迷える子羊たちへ……

他者との距離の中で自分のレゾンデートルを思う時、自分も一匹の迷える子羊なのだと痛切に感じる瞬間が確かにある。
僕は僕以外の何者でもないし、自意識過剰気味な一匹のオスなのだ。深い、深い井戸を覗き込むように僕は、僕自身を覗き込む。
 そこにあるものは醜く歪んだ自身と、ほんのわずかな善。
物言わぬ烏合の衆、その他大勢、言い方はいくらでもあるけれど、アンドロイドは電気羊の夢を見るし、
子羊は迷ったまま、自身の夢の中で永遠にその姿を数え続けるのだ。
この世界は、あるものの幸福とあるものの不幸が背中あわせに混在している。
 誰かが裕福になり、豊かな生活を送っていると、その裏では多くの他者がその日の糧を得ることさえ困難な状況の中に身をおかざる負えない。
好むと好まざるとに関わらず世界はそういう仕組みで、危うい天秤の両極端で、なんとか成り立っている。
 こうも言える。世界には神も仏もなく、あるのは経済原理に成り立った非情ばかりなのだと、その中で迷える子羊たちはどう生くべきなのか……
オオカミに睨まれた赤頭巾ちゃんのように、なす術もなく立ち竦むしかないのか、しかし、そういった認識を持って世界を垣間見るほうが、
世界と折り合いがつけられるかも知れないとも思う。
 極論に走れば60億の迷える子羊を抱えたこの世界は、はすっぱなセンチメンタリズムなどでは動かない、そういうことだ。
 誰かの、何かの犠牲の上に僕らの、あるいは、砂上の楼閣であるこの世界が成り立っているのだと自覚することから僕の、僕らの迷い続ける子羊の生活がある。
 そういうことなのだ。そういった世界に僕らは日々生きている。
 でも、恐らく、僕は、雨が降り続く軒先で主人の帰りを待ち続ける盲導犬に涙ぐむだろうし、
年端もいかぬ子供が母親に殺されたという記事を見ては、憤怒、絶望の哀しみを心に宿す。
 明日も、これからも、そういうふうに生きてゆく……それがナニモノでもない僕自身だからだ。
 砂粒ほどの愛、顕微鏡でしか見ることのできない善、そういったものに縋るほど愚かではないけれど、どこかで信じている自分がいる。
 答えのないラビリンスを迷い続け、自分が何処に向かうのか、日々問い続けることでしか、
自分の存在を証明する手立てはないのだ。そうすれば、上手く自分を受け入れられるのだと思う。
その迷いは、きっと他者と向き合い、自分と向き合うことでしか得られる手段はないのだ、間違いなく……。

迷える子羊たちへ……

迷える子羊たちへ……

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-27

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