聖龍童子外伝2 碧玉の海
仁と天
町は汚くて、小さくて、貧しくて、不便だった。だけど…私はそこに行かずにはいられなかった。
そこは海のある町だった
潮騒のざわめきと共に風が頬を撫でる。
「なあ仁。お前の髪も瞳も変な色だよなあ。」
傍では鳶色の瞳をした少年が仁を覗き込むように見ていた。
「そうだよなあ。そんな色見たことないぞ。」
そう言ったのは目の前に座る少年だった。
仁の周りには五人の子どもが囲んでいた。皆、茶の髪の少年であった。それもそのはずだ。龍王国では殆どの人間が茶の髪、茶の瞳を持っている。
「そうかな。」
「そうだよ。ああ、でも、本の中の皇子はそんな色の髪をしてるんだぞ。」
鳶色の瞳の少年は言った。
「本なんて読めるのかよ。」
周りから笑い声がおこる。この中で字が読めるのは仁だけだ。そもそも、小説本など高価なものがそうそう手に入るものか。
「読めないけど…昔親父が読んでくれた本に書いてあったんだよ。」
少年は口を尖らせた。
「お前の親父は役人だったものな。」
少年を昔から知る者が答えた。その少しばかり嘲りを含む言葉が、少年を苛立たせた。少年の父は県の小役人だったらしい。下官とはいえ、役人だからこの辺りでは珍しく学問があった。しかし、それは既に過去の話である。少年の父は消えてしまった。県の租税を横領した罪を問われたのだ。そして…囚われる直前に出奔して、そしてどこかへ行ってしまった。有名な話だ。それは少年がまだ幼い頃で、少年は母から父の無実を訴えられながら育った。父の記憶は少年の名を呼ぶ声と寝物語を読む姿だけだった。緑の髪の王子の物語を。
少年は母を亡くし、孤児になった。だからここにいるのだ。ここにいるのは孤児ばかりだ。
その中にあって、確かに仁は異質だった。
髪や瞳の色ばかりではない。
仁はある日突然やって来た。歳は自分たちと変わらないが、明らかに異質だった。姿形ははっとするほど綺麗だったし、どんな服装をしていても、どこにいても、それと気づく気高さがあった。とにかく、空気が、特異だったのだ。
仁は驚くほどに頭がよかった。なにしろ字を書くことが出来た。字は少なくとも初等を出なければ書くことが出来ない。だから初等にも行けない者たちは、自分の名前すら書くことが出来ない。名前は音だけ決めて、あとは名師と呼ばれる者に字をあてはめてもらう。戸籍をもらうためだ。名師は天運のある名前を占い、金銭を貰って売る者もあるが、大抵は里や県の役人が無償で引き受けていた。少年の父もこの辺りで名師をしていたと母から聞いたことがある。孤児は自分の名前すらわからない者も多い。あまりに小さい時に捨てられて、覚えていない者、覚えていても字が分からない者。そんな者ばかりだ。みなお互いを適当に呼んでいる。それが名前になる。それだからこそ、皆には文字に対する憧れがある。それが仁への羨望に繋がっている。
しかし少年は嫌だった。まるで神を崇拝する様に、仁に群がるのが堪らなく嫌だった。
少年には天と言う名も文字もある。それは世の中では至極当然で、読み書きなど実は特別ではない。しかし仁の知識は世の中の常識を超えている。
仁はここにいるものではない。
仁はあまりにも眩し過ぎる。
これでは自分たちが惨めなだけではないか。
少年はため息をついた。そんなことを考える自分も嫌で堪らなかった。
仁は海を前に少年たちと他愛ない話をした。楽しかった。仁の周りには同じ年頃の子供などいなかった。初めてこの場所に来た時は抜け出した罰の悪さもあったが、今は慣れてしまった。
仁は父を見たことがない。母は、夫に捨てられたのだ。そう、仁は了解していた。母は振る舞いからして元々深窓の姫君であったらしいが、実家とは疎遠であった。金銭的な援助はあるのだろうが、家族としての交流は皆無であった。
仁は父のみならず母のことすらほとんど知らない。
自分はいったい誰の子供か。仁はずっと思って来た。
時折、母の元に誰かが訪ねて来ているのを仁は知っていた。世間の目を逃れるように、夜半に訪うのだ。それは男の輿車であり、おそらくは母の相手であろうと思われた。
それが父なのか、それともそうでないのか…なぜ隠す必要があるのか。
仁はその車を見るたび、思うたび苛々した。
そして、無償に家を抜け出したくなったのだ。
そこは仁の知らない世界だった。学師が文字で語る世界に似ていて、そして明らかに異なる世界だった。
商店が並ぶ街路、商店と言っても民家に幟を立てただけの粗末なものだが、は屋台の焼麩のにおいで満ちていた。焼麩と言うのだとは、後に友人となった子供たちから聞いた。
仁は子供が焼麩をくすねるのを見た。見つかる者もあればそうでないものもいた。見つかる者は鞭で叩かれていた。見ていられなくて、仁が間に入ると、金を払えと言われた。
仁はものを手に入れるのに金が必要であることは知っていた。しかし、金というものがどういうものか、その時まで知らなかったのだ。仁は子供に金の有無を問うた。子供は泣いて、無いと答えた。確かに対価を払わぬ道理は無い。仁は仕方なく、自分の衣に付いた玉を渡した。商店の男は驚いて仁を疑ったが、別の老人が玉の価値を語って事なきを得た。仁はその時、自分の纏っているものが恐ろしく高価なものであることに気がついたのだ。
その後すぐに、仁は大柄の男数人に囲まれた。今から考えればそれは追い剥ぎの類であろう。玉のやり取りを見て、仁が身につけている物の価値に気づいたのだろう。
しかし、すぐに仁のまわりから軍人とみられる男が数人現れ、追い剥ぎを一網打尽にした。仁はその時初めて、抜け出したことに気づかれていることを悟った。これは仁の乳母の父である子南の差金であろうと仁はため息をついた。仁は仕方なく家に戻り、子南に謝罪した。子南はけして、仁を咎めなかった。むしろ、焼麩が欲しいならその服を売って買えと言った。
仁は驚いた。そして成程と思った。
子南は町に出るとき、仁の祖父の真似事をしてくれた。古着屋にも連れて行ってくれた。仁の着物は焼麩十年分にはなっただろうか。仁はそこで、焼麩を盗んだ子供に出会った。
仁は衣服の対価の一部で買った木綿の服を着ていたし、髪型も町の人間に合わせていたから、分からないのではないかと思ったが、子供はすぐに仁と分かったようだった。後で聞いたが、仁のような緑の髪や瞳の者はこの辺りにはいないのだそうだ。とはいえ、仁自身自分以外には見たことは無いのだが。
子供に名前を聞くと、子供は名前など立派なものは無いと答えた。ただ、りょうと呼ばれていると付け加えた。
仁は驚いた。仁は学師に名は戸籍の基本であると教えられていた。戸籍に名を記して初めて国民と認められるのだと。戸籍は租税徴収の根本だ。しかし、名が無いとはどういう事か。
子南は、租税を逃れるために出生を届出ぬ者がいると教えてくれた。それは税を逃れることが出来るが、その者は学校にも通えず、公に関わる全ての仕事に就くこともできない。
仁が反駁すると、子南はそれが現実だと答えた。
天はりょうの仲間だった。
龍王国の構という規則によれば、孤児は里の管理する施舎という施設で養うのが基本だった。租税徴収の最小単位は邑であり百人程度の集団を一邑とする。里は十の邑を集めた千人の集団であった。ついでいうと、里を十集めた一万人の集団を町といった。一万は目安であり、華岸など十万人を超える町もある。そして、町を十集めた十万人の集団を県、それを十集めた百万人の集団を国と言うのである。とはいえ、龍王国の民は三千万。龍王国に国は十国。国には百万を超える民を持つ国もあれば、遠く及ばぬ国もあった。ちなみに、華岸や王都・平陽のある羅国は五百万を裕に超える人民を抱えている。
構は、五人を一組とし相互扶助あるいは連帯責任を負わせる制度で、多くの意味合いを持つが、孤児に関係のあるところでいえば、ある一定の金額、あるいは食物を月々出し合ってそれを福祉政策に利用するという決まりがあった。構で徴収された金品は里庁が管理する。その一部が、孤児を養うために使われている。
しかし、それはあくまで原則である。構は連帯責任制度だからある程度機能して、金品が里に収められるが、それが福祉に使われるとは限らない。いまこの里では、その金品は殆どが町府に上納されて、どこかに消えている。恩恵は殆ど孤児には返ってこない。だから皆、飢えて盗みを働く。そもそも、孤児たちは構の制度など知りもしないのだ。ただより集まって暮らすほうが盗みもしやすく、簡単に殺されないから集まるだけだ。りょうは、だから天の仲間だった。
天は、天という名前に誇りを持っていた。何ということは無い。ただそれが、父にもらったものであったから、忘れないようにいつも砂に書いていた。
天は自分たちには未来がないと思っていた…
施されて、今日を凌いでも、飢えはまた明日やってくる。抜け出す術を与えられないのに、ただ貰っても、先に繋がってはいないのだ。
「俺たちは犬だ。」
天は言った。
「施しに尻尾を振るしか出来ない犬だ。」
仁が差し出した食物を罵倒するように言った。
「わかっている。俺たちはいくら喚いても、それを貰うしか無い。そうしなければ生きられない。」
それは罵倒というよりは、吐露に近かった。
天は岸壁から海を指差して言った。俺は海に出るのだと。
海には畢鼠という海賊がいた。所謂、海を縄張りにする強盗集団である。海は渡航禁止の布告により軍の介入が少ないのをいいことに、海賊がのさばっている現状があった。彼らは沿岸の町々を襲い強奪する無法集団ではあったが、中には王侯貴族の蓄財を襲い、天たち孤児に分け与えてくれる義賊のような者もいた。
天には戸籍が無い。戸籍が無いということは、即ち人として認められないということだ。龍王国には賤と呼ばれる土地を持たぬ隷属民が数多いるが、それでも戸籍があれば国家は民として扱ってくれる。孤児たちも半数は戸籍を持っていた。天も生まれた時には戸籍があった。しかし、父が罪人として失踪してから、世間の非難に耐えかねた母親が、自らを社会的に抹消するために、戸籍を捨てたのだった。
天はだから、死んだことになっている。そんな者はまっとうな職に就くことは出来ない。即ち、彼にとっては海賊となる方がよほど夢があるのだった。
「御船を見たことがあるか。」
唐突に、天が仁に言った。
羅国・淡県の中心である華岸は王国随一の貿易港であると共に、羅国では最も造船が盛んであった。渡航禁止と言っても、龍王国内の交易は無論、海路も含めて認められている。龍王が諸々の国事に使用する船舶を御船と言ったが、御船を献上するのは淡県県政の名誉ある役目の一つであった。だから華岸の人間は皆、船に誇りを持っている。
仁は岸壁に住んでいた。だから行き交う船はいくらでも見たことがあった。その中でも一際豪奢な船が御船である。龍王の使節を乗せた帆船だといい、龍旗がその証である。
「見たことはある。」
仁は答えた。天は少し驚いた表情をした。仁は博学だが、実学に乏しい。銭さえ見たことない男である。御船を見知っているのは意外だった。何故か悔しい気持ちになった。
「では、船はどうやって造られるか知っているか。」
少しむきになって、天が言うと、あっさりと仁は知らぬと答えた。仁はそういう頓着のない男だった。それが、その矜恃の低さが、天を苛々させる。何故かそれは嫉妬に似ていた。
その様子をりょうは笑って見ていた。
「この先に船を造る工場がある。行きたいとは思わないか。」
「行きたい。」
仁は即答した。言葉を失って、天は諦めて、行こうと言った。
夢人王
茹だるような暑さであった。天候の機微は貴賤に関わり無しと言うが、それは龍王宮とて例外ではない。まだ朝露の残る時間だと言うのに、むせ返るようであった。
「これは、世孫殿下。お早うございます。」
東宮殿の女官が銀龍紋の衣袍に身を包む少年を見て慌てて跪いた。
世孫の東宮殿訪問は毎日の日課である。ここには世孫の父母が住まうからだ。しかしこの日の東宮殿はいつもよりも少し慌ただしかった。女官が世孫の訪問の刻を失念するほどに。
「どうしたことだ。」
世孫・龍光は首を傾げた。やはり少し異様だ。
「いえ、何もございませぬ。しかし、本日のご挨拶は不要との仰せでございます。」
「誰が申した。」
龍光は顔を顰めた。
「いえ、それは…」
「無礼者め。参る。」
「なりませぬ。聖龍童子殿下は伏せっておいでです。」
女官は慌てて龍光を制した。龍光は舌打ちをした。襖の奥から声がする。
「誰じゃ?」
それは紛うことない、聖龍童子の声であった。龍光は襖を自らの手で開けた。女官は制したが龍光は襖を開け放った。
「世孫殿下…」
女官はうな垂れた。龍光の目には一人の男が写っていた。他にも取り巻く者が幾人か居たが龍光はそれを見なかった。
「はて…」
男はどこか遠くを見るような目をした。
「誰じゃ…?」
龍光は男を見た。男ははだけた衣袍で女官にしなだれかかっていた。女官は慌てたが、流石に聖龍童子を放り出す訳にはいかなかった。
これが、この男が聖龍童子・旻である。
女官は旻に耳打ちした。
「殿下。世孫殿下でございます。」
龍光は無表情で言った。
「ご挨拶を申し上げます。」
旻は呆けたような顔で、欠伸をした。
「世孫?誰じゃそれは…」
その言葉に、一瞬場が硬直した。異様な空気が空間を包んだ。
「殿下、皇子様ではございませぬか。」
誰かが口を挟んだ。
「み、こ?何だそれは。」
旻は焦点の定まらぬ目で天を見上げていた。
「皇子は殿下の御子でございましょう。」
「こ?こは子どもではないか。わしはこのように大きな子より、幼い子がよいの。世孫ではないぞ。わしは旻じゃ。」
旻は独り言のように呟いた。溜息とも、失笑ともつかぬ声が漏れた。
「殿下、今朝はお下がり下さいませ。聖龍童子殿下は体調が優れぬご様子。」
女官は平伏して龍光に言った。龍光は何も言わず踵を返した。
「そこで何をしておる。」
聞き慣れた声に呼び止められ、龍光は振り返った。この世に、龍光を立ち止まらせることの出来る者は幾らもいない。龍光は振り返った。
「これは母上。何をしているとは可笑しなこと。朝見に罷り越しましてございます。」
龍光は母に丁寧に礼をした。
龍光の母は、聖龍童子・旻の正妃で、号を華耀。名を孫麗華と言った。
「そうか…」
華耀妃は呟いた。世孫朝見は毎朝あるが、いつもは聖龍童子に代わって華耀が答えている。そのときは、大抵聖龍童子は御簾の内で大人しくしているのだが。今日はたまたま、華耀が居なかった。
すると聖龍童子の御堂から叫び声が上がる。
「ここはどこじゃ!あついぞ!あついぞ!華耀はどこじゃ?そなたは誰じゃ?誰じゃ!華耀?」
それを聞いて、龍光は母に向かって言った。
「殿下がお呼びでございまするぞ。」
華耀妃は溜息をついた。
「そなた朝見は暫く控えよ。」
「承知いたしました。」
龍光は頷いた。華耀は息子の様子を伺ったが、住居を異にする息子が何を考えているかは一向に分からなかった。
悪い噂はまこと伝わるのが早い。父の喪が明けて久しぶりに王宮を訪れた明侯・香景洪は、世孫朝見の様子が王宮内のそこかしこで語られているのを聞いた。
聖龍童子・旻。俗に、夢人王と呼ばれている。これは、ある種の蔑視である。即ち夢の中にいるような言動をする王と言う意味なのだ。旻は龍王・蒼龍の嫡長子であり、龍王と英玲皇后の唯一の子でもある。なんと一歳で立太子した紛うこと無き龍王国の継嗣だが、生まれてより常に廃嫡の噂が耐えない。病弱である上、時折意味のわからぬ事を言い、周囲を困惑させる。
たちが悪いのは…それが常にと言うわけではないことだ。大人しく周囲に耳を傾けることもあると思えば、突然暴れ出したりすることもあると言う。これを憂い、龍王は常に頭を悩ませているが、廃嫡を今まで言い出せないのは一つには外戚・孫家の権勢がある。
龍王あるいは世子が成人の儀を果たすとまず、名家より四人の妃が選ばれる慣例がある。必ずしも四人というわけでは無いが、最大は四人であり、現龍王・蒼龍の場合もそうであった。この妃の中で初めに男子を挙げた者が立后し皇后となる。それが現、英玲皇后・孫晴であり、その子が旻であった。孫家は龍王国創生の英雄を祖とする名家の一つであり、立后は妥当であった。
そして、龍王の他の三人の妃には皇子が無い。現龍王には多くの子があるが、殆どが嬪位でない女官との戯れによってもうけた子であり、皇籍を持たない。王族と認められていないのである。龍王の子で、旻の他に皇籍を持つのは、年齢の順で言うなら、次は五男・陽ということになる。これは佳嬪・関氏の子であり、母の身分は旻に及ぶべくも無い。子の母に嬪位を与えないのは龍王なりに世子争いを避ける目的が在ったのだろうが、年齢を重ねるにつれ、旻の言動が正常でないことに皆気づいた。
それでも未だ廃嫡されないのは、実家の権勢ばかりではない。旻には皇子がある。
誰もが旻が子供を成す事は不可能であろうと思っていた。しかし、それでも世子である以上、成人の年になれば妃は娶らねばならぬ。そこで妃に娘を差し出したのは、外戚の孫家だけであった。それが、華耀妃・孫麗華である。その時は誰もが旻は廃嫡されるであろうと思っていた。現に、龍王さえも、子がないことを理由に、旻を廃嫡しようと考えていた。そのために、次男・韋角皇子を第二妃である高妃の養子とし、皇籍を与えたのだ。
しかし、華耀妃は見事に旻の皇子を挙げた。それが、世孫・龍光である。そして今もって、龍光以外に旻に子は無い。だが嫡子ある以上、旻に廃嫡される理由は無い。だから今まで、龍王は悩みながらも旻を聖龍童子に止めている。
龍光は果たしてまことに旻太子の子であるか。これは龍王宮に仕える者たちが陰で噂する、一番の話題であった。宮中は噂話が耐えないが、これは笑えない噂であった。旻は王国の聖龍童子、次期龍王である。その嫡子はその次に龍王となる身である。その出生を疑うことは、ともすれば謀反にも繋がる。しかし、それでも噂が耐えないのは、強ちそれが真っ赤な嘘とも言い切れない事と、龍王自身が疑っている節があるからだ。世孫の朝見が噂になるのもここに理由がある。
かく言う、景洪とて思うところが無いわけではない。景洪の父・香明洪は龍王の双子の弟である。たまたま、龍王の方が兄と定められたために、臣籍に下らざるを得なかったのだ。もし、明洪が王であったなら、その嫡子である景洪が聖龍童子であった。龍王は双子の弟を重用し、明洪一族は栄達を見たが、それでも、今の聖龍童子を見れば、疑問を感じざるを得ない。ましてや、龍王の皇子たちは尚更であろう。
景洪はふと辺りを見回した。公式の謁見行事である朝見は王族の習わしであり、国侯でも王都を訪れた際は欠かせない。朔日の朝見は特に重要で、多くの王族が正殿から出てゆくところであった。その中に珍しい顔を見つけた。
「韋角殿下…?」
それは紛れもなく、龍王の第二皇子・韋角であった。韋角が王族と認められたは最近のことであり、おそらく朝見は初めてであろう。
韋角は景洪の妹の夫であった。つまり義弟である。天下の香明洪の、しかも嫡出の娘の嫁ぎ先としては些か心許ないところだったがようやく日の目を見た。
景洪は遠巻きに韋角を見ながら、噂を思い返した。果たして自分が韋角の立場であったらどう思うだろうか。景洪の妹は一人ではないが、義弟としてまず思い浮かぶのは韋角である。
波乱があるとすれば…私は果たして誰を推戴するか…
景洪はふと、そんなことを思った。それは良からぬ想像に過ぎない。だが、強ち突飛でもない。それは静かすぎる、嵐の前触れの様であった。
龍光はこの国の世孫という地位にある。いや、正確に言えば、世孫という地位は無い。しかし、慣例的に世孫は皇太子の嫡子という意味であり、次々代の龍王となる者を示唆する。龍光の父・旻は龍王の長男であり、皇后の唯一の皇子であった。そして、龍光は旻の唯一の子であった。即ち、龍光は龍王となるべくして生まれ、龍王となるために育てられた。
通常ならば、誰一人として龍光の王位継承を疑うものは居ない。現に、外戚・孫家の者は龍光を世孫として丁重に扱う。
しかし、龍光には常にその地位にふさわしくないと言う噂がつきまとっていた。
そもそも聖龍童子の宮殿である東宮殿は、聖龍童子によって采配されており、その後宮は龍王宮において、唯一、王の管理が届かない場所でもある。なおかつ、今の聖龍童子は後宮を管理する力が無く、全ては…正妃・華耀妃の思うままになるといって良い。
或いは…聖龍童子以外の男を何かに紛れて入れることも不可能ではない。
龍光自身もまた皆の疑いを知っていた。それが、龍王も例外でないことも。龍光がその地位に留まれているのは偏に皇后…孫晴のおかげとも言えた。孫晴は旻の母で、晋侯の姉である。
龍王と雖も、聖龍童子の母后の実家を蔑ろにすることはできない。晋侯は名家・孫家の当主であり、今や龍王、聖龍童子二代の正妻を輩出した孫家の発言力は絶大であった。だから、蒼龍は廃嫡の機会を狙いながら実行することが出来ないでいるのだ。
皇后には長生きしてもらねば困る。
龍光は常に先を見据えていた。龍光にとって次に波乱があるとすれば、孫家の要である皇后が崩御した時であろうと思っていた。皇后が龍王より先に逝くとは限らないが、仮にそうなった場合、その時に、龍王の疑いを助長する者は確実に現れるからだ。孫家の栄達を快く思わない者はいくらでもいる。
誰じゃ、とはよく言ったものだ。
龍光は自嘲する。あの父が次の王になることは、おそらく龍王の意中に無い。自分が王でもそう思うだろう。そして、龍王が疑っている以上、いつか必ず地位を追われる。龍光はそう、確信していた。
龍光は世孫である。世孫は国を継ぐために生まれ、そして育てられてきたのだ。国を継げぬ世孫など無用の長物であろう。
韋角
古の時代にはこの国の皇子たちには皆、皇位継承権があった。その中で、一番優れた者を父王が選び、皇太子聖龍童子に据えたのだ。しかし、この聖龍童子は安泰ではなかった。なぜなら、父王の一言で決まるが故に、聖龍童子が失態を犯せば廃嫡される可能性が多分にあったからだ。故に暗君は少ないが、事あるごとに皇子たちは暗闘を繰り広げ、聖龍童子を失脚させようと試みた。
いつの頃からか、この国は暗闘に疲れ果てた。兄弟が対立し殺しあう事に疲弊したのだ。
ある王は、嫡長子を聖龍童子を決めた後、他の全ての皇子の皇位継承権を剥奪し臣籍に降下させることを決めた。そして、臣籍に下った皇子は二度と皇位継承者に戻れないと定めたのだ。長幼の序が定められ、長子以外には始めから可能性が無くなった。そのことにより、暗闘は無くなった。
ところが、更なる問題が生まれた。一つには嫡長子が名君とは限らないこと。まるで、能力の無い王が生まれる可能性があった。一つには皇位継承者が激減し、長子に子が無い場合、継承者を失う可能性があること。それから、簒奪の可能性が高まったことである。臣下が王位を狙えば、それは謀反であり、簒奪である。龍王国の王位は天帝に賜わるものだから、簒奪は天帝への反旗とも言える。それは、龍王国の滅亡に繋がる。また、継承者がいない国は、新しい王が天帝から指名される可能性もあった。
だからこそ、ある王は、麗山公を副王と定めた。皇位継承権を残し、万一の際の控えとするとともに、それが暗闘の種にならぬよう、政治関与を断たせたのだ。また、成人しない皇子や学者、神官、武官となる皇子は臣籍に降下させないことを可能とした。為政官でなければ、徒党を組んで政を左右することは難しいからだ。
「二兄。何を、お考えですか。」
傍らで武官服の男が尋ねた。禁衛府に仕える高官は臙脂に龍紋と定められている。大きな黒龍紋は四位の証。四位・守衛長・陽、即ち龍王の第五皇子である。
「いや、なぜ父上が私を高妃の養子にしたのか…理由を考えていたのだ。」
答えた男は神官、即ち麗山・神祇府の官吏。白地に黒龍紋、四位大学府佐官・韋角である。
「何を仰います。二兄は高妃の縁者、養子になることに不審はありませぬ。」
「我が母上は庶流故に嬪位を賜らなかったのだ。それを…今になって…」
「兄上、それにこれは我らの宿願ではございませぬか。」
韋角は顔を顰めた。
「滅多なことを申すな。」
この宮中では、些細なことが讒言の種になる。
「父上は我ら兄弟の多くを臣籍に下されずにいる。」
それは何故か…陽は目で訴えた。
龍王は息子たちを測っているのだ。その器を。
「その我ら兄弟の中で、最も人格者で名高い二兄こそが…」
「陽。」
韋角は制した。韋角には弟の思いはよく分かっていた。
聖龍童子は次の王だ。幼い頃から長兄は兄弟の中で別格であった。父王は子供を産ませた女官の位を上げることさえしなかった。それはひとえに、長子の地位を脅かす者を生み出さないためであった。
。
だが、陽を含めた兄弟は、聖龍童子の資質に不満がある。次の王として仕えるに値しないと思っている。それは…韋角もまた、例外ではない。
「父王はそれでも聖龍童子を溺愛しているのだ。」
そのことが韋角を躊躇させる。
父は聖龍童子の振る舞いを知っても、諸官に訴えられても、今まで黙殺してきた。
聖龍童子・旻は誰よりも早く、誰より尊い妃から生まれた絶対的な皇太子。たとえその信頼を失っても…できるだけ長くその地位に就けていたいのだ。
「しかし、父上は二兄に皇籍をお与えになった。遂に決断される時が来たのかもしれませぬぞ。」
陽の剣呑な言葉に韋角はため息をついた。
「陽。心得ておけ。そなたは聡いが、武人故、軽佻なところがある。思ったことを軽々しく口にするな。王宮だけではないぞ、常に、だ。」
陽は韋角の慎重な言葉に反論しようとしたが、少し考えてやめた。
聖龍童子に不満があるのは陽だけではない。兄弟の中には我こそはと思っている者もいる。
だが、その中で一番可能性があるのはこの二番目の兄であると陽は思っている。もともと兄は母の身分が低く、皇籍さえ賜っていなかったが、それでもその聡明は知れ渡っていた。慎重だが行動力があり、自らの手で大学に入り、官位を得た。為政官でこそないが、諸侯官吏の人望が厚く、交流も多い。
陽の母は佳嬪といい、龍王の皇子たちの母の中では身分が高い。だから生まれた時から皇籍を与えられた王族であった。しかし、兄を凌ごうと考えたことはない。
「二兄は慎重に過ぎます。時機を逃しまするぞ。」
その言葉に韋角は苦笑した。
「孫家を敵にするな。孫栄加は阿呆ではない。我らの動きに気づきながら…敢えて敵対しないのだ。我らが先に動くのを待っているのだ。」
「確かに…孫家の力は大きゅうございますが…」
いかに外戚に力があろうと、聖龍童子に能力が無ければ意味がない。あの父王が外戚の専横を許すとは思えない。
「二兄上!五兄上!」
遠くから十二、三の子供が走ってくる。
「朝見など久振りではございませぬか。」
子供は満面の笑みで兄に飛びついた。
「荘。王宮で走るな。そなた十二になったのであろう。」
韋角は呆れて、末弟を抱き上げた。
荘は幼く、純粋な子供である。純粋で、思惑もなく、計略もない。愛しい弟であった。
或いは皆がこのように、いつまでも純粋であったなら。
だが人は皆、人の輪から逃れられない。ましてや皇子ともなれば様々な思惑やしがらみの渦中に引き摺り込まれるのを避けられない。 この子供と同じ年頃でも、進んでその渦中に身を投じようとする者がいる。
そして私もまた人のことを笑えない。皇子に生まれた者は、程度の差こそあれ、欲を捨てるか、野心を持つかしかない。
或いは…敵は聖龍童子などではないのかもしれぬ…
「荘よ。そなたとは麗山でも会える。いつでも訪ねて来ればよい。どうだ?麗山学府ではきちんと学んでいるか。」
韋角は弟に尋ねた。龍王の皇子は七歳ごろになると、麗山に入り、麗山学府で学ぶ。そして成人後には官職に就くのが一般的だ。韋角のように大学に行くのは珍しいのだ。
「学師は難しいことばかり言います。すぐに寝てしまって…」
それを言おうとして、荘ははっとして口を塞いだ。兄二人はくすくすと笑い、荘の頭を撫でた。
「陽よ。荘は口をつぐむことを知っているぞ。そなたも見習え。」
「はい。肝に命じまする。」
そして、声を上げて笑った。
喜童
華岸で最も有名な造船業者はやはり喜童社であろう。御船造船の資格を持っており、かの有名な禁衛帆船の築造者である。禁衛帆船は龍王国一の巨大帆船で、唯一、国外への定期船として公的に使用されている船である。他国からは龍王船と呼ばれている。そもそも、国家間の渡航が禁止されて以来、公に許されるのは各国に対し年に二度の使節派遣のみとなった。国家間は広大な海に隔てられており、航行には巨大な船が必要である。それは国内のみを行き来する商船、客船とは比べるべくもない、造船技術の結晶であった。
華岸は羅国一、即ち王国一の港町だから、多くの船が停泊している。これらは殆どが喜童の製作であった。喜童の工場は華岸の沿岸、港の外れに位置する。
「大きいな。すごい。」
仁は率直に言った。仁の見ている船は大方が出来上がっているが、まだ色が無い。木の色が剥き出しであった。
「船は見たことがあるんじゃないのか。」
天は不思議そうに言った。ここにある製作途中の船は皆、それほど珍しい大きさではない。
「近くで見たことが無いんだ。」
仁の住む岸壁は街から遠く、そこからは沖合に小さな船が見えるだけだ。
「そうか。」
ふと、仁は辺りにりょうの姿が無いことに気がついた。そもそも盗みを働く時以外は出不精のりょうが、こんなところまで喜々としてついてきたことも不思議だった。
「りょうは船が好きなのか。」
仁は天に尋ねた。天は笑って、さあ、と答えた。
「あいつには船よりも見たいものがあるのさ。」
天の含みのある言葉に首を傾げ、仁はりょうの姿を探した。
仁の視線の先にりょうの姿が写った。しかし、りょうは仁を見ていなかった。りょうの視線の先から軽快な槌の音が響いていた。
音は、まだ半分も出来上がっていない船から聞こえていた。
仁は、天に耳打ちした。
「船を造るのが好きなのか。」
天は含みのある笑いを浮かべて、首を振った。
「あいつは特段、船にも造船にも興味はないさ。」
「なら何を見ている。」
仁は不思議そうに視線の先を追った。
一人の男が木槌を握っていた。今日は休日だと聞いていたのに一人黙々と船を造っていた。まだ若い男であった。二十代の後半というところであろうか。造っているのは巨船である。とても一人で作りきれるものではないが、男は一心不乱に材木に向かっていた。
「あいつはあの男に惚れてるのさ。」
天は目を細めて言った。
「惚れてる?馬鹿をいうな。だってあいつは…」
男じゃないかという言葉を言おうとして、仁はふとあることが頭によぎった。
「まさか…」
「りょうも女だってことだな。惚れた相手には弱い。」
仁は愕然とした。今の今まで、りょうが女だと気づかなかった。そう思えば、思い当たる節が無いわけでもない。
「だ、だが、年が離れすぎている。」
それを聞いて、天は大声で笑った。仁があまりに真面目に答えるからだ。
「おいおい。惚れてるといっても夫婦になるわけじゃあるまいし。あいつは八つだぞ。憧れているのさ。あの良漢という男にな。」
仁はりょうの顔を見た。それは確かに、今まで見たことのない少女の顔をしていた。
「驚いた顔をしているな。」
天は得意げに言った。仁がこれほど驚くのは珍しい。
「女がこのような場所に来るなど…」
「そういうことだ。男の格好をするのは意味があるんだ。孤児で、女、と来れば妓楼に売られるしかないだろうが。」
「そういうものか。」
「そういうものさ。」
天や仁のような子供には妓楼のなんたるかは分からないが、それでも行って帰って来られるとは思えなかった。
りょうは飢饉の年に里庁の前の道に捨てられていた。そんな子供はいくらでもいる。りょうには、だから生まれた時は名前が無かった。りょうは良漢の名から自分の呼び名をとったのだ、と天は言った。
「男の俺でも良漢は憧れる。」
天は言う。
「良漢は元々俺たちと同じ孤児だ。だが、手先の器用さと頭の良さを喜童の若旦那に買われて職人になった。今や喜童の中でも重宝されてる。俺たちみたいな浮浪児は、畢鼠になって海に出るか、妓楼に身を売るか、盗人になるか、野垂れ死ぬしかないが…ああいう風に真っ当に生きたくない訳じゃない。本当は皆、ああなりたいと思っている。」
「そうか…」
仁は我が身を省みた。今まで仁は、父がいないことにも、母が自分に知られぬように誰とも分からぬ者を迎え入れていることにも、憤りを感じていた。しかし、彼らの生き様に比べれば、そのような憤懣は何れも些細なことに過ぎないと思われた。
仁は己の高慢を知った。天やりょうを思えば、どんなことでも喜んで受け入れられる気がした。
「俺は良漢のような才能はないからな。だから…海へ出るんだ」
天は言った。
「畢鼠は街を襲うんじゃないのか。」
「生きるために、奪うんだ。そうでなくては…俺たちは生きられない。」
「それしか、道はないということか…」
「そういうことだ。」
「おい、坊主たち。何をしている。」
突然頭上から声がして、天と仁は驚いて腰を抜かした。
「わっ!」
慌ててついた、尻餅の音に、さすがの良漢も振り向いた。
「…これは…若様。」
そして、貴族にするように、平伏した。
「まるで鼠のような童共が入り込んでいるぞ。気がつかなかったのか。」
言われて良漢は辺りを見回した。そこには子供が三人罰が悪そうに、疼くまっていた。
「お前たち、何をしている。」
そう、責めるように言うと、三人はしゅんとうな垂れた。
「まあ、子供相手に責めることもあるまいが。今は事の他、物騒な噂が多いからな。」
若と呼ばれた男は、ぽんぽんと天の頭を叩いた。若と言うには少し年を食った身なりの派手な男であった。そう呼ばれるからには喜童の跡取であろう。即ち、良漢を雇った男だ。
「申し訳ありませぬ。」
良漢は平伏して謝った。子供のうち二人は見知った者であった。良漢は元は孤児であり、彼らと同じように華岸の施舎に屯する浮浪児であった。その縁で時々、そこに居る子供に食べ物などを運んでいた。だから、見たことがあったのだ。しかし、もう一人は見た事の無い子供であった。
なんという…鮮やかな緑の…
良漢は一瞬、その物珍しさに目を奪われた。
それは、若旦那の方も同じらしかった。
「お前…」
何かを言いかけて、すぐ首を振った。そして言った。
「お前たちは早く帰れ。そしてできる限り多くの人に伝えるんだ。沿岸の警備を怠るなと。」
大きな港町である華岸には公的に沿岸警邏隊が組織されていたが、それとは別に町民の自治組織である警備隊も組織されていた。
「何かあるのですか。」
天が勇気を出して言った。
「いや、まだ分からない。確かな事は我々にも分からないのだよ。」
若旦那は困った顔を作って言った。
天は舌を打つ。
「俺たちの言うことなどどうせ誰も聞きやしない。」
少年たちが去った後、二人の男はひそひそと話を始めた。
「良漢よ。やはりまずいことになったぞ。」
言ったのは、喜童社の跡取、杜穆であった。
「畢鼠ですか。」
良漢は眉間に皺を寄せた。穆が持ってくる話は大抵が畢鼠に纏わるものである。良い話もよくない話も。それだけ、造船と畢鼠は縁が深い。
「そうだ。王宮から発令された勅で畢鼠への取り締まりが厳しくなったのは知っているな。」
「はい。」
「それを受けて羅国府が動いた。」
「羅国府大尹ですか…」
羅国は王都のある国であるため、侯を置かず、国府の長はあくまで府尹であった。位階は三位である。
「ああ。最近代わったのだが、たしか、名は安義譲と言ったか。その男が船舶売買の制限を布令した。」
「なんと…」
良漢には、その経緯や、難しい話は分からないが、とにかくそれが即ち畢鼠が簡単には船を手に入れられなくなるということだと了解した。
「我らは身元怪しき者に船を売れなくなるということだ。それだけでは無いぞ。船の建造そのものに国府の許可が必要になったのだ。」
「朱可府のみならず、国府もですか?」
それは由々しき問題だった。造船業が行い辛くなるのは間違いないが、それだけではない。船あっての畢鼠である。彼らは海で暮らしているのだから。
「県政様はお認めで?」
良漢は淡県の県政が、畢鼠に貢がせる代わりに存在を黙認していることを知っていた。
だが、穆は首を振った。
「県政にそんなことができる肝はあるまい。国府が介入した以上、抵抗する術も気概もない。それにしても、安大尹は元々王府の役人だというが、現地の事情を知らぬと見える。あまりに性急に過ぎるというもの。」
穆の嘆きに良漢は頷いた。
「畢鼠は怒りましょう。」
畢鼠はその名のとおり侮蔑される犯罪者だが、造船を行う者には顧客でもある。当然、肩入れしたくもなる。そして、良漢にはそれだけではない、一概に畢鼠を罪人と割り切れない理由もあった。
「どうなると思う?」
穆は良漢に訊いた。
「鼠は安大尹を恨みましょうな。」
「それだけか?」
良漢はその問の意味するところを察した。
「穆様は畢鼠が船を奪いに来るとお思いか。」
畢鼠は全てが略奪を生業とするわけではない。ましてや、船を造る町は鼠にとって生活の糧を与えてくれるものである。海は陸上に比べて訴追が厳しくないため、畢鼠は、逃げるためにより強くより速い船を求めるのだ。だから、畢鼠はけして、造船業者から略奪したりはしない。しかし、その畢鼠が船を奪われては死活問題となる。買えないとなると、奪うしかなくなってしまう。
「喜童の船はそれだけの価値があるだろう?」
「だから…彼らは襲撃も辞さないとお考えですね。」
穆にしても、良漢ら職人も、自分たちの造る製品には絶対的な自信がある。
それは、身分の如何を問わず才能ある者を雇う喜童の誇りと言えた。
「それだけではない。奴らは県政も恨んでいるだろうからな。今まで散々貢がせておいて…今さら国府に迎合するのだから。」
畢鼠が異国より持ち帰った品々は法外の値段で裏取引されている。造船業が盛んな所為もあり、淡県は特に闇市と呼ばれる違法取引が多く、県政も賄賂を貰ってそれを黙認する慣例があった。それはそもそも、畢鼠というものが、取り締まっても取り締まっても次から次へ泡のように湧いてくるため、王府の目が届きにくい辺境では、ともすれば労力を費やすよりは恩恵を享受することに傾きがちになるのである。淡県は王都に近いが、海運の取引量が多く、正常な取引に紛れやすいために、このような慣例が蔓延っているのであった。
「さて、我々は如何に処するべきか…お前はどう思う?」
穆は試すように、良漢に言った。
「私にそれを訊くのですか。」
良漢は溜息をついた。
「いや、愚問だったな。鼠の子であるお前に、それを聞くのは。」
穆は笑った。
それを聞いて、良漢は俯いた。良漢は自分の考えがともすれば異常と捉えられることは分かっていた。だから、いつもそれを表に出すことはなかった。穆は察したかのように言った。
「責めているのではないぞ。隠さずとも良いではないか。お前は、鼠に味方したかろう。」
「穆様…」
良漢には生まれた場所の記憶がない。
唯一明確に覚えているのは、父が殺された瞬間だ。ある日突然に、役人が来て、父を拘束した。良漢は叫びながら誰かに抱えられ、一目散にその場を去るしか無かった。
断末魔の声がした。ただ、それだけだ。だが今もその声が頭から離れない。畢鼠と侮蔑される人々に拾われなければ、良漢は今生きていない。
「お前は鼠に力を与えるために船を造っている。」
穆は言う。良漢は、そうかもしれぬ、と思う。
この世には海でしか生きられぬ者もある。陸上で生きることの出来る者は、法に則った存在だけだ。良漢のように、戸籍すらない人間には他に生きる道は少ない。
良漢は職人になれた。これは実に運がいい。穆は戸籍の無い男を他の者と同等に扱ってくれた。
どうせ、こんなところまで調べはせぬ、と。もし調べられれば適当に誤魔化してやるとまで言ったのだ。
良漢は、他の者より恵まれている。だからこそ、海でしか生きられぬ者たちに、何かを返したいと思うのだ。
これは謝罪かもしれぬ。自分だけが、与えられていることへの。
「申し訳もございませぬ。」
「かまわんさ。俺も、海を商売にする以上、鼠を極論、悪とは言えん。寧ろ…鼠には恩がある。喜童社がこれまでになったのも…鼠と鼠に敵対する者、双方がより速く強い船をと望んだからに他ならぬ。」
穆は商人らしい、率直な意見を述べた。穆は殊、商売に関しては非情かつ合理的な人間で、利益を生み出すことが即ち正義であった。その点で言えば、異国の品々で財を成し、船を買う畢鼠は、如何に犯罪者といえども、格好の顧客であり、また、行政も大きな顧客と言えた。
「だからお前のように、鼠に肩入れするわけでもないが…だが町で戦闘をされても困るからな。国府が沿岸警備を強化する前に…鼠に船を売ってやらねばなるまいよ。我らも鼠に船を売らぬわけにはいかぬからな。」
そう言って穆はからからと笑った。良漢は困惑した表情で言った。
「国府を敵に回すのですか。」
それは無謀だ。しかし、穆は表情を変えなかった。
「まあ、当てがないわけでもない。」
「当て?」
「県政は当てにならんが、あの家は無能ばかりではないからな。」
世孫龍光
「世孫殿下。少しお耳に入れたき議がございます。」
襖の奥の声に気づき、龍光は書面から顔を挙げた。龍光が手にしているのは衆紙という巷に出回っている世俗の出来事を面白おかしく書き上げた紙面であった。それは町方にも分かる簡易な文章だが、なかなかに面白い。風刺の文句などは秀逸なものもあり、堅い書物の応酬に辟易する龍光の息抜きであった。
「入れ。」
「はっ。失礼致します。」
「成国か。如何した。」
声の主は安成国、四位武官で龍光の護衛長である。年齢は三十五。王国を代表する武人の一人で、元々は龍軍の副官だった。世孫とはいえ、一王族にすぎない龍光の護衛長は通常五位か六位武官に過ぎないが、龍光の母・華耀妃が特に指名して位階をそのままに息子の護衛長に推薦した。敵の多い龍光に対する配慮であり、龍光自身もその能力に信頼を置いている。
「父の申します言葉に些か不可思議なことがございましたのでお耳に入れたく…」
その成国が、眉を顰めて言った。
「父…義譲がどうかしたか。」
成国の父は安義譲。身分は羅国府大尹である。
「淡県にて、不思議な噂があるという話をしておりまして…」
淡県は羅国十県の一つで、県庁は華岸。羅国一の港町で有名である。
「淡県だと?奇遇だな。私も丁度、淡県のことをそなたに聞きたいと思っておった。」
「は…」
成国は怪訝な顔をした。成国は龍光が持っている紙が衆紙であることに気づいていた。
衆紙は非常に短文で、かつ初等字、即ち初等で手習うような平易な文章で書かれているので、高価な書物とは違い、庶民が容易に手に入れられる値で売られている。
羅国の市は七日に一度。衆紙は人の集まる市の立つ日に街頭で売られるのだ。数種類があり、それぞれに色が違う。
しかし成国からすれば、それらは全て愚にもつかぬ事を大仰に書き、大衆を扇動する紙切れに見える。
「殿下…」
「ん?ああ、これか。気になるか。」
龍光は短い衆紙をひらひらと振って見せた。
「面白いぞ。そなたも読んでみるか?」
龍光は大人びた少年である。一人前に政治を語る姿は威信すら感じることがある。王になる者とは普通とは違うのかと、成国は時々真剣に思う。しかし、それでも、やはり龍光は十二である。如何に背伸びをしようとも、大学の難しい書物より、初等字の愉快な文章に惹かれるのも無理はない。
成国の視線を察したかのように、龍光は言った。
「そう怪訝な顔をするな。衆紙には書籍に勝る点もあるぞ。」
「これは…奇異な事を仰います。お言葉ながら衆人は色と噂を好むと申しまする。その衆人の言に惑わされる事は…およそ貴人の成す事に非ず。如何に殿下が幼き皇子とはいえ、貴人たりえるか否かは、幼き時の就学如何と申しまする。」
成国は断言した。龍光は堅物で名高い成国の、その名の通りの態度を面白そうに眺めた。
「俗人の詭弁は低俗か。」
「如何にも。」
成国は頷いた。龍光は口元から笑みを離さない。手元の扇子をぱらりと開き、言った。
「だが王は…俗たる衆人を治める者だ。彼らが物言わぬ貝ならば、王は果たして意味があろうか。」
龍光は衆紙を卓の上に開く。その衆紙は半分が画だ。奇怪な描写が紙面を埋める。
成国は顔を顰めた。
「ここに描かれているのは鼠が大嫌いな貴族のお大尽に追い回されていた鼠が、最後の力で噛み付いて殺すという話だ。」
龍光は成国の顔を覗くように語る。しかし、龍光の開く衆紙にはそんなことは書かれていない。ただ挿絵と短い文章が在るばかりだ。即ち、これは連載で、龍光がこの衆紙を読み続けていることを物語っている。
「殿下は俗紙の何が、書籍に勝ると仰るのですか?」
成国は尋ねた。龍光は扇子の先で衆紙をなぞる。
「衆紙の発行間隔は七日に一度。即ち情報が新しいのだ。」
龍光は言った。成国はため息をついた。成程龍光は確かに正しい。世孫とは実に恐ろしいものだ。しかし、それだけではない。何故龍光はこの衆紙を選んだのだ。
「貴族のお大尽は羅国の者ですか。」
成国は龍光の真意を量った。龍光はにやりと笑う。
「そして鼠は淡県に出た。」
「淡県の鼠…」
「なかなか露骨な批判だとは思わないか。」
龍光の言葉に、成国は顔を顰めた。無論、そこまで言われれば、成国には意味がわかる。
「父を責めておられるのですか。」
先日の布令により、すでに不法取引で捉えられた畢鼠は既に百に登る。おそらく父でさえ、これほどの鼠が華岸に蔓延しているとは思っていなかったのではあるまいか。
しかし龍光は否と首を振った。
「私はこれでも義譲を心配しているのだ。窮鼠猫を噛む、と言うからな。」
「殿下、お言葉ですが…」
龍光は成国を制する。
「それに、こんな気の利いた風刺…誰が書いたか気にならぬか。」
龍光はにやりと笑った。成国はそれを見てふと思い至った。確かに、初等字で簡便に面白おかしく書き立てているとはいえ、これは羅国大尹に対する辛辣な批判である。政治事情に詳しくなければ名指しに近い批判など出来ない。即ちある程度の地位のある人間が絡んでいるということだ。
いったい誰が…
考えを巡らせる成国を面白そうに眺めながら、ふと思い出したように龍光は言った。
「ところで、そなたの話はなんだ。」
兄弟
「陽よ。何も麗山府まで見送りに来ることはあるまい。」
韋角はため息をついて、弟を見た。
「まあいいではありませんか。長官には許しを頂いたのです。」
陽は緊張感の無い表情でからからと笑った。
「守衛長のお前が王宮を開けてどうする。」
「副官は優秀ですよ。」
「そういう問題ではない。ただでさえ、我々は監視の目が厳しい。軽率な行動は控えよ。徒党を組んだと見なされれば、濡れ衣でも着せられかねん。」
韋角はあくまで慎重であった。
「なるほど。以後気をつけましょう。しかしここヘ来たのには訳があるのです…王宮ではそれこそ話せませぬ。」
「なんだ。」
「四兄はなんとかならぬのですか。」
陽の言葉に韋角は周囲を見回した。人の気配は無い。陽の言葉は続く。
「四兄は金を溜め込み過ぎている。四兄の金は確かに我々の役に立つが、あれ以上やっては表沙汰になる。」
韋角は周囲を気にしつつ言った。
「鼠と繋がっているのは栄尊だけではあるまい。」
龍王の四番目の息子である宋栄尊は臣籍に下り、為政官として王府にある。 その位階は四位、役職は朱可府尹である。朱可府尹は許可印を与える部署だけに、常々、不正が横行するのは事実である。
「四兄は朱可府尹だ。府尹が率先して関与するなど洒落になりませぬ。」
韋角も陽も栄尊の性格をよく知っていた。栄尊は韋角を尊敬している。その行動は常に韋角のためなのだ。だが…
「だから羅国大尹は…」
韋角は呟いた。
「大尹と何の関係が?」
陽は首を傾げる。羅国府尹はあくまで国府の長。王府の役人と直接関わりはない。
「羅国大尹の発令は栄尊の…ひいては我々への牽制とも言える。」
「牽制…ですか。」
陽には韋角の意図はわからない。
「大尹は前大政省長官だ。そしてその前は朱可府尹だった。誰よりも…朱可府の内情には詳しいだろう?」
大政省長官から羅国大尹とは、奇異ではないが、珍しい人事と言える。何かしらの意図があるようにも感じる。
羅国大尹は先日羅国内の造船許可に関する法の布告を行っている。
「今まで造船許可は王府の預かりでしたな。」
少し思い当たって、陽が答えた。
現龍王は畢鼠に対してどちらかといえば強硬な姿勢を示す王である。
羅国大尹が厳格な法を定めたのも、その姿勢に応えてのことである。
「羅国府の介入は波紋を呼んでいる…大尹からみれば龍王の発言を実行したに過ぎないが、王府の朱可府が目をつぶっていたことが…国府に退けられるということになる。栄尊は面白くなかろう。」
朱可府はあらゆることに許可を与える府だけにいつの時代も争いごとの種になりやすい。皇子である栄尊を長に据えているのも、龍王の身内故である。
「羅国のみの布告がいかなる役に立ちましょう。」
「羅は王都だ。だから羅の布告は全国に影響する。それに、羅には華岸がある。華岸には喜童がある。喜童はこの渡航禁止の世にあって、造船技術を保ち続ける数少ない業者だ。また、大商人でもある。裏とも表とも均衡して繋がっているが、これを機にどちらかに傾くかもしれん。いずれにしても…国府の槍玉になるのは目に見えている。」
「しかし、それが四兄と何の関わりが。たかだか商人でございましょう。」
「既に栄尊と畢鼠、喜童の関係は切っても切り離せぬ。だから…栄尊の実態を暴くため、そして我々の資金源を断つために、誰かが強硬派の安義譲を羅国大尹に据えた。」
そして、栄尊の資金源の中枢にある、畢鼠と造船を糾弾し、金の流れを抑えようとしている。
「大尹ほどの地位を左右出来る者など…いくらもおりませぬ。」
韋角は頷いた。
「我らに協力する執政とて、油断ならぬということよ。」
「まさか。高籍殿は二兄の伯父上でございましょう。」
陽は笑った。
「高閣下を疑う訳ではない。しかし、彼らとて己の欲得で動いているということを忘れてはならぬ。」
韋角は念を押すように言った。陽は頷いた。陽は韋角の慎重さがもどかしくもあるが、それがために信頼を置いていた。
この世は欲得の世界である。一つ間違えば奈落に落ちる。だから人は機を見、世の流れを読もうとするのだ。しかし、全てが欲得だけではない。共に落ちても構わぬと思えたからこそ、韋角を王に望んだ。
「高官たちは須く気にかけておきましょう。」
陽は言った。
緑の所以
成国の話は実に意外なものであった。
「緑の髪の子ども?」
「はい。年の頃は十前後。見事な緑髪緑瞳だと。」
龍光はそれを聞いて顔を顰めた。緑髪も緑瞳も王族にしかあり得ない。今まで龍王の子か孫以外にその色が現れたことはないからだ。仮に母の身分が低く、通常皇籍を賜らない王子女だとしても、緑髪や緑瞳ならば吉兆として皇籍を賜るのが通例だ。
「緑髪も緑瞳も非常に珍しい。今の王族には誰一人としていないのだぞ。それがなぜ、華岸をうろついているのだ。」
「私も耳を疑いましたが、複数の人間が目撃しております。」
「男子か。」
「目撃によれば、おそらくは。」
龍光はその言葉に思案を巡らせた。
緑髪緑瞳を持つとして、最も可能性が高いのは皇子である、ということだ。緑髪緑瞳には龍王が天帝から王位を賜る時の力が影響すると言われている。だから緑髪緑瞳の子は即位後に生まれた龍王の子である場合が圧倒的に多い。今、龍王には二十人以上の子があるが、緑髪も緑瞳も一人もいない。
その子がその初めの例だとすれば…なぜ隠す必要がある。
「緑髪や緑瞳は吉兆だ。陛下がご存知ないとは思えぬが…」
たとえ孫だとしても瑞兆として報告されるはずだ。
「私もそう思います。市民ならばいざ知らず父の如き有識者が見ればすぐにそれと知れるもの。かのような報告はおそらくは陛下の元にも届いているはず。」
龍光は頷いた。尤もであった。
「龍王は敢えて、黙っているのだとしたら。」
龍光は口元に笑みを浮かべた。こういう時、龍光は子どもらしからぬ思慮を巡らせる。成国は首を捻った。成国には分からなかった。緑髪緑瞳の王族はここ数十年出ていない。成国すら見たことがない。
気になるとすれば、場所が華岸であるということか。華岸は羅国随一の港町で、王都からも近い。その近郊は高官の別荘地として知られている。岸壁に海を臨む宮殿を建てるのだ。
だからこそ、緑髪の子どもが生まれても不思議ではないとも言える。例えば龍王の皇女を娶った執政の高籍や晋侯・孫栄加は有力候補と言えようか。
「いずれにしても、何か訳がありそうだな。」
龍光は言った。
皇子と商人と
「此度はお目通り叶いましたことまことに有難う御座います。」
豪奢な設えの邸宅の一室で、男が二人酒を酌み交わしていた。華岸には貴族の別宅が多い。この家もその例にもれない。
「穆よ。宅にまで来るとは一体何用だ。」
男は横柄な態度で言った。王府の四位官と言えば、とびきりの高官の類である。穆は慇懃に答えた。
「お聞き及びかと思いますが、羅国大尹が造船の取り締まりを強化致しました。」
「やはり、その話か。」
男はため息をついた。先般、弟が訪ねて来て、男に釘を刺して行ったばかりだ。
「羅国の話は大尹に直接談判すれば良かろう。」
男はいつになく慎重に答えた。杜穆は怪訝な顔をした。
「殿下。安閣下をご存知でございましょう。」
「穆よ。私は殿下ではない。既に臣籍にある者には相応しくない。」
男はため息をついて言った。
「これは、失礼を致しました。では、尹。」
「ここは私の家だ。気にせず昔の様に栄尊と呼べば良い。」
「は…」
これにはさすがに杜穆は躊躇った。ここは仮にも彼の邸宅。家人も多い。穆も昔のように子供ではないのだ。
「俺は官吏というのも性に合わんのだ。」
栄尊は砕けた調子で言った。栄尊の母は龍王の妾室の一人、慎夫人・芳氏である。芳家は華岸の貴族であり、慎夫人は孫皇后の侍女の一人であった。
華岸の現在の県政は栄尊の伯父に当たる。即ち慎夫人の兄である。慎夫人は栄尊七歳の時に同じ華岸の貴族・宋魁に下賜された。だから七歳で王宮より離れてこの方、栄尊は縁の深い華岸に住んでいた。
栄尊はそもそも王族ではない。芳家は貴族とはいえ、一介の県政の家に過ぎない。それが理由かどうかはさておき、母の芳氏は嬪位ではなかった。夫人の子では皇籍に属することが出来ない。だから栄尊はそもそも自分が皇子だと思ったことはなかった。だが、それを不満に思ったことはない。むしろ幸いだと思っていた。
「穆。外に出るぞ。ここは堅苦しくてならん。」
「は。」
その言葉に家人たちが慌てる。急に尋ねてきた商人風の男にそれでなくても面食らっているのだ。
「ではお供を…」
家人は焦って答えたが、栄尊は首を振った。
「いらぬ。馬を出せ。」
「しかし、このような時刻に…」
その言葉に栄尊は笑う。
「子供ではないぞ。」
こうして、栄尊と穆は宵闇の中に消えた。
「ああ、かったりぃ。」
大きく伸びをして栄尊は大声で言った。穆はその様子を見てため息をついた。
「先刻は慌てたぞ。お前の家で、お前を呼び捨てにできるわけがなかろうが。」
穆はうってかわってくだけた調子で言う。元来、栄尊と穆は友人であり、いかに身分の差ができようとも、それが変わったことはない。
「まあ、そう言うな。それにしても、厄介なことになったな。」
栄尊は笑う。
「大尹も余計な事をしてくれる。」
穆も苦笑した。
「これじゃ、苦労して朱可府尹になった意味がねえな。」
立派な身なりをしても、二人でいる時は栄尊は昔と変わらない。悪童だったころそのままに砕けた調子で話す。それが、穆には心地よい。
「お前みたいな奴が、宮仕えができるとはな。」
「おいおい。俺はもう十年も王府の犬だぞ。」
自嘲するように栄尊は言う。
「庫吏府で好き勝手やってた奴が今更何を言う。」
穆の辛辣な言葉には訳がある。栄尊は庫吏府刺使が地方派遣されるのをいいことに、羅国でいろいろな裏取引に関わり財を築いてきた。刺使は国府の監視役だが、刺使を監視する者はいないからだ。そしてその財で上官を買収し、朱可府に入った。そして今やその長である。
「俺もこれで皇子ってやつだ。この血を利用しない手はあるまい。」
「ったく、これだから貴族ってやつはな。」
「ああ、大体がろくでもねえ。」
栄尊のその言葉に、穆は大声で笑った。
「笑いすぎだ。」
「いや、悪かったな。ところで弟が来たのか。」
穆は宅での話を思い出した。栄尊はああ、と頷いて言った。栄尊に兄弟は多い。穆の言う弟とは、すぐ下の弟、陽のことである。
「あいつは兄上の忠犬だからな。」
「おいおい。お前も同じだろう。」
その言葉に一瞬栄尊の顔が曇ったがすぐにいつもの軽薄な笑みで、言葉を返した。
「まあ強ち否定もしないがな。だが俺は二者択一を迫られたら…どうするかは自分でも分からん。」
それは穆からすれば意外な言葉だった。栄尊は奔放な男だが、二番目の兄にだけは常に恭順していた。龍王さえ気にも留めないような男がである。
二者択一とは海と兄ということだ。元来、王国間の渡海は法によって厳禁されていて、穆の家業である造船や海運業は自国のためだけにある。しかし稀に、危険を犯して海を渡り異国の珍品を売り捌く賊徒がいた。これを、畢鼠という。穆の商売である造船は畢鼠と関係が深い。鼠を匿い、海を渡る足を与える。見返りに、金品、珍品を受け取っている。それは重大な犯罪である。
朱可府は船舶の航行許可を与える。朱可印のない船は龍王国で航行できない。印許には申請者の身分が明確である必要がある。畢鼠が龍王国で航行することは、制度上不可能なのだ。しかし、現実には鼠の船は他の船に紛れて航行している。実際、書類管理しかしない朱可府が、全ての船舶の航行を監督をすることは不可能だ。だからこそ、羅国府が朱可府へ提出する前の書類の検閲制度を設けようとしたのだ。即ち、朱可府の検閲機能を国府が疑ったのである。これは朱可府への侮辱に近いが、それだけ、朱可府と密航者との癒着が横行してきた慣習があるのだ。
栄尊は朱可府の長、朱可府尹である。府尹になった理由は明快だ。朱可府が得た金品は誰のために使われているのか。
「兄を窮地に立たせるぞ。」
「それはねえな。その時は…」
栄尊は笑みを消した。
「その前に俺が死ぬ。」
穆もまた黙った。沈黙が暗闇に流れた。馬の蹄の音だけが闇に響く。
最初に沈黙を破ったのは穆であった。
「鮮には会っているか。」
栄尊は驚いた表情で穆を見返した。そして答えを渋るように、問い返した。
「お前はどうなんだ。」
その問いに穆は笑った。
「俺の身分で孫侯の側室に会えるか。」
栄尊は少し考えて、なるほどと頷いた。
「お前、鮮に会うために訪ねてきたのか。」
穆は首を振った。
「流石に俺もそこまで非常識じゃないさ。これでも商人の息子なんだ。」
商人と政治家の関係は切っても切り離せない。しかし、相手が外戚、王府の頂点ともなれば、簡単に近づけるものではない。
「ではなんだ。」
「お前なら、鮮に会える。いや…」
その先を栄尊は遮る。
「俺が鮮を利用すると言うのか。」
「しないとでも言うつもりか。今更。」
栄尊は押し黙った。栄尊には罪悪感が無いわけではない。
芳鮮は羅国淡県の県政、芳章の養女で、即ち栄尊の従妹である。従妹、現在の位置付けはそうだが、実際は妹である。芳鮮の実父は栄尊の養父となった宋魁で、母はいずれかの妓女であったという。宋魁は県政であった時、畢鼠に襲われ行方不明となったが、まだ庇護者となるべき栄尊が未成年であったため、栄尊の母の兄である芳章の養女となったのだ。
芳鮮は群を抜いた美女で、幼童のころからその名は近隣に聞こえていた。
芳氏はしがない地方官僚の家柄にすぎないが、その名を王国中に知らしめたのは、この芳鮮が、孫氏の宗家である晋侯・孫栄加の側室になったことであった。孫氏は龍王国随一の名家である。
嫁げと言ったのは自分だと栄尊は自覚している。鮮を孫栄加に引き合わせたのは他ならぬ自分なのだから。
孫栄加は栄尊の最大最強の政敵であった。兄・韋角を王位につけるために、倒さねばならぬ壁であった。
鮮の美貌は栄加を籠絡する。栄尊には確信があった。栄加を骨抜きにするためなら愛する女を捧げることも止む無しと考えた事は否定できない。
案の定、鮮は栄加の寵姫となった。外戚の力もない栄尊が出世街道である朱可府尹を得たのは偏に、鮮の従兄たるが所以であった。またその逆に、地方の下級貴族の、しかも養女である鮮が、孫宗家の側室となれたのは、龍の皇子たる栄尊の後見あってのことだった。
幼馴染み
「ああっ、兄貴ぃ!こんなところにいたのかよう。」
突然、背後から声がする。聞き慣れた声に、栄尊はため息をつく。恐らく声の調子からして、界隈に広がる酒飯店から出て来たのだろう。
「いやあ、穆が訪ねてきたって言うから、てっきりこの辺りで飲んでるだろうと探しに来たらいないからさあ。」
栄尊と穆は呆れ顔で振り向く。
「卓良。探す前に飲んでどうする。」
「探すのはついでで、結局は飲みに来たのだろう?」
穆も相槌を打つ。
「なんだと、穆。お前商人のくせに無礼だぞ。」
赤い顔で卓良は穆を睨む。確かに、芳卓良はまがりなりにも貴族、しかも県政の息子である。しかし穆は鼻で笑う。
「貴人なら貴人らしく振る舞え。」
「貴様…」
酔った卓良は頭に血が上り、穆の胸ぐらを掴む。
「卓良。いいかげんにしないか。無礼者はお前だ。府尹の御前だということを忘れるな。」
店の暖簾をくぐって出てきたのは卓良によく似た、しかし武人の格好をした男だった。
チッと舌打ちをして、卓良が手を離す。
「江良。お前…久しぶりだな。」
その顔を見て栄尊は驚いたように声を上げた。幼馴染がこれほど揃うことはあまりない。特に、江良は王府の武官で、住居は華岸にあるとはいえ、激務であまり戻らない。また、文官の栄尊とは仕事上も関わりが薄い。
「府尹におかれましては、お久しゅう。」
江良は官吏らしく律儀な挨拶をした。位階でいうなら確かに栄尊は三階も高い。
「堅苦しいのは抜きだ。お前も兄貴でいいぞ。実際俺はお前たちの兄のようなもんだ。」
栄尊は苦笑する。実際、栄尊の母は彼ら兄弟の叔母であり、血縁上も従兄弟である。江良は渋い顔で頷いた。
「しかし従兄上、いかに幼馴染とはいえ、朱可府尹と喜童の商人が密会とはあまり見栄え良くありませんな。」
「固いやつだ。お前、何故ここにいるんだ。お前の役目は王家の護衛じゃないのか。」
さらりと、話の矛先を変えると、またまた渋い顔で江良は答えた。
「聞いて驚きますよ。」
そして、その後からは周囲を見回して、栄尊の耳元で囁いた。
「暗行ですよ。暗行の護衛です。」
「何?」
栄尊は思わず声を上げた。江良はさっと辺りを見回したが、周囲に聞こえた様子はない。ほっと胸を撫で下ろして、栄尊を窘めた。
「気をつけてくださいよ。」
「悪いな。」
栄尊は考えを巡らした。江良は王家の護衛官である。今は誰を守っていたのか、記憶を辿った。そもそも七位の護衛官の配置などころころ変わるのでいちいち覚えていられない。だが、護衛官を引き連れているような者で、暗行に出るような物好きは限られている。
「世孫殿下の護衛はなかなか大変ですよ。」
それを聞いて、栄尊は、ああ、と頷いた。世孫・龍光。つまり、かの聖龍童子の嫡男である。である、と言われている。言われている、ということは疑いもあるということだ。栄尊などは、受け答えもまともに出来ない長兄に子どもなど笑止と考えていたが、外戚の孫氏にとっては権力を守るために王となってもらわねば困る子どもである。そして、あの長兄の子とされながら、子どもらしからぬ知恵者で、野心家だと、二兄、韋角は警戒していた。
「何をしに来たのだ。」
栄尊は警戒の表情を浮かべた。華岸で探るべきところと言えば無論、畢鼠であろう。だがそれをして誰の得になるだろうか。畢鼠の恩恵は地方官僚なら多かれ少なかれ受けているのであって、誰もが触れたがらない聖域と言える。唯一、得をするのは安義譲だが、義譲の得が龍光にとって意味があるとは思えない。龍光の外戚である孫氏は安氏とは政治的には同一の派閥に属すると言って良い。即ち聖龍童子を推す一派である。しかし、唯一、海の権益に関する考え方については、二つの一族は相容れない。寛容な孫氏と厳格な安氏という点において。
華岸を探るということは、龍光にとって外戚の首を絞めることになりかねないのだ。
「警戒なさる気持ちはわかります。されど、今回のお忍びに海は関係ありません。」
栄尊の心を読んだか、江良がきっぱりと言った。
「何?」
「恐らく兄上はご存知でしょうが、華岸に緑の髪の子どもがいますね?」
「ああ、あの子か。」
突然、口を挟んだのは穆であった。
「知っているのか?」
江良は驚いた表情で振り向いた。
「最近工場で会ったな。」
穆の工場に、乞食の子どもといた少年。見なりは質素だったが、一目で物乞いなどではないと分かる気品があった。
「やはり噂は真実か。」
江良は息を吐いた。意外にも情報が少なく辟易していたのだ。
「穆よ、そこまでにしておけ。お前も商人なら情報の扱いには気をつけろ。」
栄尊は顔を顰めた。いくら幼馴染とはいえ、相手は王宮の番犬である。
「あの子どもなら華岸の人間は大抵見ているだろう?いかにお大尽でも、物乞いの口まで塞げるとは思えんが。」
最近出た衆紙の文言を借りて、穆が言う。
「まあ、そうだがな。」
栄尊は首を竦めた。
「私を殿下の犬とお思いで?」
江良は憮然とした表情で言った。
「そうは言っておらん。情報は慎重に扱えと言ったまでだ。それに、お前が王宮の武官でいてくれるほど心強いことはない。」
栄尊は江良を宥めた。だが、江良の言葉も、強ち否定できない。
「穆の言う通りその子どものことを知りたいなら物乞いか卑賤に聞くことだ。卑賤の中でも貴族の下僕以外にな。」
「実質的に、箝口令が敷かれているということですか。」
その言葉で大体の予想はつく。華岸の東には名家の別荘が並ぶ。緑の髪の子どもの出処はそれらのうちの何れかだ。
「なるほど…しかしその子どもが表に出てきたということは、何かの枷が外れたということですか。」
「或いは、抑止力にも関わらず、その子どもを晒したい何者かがいるということか。」
栄尊は渋い顔をした。無論、華岸の情報なら栄尊の知らぬことはない。栄尊はその子どもの存在も、何処の者かも知っている。厄介なのはその子供そのものではなく、探索により華岸に王宮の注目が集まるということだ。華岸は栄尊の資金源である。栄尊にとっては面倒な話になりかねない。
「まあいい。お前に一つ情報をやろう。あちこちつつき回されて、痛くもない腹を探られたのではかなわん。」
江良は頷いた。江良としても、故郷・華岸に波風を立てるのは本意ではない。その方が願ったりだ。
「なぜ、華岸にあれほど大規模な貴族町があるか知っているか。」
栄尊は言った。貴族町は貴族身分を持つものだけが住むことのできる地域で、通常は県城の近くに固まっているが、華岸の場合は東部に広がっている。その規模は通常の県のそれとは比べものにならない。
「いえ…」
「華岸には阿渡宮があるからだ。」
「阿渡宮…といえば雨林王の別宮の…」
歴史を学んでいれば、その名は一度は記憶したことがあるだろう。百五十年の昔、王位を兄から簒奪し、他国に海軍を以て侵攻し、蹂躙し、占領した覇王。歴代の龍王で唯一、天帝から王位を剥奪された昏迷の王である雨林。今の渡航禁止は雨林の侵略に端を発する。
阿渡宮は海の覇王・雨林が海を臨むために華岸の絶壁に建てた別宮である。王の別宮あるが故に貴族町が拡大したのだ。
「阿渡宮の名称は別宮であった時の名残。」
「阿渡宮は歴代の龍王陛下が継承されましたな。」
「だが今の陛下が弟君に下賜された。」
いくら弟でも、龍王が宮を下賜するような弟は一人しかいない。同母弟で明国侯の香明洪だ。
だからといって、それがなんだと言うのだ。
「それがいったい…」
「今、その宮は明侯の娘に継承されている。」
それでもまだ、江良には意図が分からない。だがこの回りくどい栄尊の言い方の訳は分かった。
つまり、自ら悟れと言っているのだ。情報が栄尊から発したと龍光に悟られないように。
龍王の別宮…明侯の娘の継承…
娘とは誰だ。
「義兄上…ご迷惑をおかけいたしました。」
江良は栄尊に深く頭を下げた。これ以上は栄尊の迷惑になる。方向性は定まった。あとは栄尊の意図通り、深入りせずに真実を突き止めれば良い。
器
「世孫が華岸へ?」
驚いた表情で、韋角は弟を見た。
「先ほど、朱可府尹の御邸にお伺いしました帰りに世孫の従僕を見かけましたから間違いありませぬな。」
華岸と王都平陽は馬を飛ばせば一刻ほどの距離しかない。陽は華岸にある兄・栄尊の邸宅に寄った後、馬を飛ばして麗山の麓、大学の門を叩いた。それは即ち、今日の教鞭が二兄、韋角だと知ってのことだ。韋角の講義は、聴講だけなら学生でなくとも許されるという、珍しい形式の講義だった。大学は王国の最高学府であり、その講義は国家最高の教養と言って良い。しかも、韋角は大学府佐官。つまり、大学府で二番目に高い地位にある者が、教壇に立つのだから、向学心のある者なら何をおいても聞きたいと思うだろう。教室の中には正規の学生の席の後ろに聴講席が設けられているが如何せん狭く、聴講に預かりたい人々でごった返していた。
その光景はあたかも宗教的ですらある、と陽はこの場に来るといつも思う。いくら大学の講義でも、兄でなければこうはならない。韋角はここで、人々に変革の潮流を植え付けていると言える。
その、ごった返す人々の中にある種異様な人物を見つけて、陽は驚いた。
「孫富学…」
大学には似つかわしくない年若い少年である。彼は孫栄加の三男で、陽の記憶が正しければ十である。一際若いだけではない、孫宗家の息子らしい、立派な身なりをしていた。
なぜ、孫家の息子がこんなところに…
陽は不審を隠せない。そもそも、孫家は韋角の政敵である。韋角自身ははっきりとは態度を示さないが、周囲の多くが韋角を王に望んでいるからだ。韋角の支持者は、高官を占める名家ではなく、今ここに集まっているような、生まれのために、才はあっても要職に就けない者たち、変革を望み野心のある下官、中等官が圧倒的だ。そしてその変革を最も恐れているのが長きに渡ってこの王国に君臨する名家の代表、孫家であるはずなのだ。
講義の後に陽が韋角にそのことを尋ねると、韋角もまた気付いていた。
「ああ、なんとも熱心に聴いているよ。」
韋角は事もなげに笑った。この鷹揚さと、時に見せる鋭さが共存していることが韋角の魅力である。陽が富学を観察するに、おそらくは韋角とこの少年はある種の同類であろうと思われた。それは人を率いてしかるべき、君臨する者の相であった。
なるほど。類は友を呼ぶか。
陽は苦笑した。しかし富学と韋角には決定的な違いがあった。富学は少年らしい、鋭利さ、それのみ持って韋角に向き合っていた。
そういえばもう一人同じ類の子供がいたな、と陽は思い至った。世孫…あの子供もまた、同じような鋭さを持っていた。そして、此度もまた何かに気づいて華岸を探っていたのか。
双頭は並び立たず。いつかこの溢れる才気たちと韋角が対峙する時が来る。それは陽の確信であった。
麗人
滅入るような豪奢な御殿の門前に栄尊と穆は馬を進めた。成程、別邸でこれほどとは、その権勢を伺い知れるというものだ。穆はため息をついた。穆のような平民と貴族は居住区が別であり、さらに孫栄加のような王族の居住区は貴族居住区に包含されていた。それは王都・平陽のみならず華岸も同様であった。圧倒的に身分を隔てる空間。穆の力では栄加の如き貴族の居住区域に入るのがやっとである。いかに金を稼ごうとも、身なりを良くしようとも、平民と貴族、そして貴族と王族には、どうにもならない隔絶があった。
芳鮮はこの館の主人である。いや、この館はそもそも鮮のために、孫栄加が建てたのだ。
深層の回廊の奥に、その女主人の部屋はあった。調度品は派手ではないが、隙間ない彫刻が高価な品であると語っている。西方の、虎という国の品であると、栄尊や穆ならば分かる。
おそらくは密売の品ではない。正規の御船で朝貢品として海を渡ったものだ。
「王族でなければ手に入らぬな。」
穆が跪きながら囁く。
今や鮮は孫栄加の側室という地位だけでなく、孫家の長子の母という名誉も手に入れた。
栄加には五人の子があるが、そのうち二人は鮮の子である。そのこともあって、彼女は王族に準じる扱いだから、貴族である栄尊はともかくとして平民の穆は平伏しなければならない。
「お久しゅうございます。」
甘い香りと共に、懐かしい声が響いた。
穆は顔を上げた。久しいと鮮は言ったが、栄尊と鮮は、そう言うほどには久しくはあるまい。栄尊は鮮の身内である。しかし、穆にとっては十五年ぶりである。幼い記憶と共に過去が鮮やかに蘇る。孫家に嫁いだ当時、鮮は十五、穆は十四であった。
年月は確かに人を変える。しかし、十五年の歳月を経てなお、鮮は匂うように美しかった。当時は花咲く前の蕾のような瑞々しい美しさを、そして今は艶やかな大輪の花のような美しさだった。
「今日は穆を会わせたくて来たのだ。覚えているか。」
栄尊は兄らしい、親しい態度で鮮に接した。配慮したのか、孫家の家人は部屋にはいない。
「はい。大きくおなりですね。」
鮮は和かに笑う。三十になろうかと言うのに、そう言われると穆は罰が悪い。もう、彼女と最後に会った十四の子どもではないのだ。
「私は…」
「単刀直入に言おう。今、宗勲はどこにいる。」
穆の言葉を遮って、栄尊が明け透けに言った。穆は呆れ顔で栄尊を見た。
鮮の秀麗な顔が曇る。当然だ。鮮にとって宗勲の名が出ることはけして快いはずはないからだ。
「兄上…」
「いいではないか。ここには穆と私しかいないのだ。だいたい、回りくどいのは面倒だからな。」
栄尊の態度に穆は呆れた。栄尊は昔と変わらない。それは商人である穆に対してのみならず、鮮に対しても同じだ。
賈宗勲…商人ならばまずその名を知らぬ者はいない。一代で巨万の富を築いた材木商。だが、それは表向きのこと。いわゆる、闇市場という場所で、今や宗勲の影響を受けない場所はない。渡航禁止の世の中で、海外の珍品、貴品を扱う市場だ。即ち大商人・賈宗勲は商船に見立てた大型帆船で海を渡る海賊・畢鼠なのである。だからこそ、誰もが名を知りながら、誰も宗勲の実態を知らない。
穆は鮮の美しい顔が歪むのを見た。酷なことを聞くと思った。
栄尊は続けた。
「いいか、鮮。私はそなたたちに忠告しにきたのだ。確かに、今の状況は鼠にとって好ましくない。安義譲は頑迷な男で、意思を曲げることを知らん。頭のいい宗勲のことだから、安義譲の目的が船舶を取り締まることではなく、鼠を駆逐することだと分かっているだろう。これで炙り出された鼠が、おそらく近日中に処刑される。見せしめにな。」
「待て栄尊、私は…」
穆は栄尊を遮ろうとした。鮮を責めるつもりで来たのではない。だが、栄尊は首を振った。
「安義譲の施策をやめさせるとか、全国に波及させないようにするとか…そんなことはお前にはできん。確かに孫栄加の力は絶大だが、この施策には龍王の意思があるからな。」
それを聞いて鮮も穆も驚いた表情をした。鮮を頼るものは皆、即ち栄加の威光を頼るのが常だからだ。それは穆も例外ではない。
「兄上は私にどうしろと…」
鮮は怪訝な顔をする。栄尊は溜息をついて答えた。
「止められるならば、お前の父を止めたいのだ。」
鮮の父…栄尊はそう言った。それを聞いて穆は昔を思い出していた。賈宗勲がまだ宋魁と呼ばれていた頃のことだ。宋魁は当時王府の護衛官で、龍王の夫人であった芳氏を下賜された。珍しい事ではない。龍王は数多の女官に一夜の寵を与え、宮殿には宮人や夫人が溢れていた。寵を失い、訪れもせぬ龍王を待つだけの彼女らにとってはむしろ、家臣に下賜された方が幸せだと言えた。皇子のある夫人が下賜されるのは珍しいが、それだけ、栄尊は龍王にとって取るに足らぬ皇子だったと言える。宋氏は華岸の中ではそれなりの名家だし、芳氏もまた名家の部類だ。龍王の皇子を産んだ夫人が名家の嫡男に与えられるのは、華岸にとって名誉だった。芳氏の輿は龍紋を掲げ、華岸の中央道を往来した。輿から少年が道に平服する民を覗いていた。
少年…栄尊は七歳で、穆は五歳だった。宋家の家門の先には新郎である宋魁と愛らしい娘が輿を迎えていた。穆は子供ながらにその光景に見惚れたのだ。
それから三年、宋魁は華岸の県政となっていた。あの時もし、宋家が畢鼠に襲われなければ、宋魁が行方不明にならなければ、鮮は芳章の養女にはならなかったし、孫栄加の妾にもならなかっただろう。十年を経て再び華岸に現れた宋魁は、何がどうなったのか商人・賈宗勲となっていた。この事実を知るのは華岸でも僅かしかいない。栄尊の畢鼠とのつながりも、全てはこの養父から始まっているのだ。宗勲は宋魁であった時の己を全て捨て、姿形も変え、闇取引に君臨した。
あの、良漢を穆に渡したのも宗勲である。宗勲の船には何方の国かで拾った者が数多いる。攫ってきたのか、それとも救ってきたのか、年端のいかぬ者も中にはいる。それらの多くはそのまま畢鼠になるが、良漢の器用さと頭の良さを知り、穆が買い取ったのだ。制度上は龍王国には奴隷はいないが、実のところこのような売買は日常的に行われている。
「栄尊…宗勲はこの華岸で、何かするつもりだろうか。」
穆は栄尊を見た。穆が鮮のところに来たのは、施行される法の抜け道を探るつもりであったからだ。即ち、華岸では船を売れずとも、例えば孫栄加が侯を務める晋国を取引の場にするなど、解決策を模索するつもりであったのだ。
だが、羅国で、発せられた命が、羅国大尹の考えだけでなく、龍王も意図するものならば、いずれ他国でも同じ布令が出されるに違いない。これまで、龍王国において、鼠と官吏の表立った争いは殆どないが、風の便りで聞く他国の話の中には鼠の存在が戦乱の火種になった、という類のものもある。
聖龍童子外伝2 碧玉の海