死よりも恐ろしいもの
「そこを動くな」
成橋英人はまるで幽霊にでもとりつかれているかのような恐ろしい表情で銃を構える警官たちを睨みつけていた。
その警察官たちに紛れこんでいる漣は片目をつぶり、研ぎ澄まされた精神の中で必死に彼に対する照準をあわせていた。
微弱に揺れ、なおかつ狭い視界は、時間が経つにつれ徐々に犯人の頭部へと迫っていく。
「おい漣、相手は手負いなんだ、あまり無茶するなよ」
他の警官の言うように、加害者である鳴橋英人は少女を殺害する瞬間に受けた発砲によって、片腕に大きな傷を負っている。
にも関わらず、被害者の死体を掴んだまま、まだ食い下がろうとしているのだ。
被害者は彼の再婚相手の連れ子である女子小学生。
青いワンピースに身を包んだ彼女は顔全体に赤い鮮血をまとい、頭部は人形のように胸元へ向かってぐったりと垂れ下がっている。
鳴橋英人は今から十時間前、その彼女を人質に、アパートの一室に立てこもった。
駆けつけた警察官が必死の説得を試みたが、彼がそれに応じる気配を見せることは遂になかった。
少女の髪の毛を掴み頭部を持ち上げると、その首元に鋭利な刃物を突きつけた。
刑事課の上の人間からは、すでに犯人に対する射殺命令が下っており、いつ誰が引き金を引いてもおかしくない状態だった。
刑事である漣は銃口を彼の右目へと向けた。
視界にうつる男の、常軌を逸した表情。
汚らしい無精ひげをはやし、頬はやつれており、両目は真っ赤に充血、その目元から髪の生え際にかけて幾重もの血管が浮かび上がっている。
刑事生活の長い彼にとってこういった凶悪事件に遭遇する機会は決して少ないわけではなく、さほど動揺すべき事案でもなかったが、だからといって過度の油断は禁物だった。
それに今回の事件は、犯人の様子がいつもとは少し異なっている。
その尋常ではない表情とは別に、口元を注意深く観察してみると、細かく開閉を繰り返し、なにやら必死に言葉を嘆いているようなのだ。
他の警官たちは、この事実にまだ気がついていないのだろう、人質事件が起きた場合の手順どおり、次の犯人の一手により今後の判断の舵取りをするらしい。
すると漣の握った拳銃の矛先がつい被害者の方へずれてしまう。
視界にうつる彼女の両目元には傷口すら見えないほどの血こんが溜まっており、そこから地面に向かって滝の様に鮮血が流れている。
もう一度あわてて犯人の顔へと照準を戻すと、彼はさっきと同じように、まだ何かを呟いている。
口を動かしている彼の視線の先には漣の銃を構えている姿があり、まるでその彼に向かって必死に問いかけているかのようなのだ。
漣本人も自ずとそれを自覚し、それによって、あたかも吸い込まれるかのように視線が口元へ引きつけられる。
それと同時に、この後犯人が間違いなく射殺されるであろうことを認識していた漣は、最後になぜ彼がこのような罪にいたったのか、という経緯がもしかするとその口の動きによって推測できるのではないかと判断していた。
断続的に、かつ同様の動き。
ここからでは、距離が離れすぎているため、彼の口の動きを判別しうるには中々骨を折らざるを得ない。
めい一杯片目を閉じ、視線を一点集中させる。
「……え、……え」
彼の口の動きは絶えず、こういう風に、え、え、という言葉を発しているように見える。
こうやって静かな、それでいて必死の悪戦苦闘が続く中、次の瞬間突然、それが終わりを告げる。
視界にうつっていた彼の脳が血飛沫を吹き上げ勢いよく後方へ吹き飛んだのだ。
首が後ろへのけぞると、体が少しばかり宙に浮き、大きな音をたて頭から地面に叩きつけられた。
漣は犯人に対する射殺を多少までも予期していたものの、こんなにまで早急に敢行されるとは思ってもみなかったようだ。
それと同時に、今まで時間が止まったかのように銃を構えていた警官たちが、一斉にスタートをきり、あっという間に犯人を取り囲んでしまった。
拍子抜けしてしまった漣は、両脚の力が抜け落ちると、茫然自失のままよろめくように地面に座り込んでしまった。
「おい、だいじょうぶか?」
他の警察官が倒れこんだ彼に向かって声をかける。
「…はい、だいじょうぶです。あの……犯人は?」
こう質問するとその警察官は、何を言ってるんだお前は、と言わんばかりに大きく両目を見開く。
「何言ってるんだ? お前が撃っただろ」
「えっ?」
衝撃の事実だった。
真実を確認するため急いで銃口をのぞきこむと、そこから薄っすらと火薬の臭いが漂っていることに気づき、その瞬間ようやく自分が発砲したのだと気づいたのだった。
まさか自分が撃ったのかという、あまりにもの戸惑いに、屈んだままその場に氷付けにされてしまう。
弾丸飛び交う戦場のような物々しい足音が耳元で響くと、漣の神経はふとまた元の犯人の方へと吸い寄せられざるを得なかった。
頭から血を流し大の字になって倒れこんだ男が見える。
そして隣には同じように頭部に大量の血を流している少女の姿。
…事件は彼が犯人を射殺するという本人にとっては思いがけない、そして驚愕の終局を向かえたのであった。
「漣さん、漣さん」
漣は暗闇の中にいた。
まだ太陽が地から顔を出して間もない朝、心地よい眠りの境地から彼を呼び起こそうと、必死の声が聞こえてくる。
耳に鳴り響く甲高い声色は女性だろうか。
脳内に、ガンガンガンと不快な衝撃を与えている。
まだ夢見心地の神経はあやふやな幻の中を漂い、現実へ戻ろうか、それともこのまま居座ろうかと優柔不断に悩んでいる。
その時、扉を叩く音が、さっきよりも一層大きくなり彼の耳に轟音を轟かせた。
その衝撃と同時に思わず布団を跳ね除け、勢いよく飛び起きてしまった。
断続的に続く快音は彼が起きても、なお構わず続いている。
それは漣がここにいるであろうことを確信しているらしく、絶対に引くことを知らない執念の塊のようなものさえ感じる。
頭をかきながら、服を着替えるためにタンスの前に近づくと、ハッと今の自分の状況を思い出してしまう。
あの事件以後、上司から長期の休暇を言い渡されていた彼は、それから二週間程度自宅に引きこもり、ただ何もせずダラダラと暇な毎日を過ごしていた。
「漣さん、漣さん、起きてください」
声はまだやまない。
仕方なく寝巻きのまま彼女の元へ向かおうとするが、体が弱っているせいか、イマイチ手足の動きがおぼつかない。
あげくの果てに、よろよろと絨毯の上に倒れこんだ、その瞬間だった。
さらにドカンという大きな音が高鳴り、一瞬静かになったかと思いきや、途端に軽快な足音がここに迫ってきたのだ。
「漣さん、何やってるんですか?」
彼女は漣のよく見知った人物、刑事課の部下である、日比野鈴花。
黒いスーツに身を包み、下半身のスカートからは、すらっとした細長な脚が突き出している。
錬に近づいては絨毯の上に正座すると、おもむろに倒れた彼の上半身を持ち上げた。
「だいじょうぶですか?」
「…うん」
漣は未だ事態を把握することができず、頭をかきながら、とぼけた表情をあらわにしている。
「…一体どうしたんだい?」
「何言ってるんですか? 仕事ですよ」
すると彼の視線は急ぐようにカレンダーの方へ向かった。
そこには現在三月のページが開かれており、事件が起こった日付から赤い字で丸印が並びはじめ、そして二週間より三日少ない今日まで十一日間続いている。
「……まだ十一日目、あと三日残ってる」
「あれ?」
自然と頭をかく力が強くなり、口元から深い溜息がどっとこぼれてしまう。
自分の勘違いだと気づいた鈴花は、謝罪の態度を体全体で表現するように地面につくくらい深々と上半身を傾けた。
「す…すみません。てっきり、もう二週間経ってるかと」
漣の口から二度目の溜息が飛び出すと、弱りきった重い体を何とかゆり起こしてベッドの上に乗せた。
「困るよ、こっちは貴重な休暇を過ごしてたんだよ。過酷な刑事生活が三日後からまた始まるんだし、そのためにしっかりと体を休めとかなきゃいけないのに」
表向きは大事な休暇と銘打っているが、その実さっきも言ったとおり彼の休日は単に暇を持て余しているだけの、ただグウタラな日々が続いているだけだった。
そのせいか体も強張り、神経も緩みに緩みまくっていた。
その神経も、ただ怠けているため緩んでいるというわけではなく、先日起こったあの事件が彼の精神に大きく尾を引かせているせいでもあった。
「で……あの事件、犯人の動機はつかめたの?」
仕切りなおし、気になった事件の経過報告を尋ねる。
「…いえ、まだです」
「まだなの? …あれからもう随分時間経ってるよ。署の凶悪事件をあつかう刑事課がそんなんでいいの」
「そんな簡単に言わないでくださいよ。その犯人の鳴橋英人っていう男もなかなか謎が多くって困ってるんです」
「…謎」
強靭にこびりついたあの事件の記憶を忘れようとするが、それを頭から掻き消そうとすればするほど、また己の脳裏にしつこく舞い戻ってくる。
成仏できないあの男の幽霊が、怨念と共に自分自身にとりついてしまったかのような、そんなどうしようもない重苦しい気分にさいなまれているのだ。
「単に異常者だったんじゃないの?」
「はい…わたしたちも最初はそう仮定して動いていたんですが、しかし調べていくとどうもそうではないらしく、彼には精神病院への通院歴もなく、周囲の評判もあまり悪くはなかったそうです」
「…ふうん以外だ」
鈴花は持ってきていた鞄の口に手を突っ込み、何やらごそごそと漁り、中から資料と思われるものを数枚とりだした。
「これ見てください」
漣はそれを受け取ると、そこに張られたあまりにも凄惨な死体画像を目にする。
「…こんな血の気の多いものを朝っぱらから見せられるなんて最低だよ」
まだ赤々と輝いている大量の鮮血が、花火を爆発させたかのように、少女の後頭部あたりから周囲にかけて無残にも飛び散っている。
そして両目からは照準を合わせたときに見せた、落ち窪んだ二つの血だまりが垣間見れる。
「…惨いね」
「…はい」
「彼は何のためにこんな残虐な行為に及んだんだろうね」
「…それはわたしには分かりませんが、目的と言われれば、ちょっと気になることがあります」
漣は指差された箇所を見ると、彼女の両目の周囲に刻まれた不思議な刃物傷を認める。
「…これ犯人がつけた傷?」
「はい、警官が犯人のアパートに駆けつけた直後、錯乱状態に陥った彼は突然彼女の目元に刃物を突きつけたんです。彼女の死因もこれが元になったショック死だったそうです」
「…不思議な傷だね」
刃物傷は合わせて四本。
一本目は眉毛の左端あたりから、鼻の付け根まで。
さらに二本目はさっきとは逆で眉毛の右端辺りから、左瞼付近にまで一本目と交差するようについている。
そのバツ印と思われる傷が左右の目を潰すように丁寧に並んでいる。
「きっと意味があると思うよ」
「…どうでしょうか、彼はあの時点において、かなりの異常な精神だったと推測できます。あの状態のまま、まともな行動判断ができるとは俄かには考えられません。この傷口だって、たまたまこう付いただけじゃないかと」
その時漣は未だ記憶に残っているあの現場の光景が、この傷口の謎を解くヒントになるのではないかと密かに勘ぐっていた。
まるで自分一人を的に絞って放たれたかのような不気味な口の動きは、彼の脳内にはっきりとある言葉を残していた。
「…え…え…って何だろうね?」
「え?」
「僕ね、あの日、彼に向かって銃を放ったんだ。放ったといっても、意識して放ったわけじゃないけれど、その射殺する前に彼が僕に向かって何かを必死に訴えているような気がしたんだ」
「…言葉、遺言かなにかですか?」
「そうじゃなくって彼は自分に銃口を向ける僕に対して、ひたすら…え、…え、って叫んでたんだ」
「…え…え? あんなに一斉に銃口を向けられるなんて思っても見なかったでしょうからね、よっぽど怖くて動揺してたんじゃないでしょうか」
「ただの動揺とは考えにくいよ。だって彼は既に腕に一発弾を撃ち込まれてるんだよ。その一発は威嚇レベルのものだったけれど、かなりの深手を負わせていた。もし次に逆らったら、もう一度撃たれることを理解していたに違いないのに、彼は少女を解放しようともせず、刃物を捨てて投降しようともしなかった。動揺していたのであれば、今すぐ降参の意をあらわしてもよかったと思うんだよね」
「では、なぜ」
漣は持っていた資料をベッドの上に投げやると、同じく自分の体もそこにもたれかからせた。
大きな欠伸を吐き出すと、それに合わせて自然と声も大きくなってしまう。
「それが分かったら苦労しないでしょ。分からないから、こうやって何日も自宅に閉じこもってたんだから」
「ずっとですか?」
「うん、ずっと」
鈴花の呆れたような表情。
「とりあえず、休暇は残り三日あるよ。君はこれから仕事だろ、僕に構ってないで早く署に行きな」
彼女は絨毯とベッドに放置された資料をかき集め、鞄の中に押し込むと、立ち上がり急ぐように彼の家を飛び出していった。
ここを訪れるのはあの日以来初めてだろうか。
ここを訪れないと気がすまないという使命感、責任感にどうしてもさいなまれていた漣は、復帰まで三日あるにも関わらず、自然と現場に足を運んでいた。
彼は自分が銃を構えていた場所に、あの時と同じように二本の脚を添える。
そして何らも握られていない両手を銃に見立てる。
現場は閑静な住宅街。
周囲には大きな一軒家、集合住宅、公園などが立ち並び、その中に犯人の居住まいであった小さくて古ぼけたアパートが建っている。
あの日、彼は片腕に受けた重症を引きずりながらも、両腕でがっしりと少女をつかみ、大勢の警察官の前に立ちはだかった。
数秒後には自分の生死がどうなるかも分からないという切羽詰った状況にも関わらず彼はまるで心ここに在らずかのように一人ぶつぶつと呟いていた。
その犯人の異変に気づいていたのは漣ただひとりだけだった。
彼が立っていた場所をよく確認すると、現場検証の時につけられたであろう大の字にかたどられた白い線がまだ薄く残っている。
大きな人型の隣に、一回り小さな人型。
「よお、どうした? 漣」
突然声をかけられると、とっさに背後を振り返った。
するとそこには彼の先輩刑事である浅木秀則がいた。
若干ながら髪を茶色に染め、身に着けている黒いスーツの隙間からは白いシャツが大袈裟に飛び出している、その姿はあたかもちゃらけたホストのようにも見える。
「どうしたんだ、じゃないです。先輩こそ、どうしたんですか?」
「…ん? 俺は仕事だよ。昨日現場検証が一通り終わったんで、一様ここら一帯で何か事件に関する情報や証拠がないかとぶらついてたんだ」
「んで、何か見つけたんですか」
「うん…まあな、とはいっても、それが事件の発端になった直接の因果関係になるのかどうかは未だはっきりとは分からないが」
「なんですか」
「近所の人の話で、犯人があのアパートに引っ越して来る前、住居を探すためにこの辺りの家を何軒もはしごしていたらしいんだ。その時、あいつに尋ねられた内容というのが奇妙なものだったらしい」
「…奇妙?」
「あいつは、この街で起こったある事件の現場を探していたらしいんだ。当時の新聞記事を握り締めてこの場所を知らないか、と執拗に聞き及んでいたらしい」
「…事件現場、そこに住もうと思って探してたんですかね」
「そうじゃないか? 実際そこを突き止めた犯人は、再婚した妻と、その連れ子と共に一緒に暮らしたらしいんだが」
「…それがこのアパート」
「いやそうじゃない。実際アイツが住んだのは、探していた現場ではなく、その真向かいに建っているあのアパートだった」
漣は振り返ると、犯人の住んでいたアパートと似ているが、それよりもさらに何倍も古ぼけた建物が建っていることに気づく。
「じゃああっちが彼の探していた事件現場ですね」
「そうだ」
「鳴橋英人は自分の探していた事件の現場がよく見える向いのアパートを借り、そこに家族と一緒に暮らした」
「順風満帆に思われていた暮らしが、彼の暴走によってあっけなく幕を閉じた」
「……鳴橋英人が探していた現場で起きた事件って一体どんな事件だったんですか?」
「凄惨な事件さ。まだお前がこの管轄に来る前だろうからきっと知らないとは思うが」
「どんな?」
「…集団レイプ殺害事件」
漣がふと事件現場のアパートの窓際を見てみると、全てのカーテンが閉められ、今は閉店休業中だと気づく。
「…レイプですか」
「あそこ、見えるだろ。一つだけ色の違うカーテンがかけられてる、そこが事件現場」
「集団ということは」
「ずいぶん悲惨だったらしいよ。俺は別の事件に出向いてて、その案件についてはよく知らないんだが同僚に聞いた話では、帰宅途中だった女性会社員を部屋の中に拉致し監禁して、三日三晩にわたり悪戯したとか。被害者は執拗に逃げようとしたが、犯人たちがそれを阻止し、激しい暴力に及んだ、その後、被害者は近所の目撃者からの通報で駆けつけた警察官によってあの部屋の中で、死体として発見された」
「醜いですね。……でも、その事件現場を、なぜ鳴橋英人が探してたんでしょう」
「それが分かったら苦労しないな。アイツは周囲の人間にも絶えず、平常な人間を装っていたらしいからな、あの事件が起こるまで不可解な行動は一切なかったらしいし」
「じゃあ、お手上げってことですね」
「…そ」
漣の脳裏にあの日の光景が再び舞い戻ってくる。
大勢の警察官に囲まれ、その警官たちが一斉に犯人に対して銃を向けている光景。
彼は怯えた表情で、依然自身に対して、何か小言を言い放っている………が、よく判断できない。
その時ふと我に帰り現実の光景に立ち返ると、おもむろにレイプ事件の起こったアパートの方に目が行ってしまう。
「…どうした漣?」
その瞬間、ピンとあることに気づいた。
…当初、犯人は自分に向かってその小言を言い放っていたように認識していたが、もしかするとそれが単なる思い違いで、実は彼が放っていたのはあの事件現場に対してではあるまいか。
青いカーテンの群れの中に、一際異彩を放ち目立っている赤のカーテン。
犯人の立っていた位置と当時自分が立っていた位置を対角線上で結ぶと、確かにあのアパートのあの部屋にピッタリとあてはまる。
「…いえ」
思い違いだろうか、それとも。
…春の陽気もまだ始まったばかりの涼しさ残る季節だが、なぜだか漣の額にはダラダラと大量の汗が流れ落ちてくるのだった。
「まあ、さっきも言ったとおり、この事実があの事件と何の関係があるかは未だ不明だ。もしかしたらないかもしれないし、あるかもしれない。ま、どっちにしろ死人に口なしって言うからな、あまり期待しない方がいいと思うぜ」
赤いカーテンは二人が現場から立ち去るその時まで、隙間風に煽られゆらゆらと揺れていた。
次の日、漣の自宅には昨日と同じように同僚の鈴花が訪れていた。
だが昨日とは違い、勘違いの来訪ではなかった。
「…レイプ事件ですか」
鈴花は先日と同じように、二本の膝を漣に向けるように絨毯の上に正座し、言葉をかわしていた。
「そう、僕が来る前、君、この管轄で交通課やってたそうじゃん。何か知ってるかと思って」
「ええ…その事件が起こった当時、わたしは署の交通課に勤務していました。でもあまり詳しいことは知らないですね。ただ、随分騒がれてたのは覚えてますが」
「犯人たちはどんな人間だったの?」
「…どんな人間もなにも普通の男たちでした。レイプ犯に対して普通と言うのもなんですが。主犯格の男はまだ定職にもついていなかった十九歳の少年、もう一人は、同じく十九歳で土木関係の仕事をしていた。そしてもう一人……彼が犯人と呼べるかどうかは、未だ分かりませんが」
「否認してたの」
「…ええ、他の二人は彼が現場にいたという証言を頑なに曲げなかったらしいですが彼は終始一貫してそれを否認した」
「…なるほど、で、どんな少年?」
「彼は他の二人に比べるとずいぶんと若いです。十四歳。まだ中学生」
「…へえ」
「結局、彼だけは証拠不十分と、さらに事件に直接深く関わっていないと当局が判断したお陰で無罪放免になったそうですが」
十九歳の二人の少年、刑を免れた若き少年。
この三人とあの時、自分に向けられた言葉…どこかに接点らしい接点がないかと必死に頭をかき回すが、結局それらしい答えを導き出すことはできなかった。
「その事件と、人質事件、何か関係があるんですか?」
「……ううん、まあ、それははっきりとは分からないけれど、ちょっと引っかかることがあって悩んでるんだ」
「ふうん、いつもは能天気な漣さんなのに、ずいぶん生真面目になっちゃいましたね」
「そりゃそうだよ、あんな光景が自分の目の前で起こったんだよ。まあ刑事を始めて三年目、多少は事件に慣れていた自分だけど、実際この手で銃を構えて人を撃つってことは並々ならぬストレスがかかるんだよ」
「……そうですね」
漣はふとカレンダーを見る。
休暇を終えるまで、あと二日。
それまでに、事件のことをすっかりと忘れて、また新しい刑事生活に向かえるのか、その不安ばかりが日に日に増していく。
……夜、ベッドの上で目をつぶると、やはりあの男の鬼気迫る表情が漫然と脳内に浮かび上がってくる。
それは日数を追うごとに少しずつ常軌を逸していき、あげくの果てには彼の声が当時とは比べものにならないくらい大音量でガンガンと響きわたる。
何かを訴えている、それは自分自身に向かってか、それとも、背後にある殺害事件のアパートに向かってなのか、まるで判然としない。
ただ、彼がそこにある、死、というもの意外の漠然とした、何か、に対して大いなる恐怖を抱いていた、ということだけは徐々に薄れいく意識の中でボンヤリと確認できていた。
次の日、一人あの現場アパートに訪れていた漣は管理人に鍵を借りることができ、中に入ろうとしていた。
すると背後から女性の声。
「漣さん、やっぱりここだったんですね」
日比野鈴花だ。
「君? 君も来たのかい?」
「ええ、上司からの命令で、漣を止めろって」
「…止めろって、別に悪いことやってるわけじゃないんだから」
「だって課長、とても怒ってましたよ。せっかく休暇を与えてやったのにアイツが勝手な行動をとるから困ってるって。どうにかして止めに行ってこいって」
「別にいいじゃん。これ、プライベートなんだし、課長に文句を言われる筋合いなんてコレッぽちもないんだから」
「プライベートなのに署の許可もなしに現場のアパートの鍵を借りるんですか。…職権乱用ですよ、それって」
「かまわない、かまわない」
漣が訪れていたのはレイプ事件のあったアパートの方だった。
先日、秀則と鈴花に聞いた情報がやはり気になっていた彼は、早朝、自宅を飛び出しここを訪れたのだった。
「…うわあ、汚い」
鈴花がこう口にしたのも頷けるような荒れ果てた室内だった。
地面から剥き出しになった畳の群れ、やぶれかぶれの障子、穴だらけの天井、錆にまみれた炊事場、そのどれもこれもが人の生活していたであろう形跡を微塵も残してはいない。
秀則の話では事件に使われた部屋は、漣が彼と二人で見上げ、発見した赤いカーテンで遮られた場所だという。
「…ここですね」
同じように荒れ果てた室内は、ここも人が住んでいた場所とは到底思えない醜さ。
二人の目の前の赤いカーテンが、少し開いた窓の隙間から入ってくる微風によって、ゆらゆらと揺れている。
鈴花がカーテンに近よっていき、それを一気に開いた。
外からの西日が両者の目頭を熱く刺激する。
「あそこが、人質事件の犯人が住んでいたアパート」
遠く目の前に古ぼけた建物が見える。
「…それで、あれが僕の立っていた場所」
犯人のいた場所からここへ向かって、漣の立ち位置、アパートの窓の位置、この二つが直線状に並んでいるのが見て取れる。
「あそこで犯人は、ここに向かって言葉を放っていたのかな」
「…え? それはどういうことですか?」
「いや、君に話さなかったっけ。あの時、彼が言った言葉、最初は僕に向かって言ってるとばかり思ってたんだけど、ここに別のもうひとつの事件現場があって、犯人がそれを探していた事実を知った途端、あれは僕にじゃなくて、実はこのアパートに向かって投げかけられたものだったんじゃないかと思い直したんだ」
「……どういうことですか?」
「うん……ただそう感じただけなんだけど、僕にもよくは分からないんだけどね」
すると二人は鳴橋英人が向けていた視線の方向を追う様に、窓辺から室内へと向かって目線を動かした。
そこには壁があった、が見るからに普通の壁ではなかった。
「…な、なんだいこれ?」
壁は土でできた古風な感じなのだが、その一面に巨大で、かつ真っ黒なシミができているのだ。
「…こ、これは」
さらによく見てみると、そのシミがまるで人間の体を形作っているように、はっきりと見渡せるのだ。
「もしかして当時ついたシミ」
その時、鈴花は思い出すように口を開いた。
「そういえば、わたし聞いたような気がします。そのレイプ事件、被害者がこのアパートで死体として発見された当時、彼女は室内の壁の柱に両手をくくりつけられ手足が動かせない状態だったって」
「……じゃあ、やっぱり」
黒い十字の影。
激しい暴力に流れ出た鮮血が次第に壁にしみこみ、そして長い年月を経てこのような黒いシミを残したのであった。
とっさに漣は再度、窓の奥にある犯人の立っていた現場の位置を省みた。
その位置から斜め上に向けられた視線、そうして残っているこの血痕跡。
極めつけは……あの言葉。
ゴクリと生唾を飲み込んだ漣は何気なしに、両腕が、手先がプルプルと震えていることに気づいた。
どうしてかは分からないが、両こぶしに残っていた、彼を撃ったときの銃を握る感覚が、今ここで思い起こした記憶と共に再びはっきりと蘇ってきたのだ。
「……どうも、ありがとうございました」
ことが終わると二人は管理人に鍵を返し、挨拶を済ませ、もう一度アパートの前の道路に足を踏み入れた。
鈴花が当時、漣のいた立ち位置、さらに漣が犯人のいた場所に立つ。
彼女の少し頭上に視線を捉え、さっき立ち寄ったアパートの二階、赤いカーテンのあった窓を目印に注意深く目線をおくる。
事前にあの赤のカーテンを開いていた部屋は、太陽光に照らされ内部がハッキリと確認でき、やはりここから目的のシミを視認できることが分かった。
近よってきた鈴花が漣の脇に立ち、両者視線の行方を合わせるように斜めに顔を向けた。
シミの左右両方に飛び出た黒い線が少しずつ曲線をえがき、中央に向かって斜め下に伸びている。
彼女のくくりつけられた腕が脇に向かって伸びている姿なのだろう。
ここまで鳴橋英人のあの奇行に対する謎を知りたいという一心で休暇を押してまで動いてきた漣だが、ではなぜ彼があの当時、少女に対して両目を潰すといった奇怪ともとれる行動に至ったのか、という疑問が脳裏に立ち返ってくる。
ベッドに横になり眠りについていた漣は今日も同じように、事件の幻覚に悩まされていた。
口をパクパクと動かしているむさ苦しい姿の鳴橋英人、この光景はもう何度も目にし半ば慣れきっているといってもよかった、がしかし次に現れたのは、背後から迫り来る、あのアパートで見た黒いシミだった。
犯人から外すことのできない銃の照準。
背後からは不気味な強風と共におぞましい黒い影がせまってくる。
そして呟く、……え、……え、と。
「漣さん、起きてください、漣さん」
今日も声に頭を殴られるようにハッと目を覚ました。
キョロキョロと周囲を見渡すと、ベッドの隣の絨毯の上に鈴花が正座していた。
休暇を取ってから、同じような光景を目にしたのは、もう何度目だろうか。
ここが漣の自宅にも関わらず、彼女は平気の体で室内に居座っている。
「なんだよ? また来てたのかよ」
「なんですかその言い方は? まるで邪魔者あつかいですね」
「そういうわけじゃないんだけど」
漣は弱々しい動きでベッドに飛び乗ると猫背になって彼女の話を聞きはじめた。
「………で、なんか進展はあったの?」
「いや今日は進展があって来たんじゃないんです」
「じゃなに?」
「行くんですよ」
「どこへ?」
「鳴橋英人の自宅アパートですよ」
漣は連日の定例行事になっている朝の溜息を今日も彼女に対して放つ。
「なんですか、その失礼な態度は」
「……もう忘れたいんだよ」
「忘れたい? 事件をですか? なに言ってるんですか?」
「…ここんところ毎日うなされてるんだよ。見る夢、見る夢、いつもあの事件現場」
「あの現場での光景がまだ夢に出るんですか?」
「それだけじゃない。あのレイプ事件のアパートで見た黒いシミ、あれが僕の背後にだんだんと迫ってくるんだ」
「……それは恐ろしいですね。まるでホラー小説みたいだ」
「だろ? だからもう、あの事件のことなんてサッパリ忘れて、早く刑事課に戻って次に待ち受けているであろう事件に向かいたいんだ」
「へえ、いつもは能天気な漣さんなのに。……じゃあ使用がないです。コレ持ってきたんで、ぜひ見てくださいよ」
「何?」
鈴花が持ってきたのは、この前と同じような資料の束に加え、数冊の本だった。
「本?」
「これですね。犯人の鳴橋英人が生前読んでいたと思われる本なんです」
「…ふうん」
「それにコレ」
そして次に取り出したのが、見たところずいぶんと古びた感じの新聞記事だった。
「あっ、これ、まさか?」
「そう、そのまさか。これが当時、鳴橋がアパート探しに没頭していたときに近所の住人に見せていたレイプ事件の記事です」
「へえ、やっぱりあったんだ」
「はい、彼の自室の机の中に仕舞い込んでありました」
「……どれ、どれ、ちょっと見せてくれる」
紙面には、女性会社員に対する見るも無惨なレイプ殺害事件、と見出しが書かれている。
一番右端には、まだ人が住んでいた頃の面影を多少残している昨日見た現場のアパートがでかでかと載っている。
その現場の周囲には立ち入り禁止のテープが張られており、さらにそれを囲むようにして野次馬、中に作業着を着た警察官たちが集まっている。
白黒写真で色までは判別できないが、昨日見たのと同様のカーテンがその二階の部屋にも同じように残っている。
「…ここだね」
「はい、昨日訪れた部屋ですね」
カーテンは少し開いており、隙間風に煽られて揺れている瞬間のようにも見える。
鈴花が横から声を出す。
「三人の犯人は、当時目だし帽をかぶって犯行に及んでいたそうです」
「目だし帽?」
「はい、逮捕後の警察の取り調べによって、彼らが行った醜い犯行の数々が次々と暴露されました。被害者は室内に監禁され、手足を縛られており身動きのとれない状態だった。さらに暴力は常軌を逸しており、彼女が泣き叫んでも一向止める気配を見せなかったそうです。彼らは当初、被害者を解放する予定だったのか、顔を見られないようにと、暴行のさいには常に顔を帽子で覆っていた」
「それじゃ、被害者は暴行していた犯人たちの顔を知ることなく死んでいったってこと」
「…そう」
思わず漣の視線は引きつけられるように、そのカーテンの隙間の中に吸い込まれていった。
すると黒い闇の中に、何か一筋の白い点が見える。
それが気になった彼はさらに顔を近づけ、間近でその箇所を確認しようとする。
その瞬間ハッと驚いて、思わず体を背後にのけぞらせた。
「どうかしましたか?」
青ざめた表情、見開いた目、カチカチと歯をがたつかせながら、前方にある記事に対して指さした。
「…こ…こここ…これ」
突然の出来事に不思議な表情を滲ませる鈴花が、自ら事実を確認しようと新聞記事に手をのばす。
「…それ、よく見てごらん。昨日君が開いたカーテンの隙間、その黒い闇の中に何かうつってるだろ?」
「…はあ? カーテンの隙間ですか?」
鈴花は漣と同じように、眼球にせまるくらい必死に記事に顔を近寄らせた。
「ね? 見えるだろ?」
彼女はまだ沈黙を解かない。
すると、フフフと小さな笑みを浮かべる。
「何言ってるんですか? 驚かさないでくださいよ。何もうつってないじゃないですか。漣さんってイタズラ好きですよね」
予想外の返答に思わず唖然となる。
さっき記事を見たときには、女性のものらしき片方の目元が暗がりに紛れ確かにそこにうつっていた。
真偽を確かめようと鈴花から記事を取り返し、再度恐る恐る目を向けるが、驚くべきことに、さっき見たような、おぞましい目元はカーテンの隙間のどこにも存在していなかった。
「わたしの言った通りでしょう。何もうつってなかったでしょう。きっと漣さんの思い過ごしですよ」
見間違いのようには思えなかった。
漣の目には確かに、そこにうつる、不気味な瞳を捉えていた。
「先輩、最近しっかりと寝てないんですよね。きっとそれで幻覚でも見たんじゃないですか? ほら、人の脳はあまりにも休憩をとらないと疲れきってしまって、その人に誤った景色を見せてしまうって言うじゃないですか。きっとそれに違いないと思います」
あるいは、そうなのかもしれなかった。
最近、夢の中で何度も姿を現している黒い影、何日も眠れないことにより、脳が誤作動を起こし、その影が現実にまで這い上がってきたのではないだろうか。
「じゃあ漣さん、わたし、そろそろ署に戻りますね。あっ、それからコレ」
鈴花が取り出したのは丸まったポスターだった。
それを広げると中には、飲酒運転撲滅キャンペーン、と文字がうたれており、その上に可愛らしい姿をした婦警が笑顔を見せて規律正しく敬礼を行っている姿がうつっていた。
「課長が署員みんなに配ってるんですよ。作りすぎたからお前らの自宅にも張っとけって頑なに譲らないんです。無責任ですよね、ということで漣さんの部屋にも貼っておいてください」
鈴花は立ち上がると、室内をうろうろと歩き回り、そのポスターをどこに貼るべきかしばし悩んでいる。
すると彼女はここに決めた、と言わんばかりに、カレンダーの隣に貼りつけた。
「ここでいいです。カレンダーの隣。仕事まであと一日。漣さんが仕事から逃げ出さないように、この可愛らしい婦警さんにしっかりと見張ってもらわなくちゃ」
こう言うと鈴花は、そそくさと彼の自宅から飛び出していってしまった。
彼女の言うように休日は残り一日。
体の緩み、脳の疲れ、悪夢、そして幻覚。
休日前はこんな風になるとは思ってもみなかった休暇は、残酷な終局に向けひたひたと凶悪な悪魔が彼に忍び寄りつつあった。
…その日、彼は鳴橋英人の妻だった彼女に話を聞くことができた。
さっき彼は事件のことを、忘れたい、と彼女に対して放言していたが、やはりそう簡単には、事件を、あの男を頭の中から消すことはできなかった。
彼は重たい足取りで犯人の妻の入院する病院へと向かった。
今になってようやくこの病院を訪れることができたのも、娘を殺されたショックと、それによる精神的疲労とで入院を余儀なくされていた彼女が、取り調べに対してオーケーサインを出したからだった。
今回もこの前と同じく、あくまでもプライベートとして現場へ向かう。
室内に寝たきりになっていた、妻、鳴橋愛華は、その疲れきった両目を漣に向けた。
「夫はやっぱり死んだんですね」
彼女の声は、蚊の鳴くくらい実にか細かった。
漣が黙ってコクリと頷くと、彼女は両手で顔を覆い、静かに涙を流し始めた。
「娘さんも残念ながら亡くなりました」
事件が起こったのは彼女が実家へ帰省し自宅を留守にしていた合間だった。
彼女が人質事件の報をその実家で聞きうけると、そのまま床の上に倒れこんでしまった。
鳴橋愛華は最近、体の調子が思わしくなく、それによって一時の間、夫の鳴橋英人に娘を預け、しばらく田舎で体調を休めるという計画の最中だった。
事件が収まった今まで、その詳しい経緯を彼女には伝えていなかった。
それというのも彼女の具合の経過も多少なりとも影響していたが、一番は彼女に対してあまり心配をかけたくないという親戚からの意向によるものが大きかった。
「…どうして夫はあんなことを?」
漣は客用に用意されている椅子をベッドの前に動かし腰を降ろした。
「それは僕ら警察にも分かりません。しかしひとつ言えることは、鳴橋英人が実に狂った男だったということ」
「狂っている?」
漣の声は少し上ずっていた。
その理由のひとつに焦りがあった。
度重なる疲労の連続が、あたかも鳴橋英人の真相をつかめないため引き起こされているような気がして、どうしても執拗な追求を敢行せねばならない心持になっていたのだ。
「病状が回復したばかりで、こんなことを話すのは酷かもしれませんが、彼の行った行為は普通ではありません」
「娘は、娘がどうかしたんですか?」
「あなたの娘には、目元に刃物でつけられた傷が残っていました。死因もそれが元となったショック死だったそうです」
そして少しずつ、自分の身が何かよからぬ終局へと向かっているのではないか、という漠然とした危機感にさいなまれているせいでもあった。
「あなたが知りうる範囲で構いません。僕ら警察は、彼がなぜあんな行為を犯したのかをどうしても知りたいんです。なぜあんな凶行に及んだのか、なぜ愛していた娘を殺さなければならなかったのか」
その問いに対して彼女は、少し間をおき、言うべきか言わざるべきかを悩んだ風つきだったが、ついぞ意を決してこう語りはじめる。
「…彼は娘を愛してはいませんでした」
予想外の言葉に少し戸惑う。
「それはどういうことですか?」
「彼は娘に対して、微笑んだことが一度もありませんでした」
「二人は不仲だったと?」
「いえ、そこまでじゃなかったと思いますが、彼は元々異性に対して拒絶感を持っていた人間でした」
「…女性に対して」
「はい、わたしと出会うまでは、女性との関係を一切拒絶していた、と彼から聞きました」
「では失礼ですが、鳴橋英人との出会いは?」
「実はわたしも異性が少し苦手でして、そういった出会いもなく二十年近く一人身で生きてきました。そんな中、働いていた職場で前の夫と出会いました。その夫というのも最初は礼儀正しく一見優しそうな男だったので安心していたんですが、…家では乱暴者で酒癖も悪くさんざんな男だったんです。その夫と娘をもうけた後、彼と別れ、途方にくれていた矢先、たまたま鳴橋英人と出会ったんです」
「…彼は、どうでしたか? 何か悩みごとがあったとか、その女性嫌いの原因など話していませんでしたか?」
「女性嫌いと何か関係があるかは分かりませんが、彼がある事件に対して、異常な執着心を見せていたことを覚えています」
「…女性会社員レイプ殺害事件」
「はい、…どうして知ってるんですか?」
「ええ、あなたたちがあのアパートに住む前、彼が一人その事件の現場を必死に探し回っていたことを、とある関係者から聞きました」
「彼はわたしと出会った当時、その新聞記事を見せ、知っているのか、と驚いていました」
「あなたはレイプ事件について詳しいことを知っていた?」
「…いえ、たまたま事件の現場の隣に昔住んでいて、殺された彼女のことを少し知ってましたから」
すると彼女は、思い出すようにこう言った。
「そういえば彼、不眠症で悩んでいたんです。事件の起こる一週間前ぐらいですか、それまではそんなこと一切なかったのに、なぜだか眠れない、眠れない、と口走りはじめて」
「…もしかして、それが娘さんを人質にとって立てこもる原因になったんじゃないんですか」
「…それはわたしには。でもあの人、夜中睡眠薬を飲んで眠りにつこうとした際にいつも、苦しそうに嘆いていたんです」
「…なんて?」
「助けてくれ、最近眠るといつも同じ夢を見るんだ。それは男たちが一人の女性を囲んでレイプしている光景なんだ。その女は男たちに暴行を受けながらも、なぜか執拗に俺の方を睨みつけてくるんだ、って」
…夢。
「どうしてそんなに俺を睨みつけるのか、と理由を尋ねてみると、彼女こう答えたそうです。……あなたしか顔が見えてないから、って」
その時、鳴橋愛華は漣が事件当時に見た、犯人の彼と同じような口の形を動かし、ある言葉を発した。
「彼、それから、何度も意味不明な言葉を呟いていました、………え、………え、って」
しかしあまりの声の小ささに、しっかりと聞き取れない。
「え? よく聞こえません…い……今なんと?」
それから漣は彼女との接見を終えると、病院の入り口に立ち、薄暗くなった空を呆然と眺めていた。
今にも降りこみそうな雨雲から、無数の雨粒が少しずつポタポタと落ちてきた。
彼の脳内はまるで空っぽになってしまったかのような空虚な状態をさまよっていた。
傘もささず、自宅への道のりを呆然と歩いていく。
まだ春も始まったばかりの冷たい雨は、弱った彼の体に充分こたえるものがあった。
すると目の前に、ある人物が立ちはだかった。
「漣さん、どうしたんですか?」
鈴花だった。
「ずぶ濡れじゃないですか」
急いで走りよると、手に持っていた傘を彼の頭上にかざす。
「何があったんですか? もしかしてあの病院に?」
「…うん」
「今からわたしも鳴橋の妻に事情を聞こうとあそこへ向かってた所なんです」
「…そう、でも行っても無駄だと思うよ」
「無駄? どうして?」
あまりにも素っ気無い受け答えは、いつもの彼の態度とは到底考えられない。
鈴花は彼の異変に若干気づきながらも、平常どおりの屈託のない笑顔をのぞかせる。
「…じゃあ、とりあえず自宅まで送りますよ。このままだと風邪ひいてしまいますし」
漣はコクリと黙って頷くと、彼女に連れられゆっくりと帰宅の途についていった。
彼の記憶はこの辺りから次第にあやふやになり徐々に抜け落ちていった。
それから彼女と自宅への道のりを歩いていたのだけは、何となく覚えている。
自宅の玄関の扉を見たのも何となく覚えている。
そこに足を踏み入れた途端、頭の中が真っ白になり、何がなんだか分からなくなってしまった。
…………そして次に彼の神経が目を覚ましたのは、やはり自宅の中でだった。
締め切った窓の外からは、雨の落ちる激しい轟音と、おびただしい量の落雷の音が終始鳴り響いていた。
…周囲は暗黒だった。
自宅の電灯はひとつたりとも灯っていない。
他にも音が聞こえた。
電話の呼び鈴が絶えず鳴り響いているのだ。
しかし、茫然自失の体だった漣はそれに応じる気力や体力、精神力を微塵も有してはいなかった。
それから彼の座り込んでいる絨毯になにやら生暖かい液体が流れているのを感じた。
そして極めつけは臭い。
強烈な血生臭さがムンムンと室内に立ち込めている。
すると外から雨とは異なる音が聞こえてきた。
ダンダンダンダンダンダンダンダンとまるで無数の兵隊がここへ大挙として押し寄せてくるような、そんな感じだった。
それは次第に漣の自宅の前に近づいてきては、玄関の扉をドンドンとノックしだした。
呆然と立ち上がると、玄関によろめくように向かおうとするが、やはり思うように力が入らず地面に倒れこんでしまう。
すると奥から声がする。
「ここを開けろ」
激しい口調だった。
まるで犯人に対する警告を行っているような、鬼気迫る語調は警察官である彼に向けられている言葉とは到底思えないほどのトゲトゲしさを有していた。
さらに声は続く。
「漣どうしたんだ? ここを開けろ」
その声はまさしく秀則のものだった。
「開けないなら、勝手に入らせてもらうぞ」
こう言いさすと、一瞬あたりに沈黙が走り、そして次の瞬間、大きな銃声が高鳴った。
それと同時にさっき聞こえた無数の足音が一斉に漣の自宅へと踏み込んできた。
ピカピカピカという微かな音が頭上で断続的に聞こえると、天井の蛍光灯に白い光が一気に灯った。
ここでやっと漣の視界には元の明るさが戻った。
彼の目の前には自身の推測どおり数十人の警察官が大挙として押し寄せていた。
そして彼ら、一人一人が皆手に銃を構え、彼にそれを突きつけている。
何が起こっているのか、やはり彼は事態を正確に把握することができず、ただ正座している絨毯の上に呆然と両手を垂れているだけだった。
再度足元に液体の感覚を認めたので、彼はふと床の方を見下ろした。
すると驚いたことに、そこには黒いスーツを着た女性が横になり、目元から大量の血液を流し倒れているのである。
「うごくなよ漣」
下を向いた途端、他の警官と同じように銃を構えていた秀則の言葉が命令口調に変わった。
漣はこんな状況にも関わらず未だ何が起こっているのか見当もつかない。
絨毯に倒れている女性は一体誰なのか、どうしてこんなにも無惨な姿をさらしているのか。
言葉を発しようにも喉にタンが絡まり思うようにいかない。
「……あ……あ」
ふと立ち上がろうとした瞬間、警官たちの銃を持つ手に再度、血の気が戻った。
「動くなっていってるだろうが」
これは誰の言葉だろうか…よく分からない。
揺れる視界。
フラフラと遊覧飛行を繰り返しているような精神の彼は、周囲の状況を把握するため必死に的をしぼろうと試みるが、そこには断片的な景色がうつるだけ。
…壁に何かが貼ってある。
それは今日、鈴花が持ってきていた飲酒運転撲滅キャンペーンのポスターだった。
そこには朝見たとおりの可愛らしい婦警が爽やかな笑顔を振りまき敬礼のポーズをとっている…とこう認識していたのだが、その予想がはずれ彼女の笑顔は朝とは違い、なにやら憎たらしそうで、かつ恨めしそうなものに変化している。
ふと隣を見ると刑事復帰へ向けて赤丸を付けていたカレンダーがあるのだが、そのカレンダーには二週間前から最後の日付に向かって印がつけられ、今日の箇所に最後の丸がついているはずだった。
しかしなぜだか、そこには丸ではなくバツがついている。
全く意味の分からぬまま、もう一度、床に倒れている彼女の方を見返してみると、その顔がはっきりと自分の方向を向いていることに気づいた。
その彼女の両目元には左右同じように十字の傷口が出現し、そこからおびただしい量の鮮血が流れ出しているのだ。
「うごくな」
秀則の怒涛の声が室内に轟いた。
思わず彼の顔を見上げた瞬間、どうしたことか大勢の警官たちが皆それぞれ頭に黒い目だし帽をかぶり目元だけをこっちに曝け出している。
「鈴花から連絡があったぞ、彼女電話口でな、何度も助けて助けてと必死に叫んでたんだ。……そして駆けつけてみたらコレだ」
漣には彼が何を言っているのか、未だ要領をつかめなかった。
しかし一つ言えることは、その目だし帽から見える大量の目元が、彼にとっては異様に恐ろしかった、ということだ。
その恐ろしさを素直に表現しようと、彼はありあまる力を振り絞り、細かく口を動かしながら秀則に向かってこう囁いた。
………め………め、と。
──死よりも恐ろしいもの──終わり
死よりも恐ろしいもの