practice(178)




 ビル壁面のある看板の大半は外され,順次下ろされ,誰かさんの唇と顎がまだ残っている。休憩時間の作業員はその様子を見ながらも,話していることは真面目なお天気のことであったり,他愛のない飼い猫の話,ハケの先に触れながらの会社や業界に関する今後の推測のようなものであった。
 朝,一匹の蛙が悪い魔法使いに懇々と理を説く,という夢を見て,部屋中に散らばった絵本と一緒に起きた。胸に開いて置いてあった一冊は寝返りからの圧迫により,せっかくの頁がくしゃくしゃになっていた。あーあ,と思い,パジャマのままで他の絵本をかき集めてから,さっきの一冊を途中に挟み,上から下からの天然アイロンでシワを伸ばせれば,とした。題名は『きみの家と私の木』。家を作るのに必要な材料となる木を切って持ち帰るために,その持ち主である「私」を説得する。わらしべ長者みたいに物々交換を持ちかける,街で作られるキャンディーとか,そういうものを持ち出す「きみ」に,「私」が別のを切っていけばいいじゃん!と憤る。絵で「私」は随分とキャンディーを欲しそうに見ているのに,意地っ張りに断り続ける。最後はこれに応じるのかどうか,そこまで,まだ読んでいないから検討はつかない。が,仮に応じたという結末で終わりを迎えるとしたら,教訓としては,何だろうか。大切なものは人による,だとか,資本主義的なところから隠れた批判を見出すべきか。机の上のレポート用紙に,指定されたタイトルだけは書かれている。枚数に制限はない。ただ,ミーティングの場で発表するにはまだまだ足りない。寝ぐせのままで,歯磨きはした。
 電車に乗り,同じ会社で付き合っている同僚と並んで,吊り革を探しながら立ち位置を確保してから,書けたかどうかという話をした。「意味わかんないよねー。」と不満をこぼす彼女は,小さい頃,寝る前にあまり好きでない絵本を無理やり読まされたことがあって,余計に絵本が苦手になっていると言った。どこが苦手なの?と訊くと,教訓めいてるところ。私の母とかそういうの煩くて,私の兄とかそこら辺とっても上手で。私はもっと冒険活劇って感じのものを読みたかったの。ばきゅーん,でばすーん,って感じの。だから兄の持ってたものを盗んだりして,布団の中で読んでた。懐中電灯ってワクワクするのよね。ね,意外でしょ?彼女はそう言って,睫毛を気にした。まばたきをして,指でくすぐった。
「意外かも。」
 これを聞いた彼女は笑い,混雑で緩んでいた(のだと思う)ネクタイの結び目を直そうとしてくれた。上手くいかず,電車を降りてから改札を通る前に成功した。じゃあね,帰りに,と言った彼女は朝から外回りの営業に向かい,昼の遅くに会社に戻る。だから帰りは一緒になる。
 会社に着いて,朝の事務処理が済んでからは,今期に売り出す新しいモデルの資料作りに向けた打ち合わせ,予定より時間がかかって,先方にすべき電話が遅くなってしまった。温和な性格の方で,何度かあって顔見知りになっていたことも手伝って,それほど怒られはしなかった。申し訳ありませんでした,という言葉に続き,またお伺いしますと約束して,電話を切れた。その後で部署の仲間とともに昼食をとりに外に出てから,再び会社に戻ってくると,席にいた上司に呼ばれた。あとで時間あるか?と訊かれたため,あります,と答えた。二時に空いている会議室に,ということだった。レポート用紙を取り出して,かかってきた電話にひっきりなしに対応していたら,『二時』まであと十五分というところになっていた。席を立って,トイレに向かった。すぐに出て,エレベーターに乗った。見たことのない人ばかりだった。知っている人が一人もいないなんて,珍しいことだなぁ,と思った。
 会議室には上司が一人だけだった。
「どうだい?レポートの進み具合は?」
 はあ,という正直な返事に上司は笑ってくれたが,目だけはすぐに真剣に戻り,レポートの発表が行われるこのミーティングの大事さをゆっくりと話し出した。皆が集められたその場で最初に話された概要は変わらないどころか,説明に用いられるセンテンスから何からも変わらなかった。聞き取りやすいし,いわば,簡潔にして要を得ている。覚えているわけで無いから,熱をもって響く。
「君をリーダーに,とも考えているんだよ。」
 勿論,こんなこと君にだけ言っているわけでないよ,と言う上司のにんまりとした笑みの元はここでも真剣のようで,指示した絵本は全部手に入ったか,どれだけの冊数を読んだのかという,具体的で,かつ細かい話を上司との間でした。会議室の電気は半分暗く,届かない西日がどこかにはあった。期限はまだ先だ。それを上司が言った。
 話の終わりに,生まれたばかりの,上司のお子さんの可愛い話も聞けた。
 会議室から出てきて,一度席に戻り,財布と携帯を持って隣の同期に「ちょっと,」と声をかけて会社の外に向かった。さっきよりも長い時間,エレベーターに乗っていて,知っている年配の女性と挨拶を交わし,また今度,と互いに言い合って下りた。受付の女性に会釈を,帰って来た先輩たちに「おう,逢い引きか?」とからかわれて,自動ドアを抜けた。温かい匂いに排気ガスが混じって五分も経たないところの,目の前の広場にある,小さい噴水から水が出ていた。ちょっと弱まり,また勢いを取り戻す。考えながら,誰かが蛇口をひねっているようだった。チョロチョロと冷たい。
 街路樹も含めて,林立するものに囲まれながら,西日が無理やりに押し込んだように射す光と,コンクリートに伸びる,夕方に冷ややかな雰囲気が「このぐらい?」という感じで合わさっていた。うっそう?そう思えるぐらいの音を立てて枝葉が十分に動いて,折れた枝が下の方でささっと動く。虫の気配がしない。
 缶コーヒーを一本分飲み切る間に,同じベンチに座った「タキタです。」と名乗ったお婆さんが話すには,近々娘がお孫を連れてこっちに来るということであった。しかし,タキタさんが心配するには,お孫さんに何かをプレゼントしてあげたいけれど,最近の子供の喜ぶものが分からない。やっぱりゲームがいいのか,そんなものが無かった時代の私たちは,そこがピンとこないのだけれど,と首を傾げ,服とかが嬉しいとも思うんだけどね。使えるものは嬉しかったよ,私たちはそうだったと言った。そんなタキタさんには,無難な返事として,ゲームもいいと思いますが,好みもありますし,一緒に買い物に行かれたらいいでしょうけど,と返した。そうですね,時間を作りましょうか。主人が恥ずかしがって,娘と共に行動したがらないのですけれど。あなたなら,どうやって主人を動かします?意地っ張りなんです。言うこと聞かないんですよ。さあ?どうでしょう。ねえ,どうでしょう。
 「どうしましょう?」。タキタさんはそう言い,穏やかに困った。
 タキタさんと別れ,会社に戻り,隣の同期に電話か何か無かったかを確認,お礼を言って自分の机のパソコンのメールをチェック。返事を何通かして,キーボードに重ねて,レポート用紙を開いた。とんとん,と一枚目の端を筆記具で叩き,何も書かずに閉じた。文章ソフト等のすべては使っていなかったから,その一つをクリックし,フォーマットとなる文章を保存したファイルを呼び出して,所定の箇所に打ち込んでいった。その日の分を終わらせたら,まばらな空席が目立つ時間になった。隣の同期も帰っていた。
 席を立つ前に携帯のアプリで送ると,彼女の方も『今終わった。』と返事を寄越して,ビルの外で待ち合わせをし,二人で会えて,二人で帰った。食事をし,電車に乗り,少し時間を潰して,彼女の方から先に降りた。
「明日ね。」
「明日。」
 そう交わして,ホームを去り,最寄りの駅まで窓から移動する家々の明かりを見た。自分の姿にはあとで気付いた。今朝よりまし(なのだろうが),けどネクタイはどっかに曲がっていた。鏡と同じで,右なら,左だ。くいっと自分で直した。
 家に着き,玄関を開けてから,電気を点けた。
 部屋に入り,朝に積んだ絵本の数冊を順々に取っていって,タイトルを見つけ,それを開き,跡になったシワを押さえながら,文字を読んだ。「私」は私の木の幹にぶら下がって,キャンディーを初めとして,色々なものを目の前に差し出す「きみ」をからかうような表情をしていた。くるん,くるんと器用に回れそうな「私」はとても楽しそうで,片目を瞑る。次のページになって,驚くような表情を見せていたから,何かあるのだろう。「きみ」からの次の提案はよほど魅力的なのか,平易な言葉で書かれたものが数行で続く。一度閉じて,そこに置いた。
 ベランダを開けて,外を眺めた。ぶら下がったコウモリみたいな袋が風に吹かれて,小さいカゴがそばに控える。ピンクの洗濯バサミが漏れた室内に照らされて,乾いた傘が窄まり,ドアの近くに寝かせられて,あとのことは後にした。
 看板の大半には,素敵なウインクが現れていた。きっと誰かを知っているのだろう。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-18

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