この夢の中のわたし

夢って何だろうというお話です。

「ぎゃっ」
ドアを開いたら私がいた。私、そう私。これはおそらく私だ。どうしてここにいるのかわからない。とにかく私は2Kの小さな部屋に荷物を置き、じっと彼女を観察してみた。細くもなく大きくもない二重の目が動いている。私だ。唇は口笛を吹きたいみたいに軽くとんがっている。私と同じだ。やっぱり彼女は私だ。この暗い部屋に呆然と立ち尽くしているのは、どう考えたって私だ。
無言のこの人をしばらく見つめ続けてから、
「相沢、なほさん?」
と私は問いかけた。カーテンの隙を縫う日の光が彼女を照らす。ああ、美しいと、私は恥じた。

それから、「相沢なほさん」と、私は暮らし始めた。今日は私が朝ごはんを作り、夜ごはんはなほが作る。なほは一度も笑顔を見せたことがない。その薄桃の口がいつもとんがっているだけだ。私は熱い椀を口に運び、日の光に1限のことを思い出しながら、ふと尋ねてみた。
「ねえなほ、どうしてあんたしゃべらないの?」
「しゃべる必要がないから」
きつい一言だ。私は返す言葉を失ってしまう。それになほは慌てて付け加えた。
「他の誰とも、しゃべる必要、ないから」
暴言を吐いて、慌てて訂正するところもそっくりだ。やっぱりこの人は私、あいざわなほその人なんだろう。
「ねえ、なほはどこから来たの?」
私の問いかけに、なほはチーズオムレツを切った手をやめ、悩みだした。
「私は…、私は…」
答えが出ないままにチャイムが鳴った。なほが素早く立ち上がる。
「やめて私が出るから!」
私はパジャマのままノブをひねった。そこには大家さんがいた。灰色の髪をあちこちにカールさせて、目元の皺をうんとたるまして、何の用だろう。
「あんた、こないだからうるさいようだけど、もしかして誰か男と住んでるんじゃないだろうね。ここは女子学生限定アパートだよ」
ぎくりと私は背が縮み上がった。男以外の部分は大当たりだ。大家のおばちゃんはずかずかと上り込んでいる。
「ああ、きったないったらありゃしない!女の子なら、脱いだパンツは他の脱いだのに隠しておくものだよ」
「きゃああああああああああああああ」
悲鳴も甲高く、私は小走りでパンツを迎えに行った。朝のシャワーで脱いだものが見つかったのだ。おばちゃんの行幸はまだまだ続く。
「何だいこれこのわっかみたいなぼろくさいもの」
「えっとそれはシュシュと言いましてその」
「ふん、何かいかがわしいもんじゃないだろうね」
「そんな訳ないでしょう!」
「と、おや、これは何だい」
おばちゃんが歩を止めた。キッチンと脱衣所を軽く視察した後、たどり着いたのは私の秘密のお部屋。そこには白いカンバスと絵具が、ところせましと並んでいる。
「へえ、何だいこりゃ。なかなか面白い絵じゃないか。あんたが書いてるのかい」
急に機嫌のよくなったおばちゃんに、私ははいと小さく頷く。
「いいねえ。いい出来じゃないか。昔見たルノワールの絵を思い出すよ」
おばちゃんは腰を折り曲げたまま玄関に向かい、頑張るんだよと私に声をかけた。その後ろにずっと張り付いていた、なほのことには少しも触れなかった。
「なほ、もしかしてあんた、人に見えないの?」
「そう、かもしんない」
なほがぼおっとした表情でそう返すのに、私はあることを思い出した。
「あー!!!!!!今日の授業1限からだったんだまずい!」
そうしてなほを押しのけ服を被り髪を梳って、鞄を持ち玄関を出た。そこでぎゅと後ろからひっぱる力を感じた。
「ねえ、なほも行く」
こうして2人で登校した。

私の通う心見大学は、要するに金を払うからもう少し自由をくれという、子供たちの希望をかなえた学校であった。授業は7割以上の生徒が出席しておらず、いつもがらんどうである。そのくせ学生ホールには人と煙がたむろっている。そういう所だった。
学生の質も決していいとは言えなかった。皆髪を好き放題染め上げたりくるくるにしたり、パンツを見せながら歩く子さえいた。ここは自由そのものだった。そんなところに、なぜこの平凡な、黒髪おさげの、あばたのひどい真面目な私が入ってしまったのか。それは親の希望が大きいと思う。
「そうなの?」
「そう、私のお母さんがね…ってえええええなほ!?」
独白を読まれ私はなほを見た。なほは何でもない顔をしている。その美しい目で、続きをと話してくる。
私の母はおかしな人だった。いやもっと言えば狂った人だった。その昔夫を、私の父にあたる人を若い女に取られてから、残った私によって人の上に立つという思想に転じたらしかった。だから教育は厳しかった。
「どんな風に?」
「9時に寝て、夜中2時に起こされて勉強させられるのよ。さあ、なほちゃん勉強よって」
母は定規を持っていた。定規で叩かれるたびに、母の願いがわかる気がした。さあなほちゃん、この定規のように生きるのよ。
「正しくまっすぐに正確に、持ち手を裏切らないで生きるのよって?」
「そうそう、その定規も30センチくらいある奴でさ。ビーンって跳ねてかなり痛かったなあ」
でも本当にそうなった。
ちょうど学校の前坂道の終わりに来た時、私はふっと笑ってみせた。
「でも本当にそうなったのよ。私は母の希望から逃げ出そうとして結局今ここにいるの。私、こんな大学には行くはずなかったのよ。母さんに内緒で美大受験の勉強をずっと昼夜なくやっていたの。でも、受験2か月前にばれてこのざま。ふつうの学力なんてないし、こんなところに来るしかなかった」
浪人も許されなかったしね。言い切って、諦め顔の私へなほは、小さく口を開いた。
「本当に、そうだったのかしら」
「え?」
「あなたが、諦めたんじゃなかったかしら」
なほはそれから一言もしゃべらないで、そっぽを向いて大学に入った。校内に入りまず見えるのは赤レンガで造られた洒落た校舎だ。だが年季の入っていないのでどこか安っぽい。いたるところに細かな落書きがしてある。たっくんラブとか、授業つまんねえとか。そんな悩みが縦横無尽に書かれている。時々羨ましくなる。恋や授業がつまらないことで、一日悩んでいられたらどんなにいいだろう。私はといえば定規やコースの端にいて、そこから飛び降りれないで1日下を向いているのに。
教室のドアは閉まっていた。授業開始から20分が過ぎると、先生が内から鍵を閉めてしまうのだ。悔しかった。なほも嘆息する。
「けちな先生ね」
本当にその通りと思う。この次からの授業は空く。
よって2人で、のんびり散歩と洒落こむことにした。
学校はモンスターのように、幾本の足を携えた高台の上にある。足はきついのもあれば軽いのもある。その中で私達はおっかけ坂、という坂を下った。この坂を下りれば甘いあんみつの出るカフェがあるのだ。
おっかけ坂に豊かにしなったシダを見つつ、なほは口を開く。
「どうして、なほはこの大学に来たの?」
「え…?それは…」
お母さんの強い希望があったから、どこでもいいからふつうの大学に行かせて、就職活動に命を懸けて、いい所に勤めてそして自分を、楽にして欲しかったから。
「美大には、行かせてくれなかったの?」
「うん…」
一度だけ、反抗したことがある。美大に行きたい、私はあなたの願いではなく、絵と共に生きたいと、早口すぎてほとんど聞き取れなかったと思うが、言った。その次の母の行動はすごかった。まず近くにあった机をひっくり返し、敷いてあったカーペットに包丁を入れた。それから私の大切に育てていたチューリップを首から刈った。茎だけが私を見ていた。最後には私の飼っていた金魚の水槽を、ひっくり返してしまった。金魚はぴくぴくとえらをはためかせている。もうじき死ぬ。母さんは包丁をぶらぶらさせた。
「ねえこれ、殺す?殺さない?」
金魚は熱いまな板に載せられたみたいに時々跳ね上がる。
私はただそれらを拾って、大きめのボウルに水をやり、そこへ逃してあげた。それからその仕事が済むと、包丁を持つ母さんのもとに塗りかけのカンバスを持っていった。あの絵がどうなったのかは知らない。
とにかく私は、一度夢を殺した。
「後悔してる?夢を終わらせたこと」
「ううん、だって私をこの年まで育ててくれたのは母さんだよ。今さらその期待を裏切る訳にはいかないよ」
なほはふうんと言ったきり、たなびくシダに目を奪われていた。

あんみつカフェは町屋風のつくりに藍ののれんがかけられ、いかにも風情があった。店頭に長椅子があるので、そこに腰掛けてあんみつを待つ。なほは今度は瓦からしたたる滴に夢中だ。
「あれえ。あいざわちゃんじゃあん!」
「ええええひろこお?!久しぶりー!」
そこで突然仲のよかったクラスメートに再会した。三上ひろこは、優しげな顔立ちと、白いふわふわしたワンピースがよく似合っていた。だが内心私はいい気はしなかった。この時期の大学4年生の話は1点に絞られ過ぎてしまう。
「ひろこは就活どう?うまくいった?」
「ううん、あんまりうまくいかないから、もう投げやりでどこでも受けちゃおうかなって思ってる。金もらえれば仕事内容なんてどうでもいいしね」
彼女の一言に、私は何か一抹の寂しさを感じた。
「…ひろこはさ、夢とか、なりたいものって、なかったの?」
ひろこは大きな声で笑い出した。
「そんなん!ある訳ないじゃん。夢なんてジャマなだけだよ。甘いお菓子みたいなもんでさ、生きていくのに必要ないよ」
なほはさっきからひろこのつけまつげを睨んでいる。虫かなにかと間違えているのだろうか。
ひろこと別れた後、待ちかねていたあんみつがやってきた。美味しそうな黒蜜がきらきらとろける。柔らかな餡が口の中で溶けていくと、隣にいたなほと目が合った。
「どうしたの?」
「ねえ、私海に行きたい」

ここから一番近い海は江の島の、ちょっと季節外れのビーチしかなかった。路線を何度か乗り替え、江の島へと向かう。途中相模大野で降りて、ファーストフード店でジュースを飲んだ。4月の駅は混んでいて、将来の希望に胸が高まっていそうな、若い少年少女がいっぱいいた。私はもう戻れない。あの子たちの人生に乗り移って生きられない。
「あなたはさ」
と、突然なほが声をかけてきたので驚いた。私ははいと顔を上げる。
「夢を殺したことを、どう思ってる?」
なほの声は低かった。顔は無邪気にジュースを飲んでいるのに、声だけが恐ろしく低く、地を這うように言うのだ。私はなんとなく背筋に寒気を覚えて、でもつとめて笑顔で言おうとした。
「それは、私にも事情が…」
「ふええええええええええええん、お母さあああああああああああん」
その時だった。目の前にいた小さな赤いワンピースの少女が、大きな声で泣きわめき始めた。あんまり声が大きいので、無視する訳にもいかず、私となほはその脇に寄り添い事情を聴いた。
「おかちゃまがいなくなっちゃったの。いっとに買い物してたのに」
「あらそうなの。じゃおかちゃまを探しに行かないとね」
「え?探しに行くの?」
普段無愛想でめんどうくさがりななほが、率先してその子を抱きかかえた。私は何の冗談かとびっくりする。
「どうしたのなほ。あんたが人助けだなんて」
「だって、この子が見捨てられてたらかわいそうでしょ」
私は思わず苦笑してしまう。
「まさか。お母さんが娘を裏切る訳ないよ」
この言葉に、なほは眦を尖らせた。
「わからないよ。すくなくとも私は見捨てられたもの」
サービスセンターに行くまでの間、私達はいろんな話をした。ファーストフードでは何が一番おいしいか、栄養があるのか、ジュースはどれがいいのか。話は少女自身のことに及んだ。
「あたちの名前は梨緒、っていうのよ。将来はすちゅわですさんになるの」
「すちゅわですさんかあ。いいねえ。梨緒ちゃん美人だから、きっとなれるわね」
私もなほも微笑む。梨緒ちゃんだけが怒っている。
「ちゃんと本気でそう思ってりゅの!? あたちはなるといったら必ずなるのよ!」
私はちょっとはにかんだ。そうだ、いつだってそうだ。
私達は夢を追う人間に決まってこんな対応をする。なったらいいんじゃない?みたいな、
軽い、ふわふわした麩菓子みたいな回答をする。
「じゃあ、なりなよ」
突然、なほの声が響いた。
「なりたいのなら、なりなよ。いっぱいお金と時間かけて、必ず、なりなよ」
少女はびっくりして口を開いていたが、その内口を閉じ、強くうんと頷いた。

「梨緒ー!」
やがてサービスカウンターに行くまでもなく、梨緒ちゃんの母親がこちらへ駆けてきた。メガネをかけて、どことなく気弱そうな印象を与える人だ。母親は私達を見るとにこにこと微笑んだ。
「すいませんこの子が迷惑かけて…本当におてんばなんですよこの子は…」
そう言いながら母親は梨緒ちゃんの手を引っ張った。筋が一気に伸び、梨緒ちゃんは痛そうな顔をする。
「さ、梨緒もう行くわよ。この後は塾があるって行ったでしょう」
母親はちょっと狂気じみた笑みをし、梨緒ちゃんを連れショッピングモールへ消えていった。
「…梨緒ちゃん、なれるかな。スチュワーデスに」
「さあね。なれないかもね」
なほはいかにもてきとうな声で返答した。私は思わず顔を向ける。
「そうかな。そう思う?」
「少なくとも自分の意思を持たない人間には夢はつかめないよ」
なほの呆れたようなまなざしは確かに私を見ていた。

電車を乗り継ぎ、着いた江の島の風は涼やかだった。赤の際立つ駅を抜けて浜の方へ出る。浜の後ろには江の島水族館が見え、前には小島が、いくつも並んでいる。視界を右に移していけば江島神社が見える。
「ね、砂浜だよ砂浜」
 私は両手でゆっくりと砂をすくってみる。砂は隙間からさらさらと落ち、最後は貝だけになった。
「この貝、あげる」
「いいの?」
 きょとんとするなほに、私は笑みを浮かべ頷いた。その時に見せたなほの表情が美しかったので、私はそのまま動かないで、と告げた。背中のリュックに手を回し、カンバスと筆と、絵具と水入りのペットボトルを取り出す。
 私はせっせと私を描いていく。これはもはや一種の神秘だ。自画像なのか写生なのか分からない。でも少なくとも私は何かを描いてる。それがすごく楽しい。筆は止まらないで何かを描き切ってゆく。もう出来上がる。
「ね、なほ、おまじないを、かけない?」
 書き上げる直前、なほがこう切り出したので、私は驚いて筆を落としそうになってしまった。なほはにこにこと私の返事を待っている。訝しい気持ちもあったが、私は彼女のおまじないに結局付き合ってやることにした。
しぶきに食われる黒い冷たい岩間に上って、立ち上がる。
 「私は本当は、絵描きになりたーい!!」
 これでいい、らしい。海に向かって願いを叫ぶと、海の神様が叶えてくれると、なほは確かに言った。
 私の次には、なほが登った。彼女が何を言うのか気になったが、なほはしっしと追い払う仕草をした。それでもその悲しい声は、岩間を離れた私にもよく聞こえた。
「お母さんに会いたい!!!」

 なほはしばらく海を見た後、恥ずかしそうに戻ってきた。「聞こえた?」と言われたが、私は微笑だけを返した。

 江の島から戻った、その日の就寝には手間取った。
【なほとは誰なんだろう】
 他の人には見えない。顔は私とうり二つ。どこから来たかも分からない。ただ、お母さんに会いたい。謎は深まるばかりだった。もしやドッペルゲンガ―という奴かとも思ったが、私が死んでいないのだからそれはないだろう。疑問は暗い部屋で堂々巡りをする。なほとは誰なんだろう。そしてそのお母さんは―。
「寝れない?」
 はっと、思わずベッドから身を起こした。なほは下の布団からこちらを向いて、微笑んでいた。
「私のこと、気になるんでしょう」
「ちょっとね」
 そう言うとなほはくすと声を出した。
「ふふ、じつは私は未来から来たアンドロイドで、なほを殺して、すり替わるためのお人形だったらどうする?」
「怖すぎるよそんなの!」
 と私はたまらず叫んだ。なほは続けて語りだす。
「私はお母さんの中にいたの。それが不意の拍子で出てきちゃったのね」
 なほは一息つくと、
「本当はどこにでもいるのよ。最初は皆喜んで私にすがりつくわ。でもダメなの。まっとうに生きていくためには、私は邪魔なのよ」
「それじゃあ、なほも?」
 この不思議な問答に、なほは顔色も変えずに言った。
「そうよ。私は一度、お母さんに捨てられたの」
 ここで私は一つ、恐ろしい事を口に出した。
「じ、じゃあ、なほはお母さんに出会えたらどうするの?」
 その途端、なほの口角がにっと上がった。
「さてね。煮るなり焼くなり、させてもらおうかな。だって、この私を捨てたんだもの。私はお母さんを大好きだったのに」
長い沈黙があった。しばらくして隣から小気味いい寝息が聞こえた。
私はまだボウとしている。
(なほを産んで捨てたお母さん…その人はどこにいるんだろう)

翌朝、不審な音で目が覚めた。ガサゴソ、バン、と誰かが壁を叩くような音が聞こえる。おそらくこの音は、耳を澄ませばリビングの向こう側から、私のアトリエから聞こえる。
私は恐ろしさのあまり目も開けないでなほに声をかける。
「…なほ、怖いから見て来てよ」
「えーやだなあ…」
 煩わしげになほは歩き出し、部屋をのぞくと、そのままぴたりと止まってしまった。
「なほ!!!!」
 思わず声高に叫んで、私は夢中でなほの傍らに乗り出す。すると、そこにいたのは紛れもないお母さんだった。
 お母さんは私の書いた作品に次々穴をあけ、折り曲げてごみ袋に入れている。あれもこれも出展するはずだったものもすべてだ。
「ち、ちょっとお母さん!!何やってるのよやめてよ!!!」
「うるさい!就活もしていないと思ったらこんなことをやっていたのね!何やってるのよ!今まであんたを育ててやったのは誰だと思ってるの!?」
 バンッとカンバスを折り曲げて、母さんは息をついてから、
「あんたにはつくづく失望させられるわ。まともな大学にも行けず、就活すらも出来ないでこんなくだらないものを書いて、どうしてあんたは何一つも人並みに出来ないのかしら」
 私はこの暴言に目を伏せながら、1枚の絵だけは背に回して守った。内心は揺れていた。確かに私のことを21年間育ててくれたのは母だ。言うなれば恩をかけてもらった。それを返すのが、自然の摂理で、常識なのだろうか。背に守ったカンバスが震えている。その絵の中ではなほが屈託なく笑っている。
「さあ、なほ。その絵を寄越しなさい。母さんか絵か、どっちかを選びなさい」
 この時私の感情と身体は、2つに分かれていった。身体はあちらへと向き直り、感情は枯れて朽ちていった。ああ、私は結局変われなかった。母さんの支配から逃げ惑って戻ってきてしまった。
 母の背中からズンっ!という凄い音がした。その瞬間なほはいなくなっていた。母もやがて消えて一人ぼっちになった。部屋に夕闇の陰が色濃く射す。どうしようもなく1人になってしまった。そのまま朝が来た。
 私は訳もなく歩き出した。駅で切符を買って、江の島まで乗っていった。藤沢で江ノ電へ乗り換えて、江の島の駅で降りる。
 海は怒涛の勢いで古い波を叩き潰し、新たな波を創造する。人間もあるいはそうかもしれない。
なほはもうどこを探してもいなかった。まるで煙みたいに消えてしまった。もう会えない。
私は今やっとなほが誰なのか分かった。なほ、あなたは私のカンバス、私の筆、私の色彩、私の夢そのものだったんだ。そしてあなたは、私の娘だったのだ。
 1人で黒い岩間に登り、荒波の残滓を受けながら叫ぶ。
「なほー!!!!戻ってきてよなほー!!」
 叫びはむなしく海の怒号にかき消された。私は泣き崩れた。2度もあの子を殺してしまった。こんなにもこんなにも、私はあの子を愛していたのに。
しばらく岩間に佇んだ後、浜辺に下がるとあるものを見つけた。あの時と同じペットボトルに入った手紙。どこから来てどうたどり着いたのだろう。
私はそれを開いた。そこになほはいた。文字の形を取って表れていた。
なほは確かに生きている。この世界のどこかに。
【ねえ、私達は一人じゃないのよ】
 あなたの中にもいる。

この夢の中のわたし

読んでくださってありがとうございます。

この夢の中のわたし

大学生のなほが部屋を開けた時、そこにはうり二つの自分が立っていた。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-27

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著作権法内での利用のみを許可します。

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