花をさがす少女

花をさがす少女

                      (一)


(報せなきゃ! )
いかにも忍といった黒の忍装束姿の少年・芹(せり)は、武田の不穏な動きを察知し、報せるべく、信濃の深い森の中の獣道を、上野方向へ急いだ。
 芹は、保護者代わりである五形(ごぎょう)より、留守中の脅威である武田の動向を探る任を命ぜられていたのだった。
 五形は、先の川中島の戦いに於いて、武田方の啄木鳥戦法を見抜いた、優秀な軒猿頭領。その彼が、主・上杉輝虎の上野国和田城攻略に同行している最中のことである。
 本当は、芹も戦に同行したかった。自分の力を試してみたかったのだ。
 だが、危ないからと、代わりに与えられたのが、この任務。
 敬愛する五形に置いてけぼりを喰らい、自分だって、もう足手まといにはならないのにと、軽く拗ねながら臨んでいた任務だったが、武田の動きに気づいてドキドキした。これを五形様に報告出来たら、きっと、自分を認めてもらえるに違いない、と。
 早く報せたくて、認められたくて、実際にはそんなに遅くないと分かっていながらも、自分の足がもどかしかった。


(っ? )
芹は、自分のほうへ向かって来る気配を感じ、頭上の木の枝に飛び乗って身を隠す。
 ややして、芹と同じくらいの年頃の、肌の色の白い少女が駆けて来た。
 丈の短い茜色の着物を着、茶色がかった柔らかな質感の黒髪を顎の位置で切り揃えた その少女の、黒目がちで吊り上がり気味の大きな目は 真っ直ぐに正面を見据え、薄紅色の花びらのような唇から 苦しげな荒い息が漏れる。
(お、可愛いっ)
と、芹が思った瞬間、芹のいる枝の三尺ほど手前で、少女の脇を、黒っぽい影が音も無く過ぎった。
 直後、少女はビクッとし、立ち止まった。
 芹は、自分が少女に見つかったのかと思ったが、違った。
 芹の枝を丁度中間に挟んで少女の正面に、明るい茶髪を無造作に後ろで一つに束ね、鶯色の着物を緩く着た、三十代半ばくらいの男が立っていた。どうやら、たった今、少女の脇を過ぎった影の正体だ。
 少女は、両手で口元を押さえ、怯えきった目で男を見上げる。
 男は、緩く着た着物のはだけた胸をポリポリと掻きながら、ごく軽い口調で、
「なーずなちゃんっ」
 少女は、なずな、という名らしい。
 少女・なずなは、また、ビクッ。
 その怯えは明らかに男に対してのものなのだが、その怯えっぷりに全く不釣合いに、男はニッコリ笑って、
「帰ろっか」
 なずなは目を逸らす。
 男は、小さく息を吐き、
「ま、いーけどね」
飄々と、半分独り言のように、
「けど、もうすぐ日が暮れるんだよなー。この辺は野犬が多いから、ちょっと修行を積んだだけのヒヨッ子くノ一なんて、いい餌だよなー」
そして、相変わらず目を逸らしたままのなずなを暫し眺め、もう一度息を吐いて、
「よし、行こう」
右手を伸ばし、なずなの左腕を取ろうとする。
 が、なずなは、その手をかわし、自分の左腕を右手で胸に抱きしめ、小さく小さくなって、見ていて痛々しいほどに震える。
 男の表情が、スッと変わった。一切の笑みを消した、冷たい表情。
「なずな」
ほんの少し前とはまるで違う、低い声、重く厳しい口調。
「今すぐ大人しく戻るなら、いつもの罰を受けるだけで許してやる。だが、抵抗するなら、俺は、お前を、今ここで始末しなけりゃならない。そういう決まりだ」
(…あの子、殺される……? )
見ず知らずの少女。しかし、最初に見た瞬間に、可愛いなどと思った。男を前に怯える姿を盗み見ていて、何となく不憫に感じたりもしていた。
(…助け、られないかな……? )
何だか放っておけない……そんな不思議な感情が芽生えた。
(あの男、強いのか? 強そう、だよな? )
 と、その時、背後でミシッと音。
(ミシ……? )
首を傾げる芹。
 直後、
(っ! )
芹は、乗っていた枝ごと地面に落ちた。枝が折れたのだ。
 落ちた場所はもちろん、なずなと男のド真ん中。
 青ざめる芹。
 なずなは、ギョッとしたように芹を見つめている。
 しかし男のほうは、チラリとも芹を見ず、
「どうする? なずな」
(無視かよっ! オレ、いないことにされてるっ? )
 なずなは男の問いに対して、芹を見つめていた目を逸らし、かと言って、男とも目を合わさず、
「分かりました。殺して下さい」
 その様子に、先程までの怯えは無い。
(っ! 何でだよっ? )
芹はショックを受け、
「ダメだ! そんなのっ! 」
思わず、言葉が口をついて出た。
 なずなは、少し哀しげにも見えるが非常に落ち着いた瞳で芹を一瞥し、それから、真っ直ぐに男を見上げ、
「お願いします」
 男は頷き、
「いい覚悟だ。今回のような場合、ジワジワと苦痛を与えながら死に至らしめるのが本来のやり方だが、その覚悟に免じて、一瞬で楽にしてやるよ」
「ありがとうございます」
「よし。じゃあ、目を瞑れ」
「はい」
 目を閉じるなずな。
 男は、徐に自分の着物の緩い合わせ目の部分に右手を差し入れ、中から苦無を取り出す。
 なずなを守るべく、芹は、背中の忍刀を抜いて手に握った。いつでも動けるように構えて男の隙を窺う。
 だが男は、腹の前の位置で苦無を回したり何だりと弄びつつ、なずなと手元の苦無を交互に見比べるだけで、それ以上の動きを見せない。
 芹は、
(……? )
首を傾げるが、男に、苦無を奪い取れるような隙は無い。
 ややして男は、溜息を一つ。苦無を逆手にグッと握り直したかと思うと、なずなの胸をめがけて突き出した。
 男が苦無を弄んでいた時間が長かったため、ちょっとボーッとしかけていた芹は、ハッとし、
(まずいっ! )
忍刀をしっかり握り直し、なずなまであと一寸と迫った苦無をその刀身で弾きつつ、なずなを背に庇う格好で、男との間に割って入り、男を見据える。
 男は感心したように、へぇ……と言う。
 その「へぇ」に、芹は、馬鹿にされているような見下されているような響きを感じ、ムカッとして、
「おい、てめえ! さっきからオレのこと無視してやがって! やっと無視しなくなったと思や、小馬鹿にして! オレのこと何も知らねえくせにっ! 」
 男は、芹と目を合わせることはせず、弾かれた苦無を、一旦腹の前に戻し、再び回したり何だり弄びながら、
「何も知らねえ、か……」
その口調は、なずなを追って現れ最初に口を開いた時と同じく、軽い。
「確かに知らないけど、何か、分かる気がするんだよねー。無視してた、って言うけどさ、俺、親切のつもりだったんだぜ? お前、何処のかは知らねえけど忍だろ? 忍が木から落ちるなんてとこ見られたら気まずいだろうと思って、見なかったことにしてやったんだけど? 」 
そこまでで、苦無を弄ぶ手を止め、芹を見る。
「……あのさぁ、とりあえず、そこ、どいてくんない? 」
口調は軽いが、その目には迫力がある。
「忍が、よそ様のことに口を挟むなんて、感心しないなあ……。いい加減にしないと、おじさん、怒っちゃうかもよ? 」
 静かな迫力に、芹はゾクッとしたが、気持ちを奮い立たせ、睨み返す。
「嫌だ! オレがどいたら、あんた、この子を殺すんだろっ? 」
 男は溜息。それからクックと笑い出し、
「甘いねえ、青いねえ、可愛いねえ……。俺は別に、お前がどかなくても、お前ごと、なずなを殺せるぜ? ただ、お前は無関係なんだから、命が惜しけりゃどいてろってことさ。あと、さすがに間にお前が入ると、一瞬で、っていうなずなとの約束が果たせねえかもしれないし」
 と、芹の喉頸に、後ろから、冷たく硬い、何か金属のようなものが、ヒタッと触った。ザワッと全身の産毛が逆立つ。
 男ではない。男の両手両足は、芹の目の前にある。
「どいて下さい。お願いします。見ず知らずのわたしなんかのために、命を無駄にしないで……! 」
背後で、なずなの声が言う。喉頸に触れている、おそらく武器である金属のようなものから、震えが伝わる。そのような物を人に向けることに、慣れていないのだろう。
 震えで手元がブレたか、右の耳たぶに温かく柔らかいものが当たり、喉頸に触れている武器は長さの短い物で、耳たぶの下になずなの手があると判断できた。
「どいて下さい」
懇願するようになずなが繰り返す。
 声の落ち着きに反して、手の震えは大きくなっている。
 芹は辛くなってきた。なずなが、あまりに痛々しくて……。
 何かが、胸の奥の奥のほうから湧き出て来、それは、
「…い、やだ……」
呻き声のような形で口から発せられた瞬間、いっきに溢れ返った。
 芹は、耳たぶの下のなずなの手を自分の喉頸から遠ざけるように、素早く右手で掴み上げた。
 なずなが、あっと小さく声を上げ、手にしていた武器を落とす。それは、男の物と同型の苦無だった。
 芹、なずなの手を掴んだまま、空いている左手で刀を操り、男のほうへと向けて牽制。
 男が溜息を吐き、
「なずな、悪いな。一瞬は無理かも」
言うと同時、苦無を持つその手が動いた。
 目にも止まらぬ、とは、このこと。芹の左手が弾かれ、刀が芹の手を離れて飛んだ。そして、
(っ! )
本当なら手が弾かれると同時か、それより先のはずの痛みを、後れて感じる。血などは出ていない。どうやら、苦無の、刃ではないほうを当てられたらしい。
 直後、芹はハッとした。男が非常に低い姿勢で、芹の懐の中から芹を見上げていたのだ。その手の苦無は、芹の胸の前に突きつけられている。
 男は、ニヤリと笑った。
(……っ! いつの間にっ? )
芹は慌てて飛び退き、飛び退いた先に、たまたま自分の刀が転がっていたため、条件反射的に拾う。
 その時、
(なっ、何だっ? )
にわかに辺りに煙のようなものが立ち籠め、芹は視界を奪われた。
 続いて、
(っ! )
腰の辺りを後ろ方向にグイッと引っ張られる感じで、体が宙に浮く。
 煙が濃くて周囲は全く見えないが、風の流れで、その引っ張られた方向へと、宙に浮いたまま、グングン移動しているのが分かった。
 芹は驚き、
(なっ、何だよ何だよ何だよっ? )
恐怖を感じた。
 状況が分からない以上、とにかくこの移動を止めなければ危険だと考えた。
 どうすればいいかと、頭を巡らせる芹。
 考えている間にも移動は続き、気ばかり焦る。


 結局、何も出来ないうちに周囲を包んでいた煙は晴れ、芹の視界に、走る見慣れた純白の忍装束の脚が現れた。
 斜め上方に視線を移せば、長い黒髪を後ろで一つに束ねた精悍な横顔。五形だ。
 芹は、走る五形の右の小脇に抱えられていたのだ。
「五形様……」
 芹に名を呼ばれ、五形は、一度チラッと芹に視線を流し、フッと優しく笑んだだけで、走り続ける。
 芹は安心しかけるが、ハタと気づき、
(あの子はっ……? )
 しかし辺りを見回す前に、自分の右手がしっかりと握りしめている、白く華奢な手を見つけ、その手とつながって五形の体の向こうに、なずなの着物と同じ布地と、手と同じく白く華奢な脚を確認できた。
 五形が、なずなも連れて来ていた。芹とは逆、進行方向を向いて抱えられている。
(…よかった……)


                  * * * 


 森を抜け、小高い丘の上まで来たところで、
「ここまで来ればいいだろう」
そこにあった無人の古い小屋の裏手に、五形は、芹となずなを下ろし、優しく芹の目を覗いて、
「大丈夫か? 」
 芹はホッとして、
「ありがとうございます」
礼を言ってから、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「でも、どうして五形様がここに? 御実城様と一緒に、上野におられるはずじゃあ? 」
「ああ、清白(すずしろ)から、武田に不穏な動きありと報告があってな。まだ和田攻略の途中だったが、一旦、私以外全員で帰還したのだ」
(清白さんが……? 清白さんも武田を探ってたのか……)
 清白は、五形の配下の忍で、時々、芹の修行に付き合ってくれたりする、芹の兄貴的存在の人物。
 芹は、五形が自分を信頼してくれていなかったのだと感じ、ショックを受けたが、五形は、そんな芹の気持ちに気づかないらしく、続ける。
「私は、清白がお前を放り出して報告になど来たから、心配になって、皆と春日山へは戻らず、上野から直接こちらへ、お前を迎えに来たのだ」
そして、一層目を優しくして、
「捜したぞ。無事でよかった」
 五形の言葉に、
(…オレを放り出して、って……)
芹は大ショック。
(清白さんは武田を探ってたんじゃなくて、オレに付いてたのか……。五形様に命ぜられて……。戦どころか偵察も行かせられないって? けど、何か任務を与えなければオレが納得しなさそうだったから、清白さんをこっそり付いて行かせることにして行かせたんだ……。この忍刀も……)
芹は、地面に転がったのを拾って以降左手に握りしめたままだった自分の刀に、チラッと視線を流す。
(今回の任務にあたってと五形様から与えられて、望んでた戦場へは連れてってもらえなかったけど、それでも何か、ちょっとは認められたような気になってたのに、きっと五形様は、護身用のつもりで渡した、程度の気持ちだったんだろうな……)
 落ち込む芹に五形は全く気づかず、大きく息を吐いて、まだ続ける。
「まったく、清白には困ったものだな。武田の動向の報告も大事だが、自分の一番の務めを忘れている」
そこで一旦、言葉を切り、気遣わしげに芹を見、
「清白に急にいなくなられて、心細かったであろう? 」
(……は? こっそりじゃなかったのか。清白さんが傍にいたのなんて、全然気づかなかったけど……)
 それから、五形はまた溜息。不機嫌そうに、
「しかも、それを注意したら、芹はもう小さな子供などではないのだからと開き直りおって。それどころか、私の芹に対する態度は半人前扱いですらなく愛玩動物と同じであると、それでは芹に失礼であると、逆に意見までしおったわ。だが、やはり、清白が目を離したために、実際にこうして、芹が危険な目に遭ってしまったではないか。私が間に合わなかったら、どうなっていたことか」
ぶつぶつくどくどと話し続ける。
 芹は、
(清白さん……)
せっかく清白が、芹自身も感じていた、五形の芹への接し方について言及してくれたので、良い機会だから、勇気を振り絞って自分からも言ってみようと、
「ご…五形、様……! 」
口を開いた。
「オレが今、危ない目に遭ってたのは、余計なことに首を突っ込んだからで、そんなことをしないようにすれば、何事も無く偵察をこなせるはずです。事実、オレは今、武田が不穏な動きをしていることを伝えるため、和田城へ向かう途中でした。…清白さんに先を越されましたけど……」
 清白さんに先を越された……自分であらためて口に出して言ってみて、芹は、更に落ち込みを深くした。
 自分の傍にいたということは、同じ時に同じものを見聞きしていたはずなのに、清白のほうが、全然早く武田の動きに気づいたであろうこと。そもそも、自分は清白の存在に全く気づいていなかったこと。……それらから、己の未熟さを自覚して。
 落ち込みがあまりに深くて俯き、
(…こんなんじゃ、せめて半人前扱いくらいしてくれなんて、言えないよな……)
口を噤む芹。
 暫し沈黙が流れる。
 五形まで黙ってしまっていたため、自分の発言で、五形が、自分を生意気だと怒ってしまったのではと、不安になって、芹は、恐る恐る五形を盗み見た。
 すると、五形と目が合った。
 目が合った五形は、驚いた表情をしていた。
 五形の手が、芹に向かって伸びる。
 殴られると思い、芹は、ビクッ。
 しかし、五形の手は、芹の頭にフワッと置かれた。
「そうか。武田の動きに気づけたのか」
五形は、芹と目の高さを合わせて、
「よく気付けたな。偉いぞ」
指で芹の髪を梳く。
 芹は、内心溜息を吐いた。
(やっぱ、愛玩動物扱いか……)


「ところで」
五形が、なずなに視線を流した。丘の小屋の裏手に下ろされて以降、なずなは、今もずっと、放心状態で地面にペタンと座ったままでいる。
「この娘は誰だ? お前が手を握っていたから、そのまま一緒に連れてきたが、この娘が原因で、藤袴(ふじばかま)に襲われていたのか? 」
(藤袴っ? )
驚く芹。
「ふ、藤袴って……! あの、さっきの人が、あの藤袴ですかっ? 」
「ん? ああ。そうだ」
五形はキョトンとして答え、考えるように、自分の顎をつまんで少し間を置いてから、
「そうか。芹は藤袴に会ったことが無かったな」
(あれが、藤袴……)
噂には、よく聞いていた。一般的には無名だが、同業者である忍の間では超有名人の武田の三ツ者。特に戦闘の能力に優れ、軒猿の頭領たる五形と互角に渡り合える唯一の存在と言われている。
 芹は五形の戦う姿を見たことが無いが、噂をする周囲の口振りから、それがすごいことであるとは分かった。
 とんでもない人物を相手にしようとしていたのだと、芹は今更、背筋が寒くなる。
 五形は、真面目な表情で芹の目を覗き、
「今し方お前の言った、余計なこと、とは、あの娘のことか? 首を突っ込んだ、ということは、お前から進んで関わったのだな? 一体、何があった? 」
 芹は、真剣な口調の五形の質問の意図が分からず、顔色を窺いながら、怖ず怖ずと、
「彼女が藤袴に殺されそうになっていて……。なんか、放っとけなくて……。でも、オレは、たった今、余計なことって言い方をしましたけど、それは偵察任務を遂行するのに余計なことって意味で、助けること自体が余計なことだなんて思わないです」
 皆まで言ってなお五形を窺い続ける芹の視線の先で、五形は、大きく息を吐いた。
 芹はビクッとし、五形の出方を待つ。
 だが五形は、徐に体ごと、なずなの方へと向きを変え、
「娘」
冷ややかな目で見下ろした。
 自分に向けて声を掛けられて初めて、なずなは放心状態から復活したようで、ハッと五形を見た。
 「貴様、くノ一だな? 藤袴が無意味な殺生をするとは思えない。貴様は、武田と敵対する勢力に仕える忍で、武田に害をなそうとしたところを藤袴に見つかったか、あるいは武田の忍で、裏切ったために粛清されるところであったか、どちらかなのではないか? そこへたまたま居合わせた芹を、何らかの術で惑わし、助けさせようとしたのであろう? 私の芹を巻き込みおって。芹が傷を負わなかったが幸い。命拾いしたな。即刻立ち去るがよい」
 なずなは震えている。
「即刻、立ち去れ……? 」
その声も。怯えているわけではなく、明らかに怒りで。
 なずなは、立ち上がりつつ暗い目で五形を見据え、
「あなたの言う通り、わたしはくノ一です。でも、その人を惑わしてなんかないし、大体、そんな術知らないし、そもそも助けてなんて欲しくなかった。…せっかく……せっかく、死ねると思ったのに……! 」
 芹は、せっかく死ねると思った、とのなずなの発言に、そう言えばさっきも死を望むような態度であったことを思い出し、何故そんなに死にたいのか疑問に思った。
 それに答えるように、なずなは、自らの過去と、藤袴に殺されそうになるに至った経緯を語った。
 その話によれば、なずな十歳のある日、姉と二人で留守番をしていた時のこと、なずなが家族と共に暮らしていた、尾張の鷲津砦近くの村が、今川の兵に襲われた。家に踏み込んできた兵に、姉は、なずなの目の前で強姦され、他の兵に犯されそうになったなずなを助けようとして、殺された。運悪く、丁度その時に帰宅した両親も、同じくなずなを守ろうとして、命を落とした。両親を殺してすぐに、ごく僅かしかない家中の金目の物を掻き集め、兵は去って行き、生き残った身寄りの無いなずなは、その後暫く、近所の人々に養ってもらっていたが、申し訳なさを感じ、村を出た。家族を自分のせいで死なせておいて、自分だけが生きていること自体にも、申し訳なさを感じながら、当てどなく彷徨い歩き、力尽きて倒れたところを、なずなは、甲斐信濃二国巫女頭領である望月千代女(もちづき ちよめ)に拾われ、信州小県郡禰津村古御館に開かれたばかりの、甲斐信濃巫女道修練道場へ連れて行かれる。そこは、なずなと同じく孤児となったり、他にも捨て子などとなった少女たち二百から三百人を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術などを教え、諸国を往来出来るよう巫女としての修行も積ませる場所。一人前になると全国各地に送り込まれ、武田のために情報収集を行うのだという。全く気力の無かったなずなだが、罰が怖くて、毎日の修行に真面目に取り組んだ。修行は体力的にも精神的にも厳しいものだったが、それによって生きていることの申し訳なさを紛らわすことは出来ず、辛くて、何度も自殺を試みた。しかし、その度に死にきれず発見されては罰を受け、の繰り返し。だがこの度、修行の最終科目である房術の訓練を行うことになり、姉が強姦される現場を目撃したトラウマから道場を抜け出し逃げたところを、千代女の古くからの友人であり道場の用心棒的存在でもある藤袴に見つかり、追われ、追いつかれ、また連れ戻されて罰を受けるのかと恐怖したが、同じ罰を受けるのでも脱走の罰は死であると初めて知り、これでやっと死ねると安堵した。そこを芹に邪魔されたのだ、と。
(邪魔……。任務のためだけじゃなくて、この子にとっても、オレのしたことは余計だったってことか……)
芹は、怒りを覚えていた。
 その隣で五形、
「そうであったか……」
呟き、
「芹のこととなると、私は、どうも短気でな。一方的な思い込みで物を言って、すまなかった」
なずなに向けて頭を下げる。
「娘。詫びと言ってはなんだが、何か私に出来ることがあれば、手を貸そう」
 なずなは、暫し無言のまま五形を見つめてから、視線をスッと下方へ逸らし、小さく息を吐いて、
「それなら、殺して下さい。これまで何回も自殺をしようとしたけど死にきれなかったのは、きっと、自分でだと無意識に加減をしてしまっていたからだと思うので」
「…いい加減に、しろよ……」
芹の目に、怒りから涙が滲む。
 声に出したつもりは無かった。なずなと五形の視線が全く同時に自分へと向けられたことで、声に出ていたのだと知り、慌てて口を片手で覆う。
 しかし、昂った気持ちまでは抑えきれず、滲んでいただけの涙が、膨らんで重力に耐えられなくなり、粒となって零れ落ちた。
「せ、芹……! ど、どどどうしたのだっ? 腹でも痛むかっ? 」
五形が狼狽えて芹の顔を覗いた。
 一粒零れ落ちてしまった涙は、二粒、三粒、ポロポロポロと止まらない。
「何で……。何でそんなに死にたいんだよ……! 生きてることが申し訳ないなんて、そんなワケあるかよ……! 」
(自分を守るために家族が死ぬなんて、どんだけ愛されてんだ……)
芹は、自らの過去と比較し、愛されているなずなに嫉妬した。
 芹の、家族についての記憶は一つしかない。
 薄暗い森の中で、五歳の芹の首を、鬼のように真っ赤な顔をして泣きながら絞める母親……それだけだ。その時に死なずに済んだのは、たまたま通りかかった五形が、母親から芹を金で買い取ったためだ。
 今にして思えば、母親も自分を殺したくて殺そうとしたわけではないのだろう、だから泣いていたのだろうとも思えるのだが……。
 だが、なずなが家族から注がれた愛情とは、やはり差がありすぎる。
 そして、その愛情に報いようとしない……どころか、自分が幸せであることに気づいてさえいない様子のなずなに、腹が立った。
「あんたが今、生きてるのは、あんたを守ろうとして死んでいった、父ちゃんや母ちゃんや姉ちゃんの望んだ結果だ! …それなのに……! 生きないことのほうが申し訳ないんじゃないのか……っ? 死んでいった人たちの命を、心を、踏みにじることになるんじゃないのか……っ? 一生懸命に生きることだけが、死んでいった人たちに報いる方法じゃないのかよっ……! 」
 興奮した状態で喋り続けたためか、芹は、崩れそうになった。
「芹……! 」
五形が咄嗟に支える。
 芹、五形に支えられたまま、まだ喋り続ける。
「気づけよ! 自分が幸せだってことに……! 命を捨てるほど愛されるなんて……! オレなんて……オレなんて、母ちゃんに殺されかけたんだぞ! って言うか、五形様に助けてもらえなかったら、本当に殺されてた! 母ちゃんにだぞっ? あんたは当たり前に思ってるかも知れないけど、母ちゃんに、父ちゃんや姉ちゃんにも、愛されることは全然当たり前じゃない! 生きろと望まれることは、当たり前じゃない! オレは家族には望まれなかった! だけど生きる! 五形様が望んでくれてるから! 五形様に報いるために生きる! 」
「…で……? 」
なずなの、突然の冷ややかな声。
「……っ! 」
芹は、頭のてっぺんから冷水を浴びせられた感じがした。
(で? …って……) 
 返す言葉も無く固まる芹に向けて、なずなは溜息を一つ吐き、遠い目をして、もう一つ、今度は長い溜息に乗せ、
「『一生懸命に生きることだけが、死んでいった人たちに報いる方法』? ……そんな御託は聞き厭きたわ。村の人たちからも、それこそ、朝・昼・晩の挨拶代わりかってくらい、顔を合わせる度に言われた。『ご両親とお姉ちゃんの分まで生きなきゃね』とか」
そこまでで一旦、言葉を切り、視線を俯き加減に変えて、低く暗く重く続ける。
「確かにわたしは幸せだった。愛されて、幸せだった。でも、もう誰もいない。生きていて申し訳ないと思うのは、守ってくれたことを感謝できない自分だから。『どうして、わたしだけ残して死んだの? 』なんて、恨みにさえ思ってる。自分ひとり生き残るより、皆と一緒に死ねたらよかった。自分に生きてくれと望んでくれている相手が、傍で一緒に生きてくれているあなたには分からないわ、こんな孤独。死者が遺した愛は永遠に変わらないけど、思い出だけじゃ生きられないもの。死んでしまった愛してくれた人たちに対して恥ずかしくない生き方を、ずっと心掛けて生きていけるほど強くない。傍で生きて、恥ずかしいことをしたら叱ってほしい……」
 最後は消え入るように言って口を噤んだなずなに、芹は、キュウッと胸を締めつけられた。 なずなの負っている傷の深さを感じて……。
 五形に甘えて支えられている場合ではないと、芹は、きちんと自分の足で立った。
 自分の言ったことが間違っているとは思わない。だが、なずなの言ったことも、なずなの真実に違いない。
(…どうすりゃ、いいんだろうな……)
こんなにまで傷ついている人を見るのは、初めてな気がした。
 自分も、母に殺されそうになった幼い日の記憶に、散々傷ついてきたが、そんな比ではないと思った。
 どうにかして慰めてやりたいと思った。
 芹は考え、結果、
「オレが叱ってやるよ」
また冷たい声で何か言われるかもと、少しビクビクしながら切り出し、冷たい声が来ないのを確認後、
「オレが、叱ってやる」
もう一度、今度はしっかりとなずなを見つめ、目に力を込めて、繰り返す。
 考えた結果、慰めることは出来ないと思った。ここまで酷く傷ついている人の心を慰めるなど、自分には到底無理だと。
 しかし、なずなが今求めているものを与えることなら出来ると、結論を出したのだ。
 なずなは、信じられないといった表情で芹を見る。
 愛玩動物のあんたが? などと思われたようにも感じたが、気にしないよう努め、芹は続けた。
「オレは、あんたに生きてくれって望む。だから、もう誰もいなくなんかない。あんたは、ひとりじゃない。孤独なんかじゃない。オレがいる! 」
 言い終わりに、なずなの口がこれから言葉を発するように開くのを見、芹は、何を言われるかと緊張する。
 しかし、なずなが掠れ気味に、聞き取るのが困難なほど小さな声で口にしたのは、
「…どうして……? どうして、会ったばかりのわたしに、生きてくれ、なんて思うの? 」
(どうして、って……)
なずなの口から発せられたのが、ごく普通の質問であったことに、芹はホッとし、同時に困った。
(どうしてって言われても……)
生きていて欲しいから生きてくれと望んだ。それだけだ。結局自分では助けられなかったが、藤袴から助けようとしたのだって、助けたかったからというだけのこと。
(理由なんて……)
それでも考え、何とか辿り着いた答えは、
「だって、あんた、顔が可愛いから」
 驚いた様子のなずな。
 芹は、すごくくだらないことを言ってしまったと思い、口を押さえ、今度こそ冷たい声が来ると覚悟を決めた。
 だが、そんな芹の目の前で、なずなは、可愛いと言われたことに照れたのか、見る見る顔を赤らめ、再び芹から目を逸らして俯き、
「…ありがと……」
ぶっきらぼうに呟く。
(……あれっ? )
芹は、なずなの態度が和らいだのを感じ、その理由は全く分からないが、恐る恐る聞いてみた。
「生きて、くれる? 」
 なずなは、目を逸らしたまま小さく頷いた。
 そこへ、
「では、私も叱ろう」
五形が真顔で口を開く。
(五形様……)
芹も驚いたが、なずなも驚いたらしく、照れから立ち直った様子で顔を上げ、五形を見た。
 五形は、なずなの視線を受け止め、続ける。
「芹の望みは私の望みだ。私の名は五形。上杉に仕える軒猿が頭領だ」
そして、芹の頭にポンと手を置き、
「こいつは芹。私の大切な奴だ。娘、お前の名は? 」
「…あ、はい……。なずなと申します」
五形、確認したように頷き、
「なずな、行く宛てが無いのであろう? 私の芹を苛めないと約束できるのであれば、私たちと共に春日山で暮らすがよい」
「…え、あの……。でも……」
なずなは途惑っている様子。
しかし五形は、事も無げに、
「迷う事では無かろう。傍にいなくては叱れぬ」
言うと、なずなの返事も待たず、
「では、行くとしよう」
春日山方向へ踏み出した。


 進むスピードを徐々に上げていく五形。
 芹は、その背中を追いかけ、
「五形様っ! 」
声の届くところまで追いついて、
「ありがとうございますっ! 」
 五形は、顔だけ振り返り、フッと甘く笑った。



                   (二)


(…あれ……? なんか……)
 上杉輝虎の居城である、越後春日山山頂に築かれた天然の要害を持つ難攻不落の城・春日山城。
 何度か休憩を挟みながら八刻ほどかけ、巽の刻。なずな・五形と共に、五形の屋敷のある、春日山南三の丸家臣団屋敷群に帰って来た芹は、違和感を感じ、辺りを見回した。
 ややして、いつもと同じように畑仕事に精を出す人々の中に、違和感の正体を見つける。
 男たちがいないのだ。
 不思議に思っていると、
「五形くん」
少し距離のある背後から、五形に向けて女性の声が掛かり、芹・なずな・五形の一同は振り返る。
 そこには、隣の屋敷の、恰幅のよい四十代の奥方・カツ。
 畑で中腰の姿勢から上体を起こし、腰をトントンしてから、芹たちのほうへ歩み寄って来た。
「お帰りなさい」
それから、無言でなずなを気にする。
 応えて五形、
「ああ、なずなと言います。今日から私が世話をすることになりまして」
そして、その答えにカツが、そう、と納得するのを待ってから、
「ところでカツ殿。男性の方々が見当たりませんが」
「ああ、皆、菅名荘へ行ったよ」
「菅名荘ですか? 」
「もう、一昨日のことだけどね。何だか、蘆名軍が攻めてきたとかで、上野から帰ってすぐ出掛けたんだ」
 五形とカツの会話を、何か戦が続くなあ、などと、特に自身の感想など無く、表面を滑るように思いながら聞く芹。
 五形、
「然様ですか。ありがとうございます」
ちょっとボンヤリしてしまっていた芹にとっては突然、礼を言って話を切り上げ早足で自分の屋敷へ。
 芹は、五形の後について先を歩くなずなの背中に、慌てて続いた。


 勝手口から屋敷内に入った五形は、真っ直ぐに、一番奥の自分の部屋へ。
 後をついて行き、部屋の入口で見守る芹となずな。 
 視線の先の五形は、床に三尺四方ほどのきれを敷き、その上に、忍装束の懐から腰から足首内側から、これまで持ち歩いていた忍道具を出して並べた。
 そして、部屋の隅へと歩き、しゃがんで、そこに置かれた櫃の中から、たった今、装束から出した物と同じ物を取り出しては、もと仕舞ってあった通りの場所に仕舞っていく。
 ややして、よし、と小さく言って立ち上がり、五形は入口へ。そこで覗いていた芹の前で足を止め、優しい優しい笑みを向ける。
「菅名荘の様子を見て来る。良い子で留守番しておるのだぞ? 」
 これまでであれば、こんな時、自分の力を試してみたくて、一緒に連れて行ってくれとせがんでいた芹だが、今回の武田の動向を探る任の裏を知ると共に己の未熟さを自覚してから、まだ一日と経過していない今、試してみたい自分の力など無い。
「……分かりました」 
 五形は芹の頭を優しくポンポンッとやり、
「いい子だ」
そして、なずなに視線を移す。
「なずな。ここが今日からお前の暮らす私の屋敷だ。部屋は、この部屋の二つ手前、芹の隣を使うがよい」
「ありがとうございます」
なずなは真っ直ぐに五形を見つめ、返した。
 芹は、
(ん……? )
五形に礼を言ったなずなの態度に、ちょっと、あれ? と思った。
 頬がほんのり赤い。縋るように? いや、うっとりと? ただ五形だけを見つめる目。
(なずな……。もしかして、五形様のこと……? )
何故か、少しショックだった。とてもしっかり納得していたが……。五形様はカッコイイからな、と。
 なずなの礼に対し、五形は、うむ、と頷いて、では私は行くからと言い、
「芹を頼む」
と続けた。
(何でだよっ? )
芹は、なずなの五形への気持ちについての少しのショックの上に、更に、今度は大きなショックを重ねる。
(何で、なずなにオレのことを頼むんだよっ! )
 なずなは驚いた表情をしている。
 ショックを隠せない芹と驚いているなずなの視線を受けながら、五形は続けた。
「なずなは歳こそ芹と変わらぬが、脱走を捨て置けず追っ手を差し向けねばならない程度の力量があると、認められているのであろう? 芹を頼めるな? 」
 五形が話している間に、なずなの表情は、はっきりと途惑いに変わっていった。
 途惑った様子ながら、頷くなずな。
 五形は頷き返し、
「では、行ってくる」
視線を芹へと戻して、優しい目で芹の目の奥を覗き込み、頭を撫でてから勝手口へ。


(オレは、なずなより下かよ……)
同じくらいの年齢、しかも女の子のなずなより下に位置づけられた芹は、番所まで五形を見送りに出るべく山を下る道を、終始無言のまま不貞腐りながら歩いていた。
 完全に自分のペースでどんどん歩く五形と、その後を小走りで、心なしか嬉しそうについていくなずなから、少し後れて……。

 番所に到着し、番所の前を左右に延びる道を、ここ、春日山より北に位置する菅名荘を目指して左手方向、五形の背中は、あっと言う間に小さくなり、直後に見えなくなった。
 五形の行った後を、芹は、暫し見送り、
(いつまでも落ち込んでたってしょーがねえし……)
一度、息を大きく吸って吐き、頭を切り換えた。
(五形様は、戦い方なんかについては、どうせ何も教えてくれねえし、清白さんに、もっと、修行の回数を増やしてもらうとか。あとは……)
そこまでで、自分よりも更に長いこと五形の行った後を、未だに見送っているなずなを見る。
(…なずなに教わるとか……? けど、どうも、なずなに五形様の言うような力量があるとは思えないんだよな。藤袴に殺されそうになってた時、オレに、どけと脅すのに、苦無を持つ手が震えてたし……)
 と、そこへ、五形が行ったのとは反対方向から、何やら不規則な馬の蹄の音。
 何の気無く音の方向を振り返る芹。
 ややして、酷く興奮した様子で芹たちのほうへ向かって駆けて来る、一頭の馬が見えてきた。
(暴れ馬っ? )
そう思い、なずなの手を取って、山を登る方向へ避難しようとした芹だが、すぐに、
(っ? )
その馬上に人が乗っていることに気づいた。
 上半身裸で頭髪の乱れた血まみれの若い武士が、落ちないよう必死といった感じでしがみついていたのだ。
 ぐんぐん近づいてくる馬。
 武士の顔がはっきりと見え、芹は、その武士を見たことがあると気づいた。
 名前までは分からないが、確かにいつか、信越国境の境目城・野尻城で見掛けた顔だ。
 芹は武士と目が合う。
 直後、
(っ! )
武士は落馬した。
 芹は、なずなの手を離し、急いで武士に駆け寄って、
「おい! 大丈夫かっ? 」
地面に膝をついて抱き起こす。
 すぐ横で、なずなが、暴れる馬を宥めた。
 芹の腕の中で、武士が苦しげに口を開く。
「殿、に……。火急の、報せ、が……」
 芹は困る。
「御実城様は、菅名荘へ行ってるんだけど……。蘆名軍が攻めて来たらしくて……」
 武士のほうも困惑の表情を浮かべ、
「では、現在、この城の守りは……? 」
 武士の質問の意図が分からず、芹は、一体どうしたのかと逆に問う。
「…武田軍が……。武田軍が野尻城を落とし、越後に入って、郷村に放火を……! あの勢いでは、そのまま、こちらの城にも攻め込みかねない……! 」
 やはり苦しげで途切れ途切れのその答えに、
(! )
驚き、
(ヤベーよ! それっ! )
今の状況で攻め込まれては、ひとたまりも無いと、焦る芹。
 武士は言うだけ言うと、報せなければ、と、立ち上がろうとする。
(あ、おいっ! )
芹は慌てて止めた。
「そんな体じゃ無理だ! オレが行くっ! 」
 それから、いくら急がなければならないとは言え、この武士をこのまま放置するわけにはいかないため、なずなに頼もうと、
「あ、あの……! な、なず、な! 」
初めてなずなの名を口にした。名前などで呼んで怒られないか緊張しながら、そして、いざ、口にしてみて、何とも言えない甘酸っぱい気分になりながら。……急場だというのにと、不謹慎を反省しつつ……。
 すぐ隣で馬の鼻面を撫でていたなずなは、手を止め、芹を見た。
 芹、なずなの視線に不謹慎を見抜かれそうで、見抜かれれば何か言われそうで、大急ぎで甘酸っぱい気分を振り払い、意識的に真面目に、
「この人のこと、頼める?」
言ってしまってから、いくら態度は真面目であっても、頼みごとなど、それ自体、調子にのっていると思われそうな行為だと気づき、それでも、もう話し始めてしまっているため、途中で話をやめることも、その他にどうすることも、それはそれで何か言われそうで出来ず、内心ビクビクしながらも仕方なく続ける。
「もう一度、馬の背に乗せて、南三の丸……ほら、五形様の屋敷のあるとこまで運んで、そうしたら、カツさんって分かる? さっき五形様と話してた女の人。後のことは、そのカツさんに事情を話して指示を仰げばいいから」
 芹の言葉に、なずなは意外と素直に、
「分かった。じゃあ、馬に乗せるのだけ手伝ってから行ってくれるかしら? 」
「あ、う、うん」
芹は驚き、もしかしたら自分が気にしすぎなのではと思った。
 考えてみれば、なずなから冷たい声を浴びせかけられたのは、「…で……? 」の一言だけなのに。それだって、芹がなずなの気持ちを置き去りにして好き勝手言った後のことで、なずなにしてみれば頭にきて当然だった状況。頭にきていれば、誰だって、相手に対して冷たい声の一つや二つ、発する。それを必要以上に引きずって、勝手な印象を持ったりしていて、なずなに悪いことをしたのかも知れないと思った。


                    * * *


「芹! 」
両側を林に挟まれた道を、菅名荘へ向かって走る芹の背後から、非常に規則正しい駆け足の蹄の音と、芹の名を呼ぶ少女の声。
 芹は、足を止めないまま、頭だけで振り返る。
 そこにいたのは、先程の武士の乗っていた馬に跨ったなずなだった。
 出会った時から着ていた着物はそのままに、下半身に、裾をしぼった袴を穿いている。
 なずなは、馬に乗ったまま芹の横に並び、
「乗って。平らな道なら、馬のほうが速いわ」
言うが、止まろうとする気配は無く、ただ微妙に速度を緩めた。
(このまま飛び乗れって? )
そんなことは、したことが無いと、躊躇う芹。
 しかし、
(まあ、何とかなるか)
なずながごく当然の顔でいるのだ。きっと、なずなの周りの人たち……例えば、同じ道場にいたくノ一仲間などは、当たり前にやっていることなのだろう。だったら自分だって出来るはずだと思った。
 なずなに見られるのは何となく嫌なため、こっそり静かに、一度、深呼吸をしてから、芹は地面を蹴る。
 と、芹がなずなの後ろに跨った瞬間、
(……! )
馬が突然、尻を大きく横に振った。
 落ちそうになる芹。
 なずなが咄嗟の手綱捌きで体勢を立て直す。
 落ちずに済んで、
(あっぶねー……)
ホッと息を吐く芹に、なずな、目を剥いて一瞬だけ振り返り、
「芹! もっと静かに乗って! 馬が驚いちゃうじゃない! 」
(…そんなこと言われたって……)
芹は軽く不貞腐り、
「オレ、動いてる馬に飛び乗ったことなんてねえし」
 なずなは、えっ、と驚き、それから溜息。
「それならそうと、先に言ってちょうだい。忍なんだから、当然そのくらい出来ると思うじゃないの」
 突然、なずなの左手が後ろに伸びてきた。
(? )
すぐ次の瞬間、
(! )
手探りで芹の左手を掴む。
 芹はドキッとし、不貞腐った気分が何処かへ飛んで行く。
「ほら、ちゃんとわたしに掴まって。でないと本当に落ちるわよ」
言いながら、掴んでいた芹の手を、なずなは、自分の腰のくびれ部分に巻きつける。
(……! )
芹はドキドキッ。
 自分がなずなの手を掴んだ時には気づかなかった、自分の手を掴むなずなの手の、滑らかな感触。柔らかな腹部。髪の甘い香り。自分の顔は、今、きっと真っ赤だと、芹は思った。
 芹は照れ隠しに、たった今何処かへ飛んで行ってしまった不貞腐った気分を大急ぎで呼び戻し、
「どうせオレは、半人前ですらない愛玩動物だからな」
 半分は本気で不貞腐っていたが……。
 芹は正直、なずなが追って来てくれたことにガッカリしていた。一人で行きたかったのだ。このくらいのことなら一人で出来ると、五形に見せたかった。自分の出来ることを小さなことからコツコツと証明していきたかった。それなのに、なずなが一緒にいては、なずなが一緒だから出来たのだと思われてしまう。
「知らせに行くくらい、オレ一人で充分なのに、どうして来たんだ? さっきのあの怪我人はどうしたんだよ」
言ってから芹は、自分の口から出た言葉の調子が、ちょっとキツかったかもと感じ、気にする。
 しかしなずなは、全く気にした様子は無く、前を向いたまま馬を駆りつつ、
「あのお侍様は、カツ様が、カツ様のお屋敷で見てる。カツ様に事情を話したら、お侍様の馬を借りて行けって、袴も貸してくれたわ。それに、カツ様に言われなくても、わたしは五形様から、芹のこと頼まれてもいるし」
(そっか、そうだよな……。それなのに、オレ一人でノコノコ報せに行ったら、なずなが怒られちま……)
仕方ないと納得しようとした芹の思考を、
「でも」
なずなは遮った。
「そんなの口実だけどね。だって、あのお侍様に関する仕事は、運んで手当てして寝かせたら、とりあえず終わりなのよ? さっき五形様や芹と一緒に、ちょっとの間、足を踏み入れただけの土地に、一人でなんて居づらいじゃない」
 これにも芹は、そりゃそうだと納得。
「それに……」
そこからは何故か、躊躇い気味に続けるなずな。
「あなたは、わたしが本当に五形様のおっしゃるほどの力量を持っていると思う……? あなた自身は本当に自分を愛玩動物程度だと思ってるの……? わたしがあなたを守れると思う……? わたしには、あなたは立派な半人前、しかも、藤袴と向き合ったこと然り、怪我をした状態でやって来たお侍様への対応然り、馬に飛び乗ろうとして上手くいかなかったこともまた然り、経験ごとにグングン伸びていっている人に見えるわ」
「え、そ、そうかな……? 」
愛玩動物扱いされている芹にとって、半人前は褒め言葉。それも、立派なとか、グングン伸びていってる人とか、ベタ褒めされているも同然で、芹は照れまくる。
 それに対し、なずなは、
「そうよ」
当然といった様子で、あっさりと返し、
「それに比べて、わたしは駄目ね」
自嘲的に笑った。
「わたし、道場を最終科目の修行を前に脱走したって言ってたでしょ? その科目を無事に終えれば、一人前の巫女として働くことになるの。あなた、気づいたわよね? 昨日、あなたを苦無で脅そうとした時、わたしの手が震えてたことを。…そんなふうで、あとちょっともすれば一人前として働くようになるところだったなんて……。わたしの級友たちが、もしも脱走した場合、捨て置いたら確かに危険だとは思うけど、わたしは安全よ。他人に苦無も向けれないほどの劣等生なんだもの。追っ手が差し向けられたのだって、ただ、本当に決まりだからってだけ。五形様、きっとガッカリするわね。わたしの真の力量を知ったら……。さっき、五形様から『芹を頼めるな? 』って聞かれて頷いたのは、ガッカリされるのが嫌だったのと、あなたなら、もし、わたしと二人きりの時に何か起こったとしても、自分の身は自分で守れると、わたしが守ってあげなくても大丈夫だと思ったから、だから、つい……」
(…なずな、やっぱり五形様のこと……? そうだよな。好きな人には、良く思われたいもんな……)
芹は、何だかなずなに対して、やけにおおらかな気持ちになっていた。
 馬上の風が清々しい。


 その時、ト……と、芹の背後の、ごく狭い馬上に、何か小さなものが乗ったような微かな震動。
 ハッキリと感じた芹だったが、全く気に留めなかった。
 直後、
「……! 」
芹は、襟の後ろの部分をグイッと後ろに向かって引っ張られ、そのまま馬から放り出される。
 咄嗟に受身の体勢を取って、衝撃を減らし着地しつつ、もう先に行ってしまった馬を見ると、
(藤袴……! )
鶯色の忍装束を纏った藤袴が、芹のほうを向いて馬上に立ち、芹と目が合うと、挑発的に笑んでから、クルッと進行方向へ体の向きを変えた。
 なずなが藤袴の存在に気づいている様子は無い。
「なずな! 」
芹は、なずなと藤袴を乗せて走る馬を、大急ぎで追いかける。
 五形と互角と言われる藤袴。怖くないわけがない。しかし、怖がってなどいる場合ではない。
 追いかける芹の視線の先で、
(! ! ! )
藤袴の腕がなずなの首を捉え、薙ぎ倒すようにして落馬させた。
 藤袴もすぐさま馬を降り、仰向けに地面に倒れているなずなの体に馬乗りになり、片手でその細い首を押さえつける。そして、頬に、空いているほうの拳を、ガッガッガッと幾度も叩きつけた。
「っ! やめろぉーっ! 」
芹の頭の奥か胸の奥か、とにかく体の表面から遠いところで、何かがプツリと小さな音をたてて切れた。
 怖がっている場合などではないと思いつつ、それでもやはり怖がっていた気持ちが、どこかへ飛んでいった。
 芹は、藤袴に向かって突進しながら抜刀する。
「ダメ! 芹っ! 」
なずなが叫んだ。何度も藤袴の拳に遮られながら、
「狙いはわたしだけだから! 手出ししなければ、あなたは何もされないわ! わたしのことはいいから、早く菅名荘へ! わたしなら大丈夫だから! 」
 芹は止まらない。
(『わたしなら大丈夫』……? )
そのなずなの言葉が、芹には、「わたしのために芹にもしものことがあって、五形様に嫌われてしまうくらいなら、わたしは死んだって大丈夫」と言っているようにしか聞こえなかったのだ。
「バカヤロー! 」
芹の中で、何かはプツプツと切れ続けている。
「オレはあんたに生きてくれって望んだんだ! 殺されるって分かってて放っておけるかよっ! くだらねーこと言いやがって! 望みどおり叱ってやる! 帰ったら覚悟しとけよっ! 」
 怒りに任せて忍刀を振りかざし、芹は、藤袴へと真っしぐら。切っ先が届く範囲に入ったところで、いっきに振り下ろした。
 藤袴は、芹のほうを一切向かないまま、何発目か用に握って振り上げていた拳をフッと解き、芹の振り下ろした切っ先を、頭上一寸ほどのところで、親指と人指し指だけで、つまんで止めた。
(! )
芹は一旦、刀を引こうとしたが、指二本で掴まれているだけにもかかわらず、どんなに力を入れても動かせない。
(やっべ! )
焦る芹。刀を引っ張り続ける。
 そんな芹を全く気に留めない……どころか、存在してさえいない感じで、藤袴、
「なずな」
ただ、なずなを見下ろす。
「俺は、今日は本気でお前を狩りに来た。昨日はさ、実は、その気は無かったんだぜ? 何とか連れ帰るつもりでいた。お前のほうから殺してくれと言われて、正直途惑ったし躊躇った。だって、そうだろう? 十歳の頃からお前の成長を傍で見てきて、父か兄のような気持ちになってたんだから。だが、お前が何度も自殺未遂を繰り返してきたことを思って、辛い過去を抱えているお前が生きていくのは、もう限界なのだろうと覚悟を決めた。本来は始末しなけりゃならないところだから、何の問題も無いしな。ただ、せめて苦しまずにと」
 長々と喋る藤袴の斜め後ろで、芹は、ひたすら刀を引っ張る。
 と、ツルッ。手汗で滑って刀から手が離れ、芹は、後ろによろけた。
 瞬間、すぐ目の前に真っ赤な飛沫が上がった。
 激しい目まいを感じ、立っていられず、膝から崩れる芹。
「芹っ! 」
なずなが悲鳴のような声を上げた。
 揺れる視界の中に、芹は、藤袴が、なずなに馬乗りになったまま、上体を大きく捻って芹のほうを向いているのを見た。その手に、しっかりと柄の部分で握られている芹の忍刀は、何故か赤い液体で濡れている。
(…何だ……? 何が、起こった……? )
意識はハッキリしているが、声が出ない。
 体も言うことを聞かず、芹は、意に反して地面にうつぶせに倒れ込んだ。
 何とか顔だけを起こし、地面に顎をつく格好で、なずなと藤袴のほうを見る芹。
 藤袴は、芹の顔の前にポイッと忍刀を投げ捨て、なずなを振り返った。
「なずな。どうだ、辛いか? 自分を助けようとした人間が傷ついて辛いか? 短い間に随分事情が変わったようだな。…お前は、生きようとしているんだな……。昨日の段階でなら、それは問題なかった。道場に戻るという条件下に限って。だが、お前は上杉についた。今そこに転がっている小童を昨日、助けに来たのは、軒猿の五形だった。その小童とまだ一緒にいるということは、上杉についたと判断して間違い無いな? なずな、これは立派な裏切り行為だ。酌量の余地は無い。苦しんで、苦しみ抜いて死ね」
(…なずな……! )
芹は、必死に目の前の刀に手を伸ばそうとするが、腕が重くて思うように動かせない。
 時間をかけて地面を這わせるようにして動かし、何とか柄の上に右手を置くことが出来たが、そこまで。それ以上は、どうにも動かせなかった。
 その時、たまたま芹を一瞥した藤袴と目が合い、芹は、ギクリとする。
 藤袴は、芹の手が刀にいっていることに気づいたようだったが、取り上げるなど特にせず、放置。
(どうせ何も出来ねえとか思ったっ? )
芹は、馬鹿にされたような気になったが、実際、刀を握ろうとしても力が入らなくて握れず、今は悔しいよりも、
(何とか、しなきゃ……! なずなが……! )
焦りが募る。
 ビッビビビ、ビビ……。布の裂ける音と共に、藤袴が、馬乗りになる位置を後ろ方向へ一尺分程移動する。
 同時、なずなが小さく叫んだ。
(っ? 何を、しやがった……! )
藤袴の背中が邪魔をして、芹の位置からでは、なずなの姿が見えない。
「なずな。お前は淫乱だな。こんなに濡れてるぜ? 房術の訓練をすると聞いて逃げ出したんだから、お前には、これが一番苦痛だろうと思ったが、大きな間違いだったようだな。これじゃあ、お前を悦ばせるだけか? 」
蔑むような、どこか面白がっているような、藤袴の言葉。
「だったら、こんなのはどうだ? 」
 なずなが呻く。息が荒い。
(一体、何をしてやがるっ? )
「なら、これでどうだ? 」
 なずなが一層苦しげに呻き、それが暫く続いたかと思うと、ああ、と悲痛な声で叫び、以降、パッタリと静かになった。
(なずなっ? なずなっ! )
姿が全く見えないだけに、不安は言いようが無い。 
「気を失ったか……」
藤袴が独り言のように呟く。
「気を失っちまったら、苦痛も何も無えもんな。もう、終わりでいいよな」
藤袴の肩越しに、何か、体や着衣の一部とは明らかに違う、鋭利な黒い影が覗いた。 それは、芹の位置からでも確認出来た。苦無だ。
「さよならだ。なずな」
(まずいっ! まずいまずいっ! )
焦りに焦って、芹は、とにかく立ち上がろうと、刀に乗せていないほう、左腕に思いっきに力を込め、地面に寝そべったまま、藤袴の動きを気にして焦りつつ、それでもどうしても少しずつ少しずつになってしまうが気持ちだけは早く早くと懸命に、全身を刀に近づけていく。
 目標は、腰を、柄に乗せた右手の横一直線上までもっていくこと。…刀を握ることが出来るのであれば、刀を握った上で右手を腰の位置までもってきたほうが早いのだが……。
 そうしながら、芹は、不思議に思う。
 何故自分が、こんなふうに頑張れる余地があるのだろう、と。
 本来なら、こんな体で急いだところで、間に合う見込みなど無い。なのに自分は今、間に合うために急いでいる。何故か。……藤袴が動かないためだ。
 藤袴は、苦無を出して手に持ったきり、微動だにしない。そう言えば、昨日もそうだった。なずなに殺してくれと言われ苦無を取り出した後、なかなかそれを、なずなへ向けようとせず、手元で弄んでいた。さっきの話からすると、なずなを殺すのを躊躇っていたとのことだったが……。ずっと成長を傍で見てきて、父か兄のような気持ちになっていたから、と。
(…藤袴……。ひょっとして、今も躊躇ってんのか……? )
 何にしても、今のうちに何とかしなければと、ちょっと気を抜けば遠のいてしまいそうになる意識を、必死につなぎ止めながら、
(あと少し! あと少しだっ! )
芹は、腕に力を込め前進を続ける。

 やっと目標の位置まで体が達した、その時、
(っ! )
突然、藤袴が動いた。それまで俯き加減だった頭をハッと上げ、芹たちの行こうとしていた菅名荘方向を見ただけだが……。
 反射的に、ビクッとする芹。
 直後、藤袴は立ち上がる。
 芹は、またビクッ。
 芹が二度目のビクッをしている僅かな間に、藤袴は、高く跳び上がりつつ脇の林の中に消えた。
(…助かった、のか……? )


 藤袴が退いたことで芹の目の前に現れたなずなは、全裸だった。傍に、ビリビリに裂けた着物が散乱している。
(……! なずなっ……! )
芹は、右手に意識と力を集中させて、何とか刀を掴み、それを地面に突き立て、杖代わりに、中途半端に起き上がった。
 そして刀と膝を使って、ズルズルと体を引きずるように、その姿を出来るだけ見ないよう気を付けながら、なずなの許へ。
 なずなの脇に膝をついた芹は、やはり出来るだけ見ないように顔を背け、なずなに掛けてやるべく、自分の忍装束の上着を脱いだ。
 先程の真っ赤な飛沫は、芹自身が胸を斬られたことによる出血だったようだ。何故か痛みなどは全く無いのだが、あらためて見ると、芹のものも前身頃は切り裂かれ、血で汚れていた。
 それを、ほぼ感覚のみでなずなに被せてから、やっと、
(…なずな……)
まともになずなを見た。
 殴られた痕が痛々しい。
 藤袴が去り、残された静寂。聞こえるのは、風で木の葉の擦れ合う音と、小鳥のさえずりだけ。
(…静かだな……)
 穏やかな陽の光が降り注ぐ。
 芹は、野尻のことを報せなければとの思いがキチンと頭の中心にあったものの、意識がスウッと遠のいていくのに勝てず、刀にもたれるようにしながら、ズルズルと地面に崩れた。


 木の葉の音と小鳥のさえずりに混じり、かなりの数と思われる人の足音と馬の蹄の音を耳が捉え、ハッと音の方向を見る芹。
 音は、菅名荘方向から。
 ややして見えてきたのは、足音・蹄音の正体たる軍と、その旗印・刀八毘沙門。上杉軍だ。
 藤袴は、いち早くこれを察知して、去って行ったのだろうか。
「芹! 」
名を呼ぶ声と共に、芹は仰向けに抱き起こされた。
 目の前に、五形の顔。
(…五形、様……)
何だかホッとした芹。
 途端、いっきに視界がボヤけ、後、目の前の光が、全て吸い取られるように一点に集まって消え、目の前が真っ暗になった。



                (三)


(…ここは……)
目を開けた芹の正面には、見慣れた天井があった。
 五形の屋敷の中の、自分の部屋だ。
 何を思うでもなく、ただ天井を眺める芹。
 しかし突然、
(そうだ! なずなはっ? 野尻のことも報せなきゃ! )
思い出し、半身飛び起きて、直後、
(ーっ! )
痛みに胸を押さえて身を屈めた。
 その胸には包帯。誰かが手当てしてくれたのだ。
 芹は、胸を、そっと摩った。
(藤袴に斬られた傷……。斬られた時には、全然痛くなかったのにな……)
 だが、痛いからと言って、ずっと、こうしているわけにはいかない。
 なずなが気になるし、野尻城のことも報せなければならない。
 …もっとも、野尻のことについては、報せなければならない一番の理由が城の守りであるため、それほど急ぐ必要も無いが……。
 藤袴に襲われて傷を負い、菅名荘方向から来た自軍に出会い、五形の顔を見た直後に気を失ってしまった。あれから、どのくらいの時間が経っているのか分からないが、自分は間違いなく、そこで出会った自軍の手で、ここまで運ばれて来たわけで、皆、ここに戻ってきているはずなのだから、城の守りは問題無いはずだから。


 痛みを最少限にと加減をしながら、芹は、そーっと立ち上がり、そろりそろりと前屈みで歩いて、五形がなずなの部屋にと言っていた自分の部屋の隣の部屋へ。
 入口の障子を細く開け、覗くと、なずなが横になっているのが見えた。
 女の子の部屋なので遠慮しながら入り、歩み寄って、
(…なずな……)
芹は、なずなの枕元に腰を下ろし、顔を覗きこんだ。
 頬には膏薬が貼られ、額には濡らした手拭い。苦しげな呼吸を繰り返している。
(熱があるのか……)
額の手拭いに触れてみると温かかったため、すぐの所に置いてあった桶の水で濡らし直して、額に戻した。
 何故だか、いつまでもこうしてなずなの寝顔を見ていたいような気になった。
(でも……)
野尻のことを報せるのに急ぐ必要は無いとは言え、目が覚めた以上は早めにと、立ち上がる。
 なずなのことは、顔を見れてちゃんと命があることをが分かって良かった、と、強引に、とりあえずの安心をした。
 痛む傷を庇いつつ、芹は、部屋の入口へと歩き、一度、なずなを振り返ってから部屋を出る。


 屋敷内は、シンと静まり返っていた。
 これからはなずなもいるが、五形と二人暮しでは、これが通常。
 菅名荘への道中で藤袴に襲われて倒れ、上杉軍一行の菅名荘の帰りに偶然出会い、連れ帰ってもらってから、どれくらいの時間が経ったのだろう? 外は明るい。
 まだ何刻も経っていないのだとしたら、五形も、このところ出づっぱりだったため、外で農作業や鍛錬などせずに、部屋で休んでいるかもしれないと考え、芹は、まずは五形の部屋を覗く。
 いない。
 では外かと、来たところを戻る形で勝手口を目指そうとするが、傷の痛みのせいではなく、歩くことそのものが次第に辛くなってき、嫌な汗が滲んだ。
 前傾の角度は、一歩ごとに大きくなる。片手を壁について、もたれるようにしながら進んだ。

 
 何とか勝手口を出たところで、芹は、ついに立っていられなくなり、しゃがみ込んだ。
「芹ちゃん! 」
畑の方向から、カツが駆け寄って来、腰を屈めて芹の顔を覗き込んだ。
「目が覚めたんだね、良かった! 」
涙ぐみさえし、心の底からホッとしたような表情。
 芹は、何か大袈裟だな、と思ったが、
「でも、駄目だよ。寝てなくちゃ! もう十日以上も眠ったままだったんだから、思うように歩けないだろ? 」
続けられたカツの言葉に、
(十日もっ? )
驚き、大袈裟ではなかったと納得した。
 カツは、とにかく床に、と言いながら、芹の腕を持ち上げて肩に担ごうとする。
 芹は、五形か、或いは誰か他の男性に野尻城のことを伝えなければならず、このまま床に戻るわけにはいかないと、
「カ…カツさん……」
口を開く。
 藤袴に斬られて以降初めて発した声は、酷く掠れ、小さい。
「うん。何だい? 」
誠実な態度で聞き取ろうとするカツ、野尻のことを伝えなければと言った芹に、
「大丈夫。皆が菅名荘から戻ってすぐ、わたしが伝えといたよ」
(…そうなんだ……。よかった……)
「それで出かけて、今は、もうとっくに野尻城を奪還して帰って来てる。それにしても、ほんとに忙しいねえ。戻って来たら、またすぐ出掛けての繰り返し。体がどうにかなっちまうんじゃないか心配だよ。この先、暫くは無いといいけどね……」
溜息を吐きながら言い、カツは、持ち上げた状態だった芹の腕を今度こそ肩に担ぎ、脇腹をしっかり支えて立ち上がる。
 そうして五形の屋敷内へ入り、芹の部屋方向へ歩きつつ、
「腹は空いてないかい? 食べられるようなら、わたしが何か用意するよ。五形君は、ちょっと留守にしてるから」
「…ありがとうございます……。すみません、お世話かけてしまって……」
全く思うように出ない声で言う芹。
 カツはおおらかに笑った。
「なーに言ってんだい、水臭い! この間わたしが臥せってた時には、芹ちゃんが色々と良くしてくれただろう? お互い様だよ」



                     (四) 


 なずなが目を覚まさない。熱も下がらない。
 障子越しの赤みを帯びた弱い光しか届かない、薄暗いなずなの部屋の中。芹は、なずなの枕元に座り、すぐに温まってしまう額の手拭いを濡らし直すべく、手に取る。
 そこへ、縁側のほうの障子が開き、
「芹」
逆光に照らし出された五形。
「やはりここだったか……」
「五形様……」
 芹が目を覚ました日から三日。
 芹は、なずなが目を覚まさないことや熱が下がらないことを心配し、また、藤袴から守ってやれなかったことに責任を感じて、五形や、五形の留守の時に代わりに面倒をみてくれるカツの目を盗んでは、昼夜問わずなずなの枕元に座った。
 手拭いを濡らし直すこと以外、何が出来るわけでもないが、そうせずにいられなかったのだ。
 五形は部屋に入り、静かに障子を閉めて、芹の傍らへと歩き、
「夕げの仕度が出来たから、お前の部屋へ運んで来たのだが、居らんかったのでな。……芹、きちんと休まなければ、治るものも治らぬぞ? 」
 芹は、はい、すみませんでした、と、返してから、手元にあった手拭いを桶の水に浸し、絞って、なずなの額に戻そうとした。
 その時、不意になずなが目を開けた。
(…なずな……)
 直後、
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 」
絶叫しながら、なずなは、自分の顔のすぐ近くへと伸びていた、手拭いを持った芹の手を、手の甲でバシッと払い除け、床から這い出し、逃げるように部屋の隅へ。
(……なずな……)
わけが分からず、呆気にとられる芹。立ち上がり、なずなに歩み寄りつつ、
「なずな、どうし……」
「いやっ! 」
なずなは芹の言葉を遮り、
「来ないで! 嫌っ! 」
小さく小さくなって震え、狂ったように叫ぶ。
 芹は、どうしていいか分からない。
 と、
「どうしたんだいっ? 」
声と共に廊下側の障子が開き、なずなの叫び声を聞きつけてか、カツが驚いた様子で飛び込んで来、その勢いのまま部屋を見回して、隅で小さくなっているなずなに目を留めた。
 カツは小さく一つ、息を吐き、それまでのバタバタした行動とは一転、静かに、
「五形君、芹ちゃん、ちょっと外してくれるかい? 」
 五形が、承知いたした、と返事するのを、芹は遠くに聞いていた。何だか、頭がボーッとしてしまっていた。
 開いた廊下側の障子の向こうから、五形に、
「芹」
声を掛けられ、ハッとして、その後に続いて部屋を出る。


                 * * *


(なずな、どうしちゃったんだろう……? )
自分の部屋で一人、五形の運んでくれてあった夕げを口に持っていくも、なずなのことが気になって、なかなか食が進まない芹。
(やっぱり、あれかな……? 藤袴にされたこと……って言っても、見えなかったから何されたか分かんねえけど、女の子が着物を破かれるなんて形で全裸にされて、心が傷つくには、きっと、それだけだって充分だ。そのせいで、男に近寄られるのが怖くなっちまったとか……? )
 部屋に戻って来た時には、まだほんのり温かかった夕げは、もうすっかり冷めきってしまっている。
 いつもと同じ、サラサラッとかっ込める量の雑炊なのだが……。


「芹ちゃん」
廊下側の障子の向こうからカツの声。
「あ、はい」
考え事をしてしまっていて返事が遅れた自覚があり、芹は、傷に触らない程度に急いで立って、障子を開ける。
 なずなについて何か聞けるのではと期待していた芹に向けて、カツが言ったのは、
「なずなちゃんが呼んでるよ」
期待以上の言葉。
 芹は、
「あっありがとうございますっ! 」
礼もそこそこに、部屋を飛び出した。
 踏み出した一歩目で、傷に、再び裂けてしまいそうな衝撃が走って前のめりになるも、すかさず二歩目を出して踏みとどまり、三歩目で立て直して、なずなの部屋の障子に手を掛ける。
「なずな」
声を掛けると、中から、
「どうぞ」
落ち着いた返事。
 自分も落ち着こうと、一度、深呼吸する芹。それから障子を開け、中へ入った。
 なずなは、床の上で半身起き上がっている。
 芹は、なずなの床の脇へ腰を下ろした。
 なずな、
「さっきは取り乱してしまって、ごめんなさい」
ペコリと頭を下げる。
「あ、うん。それは大丈夫。気にしてねえよ」
取り乱したこと自体は気にしていない。気にしているのは、自分がなずなを守れなかったこと。
「オレのほうこそ、守れなくてごめん……」
 なずなはキョトンとして、
「何故、芹が謝るの? 」
(……何故って……。何で、何故? )
なずなの心の中を探るべく、なずなの目の奥を見つめながら考え、芹は、非常に面白くない結論に達して目を逸らした。
「…オレに守ってもらえないのは当たり前だって思ってるのか……」
「そうね」
なずなは、あっさりと返す。
「言ったでしょ? わたしはあなたのことを、自分の身は自分で守れる、わたしが守ってあげれなくても大丈夫だと思った、って」
そして徐に芹の包帯の胸に両手を伸ばし、鷲が獲物を狩るときのように爪を立てて、ガシッと掴んだ。
(ーっ! )
芹は、あまりの痛みに声も出ない。思わず、逸らしていた目をなずなに向ける。
 なずなは、芹の胸を下方に向かって撫でるように滑らせるようにしながら、ゆっくりと手を離し、
「それ以上でも以下でもない。相手があの藤袴であっても、身を守ることに徹していれば、わたしなんかに構わずに菅名荘へ向かっていれば、きっと、こんな怪我なんてしなくて……」
途中から声を震わせ、涙ぐんで言葉を詰まらせて俯き、両手のひらで顔を覆って、
「…よかった……。芹が死んでしまわなくて……」
肩を打ち震わせる。
(…なずな……。オレのこと心配して……? 自分だって大変だったのに……? それはオレのための心配じゃなくて、五形様のためのオレの心配かも知れねえけど、それでも、何か、すげー悪いことしたみたいだな……)
静かに静かに泣くなずなを前に、芹は反省した。一度は芹を認めるような発言をしておきながら守ってもらえないことを当たり前だと思ったなずなに対して、一瞬持ってしまった卑屈な感情を。
 力量に天と地どころではない差のある藤袴相手に向かって行くなどという無茶なところが、そもそも、守ってもらえないと思わせる要因の一つだろうに、それを目の前で見せつけておいて認めろなど、虫のいい話なのだ。
 しかし、やはり認められたかった。自分を立派な半人前であると言ってくれたなずなに。
 頼られたかった。守れなかった時に責めてもらえる程度には……。
(どうすりゃ、いいんだろうな……)
芹は考える。
 もちろん、今はまだ、認められるような頼られるような力量は無い。だが、いつか認めてもらえるように、頼ってもらえるように、その日まで安心して待っていてもらえるように……。そして思いついた。
(そうだ、約束しよう! )
 芹は、なずなの両手首を掴んだ。
 なずなが反射的にビクッとしたことに気づいたが、芹は、今、絶対に伝えておきたかったため、遠慮してしまわないで、そのまま、顔を覆っている両手のひらを押し開いて、目の奥を覗き込む。
 涙に濡れたなずなの目には、少し、怯えの色があった。やはり、男に近寄られるのが怖くなってしまっているのかも知れない。確かに今、自分は強引だったし……。
 けれど、絶対に伝えたい。悪いことをしようというのではない。
 芹は、なずなの怯えの視線に負けないよう、頑張って心を強く持ち、真っ直ぐに誠実に語りかける。
「なずな。オレは死なない。あんたを助けようとして死ぬことが、あんたに対して一番やっちゃいけねえ事の一つだって知ってるから。オレは、あんたを助けるためには絶対死なない。約束するよ」
 怯えの色に驚きの色が勝ち、なずなは、食い入るように芹を見つめた。
 芹は、なずなを見つめ返す目に力を込め、続ける。
「だから安心してくれ。安心して、オレがあんたに認めてもらえるようになるのを、あんたがオレに頼れるようになる日を、待っててほしい。オレは強くなるから。努力するから」
「…芹……」
驚きの表情のまま呟いてから、なずなは目と口だけで小さく笑み、
「分かった。楽しみにしてる」
(…なずな……)
芹は何だか、なずなを愛しく感じた。


                    * * * 


 なずなの部屋から自分の部屋へ戻り、五形が気を利かせて温め直してくれた食べかけの夕げを平らげて器を置き、
(ごちそーさまでした)
芹は、丁寧に両手を合わせ、心の中で言う。
 それから再び、その空いた器を手に持ち、
(さてと……)
立ち上がろうとする。
 心配性の五形は、毎回毎回、食事を部屋へ運んでくれ、食べ終わる頃に器を片付けに来てくれるのだが、今回は五形が来る前に食べ終わったため、もう動けるのだから自分で片付けをと思ったのだ。
 瞬間、
(……っ? )
目まいを感じ、転倒防止のため、芹は、一旦もとどおりに腰を下ろす。
 そこへ、
「……」
「……」
「……」
壁の向こう、なずなの部屋から、人の話し声が聞こえた。 
 その声の中に、
「申し訳ございませんでした」
なずなの謝っている声を聞き取り、気になって、芹は、四つ這いの格好で壁に寄り、聞き耳をたてる。
「藤袴が本気で芹の命まで奪おうとしていたのでないことは、芹の傷の位置や深さを見れば明白だ。お前に苦痛を与えるために利用されたのであろう。……私が何を言いたいのか、分かるな? 」
五形の声だ。
(五形様と、なずな……? )
何やら深刻そうで、芹は、更に注意深く耳をそばだてた。
「はい」
 なずなの返事に、五形は続ける。
「とは言え、一度受け入れたものを傷ついた状態で放り出すことは、人道的に問題がある。そこで提案なのだが、私の縁者の住む安芸で暮らさぬか? 安芸までは、さすがに藤袴の手も届くまい。お前自身のためにも、静かに過ごせて良かろう」
「……そうですね。そうさせていただきます」
(…なずなが、ここを出て行かされる……? オレの怪我のせいで……? )
芹は、一言、言いに行こうと立ち上がろうとする。
 この怪我は自分のせいなのだ。止めるなずなを無視して藤袴に向かって行って、負ったのだ。
 自分のせいで、なずなが、なずな自身の慕う五形に、不当に責められているのが嫌だった。
 しかし、目まいは酷くなる一方で、立ち上がれない。
「芹は、お前が目を覚まさないでいる間、ずっとお前のことを気に掛けていた。そんな気持ちの優しい芹のこと、自分の安全のためにお前が出て行くこととなったと知れば、胸を痛め、気に病むであろう」
話す五形の声の大きさは、先程から変わらないものと思われるが、何だか耳の奥に膜でも張ったようで、急に、遠くからの声のように感じられるようになった。
「私は先程、芹の夕げを温め直す際に、眠り薬を盛った。今頃、芹は眠っている」
(…いや、眠ってねーけど……。眠り薬……? じゃあ、この目まいとか、話し声が遠くな感じって……)
「今のうちに出発するがよい。芹には、後で適当に言っておく」
(は? 今っ? なずな、熱があるのにっ? )
まるで芹の心の声に答えるように、五形の話は続く。
「目的の地までは、清白に送らせる。発熱している体への負担が少ないよう、移動は、清白が背負って行う。頻繁に休憩をはさむよう言ってあるが、その時以外でも、疲れたら、その都度言うといい」
「はい、お気遣いありがとうございます」
「うむ。仕度は……これを」
硬い紙のような布のようなものが擦れる音。
「新しい着物を買っておいた。これを羽織るだけでよかろう」
「恐れ入ります」
 暫し沈黙。
「では清白、頼んだぞ」
「承知いたしました」
(…清白さんもいたのか……って! 『頼んだぞ』『承知いたしました』? 今っ? 本当に、本当の今っ? )
芹は慌てる。
 周囲が静まり返っていなければ全く聞こえないであろうほどの微かな音をたて、障子が開いて閉まった。 
 続いて、ヒタヒタヒタと廊下を歩く、やはり微かな音が遠ざかっていく。
(あっ、行っちまうっ! )
後を追おうと大慌てで廊下方向を向いた……つもりが、芹の視線は、完全に迷子になった。

                                                                                                                                                                                                                                                    
 視界が大きく揺れっぱなしに揺れ、右も左も、上か下かさえ掴めない。
(っ? やっべーよ! )
芹は、バシバシッと自分の頬を張った。
 視界がハッキリする。
 その時の視線は、向くべき方向の思いっきり真逆を向いていた。
(…何やってんだか……)
溜息をひとつ吐いてから立ち上がる芹。
 が、そこまで。
 再び視界が大きく揺れ、急いで壁に手をついた。
 そこからは、頬を張って一時的に視界をハッキリさせてはフラつく足で行けるところまで歩を進める、を繰り返し、廊下方向の出入口の障子を目指す。


 やっとのことで廊下に出ると、そこにはもう誰も居らず、芹は、部屋を出たのと同じ方法で視界をハッキリさせては歩を進め、清白がなずなを連れて出て行ったであろう勝手口を目指した。
 そこへ、なずなと清白を見送りにでも出ていたのか、勝手口から五形が入ってきた。
 芹と目が合い、五形は一瞬、固まってから、すぐにハッとしたように、
「芹! 」
草履を脱ぐのもそこそこに、芹に駆け寄る。
「芹、眠っていなかったのか。薬の効きが甘かったようだな。しかし、それでもそのような状態で立ち上がっているのは危険だ。転倒して怪我をするやも知れぬ。部屋に戻れ」
 芹の目に、もちろん五形は映っている。自分に向かって頻りに何かを喋っている姿が。
 だが、喋っている内容などは全く入ってこなかった。これも薬のせいか、頭が朦朧としてきていた。
 そんな頭では、もうただなずなを追うことしか考えられなくなっており、ただひたすらに、変わらぬ方法で前へ進む。
 変わらぬ方法は、回数を追うごとに一回に進める距離が短くなり、今回など、たったの二歩。
 五形が目の前に来てから二度目に頬を張ろうとしたところで、
「芹! 」
五形に手を掴まれ、止められた。
「己で己を傷つけ、何をしておる? 」
「…らじゅら、が……」
なずなが、と言ったつもりだった。呂律の回らなさ加減に自分で驚いたが、一瞬で、どうでもよくなった。
 呂律が回っていないことなど、気にしている場合ではない。自分が今何をしようとしているかなど、五形に伝える必要も無い。
(早く追いつかなきゃ、行っちまう! )
掴まれた手を体重で押し切ろうと、芹は、前のめりになって進もうとするも、倒れそうになったとでも勘違いされたか、今度は、肩を支えるように更にガッチリと掴まれてしまった。
 五形は、姿勢を低くして芹の顔を覗きこみ、
「…なずなか……。芹、お前の望みを叶えてやりたくて、なずなをここへ連れてきたが、やはりダメだ。お前が危険な目に遭ってしまう。……計算外だった。藤袴が執念深くなずなを追って来るとは思っていなかった。一度逃げられたら諦めると考えていたのだ。なずなのためにも、藤袴の手の届かぬ安芸へと行ってもらった」
 芹にはやはり、頻りに口を動かす五形の話の内容が、全く分からない。ただ、前に進むのを邪魔されている感覚しかなかった。
(約束したんだ! 強くなるって、そのために努力するって! なずなも、楽しみにしてるって言ってくれたのに! )
ガッチリ押さえられてしまいながらも、前に進もうとする芹。
「芹! いい加減にしないか! お前のためだというのが分からぬか! 」
 五形の声は聞こえる。やはり何を言っているかは分からないが……。ただ、涙が出てきた。思うように動かない体がもどかしくて……。それから、自分の力の無さにも……。
「芹……」
五形は肩を掴んでいた手をはずし、今度は、胸に引き寄せて、フワッと包み込んだ。
「分かった。今すぐ、なずなを連れ戻してこよう。お前は、部屋で休みながら待っていなさい」


                  * * *


 話し声で、芹は目を開けた。
(…オレ、寝てたのか……? )
 辺りは、もう明るい。
 朝だ。
 部屋で休んで待つよう五形から言われ、床に入ったものの、動かない体や朦朧とした頭とはうらはらに、体の奥の奥のほうは興奮状態であったため、眠れそうにないと思っていたが、いつの間にか眠っていたらしい。
 話し声の主は、五形と……
(なずな……っ! )
 芹は跳ね起き、傷の痛みに一旦蹲ってから、それを堪え、廊下へ飛び出した。
 もう、視界はハッキリしている。足もフラつかない。頭も朦朧としていない。眠り薬の効き目は、すっかりきれたようだ。
「芹! 」
芹がその姿を見つける前に、芹を見つけたなずなの声が掛かる。
 なずなは土間に立ち、真っ直ぐに芹を見つめて目と口だけで小さく笑んでいた。
「待たせたな」
なずなの斜め後ろで五形が言う。
「…なずなっ……! 」
芹は、なずなに駆け寄る。
 走るなどすれば痛むはずの傷のことなど、すっかり忘れて……。
 実際、まったく痛まなかった。
 薬の効き目は、実はまだ続いているのかも知れない。頭のほうには確実に……何故なら、駆け寄ると同時、心のままに、なずなを抱きしめるなどしてしまったから。
 なずなが嫌がるかもなどという思考は、全く働かなかった。
 抱きしめて、なずなの髪を一呼吸してしまってから、芹は、ハッと我に返る。
 丁度のタイミングで、
「芹」
なずなに名を呼ばれ、ビクッ。
 しかし、なずなは嫌がるどころか、自分から芹の首筋に頬を寄せ、
「ただいま」
 なずな越しに、芹は五形と目が合った。
 五形は満足げに笑み、納得したように無言で頷いて、草履を脱ぎ、芹となずなの脇を通過して、屋敷の奥へ入って行った。



                     (五)


 ほぼ真上にある太陽の強い陽射しを燦々と浴びながら、冬瓜を育てている畑の畝と畝の間にしゃがみ、芹は、除草作業をしている。
 そこへ、
「芹」
なずなの声が掛かった。
「朝げの後片付けと洗濯と掃除が終わったから、わたしも畑仕事するわ。何をすればいい? 」
 なずなが目を覚ました日から一月ほど。芹もなずなも、すっかり回復していた。
 先に回復したなずなが、怪我をする前には芹が担当していた食事の後片付け・洗濯・掃除を引き継ぎ、芹の回復後も、何となく、それらはなずなの仕事のまま。芹のほうは、朝げを済ませるとすぐに畑に出るのが、新しい日課となっていた。
「ああ、じゃあ、今日やる作業はもう終わってるから、オレも今、やってるとこだけど、草取り、一緒にやってくれる? 」
「わかったわ」
頷き、芹と同じように畝と畝の間に入って、芹のすぐ隣にしゃがむなずな。
 と、その時、向かいの屋敷のほうから、
「あ、芹だー」
芹にとってはお馴染みの、第一声からして芹をからかう気満々の、複数の男の子の声。
 相手を確認するまでも無いが、一応、声のほう、向かいの屋敷の前を見、芹は溜息をつく。九歳を筆頭に七歳、六歳の、向かいの屋敷に住む三馬鹿兄弟。
 兄弟は、直線ならば七丈ほどの距離を、自分たちの家の畑と、芹たちの作業している五形の畑を迂回して、芹の傍まで来、
「芹ー、怪我したんだってなー」
「戦に行ったわけでもないのにさー」
「芹って本当は女なんじゃねーの? 」
「おんな男ー」
「使えねー」
囃し立てる。
 この兄弟は、いつもそうだ。芹を見かけると必ずちょっかいを出してくる。
 子供のやることに目くじらなど立てるほうがみっともないし、この後、彼らは、からかっているようで結局は芹の思い通りに動かされることになるので、芹には悔しさのかけらも無い。
 ただ、今日に限っては、なずなの前であることが、なずなに見られていることが、「戦に行ったわけでもない」のあたり、内容が内容だけに、なずなが重く捉えすぎそうで、嫌だった。
 そのため、いつもならば、もう少し長い時間、言いたい放題言わせておくのだが、今日は早々に追い払おうと、
「お前ら! いい加減にしないと泣かすぞコラッ! 」
凄む。
 兄弟は、わざとらしくキャーと声を上げ、自分たちの屋敷の前まで退いて、そこからまた、今度は芹を指さしヒソヒソニヤニヤやる。
 ……全てが、いつも通り。兄弟が近くまで来て、芹をからかい、芹がそれを大声で追い払って、キャーとわざとらしく逃げた兄弟は、遠巻きにヒソヒソ。そして芹が相手をしないでいると、そのうち厭きて、どこかへ行ってしまうのだ。
 芹は、よしよし、と、作業に戻ろうとした。
 が、突然、
「一度くらい本当に泣かせてやればいいのよ」
隣でなずなが溜息まじりに言い、静かに立ち上がった。
(なずなっ? )
驚く芹。
 なずなは作物を踏まないよう避けつつ、五形の畑も向かいの畑も突っ切って、兄弟のほうへ最短距離を移動。
「な、なずなっ……! 」
なずなが何をするつもりか察し、まずいと思った芹が、その背中に声を掛けるも、なずなは止まらず、兄弟の目の前まで行って、やっと止まった。
 芹は、なずなを止めようとなずなのもとへ向かうが間に合わず、なずなは兄弟の上の二人の頬をバチン! バチン! と一発ずつ殴った。
 よろけて地面に倒れる兄二人。
 末の弟を殴ろうとしていたところに芹が間に合い、
「なずな、よせ! 」
手首を掴んで止める。
 が、空いているほうの手で、弟をパチンッ! 
 「なずなっ! 」
芹は、慌ててその手も掴む。
 怯えた目でなずなを見上げる兄弟。
 なずな、
「あんたたち! 相手が芹だったら、こんなもんじゃ済まな……」
「なずなっ! 」
芹は兄弟に凄んだ時よりも更に大きな声でなずなの言葉を遮り、その目の奥を覗く。
「…もう、いいから……。オレのために怒ってくれて、ありがとな」
「…芹……」
 兄弟は泣き出し、
「お、憶えてろよ! 暴力女ーっ! 」
「お前なんて、嫁の貰い手、無いんだからなーっ! 」
 その売り言葉に対し、なずな、
「芹が貰ってくれるわよっ! 」
(……え? )
ドキッとする芹。
(ふ、深い意味は無いんだよな……? き、期待しないでおこう……)
そこまで心の中で呟いてから、ハッとし、
(き、期待って何だっ? オレっ! )
なずなに気付かれないよう、そっと深呼吸までして、心を落ち着かせる。
 と、なずなの買い言葉に対し、兄弟、
「馬ー鹿っ! お前みたいな暴力女、芹みたいなヘタレが相手にするかよっ! 芹にはなー、おしとやかで優しい美人がお似合いなんだよっ! 」
(……は? 何? お前ら、もしかしてオレのこと好きなの……? )
呆気にとられる芹。
 兄弟は、言うだけ言って、泣きながら自分たちの屋敷へ走り、中に入って行った。
 芹は、何だかドッと疲れ、溜息。何だか、複雑な気持ちにもなっていた。
 自分を馬鹿にされたことを本気で怒ってくれて嬉しいのと、代わりに怒ってもらうのって自分じゃ何も出来ないみたいで惨めだな、と思う気持ち。
(…まあ別に、オレは自分で怒れなかったわけじゃねーけど……)


                  * * *


 芹の周囲には他にない、清白の、個性的だが洗練されたサラサラの短髪が、清白が突然身を屈めたことでフワッと宙を舞った。
 瞬間、芹は、芹とお揃いの黒の忍装束を纏った、その彼の姿を、丸ごと見失う。
 直後、
(! )
再び目の前に現れた清白。その手に握られた忍刀の鋭く光る切っ先は、芹の喉元に突きつけられている。
 清白は、短髪以外のもう一つの特徴である知的な瞳で、真っ直ぐに芹を見据え、
「芹。実戦だったら、お前は今、一度、死んでたな」
言ってから、フッと目の力を抜き、小さく息を吐きつつ刀を下ろした。
「少し休もうか」
「はいっ」


 今日の午後に五形が任務で出掛けることを数日前に知り、芹は、前もって清白に修行を願い出て、春日山内・南三の丸からすぐの、対馬谷で待ち合わせた。
 芹が度々、清白に修行をしてもらっていることは、芹を戦場へ行かせることを望まない五形には内緒だ。
 もちろん、全く気付かないはずはなく、黙認されているのだということは、芹も清白も分かっているが……。
 頭上を木々の葉で覆われる谷間は、その外の、生命の喜びを押し付けがましく燦々燦々燦々と振りまく陽射しの下とは、まるで別世界だ。
 清白はフウッと大きく息を吐きながら、苔むした大きな石の上に腰を下ろした。
 芹は、そのすぐ横の崖肌から滲み出し流れる清水を手に汲み口にする。
 冷たくて美味しい。火照った体の隅々まで行きわたり、冷やし癒してくれる感じがする。
 喉を潤した芹は、清白の隣に腰を下ろした。
 頭上を仰ぐと、木々の葉の隙間から漏れた陽光がキラキラと美しい。
「芹は足が速いから、それを活かした戦いが出来ればな……」
自分の顎をつまみ、考え深げに言う清白。
「えっ? オレ、速いですかっ? 」
「ああ」
「でも、さっきも簡単に清白さんに追いつかれちゃったし」
「ん、それは一言で言えば、経験、だな」
「経験? 」
 清白は頷く。
「障害物の無い直線を走るだけなら、お前は俺の知ってる誰よりも速い。ただ、今のように木々の間を走るとなると、木に阻まれて真っ直ぐは走れない。足下にも、木の根が出ていて躓いたり、落ち葉が積もっていて足を取られたり、雨や雪の後などは土がぬかるんでいて滑ったりと危険がある。それらを、走りながら一瞬で見極めて自分の通り道を決めなければならない。追われている時などは、背後も気にしながら、だ。これが出来るようになるには、訓練を積み重ねるしかない」


 清白の修行は、いつも実戦的なものが中心。
 今日のは、谷の端からスタートし、反対側の端まで、追ってくる清白から逃げきるというもので、そればかりをひたすら繰り返している。
「ほら、芹! また追いつくぞ! 」
谷間の木々の間を駆ける芹の背後から、清白の声が掛かる。
 芹がチラリと後ろを確認すると、抜刀した清白が、もう三尺ほどの距離まで迫っていた。
 もう一歩踏み込みつつ、清白は、刀を頭上に振りかざす。
 芹は足を止め、振り返りつつ刀を抜く。
 清白の刀が振り下ろされた。
 ガキンッ! 
 芹は、額の前で刀を使い受け止める。
 直後、
「っ! 」
芹の腹に、清白の膝がめり込んだ。
 咳き込みながら崩れ、地に膝をつく芹。
 頭上から、清白の声が降ってくる。
「芹。お前は今、俺の刀を受け止めた時点で安心してしまっただろう? それでは駄目なんだ。今のようなことになる。今の場合、お前は俺の顔・喉元・胸・腹・股間、どこでも蹴ることが出来たはずだ。俺に蹴られる前に蹴っていれば、逃げられた」
 芹は、鈍く痛む腹を押さえ、呼吸を整えながら、膝をついたままで清白の話を聞く。
「お前は実際の戦闘に参加したことが無く、想像だけで、刃を交える戦闘に憧れがあるようだから、刀と刀でぶつかり合っておいて殴る蹴るが入るなんて絵的にありえないと考えそうだが、侍同士で戦ったって、実際には殴る蹴るが交ざるのが当たり前だ。だから、忍同士なら、それ以上に何でもありだと思ったほうがいい。俺たち忍が戦うのは、何か特殊な任務でない限り、自分自身が生き延びるためだということを忘れないでくれ。敵のもとへ出掛けて手に入れた物や情報を、無事に主や仲間に渡すまで生き延びる。そのために、追っ手から逃げるために、仕方なく必要最少限だけ戦い、基本姿勢は逃げる。格好いいものではないかも知れないが、それが忍だ。芹は、五形様に認められたいんだろ? 自分の仕事が、自分の立ち位置が、どのようなものなのか理解することが、一人前と認められる第一歩だからな」
「はい」
……と返事しながら、芹は、
(五形様に認められたい、か……)
それだけじゃないんだけど、と、心の中で呟く。
 と、それを見抜いたか、清白、
「女に認められるためにも、同じだぞ? 」
ニッと笑って見せる。
「きちんと己を知っている男のほうが、カッコイイからな」
(えっ、そ、そんな、女、なんて……! )
女の……なずなのことなど考えていることを見抜かれ、恥ずかしさで軽くパニックに陥る芹。
 清白、そんな芹の反応を暫し楽しむように眺めてから、
「さて、腹の痛みも呼吸も、もういいかな? 」
 恥ずかしさから解放される良い機に、
「はっはいっ! 大丈夫ですっ! 」
芹は飛びつき、立ち上がる。
 清白は、それを、解放される機に飛びついたことまでをも確認したように、ちょっと笑いながら頷き、
「よし、じゃあ、もう一度だ」
「はいっ! 」


                   * * *


「なずな! 危ないっ! 」
夕げの仕度の最中、芹は、慌ててなずなの右手に飛びつき、包丁を持つその手を、軽く上に持ち上げた。
 なずなが切ろうとしていた丸ごとの状態の冬瓜が僅かに転がり、初めに動かないよう押さえていた場所から少しだけ、本当に少しだけズレたことで、押さえていた左手の人指し指・中指・薬指・小指を、第一関節からスッパリと切り落としそうになったのだ。
 芹は溜息。
(…まったく……。冬瓜のどこがそんなに憎いんだ……? )
 普通なら、切ろうとしている野菜の位置が少しズレたくらいで、そのようなことにはならないのだろうが、なずなの場合は、なる。
 菜っ葉の類は、ちゃんと普通に上手に切るのだが、何故か、ある一定以上の大きさと硬さの野菜になると、まるでその野菜に対して恨みでもあるように、一旦、包丁を頭上まで持っていき、勢いよく振り下ろして、ぶった斬るのだ。
 しかも、自分のしていることが危険などという自覚は全く無し。
「びっくりしたー。何なの? 急に……」
芹の声と、手を掴まれたことに逆に驚いたようで、責めるように芹を見る。
 芹、全然悪いことなどしていないのに、なずなの強い調子に負け、言い訳っぽく、
「何って、今、なずな、自分の手を切りそうになってたから」
「え? あ、そうだったの? ごめんなさい」
 芹は、なずなが分かってくれたことにホッとし、ホッとしてしまってから、
(何なんだ? オレ……)
自分が、他の人に対する時に比べ、なずな相手には、表面的には大して変わらないかも知れないが、内面的には確実に弱腰であると気付いた。
 しかし、
(ま、いっか……)
そんな自分が別に嫌ではないため、よしとする。
「なずな。冬瓜はオレが切るからさ、なずなは、その間に、鍋に茶碗摩り切り二杯の米を入れて、あと、鍋の半分くらいまで水を入れといて」


 米と冬瓜と水が入って重たくなって鉄鍋を、芹が両手で持ち、なずなはその足下を気遣って、一緒に移動し、囲炉裏へ運ぶ。
「ねえ、芹」
「ん? 」
「冬瓜って、夏に収穫するのに、どうして『冬』瓜なのかしらね」
「ああ、それ。播種する時にオレも同じこと思って、五形様に聞いてみたら、冬瓜は保存がきくから、冬までとっておいて、冬にも食べられるから、って理由らしいよ」
「…へえ……」
(……あれ? あんまり納得してない? )
「…何か……。冬まで保存出来て食べられるって言ったって、夏に採れた瓜は夏に採れた瓜でしょう? 素直に『夏』瓜でいいと思うんだけど……。それか、『冬』よりはまだ、『日持ち』瓜とか『保存』瓜とかのほうが、しっくりくる気がするわ……」
(いやー、そんなことオレに言われてもなあ……)
オレが名前を考えたわけじゃないし、オレだって五形様から教えてもらっただけだし……などと心の中で呟きながら、芹は囲炉裏に火を入れた。
 その時、充分な広さに開け放ったままだった勝手口に、わざとなのだろうか? バンッとぶつかりながら、神経質そうな、ひょろっと痩せ型の二十代後半の女性が、足音も鼻息も荒く入ってきた。
 向かいの屋敷の奥方だ。
 奥方は一度、なずなのほうへ、キッと鋭い視線を向けてから、芹に、
「ちょっと! お父さんを呼んで来なさいっ! 」
(お父さん……? 五形様のことか……)
「帰って来たのを見たわ! いるんでしょっ? 」
 なずなに無言で、誰? この人、と聞かれ、芹、
「向かいの屋敷の奥方。……昼間、なずながびんたした子供らの母親だよ」
小声で答える。
「何をコソコソ言ってるのっ! 早くしなさいっ! 」
酷く興奮した様子で叫ぶ奥方。
 そこへ、
「どうしたのだ、芹」
屋敷の奥、五形の部屋の方向から、五形の声。
 見れば、五形が廊下を芹たちのほうへ、ゆっくりと歩いて来ている。
 そうして、いざ五形が芹たちの前に到着し、再度の、どうしたのか、との問いに答えたのは、芹でもなずなでもなく、
「どうもこうも無いわよっ! 」
奥方だった。
「あんたんとこの新しく来た娘が、うちの息子たちに手を上げたの! そのせいで、可哀相に息子たちの顔は腫れてしまったのよ! どうしてくれるのっ? 」
 それに対し、五形は、
「はあ……」
と、中途半端な返事をしてから、低く静かに、
「なずな」
 なずなは、低い声で名を呼ばれ、軽くビクッ。そして、低いまま続けられた、本当か? との問いに、おずおずと、
「芹を侮辱されて……。悔しくて……」
「……そうか」
と頷くと同時、五形の手が、スッとなずなに向けて伸びた。
 殴られると思ったのか、今度は、はっきりと、ビクッと身を縮めるなずな。
 しかし、五形の手は、労をねぎらうように、ポンッと肩に載った。
「よくやった」
 褒められたのが思いがけないことだったらしく、
「…五形様……」
なずなは驚いた様子。
 五形は、なずなの肩を再度ポンッとやり、
「褒美をやろう。何が良いか、明朝までに考えておきなさい」
 奥方は、怒りに小刻みに震えながら、
「は、話になんないわ……! 」
踵を返し、出て行った。



                      (六)


「ありがとうございましたっ! 」
今日の修行を終え、西に傾き始めたばかりの太陽光を浴びながら去って行く清白の背中に、芹は頭を下げた。 
 そこへ、
「芹! 」
後ろから、なずなの声が掛かる。
 振り返ると、南三の丸方向から、大きめのザルを抱えたなずなが、弾むような小走りでやって来るところだった。
「修行終わった? 」
「ああ、うん」
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらえる? クコの葉がどれだか分からなくて……」
「クコ? 」
「ええ。わたし、今日は五形様から言われて、五形様が朝お出掛けになってからずっと、お花畑の仕事をしていて、他の作業は全部終わったんだけど、クコの葉の採取だけがまだなの。何か、完全な葉だけを全部採るとか」 
「ああ、虫に食われちまうからな。クコはさ、五形様が御実城様のために育ててる大切な木なんだ。葉を日干しにして煎じて飲んでもらうんだって。お酒が好きな御実城様の、五臓六腑のうち、心の臓が血を体中に送り出す時の強さに関係する薬になるらしいよ」
 なずなは、へえ……と感心した様子。いつか冬瓜の説明をした時には、納得いかず気に入らないようだったが、今回の説明は気にいったらしい。
「芹って、物知りなのね」
全く嫌味な感じなどではなく、素直な尊敬の眼差しを向けられ、芹は、何だかとても照れ臭くなって、
「ご、五形様の受け売りだよ」
頭を掻きながら、なずなから目を逸らし、
「じゃ、じゃあ、お花畑に行くか」
なずなの先に立って、お花畑のほうへと歩き出す。


 芹は、なずなと共に山を登り、お花畑へ。
 お花畑とは、春日山の上のほうにある薬草園で、薬草の他に、各堂に献ずる花なども植えられている。
 お花畑に入り、クコの木のある奥のほうへと進みながら、芹、
「このお花畑はさ、五形様がほとんど一人で管理してるんだ。五形様って、戦っても、もちろん強いらしいけど」
「らしい? 」
「うん。オレ、実は、五形様が戦ってるとこって、見たこと無いんだ。でも、藤袴に関する噂で、藤袴は『軒猿の頭領たる五形と互角に渡り合える唯一の存在』、って、それがいかにも凄いことのように言われてて、で、藤袴って強いじゃん? だから、五形様は藤袴と同等か、噂の言い回しからして、それ以上に強いんだろうって思うんだけど、オレは、五形様って、本当は、薬草を育てたり、それを利用して何かをしたりしてるほうが好きで得意なんじゃないかって感じるんだ。知識が豊富だし、何より表情がさ、戦いに赴く時より、ここで薬草をいじってる時のほうが、穏やかで幸せそうでさ」
芹は思い浮かべる。戦やそれ関連の任務の無い平時に、芹を連れてこのお花畑に来た時、植物に語りかけるようにしながら世話をする五形の姿を。
「まあ、誰でも多分そうよね。戦は嫌だわ。傷つけられるのも傷つけるのも、したくない」
 芹にとって、そのなずなの発言は、
(忍って言っても、やっぱ、女の子なんだな……)
少し意外で、しかし、納得いくものだった。
 男は戦うのが好きな奴と嫌いな奴に分かれるが、聞いていると、女は大体嫌いだ。平穏を好む。
 今のなずなの発言も、よく、カツや他の奥方達が、自分の夫や息子を心配して言っていることと共通する。
 芹自身は、戦うのが好きか嫌いかと問われたら正直悩むが、今は、戦に行きたい。 三月ほど前、蘆名軍に攻め込まれた菅名荘の様子を見に行く五形を大人しく見送って以来、芹は、五形が出掛けるのに、連れて行ってくれとせがんだことは無い。
 しかしその後、また、だいぶ修行を積んだ。己の未熟さを自覚し、試してみたい自分の力など無いと思ったものが、またそろそろ試してみたい気持ちになってきていた。試すには、戦場は絶好の場に思えるのだ。
 芹は、自分の胸くらいまでの高さのクコの木の群落の前で足を止め、
「ほら、これがクコだよ」
完全な葉を摘んでは、なずなの持つザルの中に入れていく。
 なずなの安芸行きが無くなった際、芹となずなの二人で春日山の外へ出ないことを、二人とも、五形に約束させられていた。
 一緒に外に出ると、また藤袴に襲われて芹が怪我をしかねないから、と。
 結果、その日から一回も春日山の外へ出ていない芹となずなだが、修行に、薬草の世話や屋敷の前の畑などの農作業、毎日の家事と忙しく、また、一口に春日山と言っても広く、大勢の上杉の家臣とその家族が生活しているため、特に隔離されているふうでもなく、ごく普通に毎日を送っていた。
 芹となずなが二人で行動を共にすることは多く、いつしか、芹は何となく、なずなが傍にいることを自然なことのように感じるようになっていた。
 クコの葉をザルで受けながら、なずな、
「芹」
「ん? 」
「この花は何ていうの? 」
クコの木と通路を挟んで向かい側に植えられている、先の尖った白い五枚の花弁に縦に紫色の線の入った花を、ザルを片手に持ち替えて片方の手を空け、指さす。
「ああ、センブリだよ」
「センブリ? 」
「うん。ノミやシラミ用の殺虫剤になるんだ」
「殺虫剤っ? 」
なずなは驚いた様子。
「あとは、そのうち苦味健胃薬としても認められるんじゃないかって、五形様は言ってたけど。何か、苦味が舌を刺激することで食欲増進の効果を期待できる、みたいな」
「口に入れたの? 殺虫剤を? 」
唖然とするなずな。
 芹も思わず苦笑。
「勇気あるよな、五形様」
「勇気って言うか……。でも、なんか意外。殺虫剤になる植物なのに、こんなに可愛い花を咲かせるなんて……」
そう言ったなずなの表情は、柔らかで、とてもキラキラしていて、
(……可愛い花? )
芹は、
(なずなのほうが、もっと可愛いよ)
そんなことを、心の中で口走ってしまい、
(な、何言ってんだ! オレッ! 恥ずかしいっ! )
実際に口に出てなどいないのに、大慌てで口を押さえる。顔が熱い。
 なずなは不思議そうに芹を見た。
 芹は、自分の顔が赤くなってしまっているのを感じ、どうしよう、と困って、それを散らすべく、
「さ、探してみれば? ここには百種類以上の植物があるからさ。ほ、他にも、例えば、ヤマブドウなんか、今年はちょっと早くて、もう実になってて、それが黒みの強いエビ色をしてて綺麗でお薦めだけど、オレとなずなは当然感性が違うから、自分で探してみるといいよ。気に入る花が見つかるかも」
口を開くが、妙にペラペラと薄っぺらいと、自分で感じた。
「…花を、さがす……? 」
なずなは何かを思い出すような遠い目をし、口元を押さえ、呟いた。
 芹の口は、
「って言うか、あれだけ色づけば生食できるから、ヤマブドウ、ちょっと摘んで帰って食べる? 」
薄っぺらく動き続ける。
 何だか、喋れば喋るほど、言葉が表面を滑るように、なずなどころか自分の中にさえ届いてない感じになってきて、芹はいたたまれず、ついに、
「オレ、摘んで来るよっ! 」
なずなの前からの逃亡をはかった。
 ヤマブドウの生えている方向へ駆け出した芹の背中を、
「芹! 」
なずなは呼び止める。
 振り返った芹の視線の先で、なずなは遠い目のまま、
「…わたし、見つけたのかも知れない……」
「……? お気に入りの花? 」
 なずなは頷き、芹を見る。その目は気のせいか、熱を帯びているように見えた。
「わたしが最初に自殺未遂をした時に、巫女頭領である千代女様が言った言葉を思い出したの……。…花を、さがせ、って……」
 なずなは説明した。最初の自殺未遂は、道場で生活するようになって半月ほど経った頃。生きていることへの申し訳なさと、そんな気力の無い中での厳しい修行が単純に辛くて、もう終わりにしたいと思い、人目につかない道場の裏手へ行って舌を噛み切った。しかし程なく発見されて事なきを得、罰を与えられた後で、千代女に呼ばれて訪ねた千代女の部屋で言われたのが、その言葉。
「花をさがしなさい。過去に失ってしまった家族という幸せの花の面影が、あなたを苦しめてしまうだけならば、当の花たるご家族たちも、いつまでもあなたに大切に抱えられていることを望みはしないでしょう。失ってしまった花に代わる新しい花をさがしなさい」
当時十歳のなずなには、全く意味が分からなかったが、今なら分かる、と。
(…なんだ。なずなって、道場にいた頃から、全然ひとりぼっちなんかじゃなかったんじゃん……)
なずなの話を聞いていて、芹は、そう思った。千代女の言葉に、確かな愛情を感じたからだ。
(……それに藤袴にしたって、結局のところ、なずなが大切だから、いつもとどめを刺すのを躊躇って、刺せないまま帰って行ったわけで……って言うか、藤袴は自分の口で言ってたよな? 父か兄のような気持ちになっていた、って)
「千代女様っていう人、いいこと言うよな」
「ええ」
「なずな、道場にいた頃から、全然ひとりぼっちなんかじゃなかったんじゃん」
「ええ、そうね。今にして思えば、だけど……。わたし、本当につい最近なのよ。そう思えるようになったのは。わたしは自分のことを可哀相だと思い込み過ぎて、きっと、その感情に囚われていたの」
そこで一旦、言葉を切り、なずなは、芹の目の奥の奥を見つめる。
「芹が、気づかせてくれたのよ」
(オ、オレッ? )
先程感じたなずなの視線の熱っぽさが気のせいでなかったかも知れないと感じ、芹はドキッとする。
「道場にいる間は、千代女様のことを恨んでさえいたわ。村を出て倒れていたところを拾ってくれたことについて、放っておいてくれればよかったのに、なんて」
なずなは、一瞬たりとも芹から視線を外そうとしない。
(…なずな……)
その視線と芹の目の間には引力でも働いているのか、芹もなずなから目を離せなくなった。
「拾ってもらえて良かった……。芹、あなたに会えたから。幸せの花の話を聞かせてもらえていて良かった……。芹、あなたがわたしの大切な人だって、自覚しやすかったから」
(……っ?  …オレが、なずなの大切な……? )
「千代女様が幸せの花の話をされた当時、わたしは全く意味がわからなかったけれど、きっと、ずっと、心のどこかでさがしてたのよ。幸せの花を……。芹、あなたを……」
(なずなが、オレを……? )
芹は途惑った。
(なずなは五形様を好きなはずじゃあ……? )
そう思い、言うと、なずなは軽く目を伏せて、
「芹、女はね、現実的なのよ」
小さく笑った。
「確かにわたしは、五形様を初めて見た時に一目惚れして、わたしと芹を藤袴の前から攫っていく時や、その後の、この春日山への移動中の身のこなしなんかを見て、憧れもした。でも、五形様にとってわたしの存在は、完全に芹ありきで、それは仕方のないことだけど、頭にくるくらい当たり前にわたしを巻き込むじゃない?  芹が望んだからと、わたしをここへ連れて来て、でも、芹がわたしのせいで怪我をすれば、熱のある体で遠い安芸へ追いやろうとし、そうかと思えば、安芸への道中、まだ越後から出てもいないうちに、芹が悲しむからやはり戻れと呼びに来たりして、わたしのこと眼中に無いにも程があるわよ。女としてどころか、人としてさえ見ていないじゃない。そんな相手のことを女は……少なくてもわたしは、そういつまでも恋愛感情でなんて見ないわよ。他に身近に、自分に対して大切に思いやりを持って接してくれる人がいて、しかもその人が尊敬できるような人物であれば、あっと言う間にそっちに傾くわよ」
そして伏せていた視線を再び芹に向け、
「芹、あなたのことよ」
(…なずな……。オレは、なずなのこと……? )
芹は、自分の心に向き合った。
 自分は、なずなのことをどう思っているのか? ……そんなの決まっている。好きだ。恋愛感情で見ている。
 ただ、こんなふうに真っ直ぐに求めてこられると怖くなる。
 なずなは自分を尊敬出来るような人物と言ってくれた。買い被り過ぎだと思う。自分は、なずなの求めに応えられるのか。なずなの気持ちを受け入れて、これまでより更に懇意にするようになったら、なずなをガッカリさせることになるのではないかと。
 しかし、なずなが自分のどこを見て尊敬出来るなどと言ってくれているのか分からない以上、自分では気づかない何かがあるのかも、とも思う。
 もしかしたら、今までどおりにしていれば平気なのかもしれない。
 今までどおり、なずなを大切にして、今でもそうしているように、なずなとの約束を果たすべく修行に励んでいればいいのかもしれない。
 なずなを好きな気持ちは本当だ。なずなを大切にすることにかけてなら、誰にも負けない自信がある。
 芹は覚悟を決め、
「なずな、オレも」
 と、その時、
(? )
芹は不穏な気配を感じ、気配の方向を見た。
 そこには、宙を、なずな目掛けて飛んで来ている、計八本もの苦無。心臓が、痛いくらいにドクンと鳴る。
 芹は咄嗟に、
(危ないっ! )
地面を蹴り、なずなに飛びついて、その頭を庇いつつ、なずなもろとも地面に伏せた。
 直後、カカカカカカカカッ! 苦無の飛んできた方向から見てなずなの向こうに位置するクコの群落の細い幹や枝に、苦無が八本全て、上手いこと突き刺さった。
 芹は冷や汗。
(あ…危なかった……)
 しかし、そんなホッとしている場合ではなく、芹はすぐさま、なずなを背に庇う格好で苦無の飛んで来た方向を正面、しゃがんだ体勢に起き上がる。
(誰だ! どこにいるっ! )
 だが、木の陰、茂みの中、と目を凝らし捜すも、誰の姿も無い。
 そこへ、
「ざーんねん。こっちだよ」
斜め後方至近距離から、聞き覚えのある軽い声が軽い口調で言う。
(っ! )
驚き、ゾクッとする芹。
 声のした方を見ると、
(藤袴っ! )
 藤袴が、しゃがんだ姿勢で、藤袴に起こされたのか自ら起き上がったのか地面にペタンと座った状態になっているなずなの顔を、額と額が触れてしまうほど異常な近さで正面から覗き込んでいた。
 なずなは目を見開き、一点を見つめ、固まりきってしまっている。
 芹の知っている過去二回の藤袴に襲われた時には、このようなことはなかった。十日以上も熱にうかされ目を覚まさなかったくらいだ、菅名荘へ向かう途中で藤袴に襲われた時のことによる反応に違いない。
 先程の会話の中で藤袴の名前が出ただけでは、何ともなかったのだが……。
(なずな……! )
芹は、清白との修行で使用したためにたまたま装備していた忍刀を抜き、藤袴に向けつつ、なずなを押しやるようにして、なずなと藤袴の間に割り込んだ。
 芹だって、もちろん怖い。以前の菅名荘への道中の時に、力の差は十二分に見せつけられている。
 それでも、気持ちだけでは負けないように、腹にグッと力を入れ、
「どうしてここに? 」
「どうして、って」
藤袴は、わざとらしくキョトンとして見せ、
「なずながいるからに決まってるだろ」
それから皮肉げに笑った。
「何? 春日山の中なら、絶対安全だとでも思ってた? 相変わらず甘いねえ。もっと、人けの多いところだったらともかく、こんな他に誰もいないような所にいるのを見かけたら、そりゃ襲うでしょ。俺、今日は別件で来ててさ、今はその帰りだったんだけど、丁度いいから、こっちの用事も片付けちまおうと思って」
 人を小馬鹿にしたような藤袴の喋りは、余裕の表れ。
 芹のほうには、ムカつく余裕すら無い。
 だが頭は何故か冷静に、藤袴の言葉の一部分に引っかかりを感じ、
「べ、別件って? 」
聞く。
 藤袴、わざとらしく驚いた様子で、
「は? それ聞かれて答えると思うの? お前なら答えちゃうわけ? 」
そして、どうせ無理だろうといった感じで、クックと声に出して笑いながら、
「聞きたきゃ、お前、俺を捕まえて拷問でもしてみれば? 」
そこまで言ったところで、藤袴は突然笑みを消し、
「ん……? 」
お花畑の入口方向へ顔を向けた。
(刀を向けられてんのに、よそ見かよ! どんだけ人を馬鹿にすりゃ気が済むんだ! )
悔しいが、やはりそれは余裕。
 藤袴は入口方向を向いたまま、
「……厄介な奴が帰って来たみたいだ」
独り言のように呟いてから、とても申し訳なさそうに芹を見、
「悪いな。本来の任務は済んだし、面倒くせえことになる前に、俺、帰るわ。また今度、遊んでやるよ」
そして笑顔でウインクを一つして、
「じゃあな」
高く高く跳躍。芹となずなの頭上を飛び越え、
「に……二度と来んなあっ! 」
芹の見え見えの虚勢の怒鳴り声を背に受けながら、一旦、片足を地面につき、もう一つ跳躍。入口から見て最も奥にあたる背の高い茂みに姿を消した。
 最後の最後まで人を食った態度の藤袴への怒りは少々、なずなに、自分にも特に危害を加えないまま去って行ったことで安心したの大半で、芹は暫しボーッと、藤袴の行った後を見送ってしまってから、ハッと我に返り、
「なずなっ! 」
地面にペタンと座った姿勢で目を見開き一点を見つめ固まったままの状態でいるなずなに、声を掛けた。
 全く反応せず固まっているなずな。
 芹は握っていた刀を放り出し、
「なずなっ! 」
しゃがんで、なずなの両肩を掴み、顔を覗きこんで、
「なずな! なずなっ! 」
なずなが、このままずっと動かないのではと、不安に駆られながら呼びかける。
 なずなは一度、ビクッと痙攣を起こしたように体を震わせ、それからゆっくりと目を動かして芹を見た。
「…芹……」
(…良かった……! )
芹はホッとしたが、なずなは、今度は小刻みに震えだす。
 芹は、何とかなずなを落ち着かせようと、しかし、そのために何をしてよいか分からず、
「なずな、大丈夫だよ。藤袴は、もう帰ったから」
「もう帰ったから、大丈夫だから」
同じことをゆっくりと、何度も繰り返し語りかけた。
(なずな……。なずな……。ああ、どうすりゃいいんだ、こんな時……! )
それまでは、目先の余裕の無さからほとんど感じていなかった藤袴への怒りが、今もけっして余裕があるわけではないが、むしろ、心の面だけで言えば、藤袴と向き合っていた時より無いかもしれないが、心配のあまり、逆に募る。
 その時、トン、と、なずなが額で芹の肩に寄りかかった。
(…なずな……)
「…芹……」
今にも消えてしまいそうな、小さな小さな声。
「わたしを抱きしめて……。さっき、『オレも』って言ってくれたじゃない……。芹は、わたしの恋人なんでしょ……? 」
(恋人……。そうだ、オレは、なずなの恋人なんだ……)
 「オレも」の一言を境に、いきなり自分が、これまでとは違う人になってしまった気がした。
 嫌ではない。不思議な感じ。何だか全身がムズムズする。
(……恋人は、こんな時には抱きしめるものなのか? )
必ずしもそうではないかも知れないが、なずなが……自分の恋人が望むなら、そうするべきであると考え、芹は、肩を掴んでいた両手をなずなの背に回し、その上半身を、緊張から、無意識的にそっとになってしまいながら、自分の胸へと引き寄せた。
 そっと、本当にそっと。壊れ物を扱うように、恐る恐るととられてしまうくらい、そっと。何だか、ぎこちない感じになってしまった。
 以前、五形によって安芸に行かされそうになったなずなが引き返して来た時も、芹は、なずなを抱きしめた。
 その時は、かなり強引で力も入ってた気がする。そして何より、自然だった。だが、その時は勢いがあったし、薬の影響で、頭もおかしかったのだ。
 この、何とも不器用な抱擁が、本来の芹の精一杯。
 もどかしくて、次第にいたたまれなくなってきた芹だが、ふと、なずなの震えが止まっていることに気づき、
(…オレが、抱きしめたおかげ……? )
心がホッコリ温かくなった。
 いたたまれない気分が消え、純粋に愛しさで、なずなの髪を撫でた。


「芹ー! 」
遠くからの呼び声に、芹は、なずなの髪を撫でる手を止め、声のほう、お花畑入口を見る。
 五形だ。
 五形は、芹たちに歩み寄りつつ、
「屋敷に居らんかったのでな。なずなに言いつけた作業が終わらず、芹も手伝ってこっちにいるのであろうと来てみたのだが」
地面に座った状態で抱き合う芹となずなを怪訝な表情で見、一旦、刀身を露に放り出され転がっている芹の忍刀に目をやってから、再び芹を見る。
「一体どうしたのだ? 何があった? 」
「五形様……」
芹は、藤袴が別件の帰りと言いながら芹たちの前に現れたが、結局何も危害を加えないまま去って行ったことを話した。
 話しながら、芹は、もしかして、と思う。
 藤袴は、「厄介な奴が帰って来たみたいだ」と言って去って行ったが、五形は屋敷に寄ってからここへ来たのだから、タイミング的に、
(厄介な奴って、五形様のこと? 『帰って来たみたいだ』って、本来の任務のほうも、五形様が留守なのを知った上で来てた? )
 春日山の中が絶対安全なわけではないと藤袴が言っていたが、ここ数月、芹は春日山で平和に暮らしていた。
 思い返してみれば、五形が今日のように、早朝から夕刻までなど長時間留守にするのは久しぶりだ。
 心の中でハッキリと考えてみることで、もしかして、は確信に変わる。
(安全なのは春日山じゃなくて、五形様の傍ってことか! ) 
「…そうか。藤袴がここにまで……」
難しい顔で言う五形。
「五形様」
芹は、たった今得た確信を言ってみた。
「なるほどな」
納得してから五形は困った表情になる。
(……? )
無言の問いをする芹。
 答えて五形、
「実は、今日これから夕げを共にと、御実城様から呼ばれていてな」
「ってことは、戦ですか? 」
「ああ。暫くは帰れぬ」
「出発は? いつですか? 」
「明朝だ」
「……明朝! 急ですね」
「まあ、そんなものだ」
ごく普通に返しておいてから、五形は、ハタと気づいた様子で驚きつつ、
「何故、夕げを共にと呼ばれているだけで、戦だと分かった? 」
(何故、って……)
芹にとって、いや、この春日山で暮らしている人ならば、誰だって分かって当然のこと。驚かれて、逆に驚いた。
「だって、御実城様は、いつも出陣前に部下の人たちを集めて食事を振る舞われるから」
 芹の答えに、五形は、そうかそうかと非常に感心した様子。
「よく分かったな。観察力と洞察力がついてきたのだな」
(……)
 褒められている内容のレベルがあまりに低すぎて、芹は複雑な気持ちになったが、珍しく、前回はなずなと出会った日である武田の動きを見抜けた時、というくらい久々に、可愛らしさ以外のことを認められたのだ。これは連れて行ってもらえるチャンスだと思った。
「五形様! オレとなずなも、その戦に連れてって下さいっ! 五形様の足手まといにはなりませんからっ! 」
「…しかし……」
五形は渋い顔。
(ああ、ダメかな……)
芹は諦めそうになったが、
(…いや、待てよ……? 不本意だけど……)
ちょっと考え、攻める方向を変えてみることにした。
「五形様。五形様のいない春日山になずなと残ると、藤袴が襲って来ると思います。五形様が、さっき困った顔をされたのも、それを分かってるからですよね? 」
 五形は、
「…そうだな。ならば……」
考え深げに、
「なずなを連れて行こう」
 そう来ると思っていた。
 芹はすかさず、
「いえ、駄目です。さっき藤袴は、去り際に、オレに向けて、『また今度遊んでやる』と言い残していきました。ここになずなが残らないからと言って、藤袴が襲ってくる危険が全くないかというと、そうじゃないです」
 本当は、自分の身の安全のために一緒にいてほしいようなことを言うのは嫌だったが、五形と互角と言われている藤袴に勝てないと言い切ってしまっても、きっと、五形は何とも思わない。
 それよりも、共に戦場へ行って、他の人が相手ならばきちんと戦えることを見せたかった。認められたかった。
 可愛らしさだけでは、そろそろ限界だと思う。と、言うか、五形以外に芹を可愛いなどと言う人は誰もいない。大きくなったのだから当然だ。
 そう遠くない未来、五形が芹を可愛いと感じなくなった時に、全く興味を持たれなくなってしまうことが怖かった。それまでに、他のことで、ちゃんと認められておきたかった。
 自分の力を試したいだけでなく、それもあって、次の戦には是非とも連れて行って欲しかったのだ。
 五形は、仕方ないといったように小さく息を吐き、
「分かった。連れて行こう。ただし、絶対に私から離れるでないぞ? 」


                 * * *


(……眠れない)
床に入っていた芹は、溜息を吐きながら半身起き上がる。
 明日、初めて戦に連れてってもらえる。それを思うと、何だか興奮して目が冴え、寝付けなくなってしまったのだった。
 と、
(……? )
芹は、不意に、縁側のほうから風を感じた。
 見れば、障子が細く開いている。閉め損ねていたのだろう。
 芹は、きちんと閉めるべく立ち上がり、障子の前へ。
 細く開いた隙間から入り込んでくる、その、少し冷たくさえ感じられる夜の心地よい空気が、芹を外へと誘った。
 風に誘われるまま、縁側に出る芹。
 月の出ない、深みのある夜空には、満天の星が輝いている。
 どうせ眠れないなら散歩でもと、芹は、縁側の下に誰の物というわけではなく常に置いてある草履を、暗いため足下に注意を払いながら、つっかけ、歩き出した。


 気持ちというほどのものでない程度の気持ちのままに任せ、芹は歩く。
 畑の横を行くと、南三の丸の端、番所へと下りていく道に面した段差ギリギリの所に陣取り、座っている四つの人影が見えた。
(……? 誰だ? こんな時間に……)
ちょっと首を傾げながら、しかし、そよぐ風に髪を洗わせて、ゆったりと構えているその様が実に気持ちよさげで、思わず近づいていく芹。
(……! )
四つの人影まで一丈ほどの距離まで来、その正体を知って、芹は驚き立ち止まった。
(……どういう組み合わせだよ? )
 人影の正体は、なずなと、向かいの屋敷の三馬鹿兄弟だった。
 兄弟の長男が口を開く。
「こんな星の綺麗な夜に寝てるなんて、大人は馬鹿だよなー。昼間の暑いのが嘘みたいに、風も気持ちいし」
「そうね」
なずなが同調。
 それに長男は気を良くしたのか、続ける。
「夏はさ、やることを昼と夜で逆にすればいいんだよ。暑い昼は風通しのいい日陰で寝てて、涼しい夜、働けばさー」
 兄弟の次男と三男は、星や風などどうでもよい様子で下を向き、何やら貪り食っているようだ。
 四人が芹に気づく様子は無い。
 ややして、次男三男が貪り食っているものが何なのか、次男の言葉で判明した。
「暴力姉ちゃん、すげーうめえよ、このヤマブドウってやつ。こんなのくれるなんて、あんた、実は良い奴なんだなっ」
「そう? それは良かったわ。でも、暴力姉ちゃんって呼び方は何とかならないかしら? あと、『実は』も余計よ」
(ああ、そっか、ヤマブドウか……)
芹は、そういえば夕方、お花畑からの帰り際に摘んで、そのままだったと思い出した。その時のヤマブドウを、なずなが兄弟にあげたのだ。
(…それにしても単純な奴らだな。自分たちのことをぶん殴るような相手でも、簡単に餌付けされて……)
呆れながら四人の背中を眺める芹。
 と、不意に、
「あらっ? 芹! 」
なずなが、やっと芹の存在に気づいた様子で振り返った。
 芹は、暫くの間黙って後ろに立って、そんなつもりは無く結果的にだが、四人の会話を盗み聞きしていた感じになっていたことで、
「お、おう」
後ろめたい気持ちで返す。
 なずなは、思い出したように、あっと口を押さえ、
「ごめんなさい、芹。あなたが摘んでくれたヤマブドウ、この子たちがお腹が空いたって言うから、勝手に持ち出してしまったの」
「ああ、そんなのいいよ。今、丁度、時季だから、欲しけりゃいつでも採れるし」
 芹が許したことで、よかった、と、ホッと笑むなずな。
(…可愛い……)
つい見惚れる芹。
 その視線の先でなずなは、急にフッと笑みを消し、心配げに眉を寄せ、
「そう言えば、芹はどうしてここに? 眠れないの? わたしのほうは、暑い季節の夜風が好きで、夜中に外に出るのが、ほとんど毎日の日課なんだけど、たまたま今日は、この子たちと一緒になって……」
 芹は心配かけまいと、
「いや、さっきまで普通に眠ってたよ。喉が渇いて目が覚めたから水を飲みに土間へ行って、何か、入って来た風が気持ちよくてさ、出て来たんだ」
「そう。それならいいけど……」
 なずなは、大人びた笑みを作って、
「初めて戦に行くので、緊張してたり興奮してたりして眠れないのかと思ったから……」
「戦っ? 」
突然、三兄弟が、なずなの台詞を遮るようにして揃って言い、バッと勢いよく一斉に芹のほうを向いた。
「芹、戦に行くのかっ? 」
「お前みたいなへタレが行っても、何の役にも立たないぞっ! 」
「おんな男の役目は、男たちの留守を守ることだろーが! 薙刀を持ってここに残れよっ! 」
何だか、いつものからかう調子とは違う、必死な感じ。
 芹は、呆気にとられる。
(何だ? こいつらのこの反応。いつも戦に行かないことで人を馬鹿にしてるくせして。言ってることが、いつもと真逆じゃねえか。何か妙に必死だし……)
 兄弟は、必死になりすぎてか、微かに、しかし確かに、涙ぐみながら続ける。
「行くなよ馬ー鹿! 」
「馬ー鹿、馬ー鹿っ! 」
「死んじゃうぞ、馬ー鹿っ! 」
(! )
芹は、最後の「死んじゃうぞ」を聞いて、ハッとした。
(…そうか、こいつらの叔父さんって……)
 兄弟には、よく一緒に遊んでくれる、母親の弟である叔父さんがいた。兄弟がとても彼のことを慕っていたことは、見ていて分かった。……その彼が二年ほど前、戦死したのだ。
 兄弟は、きっと、自分たちの大好きだった叔父さんと芹を重ねたのだ。
(…お前ら、そんなにオレのこと好きかよ……)
芹の胸に、何やら熱いものが込み上げてきた。
 芹は堪らず、腰を屈めて兄弟と高さを合わせ、三人まとめて力いっぱい抱きしめた。
 芹の腕の中で、兄弟はもがき、暴れる。
「芹! 離せよっ! 」
「馬鹿芹っ! 」
「離せ! 苦しいーっ! 」
 だが、芹は離さない。
 そのうち大人しくなって、芹の温もりを確かめるように寄り掛かる兄弟。
 芹は少し力を緩め、
「オレは死なねえよ。約束する。絶対、帰ってくるから」
 返して兄弟、
「絶対だぞっ? 」
「死んだら承知しねえからな! 馬ー鹿っ! 」
「馬鹿芹っ! 」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       



                  (七)


 七月二十九日、上杉軍は、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに三木氏を支援して介入。武田軍の飛騨国侵入を防ぐため、春日山から善光寺横山城へ進軍。
 八月一日、更級郡八幡宮に戦勝祈願。
 八月三日、小田切館周辺、川中島に陣を張った。


                  * * *


「五形様! 」
小高い丘の上から、甲斐方向より眼下を通り信濃川中島方向へと続く道を見下ろしていた芹は、甲斐方向に、紺地に金の風林火山の旗を掲げた武装した列を発見し、五形を振り返った。
 五形が、うむと頷く。
 小田切館周辺に陣を張ってから一月弱。
 芹となずなは、五形と共に武田の動向を探るべく、毎日、甲斐方面へと出掛けては、報告しなければならないような事柄に出会わぬまま陣へ戻る毎日を繰り返していたが、ようやく動きらしい動きがあった。
 報告するべく踵を返す五形に、芹は続こうとする。いよいよだと、胸を高鳴らせて……。


 芹が勇んで一歩、踏み出したところで、斜め後ろから、ストンと何かが地面に落ちる気配。
(? )
芹が何の気なく振り返ると、なずなが地面に、これまで見張っていた道の方向を向いたままの状態で座り込み、震えていた。
 その頭は、何かの動きを追うように、ゆっくりと左から右へ動いている。
「なずな? 」
声を掛けながら肩を掴むが反応無し。
 右方向へ動ききった頭は、そこで停止。
 芹はなずなの正面に回り込む。
 もともと色の白い顔は、更に血の気を失って青ざめ、目は大きく見開かれていた。全身が小刻みに震えているという動きはあるものの、完全に固まっているも同然の状態。一月ほど前に、藤袴が春日山に現れた時の状態に似ていた。
「芹、なずな」
少し先に行って足を止めた五形から、声が掛かる。
「五形様、なずなが……」
五形の呼びかけに返しつつ、芹は、
(…なずな……)
しゃがんで、なずなと目の高さを合わせ、見開かれたその目の奥を一度覗いてから、そこに映っているものを確認すべく、なずなの顔の向いている方向を見た。
(! )
そこにあったのは、武田の列の進む道の向こうの崖上の森の中を、列と合わせるようにして進む、藤袴と他八名の忍の姿。
 瞬間、
(…また、あいつか……! )
芹は、喉の奥と言おうか胸の奥と言おうか、その辺りがカアッと熱くなり、頭の中の諸々のものが、きめの粗い泡が消えていく時のようにジュワジュワと微かな音をたてて消滅していくのを感じた。
 目に映る景色が流れ、藤袴の姿が近づく。
 自分が藤袴に向かって走っているのだと、まるで他人事のように認識する。
「芹? どうしたのだ! どこへ行くのだっ? 」
驚いたような五形の声を、背中で聞いた。


 藤袴を視界に捉えたまま、藤袴までの最短距離を、武田の列の頭上さえ跳び越え、一直線に駆け抜けた芹。
 藤袴は、もう目の前。腕を思いきり伸ばせば届く距離だ。
 だが何だか遠い。無色透明の幕が幾重にもかかっている感じがする。全てが、他人の視点だ。
「藤袴あっ! 」
すぐ近くで怒鳴り声。
(! )
芹は驚き、ハッとする。消滅してしまった頭の中の諸々が、いっきに復活した。怒声は、芹自身の口から発せられたものなのだが……。
 足を止める藤袴と他八名。
 徐に芹を振り返った藤袴は、
「何だ。誰かと思えば、上杉の小童じゃねえか」
言って、溜息。
「遊んでほしいの? 確かにこの間、また今度遊んでやるって約束したけどさ、俺ー、今、仕事中で忙しいのよ」
 面倒くさげに喋る藤袴を前に、芹は、自分の血液が頭のてっぺんから足のほうへ向かって、スウッと静かに引いていくのを感じていた。
 固まったなずなの視線の先に藤袴を見つけ、喉の奥か胸の奥かが熱くなったのまでは憶えているが、それ以降のことが全く分からない。
 おそらく、また藤袴のせいでなずながおかしくなってしまったと、頭に血がのぼってしまったのだ。
(…何やってんだ、オレ……)
芹の心を後悔が支配する。
 藤袴が自分など相手にしないで、このまま行ってくれることを祈った。
(面倒くさいんだろっ? 頼む! このまま行っちまってくれっ! )
 藤袴は面倒くさそうなまま続ける。
「それに、お前の厄介な保護者まで付いて来ちまってるし」
(保護者? )
 芹の無言の問いに、藤袴、芹の肩の向こうをチラッ。無言で答えた。
 つられて見る芹。
 そこには、
(五形様! )
固まっているなずなを小脇に抱えた五形。
 たった今、武田の列を跳び越えている最中だ。
「過保護なオトーサンだな。子供なんざ、ちょっとくらい痛ぇ思いをさせてやんなきゃ分かんねえのに……」
ボヤくように言っている途中で、
「……って、あれっ? 」
藤袴は何かに気付いた様子。
「うちがやった養女まで一緒じゃねーの」
(なずなのことか……? )
五形の小脇のなずなと藤袴を見比べながら、芹は、自責の念にかられた。
 なずなが藤袴の姿を見かけて固まったところまでであれば、以前の時のように自分が抱きしめてやれば、または時間が経てば自然と、普通の状態に戻ったかも知れないのに、自分が頭に血をのぼらせて藤袴に向かって来てしまったせいで、なずなまで危険な目に遭わせることになってしまった、と。
(面倒くさいんだろっ? あんたの嫌いな五形様も来たことだし、他の武田の人たちはどんどん歩いてるから置いてかれちまうし、行ってくれよ! 頼むから! 悪かったよ、忙しいとこ呼び止めてっ! )
全身全霊で祈る芹。
 藤袴は溜息をついてからウインクを一つ。そして無情の一言。
「なずながいるなら仕方ねえな。ちょっとだけなら遊んでやるよ」
 芹は絶望した。
 五形様と藤袴が互角で今のなずなは全く戦力にならないことを考えると、計算上、他八名は自分が何とかしなければならないことになる。無理だ。立派な大人の忍を一度に八人も相手になど出来るわけがない、と。
 しかし、そこまでで、
(あ、でも)
芹は、ふと気がついた。
(なずながここに来なきゃいいだけじゃん。まだ来てないわけだし)
 そこで芹は、
「五形様っ! 」
五形に向かって叫んだ。
「引き返して下さい! なずなを連れて! 今すぐっ! 」
 しかし、時既に遅し。
 芹がひととおり叫び終えた時には、五形は崖に近づき過ぎたために、一旦、芹の視界から姿を消し、突然、宙を舞うように再び現れて、崖の上に着地をしたところだった。
 芹は、今度こそ本当に絶望した。
 藤袴が、他八名に何やら目配せをする。
「芹、引き返せとは一体……」
 藤袴の目配せを受けてのことか、他八名が、芹と五形の間に壁を作るようにして、五形のほうを向いて並んで立ち、その言葉と姿を遮った。
「五形様っ! 」
不安にかられ、思わず五形の名を呼ぶ芹。
 だが、八名の並んだ隙間から見える五形の表情は、平時と変わらない。
 八名が揃って苦無を構えた。
 うち両端の二人が、すぐさま五形に突進。苦無は投げずに握った状態で、突いていくような構え。
 二人の握ったままの苦無が五形に届……くと思われた瞬間、五形は、なずなを抱えたまま、真上は、苦無を手に襲いかかってきた二人の頭の高さスレスレまで跳んでかわし、その場で体を捻って半回転、自然の重力にまかせて二人の背後に降りざま、その背中、首のつけ根辺りに、それぞれ一回ずつトントンッと軽い蹴りを見舞って崖下に落とした。
 しかし相手も忍。すぐに崖の下から跳び上がって来、空中から五形目掛けて苦無を投げつける。
 ほぼ同時、残り六名が一斉に五形に向かって行った。
 六名に対しては、完全に背を向けている五形。
「五形様っ! 」
芹は、ヒヤッとする。
 が、五形は、背後六名のことも気配でか察知していたらしく、背中の忍刀を抜いて、飛んできた苦無を薙ぎ払うようにして叩き落し、その流れのまま六名を振り向いて牽制した。相変わらずの、平然とした顔つき。
(…五形様って……すごいっ……! )
初めて見る、表情ひとつ変えずの五形の戦いに、芹は見惚れた。
 と、
「おいおい、どこ見てんの? お前の相手は俺だろ」
斜め後方から藤袴の声。
 ハッとし、振り向く芹。
 刹那、
(! )
藤袴の右手の苦無が芹の鼻先に突きつけられた。
 芹は飛び退く。
(何やってんだ、オレ! )
 ニヤリと笑う藤袴。
 そしてまた今度は、左の苦無が突き出され、後退する芹。
 右、左、右。後退、後退、後退。次々と繰り出される苦無による攻撃に、芹は、抜刀する間さえ無い。
 そうしてついに、
「! 」
芹は、崖っぷちに追い詰められた。
(…やべ……)
「これで終わりだ」
藤袴が低く凄む。
 芹は、グッと息を詰め、思わず、もう半歩退がった。足の裏が三分の二ほど崖からはみ出て、体がカクンとなる。
(危ねっ! )
だが、それで気付く。
(何だ。別に追い詰められてないし、やばくなんてないし、終わりでもないじゃん。この高さなら全然大丈夫だ)
 藤袴の左肩が微かに動くのが見えた。
 攻撃が来るのを察し、芹は崖下へ逃げるべく、後ろ向きのまま、はみ出しているほうの足とは反対の足を崖の外へ踏み出そうとする。
 その時、芹の視界の隅に、八名全員を地面に転がし終えた五形が、芹を助けようとしているのか、その場になずなを放り出し、芹のほうへ向かってくるのが映った。
 五形の手から離れたなずなは、まだ固まっているようで、地面にペタンと座った。
 突然、藤袴がククッと笑う。
(? )
芹は、何だか嫌な予感がした。
 藤袴の意識が、ほとんど自分に向いていない。どこかほかの方向へ、なずなへ向いているような気がしたのだ。
 藤袴が左手の苦無の握り方を変え、そのまま顔の横へ持っていく。
 違和感を感じる芹。鋭い先端が真っ直ぐに自分へ向けられているのに、全く怖くない。
 芹自身は苦無を使わないため、本当のところは分からないが、近距離で突いてくる手つきに見えない。どちらかと言えば、遠くを狙って投げる手つきのように見える。
 藤袴が左手を後ろに引く。これまで芹に対して仕掛けてきた突きの攻撃の中には無かった動きだ。
「と、見せかけてー」
藤袴が、急に、軽い口調で言った。
(見せかけてっ? )
芹の中の嫌な予感が的中した瞬間だ。
 芹は、慌ててなずなのほうへ走ろうとする。
 そこへ五形が、芹と藤袴の間に、芹を背に庇う格好で滑り込み、割り込んだ。
 なずなのほうへ、まさに踏み出したところだった芹は、五形に躓き、転ぶ。
 藤袴が、なずなのほうへ、クルッと体の向きを変えつつ、高く跳び上がった。
 同時、藤袴の左手の苦無は、その手を離れ、なずな目掛けて飛ぶ。
 苦無を投げ、着地するや否や、藤袴は、苦無を追うように自分も走り出した。
 芹も、転んだ状態から急いで起き上がり、芹が転んだことに対しての五形の、「大丈夫か? 」との呑気な質問には答えず走る。
「芹! 」
すぐ耳元で五形の声。いつの間にか、芹の後ろをピッタリとついて走って来ていた。
「私のせいで転んでしまったな。すまなかった」
(そんなの、今はいいからっ! )
芹は少々イラッとしながら、ひたすら、なずなに向かって走る。
「なずなっ! 」
芹は叫んだ。
 なずなの固まったのが解けて、なずなが自分で苦無を避けてくれればよいが、それは無理そうだ。
 なずなへと向かう苦無のスピードは速く、もう、なずなまであと五尺ほどしか無い。
 芹は必死で走るも、
(駄目だ! 間に合わないっ! )
 勝手に的が外れてくれることを祈るしかない状況。
 あとは、一か八か石でも投げてみようと、芹は、走りながら下を向いて手を伸ばし、足下の小石を拾って上体を起こした。
 と、不意に、白い影が芹の視界を横切り、なずなの前を塞ぐ。
 直後、ガキンッ、と、硬い物同士がぶつかる音。
 白い影は、三十代前半と思われる旅姿の巫女だった。
 艶やかな黒髪を持ち、美しいと言うよりは可愛らしいと言ったほうがしっくりくる、小柄で柔和な印象の巫女。彼女が、なずなを背に庇い、手にしていた杖で苦無を叩き落としたのだ。
(…誰だか知らないけど、助かった……っ! )
ひとまずホッとする芹。
 しかし、安心したのも束の間、苦無を追って走って来た藤袴が、巫女の杖に弾かれた苦無を地面に落ちる前に受け止め、握って、右足で斜め前、巫女の左側に踏み込みつつ、なずなに向けて突き出した。
(! )
芹の心臓が、痛いくらいにバクンと脈打った。
 ガチッ! 咄嗟に体を捻り、巫女は杖で苦無を受け止める。
 そこでようやく、芹は、なずなのもとへ到着。
 芹に合わせて到着した五形の、「芹、勝手にどんどん動かれては困るぞ。守りきれぬではないか」との小言に答える余裕など無く、なずなに駆け寄った芹は、正面は巫女がいて自分の入れるだけの隙間が無いため、なずなの右側に膝をついて、側面から抱きしめる。
 自分の心のままの行動。この間のようなぎこちなさは、少なくとも、芹自身の感覚としては無い。
 芹がなずなの無事をしっかりと感じたくて、その温もりを味わうように、鼻先をなずなの髪に埋め、呼吸すること数回、ピクンと微かになずなの体が動く。
「芹……」
なずなは掠れた声で芹の名を口にし、ゆっくりと芹のほうを向いた。
 なずなの固まったのが解けたのだ。
「…なずな……! よかった……! 」
長い溜息と共に出た、心の奥底からの言葉。
 もう一度強く強くなずなを抱きしめ直しながら、芹は反省した。藤袴のせいで、と、頭に血が上って、向かって行ってしまったこと。
 確かに、藤袴を倒すことができれば、それは根本的な解決になる。
 しかし、芹にそんな力など無い。それは芹自身分かっていることだ。
 倒すどころか返り討ちに遭って、なずなを守るためには絶対に死なない、とのなずなとの約束を破ることになってしまうだろう。
 今、自分が藤袴に向かっていった状況は、実際のところ、なずなを守ろうとしたわけではなく、ただ単に、自分が勝手に頭に血を上らせてのことで、なずなは関係無いのだが、きっと、なずなは、そう解釈してくれず、自分を守るために芹が死んだ、と思ってしまう。
 それに、出会ったばかりの時、叱ってやるとも約束した。ずっと、傍で生きると……。
 傍にいるのだから、なずなが固まってしまう度に抱きしめて解いてやればよいのだ。根本的な解決など要らない。
 今だって、なずなが、離れた場所を移動中なだけの藤袴を目にして固まった最初の段階で、そうすればよかったのだ。……さっきも思ったことだが、重ねて、そう思う。
「どけ、千代」
苦無と杖で押し合いながら、藤袴が低く口を開く。
 芹はハッとし、なずなから藤袴が見えないよう、自分の体で、さりげなく視界を遮った。
 なずなが藤袴の存在に気付いている様子は無い。
 ずっと固まっていた後なのだ。頭の中はもちろん、目や耳も、まだ正常な働きを開始していないのかも知れない。
 それならば、と、芹は考える。
 芹は当然、今すぐに、なずなを連れてこの場を去ろうとしていたのだが、今暫くこの場に留まろうと。
 なずなと藤袴の距離は三尺程しか無く、いつ攻撃されてもおかしくないし、なずなが藤袴の存在に気付けば、きっとまた固まってしまう。
 危険なことは分かっているが、かと言って、不用意に巫女の陰から出ることは、ただ藤袴に攻撃のチャンスを与えてしまうだけに思えたのだ。
 まともに戦えば、おそらく、この巫女は藤袴より弱い。
 それなのに、藤袴は、巫女を力で捻じ伏せることをせず、説得で何とかしようという姿勢を見せている。
 つまり、藤袴には、この巫女に手出し出来ない何らかの理由があるのだ。
 五形がなずなを守ってくれる気がさらさら無いということは分かった。
 そんなことは五形の自由なので、芹は、それを責めないし、そんな権利も無いが、五形が守ってくれない以上、芹が守るしかない。
 藤袴が相手では、芹は、なずなを守りきれないであろう。……よっぽど、上手くやらなければ。
 だから、すぐに状況が変わりそうな不安定なものではあるが、とりあえずは安全な巫女の陰にいて、機を窺おうと考えたのだ。
 藤袴の、どけ、との言葉に対し、巫女は無言でふるふると弱く小さく、首を横に振った。
 藤袴は続ける。
「大体、何でお前がここにいるんだ? 」
「旅の途中です。もうすぐ、今、道場にいる娘たちのほとんどが巣立っていくでしょう? ですから、空きが出るので、新しく受け入れる娘を捜しに、と」
「そうか。なら、こんな所で道草を食ってないで、さっさと旅に戻れ」
「バカ兄のほうこそ、崖下の道を行く他の方々は、皆、とっくに行ってしまわれましたけど、良いのですか? 」
「ああ、塩崎に一緒に到着できさえすればいいからな。すぐに追いつくさ。それに、なずなの始末も俺の仕事だからな。道場を脱走した者については、そういう決まりだったろう」
(…馬鹿兄って……)
機を窺いつつ、また、いつなずなが藤袴の存在に気付くかとビクビクしながら、藤袴と巫女のやりとりを聞いていて、芹は思った。酷い呼び名だ、と。
 だが何故か、呼んでいる側からは全く悪意を感じられず、呼ばれている側も、あっさり流しすぎている。不思議だ。
 芹は、ビクビクと余裕が無いながらも、いや、むしろ、気持ちを少しでも落ち着かせるために、全くどうでもいい横事だが、その藤袴の呼び名について考え、結果、
(あ、そうか)
すぐに、ストンと腑に落ち着く。
(『うま・しか』のバカじゃなくて、フジ『バカ』マか……)
「…千代女、様……」
芹の腕の中で、なずなが突然、非常に驚いた様子で呟く。
 その目は、真っ直ぐに巫女の背中を仰いでいた。
 なずなの呟きに、
(はっ? この人が千代女様っ? )
驚く芹。
 大まかに分けて、二つの理由で驚いた。
 一つ目は外見。
 芹がなずなの話を聞いて勝手にイメージしていた千代女様像は、年配で擦れた感じの女性。それが実際には、思ったほど歳が多くなく、擦れた印象も無い、まだ少年である芹から見ても、ある種の可愛らしさを感じられる親しみ易い感じの女性であったこと。
 二つ目は、驚きであり疑問。
 千代女様であれば、本来なら藤袴と共になずなを始末する側のはず。なのに何故、今、こうしてなずなを庇い、藤袴相手に戦っているのか。
 芹のその二つ目に丁度答えるようなタイミングで、実は千代女であった巫女は、藤袴との会話を続ける。 
「その決まりは、道場で身につけた様々なことを、悪用されることを恐れてのものですよね? でしたら、少なくても、なずなは大丈夫です」
 藤袴は、深く溜息。
「お前は甘いんだ。今にきっと、大変なことになる。現に、今、なずなは上杉にいるだろう」
 すると千代女は、フッと柔らかな笑みを零し、
「なずなが上杉にいるのは、ちょっと意味が違う気がします」
頭だけで、斜め後方をチラッと振り向く。
(ん……? )
気のせいか、芹には、千代女が、五形に意味ありげな視線を向けたように見えた。
 千代女は藤袴に視線を戻し、
「バカ兄、わたくしが御館様の命に従い巫女頭領の任を受け、道場を開いて親の無い娘たちを集め修行させたのは、娘たちに自分自身の力で生きていく術を身につけさせるため。この戦乱の世で、身寄りの無い女子が一人で生きていくのは、男子のそれに比べて、とても難しいですから。わたくしは、そのお手伝いを、娘たちが幸せに生きるための手助けを、したかったのです。けれども、それが、脱走で命を奪われることになるなど、娘たちを縛りつけてしまうものとなるならば、娘たちにとって、幸せとは程遠い結果を招くものとなるならば、わたくしは、このお役目を降ろさせていただくしかなくなります。わたくしにとって、巫女頭領の任は、娘たちの未来を手伝えるという生きがいとも言えるほどのやりがいと共に、夫・盛時を失った寂しさを紛らわせてくれる大切なものだったのですが、そのうち重きを置いているやりがいのほうがなくなってしまうのなら、続ける意味などありませんから」
そして溜息を一つ。俯き加減になって、視線を上目遣いに変え、
「…ああ、でも、わたくしは、このお役目を降りたら、どうなってしまうのでしょう? 生きがいを失い、娘たちも去り、娘たちとの思い出の詰まった道場も引き払い、夫の遺した広い城の中で一人、きっと廃人のようになって、ただ老いさばらえて、いずれやって来る死を待つことになるのですね……」
 ウジウジウジと湿っぽい調子で話され、藤袴は聞くに堪えなくなったのか、
「あー、もういい! 分かった分かったっ! お前の好きにしろっ! 」
放り出すように面倒くさそうに大声で言い、苦無を引いて、くるっと背を向ける。そして後ろ姿で、低く静かに、厳しい口調で、
「俺はもう、なずなを追わない。ただし、なずながこの先も妙な動きをしなければ、だ。ちょっとでもおかしな素振りを見せたら、その時、俺は動く。他の娘たちも同じだ。いいな? 」
 千代女は、パッと顔を上げ、
「分かりました。ありがとう、バカ兄」
ウジウジウジから一転、明るい、軽くさえある返事。
 藤袴は、大きく大きく溜息を吐いてから、五形にやられて地面に転がっていた八名のうち、起き上がってきた五名に、転がったままの残り三名を背負うよう指示し、連れ立って、崖下の道を行った武田軍と同じ方向へと森の中を駆け、去って行った。
(……何だかよく分かんないけど、これってもう、なずなは、藤袴に襲われなくて済むようになったってことか……? )
会話が長く、展開についていけず、芹は呆然としてしまいながら、藤袴の背中を見送る。


 ややして、
「なずな」
芹と同じく藤袴を見送っていた千代女が、芹・なずな・五形のほうを振り返った。
「間に合ってよかったです」
なずなに向けられた、この上なく優しい目。なずなのことが大切なのだと、その目が語っている。
「千代女様……」
まだ驚いたままの様子のなずな。
 千代女は頷きながらしゃがみ、なずなと目の高さを合わせた。
「なずな、あなたは幸せの花を見つけたのですね」
そして意味ありげな視線を、今度は確実に五形に向ける。
 さっきのも気のせいではなかったと確信する芹。
(…千代女様、間違えてるよ。なずなの相手が五形様だと思ってる……。この人、天然ボケなのか? オレの腕の中にいるなずなに話しかけといて……。普通にいけば誰がなずなの相手かなんて一目瞭然だろうに、どうしたら、五形様が相手だってふうに見えるんだ? 五形様が相手ならいいのになあ、なんて希望が、そう見せてるのか? )
 千代女は続ける。
「わたくしは、道場であなたに色々なことを教えてきました。それはひとえに、あなたに幸せな人生を歩んでもらうため。ですから、あなたが幸せの花を見つけ、それを命の糧とし己を大切に生きていけるのであれば、それはそれで、わたくしは嬉しいのです。よく見つけましたね。わたくしは、あなたを誇りに思います」
「千代女様……」
芹の胸から身を起こすなずな。
 千代女は愛しげになずなを見つめ、
「抱きしめていい? 」
なずなが頷くのを確認してから、そっと包み込むように自分の胸に引き寄せ、背中を優しくトントンとやった。
 芹は、自分自身には、そのような記憶は無いが、きっと、母親が小さな子供を抱く時というのは、こんな感じなのだろうと思いながら眺める。
 もっとも、なずなと千代女の体の大きさはほぼ同じ……いや、なずなのほうが大きいくらいなのだが。
「なずな。これより、あなたは自由です。道場脱走の咎で、あなたに追手がかかることは、もうありません。そして、お別れです。あなたは上杉、わたくしは武田の人間。再び相見し時、その状況によって、我らは敵となりましょう」
 暫しの沈黙の後、千代女は尽きない名残りを惜しむように、ゆっくりとなずなの体を離し、立ち上がって、
「では、お達者で」
寂しげに見える笑みを残し、背を向けて崖の方向へ歩く。
「千代女様! 」
なずなが少し急いだ様子で立ち上がり、
「今まで、ありがとうございましたっ! 」
 芹も立ち上がり、頭を下げた。
 芹も、千代女に対して感謝していた。
 なずなが村を出て倒れていた時、拾って育ててくれなければ、自分はなずなに会えなかった。
 そして、傍から見ていてハッキリ伝わる、千代女の、なずなに向けた溢れんばかりの愛情。この先は、自分がそれを受け継ぐのだと、心に誓った。


 千代女は崖の縁まで行って、一旦、振り返り、微笑む。
 森の外からの光を受けたその笑顔は、とても綺麗で、芹は思わず見惚れた。
 直後、崖下の道へと飛び降りた千代女が、芹の目には、光の中に融けたように見えた。
 千代女が融けた光を見つめながら、芹、
(結局、オレがなずなの幸せの花だって、言えなかったなあ……)
しかし、
(ま、いっか)
むしろ言わなくて正解だったと思った。
(千代女様は相手を五形様だと思い込んでるから許してくれたのかも知れないし)
と、そこまでで、ハタと思考を止める芹。
(何を考えてんだ、オレっ! )
無性に悔しくなった。
 他のことならば別にいいとして、と言うか、今の自分ならば当たり前として、なずなの相手としての自分を、五形よりも劣った存在であると、自分で思ってしまったようなものと感じたためだ。…そこだけは、なずなを大切にすることにかけてだけは、誰にも負けないと自信があったはずなのに……。
(決めた! オレ、絶対、五形様を超える! 五形様より立派な忍になって、いつか千代女様に、『なずなの幸せの花はオレでしたー! 』って、ヘラヘラ笑ながら言いに行ってやるっ! )


                   * * *


 八月下旬、武田軍は更級郡塩崎に陣を構えるも動かず、六十日間近くの睨み合いの末、上杉軍は飯山城へと兵を退き、後に塩崎の対陣とも呼ばれる、忍同士の小競り合いのみに終わった第五次川中島の戦いは、幕を閉じた。
 以後、上杉は関東出兵に力を注ぎ、武田は東海道や美濃、上野方面に向かっての勢力拡大を目指したため、川中島で大きな戦いが行われることは無かった。



                                                    (終)

花をさがす少女

花をさがす少女

越後の上杉輝虎に仕える軒猿頭領・五形(ごぎょう)のもとで育てられた少年・芹(せり)が、元・武田の歩き巫女の卵であった少女・なずなとの出逢いにより、成長していく物語。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-14

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND