聖龍童子外伝1 林王石

商家の子

林家と言えば、王都・平陽でも有数の大店の元締めである。林家とはいうが、龍王国において平民は姓を持たないと定められている。林は私姓で、平民が一族を把握するために自称しているに過ぎない。龍王から賜わる姓を賜姓といい、貴族が持つ姓がこれである。林家は貴族に匹敵する富と、広い人脈を持っていたが、それでも賜姓貴族に比べれば、社会的地位と言う点で比べるべくもない。
稀のことだが、平民の中にも姓を賜わる者がある。いわゆる、賜姓平民というものだ。賜姓は平民にとって最上の名誉であり、それを切望するのは、林家の家長である林光覇も例外ではなかった。光覇の上二人の息子は既に若くして林家を手伝っており、跡継ぎには事欠かないため、彼は年の離れた三男坊には官職について欲しいと願っていた。それこそが、光覇の積年の夢である賜姓の誉れへの最善の道だからである。
賜姓平民で、特に有名な一族に馬氏がある。馬氏はその姓を代々受け継ぐことが許されており、彼らはそれを一族の誇りとしていた。馬氏は古くから馬飼の一族で、先代龍王・蒼龍が駅制を敷く際、王府に多くの馬を献上した功績で、それまで私姓であった馬氏を名乗ることを許され、さらに駅馬の管理、生産を任じられた。馬飼の一族故に、騎馬術に優れており、平民には珍しく武官になる者も多かった。光覇の広い人脈の中には、馬氏の長である馬淵もいた。

馬家の師匠

王石は堅牢な門を見上げた。林家の邸宅も立派な造りだが、やはり商家らしく、どこか開放的な趣きがある。馬淵の邸宅はまるで巌の如く、訪れる者を拒むかのような雰囲気であった。王石が門扉の傍にある呼鈴を鳴らすと、脇扉から侍女とみえる五十絡みの女が現れ会釈した。
「林王石様ですね。」
「はい。」
王石が頷くと、女は自分の後についてくるようにと促した。
馬淵の邸宅は広い。おそらくは馬氏の中でも特別であろう。彼こそが、馬氏賜姓の一番の功労者である。
その邸宅の最奥に馬淵は座していた。すでに齢七十をこえた、白髪の老人であった。
「林王石殿か。」
老人は意外にも柔らかな口調で言った。
「はい。」
王石は老人の前に座し、叩頭した。老人は微笑んだ。
「そのように堅苦しい挨拶はよろしい。そなたは林光覇の息子であろう。あれは、若いのになかなか気骨と知恵のある男。光覇の頼みとあれば、この老いぼれにできることあらばいたそう。」
「ありがとうございます。」
「しかし、商家の息子を武官にとは珍しい。林家ほどの大店なら家庭教師をつけて文官の道を目指すが定石であろうに。」
「私が望みました故。」
老人は真っ白な顎鬚をしゃくる。
「ほう。武官の道が文官よりも険しいと知った上でか。」
「はい。」
王石の答えは明確であった。
老人は笑んだ。
「よろしい。青安。出なさい。」
老人はぱんぱんと、手を叩いた。隣の襖が静かに開き、男が淵の横に着座した。
「息子の青安だ。」
青安と呼ばれた男は、齢五十は裕に超えていると見えるが、立派な体格の偉丈夫であった。
「林光覇が三男、王石と申します。」
王石が再び叩頭すると、青安は頷いた。
「光覇は私の友人でもある。これからはこの家を郷と思い、鍛錬に励みなさい。」
「ありがとうございます。」
こうして、王石は馬青安の元で武術を学ぶことになった。

武官の道は文官より険しいと馬淵は言ったが、兵卒となることはそれほど難しくはない。国軍の兵卒は公募される。龍王の正規軍である龍軍でも、最下官である兵卒は公募である。そういう点で、試験制度でしか選ばれない文官よりもよほど容易である。
先に述べた武官とは兵卒ではない。言わば指揮官である。国軍であれば、尉官より上位の兵は国府吏である。国府吏となるためには、通常国学を修了する必要があり、王府吏であれば大学を修了する必要がある。これは文官、武官に共通している。だからこそ、平民には特別難しい。そもそも大学はもとより国学でさえ、入学試験を受けるには龍王族、高位高官、若しくは中科の教頭からの推薦が必要である。彼らは殆どが貴族であるから、平民には受けることさえ難関である。平民が、国府の官吏になるには、まず中科で一番の成績を修めた上で、官吏に根回しをしなくてはいけないのである。

龍王国の学制では、六歳から九歳が初等、九歳から十二歳が小科、十二歳から十五歳が中科とされる。平民の中でも農民や工民の大半は初等程度しか学ばない。算学が必要な商家でも小科まで、あるいは小科へ行かず私学の商科で学ぶのが大方であった。
王石は十二歳。今年中科に入学した。王石にとって、文科でも武科でも、中科で一番を取ることはさほど難しくはない。しかし、教頭に推薦を貰っても、試験が正しく行われなければ国学に入学することは難しい。ただでさえ、王都のある羅国の国学は難関である。
光覇が息子を馬氏に送ったのは、そういう裏事情がある。如何に王石が優秀でも、貴族が圧倒的に優位な社会では、優秀さが即ち勝利するとは限らない。
平民である馬氏も、同じ苦しみを知っていた。騎馬術に優れる馬氏は、武官を多く排出しているが、殆どが県の衛士か巡士が関の山である。長い馬氏の歴史を紐解いても国府吏など指で数えられる程度である。その中の一人が馬青安であった。五十を過ぎ、既に職は退いているが、かつては羅軍の副官まで登った男である。歴代の馬氏の中で最も優れた武将が、王石の師となったのである。

王石は馬氏の若者に混じり、中科のない日は常に武術の鍛錬に勤しんだ。馬氏の若者たちは林家という有名な商家からわざわざ馬氏に来た少年に首を傾げたが、王石の熱心な様子を見るにつけ、次第にその好奇の目を改めた。

父と息子

「ま、まいった。」
茶斑の髪の男が息を切らしながら言った。男の顔の先には槍を模した棒の先端が突きつけられていた。槍のもう一端を掴んでいるのは、まだあどけなさの残る、少年であった。
「勘弁してくれよ。お前に槍まで負けたら、俺はもう勝てるものがなくなっちまう。」
少年は無言であった。無言のまま槍を引き、丁寧に会釈した。
「ありがとうございました。」
そう、一言だけ言った。
「ったく…」
男が頭を掻きながら、身を起こそうとすると、背後から声が聞こえた。
「やっているな。」
その声に慌てて、男は再び尻餅をついた。
「ち、父上。」
「慶夏。なんだ、その情けない格好は。」
「いやあ、やられましたよ。」
ぽんぽんと尻についた砂を払いながら、その男、馬慶夏は苦笑した。
「お前が槍で負けたか。」
青安は息子の様子を眺めて言った。息子の傍では、王石が槍を地面に置き跪いていた。律儀な子供である。
「そうですねえ。剣術ではとうに敵わないし、弓術も無理。ついに槍でも負けちまいましたよ。槍術は得意なんだけどなあ。あとは体術くらいかなあ。」
あっけらかんと言う息子に、青安も笑って返す。
「そこは、馬術もと言っておけ。」
「馬術もなあ、そろそろ危ういかもしれませんよ。」
「おいおい。」
とはいえ、仮にも馬氏の嫡男である慶夏の槍術が並の腕ではないことは、青安はよく分かっていた。
この子供は化物か。
青安は落ちた慶夏の槍を拾い上げ、苦笑した。
「王石、構えよ。」
戦慄が走った。軽口を叩いていた慶夏がピタリと動きを止めた。王石もまた、一瞬動きを止めたが、瞬間で槍を構え、切先を相手に向けた。
「参れ。」
言葉と同時に、王石の体が宙に舞った。
速い。
慶夏は驚きを以って王石を見つめた。体格で敵わない王石は、速さで父に挑んだのだ。
槍は間合いが長い。良い判断だ。
切先が父に届いた、と思った瞬間、王石の体が大きく左に揺れた。次の瞬間には、倒れ伏す王石と王石の槍を握った父がいた。
「良い攻撃だ。だが、お前の槍は軽すぎる。確かに、速さでお前に敵う者はそうはいるまい。しかし、慶夏が体術では負けないと言った意味は確かにあるのだ。槍を持っているから槍で戦う、それだけでは実戦の役に立たぬ。」
王石はむくりと起き上がった。どうやら父の拳は王石の顔を直撃したらしく、右の頬が腫れていた。それにしても、傷がそれほどでもないのは、咄嗟に危険を回避するため殴られた方向に引いたのだろう。
空中戦の中で、やるねえ。
慶夏は溜息をついた。
初めて王石を見た時から、父はとんでもないものを拾ったと思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。王石と年の近い末弟の季衛などは鼻息荒く彼を敵視しているが、既に二十五、彼の倍近い年を食っている自分からすれば、そんなことは愚の骨頂である。彼は天才だ。常人の自分たちが如何に足掻こうとも、彼は常にその先にいる。
父もまた、そんな天才の一人である。その父が、既に王石を認めている。天才には天才しか分からない境地がある。
慶夏とて、季衛の年頃には自分と青安を比較し、必死に足掻こうとしたものだった。しかし、とうの昔に諦めた。慶夏の美点は、けして父に敵わないと悟ったときにも、冷静に客観的に、次の事を考えられる性分にあった。
無理はせずともよいではないか。

慶夏の本職は県の衛士である。実のところ彼のすぐ下の弟は国府吏でこそないが、羅軍の士卒であり、位で言えば彼を超えている。しかし青安は頑として彼を馬氏の嫡男と定めたのだった。長子だからだけではない。彼の寛容さと強かさを知っているからである。王石もまた、何故か手合いの相手を慶夏に頼む事が多い。槍術、馬術はともかくとして、他は彼より優れた者は大勢いるにも関わらずである。
「貴方が一番やりにくいからです。」
きっぱりと、明確に王石は言うのだった。理由のないことではない。王石は慶夏の持つ強かさを感じとっているのだ。
「王石、今日はこれまでにしよう。顔を洗ってきなさい。」
言われて王石は、初めて唇が切れて血が流れていることに気がついた。
「はい。」
既に日が傾く夕刻であった。

王石を見送りながら、慶夏が父に囁いた。
「父上、あの子供をどうなさるおつもりで。」
父は息子の横顔を見た。
「そなたはどう考える。」
慶夏は顎をしゃくって、へら、と笑った。
「さてさて、あの子の父親は国学に入れて欲しいのでしょう。」
「ああ。」
「私なら、そうはしませんね。」
その言葉に青安は続けた。
「ならばそなたはどうする。」
林光覇ほどの富と財を持つものならば、息子の一人くらい、官吏になって欲しいと願うのは高望みではない。
「あれは、国学の器ではありませんよ。」
「ほう。」
一瞬の間を置いて、慶夏は微笑んで言った。
「父上は、あの子を大学に入れるおつもりですね。」
確信を持って、慶夏は尋ねたのであった。

大学。龍王国の最高学府であり、王府に属する唯一の学校であった。大学を修了するということは、六位以上の官、即ち王府吏の資格を得るに等しい。王府に属する官吏は龍王の直臣であり、龍王国の中枢を担う。人数も文武各千人程度しかいない、超がつく高級官僚であった。龍王族だけは問答無用で王府吏の資格を得るが、貴族はそう簡単にはなれない。貴族でも原則として大学卒業の資格がいるからである。大学は文科、武科のニ科。毎年の入学者は一科五十人程度である。大学は確かに平民にも門戸を開いており、平民が王府吏となる唯一の道であったが、元来平民の入学者は殆どいないのが実情であった。龍王国の人民は約三千万。その中で、龍王族は約百人、貴族は下級も含めて約十万人。残りの二千九百九十万人は平民と呼ばれる者たちである。貴族であっても二千しかない王府吏の椅子を取るのは至難なのである。平民からすれば、如何にそれが難儀なことであるか、想像に難くない。まだ国学であれば、少ないとは言っても平民は学生の三分の一。しかし大学の入学者は三年に一人、と言われた。
息子に多大な期待をかける光覇でさえ、大学までは望まなかった。しかし、青安だからこそ、そのような望みを抱けるのである。

青安は馬氏で初めて大学に入った男である。そして、後にも先にも彼以外に、大学に在籍したものはいない。馬氏の中で青安が不世出の名将とされているのも、そこに所以がある。
しかし青安は大学を卒業してはいない。彼は大学を中退し、国学に入ったのである。
今でも、青安の中には後悔の念が燻っている。或いはあの時もう少しだけ耐えていたなら、今とは違う人生があったのではないか、という思いであった。
だからこそ、愛弟子である王石を大学に入れたかった。やっと見つけた金の卵である。彼は自らの無念を王石に託したかった。
「父上は王石が入学できるとお思いですか。」
慶夏は問うたが、答えは決まっていた。
「無論。受けることさえ出来れば入るだろうよ。」
青安は王石の才能を確信していた。

大学を受けるには、国学の如く中科の教頭の推薦程度で、という訳にはいかない。青安が思い当たる伝手は一つしかなかった。かつて彼が所属していた羅国軍の元帥である。青安の最終的な官職は羅国左軍の副官。上には将軍、さらに元帥がある。当時の羅軍元帥は龍王族で、龍王陛下の叔父君であった。彼がその座を下り、本来あるべき地位に就いた時、青安は軍を辞したのである。それからまだ五年も経っていない。よもや忘れることはあるまいと思えた。
「ちょうど即位祭の式典の季節だ。平民にも入山が許される。それまでに文をしたためねばならぬ。」
「入山とは…」
慶夏は怪訝な顔をした。
「麗山へ行く。」
きっぱりと青安は言った。

麗山公 仁

渡月宮は木造の丁寧な組物が美しい。玻璃の輝く窓に、木漏れ日の光が反射していた。王都・平陽の王宮殿の荘厳さとはまた違った趣がある。隣接して巨大な神樹が聳え、神樹の袂には祠があった。祠には長蛇の列。人々の参詣が続く。
麗山は龍王国において神守の山と言われている。初代龍王が天帝と共に魔族を退治し、その功でこの地に封ぜられた時、この地にに残る悪しき力を封じるために麗山に天帝より賜わった神宝を祀った。不思議なことに、そこから木の芽が生え、神樹となったと言う。かの伝説は龍王国においては初等で学ぶ、誰もが知る逸話である。ともかくも、麗山は神聖なる地として、代々龍王族の中から選ばれた麗山公が治めて来た。麗山公は龍王国の祭司の長であった。

長い列の中に青安と慶夏、王石らの姿もあった。彼らのように羅国に住み、かつ手飼いの馬がある富裕の者にはそれほどでもないが、地方に住む農民にとっては、麗山参詣は一生の夢であった。
祠への参詣を済ませると、青安の元に、どこからともなく老婆が現れた。
「馬青安殿、公がお待ちでございます。お供の方は…ご嫡子のみお越しくださいませ。」
青安は老婆の前に跪き礼をすると、老婆は踵を返し、着いてくるように促した。青安はその表情に困惑を見てとった。
馬氏は有名な賜姓平民である。平民が自らの主人のもとに客として訪うことが不審なのだろう。

渡月宮の主人は公殿の上座に坐し、柔らかな笑みで、青安を迎えた。
「やあ、青安。」
「お久しゅうございます。」
青安と慶夏は跪き叩頭した。
「なぜ今まで一度もここに来なかったのだ。」
声の主は少し、責めるような口調で言った。
青安は叩頭したまま答えた。
「殿下は最早羅軍の元帥ではございません。この身には雲上のお方。お会いするのは憚られると思いましたので。」
「相も変わらず硬い男よ。」
男は青安の様子を見ながら少年のように屈託なく笑った。
麗山公・仁は前龍王の第十一皇子である。五年前、羅軍の元帥から麗山公となった。
「別に何もかわっておらぬよ。周りだけが変わってゆくのだ。そなたは顔も上げてくれぬしな。」
仁は嘆くように言った。
その言葉を聞いて慶夏はちらりと上座を見た。
なんという美しいひとだ。
慶夏が王族を間近に見たのは初めてであった。確かに男なのだが、まるで女子のように華奢であった。軍の長をしていたとは到底思えなかった。
王族とはこういうものなのか。
「おや、息子の方が父より余程度胸があると見える。」
慌てて、慶夏は目を伏せた。
「愚息がご無礼をいたしました。」
「良い良い。二人とも顔を上げなさい。」
二人はようやく顔を上げた。
変わらぬ姿に青安は驚いた。五年の歳月を経たのは自分だけのようであった。そして些か安堵した。
この五年で青安と仁の身分は天と地ほども離れてしまった。今や仁は麗山公、そして彼の娘は皇太子妃になった。まさか仁自身も、龍王の第三皇子である娘の許婚が皇太子になるとは夢にも思っていなかっただろう。今や仁は時の人であった。だからこそ、変わってしまったのではないかと、危惧していた。
「良い息子ではないか。名はなんというのだ。
慶夏はひどく緊張した。王族に名を名乗れるなど、滅多なことではない。
「ば…馬慶夏と申します。」
「慶夏か。そなたも武人なのだな。」
仁は懐かしむような目で言った。
「青安の文には息子とあった。これは慶夏のことか。」
慶夏は驚いた。父は王石を息子と書いたのだ。
「それは…」
「おそれながら、申し上げます。」
慶夏を遮るように、青安の言葉が響いた。

王石は神樹を見上げていた。とはいえ、再び祠に詣でようとも思わない。行列は未だうんざりするほど長かった。少し開けた場所から見渡すと、平陽の街が一望できた。麗山は馬で登れるほど傾斜の緩やかな山で、龍王国一の優美なる稜線の山でもあった。王都は黄昏に染まり、竈の煙に包まれていた。
「王石。」
急に呼び止められて、王石は驚いた。
「慶夏様。」
そこには、慶夏がいつもの笑みで立っていた。
「お前を呼びに来た。」
傍には先刻の老婆が無表情で立っていた。

王石はその日生まれて初めて龍王族を見た。麗山公・仁。麗山公は龍の皇子がないとき龍王に立つため、副王とも呼ばれるが、それ以前に、平民にとって全ての龍王族は雲上人である。
「そなたが王石か。まだ幼いな。面を上げよ。」
平伏す王石に、満面の笑みで仁は声をかけた。
王石は顔を上げ仁を見た。
「ほう。」
仁は感心したのだ。王石は一つの動揺もなく、凛とした瞳で仁を見た。
龍王族は龍王国において特別であった。誰もが仁を前にすると、畏怖の念を隠せない。それは慶夏も、青安でさえも同様であった。
若さ故か、それとも…
仁は心の中で微笑んでいた。遠い過去に同じように凛とした瞳で自分を見た者がいることを思い出していた。
まるで、梨慎のようだな…
仁は青安の期待が分かる気がした。

「青安よ。私にもそなたと同様に息子の如き弟子がある。」
仁は目を細めて言った。
「いつか、王石とも会うかもしれぬな。龍王宮で。」
青安は平伏した。
「ありがとうございます。」
王石もまた平伏した。
王石はその年、平民で唯一の大学入学者になった。

魔女

この年の大学入学者は珍事に溢れていた。女性の入学者がいたことはその一つである。
龍王国において女が官吏となる道はほぼ皆無であると言って良い。唯一女に開かれた道は医官と後宮女官である。確かに後宮女官も極めれば王府吏に匹敵する権力を持ちうるが、それでも政に関わる職には携われないのが実情であった。
大学も国学も女子禁制ではない。羅には王国で唯一、女学と呼ばれる特別の国学があった。医官を目指す女子の学府である。しかし、一般の国学、はては大学は基本的に為政の官、あるいは軍官を養成する場所であるから、女子の入学は皆無といってよかった。女子が大学に入るのは平民以上に稀で、困難な道であった。
香牧夜は実に二十年ぶりに、大学に入学した女子であった。
もう一つの珍事は武科に平民の入学者があったことである。
大学に平民が入学することは稀ではあるが、無いことではない。しかしその殆どが、文科入学者であった。武官は必ずしも大学に入らずともなることができるため、敢えて困難な道を選ぶ者は少ないのだ。だが、王府で尉官以上の武官を目指すならば、大学卒業は必須でもあった。入学者の名は林王石。平陽を代表する商家・林家の三男坊であった。

「あんた、平民なんだってねえ。」
入学してすぐに、声をかけたのは牧夜の方であった。既に平民の分際と罵られることにも慣れていた王石は、またか、と言った調子で、
「ええ。」
と応じた。林家は大家であり、貴族への金を貸す場合もある。だから普段は貴族に対しても、優位に立つことはあり得るが、ここは大学である。官吏は出自と学歴が物を言うだけに、学生たちは皆、身分に厳格で、出自の低いものを蔑む風潮があった。
「あんた、強いんだね。」
だからその意外な言葉に、王石が驚いたような顔をすると、牧夜は屈託なく笑った。
「私が馬鹿にすると思ったのかい?」
「いえ…。」
「むしろ私はあんたが私を馬鹿にしてるんじゃないかって、思ってるくらいなのにさ。」
牧夜はまるで平民が話すようにくだけた物言いをした。
「なぜ?」
心底驚いた表情をした少年を見て、牧夜は思わず吹き出した。
「あんた、私が周りになんて呼ばれてるか知らないのかい?」
牧夜の言葉に王石は少し考えてから言った。
「魔女…」
女で大学など普通で考えれば酔狂である。それを侮蔑して、皆が影でそう呼んでいるのは王石も知っていた。
「なんだ、知ってるんじゃないかい。」
牧夜は鼻で笑った。牧夜は貴族の中でも格別の家柄だから誰もが面と向かっては言えない。だが、皆が、奇異の目で見、影で噂していることはよく承知していた。
「別に大学に入ったくらいで驚くほどのことでもないでしょうに。」
だが、王石はきっぱりと答えた。ほう、と牧夜は息を飲んだ。
「あんた…やっぱり変わってるね。」
平民だとか貴族だとか、男だとか女だとか、拘っていたのは牧夜自身であった。
だからこの少年に近づいた。自分と同じはみ出し者だと思ったからだ。しかし、少年はそんな自分の仲間意識も、憐憫の情も、一蹴したのであった。
牧夜は目の前の少年を強い子供だと思った。大学の入学年は人によってまちまちだが、この子供は相当幼いように見えた。しかし、確固たる自分を持っていた。

実のところ王石も入学の式典で女を見た時は少し驚いた。女が大学とは、彼の頭にもなかったことだ。だが、彼女の噂を聞くにつけ、もし、自分が彼女の立場であったなら、やはり官職を目指しただろうと思った。


牧夜は天才であった。貴族の中でも名門香氏の家門に生まれた彼女は、一族の男と婚姻して欲しい親の思いを他所に、医官になるために十五で女学に入学した。珍しいとはいえ、女学は羅の国学であるから、流石に両親も文句は言わなかった。
「私だって初めから大学目指そうなんて、そんな非常識人じゃあないのさ。ちゃんと女学へ行ったんだよ。そこを一年で卒業させられた時にはさすがの私も驚いたけどねえ。」
後に彼女は王石にこう、語っている。
「確かに単位は揃っていたけどさ、十六で放り出されたって、国府が医官として雇ってくれるかい?市井に下りたって、十六の小娘の医療なんていくら卒書があっても信用されるはずもない。ま、私は変り者だったから、学校も早く追い出したかったんだろうさ。」
要するに、彼女の才を学府が持て余したのである。
「二年待ちゃ、国府の医官試験を受けられた。けどねえ、その二年、何をする?実家に帰りゃ嫁に出されるだけの話。私がいくら不器量でも香一族と縁組したい家はいくらでもあるからねえ。特に私の母上は明侯様の姫だからね。」
牧夜は有り余る才と実家の権勢を持つ、正真正銘のお姫様であった。そうでなければ女の大学入学など実現できない。彼女は一人娘に弱い父親を説得して大学試験の受験資格を得たのである。

良家の姫であるはずの牧夜の、この奇妙な考え方を形作ったのは、彼女の生まれが多分に影響していた。

褐色の姫君

「婆様。今日変な奴に会ったよ。」
牧夜は寝台の縁に腰掛けて言った。その声を聞いて寝台の主はゆっくりと身体を起こす。寝台は清潔感はあるが非常にこざっぱりとしていた。寝台だけではない。この家のすべての調度品がそのように簡素で整然としていた。牧夜の生き方に多大な影響を与えた祖母・香燦はその調度品のようにさっぱりとした人だった。
「お前はその言葉遣いを直した方がいいね。」
呆れ顔で、香燦は言う。
「婆様に似たんだ。」
牧夜は笑って返した。だが、牧夜はこれで龍軍将軍の娘である。また、母方の祖父は明国侯という良家の子女だ。同じような家柄の貴族の内では明らかに異質であった。
香燦は牧夜の焦茶色の髪を撫でる。燦には三人の子女があり、いずれにも孫があるが、彼らの中でこの家に好んで寄り着くのは、昔から長男・作父の娘の牧夜だけだった。
子供達が、或いは孫たちが寄り付かないのには理由がある。燦は燦の夫であった香汪卓の正室ではないからだ。汪卓は龍王族で、龍軍将軍まで務めた武官だから正室は当然貴族出身であった。しかし子供に恵まれず、庶子である燦の子供らを養子にしたのだ。ある時を境に、燦は自ら子供に会うことは禁じられた。そして、子らも彼女に会いに来なくなった。
牧夜は燦によく似ている。肌の色が似ているのだ。それは牧夜の父・作父の肌と同じ色だ。
かつて、燦は珍しい肌の色を詰られた作父に語りきかせたことがある。海の向こうにはそのような肌の色の人間がたくさんいるのだと。だから珍しくも可笑しくもないのだと。
忘れていたのだ。その話が禁忌であることを。
それ以来、子供たちは会いに来なくなった。

龍王国に褐色の肌の人が居ないわけではない。だから皆、その色は当然変異か何かだと思っている。彼らはけして出自を語らないのだ。否、語れないのだ。渡航禁止の世の中で、異邦人であることは、即ち死につながる。だから彼らは隠すのである。
龍王に近しい一部の人々は彼らが異邦人であることを、おそらく知っている。だが、それを敢えて黙認しているのは彼らには既に帰る場所がない事を知っているからだ。
燦の生まれた国は、この龍王国よりもずっと住みにくい国だった。その国にいたのは十までだから、記憶が曖昧なところもあるが、少なくとも毎日がこの国のように平穏ではなかった。戦火は燦たち庶民の日常を襲い、そして家族を奪った。その国には王はいたが、龍王国のように絶対的な権力者ではなかった。王は臣下の争いを止められず、民衆の蜂起も至る所で起こっていた。その国は果てしなく続く内乱に疲弊していた。
燦は親を失い、隣家の親族から畢鼠に売られた。そして、龍王国の遊郭に売られたのだ。燦の肌の色は龍王国では珍しく、興味本位で燦を買う客も、疎む客もいた。
香汪卓は燦の客の一人であった。後から知ったことだが、燦のいた遊郭は紅楼と言って、普通の遊郭より格式が高く、遊女の扱いも抜きん出て良かった。彼女らは王族や貴族の相手をすることを求められ、それに相応しい教養を身につけさせられた。普通遊女は人として扱われないが、紅楼の女はまだ矜持というものを持つことができた。
それは燦を遊郭に売った賈宗勲という畢鼠が当時、龍王国を代表する大商人の顔を持っており、その宗勲が燦に目をかけたからこそ、得た待遇であった。
当時燦は気付かなかったが、王族である汪卓は、その肌の色から燦が異国の民であることを知っていたはずだ。そしてそのことを蔑視していたはずなのだ。
だがそれでも、汪卓は誰より熱心に通う客であり、燦を落籍させた恩人ともなった。
汪卓は燦を人とみなしていなかったが、女としては愛したということだ。燦は今はそう思うのだ。だから燦が老いて後は訪れることさえなかった。
燦は長く子供と会うことを許されなかったが、ある時、作父が急に現れて己の子を紹介した。それが牧夜だったのだ。作父自身にも実母に会えぬことに対する抵抗と罪悪感があったのかもしれない。作父が来たきっかけは汪卓の死であったと後に知った。

牧夜は権勢門下に生れながら、異物のようであった。なぜか、馴染めないのだ。豪華な衣服にも、料理にも、ましてや位階にも興味がなかった。むしろ、贅沢な話だが、身近すぎて厭いていたのかも知れなかった。その点で、祖母・燦の家は居心地が良かった。貴族の側室だから貧しいわけではないが、彼女は必要以上のものを求めない性格をしていた。昔賎民であったと、隠しもせず言う彼女の周りには、貴賎を問わず人が訪れた。彼女には身分さえ無用のもののようであった。
牧夜にとってはなぜか、その場所が心地よかった。燦の少し訛りのある話し方も、燦が語る異国の物語も。
一風変わった貴族・香牧夜は香燦が生み出したと言ってよい。彼女は龍王国初の王属医務官となった女性であり、平民を夫とした稀有な貴族でもあった。

御前試合

「閣下、私は林王石を推薦いたします。」
良く通る声が一軍府本殿に響いた。一瞬の沈黙を置いて、周囲がざわめいた。
「何を申すか、利尚殿。そなたの本気か。」
いち早く反応したのはもう一人の一軍副官、関赤雲であった。白髪に長い白髭の利尚に対して、赤雲は黒に近い褐色の髪と短い髭が特徴であった。
利尚は迷いのない表情で頷いた。その言葉に驚いたのは赤雲だけではない。一軍府に集まる上将たちの誰もが、そして仙孝もまた驚きの表情を隠せなかった。
利尚は美髭をしゃくりながら言う。
「驚くことはございますまい。それにこれは殿下もお望みのことではございますまいか。」
「それは…」
その通りではあった。しかし仙孝はそれが難しいということもわかっていた。だからこそ大っぴらにそのようなことを言ったことはなかった。
赤雲がまくし立てるように言った。
「わかっておるのか、利尚殿。林はたかだか什長。しかも平民ぞ。平民を龍王陛下の御前に出すなど前代未聞のこと。一軍の恥ではないか。」
龍軍は総督元帥を筆頭に、五人の将軍がそれぞれ常時五千の軍勢を持つ。将軍の下には二人の副官、その下に十人の上将。その下に五人の校尉、その下に五人の什長、二人の伍長。その下に四人の兵卒が付く。他に下には雑役があるが、非常時の徴兵でありこれは武官に数えない。
王石は什長。即ち十人の兵士の指揮官である。大学武科卒業者であれば二十三で位階七位の龍軍什長は妥当なところと言えたが、問題は彼が平民であると言うことだった。
王石は二十歳で羅軍の伍長だった。その時、仙孝の目に止まり、龍軍伍長とされたのだ。大学卒業者での羅軍従軍は珍しい。普通は中央軍である龍軍に配属されるものだが、どこからかの圧力で、平民の王石が羅軍に配属されたことは想像に難くない。現に王石を龍軍に異動した時も、一番に反対したのは利尚その人であった。
だからこそ、仙孝は驚いたのだ。
利尚はかつての名族孫氏の出身である。前真国侯の子であり、れきとした龍王族である。それ故に誇り高く、平民が将官となることを快くは思っていない節があった。
「まさか、利尚殿からそのような言葉を聞くとは…」
同じく王族の赤雲、そして王族と貴族で占められた上将達が困惑するのは当然であった。
「では、逆に尋ねるが、一対一の剣戟で、王石に勝てる者がこの軍におるか。」
利尚は赤雲に向かって言った。そして、上将達を見回した。
「おると言うのなら喜んで、私は前言を撤回しよう。」
詰め寄られて赤雲は沈黙した。
「出たければ、そなたらが出れば良かろう。仮にも軍の上将、副官。強き者の集まりのはず。必ず勝てるならば私は文句を言わぬ。」
沈黙は上将達にも広がった。利尚は自嘲の笑みを浮かべた。
情けないことだ。この中には龍王族もいる。それでも、誰も確信を持って林王石に勝てると言えぬ。
「一軍は龍の皇子を筆頭に頂く軍ぞ。けして、陛下の御前で醜態を晒すわけに行かぬ。だからこそ、実力のあるものが試合をすべきだとは思わぬか。」
沈黙は全体に広がった。誰もが苦虫を噛み潰したような表情であった。
「相分かった。」
仙孝は場を制する様に言った。
「一軍からは槍術、恩全統、孫正真。剣術、旅壮英、林王石を出場させる。以上だ。」

御前試合に出場すると聞かされて、王石は驚いた。何よりも他に名前の挙がった三人が全て校尉の地位にある者ばかりであったからだ。年齢は王石よりも若い者もあるが、それにしても不可思議であった。什長は一軍に五百人いるのだ。確かに一対一の試合など、若い者にしか出来ないだろうが、それにしても相当数いるはずだった。まさかくじ引きで決まるとも思えなかったが、命じられれば断るわけに行かない。ましてや、将軍直々の命令であれば尚更であった。
また閣下の気まぐれだろう、と王石は思った。かつて、王石は仙孝皇子と試合をしたことがある。羅軍の伍長であった時だ。当時まだ仙孝皇子は龍一軍の副官で、弱冠十八歳の少年であった。通常平民にとって、龍の皇子など雲上人であり、言葉を交わすことすら叶わぬ御方である。しかし、かの皇子はなぜか王石に手合わせを望んだのだった。
王石は溜息をついた。厄介だと思ったが、少しばかり好奇心も疼いた。御前試合ということは、選手は龍王に拝謁する機会を得る。龍王の姿は未だ王石も拝んだことがない。一軍府は王宮から遠く、龍軍は遠征も多いからである。龍軍は龍王の直軍であるが、王石のような地位の者がそれを意識する機会は稀であった。

龍一軍から林王石が出場するという話は瞬く間に龍軍内部に広まった。一方でそれは醜聞の如く、あるいは怒りを以て語られたが、一方では喝采を以て迎えられた。龍軍とはいえ、什長以下は平民が多い。即ち軍属する者の大半が平民であるという事実からすれば、王石は彼らにとって、英雄であった。
龍軍府の中でも王石はやたらと声をかけられた。大半が厳つい男たちからの激励であった。
「やはり気味がいいな。絶対勝てよ。王石。」
すれ違いざま熊のような男が王石の肩を叩いた。
「今日は宿直番か。淑仁。」
王石は少し痛がるそぶりを見せながら、答えた。王石は無口な男だが、淑仁を前にすると多少饒舌になる。淑仁はにかっと笑う。
「そうだ。そういやお前、梢様の顔を見たか。」
「いや。」
梢洪邑は王石、淑仁の上官である。
「まるで茹で蛸だぜ。あれじゃいつかホンモノの蛸になっちまうんじゃねえか。」
淑仁は手で丸く形作り、大笑いをした。王石は洪邑の頭を想像し、溜息をついた。洪邑は誰よりも出自を気にかける。
「そういや…さっき正真様が来てたぜ。お前を探していた。」
「なに…」
王石の表情が変わるのを見て、また淑仁が笑う。
「こいつぁ、ご愁傷様。しかしまあ、あのお方もあれで王族様だ。丁重におもてなしすることだな。」
「淑仁。逃げて来たな。」
高笑いを残して、淑仁は奥へと去った。
既に夕刻である。宿直番が次々にやってきて、交代の鐘を待つ時刻だ。
王石は鬱々とした気分で隊舎へ向かう。そこに誰がいるかは、想像に難くない。大きな溜息と共に隊舎の扉を開いた。
「そ、孫正真様がお越しです。」
部下の一人が慌てた様子で王石を迎えた。中門に立たせていた男だ。
一軍府は右殿と左殿がある。王石の所属する第五団は今月は留守居役であり、軍府に常駐していて、左殿に在る。中門は左殿と右殿との間にある門のことだ。
正真は第二団の校尉であり、現在二団は右殿の留守居だ。大方、部下は正真に中門を開けろとせがまれたのであろう。
「相分かった…」
言ったそばから、大きな物音と共に何かが駆け込んできた。
「兄上!」
小柄な少年が目を輝かせて立っていた。
「…正真様。お久しぶりでございます。」
王石は恭しく、少年の前に跪いた。少年の名は孫正真。年の頃はまだ十六である。
「兄上、そのように堅苦しい挨拶はよいではありませぬか。」
「正真様。ご無礼とは存じますが、兄と呼ぶのはやめてくださいと前に申し上げたはずです。」
王石はきっぱりと言った。勿論、正真は王石の弟などではない。そもそも、彼はかつて王石の直属の上官であった。
孫正真は現真国侯の息子で、一軍副官、孫利尚の甥である。確かに、王石の方が年上ではあるが、兄と呼ばれる謂れは無かった。
「よいではありませぬか。私は兄上を実の兄の如く思うておるのですから。」
王石は心の中で再び溜息をついた。龍王族というのは皆こう不可思議なのか。
王石が返答に窮していると、思い出したように、正真は言った。
「ああそうだ。私、本日はお祝いを申し上げに来たのです。」
「祝いですか。」
「御前試合に出場なさるとか。私、それを聞いて居てもたってもいられず、来てしまったのです。」
今頃、第二団の連中は彼を探して慌てふためいていることだろう。
「正真様もご出場と伺いましたが。」
王石の言葉に、正真は頷いた。嬉しくて堪らないとう表情であった。
「そうなのです。兄上の試合を真近に見ることができるなんて、こんなに嬉しいことはありません。」
正真にとって、自分が出るか否かはさほど重要ではなかった。そもそも副官の甥であり、龍王族である彼には、試合に出ることそのものは大した困難ではなかった。
「叔父上はようやく分かってくださった。」
正真はにこにことして、言った。
なるほど、と王石は思った。御前試合に出るためには、副官の推薦が要る。王石の所属する団は孫副官の所掌であったが、誇り高い王族である孫副官がなぜ王石を推したのか甚だ疑問であったのだ。しかし、それも氷解した。要するに、正真がねだったのである。甥の頼みを容れたというわけだ。

因みに、王石のこの見解は、少しばかり的を外していた。確かに正真が頼んだのも事実だが、利尚という人はそれで自分の意見を変えるような人間ではない。利尚は王族至上主義者であるが故に、龍の皇子を崇敬し、龍五軍の中で、龍の皇子を奉戴する唯一の軍である一軍を誇りに思っていた。そしてその軍こそが、どのような場合においても最強であるべきと信じていたがために、王石を選んだのである。

列席者の御名を拝し、梢洪邑は鬱々とした気分でいた。龍王陛下を始めとして、皇太子殿下、世孫殿下、錚々たる面々が連なる。御前試合に平民を出場させるなど、前代未聞のことであり、然も自分の師団から出るなど到底受け入れらるものではなかった。他団からの嘲笑が聞こえるようであった。でき得るなら将軍様に直訴したいほどである。しかし校尉の身分でそれも叶わなかった。せめてと思い、上将にだけは訴えたが、将軍閣下と副官双方の意向では如何ともし難いとの仰せであった。かくなる上は、王石には是が非でも勝ってもらわねばならなかった。平民を出した上に負けたでは一軍そのものの面目が立たない。そう思い、王石の対戦相手の名前を見た時、洪邑は眩暈を覚えた。関熙雷。一軍副官、関赤雲の息子の名であった。王石の勝敗に関わらず、洪邑の未来は暗澹としていた。

その日

空は抜けるように青い。狼煙が白煙を上げて虚空に舞う。平陽最大の河川である光河沿いの広野に龍五軍の旗がはためいている。中心には巨大な天幕。そして小さな天幕が点在している。巨大な天幕の前には試合場。天幕の片側は解放され、御簾が降りている。天幕の内から試合を観覧出来るのだ。御座は御簾の内に設けられ、主の姿を待つ。
銅鑼の音が響く。音曲と共に御車が現れる。龍軍府の総督元帥が出迎え、平伏する。御車の内からは金糸の竜紋を背負う男。即ちこの龍王国の主、龍王陛下の出御である。御車に随伴するは寵妃、廉嬪。元来、龍王の妃嬪が後宮の外に出ることは滅多にないが、今回ばかりは廉嬪出御にも理由があった。廉嬪は一軍将軍、仙孝の母親である。
龍王の御車の後ろには聖龍童子・修の車が連なり、その後ろには、修の嫡子、世孫・八鹿の車が続いた。龍王、聖龍童子、世孫が順に降り立つと龍五軍将軍は並び立ち騎馬を御前に進め、跪き、口上を述べた。龍王は頷き、御簾の内に着座した。五軍の上位官はそれぞれの軍色、軍紋の甲冑を身に纏うことができる。例えば一軍の甲冑は鈍色菊水紋、二軍は紺色睡蓮紋というように。とりどりの色を纏う武人の姿は壮観であった。

王石は隊列の一番後ろで平伏していた。護衛の兵卒を除けば現在この場にいる誰よりも、王石の身分は低いのだった。
各軍から上将数名、校尉十名程度が兵卒を率い、護衛に当たっている。御前試合中は各軍の副官が軍を預かるため、本来であれば王石は御前試合など気にもせず、日々の仕事をしているはずだった。
儀式は辟易するほど延々と続いた。

一軍上将の一人が大声で選手の名前を読み上げるのを聞き、王石は将軍・仙孝の前に進み出で、跪いた。
「皆の者。健闘を祈る。」
仙孝の言葉はそれだけだった。

青空に響く銅鑼の音。それに合わせて機敏に動く兵士たちを、八鹿は御簾の内から面白そうに見つめていた。隣では父が退屈そうに見ている。御前試合など父にとっては毎年のことで既に飽いているのだろう。龍王陛下にとっても父にとっても、御前試合とは、普段王宮殿に駐在しない龍軍と、龍王の主従関係を確かめるための儀式の一つにすぎないのだ。龍王陛下にとっては、一軍将軍の仙孝皇子に会う良い機会でもあるのだろうが、父にとってはこれといった目的もない。しかし、六歳の八鹿にとっては初めての御前試合であり、全てが目新しかったのだ。たくさんの騎馬。甲冑を纏う兵士たち。王の護衛軍である禁衛府の武官とはまた違った趣であった。
八鹿の目前に、若い兵士たちが二十人集い平伏した。今年の御前試合の種目は剣術と槍術であった。他に体術という年もあれば弓術や馬術という年もあるのだそうだ。
八鹿は選手たちを見つめた。
おや、と八鹿は思った。一人だけ、甲冑の作りが違う者がいる。他に比べればやけに簡素な代物であった。
位が違うのか…
他はさしたる特徴もない、焦茶の髪の若い男であった。だがその姿は煌びやかな甲冑を身に纏う面々の中で、一種異様に映った。

王石は遂に龍王陛下の前に額づいた。しかし、相手は御簾の内。平伏したまま顔も挙げられぬでは、尊顔を拝するなどとてもできない。王石は些か失望した。

軍神の片鱗

御前試合は出場者二十人計十試合で行われるのが通例であった。午前は剣術、午後からは槍術であった。第一試合を告げる鐘が鳴る。その瞬間、あたりは騒然となった。喰い入るように見つめていたが、八鹿には一瞬何が起こったのか分からなかった。剣術試合と言っても勿論、真剣ではない。技剣と言う偽物の剣を使うのが通例であった。しかし、まるで本物の剣戟を受けたかのごとく敗者となった男は倒れ伏したのである。技剣に切り割けるはずもない、見事な甲冑の隙間を縫うようにして、勝負を決めた一撃の跡が残っていた。
「ほう。」
普段、何事にも冷静な龍王が珍しくも声を上げるほど、見事な一撃であった。
あの男だ…
八鹿はこの試合の勝者が、試合前に見た簡素な甲冑の男であることに気がついた。男の名は読み上げられていた気もしたが、忘れてしまった。
負けた方の男を、八鹿は知っていた。法国侯の孫で、たしか名を煕雷と言った。龍王族でこそないが、武名は八鹿でも知っている。それをいとも容易く、容易くとしか見えぬ一撃で、一瞬で地に沈めたのである

仙孝は苦笑した。自分が送り出した武人たちが、負けるとは露ほどにも思わなかったが、王石ほど確信を持って勝つと断言できる者もいなかった。
それにしても、相手が私でなかったのは残念でならぬ…
仙孝は将軍の我が身を、少しばかり呪うのであった。

午になって、仙孝は試合場に設けられた天幕の内に呼ばれた。巨大な天幕は、そのまま龍王の御所となっていた。
中央に龍王の玉座があり、左手には聖龍童子、右手に世孫が座していた。
「龍一軍が将軍、仙孝参りました。」
仙孝が跪くと、父王は上機嫌で杯を渡した。目前には宴の皿が並んでいた。
「堅苦しい挨拶は良いではないか。今日は梨慎も連れてきた。そなたも杯を受けよ。」
「陛下は午だと言うのに御酒ばかり。」
言いながら、廉嬪は仙孝の杯に並々と酒をつぐ。
「私には小言を言うくせに、息子には甘いのだな。」
「陛下には、お水を差し上げます。」
仙孝にとっては慣れた掛け合いだが、特に八鹿には龍王のこのような様子は珍しいらしく、驚いたように見つめている。厳格な王である龍王は、妃嬪にも王として振る舞うからだ。修は相変わらず憮然としていた。
「仙孝よ、そなたの軍は一勝一分けか。」
「はい。」
「一試合目。あれは見事であかった。」
龍王は満足げに頷いた。
「ありがとうございます。」
「叔父上、私も驚きました。」
口を挟んだのは八鹿であった。興奮した様子で、矢継ぎ早に言葉を継ぐ。
「あれはどうやったのでしょう。一撃を入れたと思って、見たら熙雷が倒れていて…」
仙孝は笑んで答えた。
「殿下。あの一瞬で、王石は同じ場所に三度の剣戟を加えています。」
「三度…」
八鹿の瞳が丸くなる。
「並の使い手ではあれには勝てません。熙雷はけして弱くはないが、例え王族であったとしても、あの剣戟は避けきれるものではありません。」
仙孝は断定的に言った。
「叔父上。叔父上はあの者を高く評価しておられるのですね。」
八鹿は不思議そうに叔父を見る。仙孝は躊躇うことなく言った。
「私はあの者と対峙したことがあります。」
「叔父上が?自らですか。」
三位将軍である仙孝が、七位官を気にかけることはなんとも奇異である。八鹿の驚いた顔を見て仙孝は頷いた。
「殿下。私は武人です。武人がより強い者と闘ってみたいと思うのは当然のこと。」
「叔父上はお勝ちになった?」
「勝ちました。しかし、負けたようなものです。純粋な剣戟では私はあの者に勝てなかった。私は龍王族故に勝ったようなものです。」
それは仙孝の正直な吐露であった。八鹿は叔父が最高の武人であることを知っていた。龍王族数多あれども、龍を扱える者は数える程しかいない。その一人である叔父にここまで言わせる王石とは何者なのか。
「世孫は、かの兵士に興味を持ったようだな。」
龍王はまるで面白いものを見るように二人を見つめた。
「さあ、そろそろ午も終わりですよ。御簾の内に戻られませ。」
廉嬪の明るい声が響いた。

香牧夜

最終的に、一軍の成績は二勝二分けであった。負けなかったことで、龍の皇子の率いる軍としての面目は保った形になる。勝利を得たのは王石と、なんと正真であった。
「兄上!勝ちましたよ。いやあ、危なかった。」
正真は屈託のない笑みで、王石に報告した。選手には一人ずつ小さな天幕が与えられている。正真は試合後真っ先に王石の天幕に足を運んだのだった。選手でありながら、什長でしかない王石には、試合を観覧する権利がないのである。試合を見られるのは尉官、即ち校尉以上と決まっていた。
王石は正真の前に跪き、祝いの言葉を述べた。
「おめでとうございます。」
「いや、やはり兄上のように見事にはいきませんね。二撃も食らってしまった。」
そういう正真の甲冑のは土煙で少し汚れていた。痛みもあるのか、額には汗が滲んでいる。
「お怪我をなさっているのなら救護班に参られませ。」
「大丈夫ですよ。これくらい。」
王石は護衛の兵士に医務官を呼ぶように伝えた。
正真は剥れた顔をしたが、ふと思い出したように言った。
「だったら牧夜様を呼んで下さいよ。おい、お前。王属医務官の香牧夜様だ。呼んで来てくれ。」
「正真様。冗談はお辞め下さい。」
困った顔をした王石を見て正真は笑った。
「冗談ではありませんよ。知っていますよ。兄上はもうすぐ牧夜様と祝言を挙げられる。ちょうど今日は王属医務官の方々が来られていますね。お会いにならないなんて、兄上も薄情ですよ。」
王石は溜息をついた。
実際のところ、王石が香家の姫を娶るという噂は一軍の誰もが知るところであった。香家と言えば龍王国きっての名門である。その事実は、正真の様に好意的に捉えられるものばかりではない。
しかし王石の溜息の理由はそれだけではなかった。

「王石!」
暫くして、聞き慣れた声が響き渡る。途端に、正真が笑顔になった。
「牧夜様だ。」
牧夜は声を聞いて、思い出したように言った。
「おや、そこにいるのは孫家の坊やじゃないかい。尉官様が怪我と言うから誰かと思ったよ。」
香家と孫家は互いに龍王国を代表する名族であるが、今は皇后陛下を擁する香家の力が圧倒的に強い。しかし、その辺りのしがらみは、香家の傍系である牧夜も、子供の正真もあまり拘りがなかった。
「お久しぶりです。牧夜様。」
出自で言うなら、牧夜は貴族、正真は王族であるから、正真に分がある。しかしその点にも互いに拘りはない様であった。
「坊やも大変だね。御前試合だなんてさ。ほら、怪我を見せてみな。」
歯に衣着せぬ物言いは、牧夜の特徴である。しかし、正真は文句一つ言わず、言われるがままに甲冑を脱いだ。槍で突かれたあとが赤く腫れていた。
「こいつはやられたね。負けたのかい。」
「勝ちましたよ。」
正真が口を尖らせる。牧夜は笑って、謝りながら傷を手当してやった。
「私は外に出ていましょう。」
王石が足早に天幕を出ようとすると、
「ちょっと待ちなよ。」
案の定、呼び止められた。牧夜が刺すような声で言う。

「王石、あんた今日試合に出たんだってね。」
王石は溜息をついた。御前試合の話が出てからと言うもの、頭の痛いことばかりである。
「ええ。」
「あんた、なんで私にそれを言わなかったのさ。」
「い、いや、牧夜様。兄上はきっと牧夜様に心配をかけたくなくて…」
牧夜の剣幕に焦ったのは正真であった。
「心配?なぜ私がこの男の心配をするのさ。」
牧夜は立ち止まって正真の方を向いた。そして本当に分からないという顔で正真を見た。
「いや、それは…」
正真が言葉に詰まると、牧夜は笑った。
「だいたい御前試合ごときでこの男が傷を負ったりするものか。そんな可愛げがあると思うかい?」
「しかし、牧夜様は今、なぜ言わなかったと…」
「私はねえ、別に王石の怪我を治してやるためにいるんじゃないからね。そもそも怪我なんてしないだろう。だって、龍軍のどこに剣で王石に勝てる奴がいるのさ。ただね、たぶん王石は相手を一刀の下に切り伏せたんだろ。あんたといい、父上といい、なんでいつも教えないかね。ま、要するにそんな面白いものを、なんで見せてくれなかったんだって言ってるんだよ。」
正真は言葉を継げなかった。だが、暫くして、大声で笑い始めた。
「あはは。」
「どうしたっていうんだい。」
「牧夜様は本当に兄上がお好きなんだな。」
ちらりと王石を見ながら言った。
王石は大きな溜息をついた。
「まあ、それは否定しないけどね。」
牧夜は臆面もなく言った。

そして龍王宮へ

「林王石殿の御座所はこちらか。」
天幕の外から声が聞こえた。王石はその場から逃げるように天幕の入口の布を上げに行く。
立っていたのは一軍第二団の校尉であった。即ち、正真の同僚である。
「雅亮じゃないか。どうしたんだ。」
言ったのは正真であった。
「これは、正真様。こちらにおいででしたか。」
正真と雅亮は共に二団の校尉である。しかし、王族である正真を律儀な雅亮は尊称で呼ぶ。そればかりでなく王石に対しても彼は丁寧な態度をとる数少ない貴族の一人であった。
「将軍閣下のお達しにより、林王石殿を呼びに参りました。」
「閣下の?」
「はい。」
正真の顔が綻びた。
「兄上!将軍様がお褒めくださるのですよ。きっと。」
雅亮も笑顔になり、
「正真様は別の者が呼びに参っておりますが、徒労に終わりそうですね。」
そう、言った。
「私も?」
正真は目を丸くした。だが、王石が呼ばれて正真が呼ばれぬはずもないのだ。
「試合、拝見させていただきました。お二人とも見事なお手前でした。参りましょう。」
雅亮はいつものように丁寧に促した。

仙孝は意外にも少し不機嫌であった。定例のごとく、選手達四人の功を労ったが、些か渋い顔は隠せない。
二勝二分けという成績に不満なのかと、引き分けた二人は内心たじろいだが、別にそういうわけでもなさそうだった。一通り謁見が終わると何事もなかったように終わった。拍子抜けしたような顔で正真が王石を見たが、王石は表情を変えなかった。

皆が退席した後、正真は王石の姿がないことに気づいた。

王石は謁見した天幕の奥の間に行くように耳打ちされた。天幕の内には退席したはずの将軍がいた。天幕の奥は御簾が降ろされた部屋にになっているようだった。
王石は驚いたが、すぐにその場に平伏した。将軍は頷いた。
「王石。呼んだのは他でもない。お前に会いたいという人がいてな。」
将軍はまだ不機嫌な声であった。
「そなたが王石か。」
平伏している王石の頭上から聞こえた声は子供の声であった。奥の間から聞こえてくるようであった。
「はい。」
平伏したまま、王石は答えた。
「顔を見せて下さいな。」
今度は女の声がした。
「王石、面を上げよ。」
将軍が言った。王石が顔を挙げると、御簾がするすると開いた。そこには三人が座していたが見たことのない顔であった。
少年がひとり、三十代と思われる女がひとり、そして五十は過ぎているであろう男がひとり。その男の服装を見て王石はギョッとした。
龍紋…色は金。この世に金糸の龍紋を背負える男はただ一人しかいない。銀糸の龍紋は聖龍童子。金糸の龍紋は龍王の証であった。
「陛下、我が軍の林王石でございます。」
仙孝将軍は王の前に座し、平伏した。王石もまた平伏するしかなかった。まさかこのような形で夢が叶うとは思わなかった。
「将軍。私はよい。私はこの二人の付き添いのようなものだ。のう、そなたらが会いたいと言ったのであろうが。」
龍王は周りを見渡した。
「左様でございます。陛下。」
女が答えた。女は王石に向き直り、会釈をした。
「王石殿、私は…仙孝将軍の母で、廉嬪と申します。」
王石は驚いた。それは、その女が将軍の母と言うにはあまりに若く見えたこと、にではなく、廉嬪の態度に対してだった。廉嬪は龍王の寵妃。そのくらいは王石でも知っていた。その廉嬪の態度は龍王の側室というにはあまりにも慇懃であった。
「私は八鹿。聖龍童子の長子だ。」
少年が続けた。聖龍童子に皇子は一人しかいない。聖龍童子の長子ということは嫡男。いずれ聖龍童子となる皇子である。何れも一什長が間近で謁見するなど考えられぬ身分であった。
「まったく。そなたらは好奇心が疼くと、どうにも止められんからな。」
龍王は呆れているようだった。
「あら、陛下はお戻りになってもよかったのですよ。」
廉嬪はすかさず口を挟む。
「ああ言えばこう言うのだからな。」
龍王は苦笑した。廉嬪が龍王の寵妃と言うのは確かに真実であろう。
「王石。今日は面白いものを見せてくれた。」
八鹿が言った。王石はそれが試合のことだと気がついた。
「はい。」
「私はあのように速い剣を見たことがない。」
八鹿は興奮しているようだった。六歳の少年には剣技はとても魅力的なのだ。
「護衛官たちでもこうはいくまいな。」
龍王族達は一人一人専属の護衛官を持つ。八鹿は十人余りだが、龍王に至っては百人を超える。
「そなたに会ってみたかったのだ。」
八鹿は本当に嬉しそうに言った。
「私も会うてみたいと思っておりました。」
続けたのは廉嬪だった。
「仙孝殿下は貴方をとても信頼しておられるようでしたから。」
廉嬪は息子に対しても慇懃な態度を崩さない。廉嬪がかつて平民から嬪位を得たと言うのは強ち虚言でもないのかもしれない。
「それにしても、やはり殿下が仰るように、貴方は無口な方なのですね。」
廉嬪は笑った。
そもそも…と王石は思う。雲上の人を相手にして饒舌になる人間がいるだろうか。
「王石は無駄な事は言わぬ、と言ったのです。」
憮然として、仙孝が言った。
「王石殿。本当は殿下は貴方と試合がしたくて堪らないのですよ。時々は相手をして差し上げてくださいね。」
廉嬪は母らしく、微笑んだ。仙孝はやはり不機嫌であった。
「叔父上はそなたと闘ったと仰ったのだ。叔父上もそなたもとても強い。私もその試合を見てみたかった。」
八鹿は残念そうに言った。
「将軍様のお相手は私にではできませぬ。」
王石は未だ平伏したままであった。仙孝は、溜息をついた。
「あれはそなたの勝ち逃げのようなものだ。」
「…」
王石は言葉を継げなかった。黙していた龍王が突然笑い出した。
「そなたら、その辺りにしておけ。将軍。官を困らせるものではない。相わかった。林王石。そなた世孫の護衛官となれ。世孫、そなたそれでよかろう。」
八鹿は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに困った顔になった。
「王石は什長と聞いております。私付の護衛官は龍軍の伍長と同格。王石は認めますまい。」
王石は舌を巻いた。世孫ともなればこのように幼くして政治的な言動をするのか。
「私は王石を護衛長にします。」
八鹿ははっきりと言った。
「護衛長は尉官ぞ。」
龍王は怪訝な顔になった。王府の尉官は即ち、王府吏である。王府吏の年齢としては、王石は些か若いと思われた。仮に貴族であったとしてもである。
「分かっております。」
だが、八鹿は曲げなかった。
仙孝は小さく溜息をついた。こうなると思っていた。八鹿があの試合を見た瞬間から。
「まあ、先の件でそなたの宮の士卒も減ってしまったことだからな。まあよかろう。」
王石の運命は決まったのだった。
王石にとっては青天の霹靂であった。王府吏は六位官以上。王府吏か否かは官僚にとって一つの節目である。王に直属する官吏として、国政の担い手という意味合いがある。大学を出れば、無論出自が大きく関わるものの大方三十前後で王府吏となるのが一般的であった。ましてや平民となれば到達することすら難しい地位である。王石はまだ二十三。これは異例の抜擢といえた。

護衛官は龍軍府に属さない。所属は禁衛府。龍王宮内に府庁を構える、龍王家の近衛部隊である。龍王家と龍王宮を守る事が仕事であり数は千人程度。禁衛府長官は龍軍将軍と同格だが、龍王に近い分名誉ある職とされた。禁衛府の官は龍王族の護衛官と王宮の守備兵の大きく二つに分かれる。護衛官の筆頭は無論龍王護衛長で、位階は四位。龍軍副官に匹敵する地位である。龍王の護衛官は百人余り。聖龍童子で五十人余であった。

一軍府では仙孝が不機嫌な顔で副官らに憤りをぶつけていた。
「まったく。先頃の詔勅で、いったい何人禁衛府に取られたと思う。龍軍府から五十人だぞ。我が軍からも十人だ。」
仙孝が憤りをぶつけるのは決まって利尚にであった。
「殿下。良いではありませぬか。殿下は異動になった者に兵卒の推薦を一人ずつ許された故、今は軍の数に変わりはございません。」
利尚は龍の皇子を宥める。
「数の問題ではない。腕に覚えのあるものばかり連れて行きおったのだ。」
「禁衛府は今、些か人手が不足しておりますからな。特に護衛官には腕の立つ者が欲しいでしょう。」
仙孝は頷いた。仙孝も禁衛府の事情はわかる。
「しかし、あの御前試合が、まさかそのような意図を持って行われたとはな。」
父王は初めから御前試合に託けて、龍軍府から兵士を引き抜くつもりであったのだ。結局、御前試合に出場した者は大半が禁衛府に取られてしまった。それを事前に全く悟らせないことも、父王らしいやり方だった。

慶夏の岐路

ある、晴天の昼下がりであった。 堅牢な門扉の内からは少年達の掛け声と、剣を打ち合う音が響いていた。平陽でも有名な、馬家の正門であった。馬家の門の内は広い砂州になっており、剣を握りしめる少年で溢れていた。
慶夏は縁側に座り、ぼんやりと少年達の様子を見ていた。
「兄様。もう少しこう、指導をなさってください。」
しかめっ面で文句を言うのは末の弟。確かに、今日は慶夏が講師なのだった。
「お前が十分教えているからなあ。」
慶夏は笑った。指導というよりは叩きのめしている、といったところで、至る所で少年が呻いている。
久しぶりの休日であった。休日は、慶夏や季衛は、武術指南を求めて馬家に集まる少年たちの相手をしているのだ。
馬家は古くから軍馬の生産を生業とする一族で、季衛の現職も平陽午門の馬官、即ち駅馬を管理する県役人であった。馬家はその生業故にか、武官を多く輩出してきた家柄で、慶夏もその例に漏れず県の巡士をしていた。巡士は馬官よりも忙しい。あまり指導に現れない慶夏は既に少年たちの指導者の地位を弟に奪われてしまっていた。
それにしても、と慶夏は思う。
それにしても人数が増えたものだな。
武官になりたいと言って、馬家の門を叩く者は昔からいた。かつてはそれは、羅軍副官まで登った父・馬青安の功名に拠るところが大きかった。しかし今、このように数が膨れ上がったのは、龍軍に従軍した、青安の弟子の名に拠るものであった。

部屋の奥の襖が開く音がして、慶夏は振り向いた。使用人の女が律儀に礼をして入って来る。
「どうした。」
「慶夏様にご客人でございます。」
慶夏は怪訝な顔をした。慶夏はすでに独立して、馬家本家の隣に家を構えている。馬家本家は実際は当主青安の邸宅なのである。そのため、馬家本家に自分を名指しで訪ねて来ることを不思議に思ったのである。
慶夏はは客人の名を聞いて、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに言った。
「奥の間に通しなさい。」
使用人は頷いて客人を迎えに行った。慶夏は立ち上がると、ゆっくりと奥の間へと向かった。
本家の奥の間は広い。ここは貴人の間とも呼ばれていて、その名の通り通常の客間ではない。高貴の人が訪れた際の接待の場であった。
襖が開く音がして、使用人に誘われた客人が現れた。慶夏は微笑んで客人を迎えた。林王石。かつて、この馬家で、武術を学んだ青年であった。
「よくお越しくださいました。」
王石と慶夏は既に十年近く会っていなかった。
「お久しぶりでございます。慶夏様。」
王石は相も変わらず律儀に丁寧な口調で述べた。
「龍軍の什長様が私に頭を下げることなどありませんよ。さあ、どうぞお座りください。」
慶夏は笑って言った。什長は十人の兵卒の長である。県の巡士としては慶夏にも既に十人を超える部下がいるが、龍軍の地位とは比較にならない。慶夏が上座を勧めると、王石は頑なに固辞した。困った挙句、慶夏が上座に座ることとなった。

慶夏は目を細めた。十五だった少年は既に二十三の青年となっていた。
それだけ、自分も歳をとったのだ。

「本日はお願いがあって参りました。」
床に座したまま、王石は頭を下げた。
辺りは暫く沈黙した。表の少年達の声もここまでは届いてこない。壁際の蠟燭の灯火だけが風に揺れている。
王石は再び口を開く。
「龍軍に従軍していただけないでしょうか。」
そして頭を深く下げた。
それは、まるで叩頭するかのようであった。
慶夏は天を仰いだ。
「お前は…いや貴方は私を巻き込もうというのか…」
慶夏は王石を弟の如くよく知っていた。それ故に、自分の中に、ある種の欲が湧き上がるのを慶夏は感じずにはいられなかった。
王石はそれを分かっていて、けっして、断れない相談を持ってきた。
「お願い申し上げます。」
慶夏は既に三十三であった。それでも、王石は慶夏を選んだ。慶夏は目を閉じた。安穏たる日々は終わりを告げようとしていた。若者が持つ狂おしいほどの熱情に似た、その感情を慶夏は否定することができなかった。
龍軍は貴族と王族の世界。魑魅魍魎の世界に慶夏は誘われた。

聖龍童子外伝1 林王石

聖龍童子外伝1 林王石

龍王国で初めて平民出身の総督元帥に就任した林王石。商家の三男坊であった彼がその地位に上り詰めるまでの軌跡を描く。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-14

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Copyrighted
  1. 商家の子
  2. 馬家の師匠
  3. 父と息子
  4. 麗山公 仁
  5. 魔女
  6. 褐色の姫君
  7. 御前試合
  8. その日
  9. 軍神の片鱗
  10. 香牧夜
  11. そして龍王宮へ
  12. 慶夏の岐路