゃん、すっかりあたしのこと好きになってくれて、『オヤジをよろしく』だって。あたし、こんな嬉しい思いをしたのは初めてよ」
「そうなんだ、娘さんに好かれて良かったじゃない。あたしも、そこを心配してたのよ」
「それでね、先週藤堂さんに六本木にお食事に誘われて出かけたの。食事が終わってから、ビルの上の方のバーでワインを頂きながら、彼って若い方みたいに顔を赤くして緊張して、『僕と結婚して下さい』ってプロポーズして下さったの。あたし、彼のことを好きになってしまったから、すぐ『いいわ』ってお返事したら、ポケットからこのリングを出してプレゼントして下さったの。その時、あたし嬉しくて涙が出ちゃった」
そう言って早苗は指に嵌めたリングを見せて照れ隠しに笑った。
「良かったじゃない」
真由美は心から早苗を祝福してあげたいと思った。
「プロポーズして下さった時まではちゃんとしてたんだけど、慣れないワインを彼に合わせて少し多く頂いてしまったから、なんかくらくらっとしてしまって。そうしたら彼って同じビルにあるホテルのお部屋を取って下さって、しばらくの間優しく介抱して下さったみたい。あたし、気持ちが悪くなってそのまま二時間位かな? 寝てしまったみたいなの。気が付いたら彼って心配そうに、『ご気分は大丈夫ですか』だって。あたし、また嬉しくなっちゃって、彼がそっと身体を起こしてくれた時、無意識に彼に抱きついちゃったの。そうしたら、彼って、あたしを抱き上げて、キスしてくれて、そのままベッドに寝かせてしばらくキスを続けてくれたの。あたし、なんだか彼に愛されてるんだなぁって実感が湧いてきてしまって彼が、『このまま抱いてもいい?』って言うので頷いちゃったの。あたし男の人に抱かれるなんて生まれて初めてだから、『優しくしてね』と言ったものの、なんか少し怖くて。そうしたら、彼って、大丈夫、優しくゆっくりとしてあげるからって。それで、彼のするままに任せて、あたし、目を閉じていたの。彼は、丁寧に愛撫してくれたわね。あたし、だんだん気持ちが良くなった所で彼と結ばれちゃった。最初は違和感があったけど、してもらっているうちに、すごく気持ちが良くなって、ああ恋愛ってこんなことなんだなぁって初めて経験させてもらったわ」
早苗は一気に話し終わると、ジュースを一口飲んだ。
真由美はずっと聞き役になって、黙っていた。早苗との付き合いは長いけれど、こんなに饒舌に話をしてくれたのは初めてだった。よほど嬉しかったのだと思った。
「それで、結婚式だけど、今お家を新築中だから、完成したら直ぐに結婚することにしたの。藤堂さんは古谷さんには申し訳ないけど、早苗さんの希望があれば、キッチン周りや寝室は少し設計を変えてもいいって言ってくれたから、一度藤堂さんと一緒にあなたに相談したいと思ってるわ。真由美、お願い、あたしのわがままを少し聞いてね。婚約したことは藤堂さんが改めてあなたにご挨拶しますって言ってたわ」
これだけ聞かされたら、真由美は建物の小変更をしてやらないわけには行かないなと思った。
「建物のこと、いいわよ。早苗の希望をちゃんと聞いてあげるわよ」
真由美は一応了解した。
「仲人さんだけど」
「早苗、あたしはダメよ」
真由美はピシャと断った。
「真由美に頼まなくてもいいみたい。実は藤堂さんは今の会社の副社長だった方に可愛がられて偉くなれたんだって。その方、二宮さんとおっしゃるそうだけど、今は相談役ですって。その方に仲人をお願いしたいって言ってたわ」
「そう、良かったじゃない」
真由美はほっとした。
「その二宮さんの奥さんだけど、旦那様よりずっと若くてあたし達より若くてすごい美人だそうよ」
「へぇーっ。そうなんだ」
「所で、真由美、あたしばかりいい思いをさせてもらって、あなたの方、素的な彼は居ないの」
「早苗、知ってるくせに。あたしは結婚はこりごりだから彼はいませんよ~だ」
真由美は鴇田のことは伏せていた。
真由美が工務店に戻ると、
「夜電話を下さい」
と書いて、下に電話番号が書かれたメモが置かれていた。番号を見て、鴇田からだと直ぐ分かった。
夜、彼に電話をした。ややあって鴇田が出た。
「こんばんは。元気にしてますか」
「あたし? あたしは病気している暇を神様が下さらないの」
と真由美は笑った。
「えーっと、真由美さんライブに行く暇を下さいって神様にお祈りしてくれませんか? 僕もお祈りしますから」
「あっ、大丈夫。神様に内緒にして行きますから」
真由美も冗談に合わせた。
「僕より確か三つか四つ年上だけど、丸松敏生ってアーティストを知ってますか」
「はい」
「中野サンプラでライブがあるんだけど、チケットを友達がくれたんだ。それで、嫌でなかったら一緒に行かない?」
「あ、行きます!」
真由美はライブには行ったことがなかったが、丸松敏生は好きだった。そう言えば、鴇田の感じは丸松敏生にちょっと似ていた。サングラスをかけた感じはわりと似てるなぁと思った。
今週の土曜日の夕方だった。鴇田と付き合い始めて、楽しいことが増えた。真由美は急がないでゆっくりと鴇田に好きになって欲しかった。
「恋を急がないで、ゆっくりと、ゆっくりとでいいよ」
真由美は心の中でそんな風に思った。
百四十七 真由美の恋 Ⅹ
中野サンプラへは中野駅北口改札口が近い。真由美は開演時間に遅れないように出かけた。いつもの通り、鴇田は先に来て待っていてくれた。
「こうさん、お待ちになった?」
真由美は初めて鴇田を[こうさん]と呼んだ。
「真由美さん、ご無理をしてない?」
「大丈夫です」
「じゃ、行こうか」
「はい」
会場は見た所アラフォーの女性が多く、若いアーティストのライブのように立ち席でなくて、全員座って聴けるようになっていた。
鴇田と並んで席に着くと、しばらくしてオープニングのメロディーが会場一杯に響き渡って、始まった。
最初は悲しい別れの詩で始まった。真由美は鴇田との関係がこんな風に終わらないようにと祈った。
敏生の詩は何故か切ないけれど、いつの間にか真由美は吸い込まれるように音の世界に身を沈めてしまっていた。僅かに触れている鴇田の腕の温もりを通して、鴇田の胸の鼓動が伝わってくるような気がした。
もう五十歳に近いとは思えない敏生の躍動する歌に浸っている間に最後の歌になってしまった。真由美の恋人になるかも知れない、隣に座っている鴇田も敏生のようにすらっとして格好が良かった。
「終わっちゃったな」
鴇田の独り言に真由美は現実世界に呼び戻された。
「夕食、一緒に食べて行かない」
「はい。ご一緒します」
「この前の和食屋でもいい?」
「はい」
それで、二人は近くの四季音の暖簾を潜った。先日昼間来た時は定食屋のようだったが、夜は割烹のようで、飲み客が多かった。丁度隅の方に二つ席が空いていた。そこに座るとビールと料理を頼んだ。
「今日はあたしがもちますから」
鴇田は失業中と聞いていたから、せめて割り勘にして下さいと何度も頼んだが、鴇田は真由美に負担させなかったのだ。それで、最初に自分が持つと言ってみた。だが、
「そんなこと気にしなくていいよ」
と取り合ってくれなかった。
「実は、今迄失業中だったけど、今度外資系のN自動車の開発チームリーダーを頼まれたんだ」
「あら、良かったじゃない」
この時、真由美は心からお祝いしてあげたい気持ちになった。長い間の失業生活はさぞ辛いだろうと思っていたからだ。
「メンバーは全部で五十名位なんだけど、日本に在住している奴は半分位であとはフランスを中心に海外に散らばっているんだよ」
「へーぇ? それでお仕事が出来るの」
「ん。昔と違って、今はコンピューターで仕事をするから、ネットワークさえしっかりしていれば世界中どこに居ても仕事が出来るんだよ。インターネットを通してテレビ電話で打ち合わせもできるしさ。そうすると二十四時間タイムシェアリングで仕事が出来るから、仕事の進みは昔の倍のスピードで進むんだ」
「環境が随分変ったわね」
「でもさ、人間同士の関係は今迄通りなんだ。なので、少し落ち着いたら僕はマネージャーだから、一年間の三分の一くらいはヨーロッパの各国を回ってチームメンバーと会わないといけなくなるんだよ。なので真由美さんとのデート、ちょっと間が開くこともあるけど、それでも寂しくない」
「あたし、鴇田さんが健康でいらっしゃれば寂しくないです」
この時、真由美は初めて鴇田の気持ちを聞けたような気がして嬉しくなった。自分のことを大切に思ってくれているんだなぁと実感できたからだ。
「チームメンバーに色々な国の方がいらしたら、言葉にお困りにはならないの」
「ああ、昔F1の開発チームを引っ張ってた時もいろんな国の奴がゴチャゴチャしてたから、全然平気だよ。フランス語は流暢ではないけど、技術的な話しって専門用語さえちゃんと押さえれば不便はないんだよ」
と鴇田は笑った。
「それはそうと、今度あなたのとこの棟梁に会わせてもらってもいいかなぁ」
「かまわないけど、どうして?」
「ん。別に理由はないんだけど、一度話を聞いてみたいんだ」
「じゃ、源さん、名前は前川源之助って言うんだけど、話しをしておくわ」
「ありがとう。すまないね」
松山千夏はあれから何度も鴇田を誘ってみたが、会ってもらえなかった。彼女はそんな時悶々としていたが、諦めずにアタックしようと自分を励ました。自分の容姿や女としての魅力には今迄自信があった。けれども、鴇田に限って自分の思うように進まずに悲しくなってしまうのだ。
「あたしの何がいけないって言うの?」
千夏は自問自答を試みたが答えは見付からなかった。思い返して見ると、今迄男にアプローチして自分の思うようにならなかった経験が一度もなかったのだ。だから、振られた時に自分を抑えたり、諦めたりする術を知らなかった。
百四十八 真由美の恋 XI
「源さん、あたしのお友達が源さんと話しがしたいんだって。どうかなぁ」
「お嬢さん。俺でもいいのかい?」
「棟梁と話しがしたいんだって。うちの棟梁は源さんしかいないから、源さんだよ」
真由美は鴇田の話を棟梁の前川源之助に伝えて了解を得た。
「棟梁の源さんの件、いいわよ」
真由美は鴇田に伝えた。それで、鴇田は早速やってきた。手に林菓房の和菓子の折をぶらさげて。
「あれっ? これ目黒の林さんちの菓子だな」
鴇田が挨拶代わりにと源之助に渡すと、源之助は嬉しそうに受け取ってくれた。
「棟梁、林菓房をご存知だったんですか」
「ご存知も何も、あっこの工場はうちで建ててやったんだよ」
鴇田は驚いた。
「それより、こうさん、何で林菓房を知っていらっしゃるの」
と真由美が横から聞いた。
「実は、先日松山さんにお茶室に招かれた時、林菓房のお菓子を出されて、美味しかったので、どこからと聞いて教わったんです。それで、今日林菓房に寄ってきました」
「そうだったんですか。じゃ、源さん、あとをよろしくね」
そう言って真由美は出て行った。
「棟梁、今日は大工道具の話を聞かせてくれませんか」
「大工道具ねぇ。一通り話をすると一日かかるが、それでもいいかい」
「棟梁の仕事の邪魔でなければ、僕はかまわんです」
「そうか、じゃ」
と言って源之助は仕事場に案内した。表の店の間口は広くは見えなかったが、奥に案内されて驚いた。五百坪はあるだろうと思われる広いスペースに材木が沢山立てかけてあり、職人も大勢居た。
源之助は仕事場の隅にある工具室と書かれた部屋の扉を開けて、中に案内した。ここでもまた驚かされた。日本料理の板場さながら、綺麗に整理整頓されていて、壁にずらっと色々な道具が整然と並んでいたのだ。
「先ず、ノコから行くか」
と言って鋸のある場所に移動した。源之助は最初に鯨の形をしたでかい鋸を取ると、
「こいつはな、舟手挽割鋸と言ってな、船大工が使っておったものだが、太い柱なんかを切るには便利なやつだ。だいたいのサイズに切るのを荒仕事と言うんだが、この辺りのノコは全部荒仕事用だ」
「柱や桟なんかを加工するノコは鑼とか挽切を使うんだが、あんたらが普通に見るノコはこの両刃鋸だな」
と言って普通に見られる鋸を見せた。
「同じ両刃でも、こいつは穴挽両刃鋸と呼んでいるやつで、こいつは良く切れるな」
と言って刃が直線でなく湾曲して刻んであるノコを見せてくれた。
「こっちはこまい仕事用だ。こいつは畔挽鋸、こいつは鴨居挽鋸と呼んでるやつで、どっちも鴨居周りの作業用だ」
と面白い形のノコを見せてくれた。
「最近は鴨居挽鋸を使ってる大工は居なくなったなぁ。宮大工は今でも使ってると思うがな」
突廻し鋸、挽廻し鋸など次々と色々な形のノコを見せてくれた。
次に移動した。
「墨付け言う言葉、知ってるだろ?」
「はい」
「大工仕事じゃ大事な道具なんだ」
そう言って墨付けに使う道具を見せてくれた。
「昔は建築現場で墨付けをやることもあったが、今は材木の下加工はここでやってるんだよ。機械部品と同じでな、用材を加工する前に、長さや角度等を計らにゃならんし、部材を現場で組み立てる時は水平とか垂直を見て作業せなならんだろ。現場で間違えないように線引きや合い印を書いたり、組立場所や順序を示す記号を書き込んだりする作業を墨付けと言うんだ。ここらにある道具はみんな墨掛道具だよ」
そう言って、垂直を計る下げ振り、水平を計る水平器の色々な形の物を見せてくれた。
真由美は源さんには煎茶、鴇田にはコーヒーを煎れて持って来たが二人は熱心に話をしていたので、そっと置いて戻った。
源之助は罫引道具、鉋、鑿、錐、斧、槌など次々に紹介してくれた。鉋ひとつ取っても、用途別に種類は多く実に興味深かった。槌の説明をしてくれた源之助に、
「棟梁、玄能と金槌とどう違うんですか?」
と鴇田が聞いた。
「面白い昔話があるんだ。この話は亡くなった旦那の話の受け売りだがね」
と前置きして、
「昔、武蔵の国の那須野というところに殺生石という怪石があったそうだ。この殺生石の上を飛ぶ鳥は落ちて、殺生石に触った獣はたちまち死んだそうだ。それで、玄能という和尚さんが呪文をとなえ大鉄槌で殺生石を砕いた所、それから後は鳥が落ちたり獣が死ぬようなことはなくなったんだそうだ。それで、この時から大きな鉄槌を玄能というようになったと言われているらしいよ。旦那の話だと、江戸時代書かれた[雍州府志]と言う書物にそんなことが書いてあるんだそうだ。だから、玄能と金槌の区別はそれほどきっちりとはしてないね」
源之助の物知りにも感心したが、一口に大工道具と言っても、ここに来る前に想像していた以上に沢山あって、気が付いた時には夜になっていた。
「棟梁、遅くまですみませんでした。すごく面白かったです」
と鴇田は丁寧に源之助に礼を言った。
「あんたも鋭い質問するんでたいしたもんだよ」
源之助はにこにこと鴇田を見た。
鴇田が驚かされたのは、古谷工務店に江戸時代から伝わる道具がいくつか残っていて、今でも実用に使われているものがあることだった。源之助の説明に拠ると、鋼の技術は、古くは中国から古朝鮮の高句麗に伝わって改良され、それが百済を通って日本に伝わったと言われているそうで、明治から昭和にかけて鋼鉄の技術は日本で改良されて、今では自動車用の特殊鋼板は世界一の品質を誇るまでになったんだそうだ。
「源さんとこうさん、うな重を取りましたから一緒に召し上がって下さい」
真由美はうなぎの出前を取って夕食を勧めた。真由美は中学生の息子を呼んで、
「こうさん、あたしの宝物の剛です」
と言って息子を鴇田に紹介した。剛は初対面で恥ずかしそうにペコリと頭を下げて挨拶した。
「さ、剛も一緒に食べようよ」
と言って四人でうな重を食べた。
「お嬢さん、この鴇田さんはたいした人だよ。質問を聞くとだいたい相手の理解の程度が分るもんだがね、鴇田さんはなかなか鋭い質問をなさるんで感心させられたよ」
鴇田は
「棟梁、褒めすぎですよ」
とはにかんだ顔をした。
「剛、鴇田さんはね、ママの大切なお友達だから、覚えておいてね」
真由美は鴇田のことを話しながら息子の顔を見た。剛はうんと素直に頷いてくれた。
鴇田が帰った所で源之助は、
「お嬢さん、鴇田さんはもしかして将来の?」
と聞いてきた。
「あたしは結婚は考えていませんよ。お友達として付き合って頂いてるの」
「そうですか。分りました。何かあればいつでも相談して下さい」
源之助はそれだけを言うと仕事場に戻った。真由美は源之助を時には父親のような相談相手になってもらっていたのだ。
真由美は源之助の話を聞いて、改めて鴇田に尊敬の念を抱いた。
夜更けに珍しく晴子から電話が来た。
「真由美さん、赤ちゃん産まれちゃった」
「あら、おめでとう。拳さんの赤ちゃんでしょ?」
「ええ。彼もすごく喜んでくれて、産まれるまでずっと病院に居てくれたの」
「そう。いつ退院したの」
「今日の午前中」
「男? 女? どっちだったの」
「また女の子」
晴子は嬉しそうだった。
「じゃ、晴菜ちゃんはお姉ちゃんになったわね」
「はい。三つ違いだけど丁度いいかな」
「近い内に見せて頂戴ね」
「もちろんよ」
真由美は晴子が安産で良かったと思った。
どうやら、堀口拳と晴子は上手く行っているようだった。
百四十九 真由美の恋 XⅡ
藤堂弘一が古谷工務店に新築を依頼し、着工してから三ヶ月目に、予定通り完成した。藤堂と早苗が婚約したことは、二人が真由美を訪ねて既に報告を済ませていた。その時に出された香川早苗のリクエストを入れて、キッチン周りや寝室の一部を設計変更したが、早苗の思った通りに綺麗に仕上がっていた。家屋が完成した所で藤堂と早苗は予定通り翌月に挙式する予定で進んでいた。
「藤堂様のお家、完成したんですが、結婚祝いも兼ねて、何か記念品をと考えているんですけど、適当な物が見付からなくて困ってるの。こうさん、いいアイデアないかしら」
今日は鴇田に誘われて、真由美は板橋の鴇田の自宅に来ていた。旧いが大きな家で、庭も広かった。
真由美は花のことは詳しくはないが、庭にはピンクや白、紫や黄色の花が咲き乱れて小奇麗になっていた。それを見て、
「綺麗。こうさん、ガーデニングもなさるんですか」
と聞いた。
「いや、僕はそんな趣味はないよ。十年ほど前になるかなぁ、オヤジが死んでから庭に雑草が生えて、このままだと幽霊屋敷になるんじゃないかと心配になってさ、ご近所で庭弄りのお好きな女性に週一くらいの間隔でアルバイトをお願いしたんだ。僕が失業してアルバイト代が払えなくなるからと断ったら、庭弄りが大好きだから、給金は要らないからこのまま続けさせて下さいと言うもんだから、お言葉に甘えちゃってずっとお願いしてるんだ」
「ご年配の方?」
「家にこられた頃はまだ二十代後半だったから、今は三十代後半だな。真由美さんよりも少し若いかな? あっ、誤解されると困るけど、彼女は主婦でお子さんもおられるから、変な目で見たことは一度もないよ」
と言って鴇田は笑った。真由美は鴇田の言葉を信じようと思った。
鴇田は父が使っていたと言う書斎のような部屋から重たそうな洋書を一冊持ってきた。表紙に[Tiffany]と大きく書かれ、下に小さく[Lamps and Metalware] と書かれた分厚い本だ。
「あら、このティファニーって、あの有名なブランドのティファニー?」
真由美が聞くと、
「そうだよ。ニューヨーク五番街のあのティファニー(Tiffany&Co.)だよ」
と鴇田が答えた。
「ご存知かどうか知らないけど、宝飾店ティファニーは、一八〇〇年代に遡るんだけど、創始者はチャールズ・ルイス・ティファニー(Charles Louis Tiffany) と言う人だそうで、その息子さんのルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany) が、当時エジソンが発明した電球を使って何か創ろうと考えたんだって。そこで、彼は教会なんかに使われているステンドグラスを使って色々なランプシェードをデザインして創ったんだって。当時流行り出したアールヌーボーの波に上手く乗って、ティファニーランプとして大ヒットしたんだって。この本にはね、当時の彼の作品が一杯出ていて、今でもレプリカが作られているんだよ」
鴇田はランプシェードの写真が出ているページをめくって見せてくれた。そこにはレトロ調の素的な作品が沢山載っていた。
「一八八五年ころ以降に創られたフランスのエミール・ガレのガラスのランプは有名だからご存知でしょ?」
「はい。実物を美術館で見たことがあります」
「ティファニーランプはあれとは違うものだけれど、なかなか素的だよ」
「この本の写真を見るとどれも素的ね」
「レプリカはピンキリだけど、米国のティファニーで作られたものでも手が出ないほどじゃないから、藤堂君への贈り物、これなんかどうかなと思って」
「ありがとう。これなら、寝室にでもリビングにでも置けるわね」
それで、真由美は鴇田に見つけてもらって、ティファニーランプを贈ろうと決めた。
帰り際に、玄関で靴を履き終わると、鴇田は真由美の細いウエストにそっと手を回して真由美を抱き寄せて、唇にそっと接吻をした。接吻が終わると、
「N自動車の仕事が忙しくなってきたけれど、なるべく土曜、日曜は休みを取るようにします。これからもお休みの日に付き合って下さい」
と耳元に囁いて、小さな声で
「真由美、好きだよ」
と付け加えた。真由美はこの時、鴇田が自分の恋人になってくれたと確信した。
「ありがとう。じゃ、またね」
真由美は逃げるように鴇田の家を後にした。もしも、このままもたもたしていたら、鴇田の家に逆戻りして、自分がとんでもない行動に出たかも知れないと思ったからだった。
晴子の二番目の赤ちゃんには、両親と堀口拳とに相談して[晴美]と名前を付けた。晴菜ちゃんと晴美ちゃんだ。晴美は順調に元気に育って来た。子供が二人になるとものすごく忙しくなったが、母の貴恵が喜んで世話をしてくれるのと、拳が時々会いに来てくれるので晴子は幸せだった。拳は晴菜も分け隔てなく可愛がってくれたので、今では[おじちゃま]と言ってなついてくれていた。拳とは結婚をしない約束だが、二人の間ではこの話題を避けることが無言のルールになっていた。
林茶房の仕事は、中国の上海進出が次第に軌道に乗ってきて、多忙だった。仕事は広田祐樹が中心になって頑張って進めてくれていた。今では、祐樹は会社にとって大切な人になっていた。
そんな祐樹が、会社の店番をしているお痩せのマキと恋仲になって、先月結婚したが、それを機会に祐樹は岩手県遠野市から両親を目黒に呼んで、両親と同居を始めていた。工場に人出か足りずに、祐樹の二人の姉も林菓房の社員になっていた。つまり、家族全員が目黒に引っ越してきたのだ。祐樹は一生この和菓子屋に勤める気持ちだった。
百五十 真由美の恋 ⅩⅢ
松山千夏は、あれから何回も鴇田に電話をした。だが、最近どうしたことか、夜も昼間も留守の様子だった。
「以前は平日の昼間でもつながることが多かったのになぁ。おかしいなぁ」
千夏は鴇田が新しい仕事を始めたのを知らなかったのだ。
電話をかける毎に、千夏の心の中にはあせりと鴇田を欲しい気持ちが積み重なって、自分でも始末ができないほどになってしまっていた。そんなことはいままでには一度もなかったし、男は何回か会う内に必ず千夏の手に落ちて、後は千夏の思うように操れた。それで、面倒になると、容赦無しに切り捨ててきたのだ。だが、鴇田に限って、押しても引いても自分の思うようにならず、最近は恋い慕う気持ちが強くなって、自分でも頭がおかしくなりそうな時がある。
ここのとこ、千夏は鴇田を想って悶々としていた。日曜日の夕方、やっと電話がつながった。
「もしもし」
やっと相手が出た!
「はい。鴇田でございます」
「……?」
電話に出たのは女性だった。千夏は一瞬胸を締め付けられそうになった。
真由美は受話器を直ぐに鴇田に渡した。相手が女性だったから、聞き耳を立てるなと自分に言い聞かせても、神経はそっちに行ってしまう。
「もしもし、鴇田です」
千夏からだった。
「鴇田さん、意地悪。あたしにも会って下さい」
「仕事が多忙になってきましたから、会うつもりはありません」
「もうっ、冷たいんだから。あたし、鴇田さんを好きになってしまって、もうどうしようもないの。だから、少しの時間でもいいですから会って下さい」
「何度言われてもダメです」
「こんなあたしの気持ち、どうして下さるの?」
「そうおっしゃられても」
「そこに女性がいらっしゃるんでしょ?」
「はい。お客様です」
「お客様には会えて、あたしにはどうしてダメなの?」
「勘弁して下さい。電話を切りますから」
「あっ、お願いっ! 切らないで」
千夏の泣きそうな、いや、既に泣いている声がした。
「ですから、これ以上お話しをすることはありませんから、電話を切ります」
そう言って鴇田はガチャンと電話を切った。鴇田の所はまだダイヤル式の黒電話だった。
真由美の耳に入った鴇田の返事はこうだ。
[もしもし、鴇田です]・[仕事が多忙になってきましたから、会うつもりはありません]・[何度言われてもダメです]・[そうおっしゃられても]・[はい。お客様です]・[勘弁して下さい。電話を切りますから]・[ですから、これ以上お話しをすることはありませんから、電話を切ります]
鴇田は真由美に電話の内容を何も話をしなかった。真由美は、最初に電話を取った時に、
「もしもし」
と電話をかけてきた女の声になんだか聞き覚えのあるような気がしたが、詮索はしなかった。
鴇田は最初にゴルフ場で会った時、松山千夏がこんなしつこい女性だとは全く予期していなかった。今迄五回位お茶に付き合ったが、自分の方から誘ったことは一度もなかった。最初にお茶した時に、千夏の誘うような流し目を、何故かあまり好きになれなかったのだ。それなのに、誘われるままに付き合ったのがいけなかったのだと思った。その点、真由美は誘いの電話をしてきたことは今までに一度もなかった。いつも自分の方から誘った。真由美とお茶をしたり、食事をしたり、ライブに行ったり、短い間に随分会ってきたが、男を誘うような素振りは一度も無く、いつも控え目だった。それに、真由美と会っていると何故か分らないが、安心できる心地良い時の流れを感じることができた。それで、先日初めて自分の気持ちを伝えたのだ。今日も、普通なら電話の内容を尋ねられてもおかしくは無かったのに、真由美は何も聞かなかった。そんな所が好きになった原因かも知れなかった。鴇田は真由美が何も聞かないことで、自分を信じてくれているのだと理解できたのだ。
千夏は素っ気無く鴇田に断られて、我慢できずにいた。あの電話に出た声に記憶があった。[あれは間違いなく真由美の声だわ]そう思うと居ても立ってもいられなくて、夜中に真由美に電話をした。
「真由美、元気?」
「こんな時間に何よ」
「あたし、なんだか真由美の顔を見たくなっちゃって」
「千夏、気持ちが悪いこと言わないで」
「ちょっとの時間でいいから、会えない?」
「えっ、今から?」
「ん。今近くに出られない?」
仕方なく、夜中もやってるファミレスで落ち合うことにして、真由美は出かけた。
「真由美、ごめんね」
いつもと違って、千夏は少し落ち込んでいる様子だった。
「お仕事の方?」
真由美が聞くと、
「あたし、失恋したみたいなの」
としょげかえった声で答えた。
たわいもない雑談に付き合っていると、突然、
「真由美、昨日鴇田さんの所に居たでしょ?」
と聞いてきた。その時、真由美はこの前の電話の[もしもし]が千夏の声だったと確信した。
「……」
真由美は答えなかった。
「真由美、黙っててもだめよ。あたしには分るの。あなたの顔にちゃんと書いてあるよ」
千夏は男女のことになると鋭い所がある。それを真由美は知っていたから、隠してもいずれ分ることだと思って、
「そう。居たわよ」
と答えた。
「もう彼としちゃったの?」
「まさか」
「そうよね。もし彼としてたら、真由美はがっかりして、付き合ってなかったかもね」
「それ、どう言う意味?」
「彼のセックスね、自分勝手で乱暴なの。それに今付き合ってるセフレが数人居るらしいの。あたし、それが分ったから、こんなことを隠してあたしと付き合った彼に慰謝料を出しなさいよと言ってるの」
真由美は驚いた。千夏が大嘘を付いているとも知らずに、
「へぇーっ? そうなんだ」
と答えた。事実、鴇田は千夏に指一本触れてなかったのだ。
「だからさ、真由美は深入りしないで別れた方がいいよ」
千夏は自分と鴇田の間はもう冷たくなっていたが、腹いせに真由美に別れさせたかった。
千夏と別れた後、帰り道、真由美は千夏の話をまだ信じられないでいた。もしも事実だとしても、今迄鴇田と何回も会って見てもとてもそんな風だとは信じられなかった。初めて会った時、真由美は鴇田に、
「よろしかったら、今度これに乗ってドライブしてみませんか?」
と誘われた時、
「あら、その手でいつも女性をお誘いになられるんでしょ」
と心にもない冗談を言ってしまった。その時、真由美は鴇田の怒ったような真剣な眼差しに心臓を抉られたような気持ちにさせられたことを今も鮮明に覚えていた。
「いいわ。あたしは鴇田さんを信じて行くわ」
真由美はそう思って、この話は聞かなかったことにしようと心に決めた。だが、一度聞いてしまったことはなかなか消せずに真由美の心の奥底に針のように突き刺さって抜けないでいたのだ。
百五十一 真由美の恋 ⅩⅣ
真由美は今夜も鴇田に誘われて、西銀座で夕食を共にしていた。
「こうさん、あたし、最近時々誰かに後をつけられているような気がするの。なんだか気持ちが悪くて」
「えっ、真由美も? 実は僕も最近時々誰かに尾行されているような感じがすることがあるんだよ。僕らはお互いにやましいことを何もしてないから、不思議な気がするんだけどね。まっ、気のせいかも知れないから、あまり気にすることはないと思うよ」
鴇田は真由美をなだめてみたものの、もしかして松山千夏かあるいは千夏が雇った探偵に尾行されているのかも知れないと一応警戒していた。
千夏は鴇田に振られてしまったことが悔しくて、悔しくて我慢ならなかった。それで、剣持に、
「鴇田と言う男をあたしの前から消してくれない」
と頼み込んだ。剣持は、
「分った。オレなりに調べてから返事をするよ」
と引き受けてくれた。そこで、千夏に教えられた情報を元に、剣持は鴇田を尾行してみた。調べた所、鴇田はN自動車の開発チームリーダーで部長待遇となっており、部下も大勢居て、なかなかのやり手のようだった。たまに一週間ほどヨーロッパへ出張したこともあった。調べれば調べるほど、千夏が言うような女関係は全くなくて、真面目な技術者だと分かった。レーシングカーのマニアの間ではそこそこ名前の知られた男だとも分った。
尾行する内に、一人の女性と待ち合わせてデートをしていることも分った。相手の女性を確認して、剣持は驚いた。その女性は、目黒の林菓房の取締役をやっているので、年に一度顔を合わすことがある古谷真由美だったのだ。確か古谷は中目黒の古谷工務店の社長もしていたはずだ。調べた結果、今回に限って千夏の方に問題があることが分かった。色々考え合わせた結果、剣持は、
「そろそろ千夏を始末する時期になったな」
と考えた。
「おい、鈴木、この女を始末してくれないか?」
剣持は千夏の写真やプロフィール、良く出歩く場所など細かい情報を説明した。
「兄貴、わっかりました。こいつ、例の毒でやりますか?」
「証拠が分り難いし、あしも付かないから、それが一番いいね。渋谷とか、池袋とか、新宿を良く歩き回るようだから、なるべく人の多い場所がいいね」
「薬は徳さんにオレから話を通しておくよ」
鈴木は、松山の尾行を始めた。松山が若者がぞろぞろ歩いている渋谷の交差点を渡っている時に、松山の後ろから急いでいるふりをして小走りに交差点を渡る途中、松山にドンと当たり、
「すみません」
と言ってそのまま道玄坂の方に走り去った。鈴木は松山とすれ違った時にわざとドンと当たって、その時、右手のこぶしの中に隠し持った特殊な注射器で毒を注入した。後で、
「痛っ!」
と松山の声が聞こえたが知らん顔で走り去った。千夏の周囲を歩いていた者も、この交差点では普通にある光景なので、誰も気にしなかった。
千夏は交差点を渡るとSHIBUYA109の建物に入った。今日はカジュアルの洋服を買うつもりでショッピングに出てきたのだ。千夏はエレベーターで七階に上がって、好きな店を見てみようとした、その時、急に息が苦しくなり、その場に倒れこんだ。通り掛かりの女性の悲鳴を聞いて、店から店員が飛び出してきて、直ぐ119番に通報した。間もなく救急車がやってきて、千夏は病院に搬送されたが、搬送途中に息を引き取っていた。病院では急性の心筋梗塞と診断して、遺体は親族が引き取って行った。
真由美は、千夏が急逝したと知って驚き、悲しんだ。林菓房の大切なお客様であり、真由美の親しい友達だったので、晴子と一緒に葬儀に参列した。
「人の一生って、あっけないものねぇ」
真由美と晴子は帰り道スタバでお茶をして、生前の千夏を偲んだ。
真由美は千夏が亡くなったことを鴇田と藤堂に知らせた。だが、二人とも仕事が多忙だと言う理由で葬儀には来なかった。
百五十二 真由美の恋 ⅩⅤ
藤堂家と香川家の、つまり弘一と早苗の結婚式は都内のホテルで滞りなく終わった。早苗の友人達は口々に、
「新婚早々新築の住まいに住めるなんて羨ましい。しかも早苗の話だと早苗の意見を取り入れて新築したんだって」
と囁きあった。仲人は白髪が綺麗で恰幅がいい老人だったが、奥さんの方は若くて美しい夫人だったので、それも話題になっていた。勿論新郎側の友人として鴇田、新婦側の友人として真由美も出席していた。披露宴ではテーブルが離れていることも幸いして、鴇田と真由美はお互いにそ知らぬ顔をしていた。早苗の花嫁姿はとても可愛らしく、真由美は早苗を良い人に紹介できて良かったと思った。
早苗の新婚旅行はハワイだった。早苗はあの日、藤堂に導かれて、既に初体験を済ませていたが、高齢出産を承知で一人だけ藤堂の子供を産みたいと思っていたからハワイでの夜は激しく藤堂を求めた。藤堂も長い間再婚をせずに我慢していたこともあって、早苗の気持ちを受けて新しい妻を激しく愛した。だから、早苗は女の幸せを身体いっぱいで感じることができた。
藤堂の結婚式が終わって、帰りがけに鴇田から真由美の携帯に電話があった。
「今夜、空いてる?」
「はい。大丈夫です」
「一旦帰宅して着替えて出直すから、真由美も着替えて出てこない?」
「いいわ。どちらへ?」
「目黒駅のホームで落ち合おう」
その日、鴇田は真由美を抱きたいと思っていた。それで、赤坂にあるホテルの一室をリザーブしていた。
真由美と食事を済ませると、バーで少し飲んだ。鴇田は、
「まゆみ、そろそろ僕たちも、いいんじゃないか?」
とそれとなく真由美の気持ちを聞いた。真由美は鴇田の気持ちは分っていた。だが、千夏が亡くなる前に言っていたことがまだ心の隅に残っていて[ためらい]があった。
「もしかして、お部屋とってあるの?」
「ん。勝手で済まないけど」
「正直に言うわね。あたし、まだ気持ちが決まってないの。なので、もう少し時間を下さらない? せっかくお部屋を予約されたのだから、一応お部屋までは行きます」
鴇田は、
「分った。真由美の気持ちを大切にするよ」
二人はチェックインを済ませて部屋に向かった。部屋に入ると、鴇田は真由美を抱きしめてキスをした。キスをしながら、鴇田の手は真由美のウエストからヒップを愛撫した。真由美は心地良かったから鴇田がしたいようにさせた。鴇田は千夏が言っていたことに反して優しく丁寧に長い間そうしていた。それで真由美は乳房の愛撫までは許した。
真由美が次第に昂ぶってきた時、
「約束を破ってごめんね」
と言って鴇田は真由美を愛撫する手を離した。
こう言う場合、男が更に先に進もうとするのか、我慢してくれるのかで自分の気持ちを大切に思ってくれているのかどうか真由美は分るような気がしていた。鴇田は思った通り、我慢してくれた。それで、真由美は千夏の話がウソだったのではないかと思いはじめていた。
「九月に大きなモーターショーがあるんだ。剛君を連れて行きたいんだけど、ダメかなぁ」
真由美は九月に自動車ショーがあるのか良くは知らなかった。
「九月にありましたっけ」
「ん。世界最大と言われているショーがあるんだ。もし剛君を連れてってもいいなら、彼のパスポートを用意しておいてくれないか」
「えっ、どうして」
「日本はね、国内の需要が落ちているから、海外の自動車メーカーは最近日本国内のショーには力を入れていないんだよ」
「そうなんだ。それでどちらへ」
「ドイツとポーランドの国境に近いフランクフルトなんだ」
「剛、海外に一度も出してないけど、大丈夫かしら」
「最強のガードマンがついてるから大丈夫だよ。これからの若者は子供の頃から海外を経験させた方がいいよ」
と鴇田は笑った。
「どれくらいの期間?」
「往復入れて一週間。学校をサボらせることになるけど。九月の下旬だよ。出来ればポーランドにちょっと寄るのがいいね」
「あたしがついて行ったらお邪魔?」
「邪魔だ」
と言ってから、
「冗談だよ。真由美は歓迎するよ」
と言い直した。それで真由美は鴇田に自分と剛を委ねることにした。
百五十三 真由美の恋 ⅩⅥ
「気持ちが決まるまで、もう少し時間を下さいとお願いしてから何回会っただろう? そうだ二回しか会ってないなぁ」
真由美も鴇田も多忙でここのとこ会える機会がぐっと減ってしまった。あれから、二回ほどデートしたが、真由美はまだ決めかねていた。女も四十歳を過ぎると、感情だけで性急に決めてしまうにはためらいがあった。そうこうしている内に、鴇田にエスコートされてフランクフルトに出かける日が迫ってきた。
息子の剛は世界地図を見たり、旅行案内をみたり楽しみにしている様子を体中で表していた。
「短い旅だから、持ち物は着替えの下着くらいでいいよ。もうあっちは寒いから暖かい洋服を着せてやれよ」
と鴇田に言われていた。
珍しく、大型台風が近付いていていたから、社員総出で工事現場を見回り、点検を済ませると、旅の仕度もしていないのに、もう明日は出発の日になってしまった。航空券、ホテルなど全て鴇田が手配を済ませてくれた。出発は十二時二十分成田発のANAの直行便だった。鴇田は旅行の費用を全額持たせてくれと言った。真由美が遠慮すると、
「失業中はいつも懐が空っぽだったけど、今は年俸二千万円の契約だから、独り者としては十分に余裕があるから大丈夫」
と言って全部面倒を見てくれることになった。明日の昼に成田を発つと、午後の四時半頃にフランクフルト・マイン国際空港に着いてしまうらしい。地球が回っていることは分っていても、息子の剛はどうやらヨーロッパに飛ぶ時の時間の感覚が分らずに首をかしげていた。
品川駅で八時半に待ち合わせて、三人は成田エクスプレスで成田空港に向かった。
「剛君、今回はおじさんが一緒だけれど、次は一人でヨーロッパを旅するといいよ。だからさ、今回は予行練習だと思って、空港の手続きとか外貨の交換とか全部やり方を教えてあげるから、よく覚えておくといいよ」
電車に乗り込むと、鴇田は早速剛に話しかけた。剛は目を輝かせて鴇田の話を聞いた。
どうやら鴇田は本気で剛を教育するらしい。真由美は黙って二人の会話を聞いていた。
マイン国際空港に着くと、鴇田は入国手続きなどを詳しく剛に教え込んでいた。剛は真由美が思っていたよりも大人になっていて、鴇田の話を良く理解しているようだった。その日はホテルに泊まり、肉料理の美味しい所で食べ盛りの剛は、
「美味い、美味いと」
言いながら随分沢山食べた。翌朝モーターショーの会場に向かった。会場を回る間に鴇田は何人かの外国人と親しげに挨拶をしていた。
「全部車仲間でさ、パリダカの時に知り合った友達なんだ」
鴇田は流暢な英語で話をしていたが、時々側に居る剛に話の内容を説明していた。知り合いの中には剛に握手をしてくる男、頭をポンと撫でる男などが居て、剛は最初は恥ずかしそうにしていたが、直ぐに慣れて、日本語でこんにちわなんて挨拶をしていた。鴇田が興味のあるブースに寄ると、鴇田は丁寧に剛に説明をしていた。剛は新しい未来志向のコンセプトの車にすっかり虜になってしまったようだった。真由美は男の子にはやはり男親が必要なんだなぁと感じていた。三日目は午前中モーターショーを見て、午後から飛行機でポーランドの首都ワルシャワに飛んだ。
「ドイツやフランス、イタリアなんかはこれから遊びに来ることがあると思うけど、ポーランドまではなかなか来られないから、ここに二日ほど泊まって遊んで行こうよ」
と鴇田は剛に説明した。
「ワルシャワはね、世界史で勉強すると思うけど、十七世紀頃はドイツからこの辺りまでは大きなプロイセン王国で王様が支配をしていたんだ。だから、ドイツと言葉や文化の共通点が多いんだよ。日本に帰ったら歴史の勉強をすると面白いよ。教科書を見ているだけだと眠くなっちゃうけれど、海外を旅行する目的があると全然気持ちが違ってくるよ」
どうやら真由美は剛と鴇田の間に入り込めなかった。
「お邪魔虫がついてきたんだから、ま、いいか」
真由美は心の中でそんな風に思っていた。
一週間くらいの旅行はあっと言う間に終わって、日本に帰ってきた。駆け足の旅だったから、真由美には物足りなかったが、剛は初めての海外だったので、得たものは大きかったようだ。
考えて見ると、真由美は女一人で子育てをしようと今迄頑張ってきた。だが、今回の旅で、真由美は剛に何一つ想い出になるようなことをしてやれなかったことが分かった。図らずも、鴇田が自分の息子のように可愛がってくれるのでいいが、もし鴇田と出会えてなかったらと思うと剛に済まないと心の中で謝った。
十月になって、鴇田から電話があった。
「紅葉の散らない内に信州にでも温泉に入りに行かないか」
九月から十一月までは建築の仕事は多忙だ。だが、せっかくの誘いだから、
「はい。後ほど都合の良い日を連絡します」
と答えた。真由美は、温泉旅行までに、今迄鴇田に身体を許すかどうか、ためらっていた気持ちを整理しなくちゃならないと思った。
百五十四 真由美の恋 ⅩⅦ
十月下旬、約束の日に鴇田は古谷工務店にベントレー3・5ドロップヘッドクーペを転がしてやってきた。朝、仕事に出る前の若い職人が数人、見慣れないクラシックカーが店の前に停まったのでバラバラと出てきて、
「すげぇっ」
とか言って車の周りに集まった。鴇田はゴルフに行った時と同様、Gパンにサングラス、白いコットンのジャンパー姿で降り立った。
「かっこいいなぁ」
職人達は羨ましそうに鴇田を囲んだ。
「社長さんいる?」
「あ、呼んできます」
職人の一人が小走りに店に入った。間もなく、真由美がGパンに白いブラウス、光沢のある淡いピンクのジャケ姿で出て来た。
「こうさん、おはよう。あんたたち、もう時間だろ、早く仕事場に行きなよ」
真由美は鴇田に挨拶すると、職人達にきびきびと指図した。親方のような言葉遣いで若い職人をあしらう真由美は、いつもとは違った魅力があった。鴇田は普段の真由美の姿を見たような気がした。
真由美が乗り込むと、ドドドッと鈍いレシプロエンジンの音を立てて、目黒通りから首都高に乗り、新宿線を通って中央高速に入った。良く整備された鴇田の愛車はホロを震わせながら甲府から松本方面に向かって走った。秋晴れの良い天気で、高速は思ったより混雑していなかった。
「少し時間があるから、サントリーの蒸留所に寄ろうか」
「はい」
高速を長坂ICで降りて、サントリーの白州蒸留所に向かった。南アルプスの麓の森の中にある静かな蒸留所でウイスキーを作っている。工場見学を済ますと昼になったので、蒸留所の中のレストランで昼食を取った。
「この前、藤堂君にティファニーのランプスタンドを贈っただろ」
「はい」
「諏訪湖の湖畔にあの時代のフランスのエミール・ガレのガラス工芸品を展示している北澤美術館があるんだけど、ちょっと覗いていかないか」
「いいわね。あたし、以前に行ったことがあります。素的な美術館でした」
高速に乗らずにそのまま甲州街道を諏訪湖畔まで走って、北澤美術館を訪ねた。真由美が前に見た同じ作品も展示されていたが、改めて素的だなぁと思った。美術品は自分が歳を重ねると、同じものを見ているのに、受ける感じが随分変るものだと感じていた。
十月に入ると日が傾くのが早い。諏訪から高速に乗り、岡谷から長野自動車道に入って豊科ICで降りて、北アルプス穂高岳山麓の穂高温泉に向かった。長野県の安曇野一帯は信州リンゴの産地だ。赤く熟したリンゴ畑の中の道を穂高温泉に向かって走った。
鴇田が穂高Vホテルに予約を入れておいてくれた。ホテルに着く頃にはすっかり夕方になっていた。ホテルは穂高山麓の森の懐に抱かれるように一軒だけひっそりと佇んでいた。あまり大きなホテルではないが、入ると調度品が良く整っていて小奇麗な良い所だった。
「静かな所ね」
「ん。周りは森でここ一軒だけだからなぁ」
ホテルに隣接して白いチャペルがあり、ここで結婚式を挙げる人もいるらしかった。
「あら、皇太子殿下も泊まられたのね」
真由美はロビー脇にあった記念写真を見て鴇田に写真を指さした。
「山の中のホテルだけど、たまに賓客が泊まるらしいよ」
鴇田は知っていたようだ。
良い温泉だった。真由美はしばらくぶりに温泉に浸かってぼんやりとしていた。紅葉のシーズンが過ぎて、泊り客が少なく、一人静かに温泉に浸っていた。しばらく多忙だったこともあって、こんな時間が、とても贅沢に思えた。
ホテルで夕食を済ますと部屋に戻って二人でワインを飲んだ。明かりを消すと、窓から綺麗に星が見えた。空気が澄んでいて、周囲の物音もなく、ほんとうに静かな夜だった。窓辺で星の輝きに見とれていると、鴇田が後からそっと抱きしめてきた。長い間、二人はそのままでいた。背中に鴇田の温もりを感じていると、真由美は幸せな気持ちになった。
やがて、鴇田は真由美を抱きかかえて、そっとベッドに横たえた。真由美は鴇田にされるがままにベッドに身体を沈めた。鴇田が真由美の後ろから抱くように一緒に横たわって、ゆっくりと真由美の身体を愛撫し始めた。鴇田の指先が女の感じ易い部分を丁寧に愛撫した。やがて真由美を自分の方に向かせて、鴇田は真由美の唇に重ねてきた。鴇田の舌先が真由美の舌に触れた時、真由美も鴇田に応じて鴇田の舌に絡ませた。そうしてしばらくの間、続けた。鴇田はゆっくりと真由美の乳房を愛撫して、やがて背中から尻へ、尻から太ももへと丁寧に愛撫した。真由美は次第に気分が昂ぶってきたのを感じつつ、鴇田の愛を確かめるように自分も鴇田の背中に腕を回して抱きしめた。
真由美はもう限界に近付いていた。身体がほてり、鴇田に感じ易い部分を何度も刺激されて思わず、
「お願いっ! してぇっ!」
と呟いてしまった。鴇田のものがゆっくりと真由美の中に入ってきた。その時の感じは昔の許婚にされて以来ご無沙汰だったので、殆どどんな風だったか忘れていた。だから、鴇田に今夜初めてしてもらった感覚はとても新鮮に感じていた。やがて、真由美の身体に痺れるような感じが押し上げてきて、真由美は絶頂に達したようだった。その時、鴇田も一緒に果てたようだった。鴇田はそのままの姿勢でずっと真由美を抱きしめ続けた。真由美はこの時、千夏が自分勝手で乱暴だと言ったことがウソだったと分かった。
鴇田に抱かれて、どれくらい時間が経っただろう。星明りの中で、目の前で静かに目を閉じている鴇田を、真由美はこれから先一生愛して行こうと思った。
「シャワーを使う?」
鴇田の優しい声に、真由美は夢から覚めたように、
「ん」
と頷いて鴇田から離れた。この時、鴇田が避妊具を付けていたのを偶然に知った。真由美の歳を考えて、万一を考えてくれた優しさだと理解することにした。真由美は鴇田に愛されても結婚をするつもりはなかったから、鴇田の行為が嬉しかった。
百五十五 真由美の恋 ⅩⅧ
長野から戻ってから、鴇田も真由美も多忙な日々が続き、身体を重ねてからずっと会ってなかった。
「クリスマスイブには何とか時間を作ってくれないか?」
鴇田の誘いに真由美はイブの午後休みを取った。
あれから、真由美は何度も鴇田に会いたいと思ったが、二人とも都合が合わずにずるずると日が延びてしまった。大きなツリーが飾られた西新宿にある高層ビルで落ち合って、食事を済ますと、
「ゆっくりできる時間を取れるか?」
と聞く鴇田の顔に[真由美が欲しい]と書いてあるようだった。
「正直な人」
と真由美は笑った。真由美も今夜は鴇田に抱かれたいと思っていたのだ。
ふかふかした枕に顔を埋めて、真由美は鴇田を迎え入れた。最初の時と同じように、鴇田は真由美を丁寧に愛撫した。長野での初めての夜と違って、やがて二人は激しく求め合った。真由美の中で長い間封印してきた感情が鴇田の愛で少しずつ解き放たれて行くように思えた。
終わって洋服を調えていると、
「これ僕の気持ちだ」
と鴇田はリボンの着いた可愛らしい包みを差し出した。
「なぁに?」
「気に入ってもらえるかわか分らないけど、ネックレスにした」
「今、開けてもいい?」
「ん」
包装紙を外すと中にもう一枚カルチェの包装紙に包まれた小箱が出て来た。包装紙を外して箱の中を見ると、ブルー系のストーンで飾られたメリメロネックレスと、お揃いのメリメロリング、メリメロイヤリングが出て来た。
「嬉しい!」
カルチェなら、これだけでも二百か三百万はすると思われた。だが真由美は金額には関心がなかった。プレゼントしてくれた鴇田の気持ちが嬉しかったのだ。真由美は出しそびれてしまっていたネクタイの小箱を鴇田に手渡した。鴇田も、
「今開けてもいい?」
と聞いてくれた。真由美はスコットランドのロッキャロンのネクタイを鴇田にと思って買っておいたのを持ってきていた。鴇田がネクタイを取り出すと、真由美はそれを取って、鴇田の首にかけて見た。思った通り良く似合っていると思った。
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
「素的なクリスマスイブになったな。所で、真由美は結婚についてどんな風に思ってる? 僕としてはプロポーズをしたいんだけど、真由美の気持ちを聞いてからにするよ」
鴇田は自分は大学時代から車にのめり込んで、ずっと車と共に生きてきた堅物で過去に何人かの女性と関係を持ったことはあるが、結婚を考えて付き合った女性は一人も居なかったと、自分の過去を真由美に話してくれた。会社が潰れて失業してしまった時に、初めて伴侶が欲しいと真剣に考えてはみたものの、しばらく収入が安定せずに結婚をあきらめていた。偶然に真由美と言う素的な女性に出会えて、今は真由美のことだけを考えていると付け加えた。
真由美も自分の過去を鴇田に全部打ち明けてしまおうと思った。
「あたしはね、学生時代に知り合った九鬼清二と言う方と恋愛関係になって、お互いに結婚をする話になったの。彼は昔、熊野灘から伊勢湾一帯、遠くは海外にまでその名を轟かせた有名な熊野水軍の末裔だそうで、家の方が家系とか何かとうるさかったみたいなの。それで、いざあたしと結婚をする話しが持ち上がった時に、母親に反対されて断ってきたの。その時、彼ってとんでもないマザコンだと分って、あたしはあっさりと身を引いてあげたの。彼とは一回だけ身体の関係がありましたけど、その時にお腹に出来た赤ちゃんが今の剛なの。あたしは、シングルマザーで剛を育てることに決めたから、それ以来男性とは一度も関係を持たなかったなぁ。もちろん、元彼の九鬼とは断ってから一度も会ってないし、これからも会うつもりはないわ。鴇田さん、どうしても結婚しないとダメ?」
「そうか、僕もね、この歳になってまだ迷いがあるんだ。結婚して真由美がはたして幸せになれるかどうか自信がないんだよなぁ。時々、結婚ってなんだろうなんてマジで考えちゃうことがあるんだ」
「そう。あたしも。他所のご夫婦を見てて、ただ一緒に住んでいるだけって感じの方もおられるし。でも、あたし、欲張りかもしれないけど、好きな男性がいつも自分を守ってくれていると感じたい部分もあるわね。たとえ結婚してなくても。男性って、やはり結婚をしてないで、そんな関係を続けるのは嫌かしら?」
しばらく、鴇田は無口になって考えていた。
「じゃ、どうだろう。僕等は結婚しないで、一生友達でいたら。もしも、真由美が、僕の気持ちが変わって他の女性と関係を持つのが心配なら、婚姻届だけは出しておいてもいいよ。最初から同居でなくて別居」
「紙切れ一枚で、一生あなたの気持ちをつかまえておくのは難しいわね。だから、婚姻届は出しても出さなくても、あたしたちの場合は同じじゃないかしら?」
「真由美の言う通りかも知れないね。仮に届けを出していても、真由美の気持ちが変わって、僕を嫌いになったら、やはり離婚するしかないしね」
結局、鴇田と真由美は結婚をしないで、一生恋人同士でいることを約束した。口約束だけれど、それが守れないなら結婚をしても同じじゃないかと理解しあった。
「戸籍上関係がなくても、例えば人前で僕が家内ですと紹介するのはダメだろうね」
「あたしの場合も同じよ。こちらはあたしの主人ですって人に紹介したらおかしいでしょうね」
「そうだなぁ、お互いに世の中のルール違反みたいな形で、言ってみれば一生内縁関係だからなぁ」
鴇田はようやく気持ちがほぐれてきて笑った。
口約束だけれど、この日から、真由美は鴇田に自分の旦那様のような気持ちで接し始めた。けれども、鴇田に請われるまでは、細かいことには首を突っ込まないでおこうとも決めた。鴇田もこの日以来、真由美を唯一の恋人として、会う度にとても大切にしてくれたし、剛のことも何かと心配して親身に相談に乗ってくれた。
おかしなもので、真由美の本当の恋はこのクリスマスイブから始まったようだ。世の中には色々な男女の関係があるが、真由美と鴇田の関係はこの複雑な社会の中で一つの歩き方であったかも知れない。
百五十六 晴子・その後
十二月末、和菓子屋、林菓房では定例の株主総会と役員会が召集された。代表取締役社長の林義晴をはじめ、役員全員が出席した。
業績は武雄の事件の時に一時急落したが、晴子の努力と剣持の支援で持ち直し、順調に推移していた。最近最愛の恋人、鴇田を得た真由美も出席していた。
この年、中国のGDP(国内総生産)は米国を抜いて、名実共に世界の経済大国のトップに躍り出た。同時に従来約一元十三円であった元の対円為替レートは世界各国の圧力もあって、約十七円に切り上げられた。元高、円安だ。つまり、一元約6・83ドルが一気に約8・8ドルに切り上げられたのだ。30%近い対円為替レート上昇で、採算の改善は著しい。
林菓房の上海進出はその後も順調に業績を伸ばして、元高の追い風を受けて、十分な利益を計上できるまでに成長していた。
そこで、上海進出に功績を上げた広田祐樹は定例の株主総会で取締役工場長への昇格が承認された。
役員会が終わって、祐樹の昇格祝いもかねて、会食が行われた。店番のマキと結婚して、家族共々目黒に引っ越してきて、両親と同居している祐樹は最近貫禄が出てきて、工場全体を引っ張る機関車のような存在になってきた。
「今日、ちょっと寄らせてもらってもいいか?」
仕事が終わってから、剣持は晴子のマンションに寄りたいと言った。
「いいわよ。晴菜と晴美、活発になってきて、あなたが来るとはしゃぐかも」
それで、晴子は保育園から晴菜と晴美を引き取ると、その足で一緒に剣持のオンボロ軽自動車でマンションに向かった。
保育園で、晴菜は剣持の顔を見ると走ってやってきて、剣持に飛びついた。
「おじさま、こんにちは」
剣持は晴子と娘二人のクリスマスプレゼントを車から持ち出してマンションに上がった。案の定、晴菜と晴美は剣持にまつわりついてきた。それを横目で見ながら、晴子は夕食の仕度を始めた。剣持は娘二人を抱きかかえて楽しそうに遊んでやっていた。
晴子は最近は月に一回程度の間隔で、堀口拳とデートをして、お互いに申し合わせたようにホテルに泊まり愛し合っていた。拳も時々晴子のマンションにやってきて、晴菜と晴子を可愛がった。
なので、晴子は剣持と会っても男女の関係にはならないように気を付けていた。幸い、剣持とこうして会っても、剣持の方からは晴子を求めることはなかった。
「真由美さんと鴇田さんはうまく行ってるのか?」
「あたし、鴇田さんには一度も会ってないけど、今日、真由美さんのお顔を拝見した感じではうまく行ってるようね」
こう言うことには女の感は鋭い。晴子は真由美の明るい表情を見て良い関係が続いていると感じていたのだ。
僅かな年月の間に、晴子の周りには色々なことがあったが、今は堀口拳と剣持弥一に子供たち共々守られて、今の晴子はとても幸せだった。
「お正月はどうするんだ?」
「拳さんが、あたし達三人を旅行に連れてって下さるんですって」
「そう。それは良かった」
剣持も晴菜と晴美を相手に遊んでいる時は幸せそうにしていた。四人で夕食を囲んでから剣持は二人の娘とお風呂に入って、その後、早々にマンションを引き上げて行った。晴子は去っていく剣持の何か淋しそうに見える後姿に、済まない気持ちでいた。
堀口拳とレイ夫人との男女の関係は今も続いていた。拳は晴子に最近レイ夫人の話は一切しなかったから、晴子には何も分らなかった。
「人の出会いって分からないものね。そう、あなた晴子さんとそんな関係になっていたのね。晴子さんのことは、あたくし、良く存じ上げてるから、気にはしないわ。むしろ、最近会って下さらないから、お仕事以外に何かあったのかと、うすうす感じていたわよ」
レイ夫人は拳よりずっと年上なので、拳と晴子の関係を特に気にしている風ではなかった。
レイ夫人が晴子と初めて会ったのは晴子がレイプされた軽井沢の夜だった。あの時の晴子の様子は今も忘れられないほど惨めだった。
レイ夫人は、晴子があの時に出来てしまった子供を産んで育てていて、今は来年小学校にあがるまでに成長していることを拳から聞いていた。
「晴子さん、苦労なさったけど、今はあなたが居て幸せね」
「ん。僕もそう思う。結婚は出来なかったから、その代わりあなたとこうして会うこともできるんだけど、それも不思議な縁だなぁ」
百五十七 それから
あれから五年が過ぎて、晴菜と晴美は共に母親の晴子が通った麻布の西洋英和女学院の小学部に通っていた。晴菜は五年生、晴美は二年生、二人とも器量良しで可愛らしい少女に育っていた。
堀口拳は相変らず、晴子と娘二人を良く面倒を見て守ってくれていた。リーマンショックと言われた歴史的な大不況を脱して、経済大国中国がリードする世界経済は再び成長の軌跡を描き始めて、堀口拳は業績を伸ばし、この年、若くして取締役に昇進した。
早いもので、晴子は既にアラフォー世代に届き、艶やかだった肌が衰え始め、顔の小皺も完全に隠せない歳になっていた。
晴菜と晴美はすっかり拳に懐いて、拳が晴子の所に来ると、
「パパ、パパ」
と父親のように慕っていた。
だが、そんな晴子も最近は気持ちが晴れない日々が続いていた。この五年間、晴子の恋人役として、晴菜と晴美の父親代わりとして、拳は献身的に晴子母子を支えてくれて来たが、取締役への昇進を機会に拳の周囲が騒がしくなっていたのだ。
「晴子には本当に済まないんだが、トップの方から世帯を持てと連日迫られて、実際のとこ困っているんだ」
初めて拳にこのことを告げられた時、あれ以来抱えていた一抹の不安が現実味を帯びてきて、晴子は一瞬だが、眩暈がしそうな衝撃を受けた。
「やはり……」
晴子の中では、現実を受け入れなければならない気持ちと今までのような幸せな日々を失いたくない気持ちがない交ぜになって心の中の葛藤に苦しんでいたのだ。拳にこんなに懐いている晴菜と晴美を悲しませることになると思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
剣持は、歴史的な日本の政権交代により、新しく生まれた新政権を打倒したい政党や旧い体質を引き摺っている官僚組織からの依頼で、政界工作の片棒を担ぐ仕事に専念させられていたが、新政権の幹部は財界とのしがらみによる政治資金の汚い陰が少なく、攻めあぐねていた。剣持の所属するトレメンド・ソシエッタを率いる神山伝次郎、通称伝さんも大分高齢となり、今は剣持と村上が幹部となって引っ張っていたが、社会環境がクリーンになるにつれて、秘密の組織防衛のため気を配る必要性が増えて神経をすり減らす多忙な日々が続いていた。そのため、剣持にとっては、たまに晴子の所を訪れて、晴菜と晴美を相手にしている時が唯一のストレス解消の機会になっていた。
剣持はできるだけ、娘達二人を連れてディズニーランドなどの遊園地に出かけたり、旅行をしたり、洋服のショッピングに出かけたりしていたので娘二人は、
「おじさま、おじさま」
と懐いてくれていた。母親の晴子に似て、娘は二人とも花が大好きで、花が沢山あるガーデンに連れて行くととても喜んだ。
真由美の恋人、鴇田も多忙な日々を送っていた。鴇田が先頭に立ってリードするN自動車の開発チームは、この年、最高時速400km、一回のカセット交換で600kmも走行する高性能の燃料電池スポーツセダンを完成して、その年のグッドデザイン賞、カーオブザイヤーを独占してフランクフルトのモーターショーでは注目の的になっていた。エネルギー源に水素と酸素を使う燃料電池車は基本的に地球温暖化を促進する炭酸ガスを一切排出しないので、数年前に新政権が誕生した時に、当時誰も信じなかった炭酸ガス25%削減目標を国として軽くクリアできる見通しを付け、年末に発売予定の燃料電池大衆車は従来人気のあったハイブリッド車やリチュウムイオン電池車よりも遥かに安い価格になる見通しだったため、これらの車を駆逐して、世界の車市場の地図を短期に塗り替えてしまうと言われていた。
この新型の燃料電池車が何台高速道を走っても地球温暖化に悪影響を及ぼさないために、政府は燃料電池カセット規格の国際化を推進すると共に、取得税、環境税などを無税にして、高速通行料もゼロにして普及促進政策を打ち出していた。
そんな功績により、鴇田はN自動車の役員に昇格し、メディアでも一躍有名人の仲間入りをしていた。真由美はそんな鴇田を眩しそうに見て、また誇らしく思っていた。
真由美の息子、剛はそんな鴇田を父親のように尊敬して、高校を卒業すると、鴇田が卒業した東京工業大学の工学部に進んだ。今年も、鴇田に連れられて、フランクフルトのモーターショーの見学にでかけたが、初めて海外旅行をさせてくれた想い出は、剛にとって今も忘れ得ぬ貴重な経験となっていた。
百五十八 娘との入浴
「晴子、すまん。やはりこのままじゃ、押し通せなくなってしまったよ」
拳は晴子の前で土下座して詫びた。最初に話があってから三年も経って、晴菜は来年中学生になる。その間、拳は上司から世帯を持てよと迫られても何とか言い訳をして逃げ回っていたようだが、言い訳もネタが切れて、遂に上司の進める女性と見合いをさせられてしまった。拳は仕事ができる男であったばかりでなくて、世間で言う[いい男、格好のいい奴]だったから、見合いの時には気の無い生返事をしていたのだが、相手の女性の方がすっかり気に入ってしまったようだった。断る理由が思い当たらずに、拳は周囲の圧力に屈するしかなかったのだ。
拳がしばらく頑張ってくれている間に、晴子も次第に気持ちの整理ができて、今では
「仕方が無い、許してやろう」
と心が決まっていた。けれども、実際に最後通告をされてみると、長い間に自然に出来上がった拳への愛情を断ち切れずに、
「どうしてもだめなの?」
と言ってしまった。そうすると、次々と言葉が出てしまった。
「あたし、淋しくなるなぁ。それに晴菜と晴美にどういう風に納得させるのか、言葉が見付からないわ」
「たまには寄るから、二人には何も言わないでくれないか? 長い間に自然に離れて行くのがいいと思うなぁ」
拳も歯切れが悪かった。
自分はおばあちゃん子だったから、子供の頃、お風呂は大抵祖母と入った。確か、小学校の高学年になって、異性を感じるようになり、祖父とお風呂に一緒に入ったのは、小学校の五年生が最後だったな……等と思い出しながら、今日も晴菜と晴美が、
「パパと一緒にお風呂に入る」
と言った時、そろそろ晴菜には言い聞かせないとダメかなぁとぼんやり考えていた。女の子は一体何歳位まで父親と一緒にお風呂に入るんだろう。いつだったか、テレビで二十歳になっても一緒に入ったなんて女性がいたけれど、やはり小学校までが一般的なんだろうか?
晴子は最近急にお姉ちゃんらしくなってきた晴菜のことが気になっていた。
その日が最後で、晴子は拳とお別れをすることになった。拳は最後だからと翌日の夜、ホテルに誘ってくれた。二人の間では別れるに当たってお互いに嫌悪感などは全く無かったから、その夜も激しく愛し合った。
「相手の女性に済まないから、このままズルズルと関係を続けないで、今夜でお別れにしよう」
と拳が囁いた。その時、晴子の中の淋しさは現実となって、晴子は拳の胸に顔を埋めて長い間すすり泣いた。晴子にとっては、とても悲しい別れだったのだ。
拳と別れてから、一ヶ月ほど経って、剣持が疲れた顔でやってきた。だが、晴菜と晴美の顔を見ると、顔いっぱいに歓びを表して、いつものように三人でじゃれ合っていた。晴子は、剣持が居てくれるだけでも、心の支えになっていると思いつつ、三人が楽しそうにしているのをキッチンで夕食の仕度をしながら、ちらちらと見ていた。
夕食が終わって、お風呂に入る時に、
「今日は晴美ちゃんだけになさい」
と言ったが、晴菜は、
「どうして? あたしも一緒でなくちゃいやよ」
と剣持と一緒に風呂場に入ってしまった。剣持が帰る時、靴べらを渡しながら、
「お仕事、相変らずお忙しいの?」
と晴子は聞いた。
「ん。色々やらなければならない仕事が多くて」
この時、晴子の中では少しでいいから剣持と二人で居る時間が欲しいと感じていた。だが、晴子はそれ以上何も言い出せずに、一人去っていく剣持の後姿が消えるまで立ちすくんで見送っていた。
晴子は、なんとなく、[友情]と言う花言葉を持つ[山法師]を思い出していた。初夏に静かな感じの花を付け、秋には赤く色付いた実を付ける素朴なこの花を思い出しながら、何か複雑な気持ちになっていた。
百五十九 悲しい別れ
「あなたのお父さんはね、拳パパのお兄さんで、素的な人だったわよ」
晴菜は物心のついた頃から、母親の晴子にずっとそう聞かされてきた。
「晴美ちゃんのパパは拳パパですよ」
とも聞かされていた。だが、大きくなるにつれて、晴美は拳パパに似ているのに、自分は全然似てなくて、最近は剣持おじさまにすごく良く似ていると感じていた。そんな晴菜は西洋英和の高等部を卒業すると、大学はK大に進んだ。背が高く、周囲から、いつも綺麗な人と言われていたのがきっかけで、一月に行われたTコレクションのファッションモデルのオーディションに応募してみた所、運良く合格し、この秋のTコレクションのショーに出ることが決まっていた。
「大学を出たら、プロゴルファーになろうかな、それともファッションモデルを続けようかな」
晴菜は剣持おじさまと母と晴美と四人で時々母親が会員になっている神奈川県のゴルフ場にでかけた。晴菜の上達は早く、今では剣持と肩を並べるほどの好スコアーをキープしていたのだ。
秋が近付いたある日、晴菜は剣持に電話をした。
「あたし、今度のTコレクションにファッションモデルとして出ることが決まったの。おじさまとママと一緒に見に来て下さらない?」
「晴菜すごいね。あのコレクションは国際的なイベントだから競争が厳しかっただろ? 良くモデルに採用してもらえたね。絶対に見に行くよ」
剣持の喜ぶ顔が電話の先に見えるようだった。
晴美は物作りが好きで、祖父と工場長の祐樹と気が合い、時々手伝いで新作の和菓子の制作にチャレンジしていた。晴子はそんな晴美はきっと林菓房を引き継いでくれるのではないかと期待していた。晴美は高校生で、姉の晴菜を見習って受験勉強も真面目にやっていた。
晴子が店の仕事を切り上げて、
「やれやれ、疲れたぁ」
とマンションの自宅に戻った時、丁度電話の呼び出しベルが鳴っていた。慌てて受話器を取ると、珍しく山田からだった。
「晴子です。大変ご無沙汰しております」
「実はね、剣持君のことだが、急に入院することになって、今、信濃町のK大病院に世話になっているんだ。ご都合を見て早めに見舞ってやってくれんかな?」
「どこかお悪くなったんですか?」
「いや、僕も気を付けて見てやっていれば良かったんだが」
と言って、しばらく考えている様子で間があった。
「本人も承知だから、この際、晴子さんにもお伝えしよう」
「どうぞ。お願いします」
「医者の診断だと、悪性の肺癌だそうで、病状が進んで、手術が難しいそうなんだ。生きていてもせいぜい後一月位持つかどうかと言うんだよ。僕もビックリ仰天してね」
晴子は直ぐには返事をできなかった。山田が続けた。
「晴子さん、泣いていても手遅れは手遅れだ。気持ちをしっかりして、見舞いの時には笑顔で頼むよ」
「ご連絡下さいまして、ありがとうございました。頑張って泣かない様にします」
晴子はこれで精一杯の返事だった。ただ涙があふれ出るばかりで、受話器を置くのも忘れて、しばらくの間床にへたり込んでいた。
晴子からの連絡を受けて、晴菜は一足先にK大病院に駆けつけた。剣持は酸素マスクを付けて、ベッドで目を瞑っていた。
「ケンおじさま」
晴菜の声に気付いて、剣持は目を開けた。
酸素マスクを少しずらせて、
「ファッションショー、見に行ってあげられなくなっちゃったよ。楽しみにしていたんだけど、ゴメンね。お母さんに中目黒の古谷さんと一緒に行ってくれって頼んでくれないか?」
晴菜は剣持の病気の具合を聞いた後に、学校の最近の出来事や付き合っているボーイフレンドのことなどを話した。剣持は優しい目をして晴菜の話を聞いていた。
「お父様」
突然晴菜は剣持をそう呼んだ。
「ケンおじさまは、本当はあたしの実のお父様なんでしょ? あたし、前からなんとなくそんな気がしていたの。本当のことを教えてくれない?」
一瞬剣持の目が晴菜を見つめたような気がした。だが、直ぐに優しい目に戻って、穏やかに晴菜を見るだけで、それ以上は何も言わなかった。だが、晴菜は、この時、この人が自分の本当の父親だと確信に近いものを感じた。
扉の所で人声がした。続いて、晴子、真由美、貴恵、それに晴美が入ってきた。
剣持の容態は、医者の予言通り、日に日に悪化していた。見舞いに行っても、苦しそうな顔で眠っている日が多くなった。そんな日が続いたある日、病院から危篤だと連絡を受けて駆けつけた。晴子が病院に着いた時は一足遅かった。剣持は酸素マスクを外されて、既に息を引き取っていた。晴子は周囲の人にお構いなく、剣持の身体にしがみつくようにしてすすり泣いていた。晴菜も晴美も大きな声を出して泣いた。
剣持の葬儀が終わって、晴菜と晴美の三人になった帰り道、晴子は改めて悲しみと淋しさを噛み締めていた。
この時になって、晴子は今迄剣持に抱かれ、身体を重ねたことは一度だってなかったが、晴子も晴菜と同様に
「晴菜ちゃんの父親は、もしかして剣持さんではなかったのかしら?」
心の中でそんな風に思えてならなかった。それでも、あの時自分をレイプして辱めた男が剣持だとは思えなかったから、心の中では複雑な気持ちが錯綜していた。
両手につないだ、晴菜と晴美の手の温もりを感じていたにもかかわらず、拳と別れ、剣持にも去られて、晴子の胸の中にぽっかりと穴が空いて、今迄心を満たしてくれていた堀口拳と剣持弥一の[愛のささやき]を奪い取るように、淋しげな秋風が通り抜けて行った。
百六十 ドラマの最終節
ファッションショーTコレクションは六本木のミッドタウンで行われた。林晴子と古谷真由美は一人前に成長して輝いている美しいモデル、林晴菜の姿に感動して思わず涙が出て、二人ともハンカチで目頭を押さえていた。晴菜は他界した剣持にどことなく似て見えた。
無事にショーが終わって、夜は晴美と剛を呼んで五人でミッドタウンのレストランでお祝いの祝杯を挙げた。
Tコレクションが終わると、晴子の所に、早速いくつかのモデルプロダクションから誘いが来た。専属契約を希望するプロダクションもあり、晴子は晴菜とどこにするか相談したがなかなか決まらずに、真由美にも相談に乗ってもらった。
その結果、とりあえず2つのプロダクションに連絡を入れた。晴菜はプロダクションの要望に従って、履歴書の他に戸籍謄本を用意した。晴菜は謄本など、書かれた内容をきちっと見たことがなかった。だが、剣持おじさまが亡くなる前に聞いてみた、自分の本当の父親のことが気になっていたので、取り寄せた謄本を封筒から取り出して、開いて見た。
「おかしいな」
晴菜の父親の欄は空欄になっていた。他に嫡出でない子とも書かれている。晴美の欄を見ると、父親の欄には堀口拳となっており、認知届けの経緯も記載されている。
「あたしの父親は拳パパのお兄さんの伸さんですよとお母さんが教えてくれたのに、何で空欄なんだろ?」
しかも、[楢崎武雄]と言う人と一時結婚していたことがあったと聞かされたような記憶があるのに、戸籍には何も書かれてないなぁ。変なの。お母さんに聞くのも気が引けるしなぁ。晴菜は分からなくなった。
「学校では、いつも父親欄に名前を書く時は堀口伸と書いていたんだけどなぁ」
晴菜は自分の出生に何か秘密が隠されているんだろうかと訝った。
そんなことがあって、晴菜の心にほんのわずか傷が付いて、いつまでもその傷が消えなかった。
晩秋の晴れた日に、晴子は一人で神奈川県の片田舎に眠っている堀口伸の墓を訪ねた。
「伸君、あたし、また一人ぼっちになっちゃった」
晴子は伸の墓の前に跪いて、これから先はもう恋をあきらめて、晴菜と晴美と三人で仲良く暮らして行こうと決めた。
周囲に人影がなく、静まり返った伸の墓の前で、晴子は胸に溜まっていたものを吐き出すように、激しく泣いた。
秋は日が傾くのが早い。晴子の頬に滴り落ちる涙がようやく枯れた時には、周囲の木々の影が長くなっていた。
晴子は墓の前で立ち上がると、力なく秋草の咲く山道をとぼとぼと下って行った。
【了】
本書はフィクションであり、登場人物、企業その他特に断りのないものは架空で実在するものと関係がないことをお断りします。
独りぼっちって、寂しいよぉ 【後編】
前編に引き続き後編も長い間ご愛読下さいました読者の方々に感謝申し上げます。
シングルマザーとして人生を走り抜く晴子と真由美、同じようにご苦労なさっている女性は最近増えているように思います。シングルの方もそうでない方も皆様どうぞ頑張って人生有意義にお過ごし下さい。
ではまた次の作品でお会いしましょう。 あずおさ(あずさおさむ)