ストレイ・メモリー
ボールペンが床に落ちたらしい。望月は足元で踊るペンの軽快な振動にはっとして顔をあげた。
手元には大きめのノート。決して読みやすいとは言い難い文字が乱雑に並ぶ。新人の頃からその悪筆をどうにかしろ、クライアントの前に出せない、といったお叱りを受けてきたが今の今まで改善の兆しは見られなかった。
結果さえ出せばお咎めはやがてなりを潜めたが、望月は担当する「生徒」が彼の癖字をことあるごとに真似をするようになってから初めて己の慢心を悟った。しかも「生徒」は望月を純粋な理由から手本にしているわけではない。
本人いわく「私の唯一できる物まね」。自分が男性型のボディを備えていれば無精ひげをなぞる癖も真似できたのに、と「生徒」は自分の長い黒髪を顎の下に持ってきては望月のため息を誘った。そこで「生徒」がくるくる笑うまでがワンセットだ。
この日も「生徒」、もとい彼女は何が楽しいのかボールペンを拾い上げながらにこにこ笑っている。いの一番に目をひく三つ編みは丁寧に編み込まれ、人工の明かりを受けているというのにとても柔らかく光沢を湛え、背中からゆっくり滑り落ちて。
髪が。床に落ちてしまう。
望月が慌てて手を伸ばそうとした時には、知ってか知らずか本人の手が器用にその髪をすくい上げていた。
薄い被膜を幾重にも重ねたような瑞々しい手指が黒髪に絡み、現れては消え、脆く雲母を思わせる爪先がボールペンにたどり着く。ものの数秒の出来事だったが、人形のように少しも動かなかった彼女が見せた突然の躍動。
望月はこの先この光景がある種の枷のように自分の一生を左右するような、そんな気がしてならなかった。
「はい、どうぞ」
あっちへこっちへと視線が忙しない望月をいぶかしむ様子も見せず、望月の受け持つただ一人の「生徒」、千鶴はボールペンを望月の手元に連れ戻した。
今日で彼女に会うのは5度目。
5回繰り返しても、望月は千鶴と真正面から向き合う瞬間だけは丹田に力を込めないと始まらなかった。
意を決して千鶴の目を見る。望月の葛藤を知ってか知らずか、少女の張り付いたような笑みにさっと生気が溢れた。
「お会いしたかったわ、博士」
大きな目がくっと細められ、長い睫毛の陰りが黒い瞳を覆い隠すかのようで。
おう、と望月は喉まで出かかった何がしを全て飲み下してしまった。
会うたびに彼女の表情は人間らしく華やかに彩られていく。それは彼女がいわゆる心身の不調を表すようになってから益々顕著になっていた。
人間らしく。
千鶴は発育途中に心身を病んで人間らしさを失っていたわけではない。有り体にいえばこの子はアンドロイド。望月が勤務する企業が先陣を切って製造に着手した、限りなく人間に近い風合いを売りにした機械だ。それもただのAIではない。「記憶の寄付」、つまりバンクに登録した対象の死後、遺族の了解を経て抽出した人間の記憶を基盤に組まれた「内実ともに人間に近い」頭脳を搭載している。
そのせいか、望月は千鶴が感情の起伏に富んだ挙動を見せるたび愛着と戸惑いを感じずにはいられなかった。それもこちらの主観を絡めた錯覚に過ぎないのだろうと、同僚の忠告を聞いたのち自らを落ち着けたのだが、どうにも千鶴は彼の葛藤すらも見通した上で態度を変えているとしか思えない。
現に今も千鶴は望月の事を博士、と呼んだ。他のエンジニアの前では「望月先生」と言っているらしく、当初望月は千鶴の意図を抜きにしてもその複雑な思考パターンに舌を巻いたものだ。
「なあ、その博士ってやめないか?何で俺だけ博士なんだよ」
「あら、博士は博士でしょ?」
こいつ、また妙な学習を進めている。
アンドロイドにあるまじき抽象的かつ理解を求める気配のないリアクションである。
柔らかな微笑はますます深くなるばかり。やはり「楽しい」のか。ここまで深い学習を進めてくるといい加減、彼女を人間扱いして楽に構えたいのだが上層部がそれを良しとしない。
千鶴のバグを修繕するまでは、望月も千鶴の事をひたすら理詰めで分析するしかなかった。
「博士ってのはな、人間の間では偉い肩書持ってもっとどっしり構えてて、賢そうなおっさんを言う事が多いんだ」
「少し理解できるわ。望月博士はお仕事が良くできるし、がっしりしてて白熊っていうニックネームがぴったりだもの」
「…何で俺のあだ名知ってるの」
「前の授業の時も私を起こしに来てくれたでしょ?あの時一緒にいた方達が話してた。白熊先生って」
頭を抱える望月がツボに入ったのか、千鶴は押し殺した笑い声をあげた。
彼女の記憶のドナーである少女の仕草を見事に模写している。見れば見るほど可愛らしい。
「よし。俺が白熊と呼ばれる所以を推理してみろ」
「課題その一、って事ね?」
メモの準備よろしくね、と望月のノートを覗き込んだ千鶴はまたにっこり笑って彼の悪筆を指でなぞった。
「白衣と、おひげ、がっしりした大きな体と、…熊みたいな人が白衣を着ているからでしょう」
千鶴は仕上げとばかりに望月のあごひげを指さした。その桜色の爪が奇妙な光を帯びて望月の視界で踊る。
何かせねば、と望月もノートに赤ペンで「一〇〇点」と書き足した。人間の専売特許である抽象的なイメージを捉える技術をこのように理解している事自体、千鶴の一連の挙動は評価に値する。設計当初から求められていた人間らしい振る舞い、という点でも申し分ない。
千鶴は紙面に踊る満点表記に目を丸くして見せると、
「博士、私にはまだクリアしないといけない課題が沢山あるのに、いきなり一〇〇点なんて大丈夫かしら」
女生徒は乗り出していた体をするりと椅子に戻して、頬杖をつき望月の様子を窺った。
もっともだが妙な懸念を示すものである。望月はにやっと笑うと、胸ポケットをばしばし叩いた。
「大丈夫、大丈夫。実は俺もお前に出された課題に手を付けてない」
千鶴はここにきて初めて表情を曇らせた。叩かれたポケットの中で紙箱が空虚な音を立てている。
「…もう。あんなに禁煙しようってお話してたのに。マイナス二〇点よ」
「いや悪い。これでも量はだいぶ減ったんだぞ」
紙箱に触れた途端にまた吸いたくなってきて、望月は若干申し訳ない気分になっていた。
千鶴のオリジナルである少女の父親も愛煙家だった。病床にあった少女の為に禁煙したと父親本人の口から聞いている。今こうして目の前にいる千鶴も望月と初めて会ったあの日、いや、望月がこん睡状態にあった千鶴の整備に立ち会ったあの日に、前触れもなく目を覚ましエンジニア達に尋ねてまわったのだ。
「煙草は吸っていませんか。もう咳はしていませんか」
初めての「授業」を行ったのがその日の午後。先述の通り、今日で授業は5度目。
「博士?」
はっとして望月がメガネをずり上げると、千鶴は所在無げに椅子を揺らしていた。
彼女の表情筋はこれと言って働いている様子はない。しかし何故か千鶴の「心」に去来する不安や純粋な疑問、気遣いと言った細やかな感情が見て取れた。
望月は決して気の小さい人間ではない。しかし千鶴の繊細な反応を記録している間は一喜一憂どころの騒ぎではなく、授業が終わるたびに眠りに落ちる彼女を見守る間、煙草というお守りを手放す事もできずにいた。誰も彼女がこん睡と覚醒を繰り返すプロセスを理論的に実証するまでには至っていない。だが千鶴がどんなにむくれても望月の禁煙を後押しする者はおらず。
皆、千鶴の身を案じている。それは痛いほどわかる。
「なあ、お前」
「千鶴よ。大丈夫、博士が私の名前を上手く発音できなくても怒らないもの」
今度は困ったような笑顔から始まり、すぐさま悪そうなしたり顔を作って千鶴は望月の様子を窺っている。
この子はこんな顔もできたのか。さながら学校帰りに恩師のもとを訪ねた女子高生である。顔の造形もオリジナルから引き継いだものとはいえ世辞抜きにも美しく、人形のようで人形にはない不思議な温度を内包している。
「でも、あの子の記憶によると『人間は関係が親密になるほど相手の名前を呼ばなくなる』って」
「待てよ、何ていうかそりゃ、熟年夫婦の日常じゃないか」
中年としては無難な方向で切り返したつもりだった。はたと室内が静寂に包まれてからようやく望月は千鶴が言わんとしている事に気付いた。
夫婦。家族。親子。両親。
自分は何て馬鹿な事を。
「悪かった。煙草といえばお父さんなんだよな」
初めて千鶴は言葉のないリアクションを選んだ。先程までホワイトノイズに溶け込んでいた彼女の足音も止まり、さらさらと幼い子の背中で三つ編みが揺れる。
「よく聞いてくれ。千鶴がいつも煙草の匂いに反応して目を覚ますって事は、俺以外のチームメンバーもみんな知ってる」
千鶴がこうして致命的なバグを抱えている理由。
彼女を支えると同時に縛っているのは恐らく、家族。たった1人の肉親。その記憶は別人の物でどこまでも自分とは隔てられた世界での思い出だ。
「ここからは俺の推論だ。違うなら話を止めてくれ…千鶴は、16歳であの子が旅立つその日までの記憶をみんな反芻して学習を続けてきた。…この授業の前、千鶴の体感時間を調べたらそれも16年。16年ギリギリだったんだ。だから」
「恭司さん」
望月は今度こそ動けなくなった。
彼女の口から自分の名が零れ落ちた。信じられない。
その声音は今まで聞いた事がないくらい小さくて脆くて、千鶴の事を機械として扱おうと努めていた望月の決意を崩すには十分すぎた。
「今まで黙っててごめんなさい。明確な答えを出すまでにこんな時間がかかる問題に出会うなんて…これが人間の言う『悩み』なのかしら」
そこに座っているのは、わが身に起きた異変に幼い心を乱す少女に他ならず。望月はペンを走らせる事も忘れて見つめていた。
「答え、って」
「煙草の匂いは嫌いじゃないのよ。あの子の楽しげな思い出によく登場してたから。最初は楽しいとかつらいとかよく分からなかったし、今も自信はないけれどいい線いってると思うの」
千鶴はそっと望月の手に触れふわりと包み込んだ。強く握りしめたために武骨な指先が血の気を失っている。
「最期の記憶もやっぱり煙草の気配がしていてね。そこまであの子の記憶を追いかけて、追いついた時、いけないと思ったの。追い越しちゃ駄目だって。だって、あの子はその日までしか生きられなかったんだもの」
そこまでは分かっているのでしょう。
千鶴の目はそう語っていた。望月はかろうじて目を合わせると先を促した。
「こんな事が私みたいな機械に起きてるなんて、きっと誰も信じてくれないわ。私自身恭司さんとお話を続けてやっとこの気持ちを認識できるようになったから、尚更ね。だから今ならわかるの」
俯いて望月の手指を撫でていた千鶴がひょいと望月に向き直った。
「保管庫で眠っていた時、恭司さんが連れてきた煙草の香りと優しい呼びかけは私だけのメモリ。私がこの手で触れられる私だけの思い出。同じ煙草なのに全然違う質感を感じて、私はあの子とは違う誰かだってわかったの。
あの子の事を思うと今でも苦しくなるけれど。私、生きて恭司さんとの思い出をもっと積み重ねたい。初めての思い出を共にして、今の今まで私に生きる術を与えてくれた貴方と」
長い長い沈黙が部屋に満ちる。千鶴も恐らくその精緻な頭脳を持ってしても正確な時間を計測する事は適わなかっただろう。
「…なあ、今の俺すごい顔してるだろ」
「ええ。白熊さんのお顔が真っ赤。特に目が…大変、私、人間が泣いてるところ初めて見た」
先に折れたのは案の定望月で。機械に人間が負ける日は存外早く来た、いや年端もいかない女の子の前でこんな、とひどい泣き笑いを伏せようとしたが千鶴がちゃっかりそれを妨害しにかかった。
「私も実は、そう、これはきっと恥ずかしいって事ね。とても恥ずかしいわ。私も真っ赤になれたら話は早いんだけども。恭司さん?ねえ、色んな気持ちが押し寄せてきて処理が追いつかないの。これは人間の言葉で言うと…」
「もう良いって!それは俺とお前の永遠の課題だ!」
-了-
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