口に出して愛を表現してみなさい

 彼はいつも何も考えていない。なにを聞いても返事は「うん」だし、気づけばいつもぼーっとしている。私自信、こんなにも理想と離れた人を好きになってしまうとはなんと愚かなことをしたんだろうと思っている。もちろん、彼のことは大好きだがここまで言葉でも行動でも感情を伝えてこないとさすがに不安になるものだ。でも意気地なしな私はそれを彼に打ち明けられないままこうして心の中でふてくされるのが限度なのである。



           *      *



「ねぇ、今度どこか行かない?」
「え、うーん・・・考えておくね。」
 彼女の返事は決まって同じ。僕の質問に、彼女は困ったように頷くばかりだ。それでも誘うことを止めようとは思わない。止めることは彼女の隠れた感情を探すこともできなくなる手前な気がして。そしていつか僕の誘いに笑顔で「行きたい」とうなずいてくれる日を僕自身が楽しみにしているからだ。僕の手で幸せにしてあげたい。
 今こうしている間、彼女は僕のことをじっと見つめている。なにを考えているのかは分からない。聞いても「当ててみて」。僕なんかに当てられるはずもない。彼女は初めて会ったときから僕とは全然違う考え方をもっていた。そしてそんなところにも魅かれていったからだ。
 僕では彼女の役不足。そんなことは分かり切っている。それで簡単にはあきらめられない。今この時間さえも、僕にとっては奇跡のような時間なのだから。
「ねぇ、やっぱりどこか行こうよ。」
「たとえば?」
「そうだな。・・・・・・・・・・水族館とか?」
「は?・・・・馬鹿?」
 ああもう。
 こんな時間さえも、僕にとってはまぎれもない奇跡。



           *      *



 好きって単語は、「す」と「き」という2つのひらがなで表される、愛情を伝えるときに用いられる言葉である。少なくとも、私はそう思う。でも人間、そう簡単に「すき」と言えないのが実のところ。だから伝えられないまま卒業して進学先でも恋心をくすぶらせる者や、告白しようと決意してもそれを伝えらず時間が経過してしまっている者がいるのである。
 その障害を何とか乗り越えても、今度は今までの何倍もの意思疎通が必要となる。それは対人関係が上手く築けない者にとっては地獄のように感じられて、せっかくお互いの思いが通じ合っても結局別れてしまうというケースが後を絶たない。また、それは男女間だけではなく同性愛者にもきっとあるのであろう。むしろ同性愛者のほうが多くの苦労がのしかかってしまうはずだ。その事を思うと、異性が好きなものはとても恵まれているのかもしれない。
 そんなことはさておき、こうしてお互いに意思疎通ができる恋人同士は幸せになりましたとさ。そう終わってしまえるのなら、なんて楽なんだろう。
 生物は、自分が存在して且つ自分以外の他者が存在するとき、その他者を完全に無視して生活することはぼぼ不可能である。なぜならば他者が存在する限り自分に不必要な事態が起こるからである。それが注意が必要なほどのことなのか、大して気にもならない事なのかは関係なく、自分以外の他者が存在している時点で必ず自分に不必要な事が起こることは変わりないのだ。
 そこで地球上の生物の中に意思疎通をはかろうとする者が現れた。そのものに続いて多くの者がそれを取り入れていき、人類はその中でお互いの意思疎通を地域や言語の相違を超えて行うようになっていった。そして
「やっぱりだめかな。」
「うーん。」
 それ思いもしなかった方向、つまりは「意思疎通に使用する言語や感情が増加しすぎた故に意思疎通がはかれない、またはそれに萎縮してしまう者が出てしまった」ということである。
「・・・・・もう。」
 いつもそうやって曖昧なんだから。いいもん、別に。私なんかよりケータイが大好きなんでしょ、知ってる。
「んー、ごめんね?」
「ほんとに心から思ってる?とりあえず謝っておけばいいやって思ってない?」
 そんな思ってもいないことが「不安」という塊になって口から出ていく。その言葉は私の心を強く抉っていく。でもそれは私よりも彼の心を強く抉っていた。そのことに気づきながらも気づかないふりをしたくなる。私は悪くないと言い訳をしたくなる。
「そんなこと考えてたの?」
 柔和な彼の顔が強ばる。いつもは見ない顔。知らない顔。
「そんなふうに思われてるなんて思わなかった。」
 その言葉に、しまった、と思った。同時に体が動いた、まさに衝動だった、と、そのときは考える余裕もないほど必死だった。
「ごめん、そうじゃなくて!ごめんなさい、そうじゃなくて・・・。」
「なに?」
 答えにつまった私に強く優しく問う彼から、そんなことは本当に思っていなかったということと私のことを好きだということがはっきりとわかった。
 彼のことを真っ直ぐ見れなくて、さっきの問いの答えも出てこなくて。思わず笑ってしまいそうになった、彼が愛しすぎて、自分が幼稚すぎて。
「杞憂、だったね。」
「え?」
 小さく呟いた私の言葉はこだまとなって消えた。もちろんその声は彼には届いていなかった。反射的に聞き返す彼に構わず、私はその唇をそっとふさいだ。



          *      *



 そもそも私はどうして彼に不安を感じたんだろう。何に不満を抱いたんだろう。
「おはよ。」
 短いあいさつの先には、まだ少し納得のいかない顔をした彼がいた。その彼に笑顔で「おはよう」と返事をして仕度を始める。
 長く一緒にいればマンネリ化してしまってつまらないとか幸せを感じられないとかいろんなことがあるというけれど、私はそのあたたかくおおらかなところも魅力だと思う。むしろそんなところが好きだ。そうだとすると、彼との関係に不満があるわけではないのだろう。それとも、欲が充たされないからだろうか。人間は三大欲求がみたされないことに不快感を持つ。でも彼といて欲求がみたされないことは今のところない。それは実にありがたいことである。ではなぜ、私はこんなにも不満に思っているのか。なにがそんなに不満なのか。
「あのさ、」
 こっち向いてと彼の声が呼びかける。その声につられて彼を見上げる。メイクだけは一生懸命仕上げた顔を彼の前に出す。彼はちっとも引くことなく、紅が引かれた唇に触れた。指先が赤く染まることなどお構い無しに、まるで拭き取るように何度も何度も。
「口紅落ちちゃう。」
「知ってる。わざと。ごめん。」
 どこか寂しそうにしている彼を見ると、黙ってその仕草を見つめていることしかできない。そっと目を閉じても、どこからか彼の視線を感じられて安心する。それほどの距離感なのに、いつもいつでもこうしてもらえるのになにがそんなに不安なのか。
「俺ってもしかしてふられるのかな。」
「は?」
 予想もしていなかった質問に思わず目を見開く。
「どうしたらそんな発想に至るのよ。」
「最近忙しそうだしさ、なんか怒ってるし。」
 いや怒ってはないけど。
「疲れてるのは見てて分かるし。でもさ、俺たちは結婚してるわけじゃないからずっと一緒にいられるわけじゃないし、」
「結婚してる人がみんな一緒にいるわけじゃないでしょ?」
「それでもこうして一緒にいられる時間は限られてる。」
 さすがにこんなに言われて怒っちゃいけないなんて言われたら発狂してしまうかもしれない。私の怒りに察しながらもまだ意見しようとする彼の唇を塞いだ。
「じゃぁあんたはどうしたいのよ!」
 その言葉に初めて自分の気持ちに気付いたような顔をした。



          *      *



 春はみんなに平等にやってくるなんて言うが、春しか平等にやってこないなんてなんとも寂しいと私は思う。四季全てが同じように行動してほしいものだ。それに春以外が白状みたいで、他の季節が好きな私はやるせなくなる。
「なーにが春になったら会えないから今から準備しておこう、よ。本当にバカ。」
『違うんだって。本当に離れ離れになるからその寂しさにはやくから慣れておこうと思ったの。』
「だからその考えが不要だって言ってんのよ。」
 彼があからさまにへこんだのがわかる。電話で長時間黙るのはどうかと思うが、彼との場合はその間がなんとも心地よいのだ。
 彼とはいわゆる遠距離恋愛というものになってしまった。声だって何日に1回聞ければいい方だし、メールだって返事はほぼ返ってこない。その時間になにをしているのかもわからないまま過ごす時間はなんとも苦痛である。もちろんそれを上手に伝えられる自信はないから言わないけれど。
『それでさ、』
 彼の声をこんなに大切に受け止める日が来るとは。少し前の自分では想像もできない。いつも近くにいるのが当たり前で、触れられそうで触れられない距離がもどかしくて、短い時間でも彼を感じられないなんて想像もできなかった。だからこそ今この瞬間は何よりも楽しみだ。そしてほとんど連絡も取れず会うこともままならない私たちにとって、感情を伝えあうことは大切だ。
『またいつもみたいに、俺に愛の言葉囁いてよ~。』
「べつにいつも囁いてませんけど。」
 え~?とおどけている彼はきっとまだ私のことを変わらず好きでいてくれているんだろうなと思えて嬉しくなる。でもそれだけじゃ物足りないと長い間寂しがっていた自分が言う。
「ねぇ今日はさ、」
 最近の空は1か月前よりすっかり高く蒼くなった。この空の下で彼にもう一度会えるのは一体どのくらい先になる事やら。
「たまにはあんたがその愛を口に出して表現してみなさいよ。」
 彼が意地が悪くなったねと笑う声が愛しくてたまらなかった。

口に出して愛を表現してみなさい

口に出して愛を表現してみなさい

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-16

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