へそくりウォーズ

「あなた、これ何よ」
 家を出てすぐに財布を忘れたことに気付いた橋本が玄関に戻ると、待ちかまえていたらしい妻にそう聞かれた。何のことかと聞き返す前に、橋本の財布をその場で開き、背表紙の裏側から小さく折りたたんだ紙幣を出して見せた。
「あっれえ、入れる場所を間違えた、のかなあ」
 ドッと冷汗が出た。
「おかしいじゃない。あなたにはいつも朝千円渡して、夜残った小銭を返してもらってるわよね。なぜ、こんなところに二千円入ってるのよ」
「えっと、それはだね、ええ」
 橋本の挙動不審な様子を見て、妻の眉がつり上がった。
「へそくりね。そうなのね。いったい何のためのへそくりよ。わかったわ。浮気ね」
 二千円で浮気など、できるわけがない。
「違うよ。ほら、あの、おれも社会人だからさ、いつ何があるかわからないし、もしもの時の備えだよ。以前、急にお金が必要になった時、恥をかいたことがあってさ。だから、自分でも、これはないものと思って」
「だって、あるじゃない。どうしたのよ」
「だからさ、時々、コーヒーを飲んだつもり、ジュースを買ったつもりとかで、一年かけて」
「まあ、計画的犯行なのね」
「は、犯行なんて、人聞きの悪い。おれがどれだけ苦労して」
「それなら言わせてもらいますけど、わたしがどれだけやりくりに苦労していると思ってるのよ」
 思わず、誰が稼いだ金だ、という言葉がノドまで出かかったが、グッとこらえた。そんなことを言っては、もっと激しく言い返されて、収拾のつかない大喧嘩になってしまう。
 それに、自分には衝動買いをするクセがあるからと、家計の管理を妻に頼んだのは橋本の方である。例えば、学生時代には何十万もする英会話教材を買いながら、結局、テキストをパラパラとめくっただけで終わってしまった。会社に勤めるようになった頃には、なかなか女性との出会いがないため、これまた何十万もする結婚相談所に入会した。すばらしい出会いを期待したものの、高額を払っているのは女性も同じことだから、橋本のような3T(低身長で、低収入で、取り立てて取り柄のない)男など、会ってもらうことさえできなかった。
 だからこそ妻には感謝しているのだが、ちょうど一年前に会社でこんなことがあった。
 橋本は庶務課の課長だが、一年に一度、庶務課の書類保管室の整理をする日がある。一番奥の古い書類をシュレッダーで処分し、順繰りに書類を奥に詰め直すのである。結構な肉体労働で、課員総出で汗だくになってやらなければならない。
 作業が一段落したところで、係長の小川が人数分の冷えた缶コーヒーを買ってきた。自分のオゴリだという。橋本も勧められたが、さすがに断った。
 以来、一年。
 あの日の屈辱を晴らすべく、コツコツ貯めたへそくりである。だが、バレた以上、しかたがない。
「わかったよ。じゃあ、返すよ」
「あら、何よ。返すって、変じゃない。あなたのお金でしょ。持ってればいいじゃない。はい、どうぞ」
「いや、いいから」
「いいわよ」
 互いに紙幣を受け取らせようと、しばらく押し問答が続いたが、出勤時間が迫っていた。
 その時、ちょうど起きてきた中学生の娘が、「何やってんの」と橋本に尋ねた。
「ああ、陽子か。ちょうどいい。おまえに小遣いをやろう」
 そう言うと、橋本は娘に二千円を渡し、逃げるように会社に向かった。
 だが、電車に乗ってから、今日が書類保管室の整理日であることを思い出した。
「くっそう。今度こそ、今度こそ、絶対見つからないところに隠すぞ」
 妙な闘志を燃やす橋本であった。
(おわり)

へそくりウォーズ

へそくりウォーズ

「あなた、これ何よ」 家を出てすぐに財布を忘れたことに気付いた橋本が玄関に戻ると、待ちかまえていたらしい妻にそう聞かれた。何のことかと聞き返す前に、橋本の財布をその場で開き、背表紙の裏側から小さく折りたたんだ紙幣を出して見せた。「あっれえ…

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted