……いいわけ

「神が人間に嫉妬していることが一つだけあるとしたら、それは何だと思う?」
いつものように唐突に貴方は切り出した。
そうして、私はいつも自分の顔がみるみる赤くなるのが分かるんだ。
 なんだか馬鹿にされてるような、試されてるような、そんな気がするから……。
「だって全能だから神様なんでしょ、全知全能の神様が人間に嫉妬することなんてあるの……?」

 真夏の陽射しがアスファルトに照り返し、路面から立ち上った熱気が陽炎を揺らめかせていた。
私は無言の彼を見つめ、彼は私のアップル・タイザーの入ったグラスの泡を見つめ続けた。
「で、何が言いたいわけ・・・付き合い始めて五ヶ月目よ、貴方の理屈っぽいとこになんとか慣れた私に何か不満でもあるわけ……」
 いつものように薄ら笑いを浮かべた彼の唇……いったい私は彼の何処が好きなんだろう……。

 大学の新入生歓迎コンパで、私は彼と出逢った。
ビール三杯で酔った彼は、それを運命だと言い、私はそれを恋だと思った。

 臆病な私は、次の日の朝、素っ裸で彼の部屋のベッドで目覚めた時、酔った勢いなんだと自分を叱った。
いや、この状況を自分になんとか納得させたと言うべきか・・・徐々に襲ってくる下半身の痛みは、まるで彼がまだそこに、私の中に存在しているようにさえ思えたのだ。
ベッドの周りには行き場を無くした迷子の子犬みたいに私の下着が散らばっていて、私は知らずに涙なんか流していた。
 「初めてだったの・・・」
いつのまにか眼を覚ました彼が私の小刻みに震える肩に優しくキスをしながら言った。
私は、小さく頷くのが精一杯で、そんな自分の態度に愛想をつかしたかった。
 そして、初めて私は、私自身が嫌いなんだと気付いた。

 彼は、ブラインドから零れる生まれたての朝の光の中で、頭の中が空っぽになってしまうようなキスをし、熟練した手管でまた私の中に入ってきた。
 私は、拒絶することすら忘れて夢中で彼にしがみついていた。

 「まさかねえ、バージンなんかに当たるなんて一生涯ないと思っていたよ……」
何度も果てた後、彼が私の耳元で囁いた。
「バカヤロー、なんだその言い草はあ、今の日本にだって私みたいなのはゴロゴロ居るはずなんだぞ……私はちょっとだけ慎重で、少しだけ臆病で、プチ奥手なだけなんだ」
と、口には出さず、心の中で呟いた。

 嫌いになる理由なら幾らでも思いついた。それに比べて好きになった理由が全く思い出せなかった。

 中心部からほんの少し離れた彼のお気に入りのホテルのカフェテリア……平日の午後。室内には気だるげに回るルーフ・ファンのかき混ぜる空気の音が聞こえるくらい静かで心地良かった。
彼はその物憂げな態度を続けたまま、私を伏目がちに覗き見る。
 彼を好きな理由が一つだけ分かったような気がした。
 たまらず私が口を開く。
「哲学科の学生ってみんな貴方みたいに理屈っぽい人ばかりなの……」
「君だって文学部だろ」
「私は英文よ、え・い・ぶ・ん・か!」
彼は私の荒げた声を聴き、一人がけののソファに身を竦めた。

 ソファの奥からじっと見つめる彼の瞳……まるで底なしの深海のような、引き込まれそうなダーク・ブルーの瞳……彼を好きな理由がまた一つ……。

 「神が人間に嫉妬する唯一のこと、それは、限りある命だよ。限りがあるから美しいんだ。考えてもみてよ、永遠に生き続けるなんてぞっとするだろ、限りがあって、儚く散るから美しいんだ、全能を司る神にもこれだけは真似できない……」



 次の年の夏、あいかわらず私を惑わせたまま、あっけなく彼はこの世を去った。
趣味だったバイクで支笏湖線を走っている時、ガードレールをはみ出し、崖下に転落した。
 警察の話によると、急カーブで、ブレーキの痕もなく、ガードレールを突き破り、身体が投げ出され、岩棚に激突した。即死だったそうだ。直接の死因は頭部の陥没と裂傷……フルフェイスのヘルメットは後部の荷台に括り付けられていたらしい……。

 彼のお通夜の夜、私は泣きじゃくる彼の母親を介抱するのに精一杯で、私自身はといえば不思議と涙が出なかった。棺の中で彼は、唇に例の皮肉っぽい微笑を浮かべていた。
私は馬鹿みたいにただ、花々に囲まれた彼の顔を見ていた。閉じられた瞳が今にも開きそうだったからだ。

 告別式も終わり、火葬場で立ち昇る煙を見た時、涙が、とめどなく溢れた。彼を永遠に失ったのだということを初めて実感した瞬間、私の中で何かがプツンと音を立てて千切れた気がした。

 それから、ひとつき私は部屋に閉じこもり食事も取らず泣き続けた。大学にはもう行けない気がしていた。彼との思い出がそこいら中に屯していたから……。

 引き出しの奥に、小説家志望だった彼の残してくれたフロッピー・デスクが入っている。
私は気持ちの整理がついた頃そのフロッピー・デスクに残された彼の文章をなんとか見る気になった。

 パソコンを立ち上げる。黒いフロッピーを入れる。
 画面にワードで書かれた最初の文章が浮かびあがる。

    いいわけ

 死ぬ理由がないから、生きている。

 眠り続けたい、起きる理由が見当たらない。

 死ぬ理由もないかわりに、生きてゆくうまいいいわけも思いつかない。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ、

 君のために、君がいるから生き続けるのだ、これ以上の理由はない。

 これ以下のいいわけも思いつかない。

 深い、深い、ずっと深い、心の奥で僕は君と繋がっていたい……。

 幾つもの詩の断片や何篇かの散文の中でこの七行が私を癒してくれた。
いつもいつも私を救ってくれた。
 貴方を愛したことを、心から貴方を愛した私が生き続けることを、貴方が望んでいるんだということを……。
 私は、この七行から貴方が自ら命を絶ったのではないということを確信しているから……。

 そして、私はまたあのホテルでの貴方との時間を思い出す。
 命は儚く、散ってゆくからこそ美しいと言った貴方の、まるで底なしの深海のような、引き込まれそうなダーク・ブルーの瞳・・・貴方を忘れられない、私のいいわけ……。

……いいわけ

……いいわけ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-27

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