生贄

雨の日に読んで頂けると、違ったニュアンスを感じられるかも知れません。

1/3

 電話が途切れた後の、ツー・ツー・という音が、雨の音に紛れて消える。
 私は壁に身を預けながら、低く雨を降らせ続けている空を眺めていた。休日で、雨が降っていると、だいたい私は、こうして何もしないで過ごしている。晴れの日はCDを掛けることもあるけれど、雨の日には雨音の方がずっと心地いい。孤独が好きなわけではないけれど、私を電光に彩られた世界から隔離して、一枚のモノクロ写真に収めるように、誰も居ない場所へと閉じ込めてくれるような雨が好きだった。
 果たしてそれは、誰にも会いたくないという感情に置き換えられるものなのだろうか。
 未だツー・ツー・と音を流し続ける電話が切れる前に、彼が私に残した約束はほんの些細なもの。今夜、少し会いませんかと。たったそれだけのこと。私はそれに曖昧に返したけれど、きっとそれは、私だけしかいない世界に生まれた、小さな綻びだった。
「参ったな。どうせすぐ忘れると思ったから、私の名前を教えたのに。……まあ私も気まぐれみたいなものだし、向こうも多分、そういうものでしょう」
 一人しか居ない部屋だから、そんな愚痴を拾ってくれる第三者は居なくて、止むことのない雨だけが、空白を埋めてゆく。すっかり錆び付いてしまっていた、寂しいという感情が軋んだ音を立てたような気がした。

 * * *

 二ヶ月前のその日も激しい雨が降っていて、窓を伝う雨水を指先でなぞりながら、今日はどうやって過ごそうかと考えていた。鈍色に染まった世界は不明で、テレビもラジオも無い部屋だから、できることはあまりない。精々が途中で手の止まっている小説を読んだり、ネットに繋いだりして、一日が過ぎてゆくのをじっと待つだけだった。人付き合いを好まない私には、電話を掛けるような親しい友人なんていうものも居ない。
 だけど、そういった自分の在り方に自信を抱いているわけではないけれど、ただなんとなく始まって終わってゆく時間が、憂鬱だと思ったことはなかった。静かなものは深く。その深みに嵌って、無限に没入してゆく感覚に、私は満たされていた。幸福というものを、単純に満たされていることと定義するならば、私は間違いなく幸福な人種と言えただろう。

 だから、私はその日も、薄くまどろんだ窓辺を背に、重ねられた本と同じ場所に沈んでゆこうと思っていたのだけど、幸か不幸か、その日は少しだけ気分が良かった。気分の良かった理由というものが、家庭教師のアルバイトで稼いだ、先月分の給金が一昨日に入ってきたことで、懐が温まったお陰なことに、結局現金な性格なのだろうと思う。
 とにかくそういう気分だったわけで、私はほとんど気まぐれに、急にどこかへ出掛けてみたくなって、気が付いたらビニールの傘を右手に街の中を歩いていた。
 特にどこへ行こうという目的地は決めていなかったけれど、折角だから今まで行ったことのないところへ行こうと、私は電車に乗って、私の住んでいるところより、ずっと海に近い街で降りた。だからと言って海を見ようとは思わなかったけれど、それでも私の知らない場所だから、ずっと新鮮な気持ちで世界に近付いていたのは間違い無い。
 外を出歩くのには丁度いい、という具合ではない激しい雨だった所為か、どこを歩くにしても、私のように傘をさしている人とすれ違うことはほとんど無かった。代わりに大通りには車が溢れて、その無機質な音が雨音をかいくぐり、それぞれの生活を主張していた。黒色の絵の具が灰色の絵を塗り潰すような、或る原色の暴力がその場を満たしていた。
 私はそういうものから逃れるように、いつもなら賑わう人波に溢れているであろう、屋根のない小さな通りに入った。そこでは車や電車、信号や踏切の音は遠く、私の前から原色の気配は消え去って、色褪せた建造と空がそのまま私の静穏の図形になった。その図形の中には私と雨水が入っている。水溜まりを踏むたびに、ちゃぷちゃぷと音を立てる図形の、ギザギザとした輪郭の境界は曖昧で、どこまでが内側で、どこからが外側なのかはよく分からない。だけどそこには確かに私と水のような何かが収まって、ちゃぷちゃぷと音を立てている。世界という枠組みの中で二つのエレメントは混ざり合い、風のない安定を得ていた。
 どちらか一方が欠ければ容易に崩壊するような。そんなセンチメンタルの風景。
 そういう風景を窓越しに眺めながら、私は道端の喫茶店で紅茶を飲んでいた。それと少しのサンドウィッチを摘んで空腹を満たしていると、濡れたガラスの向こうに、靴屋とブティック店に挟まれた、コンクリートの建物を発見した。
 興味を持った理由を一つ挙げるとしたら、その建築が、その日の空と同じ色をしていたからというので十分だろう。大切なのは、発見した時点ではそれが何なのか、全く分からなかったことだ。つまり灰色の深海のような世界で、それは漠然と不明を装っていた。或いはガラスを伝う液体を指先で辿るように。カフェを出た後、そっとその建物を確かめてみると、どうやら最近名前を売り始めた、画家の個展を開催しているらしかった。
 今までそういうものに興味を持たなかった私であるけれど、この時ばかりは、暗く厚い雲の去来の狭間に覗く鮮やかな空の青色のような透き通った印象を抱いて、突如として現れたこの第三の純粋な構造物の中に入って行ったのだった。

 ただ、やはりと言うべきか、絵画というものをどう見ていいのかわからない私には、何が何だかさっぱりだった。そもそもどれだけ雨が激しかったとして、個展というものは、ここまで人の気配がしないものなのだろうか。コンクリートの壁に展示された絵は、優しく、然れども冷たい光に照明されて、辺りに響くのは外の雨音と私の足音ばかりだった。
(もしかしなくても、今日って本当は休みの日だったのかな。だけどこうして電気は点いているし、結構すんなり入れたし……うん。大丈夫よね、きっと)
 そんな風に、自分に言い訳をしながら入り組んだ部屋の中を歩いていると、ふと一枚の絵の前で私の足が止まった。自分の意思で止まったのだと思えないぐらい、自然に私の関心がそこに引き寄せられたのだ。
 それは他の鮮やかな、生命に溢れた絵とは似ても似つかない、虹を主題とした風景画だった。雨上がりのようにも見えるけれど、今にも雨が降り出しそうにも見える暗い曇り空を背景に、繊細な筆致で、ぼんやりとした微光を纏って描かれた虹は、美しいというよりも、今にも壊れてしまいそうに果敢無く、神秘的で……そして何処か、懐かしさを感じた。
 どうして一枚だけこんな絵が、と不思議に思わないことは無かったけれど、考えていることが分からない故の芸術かも知れないと直ぐに思い直し、違和感は見なかったことにした。
 だけど、それでもやはり、このような周囲の道理には合わないような絵がひっそりと佇んでいる様は何だかユーモラスで。そういうものを感じる心に生まれた余裕の所為か、たった一枚しかないという孤独の表情に、シンパシーのようなものを感じると、私はそっと微笑んだ。
 その時だった。
「この絵をお気に召して頂けましたか」
 いつの間にか私の背後には、二十五、六歳と見える優雅な佇まいをした青年が立っていて、黒く澄んだ瞳で此方をじっと見つめていた。しかしその瞳は、無感動に告げられた言葉と同じように、少しも笑っておらず、それが些か私を不安にさせた。
「まあ、えっと。気に入ったと言うよりも……不思議だなぁ、と」
「不思議、とは」
「うまく言いづらいんですけど……神秘的なはずなのに、どうも生々しくて」
「他の絵とは違うと?」
「そう、ですね。どれも綺麗だなって思います。あそこの風車小屋の絵とか、そこにある母子の絵とか、河辺のほとりの絵とか。使われている色は柔らかいのに、すごく鮮やかで、親しい気持ちで眺められますから」
「……」
「だけどこの虹の絵だけは、くすんだ同系色で纏められていて、他の絵と比べると、なんだか冷たい印象を受けました。なんというか、見ている人を突き放すような。それでも、その中に覗く薄っすらとした虹の色彩から目が離せなくて……いいえ、目を離したら消えてしまうぞ、って訴えかけて来るようなのが神秘的なのかも知れません。それに、引き込まれるようにこの絵の大気を感じられるような気もして。こうして深く息を吸うと、雨の匂いが……」
「……それは、他ならぬ今日が、雨だからではないですか」
 実際に息を大きく吸い込んで、肺一杯に雨の空気を満たして見せたところで、私は彼にそう指摘された。そういえば、と。胸の中を満たしているその感触は、その日の朝から慣れ親しんでいたものだと気が付いて、私はもしかしなくても恥ずかしいことをしてしまったのではないかと思い至り、赤面した。
「は、恥ずかしい……」
「どうやら貴女は、面白い方でいらっしゃるようだ」
 そこで彼は初めてふっと笑みを零し、硬く無機質だった雰囲気が幾らか崩れたのを感じた。私の失敗の、何が彼の気に入ったのだろうと、私は少し意地の悪い気分になりかけたけれど、言い返そうとしたところで、私はまだ彼が誰かを知らないと気が付いた。
「ま、まあそれは置いておいて、貴方は?」
 すると彼は驚いたように目を見開いて、苦笑を浮かべた。
「……まさか、こんな日に僕のことを知らない方が来られるとは……失礼、少々奢りに過ぎたようだ。ようやく名前が売れてきたからと言っても、所詮若造ですからね。むしろ僕のことを知らない人の方が多いと言ったほうが当然か。……。
 僕は花井十夜と言います。十の夜と書いて十夜です。そして、このギャラリーを借りて今回の個展を開催させて頂いている、しがない絵描きの一人でもあります。……宜しければ、僕の方も貴女の名前を伺いたいのですが」
 画家の自己紹介を聞いた時、私は少しばかり混乱した。たとえ外が悪天候で、人の足がどれだけ少なくとも、確かに個展の主催者であった彼はどこかに居たはずなのだ。だけど人の気配があまりにしないものだから、すっかりと忘れてしまっていた。
 しかし、どうしてこのタイミングで私に声を掛けてきたのだろうかと。ただの偶然で片付ける為には、ある程度の弾力を持った純粋な構造が必要だった。つまり余計なことを考える余裕さえ持たなければ良かったのだけど、なんとなくむっとしていた私には、抽象的な不満が生まれてしまっていた。
 彼の言葉が胸の中で微かに屈折するのを感じ、素直に自分の名を教えるべきかと逡巡したけれど、結局、どうせナンセンスな出来事だと呑み込んで、小さく溜め息を吐いた。
「……柳瀬沙羅。S市にあるK大学の文学部に通っている、ただの女子学生です」
「貴女の顔と名前を、覚えても?」
「それは、まあ、お好きなように」
「ありがとうございます」
 雨の空の裂け目に覗く青色のように、思わず引き込まれそうになる笑みを浮かべると、彼は自然な動作で握手を求めてきて、私も躊躇いがちにそれを握り返した。
 これが私たちの出会いだった。

 それからのことについて、あまり思い出すことはない。ただ彼は、あの絵についての感想をどうしても私の口から語らせたかったらしい。しかし私はその熱心な対応に、なんだか莫迦にされているような気がしてきて、途中で制し、もう帰ろうと思うと言ったのだけど、その時に彼が浮かべた寂しげな表情が私を驚かせた。
 その顔を見て冷静さを取り戻したとは言わない。しかし、つい意地悪をしたという実感は、きっと私の方が年下であるけれど、次第に大人気ないことをしたという後悔に変容してゆき、なんとなく収まりが悪くなった。そして悪い癖だと思いつつも、私は彼に、メールで良ければ後から送ると言ってしまった。その流れで互いに連絡先を交換すると、私は彼に見送られて、今度こそ個展を後にした。
 約束のやりとりをしたのはそれから三日後のことだったけれど、その日の後日談と呼べるものはそれくらいで、一週間も経つ頃には記憶の隅へと追いやられていった。私は変わらず大学で講義を受け、月曜と金曜には家庭教師のアルバイトで、来年には高校受験を控えている少女に古典と英語を教える予定が入っている。雨音がしとしとと窓を打つような朝に、そういえばあんなこともあったなあと思い出すこともあったけれど、その程度だった。
 だから記憶は過去となり、あの日のナンセンスな出来事さえ、夜の星たちの一粒のように、星座を模るばかりの一片になりかけた頃、いつもなら鳴らないプライベートの着信音が、モノクロームの世界にぼんやりとした微光を放って震えた。
 電話に出た私の耳が聞いたのは二ヶ月前に聞いたきりの画家の声だった。内容は簡単な挨拶から始まって、そして個展の後始末が終わり、ようやく落ち着くことができたから、私と久しぶりに会ってみたいとのことだった。私はそれに曖昧に返したけれど、落ち着いて考えてみると、ほとんど頷かされたのも同然だったように思う。
 こういった複雑な色調のない、原色の誘いというものを嫌う性質である私だけども、強引な彼の誘いはしかし暴力的ではなく、それどころか喨々と浸透するように、ちっとも嫌な気分にはならなかったから、苦笑するしかない。
「……今日は雨だけど、折角だし、少しくらい御洒落でもしてみようかな」
 それが今朝のことである。

2/3


 画家が私を誘ったのは、二ヶ月前に訪れた街の駅前にある小さな映画館の裏の、ティールという名前のバーだった。静かなジャズが流れる店内に入り、カウンターの奥の席に発見した、見覚えのある背中に近づくと、私は彼に礼義の挨拶をしてその隣の席に腰を掛ける。
 それから軽い会話を挟んだところで、彼は私に飲み物のリストを手渡した。
「僕はこのトラピチェにしますが、貴女は?」
「ん……、私もそれで」
 好きなお酒やカクテルは、勿論他にあるけれど、今着ている淡いアネモネの花の色の洋服に合っていたからという理由で彼と同じワインを頼む。余談だが、こうして誰かとお酒を飲むのはかなり久しぶりのことだった。そして私にとって、二回目の体験となる。初めて飲んだのは大学のサークルに入った時の歓迎会で、相手は当時の部長だった。丁度二人きりになる機会があって、彼はやたらとお酒を飲むことを勧めてきたのだけど、その割には彼の方が先に酔いつぶれてしまい、何がしたかったのだろうと呆れた記憶がある。
 その翌日、少しだけ気心が知れた女性の先輩に、危ないところだったと忠告された時、どういう意味があったのかを知ることになったけれど、私にはどうでもいいことだった。その後、飲まされたカクテルにウォッカが入っていたことを知り、私がウォッカそのものの方に興味を持つようになったのは、本当にどうでもいい余談だ。
 間もなく注文を伺いに来た給仕にワインとチーズを頼むと、彼は改めて私に挨拶を告げて、会話を続けようとした。
「今日、貴女を誘ったのは、つまり僕のエゴです。個展を終えて絵を片付けている時、グループのやつらにナンセンスだと言われた一枚の絵を、不思議な絵だと評価してくれた女性が一人居たことを思い出したんだ。あの日もこんな風に、重く冷たい雨が降っていた」
「……」
「まさか本当に、こうして会って頂けるとは思っていませんでした」
「なんとなく誰かとお酒を飲みたかった気分だから、丁度良かっただけです」
「……。理由を伺っても?」
 画家の気遣わしげな発言に、思わず眉をひそめようとしてふと止める。
 淡々とした声で返す彼の言葉はしかし、どこか拗ねたような感情をレリーフしていて、私は身勝手ながら、この人には少々ひねた甘え癖のような性質があるらしいという感想を抱いた。敢えてその意図を探ろうとしなかったのは偏にそういった感想の為の、ナンセンスな余裕の所為である。だけど、ある種の好奇にも似た衝動は消え去ってしまったというわけではなくて、ただの行為を模倣してみせると、私にちらと彼の横顔を窺わせた。そしてこの時に、私は初めてこの画家の顔をはっきりと確かめたのだ。
 自分よりも年上であるけれど、それでも若さを感じる顔は神経質そうな鋭さを描き、その中では高く澄んだ鼻や、やや血色の悪い唇が品よく並んでいる。しかしそうした構造の落とした影には、方々に氷のような緊張が潜んでいて、窪んだ眼窩に収まった黒い瞳が透き通って見えるのは、きっとその不安が、瞳の奥で無限に引き絞られているからに違いなかった。
 そうしてみるとこの人は気難しい人であるような気もして来るけれど、そうした分析の一切が私の中の不快な感情と結びつかないことに、私は不思議にもこの画家のことを嫌ってはいないらしいと悟る。この奇妙な感懐は私を悪戯っぽくさせた。
「雨の音を肴にして一人で飲むのも、そろそろ飽きてきたから」
 こういった私の答えで、しかし画家は納得しないようだった。
「そうですか、そういうものですか……。ああ、失礼。そうなると今夜、貴女が来てくれたのはこの雨のお陰なんですね」
「本来なら、いつもはCDを聴いているところ」
「……」
「だけど今朝、あなたから電話があって、あなたの声を聞いて飲むのも悪くないと思いました。それだけの理由で誘いに乗った私を、単純な女だと笑ってみますか?」
「……やはり貴女は、面白い方だ」
 そして互いに顔を見合わせると、クスクスと笑い出し、やがて給仕がワインを運んできたところで視線を重ね、私たちはそのグラスの縁をかちんと鳴らした。

 * * *

 あれから私は画家改め花井さんと親しくなり、最初の頃は、その日の夜と同じようにバーで会うようになった。とは言っても、するのは他愛ない話ばかりで、彼が自らの芸術について語ることは、あの日も含めてほとんどなかった。もし仕事の話をするとすれば、絵を描く間にこなしているという翻訳家としての側面のもので、最近はとある古典文学の翻訳を行っているらしい。どうやら私も彼が翻訳した作品の幾らかを持っていたようで、そのことを伝えると分かりやすく目を細めた。
 そうしたやりとりを週に二、三回のペースで続け、更に二ヶ月が経つ頃に、私は花井さんのアトリエに招待された。初めこそ客人という立場で恐る恐るとしていたけれど、次第にそこで過ごすようになると、いつの間にかすっかりと慣れてしまい、土日は夜通し彼が絵を描く姿を眺めて時間を忘れることになった。
 やがて絵を描かない時には、花井さんは私を乗せてドライブに連れて行ってくれるようになった。目的地は水族館でも展望台でも、彼が行こうと言ったところに決められたけれど、着いた場所は大体が私の気に入るように選ばれたものだったから、嬉しく思うことはあるものの、特に不具合というものを感じたことはなかった。
 こうしたドライブの帰りには、適当なレストランで夕食を食べて、彼のアトリエに帰るのが常であり、乾いていない絵の具の匂いが染み付いた部屋に、そのまま泊まらせてもらうこともいつしか私の日常になっていた。
「なんでかな。この部屋で眠っていると、とても落ち着くの」
「それは、沙羅さんが僕を信用して下さっているからでしょう」
「……もしそう思うのなら、一度くらい、私をさわってみればいいのに」
「そういう冗談は好きじゃないな」
「私も同じ気持ち。……多分ね、静かな場所だから、私はここが好きなんだと思う。片付いていないけど、必要なもの以外は何もない、そういうところも好き」
「アトリエはそういうところですからね。創造の邪魔になるようなものは置いていないよ」
「私は邪魔じゃないの?」
「逆かな。だから僕の仕事の邪魔をしてほしくないんだ」
「ん、そういうことなら、私は大人しく眠らせてもらいます。おやすみ」
「……はい、おやすみなさい」

 きっとこういう話を聞けば、親しくなってゆく間に交わしたろう男女の駆け引きによって、私たちがそういう仲になったのだと考える人も居るのかも知れない。
 だけど実際は私の方からも、花井さんの方からも、関係そのものに関係されるような、個の依存性への還元としての愛の告白をしたことはなかったし、単純なロマンチズムの帰結としての愛の告白が起こったこともなかった。だからきっと、私たちの関係は友人という図形に総合されるものでしかないのだろう。
 しかし、数ヶ月という期間を通して緩やかに構築された、私と花井さんを収めるこの枠組みは、他のそれとも異なる構造をしているようで、そこには雨音も本もないけれど、私が雨の日を過ごす時に見る風景によく似ていた。つまり孤独とは違う、一人で過ごす時の、自らの内に沈んでいくような心地よさがすっかりと模倣されていた。そういう意味では私にとって、彼はある特別なエレメントを占めているのだと思う。
 ただそこに在るだけの音楽のように響く、この一つの感懐は、或いは理由のない調和のように感じられて。その静穏の流れに身を委ねるがまま、私はどこか懐かしい気配のする眠りの中に沈んでゆくのだった。

3/3

 やがて出会ってから半年も経つある日のこと、私は花井さんに、今度の冬の展覧会に出品する予定の絵のモデルになってほしいと頼まれた。その時、私は彼に作ってもらったロシアンティーを飲みながら、彼が今翻訳しているというドイツ文学を読んでいる最中だった。
 この日の空は、何か不吉な電光を閉じ込めた、重々しい暗雲に覆われていた。
「私を? 別に、いいけど」
「引き受けて下さるんですか?」
「ん……、一つだけ訊かせてもらってもいい? それで決めようかな」
 窓を打つ雨を横目に本を閉じ、向かいのソファに座る花井さんの方へと向き直る。彼はいつの日かと似たような、黒く澄んだ瞳で私の方をじっと見つめていて、電気を点けていないアトリエが少しずつ色褪せてゆく中に、幼子が見る夢のような希望を輝かせていた。
 そんな彼の調子に苦笑を浮かべながら、私はアトリエ奥の未完成の絵画へと視線を移す。
「あなたはきっと、純粋に絵を描きたいだけなのかも知れないけど、やっぱりというかなんというか、いざそうなるとなれば私にとってはちょっと違う意味を持つから。……。あなたは、綺麗な私を描きたいの? それとも汚い私を描きたいの?」
「……どういう意味でしょうか」
「禅問答でもなんでもない、そのままの意味。さあ、答えてみて」
 結論から言うと、私に彼の絵のモデルを引き受けるつもりはなかった。更に言えば彼の傍に居続けるのもこの辺りが頃合いだろうと思っていた。後者について、そう思い始めたのはつい最近のことであるけれど、これ以上ここに居ても、私はナンセンスに迷い続けるだけだ。
『時間にして約半年。もう十分、彼の時間を邪魔したろう』
 ふと思い浮かべられるような理由はほんのその程度の感傷だったけれど、私が彼の前から居なくなる夢を見るには十分過ぎるきっかけだった。そして、そういった夢の中に生きるのは、哲学でも処世術でもない、ただの私という人間の性質だった。つまり、多因子的に帰結する、複雑な、繊細な色彩の発現とは似ても似つかない、純粋性としての原色の意思である。
 こうして描いた夢の中で、私は彼の前から、神隠しに会ったように消えようと思っていた。たとえば竹の葉が揺れる石段に風が吹いた時、その影が灰塵の上を撫でた直後、灰塵の代わりに私の姿の方が失われているような。そういった一つの逆説の手法で、ある日何気なく交わした別れの挨拶がそのまま訣別へと昇華する。
 全てはナンセンス劇のように。
 しかし現実にはそうならず、私はこうして居なくなる前触れを残そうとしていた。他の人々の前ではついに思い描かなかった結末を、多分私は、彼に対してだけは、綺麗な思い出として残したかったのかも知れない。純粋性としてのエゴを満たす為だけに彼の前から居なくなろうとする私は、もしかしなくても汚い人間なのだろう。
 話は戻るが、こうした根本を持つ先の問いかけに、正解はない。全ては彼の提案を断って、彼をエレメントとして内包する擬似的な静穏の枠組みから逃れる為の即興の理想だった。本質はともかく、恐らく彼も、私が何をしようとしているか気が付いたから、さっきからずっと黙ったままなのだ。
 どちらも本当の私だとか、どちらも本当の私ではないとか、彼が何らかの形でその理想から逃れる答えを出してくれたとして、私がそれを気まぐれに裏切れば、それこそが予定調和だ。
 今、私はどんな表情をしているのだろう。
 やがて鈍色に染まった室内で、彼はゆっくりと口を開いた。
「そういうことなら、分かりました。しかし残念ながら、あなたが欲している答えは今の僕には出せない。いや……この際はっきりと今後も出せるものではないと明言しておきましょう」
 しかし彼の答えは崩壊に至る風を与えない、無明の慎重を保つものだった。
「それは、どういう意味?」
「僕の答えこそ、禅問答でもなんでもない、ただそのままの意味ですよ」
 そう言って花井さんは人間的な微笑みではなく、画家として口角を厭らしく上げ、こちらの不調和を見抜くように、ただ無感動に私を睨んだ。この人間味のないギラギラとした感じに、私が居心地の悪さを覚えたのを察したのか、彼はにやにやとしたまま、近くに落ちていた埃を被ったデスケルを拾い上げ、それで私を覗きながら言葉を続けた。
「あはは、不満そうですね。しかし事実そうなんです。……なにも物事の美醜を判断するのは芸術家ではなく鑑賞者であるなど、月並みな驕りを言いたいのではありませんからそこは安心して下さい。……。
『全てのものを判断し得るのは、唯一絵画だけである。なぜならば、絵画の目的はそれら全ての模倣であるから。一言で言えば、それは目に見える全てのものの調停者なのである』。
 ……これは、僕が尊敬する、とある画家が遺した言葉です。
 僕が沙羅さんをモデルに選んだのはロマンチックな理由でなくて申し訳ありませんが、しかしこう言った方があなたにも気持ち良く伝わるでしょう。僕があなたをモデルにしたいと言ったのは、つまり僕にとって、沙羅さんが模倣する価値のある存在だからです。……。
 あの雨の日、あなたが僕の個展に来てくれたのは全くの偶然ですし、同じように僕があなたと会えたことも偏に偶然でしかありませんでした。しかし偶然とはいえ、沙羅さんはあの虹の絵の前で立ち止まり、僕はそれを見てしまった。僕はその時に、ほとんど天啓を受けるような気持ちでこう思ったんです。『この人を持てる限りの技術で模倣しなければならない』と。
 あの絵はほんの習作のようなものでした。構図の取り方をイギリス人の建築家に学び、視覚表現としての光と影の効果をオランダ人の画家に学び、色彩の配置をスペイン人の画家に学び……とにかく僕は今まで学んだ技術の最も基礎的な部分だけを、可能な限り個性を排除するという一点にのみ焦点を当てて、あの絵で実践したんです。だから技術としてはあまりに在り来りで、古典的で、何ら先進的でもなく、幾何学的に見ても調和は取れているけれど、それだけだったでしょう。
 あの絵を描いた僕でさえ、その意味では彼らと同じナンセンスという評価を持った。
 そんな絵を何故展示したかって、簡単なことです。逆に言えばあの絵には僕の、視覚に作用し得る形態の属性から離れた技術を全てつぎ込んでいた。つまり色彩だ。とある一色を、その色彩を用いない状態で純粋に体験させる為だけに、僕はあの絵を書きました。しかしこれは他の画家連中から見れば、あまりに実験的過ぎてナンセンスだった。本音を言えばもっと大きな場所で発表したかったんですが、止められてしまったので、仕方なく個展に出したんです。
 ……結果はあの通りでした。僕のグループの連中はもちろん、僕のファンを名乗る連中でさえ、あの絵には理解を示さなかった。いや、示さないのよりももっとひどかったな。あの絵の目的に気付いた人も居なかったわけじゃないが、そういった人々はナンセンス劇を見たように笑い出すか、あの絵の方法を警戒して批判するだけだった。
『ピースを失ったジグソーパズルなど、永遠に完成しないものの寓意でしかない』
 などと、的外れにも等しいくだらない評価を、一様に添えて。……。簡単には理解されないものだと考えていましたが、まさかここまでとは思いませんでした。あの絵を誤解した見物客の何人かは、これは花井先生の色彩の効果を用いたスピリチュアルな実験だとか何だか騒いでいたが、あっちの方が滑稽で笑うことができる分まだ僕もユーモラスな気分になれた」
 彼はそう言うと視線を伏せて、口を噤んでしまった。
 それがあまりにも長く続くから、渋々私の方から聞き返すしかなかった。
「あなたは、あの虹の向こうに何を置いたの?」
 私がこう言うと、彼は弱弱しく微笑んで、
「原色です」
 と言い切った。
 その言葉が意味する不協和音に、自分の頬がピクリと緊張するのを感じ、眉をひそめて彼を睨んだけれど、相も変わらず視線を落としたままの彼は、その変化に気づかなかったらしい。いや、変化したことに気付いているけれども、気にしないふりをしていると言った方が正しいのかも知れなかった。
 彼は私の不安を宥めるような口調で注釈を加えた。
「原色と言っても、青とか、赤とか、黄色とか。白とか、黒とか、緑ではありません。そういった人間が経験的に獲得した原色という概念ではなく、僕が描こうとした原色は、そういった概念そのものに先立つアプリオリなものです。
 あなたの過去をあれこれ詮索するわけではないので、詳しくは聞きませんが……沙羅さん、間違いない、あなたは原色を知っている。もしかして僕の虹の絵を見た時に何か懐かしさに似たものを感じませんでしたか。いいえ感じましたよね、感じたでしょう、感じたに違いない。そうでなければ、あの日僕に寄越したメールに、あのような僕にとって有益である感想は残せないはずです。
 大体、腐ってもあの場はギャラリーだ。たとえ外が雨だったとしても、あの中がその気配に侵食されるはずがない。僕のジョークを間に受けてくれたようで何よりですが、あなたが感じたあの雨の匂いは、紛れもなく虹の絵がもたらした作用の一つです。そして沙羅さんはその匂いを通じて、あの虹の向こうに原色を見てくれました。確信できたのは、間違いなく今ですが。
 何故って、今のあなたの瞳に映っている感情が原色だからです。あなたの原色は冷たく、滑らかで、美しい。その色彩を保つ為に、あなたは今までどれだけの他者を世界から排除し続けてきたのですか。僕には分かります。あなたは綺麗な人だ。その綺麗な原色に僕は惹かれたのです。だからここで逃げられるわけにはいきません。僕は持てる技術の限りを尽くしてあなたを模倣する。そして、あなたの原色を認識し、思索し、学び、僕のものとする。そうすることで、僕の芸術は新たな世界の側面を抉れるようになるんです」
「……つまり、あなたの芸術の生贄になれってこと?」
「そうです。生贄になって下さい」
 一気に語り尽くした彼は、淡々と言った。
 淡々と言い終えたところで、窓の外の暗雲がぎらりと光り、すさまじい轟音が鳴り響いた。この轟音が響いた直後、彼は突然がばと立ち上がって、倒れこむように激しく私を抱擁した。そのままソファに沈み込んで身動きが取れなくなった私の唇に、彼の固い歯が押し付けられる。この刹那的で、避けようもない衝撃的な肉体の接触が、私と彼の初めての接吻だった。
 口の中に薄っすらと感じる鉄の味に呆然とする私を他所に、彼は私の胸元に顔を埋め、
「だから、居なくならないで下さい。僕があなたを模倣する間だけでいいから、僕の傍に居て下さい。僕の前から消えるつもりなら、僕があなたの絵を描き上げてから、それを気に入らないと引き裂いて行けばいい。その間、僕にできることがあるなら何でもするから、だから居なくなるなんて言わないで下さい。……」
「……もう一つだけ訊かせて」
「はい」
「私じゃないとダメなの?」
「あなたじゃないとヤなんです」
 そう言うと、彼は駄々をこねるように、一層顔を深く埋めたので、私はぼんやりとその頭を撫でてみることしかできなかった。すると彼はようやく落ち着いたように、静かな呼吸を取り戻し、翻訳業の方が最近徹夜続きだった所為か、そのまま疲れて眠ってしまったようだった。

 この画家の豹変が、私に得体の知れない動物的な恐怖を掻き立てたのは、言うまでもない。それでも彼の自らの芸術に対する、原色という感性への偏執の態度を見ても、彼が急に見せた子供らしい仕草に、私はすっかり毒を抜かれてしまったらしい。
 気付けばさっきまで描いていた彼の前から居なくなるという夢は、荒く描いた下書きのように取り留めもなくなっていて、いつか無邪気の落書きのように、なんの意味を為さなくなっていた。それに失敗作と名付けると、ぐしゃぐしゃに丸めた後で、ナンセンスな意識の、適当な辺りにぽいと捨てた。それが私の理想の終わりになった。
 呆気ない後始末を終えてから、私はこれから何をしようかと考えた。
『取り敢えずこの人が起きたら、インスタントのコーヒーでも淹れてあげよう。但し、いつものよりずっと濃いやつを。そしたらきっと、この人は拗ねた顔をするはずだけど、それで今回のことは許してやろう』
 窓の外を見ると未だ止む気配のない雨が目に入り、私は雨音にそっと耳を傾けた。サアサアと屋根を打つ音が、暮れゆく外の闇と共に、アトリエを満たしてゆく。やがて私はその暗闇と静寂の中でそっと彼の頭を抱きながら、題名も忘れた子守唄を口ずさみ始めた。

生贄

副題は画家と彼女のための習作


同じ作品を小説家になろう様でも公開させて頂いております。
但し、向こうの方は改行を多く、台詞周囲を見やすいように調整されています。

生贄

鈍色の雨が降る日、自分の知らない場所を求めて出掛けた沙羅が立ち止まったのは、今まで興味を持ったこともない、ある画家の個展会場だった。ただの好奇心から入ったその中で彼女は一点の虹の絵と出会う。初めて見たはずのその絵に抱いた懐かしいという感情が、柳瀬沙羅と画家・花井十夜の出会いだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-03-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1/3
  2. 2/3
  3. 3/3