君に見る景色、君と見た世界。 (二章)
初恋は何の味?という問題があると仮定しよう。大概にして多くの人は甘酸っぱいものだったという記憶が漠然と脳裏にあるのではないだろうか?しかし、恋愛という現象において、味覚という五感が働くのかについては甚だ疑問が残る。
そもそも初恋の記憶を思い返したとき、それ自体が本当に甘酸っぱい体験と表現されるべきではない。多くの人が甘酸っぱいと言うから、薄れゆきながら、美化される記憶の中で漠然とした「甘酸っぱい」という大衆論が形成されたのが真実なのではないだろうか。
ところで俺の体験を例にとってみよう。俺の初恋はおそらく小学1年生の頃だった。姉の親友でよく家に遊びにきていた女の子だ。姉の親友らしい、身長が高くて性格の明るい女の子だった。
年上好きと言えばマセガキの戯言と聞こえるだろうが、俺の年上、高身長好きはなるべくしてなったのだと思う。家の中でかくれんぼをしたり、ゲームをしたり、ハムスターの飼い方にアドバイスを受けたりと、それ以外の理由も相まって随分仲が良かった気がする。
この子が姉だったらよかったのになどと、子供心に本気で思っていたことは姉には秘密だ。色黒でショートヘアのボーイッシュで活発だった気もするが、色白でセミロングの明るい女の子だったかもしれない。容姿はまるでモヤがかかったように記憶の中ではっきりしないが、好きだったという漠然とした感情はいまだに心の中に残っている。
思えば、かくれんぼでトイレの中に一緒に隠れてるときに用を足したり、家でアヒルを飼っていたりと他人の目を気にしない堂々で奇々とした性格でありながら、動物にやけに詳しかったり、トイレ中は「耳塞いでね」と注意してきたり、わりと抜け目のない子でもあった。
当時は内向的で大雑把だった俺にとって、そんな自分と対照的な存在である彼女に憧れを抱いて恋をしていたのかもしれない。勿論、当時の俺には知り得ない感情だったわけだが。
まあ結局、彼女はすぐに引っ越してしまい、風の噂で「綺麗な女性に育った」と聞いて胸がチクリとした程度だ。その時になって、ああ好きだったのかなあなんて思ってしまった。
しかし、記憶というのは往々にして捏造、虚妄。本当は体格の大きい彼女にいじめられると恐怖してドキドキしていたのを、思春期にあれは恋だったのだと錯覚してしまっただけかもしれない。幼少時の記憶っていうのは、時が経つにつれて美化されていくものだ。
そもそも言われてみれば、甘酸っぱい気がしなくもないが…そもそも甘酸っぱいってなんだ?はちみつレモンって甘酸っぱそうで甘いだけだよね?いや、それにしても…。
…それにしても、やはりこれは恋なのかもしれない…。
「は?」
行儀悪くソファーに寝っ転がりながらテレビを楽しそうに見ていた姉がこちらに振り向く。雑誌を片手にバームクーヘンをくわえながらテレビを見ている姉が「頭大丈夫か?」と不可解そうな表情で聞いてきた。お前の栄養管理のが大丈夫なのか心配だ。
「寝ながら食べてると牛みたいに太るぞ」
やれやれと呆れ気味に忠告した弟の優しき心遣いが心に響かないのか、はたまた反抗期なのか、姉は思慮を挟まずにクッションを投げつけて「うるさい」と一言。行動の順序が逆である。全くいつからこんな悪い子になってしまったのか、あの頃はまだ優しかったのに…。
「そんな乱暴な子に育てた覚えはありません!」と叫びながらリビングを走り去り、俺は自分の部屋のベッドにジャンプインした。高校に入って水玉模様からシックなストライプ模様に変えた、新品の枕にボーッとした脳ごと顔が埋まる。
そもそも恋愛とは何なのか、質量はどのくらいで体積はいかほどなのか。熱量の計算も必要だな。俺は恋をしているのか、それとも恋に恋しているのか、もしくは恋に恋することに恋しているのか、いやそれとも実は、恋に恋することの恋することに恋して…(略)。
「ぬぬぬー」とキャラに似合わず、子供みたいに呻きながら俺は枕に顔を沈めてバタ足をした。いや…一度やってみたかっただけだ。とにかくもかくにもだ!仮に俺が恋しているとして、恋している相手は一体何なのか?この答えを導き出すのが大切だ、うん。まあなんだ。事の発端は今日の出来事だろう、なんだろう。登校中、学校案内、生徒会…帰宅。ダメだ、全く思い当たる節がない。
ふと、首を傾げた不可解そうな表情の宮木が脳裏をよぎった。…ないないない、断じてないぞ。いやないね、それはない。ちょっとドキッとしただけで恋とかない、それはないわ。
宮木のことなんて全然好きじゃない。
絶対好きじゃない。
別に…ちょっと好きなだけだ…。
いやそれが恋なのか?そうなのか?そうなんですか?教えて誰かさん!
起き上がって頭を掻きむしる。ベッドの上で正座しながら部屋を眺めると、綺麗に整頓された本棚に並べられた白い本に目が写った。
恋の名言集。タイトルが赤い文字で記されている。まるで狙ったかのようなタイミングで発掘されたその本は、長い時を本棚に埋蔵されて過ごしたとは思えないほどに新品のような輝かしさを纏っていた。そっとしおりの挟まれたページを開く。
「恋は気がつかないうちに訪れてくる。われわれはただ、それが去っていくのを見るだけである。-ドブソン」
そんなフレーズが視界に入る。すると不意にドアノブを捻る音がした。反射的に本を布団の下に隠し、ドアを見上げると姉が立っていた。
「お、エロ本?」
そう聞いてニヤニヤしている姉に対し、俺は首を横に大きく振って否定した。
「じゃあ、見せろよ」
いたずらに成功した子供のように目を光らせてほくそ笑む姉に、躊躇しながらも本を布団の下から取り出した。
「ほほおー。恋の名言集ですかー。恋してるのかねー少年」
幼い悪戯っ子のような表情で、やや赤面する俺をからかいながら姉は机の前の回転椅子に腰掛けた。フランス語特有の鼻母音で鼻歌を奏でながらゆっくり一回転する。
「始業式なのに遅帰りとは不謹慎なことでー、相手は同じく新入生かな?」
「ち、ちげーし、別に…サッカーやってただけだし」
フフフと相変わらず意地悪い笑みを浮かべる姉に弁明する。尚も「サッカーねえー」と意味深に呟く姉に証拠を突きつけた。偉大なる松島先輩の体操着である。
「…まあつまり、サッカー部のマネージャーちゃんに恋しちゃったわけねえ、少年」
「ちげーよ、ちょっと好きなだけな」
近況報告を聞いて早くも結論づける姉の言葉を少し訂正する。一目惚れなんてしちゃう頭軽な弟に育てた覚えはないんですけどねー、と天を仰ぐ姉を尻目に、「はあー」と深いため息をついてベッドに倒れ込んだ。そっと目を閉じると、頭の中に今日の記憶が駆け巡っていく。
どのくらい過ぎただろうか…、しばらくして玄関からガチャガチャと鍵を開ける音がしたかと思うと、「ただいまー」という声が廊下に響いた。どうやら母親が買い物から帰ってきたようだ。今日の晩御飯はステーキがいいなー、などと呑気にも姉は呟くのだった。
「ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在など全く問題でなくなることがある。それが恋というものである。-ツルゲーネフ」
「ああああああー!ああー!ああああああああああああああ!あああああああああー…!」
水面を撫でるように吹き抜ける涼しい風が、まるで細い針のように全身を突き刺しながら通り抜けていく。細い砂利道にバランスを崩され、車輪はガタガタと威勢を放ちながら回転速度を増す。
飼い主のリードに引っ張られた柴犬が小刻みに飛びかかるようにジャンプしながら吠える。俺が犬の挑戦を受けると、互いの視線は更に白熱した火花を散らす。
「あああああああああああー!あああああああああああああああー…!」
栗毛で強気な顔の柴犬にメンチを切る。それでも叫び声は絶やさず、ペダルをこぐピッチを上げながらリードを引っ張る飼い主の横を全速力で駆け抜ける。一瞬、目の端に不愉快な表情の人が映り込んだ気もしたが、きっと気のせいだろう。
10メートルほど離れたところで、犬が「キャンっ」と最後に小さく吠えた。俺は勝利の優越に浸りながら尚も叫び続ける。川岸の白く霞んだ視界。俺はためらいなく全力でペダルをこぎ進んだ。
…まあ待て、ちょっと落ち着こう。一旦落ち着こう。教室のドアの手前の廊下で立ち竦む俺。さっきトイレの個室で10分程過ごしたが、冷静に考えてみろ。
え、俺さっき何やった?なんか叫んでたんじゃね?ダサくね?キモくね?始業二日目だぞ。誰かに見られてたらどうすんだこれ。いや、ない、ありえないわ。だって川岸には誰も同級生はいなかったし。大丈夫、絶対大丈夫、問題ない。
あれでもちょっと待て。大丈夫だなのかこれ。いやでも大丈夫でしょ。見られてない。絶対見られてない。いやでも仮に見られてたとして、教室入った瞬間にクスクス忍び笑いみたいなの来たらどうするんだこれ。無視するか?いや待て。俺は元来、心配症だしな。大丈夫だって。見られてないぞ俺。問題ない。元気出してこ!
教室のドアに手をかけたところで、不意に後ろからポンと肩を叩かれた。福山先輩が爽やかな笑みで「よう、関根」と言った。
二年二組の福山浩司。サッカー部の先輩、ポジションはレフトハーフ。昨日覚えた知識を思い出しながら微笑み返す。なんか新鮮な感覚だ。高校に入学したばかりで、先輩に知り合いがいるのは何かと心強ものがある。通り過ぎていく福山先輩の後ろ姿を見送って覚悟を決める。どうせ見られてない、大丈夫だろ。
突飛で奇怪な行動に走ってしまった今朝の俺を恨みながら、ガラガラと教室のドアをスライドする。
「おっはよう!関根ー!」
教室に入った瞬間、朝っぱらから相変わらずウザイニヤけ顔の斎藤がウザイ声で叫ぶ。教室にはまだ10人程度しかいないな、と横目で確認する。
「おう、おはよ」
得意のポーカーフェイスを気取りながら、席に着く。にしてもこいつの後ろとは…。ったく、ウザイ席を引き当てたもんだぜ。
そういえばよ、と前置きして斎藤が切り出す。
「お前、朝から気合入ってるよな」
斎藤はそう言うと、おぞましいくらい無垢な表情でニカッと笑った。俺の意識が遠のく。え、ちょっと何言ってるか分かりません。ボーッとした頭で言葉の趣旨を探していると、斎藤は相変わらず気持ち悪いニヤニヤした顔つきで俺の肩を叩く。
「わかってるって。入学したてでちょっとテンション上がっちゃっただけだろ」
「いや、ちが」と口篭る俺に「あ、トイレ!」と無駄にでかい声で叫んで、斎藤は教室を出た。別に聞いてねーよ。無性に心細くなってしまった俺は、その場から立ち去ることもできずに呆然とする。
後方から、小さくクスクスという笑い声が漏れた。女子だ…。よりによって、俺のバラ色の高校生活がたった二日で閉幕の危機に瀕するとは。打開策も見つからず、ただただ恥ずかしい思いに身を揺さぶられながら俺は机に突っ伏す。死にたい…。
昼休み、学食の味噌ラーメンを食べながら考える。今日一日、異常に視線を感じた気がした。廊下で上級生の不良にメンチは切られるわ、通り過ぎに面識のない女子生徒がクスクス笑うわ。おかしい、明らかにおかしい。俺の悪い噂(※真実)を広げている奴がいる。
眼前では斎藤がひとつ向こう側のテーブルに振り返り、しきり誰かと話している。俺は体を硬直させたまま、斎藤の背中の向こう側を透視しようと試みる。しばらくして斎藤の背中が横に傾き、向こう側の景色が開けた。
お…女じゃねえかああ。斎藤が楽しそうに会話をする相手は驚くことにも、女子生徒だった。残念ながら食堂のおばちゃんではない。
こいつこんな積極的だったのかよ…。無表情で斎藤の背中を睨む。見覚えのある顔。うちのクラスの生徒だ。
七三に白いメッシュの入った明るいブラウンの、鎖骨まで伸びたセミロング。健康そうな明褐色の肌。肘までたくし上げたブラウスの白い袖からスラリと伸びた腕の手首にはフリルの付いた黒と白のシュシュがまかれている。
しばらく二人の笑い声がして斎藤がポケットから携帯を取り出す。え、もしかしてこいつナンパしてんのか?斎藤のくせに?心の中で更に毒づいていると、不意にその女子生徒と目が合う。口に手を当てながら目を細めて笑う女子生徒。え、こいつにもまさか既に俺の噂が?いや、待て。違う。誤解なんだ。
「よ!新入部員君」
突然、背中を押されて前歯が丼の淵に当たる。後ろを振り返ると、松島先輩と吉川先輩、それにもう一人、サッカー部三年のセンターバック、島田先輩が立っていた。
「何それ、喧嘩上等?」
松島先輩が爽やかに微笑んで、俺の背中を指さす。思わず「え?」と聞き返した。
「このステッカー、いたずらで誰かに貼られたんじゃない?」
吉川先輩が俺の背中から何かを剥がして、手渡される。喧嘩上等!、そう黒字で印刷されたステッカーだ。フーっと一呼吸置く。福山…あいつ、あの時、朝に挨拶した時だ。くそ、やられたー!もうあいつは心の中じゃあ福山先輩って呼ばないわ。ただの福山だ!あの野郎…。
「え、何それ、自分で貼ったんじゃないの?」
斎藤がおどけたような無垢な表情で問いかてくる。お前、んな訳ねえだろ。気づいてたんなら最初っからいえ。斎藤のアホさにあきれながらも、実は内心ホッとしたりもした。とりあえず今朝の登校中のことではなかったのか。
松嶋先輩たちと別れたあと、「悪い悪い、気付かんかった」と全く悪びれる様子のない斎藤に侮蔑の視線を送りながら、味噌ラーメンを完食する。(※斎藤は何も悪くないです)
カウンターに食器を戻し、席を立って教室に戻ろうとすると「あ、ちょっと待って」と後方から女子生徒の声がした。反射的に振り返ると、ついさっき斎藤がナンパしていた女子生徒がこちらを見据えている。
「キョンちゃんでしょ?」
口元を抑えて細目で微笑む彼女をまじまじと眺める。その呼び方をされるのは何年ぶりだろうか。たしかあれは…目を伏せて思考を張り巡らせる。そして幼い頃の記憶に見た微かな光景に、ふと目の前の生徒が重なった。
「え、もしかしてあっちゃん?」
常時ポーカーフェイスのはずの俺の口元がついほころぶ。本当に懐かしい…。たしか親同士の親交が深くて、物心ついた頃にはよく一緒に遊んでいた女の子。百瀬ありす。彼女が小学3年生の時に隣町に引っ越してからは、会う機会が無くてすっかり忘れていた。
「あーやっぱりキョンちゃんだあー。印象変わったから驚いたよー」
口元に手をあてながら細目で微笑む独特の笑い方。小学一年生の頃、笑うとえくぼが出来ることを男子の同級生たちにからかわれ、それから笑う時は口元に手をあてる癖がついた。笑った時に出来る涙袋がアリスの優しさを思い起こさせる。
「懐かしいねー、元気だった?」
俺はそう口に出して、ハッと口をつぐむ。いつもは低めのクールボイスで統一している俺だが、あまりの懐かしさに幼い頃のような高い声に戻ってしまった。
「あ、あの声やっぱりかっこつけてたんだあー」
独特の母音を伸ばす喋り方も相変わらずだ。本当に懐かしい。見た目はちょっと派手になったが、中身はあの頃のアリスのままだ。いや待て、今のはちょっと失礼じゃないかな…。
「あ、そうだ」
拳で手のひらを打って思い立ったようにアリスが席を立つ。ポケットから可愛らしい黒猫のストラップが付いた特徴的なケータイを取り出した。
「メアド教えてよ」
そう言って小首を傾げたアリスをじっと見つめ、何故かモヤモヤした感覚が心臓の辺りを駆け巡った。アリスがタッチパネル式のケータイを手に取り、俺も反射的にポケットからケータイを取り出す。俺のケータイを手に取ると、アリスは手馴れた手つきで赤外線通信を使ってアドレスを交換した。
「あ、私、用事あるからさー。またね」
二三分ほど他愛ない話をした後、「またね」と返して踵を返す。またもや甘えたような声になってしまった。表情を引き締めて前を見据える。幸い誰も気にしていないようだったが、少なくとも俺は気にする。
「マジかよー。なんでお前だけアドレス貰えんだよー」
斎藤が珍しく不愉快な顔で不平を嘆く。
「え、つかお前、メアド訊いてたじゃん」
「ん、訊こうと思ったけど勇気がなかったし。でもやっぱり百瀬だったかー。ま、俺はすぐ気づいたけどね。」
そうですか…。後で百瀬に聞いといてやるよ、と言うと斎藤は「マジでー!さすがキョンちゃん!」と調子に乗ったので、前言撤回した。斎藤は「あ、嘘です。嘘でした。すみません。関根様」と従順になったので、二度目はないぞ、としっかり忠告して許してやった。
放課後のホームルームを終え、通学鞄に今日貰った教材を詰めていると、アリスが音をたてない歩き方でしずしず近づいてきた。丸見えだけど。既にクラスのほとんどは帰宅している。
「やっほー」
あの独特の笑みで小首を傾げるありさ。アリスが後ろ手にしていた右手を差し出すと、細くて長い指の間に青い紙切れが挟まっている。
「はいこれえー、うちの今の住所。知らなかったでしょ?」
アリスの手から受け取ったピンク色のハートシールが貼られたメッセージカードには家の住所が書いてある。同じ市内の隣町だ。うちの高校から割と近いところにある一軒家のようだ。
「おお、ありがと」斎藤が見ている手前、いつも通りのクールボイスで答える。横目でちらりと見ると、斎藤が沈黙しながら殺意を込めた眼差しでこちらのやりとりを傍観している。
「あ、そうだ」
アリスがハッとして目を見開き唇から微かに並びの良い白い歯がのぞく。
「キョンちゃんさあ」
そういってアリスは独特の微笑みを浮かべた。
「今日って、もしかして暇?」
今日は水曜日だが、幸い部活は休みだ。理由は、月一のグラウンドの清掃日で部活ができないから。俺が「うん」と小さく頷くのを見ると、斎藤はフンと鼻を鳴らして「じゃあ、俺先に帰るねー。じゃあねー、キョンちゃーん」とふてくされながら足早に教室を出ていってしまった。生意気な奴だ。
「今日行きたいとこあるんだけど…、付き合ってくれない?」そう続けたアリスの提案を断る理由は見つからなかった。
二人で昔話に花を咲かせながら玄関口を出ると、「お、京介君発見っ」という透き通った声と共に宮木が一人で立っていた。「あのさー」と話しかけてきた宮木が後方から付いてきたアリスに気付いた。
「あれ、お邪魔だった?」
宮木がキョトンとした顔で小首を傾げる。心臓がドキッとした。何度も見ていたはずなのに、以前よりこの仕草にモヤモヤする。
「キョンちゃん、どうしたの?」
そんなアリスの質問が聞こえなかったように宮木は続ける。
「今日は用事あったんだけど、雪ちゃんが先に帰っちゃったから京介君に付き合ってもらおうと思ったんだ…でもまあいいわ、一人でも行けるしっ」
宮木は凛とした声で一方的に言い放つと、「いや、ちが、これは…」と口篭る俺をしっかり無視した
「また明日ねー。キョンちゃーん」と去り際に一言残して…。
下駄箱から響く不特定多数の生徒たちのざわめきに混ざって、「マジかよー」という斎藤のウザイ声が、雲ひとつない晴天を成層圏まで突き抜けた気がした。
「アハハ。何それ、似合ってるよー」
アリスは、青いリボンの付いた黒色の可愛らしいミニハットを頭にのせた俺に、手鏡を見せる。そこには可愛らしいミニハットと共に、見るからにアホらしい笑顔が映り込んでいた。
俺は「ハッと」して表情をいつものポーカーフェイスに戻した。いや…なんでもないです、ハイ。
「あー、別にカッコつけなくてもいいのにー」
お揃いの赤いリボンの付いた黒いミニハットを頭に乗せながら、アリスは目を細めて笑う。ほのかに塗られたピンクのチーク上にえくぼが見える。
俺と家族の前だけだ、アリスが口に手をあてずに自然な笑いをするのは。小学生の頃から相変わらずだ。
そっちの笑い方のほうが可愛いぞ、と言おうとして口を紡ぐ。それからうつむき、やれやれと首を振る。それじゃ、まるで恋人のようだな。
これどうかなー?、と姿見の前で黒のテンガロンハットを目深に被りながらこちらに振り返る。
「うん、似合うよ」と笑顔で相槌を打つと、アリスは嬉しそうに「そうかなー」と呟いて、姿見に映る自分を凝視する。
belle-fille 金文字でアルファベットが綴られたローズウッドの看板。
学校から徒歩で10分程、駅前に立ち並ぶ高層ビル郡の一角にはファッション系の店舗が軒を連ねている。店内を見渡してみれば、俺たちと同じく制服を着たままの学生たちも少なくない。わりと学生たちの間では人気の店なのかもしれない。
「あ、これも可愛いー」
いつの間にか姿を消していたアリスが、両手に黒と赤系を基調としたタータンチェックのベストを抱いて戻ってきた。どうー?、とベストを制服の前に重ねる。小首を傾げて下唇を噛む。
俺は腕組みして「うーん」と少し考え込んだふりをしてから、「可愛いと思う」と口にした。
「でしょでしょー」とベストを広げ、姿見を見ながらはしゃぐ。忙しく姿見の前で角度を変えるアリスに続いて、ふわりと艶のあるセミロングの髪が、風のない店内でなびく。その度に、ほのかなライラックの香りが俺の鼻をくすぐった。
しばらく悩んでいたが、結局アリスは白黒チェックのスタッズにフェザーが付いたおしゃれなライトブラウンのテンガロンハットを購入した。
「うーん、似合うかなあー」
外に出て、店のショーウィンドウを見ながら早速被ったハットの位置を直している。俺も横に立って、記念に買った特価3900円のストライプベストを羽織ってみる。うん、まあまあだな。
「大丈夫。似合ってるって」
俺はアリスの小さい頭に乗った前傾気味のハットの後ろつばを下に引いた。
「よし、これでオッケー。いこうぜ」
そう言って先に歩きだした俺の後ろでアリスがクスッ、と笑った気がした。
「キョンちゃんのベストもカッコイイよー」
後を追って軽い足取りで俺の前に出ると「喉乾いたねー」と微笑みながら小首を傾げた。うん、と小さく頷いた俺に更に笑いかける。
「行ってみたいとこがあるんだあー」
嬉しそうに俺に背中を見せて歩きだすアリス。その後ろ姿を立ち止まって眺める俺。そしてアリスに聞こえないように小さくフッと笑った。
ハットの後ろつばには、俺がさっき貼った「特価3800円」と書かれたバーコードシールが貼り付いたままだ。
しばらくし歩き続けてから立ち止まり、それからゆっくり振り返るアリスは純粋な笑みを浮かる。生暖かい風の吹き抜ける青空の下、俺の景色に映るのはあの頃の思い出だけだった。
「La-Lune」駅前のファッションモールの裏路地、そこに小さな看板を構えて佇む洒落た喫茶店だ。
「でね、そこでやっとさやかちゃんも気づいたんだあー」
「へえー、そりゃ災難だったな」
「でしょっ」
スプーンで器用にカプチーノの泡を口に運ぶ。…。流れる沈黙に、単調なクラシックが間を繋げる。ゆっくりと店内を見渡した。人はそこまで多くないが、共通点はある。どの客も男女一ペアで来店しているのだ。
来店条件はただ一つ、「カップルで来る」ということだ。静かな店内に、初老の店員がカウンター席で新聞をめくる音が時折響く。
「あ…。そういえば、キョンちゃんさ」
アリスは思い出したように顔を上げる。
「恋してるでしょ」
「えっ」
アリスの不意討ちに、つい動揺した声を上げてしまった。
「やっぱりしてるんだあー」
「してないよ」
「嘘だ。キョンちゃんが嘘ついたら、私、すぐ分かるもん」
アリスは真剣な眼差しで、じっと俺を見つめる。ブラケットライトから滲み出る淡いライトブラウンの光を、アリスの透き通った瞳が反射し、俺は思わず目を逸らす。
「ほらねー」
そう言って、アリスは勝ち誇った笑みを浮かべる。俺は苦笑しながら再度、「してないよ」と呟いた。
「当ててあげよっか」
アリスは両手に持ったカプチーノのカップをテーブルに置いて、手を交差する。
「その子は、あなたと同じ学校の生徒です」
俺は苦笑してうつむく。
「その子は、次の十人の中にいます」
アリスは目線を左上へと向け、小首を傾げる。次々と挙げられていく名前のほとんどは、面識がなかった。
「それと…」九人目まで言い終えて、右上に視線をずらす。不意に俺に向き直り、真剣な表情に戻る。十人目は…
「…宮木優子」
俺の瞳を真剣な顔で見つめながら、アリスはそっと呟いた。俺は長いまつげに囲まれた、アリスの綺麗な瞳を真っ直ぐ見返す。引き込まれるような、深い漆黒の瞳が見つめている。
ほんの一瞬だった。やがてアリスの真剣な表情は微笑へと変わり、そしてゆっくりと息を吐いた。
「やっぱりね」
「違うよ」
「そうだよ」
「違うって」
「ううん、キョンちゃんの嘘はいっつも簡単」
アリスはうつむいて首をふり、そして顔をあげて微笑む。俺も微笑み返した。クラシックの一曲が終わり、新聞をめくる音だけが、静寂の店内に響く。
玄関口に自転車を止め、インターホンの横にあるレンズを覗き込む。数秒の後にカチャリと音を立ててドアの鍵が開いた。
革靴を脱ぎながら「ただいまー」とリビングに発する。母親の「おかえりー」という声が帰ってきた。
「今日も遅帰りかね、少年」
ソファーに寝転がったままの姉がニヤリと笑った。「買い物行ってただけ」と返して、苺タルトの入った紙袋を投げ渡す。姉は「サンキュー」と言いながらキャッチした。
「今日の晩飯、何ー?」
キッチンにいるはずの母親に尋ねると、唐揚げという答えが返ってきた。時刻は夕方の6時半を回ったところだ。
「唐揚げかー、ラッキー」
とはしゃぐ姉を横目に、俺は自室に向かった。
「にしても高いの買ったなー」
京介の姉、百合は紙袋の中に入っていたベストの背についたバーコードシールを剥がして顔に近づける…「19800円」。百合は「タルトタルト…」と呟きながら、シールを小さく丸めてゴミ箱に捨てた。
君に見る景色、君と見た世界。 (二章)