聖龍童子
龍王国の暁
「陛下。陛下!」
慌ただしい物音と共に甲冑を身に纏う兵士が正殿に駆け込む。
その汚れた姿に、正殿に集められた文官たちが一瞬眉を顰める。だが、今はそのような些細なことを気にしてはいられない。 龍王国は今、戦時下にあるのだ。
玉石と黄金でできた玉座には若き龍王が座る。
「どうなった。」
王の声はあくまで冷静だ。そのようにあろうと努めているのだ。
「陛下!」
皆の視線が兵士に注がれ、龍王は玉座から少し身を乗り出す。
「我が軍の大勝でございます!敵軍は九迦島から撤退いたしました。」
ざわめきは暫くして安堵に変わる。龍王は息をついて玉座から下り、兵士の手をとった。
「そうか。勝ったか。戦闘の様子を述べよ。」
「はい。」
兵士は叩頭したまま頷く。
「戦闘には元帥閣下自らが出陣され、将軍らを率いました。」
おお、という声が漏れる。
「始めは勢力が拮抗しておりましたが、元帥閣下の龍を見て相手の士気が下がりました。」
その言葉に、皆が納得の表情を見せた。総督元帥・仙孝は王の叔父であり、王国一の武人でもある。だが、龍王は首を傾げる。
「相手の将に術師はおらなんだのか。」
龍王国の王族が龍を遣うように、他国の王族もまた霊獣を遣う事が出来る。
「しかし、海上の戦闘ならば、水の精を遣う元帥閣下に勝るお方はありませぬ。」
「なるほど。それで、相手の将帥の首は取ったか。」
「はい。元帥閣下の龍による攻撃に乗じて一軍が敵の艦に突入し、林将軍が将帥の首を取られました。」
「…王石が?」
その言葉に、今までの安堵の空気が一瞬動揺に変わり、ある者は露骨に眉を顰めた。
「流石は叔父上の信頼厚い林将軍だ。」
その空気を龍王は明朗な言葉で一蹴した。
ともあれ、龍王国は十年に渡り苦しめられ続けた他国の襲来という未曾有の危機を脱したのだ。
即位間もない王である八鹿は、父王が果たせなかった敵軍の撃退を遂に成したのである。
英雄たちの凱旋が待ち遠しい。龍王国は漸く、安寧を取り戻そうとしていた。
玄武の憂
玄武国の王都・武郭の中央部に玄耀宮はある。百もの建物から成る王の居城であり、その中央には王の居住する正寝殿がある。
正寝殿の玉台に、後宮、皇子女が集まっていた。普段後宮から出ることのない女たちが正寝殿にまで呼ばれるのは、王の最期が近いからであった。正寝殿の外には高位高官が居並び、その時に備えていた。
「加氏…」
呟くような声が玉台から漏れる。慌てて加皇后が玉台のそばに寄り、王の手を握る。
「陛下、お気づきに…」
「戦況を…報告せよ…」
その言葉に、加皇后は気付いた。王は自分を呼んだのではなく、軍の総帥として戦争に派遣された彼女の兄・加陸を呼んでいるのだ。
その言葉に皇后は涙した。つい先刻、報告で兄の死が伝えられた。それはとうに王に報告されているはずだった。
「勝たねば…朕は祖先に申し訳が立たぬ…」
周囲が咽び泣いた。だが、どんなに望んでも既に大勢は決している。討たれた将帥・加陸は軍の要。それに、国王が危篤とあっては、自軍には退却しか道は無かった。
「嘉々…」
王は娘の名を呼んだ。多くの子の中で王が最も愛した娘であり、この玄武国の皇太子でもあった。
「そなたは…朕の意志を継ぎ…祖先の恥辱を…注ぐのだ…」
その夜、崩御の知らせが宮中を駆け巡った。
「殿下…崩声でございます。」
駆け巡る伝令の声を聞いた側近が知らせてきた。
「そうか。」
利啓は溜息をついた。そろそろであろうとは思っていた。本来ならば自分こそが、父王の最期を看取るべきであった。
「遺詔は。」
側近はその言葉に少し口ごもる。
「は…それが、嘉々公主を王に、と。それから…」
「それから?」
「殿下には…狄を、と。」
利啓は天を仰いだ。そして笑った。
直接死ねと、言われないだけましであろう。
「殿下…お逃げ下さい。」
「何処へ?」
死を予感しているのは、何も自分だけでは無いはずだ。王の代替わりに粛清は付きものなのだから。皇太子位を剥奪されたあの時から、覚悟していたのだ。
玄武国の王は諱を瑞啓といい、五男六女がある。利啓はその長男であり、既にこの世を去った先皇后・喜氏の子であった。喜氏は名族である。玄武国は長幼ではなく、王の指名で太子が決まるが、名族の母を持つ彼が立太子をしたことに異論は上がらなかった。
だが、利啓は廃嫡された。それは、利啓が王の意思に背いたからだ。
狄は玄武国の北端の国である。玄武国にある十の小国の中でも僻遠の地で知られていた。
だが、それだけでは無い。狄は国そのものが山岳地帯にあり、周囲を高い北方山脈に囲まれていた。まさに逃げ場のない檻なのである。つまりは、僻遠の地で戦乱の芽を摘もうということだ。狄へ行けば殺される。それは、この国の歴史を学ぶ者ならば誰もが想像できることだ。新しい王にとって最大の脅威は、己の兄弟であり、ましてや、外戚の力が強い利啓は、嘉々にとって最も排除したい敵であろう。恐怖を感じないかと言えば嘘だが、たじろぐ程でもなかった。死を覚悟してから長く時が経ちすぎたのだ。
玄武国は、敗戦に疲弊しているにも関わらず、肉親が血を流しあう内乱に向かおうとしている。
「南へお逃げ下さい。埜は喜氏の統治国でございます。」
側近・喜啄は利啓を促した。彼は、利啓の乳母子で、物心ついた時から利啓の側にある。
「南か…。」
少なくとも、北よりは良いかもしれない。視界が開けているだけ、選択肢が多い。
何故、逃げたいと思うのか。利啓は自問する。武を誇る玄武国で、逃げることは死ぬことよりも恥辱である。
それでも…
意思と海
「それでも、妹に殺されるのは嫌かい?」
急に横で声がして、利啓ははっと我に返った。それを見て金の髪の女が笑う。
「私は何か言ったか。」
警戒するように周囲を見回して、利啓は溜息をついた。動く兵士はいない。あれほど大勢いた刺客たちが、今は屍となって足元に転がっている。確かに利啓は玄武国でも有数の剣士だが、殺したのは彼ではない。玄武の兵士を、利啓は私欲で殺せない。
そうだ。埜へ逃げてきたのだった、と利啓は思い出した。
「貴族の坊やも、大変なんだね。」
剣の血を拭いながら、女は言う。凄い剣だ。あれほど切って、刃毀れ一つ無い。
「貴族…か。」
利啓は自分の着ている服を見て笑った。とても貴族に見えるものでもない。
「始めは人質にとって脅してやろうと思ったけど…追われてる奴じゃ人質にならないからね。服は売り払ったよ。身代金も交易手形も取れないんじゃあんたの価値はあの立派な服くらいしかないだろ。」
その言葉に、利啓は少し顔を顰めたが、今の自分の姿を見て、反発するのはやめた。
確かに、今の自分には何の価値もない。皇位に付かぬ皇子の価値など、絹の一枚にも値しない。ましてや、外戚の喜氏に裏切られ、側近の喜啄に裏切られた自分なのだから。
「おや、反発しないんだね。」
「反する理由もない」
「ガキが強がっちゃって、まあ。で、逃げもしない、ときた。」
金髪の女は呆れ顔で、この貴族の青年を見た。年の頃は二十歳前か。埜侯の喜氏に追われていること、妹に追われていることから、誰なのかは大体想像がつく。
「人攫いに殺されるのも、兵士に殺されるのも、所詮は同じだ。」
利啓は言った。
寧ろ、自分を陥れた喜氏に首をくれてやる方が自尊心に傷がつく。裏切り者は憎い。だが、喜氏が今後朝廷で生き残るための最善策は、利啓の首を新帝に差し出し、忠義を示すことだというのも頭では理解している。
「私を何処へ連れて行くつもりだ。」
価値がないならば何故生かすのか。
「ガキのくせに色々考えるんだね。」
その時目の前で、バタンと何かが倒れる音がした。驚いて飛び退くと、それは商家の木扉であった。砂埃の中、男が逃げ去る。
「盗人だ!捕まえてくれ!」
走り去る男は確かに何かを抱えているようだ。利啓は刀の柄に手をかけようとして、自分の刀が女に売られてしまった事を思い出した。
盗人一人捕まえられないとは、屈辱に違いない。
仕方なく、足止めをしようと追おうとして、女に止められた。
「何をする。」
「正義感もいいけど、立場をわきまえなよ。」
それを聞いて、利啓は溜息をついた。確かに、もう皇子でも、役人でもない。
「だが、罪人は裁かねばならぬ。それが秩序というものだ。」
「まあ、そうだけどね。」
金髪の女は否定はしなかった。薄々感じていたが、この女は賊でありながら、話が通じないわけではない。利用価値のない利啓を生かす理由も、連れ回す理由もわからないが、何かしらの理屈に従っているようにも見える。
「変な女だ。私が追われていると分かっているのなら、追う者に売れば良かろう。」
利啓の言葉に、女は呆れ顔で言った。
「役人が、私らと取引すると思うかい?」
正論であった。彼ら自身も追われる者なのだ。
「なるほど。しかし、なぜそなたらは追われているのだ。」
「そんなこと…ああ、着いたよ。」
路地を抜けると急に視界が開けた。
太陽の光が目に降り注ぐ。眩しさに、一瞬目を閉じて、次に開けた視界には一面の青が広がっていた。
海だ…
利啓は海を見たことがなかった。王都・武郭は玄武国の中央部にある。皇太子であった利啓は生まれてこの方、武郭から出たことが無かった。
何と広い…
何故、自決せず逃げてきたのかと自問した時、やはり自分の知らない世界の多さに、悔恨を感じたからだとも思った。書物に描かれる世界を見る最後の機会だと。
そうか、海とはこんなにも広いのだな。
妙な納得感があって、利啓は久しぶりに満ち足りた思いがした。だが、その気分を一掃するように女が利啓の肩を叩いた。
「ホラ、あれを見な。」
女は海には目もくれず、波止場の脇の小屋を指差した。
盗人の男がいる。それから…子ども。小さな子どもが四人はいる。皆、裸に近い格好をしている。
男は腕に抱えたぼろ切れのような包みを、子どもたちに与えた。中には、小さな菓子が三つほど入っていた。彼らの空腹を満たすにはおそらくまるで足りないが、子どもたちは満面の笑みで、貪るように食べた。男はそれを満足そうに見ていた。
利啓は辺りを見渡した。港街は浮浪者に溢れていた。路地裏には老人の死体が転がり、鴉の餌になっていた。
やはりこの国は貧しい…それは美辞麗句を並べた書物からは実感できない、しかし、事実であった。
「原則論では、皆苦しい。」
女は言った。
「特に、戦時下ではね。」
利啓は、この女は誰かに似ていると思った。利啓がよく知る誰かに。
父王が二度目の派兵を行った時、利啓は侵攻に対して諫言した。その時に王は利啓に激怒したのだ。
「何故父上に逆らったりしたのですか。」
嘉々は利啓を詰るように言った。
「思った事を言っただけだ。」
利啓は答えた。それが、父の怒りを買ったことは一度ではないが、阿諛追従することには反発を覚えた。
「兄上はいつもそうだ。兄上は皇太子なのですよ。」
「わかっている。」
王と皇太子の反目は、国の根本を揺るがす。それは、利啓にも分かってはいる。だから、父はあれほど怒るのだ。
何故、他国の地を侵す必要があるのかと父に問うた。他意があったわけではない。ただ、戦う理由が利己的に感じたから問うただけだ。 父は言った。そなたには先祖の恥辱を感じられぬのかと。先祖がかつて龍王に屈し、辛酸を舐めたことに対する怒りは無いのかと。 父は、己の、そして祖先のために戦ったのだと思った。
「兄上はなぜ父上が龍王国を攻めるかご存じか。」
嘉々は問うた。利啓はその意図を探ったが、思い当たらない。
「祖先の恥辱を注ぐためだ。」
利啓は答えた。王自身がそう、言ったのだ。嘉々は暫く沈黙してから言った。
「では何故…この国が貧しいかご存じか。」
「何…」
さらなる問いに、利啓は首を傾げた。嘉々は確かに貧しいと言った。確かに天災や飢饉で餓死が多くなることも、税収が減ることもある。だが、何と比べて貧しいと言うのだ。
「どういう意味だ。」
利啓は率直に問うた。嘉々は呆れたような顔で、利啓を見た。いつもそうだ。そんな風に思っていないと分かっていても、嘉々は自分を見て、失望しているのでは、と感じる。
「この国が他国に比べて貧しい理由をご存じかと聞いています。」
利啓は答えられなかった。そもそも、他国と何故比較しなくてはいけないのか。
嘉々は静かに答えた。
「確かに玄武は山岳地帯が多く、農耕に向かない。だが、それが理由ではない。かつて龍王国に蹂躙され、支配下に置かれた時、戦火と略奪により多くのものを奪われた。建造物は破壊され、国土は焦土と化し、豊富だった鉱物資源を奪われた。さらには、富を得る手段だった他国との交易を失った。だから未だに貧しいのです。」
利啓は言葉に窮した。嘉々の次の言葉が分かった気がしたからだ。嘉々は続ける。
「そして、奪われたものを取り返す為に父上は戦うのです。それは民のためでもある。兄上はそのことを考えた上で、反対しましたか?漠然とした反抗は、父上への侮辱です。」
利啓は思った。嘉々は少なくとも、己よりも、この国を思っている。その凛とした姿が、利啓には王に見えた。
利啓は過去を思い出し、溜息をついた。そして、傍の金髪の女に問うた。
「愛するものの為なら、奪うということか。」
奪うことそのものは、道理を侵していても、果たして正義は奈辺にあるか。
「さてね。」
女は淡々と答えた。利啓は思い切って問うてみた。自分でも不思議だが、この素性の知れぬ女に問うてみたくなった。
「そなたもやはり、他国に奪われて困窮したなら、奪い返すのが民のためだと?」
利啓の問いに、女は少し海を見て考えていた。
「どうだろうね。私は王様ではなく、民だからね。そうだな私なら…」
女の髪が風に靡く。金色が太陽の光に煌めく。
「奪った国へ行くさ。」
美しい女であった。どこかの国の貴族と言っても通るほどに。女は言った。
「過去に縛られるのはごめんだし、奪い返したら、また奪われるかもしれないってことだ。そんな繰り返しは面倒だし、互いに有益じゃない。逆に奪った国が豊かなら稼ぐのも簡単だから、また豊かになれるかもしれない。」
利啓は唖然とした。
「奪われた国で働く?恥を知らぬ。」
その言葉に、女は笑う。
「何が恥だい?恥なんてものは、要は気の持ちようだよ。」
利啓は馬鹿げていると思った。だが、今迄、そんなことを考えた事も無かった。この女には、国に対する執着が一切ないのだ。皇太子として生まれた利啓には考えられるはずもない。まるで逆転の価値観と対峙して、滑稽だとも思うが、実は嫌ではない。
利啓は他国に侵攻しようとした父に反対した。後に嘉々から父の意図を聞いたが、理解はしても己から主張はしなかった。何故か。そこに深い考えがないことは、己が一番分かっている。だが、何故あれほど嫌だったのか。利啓は自問した。利啓には今迄、一つの意見しか許されなかった。嫌でも、反発しても、結局王の意見だけが正なのだから、何故嫌なのかと、考えることそのものに意味がなかったのだ。
今は、利啓は皇太子ではない。国家に追われ、殺されかけている。逆に考えれば、何を考えても誰も反対しないし、関心も持たない。
「私は…どうすれば良い。」
利啓は率直に問うた。かといって、突然の自由に、戸惑いは隠せない。女は笑って言った。
「何故お前のことを無価値だと言ったかわかるかい。お前は今、無価値なんじゃない。生まれてこの方ずっと価値などない。」
女は、盗人の男の肩を叩いた。そして交渉をして、代金と引き換えに子どもを一人連れてきた。
「お前、名は?」
女の問いに子供は首を振った。
「なら、桂と呼ぼうか。さて、鍛えれば、使えるかねえ。」
人買いは重罪である。だが、男は子どもが減ればずっと楽になるだろう。そこに、発想の転換がある。
女の考えは、利啓の常識では測れない。
「己の生き方は己で決める。そして、己の価値は…己で見つけるんだ。」
女は言った。重要なのは買われたことではなく、誰に買われるかということなのかもしれぬ、と利啓は思った。
「私はお前に着いていきたい。」
利啓は意を決した。それが、思想の自由を得て、初めて述べた己の遺志だと、利啓は思った。
利啓は、今迄己の考えを持たなかった。それは人として、無価値だったということだ。だが、皇太子の利啓は意思の選択もできなかった。国には、王こそが意思の全てだからだ。
今は、皇太子でも、皇子ですらない。己の意思を、己で見つけることができる。
「そうかい。そう、決めたのかい。あんたの代金はあのやたらに豪勢な服で払ってもらったし…男手は必要だから拒む理由もないかねえ。」
女はそう言って笑った。
「あんた、名は?」
女は突然問うた。
「利啓。」
利啓は躊躇いなく、答えた。利啓という名は、この国では有名だ。なにせ、かつての皇太子の名なのだから。だが、利啓は女に、本名を答えた。着いていきたいと言った以上、それが、礼儀だと思ったからだ。女はそうかい、と頷く。
「今日からは、それを捨てな。そうさね。桐青にしようか。まだ、青臭い坊やだからね。」
そう、軽く言った。
「桐青…」
「私は、菫花。そうと決まれば、早く行くよ。役人が来るからね。」
「行くって何処へ…」
「おや、知らないで着いて行くと言ったのかい。馬鹿だね。海だよ。海に出るんだ。」
それは玄武国で海狢、龍王国で畢鼠と呼ばれる海の賊のことであった。
龍の皇子
「この世には大きく五つの国があります。天帝が住まわれる天王宮を中心に、北に玄武国、西に虎王国、南に朱雀国、そして、龍王国。それぞれの国の王は歴代天帝に任命されます。任命と言っても、各国の皇太子は王が推薦いたしますから…実質的には世襲と同じですな…殿下、聞いていますか。」
竹鞭のピシリという音が麗山渡月宮に響き渡る。大学府尹・高策の講義は厳しいことで有名だ。あまりの痛さに羅維は飛び起きた。
「痛っ。」
「殿下、自覚をお持ち下さい。殿下は…」
その言葉を欠伸で遮って、羅維は言う。
「その先は分かっています。天王宮に上れるのは王と聖龍童子とその護衛官のみ。天帝に見えるのは最大の誉れである、ですよね。」
羅維にとって中科など、嫌ほど聞いて厭いているのだ。
「ところで、天帝陛下は何故各国間の渡航を禁じているので?」
羅維は可笑しそうに高策に問う。
「殿下!そのことは…」
師の剣幕に羅維は首を竦めた。高策は硬い。十の子供の冗談が通じないのだ。羅維は呆れて言う。
「雨林王の乱はもう二百年も前ではありませんか。それに…禁じているはずの渡海を玄武王が命じたのは何故ですか?なぜ侵略の為にこの国を攻めながら、十年も天帝のお咎めがないのでしょう。」
実際、羅維には疑問なのだ。かつて、龍王位を簒奪した雨林はそのまま天下に覇を唱え、他国を侵略した。特に、玄武国に至っては完全にその支配下に置かれ、玄武の民は雨林を帝王と仰ぐことを強制された。
これに、時の天帝は激怒した。もともと、龍王位も国土も天帝が与えるものである。玄武王も同じである。この乱は、天帝への謀反とみなされた。
最終的に、雨林は天帝により王位を剥奪された上、処刑された。そして、天帝は一部を除いて国家間の渡航を永久に禁止したのである。
龍王国で、この侵略にまつわる話題は禁句である。
「殿下、何と不遜な…」
高策は呆れる。
「羅維、それまでにしておけ。」
講堂の扉が開き、美髯の男が姿を見せた。
「これは、麗山公。」
高策は男の前で平伏する。麗山公は位階一位。この国では、王と皇后に次ぐ地位である。さらに時の麗山公である仙孝は戦争の英雄でもある。皇子である羅維も又、麗山公の前に跪いた。
「高策を困らせるでない。」
「は…」
羅維は憮然とした表情で見返す。
「答えられぬと分かっていて、問うことは君子ではない。」
「答えられぬと…」
「分かっているであろう。都合の良い時だけわからぬふりをして、師を困惑させるとは何事だ。」
雨林王は、二百年も前の王だが、後にも先にも、簒奪により王位についた上、天帝に処刑された王など他にいない。それは龍王国の歴史の中で最大の不祥事である。
「よいか。玄武との戦争の後、玄武王は崩御し、皇太子が王位を継いだ。それこそが、天帝陛下が侵略に対する罰を下さなかった理由だとは思わぬか。」
「それは…」
仙孝は諭すように言った。この世で、天帝の意思を問うことは大罪である。天帝は神であり、天帝の意思は天意に等しかった。その天意を受けているからこそ、龍王は龍王国の絶対的な支配者であれる。
羅維は憮然として、しかし、麗山公の前に跪いた。
「申し訳ございませぬ。」
仙孝は羅維を見て目を細めた。少年は本当によく似ている。かつての、龍王・八鹿に。
後宮の華
「陛下、お聞きください。」
蜜酒を杯に注ぎながら、女は龍王の耳元で語る。
「香鈴、どうした。」
龍王は皇后を名で呼ぶ。彼女は後宮の筆頭であり、聖龍童子、第二皇子の母でもある。
「第二皇子から文が参りました。」
「羅維から?」
「中科は飽きたと。」
中科は龍王国で通常十二歳から十五歳までの子供が学ぶ十科から成る学問である。貴族の男子にあってはこれを修めて初めて一人前と言われる。それを十の子供が飽きたと言うのだ。優秀な息子を持つことは後宮での優位性に直結する。
「ほう、武芸にばかり興味があるかと、思うていたが、よく学んでいるではないか。」
八鹿は満足そうに頷いた。
「聖龍童子も学問に秀でている。流石は白皙の衆国侯の血筋だ。」
衆国侯・恩王鈴は香鈴の父であると共に、八鹿の叔父にもあたる。
「これも全ては皇后陛下の徳を天が讃えているのでございます。」
皇后と龍王の周りを取り囲むのは、王の妃嬪であった。妃嬪たちは口々に皇后に賛辞を送る。
龍王の皇子は三人。そのうちの二人は皇后の所生なのだ。今後宮において皇后に対抗できる勢力はない。誰もが、皇后を敵に回したくはない。
その時、遠くで子供の笑い声が聞こえた。
「殿下、見てください。私の凧はあんなに高く。」
小白龍紋の刺繍を肩口に施した絹を着ている子供が叫ぶ。小白龍紋は皇子の証だ。
「上手くなったものだ。」
答えたのは、銀龍紋の衣袍の少年。つまり、聖龍童子・連光である。
「兄上よりも上手くなりましたか?」
「どうであろう。羅維は凧揚げの名人だからな。」
「楽しそうではないか。」
物陰から聞こえた声に気づき、その場にいた者たちが即座に跪く。
「陛下。お騒がせを致しました。」
青の衣、背に背負う金龍紋。龍王の禁色である。
「良い。続けよ。」
龍王の後ろには皇后をはじめとした妃嬪がずらりと従う。
「黄天。聖龍童子に凧を教わっていたのか。」
龍王は跪く少年に声をかける。それを見て、皇后は少し顔を歪めた。
黄天は龍王の第三皇子だが、母は皇后ではない。
「兄上…いえ、聖龍童子殿下は何でも教えてくださいます。」
黄天は嬉しそうに言った。
黄天は龍王と同じ緑の瞳をしている。龍王国において青と緑は吉兆の色であり、緑瞳はとくに珍しいことから瑞兆とされた。
それが、皇后には気に入らない。聖龍童子・連光も、羅維も龍王の瞳を受け継がなかった。ただ、黄天だけが、継いだのである。そして、黄天という名前。龍王国の初代龍王は諱を黄龍といった。その名に天を与えるとは、大層なものである。
「そういえば、そなたの母はどうしたのだ。」
龍王は辺りを見回した。侍女たちは顔を見合わせる。皇后は溜息をついた。皇后には、彼女が何処にいるのか大体想像がつく。
「母上は拝堂に…」
八鹿の顔が曇る。
「寧嬪は陛下を愚弄しています。」
言ったのは梢妃である。
「黙れ。」
龍王の声に場が凍る。龍王は後宮においては何事にも寛大で、怒ることは滅多にないからだ。
「拝堂へ行く。そなたらは付いてこなくて良い。」
龍王は言い残して去った。唖然とする黄天の頭を、連光は優しく撫でた。
「気にする必要は無い。陛下はお忙しいのだ。さあ、凧揚げの続きをしよう。」
「梢妃。なぜ陛下の御気分を害すような事を言うのだ。」
香鈴は溜息をついて、梢妃を詰った。皇后としての責務は後宮を治めること。それは、天下を治めるのと同じくらい難しい。
「寧嬪は無礼者です。」
梢妃は若いだけに率直だ。香鈴は梢妃を宥めながら、しかし、最もだとも思う。寧嬪は出自こそ卑しくはないが、その父・関熙雷は罪人である。龍二軍を率いる将軍であったが玄武の海軍を前に大敗を喫し、万の兵士を死なせたにも関わらず、自らは逃亡し、姿を消したのだ。その娘が、のうのうと嬪位に収まり、皇子を生むなど厚顔も甚だしい。しかも、寧嬪は寡婦であったと言う。政務においては非の打ち所のない聖王・八鹿が、何を好んで彼女に執着するのか、香鈴には分からなかった。だが、だからといって、己にその執着を向けてほしいと思うわけではない。香鈴の父・恩王鈴にも側女はたくさんいたし、王族とはそういうものだ。むしろ、子供が少ない方が問題だ。先代龍王は、ただ一人の女を死ぬまで愛し続け、他の妃嬪をまるで顧みなかった。それは王位継承の争いを防いだが、そのせいで、今は次代の麗山公すら定めることが出来ない。先代の皇子は龍王ただ一人なのだ。では龍王に何かあればこの国はどうなるのか。幸いにも、龍王は名君で、他国の侵略も防いで見せた。だが、玄武国はその恥辱を忘れることはないだろう。また、攻めてくるに違いない。今、後宮に求めらていることはより多くの皇子を生み、龍王の手足を増やすことだ。先代の二の舞を演じないためにも。香鈴は、必要ならば、王に新しい側室を献上することも厭わないのだ。
拝堂は六角の形をしている。その昔、時の天帝が病に伏した時、息子の天輪王・玉師王子が六角の死節棍で邪気を払ったところ、天帝が回復し世が栄えたことから、病や邪気からの回復を願う時は六角堂で玉師王子を祀るとされている。
だが、寧嬪が玉師王子に願うのは病からの回復ではない。一族の名誉の回復と、家族の帰還である。
「雪。」
祈りを捧げる寧嬪の後ろで声がする。侍女たちが気付いて即座に平伏する。
「陛下。」
その声に、寧嬪が振り返る。そして、寧嬪もまた跪く。寧嬪の名は雪姫、姓は関氏。龍王は親しみを込めて雪と呼ぶ。
「礼は良い。」
龍王が促す。寧嬪は頷いて、龍王に拝座を譲る。
龍王は玉師王子の像に香粉を捧げ、礼拝する。
「陛下、このような場になぜ…」
寧嬪は龍王に尋ねる。拝殿は後宮の最奥にある。王の訪れる場所ではない。
「私にも願うことはある。」
龍王は淡々と述べる。八鹿という王は感情の起伏が少ない。帝王というものは、そういうものなのかもしれないが、それ故に、寧嬪には龍王の考えがよくわからない。
「陛下の願いとは…?」
龍王はふと、考えてから言う。
「例えば、そなたがかつてのように、私に笑いながら悪態をついて欲しいとかな。」
寧嬪は言葉が継げなかった。八鹿は帝王である。この国にある限り、八鹿の言葉は天意に等しい。全ては龍王の思いのままで、欲しいものはなんででも手に入るだろう。その、龍王が誰よりも、寧嬪を愛している。それはこの世で最も幸せな事のはずだ。それは、分かる。
寧嬪の父が罪に問われた時、一族を見せしめに処刑せよという声が上がった。それを止め、祖父・関赤雲を南門関の総監に左遷したのは龍王だった。龍王には恩もある。
それでも…それでも寧嬪は今は亡き夫のために祈りを捧げ続ける。かつて、寧嬪が心から愛した男のために。他の男を愛することは、夫に対する罪のような気がするのだ。
軍神 林王石
「陛下、なぜこのような宣旨を出されたのです。」
正殿の玉座を前に、初老の男が顔を顰めている。武官服の色は鈍色、背中の紋は菊水紋。龍一軍の将軍・林王石である。王石は金色の宣旨を握り締めている。
「なんだ。王の宣旨に文句を言うとは、命が惜しくないのか。」
八鹿は玉座から王石を見下ろす。だが、王石は若き龍王に怯む男ではない。
「陛下、ただでさえ私は先年の戦の折に、関将軍を陥れたのではと疑われたのです。それが、何故かお分かりですか?」
いつにも増して口数の多い王石を龍王は可笑しそうに眺めている。
「陥れたのか?」
「陛下、冗談はおやめ下さい。」
王石は顔を顰める。冗談でも、王が口に出せばまた噂に登りかねない。八鹿はそれを見て、笑う。
「お前に関将軍を陥れる理由はないものな。」
「陛下、ですから…」
「望まぬと分かっていて、お前を総督元帥に据えたのだ。」
玄武国との戦争に勝利し、二年後、戦後の復興を見届けて、仙孝は軍の総帥たる、総督元帥を辞した。龍王は仙孝の功績を称え、麗山公に任じた。麗山公は龍王国において、龍王、皇后に次ぐ地位である。仙孝は母の出自の低い皇子ではあったが、今や国の英雄であり民の崇敬の対象でもあるから、誰も反対できなかったのだ。それで、総督元帥が空いた。それから三年、総督元帥は空位であった。将軍の最長老である高桓が、とりあえずは代理で龍軍を束ねてはいるが、英雄・仙孝皇子の後釜に座るのは荷が重いというものだ。実際、誰もが比較されることを恐れている。
「陛下…何故私なのです。他に相応しい方はいくらでもおりましょう。」
王石の言葉に、八鹿は溜息をつく。
「おらぬから、お前にしたのだ。」
八鹿にとって、それは本音であった。王石の登用が物議をかもすことは十二分に分かっていた。だが、仙孝と比較しても遜色ない軍功を上げた将軍は王石しかいない。仙孝と王石は九迦島を玄武軍の占領下から解放した英雄である。王石でなければ、民も納得しない。だが、王石がすんなりと首を縦に振らない理由がある。
「私は平民でございます。」
それが、五年もかかった理由だ。八鹿はそう、思っている。先鋒を務めた関煕雷が惨敗を喫し、その後、王石がその雪辱を果たした時、その功績を称えるのでは無く、煕雷を陥れ、軍功を奪ったのだと言われたのも、偏に、彼の出自の低さにあるのだ。
龍王国の身分制は厳格で、平民、貴族、王族の間にはけして埋められない壁がある。平民で、王石の地位まで上り詰めた者はかつて居ないのだ。
だが、冷静に考えれば、今の龍軍で王石を差し置いて誰が総督元帥になれるだろう。軍に王石以上の武人はいないし、統率力という点でも群を抜いている。
「この五年、お前を元帥にするために龍軍の人選を行ってきた。私の苦労を踏み躙るつもりか。」
龍王は冷静に言った。
王石は絶句した。思い返してみれば、確かに今の龍軍の上層部はかつてほど王族・貴族で占められていない。王石が軍属したばかりの頃には、平民で尉官以上になるなど考えられなかったが、今は四人に一人程は平民か、或いは片親が平民の庶子であろう。
それは、王石を元帥に据えた時の反目を抑えるための布石であると同時に、王石を利用して前例を作り、幅広い身分から人材を登用するための手段だということだ。王石が先先代元帥の女婿であり、貴族も反発しにくいという理由もあるだろう。
「陛下…」
「玄武がまた攻めてこないと思っているのか。攻めて来た時、お前以外に誰が軍を率いることができると言うのだ。」
王石は押し黙った。龍王の信頼は揺るぎない。それにこれ以上反対することは、不忠になる。
その沈黙を、八鹿は黙認ととった。
この瞬間に、龍王国に初めて平民の総督元帥が立った。八鹿は初めから、王石の剣技を初めて見た六歳の御前試合の時から、この決断を決めていたような気がする。その時、八鹿は身分を超えて、王石に尊敬と憧れを抱いたのだから。
「まさか陛下が林王石を将軍のみならず、総督元帥に据えるとは。龍王国の秩序も地に堕ちましたな。」
麗山学府は龍の皇子の学府であり、龍王国の教育を司る大学府に併設していて、大学府尹の居所でもある。その大学府尹・高策を前にして、龍三軍の将軍である高桓が愚痴をこぼしていた。
「陛下のお決めになったことに異を唱えるでない。」
高策は冷静に桓を窘める。高桓は高策の弟であり、彼ら兄弟は、かつてほどの権勢はないとはいえ、名門貴族・高氏の出だ。
「世の秩序を教えるべき大学府尹が気弱なことだ。」
高桓は嘆いた。確かに、王石の登用が異例であったことは間違いない。
「王石一人の登用ならば、それほど目くじらをたてることもあるまいが…」
高策は言った。
「兄上はどのようにお考えで?」
「龍一軍の副官は賈淑仁と馬慶夏。どちらも平民の出身で、王石の手足だ。王石が総督元帥になれば、そのような者たちが重用されるに相違ない。」
「平民が龍軍で大きな顔をするということですか。」
高策は首を振った。
「そうではない。貴族が、王石の下に付くことを是とするか、ということだ。例えば、そなた。そなたも王石の部下となるのだ。それを、心から許容できるか?」
「勅命ならば、仕方がない。」
高桓は憮然とした表情で言った。
「そう。そのような信頼関係では、王石もやりにくい。だから必然的に、淑仁や慶夏のような今までの部下に重きを置かざるを得ない。」
「兄上…」
高桓は龍軍の中で最長老であり、既に引退も考えている。だが、龍軍には若い王族・貴族も多い。誇り高い彼らが、長く王石に仕えられるか。
「では、他に誰が今の軍を束ねられる。」
背後で声がして、高策と高桓は振り返った。
「麗山公。」
二人は礼をする。立っていたのは麗山公・仙孝であった。
「されど…」
高桓を制して仙孝は言う。
「王石はかつての総督元帥・香作父様の婿だ。そう思えば、そなたらの自尊心も傷付くまい。それに…今は緊急時だ。」
これが十五年前であったなら、誰も他国が攻めて来るなど思わなかった。初めて玄武に攻められてから、既に十年以上。これまでの三度の来襲で、亜国・明渡は壊滅的な打撃を受けた。三度目の来襲で龍軍が討ち取ったのは、玄武国皇后の兄だという。それを、玄武が許すはずはない。最後の来襲での敗北は相当な痛手であったようで、ここ五年は攻めてくる気配はないが、明渡を復興し守りを固めるにはまだ暫くかかる。
皇子たちの確執
「今日はこの麗山学府に、新たな学童を迎える。仲良くするように。」
そう言って、麗山公は二人の少年を連れてきた。それを見て、羅維と平忠は顔を見合わせた。麗山学府は元来、皇子の学府である。皇子といえば、聖龍童子と羅維、そして弟の黄天の三人だけだ。平忠は龍王の妹・神羅公主の息子で、羅維の学友として、特別に麗山学府で学んでいる。
羅維は始め、学府に来るのは黄天だろうと思った。黄天は八歳で、麗山に来るには少し遅いが、龍の皇子だから当然である。だが、来たのは黄天ではなかった。
羅維はその二人を知っていた。法国侯・関昂の次男、三男で、名を仲成、龍為と言った。歳は、仲成が羅維と同じ、龍為は一つ下だ。
「何故、黄天は学府に来ないのですか。」
率直に、羅維は仙孝に尋ねた。
「不満か。」
「いえ…」
否定するが、羅維の表情は不満げに見える。無理もない、と仙孝は思う。羅維は誰より、兄・連光を慕っている。連光は聖龍童子だから、麗山ではなく王府の聖龍堂で学ぶ。羅維は七歳で麗山に預けられて以降、兄に会えるのは年に数度だ。だが、黄天は毎日でも、連光に会うことができる。
龍王は羅維よりも黄天を愛している、と噂する者がある。だからこそ、黄天を手放さないのだと。確かに、黄天の母・寧嬪は龍王の寵姫であり、そのような噂が立つのは無理からぬこと、とも言える。だが、仙孝は八鹿をそのような私情の王だとは思いたくない。
朱雀の壊
赤土の大地と、屍の山。かつては、黄金で染められた翔茜宮は、今は墨色に燻っている。
「皇子。もはや…これまでじゃ。」
女は、疲れ果てた顔で砂の上に座り込む。都は既に焦土と化している。
「母上!」
幼い少年が女に駆け寄る。残った兵士達も焦燥の表情を隠せない。
女は、諦めたように天を仰ぐ。
思えば、嫁いでから今迄、安心して眠れたことがない。常に死と隣り合わせであった。そもそも、燈耶は戦乱の世以外を知らないのだ。県政の家に生まれ、父の野心のために、傀儡の王の妻となった。二人の子を産んだが、夫は父に殺され、その父もまた、家臣に殺された。そうして、今また自分がその家臣に、殺されそうになっている。
百年以上も続く戦乱は際限なく増殖している。天帝の手前、王家から王を立ててはいるが、権力者の邪魔になればすぐに首が変わる。
「火鳥…逃げなさい…」
敵が息子を奪いに来る。傀儡の王とするために。そして、いつか殺すために。
その時、大きな鳥の羽音が聞こえた。同時に、大地を疾風が走る。砂埃が舞い、燈耶は目を瞬く。
「母上!ご無事ですか?」
空から、懐かしい声がする。見上げれば、赤銅色の太陽と、同じ色の羽根が降り注ぐ。
「姉上!」
火鳥の声が響く。その瞬間に、燈耶は安堵感が広がるのを感じずにはいられなかった。舞い降りたのは天燁将軍・風月。彼女は燈耶の娘であり、朱雀国最高の術師でもあった。朱雀国の王族は鳥の霊獣を使役することができる。だが、風月のように十もの霊鳥を扱える者は他にいない。彼女はその十の霊鳥を自由に操り、天空を縦横に翔ける。
「風月…生きていたのね…」
燈耶は涙して、娘を抱きしめた。だが、風月の表情は暗い。
「ここも安全ではありません。お逃げください、母上。」
風月の鎧は赤黒く汚れている。ここへ来るまでに、何人を斬ったのか、既に思い出せない。
「なぜ…月枝将軍は裏切ったの。」
燈耶は怒りを抑えきれない。月枝将軍・利久は燈耶の従兄で、父・連曙の腹心の部下でもあった。その利久が父を殺した。
「理由は分かりません。ですが、敵はもう間近まで迫っています。」
風月は首を振った。
「逃げろと言っても何処へ…」
「間もなく、吉泊に龍王船が来ます。」
「そんなはずない。陛下が亡くなってから、ここ何年も遣使は訪れていない。」
他国との国交は天帝によって制限されている。龍王船はその名の通り、龍王からの正式な遣いで、遣使と呼ばれているものだ。かつては、制限通り年に二回往復していたが、戦乱が激しくなり、一回になり、近年は遂に途絶えた。戦乱に巻き込まれる危険を冒して遣使を派遣するなど、愚の骨頂だからだ。
「それは遣使ではなく、密航船でしょう。」
戦乱に乗じて他国に人を売る者や、亡命と引き換えに家財を押収する者がいる。
「どちらでも構いません。この国にいては、生き延びられない。」
風月は必死に訴えた。
「火鳥は王家の嫡子です。敵に奪われる訳にはいかない。」
「いくら利久でも…簒奪は許されないでしょう。天帝陛下が黙ってはいない。我が父でさえ、それはできなかった。
この世に王は四人いる。他国において、王という存在がどれほどの力を持っているかは定かでないが、少なくとも朱雀国においては、この百年、その地位は皇籍を与えるだけの有名無実となっている。だが、皇籍は王族の証で、霊獣を使役する力を与える。それは無為ではない。王を掌握することは、霊獣の力を掌握することに等しく、絶大な戦力を得るのだ。
王を定めるのは天帝であり、未だ嘗て、王の近親以外の王位継承が認められた試しは無い。また、燈耶の父・連曙は燈耶の夫であった金播王を殺害したが、己が王を名乗らず、金播王の弟・金羅王を擁立した。金羅王は盲目で、実権は全て連曙が持っていたが、それでも王位を奪うことは無かった。
かつて、龍王国で簒奪で王位についた者があったが、天帝により誅殺された。その例を連曙は重視したのだ。
「その金羅王も殺され、王家で担ぐことができる男子は、もはや火鳥しかいない。」
「ですが、火鳥も父上や叔父上と同じ運命ですよ。」
それは、燈耶も否定できない。幼い火鳥に、利久を抑える力はなく、逆に長じれば金播王の如く殺されるだろう。
「火鳥を今、敵に渡してはなりません。」
「では、どうすると言うの。」
既に、生きる道は無い。燈耶は絶望的な運命を嘆くしかなかった。
風月はその母を、奮い立たせるように手を握った。
「母上、私が投降します。その間に、火鳥を連れて吉泊へ。」
その瞬間に、大きな音が辺りに響いた。火鳥が驚愕の瞳で母を見つめる。燈耶が風月の頬を叩いたのだ。
「愚かなことを。」
「他に術がありません。」
赤く腫れた頬を摩りながら、風月は淡々と言う。
「私に娘を犠牲にしろと言うの。」
燈耶は怒りに震えていた。
「犠牲ではありません。これは…和議の交渉です。」
風月は燈耶を宥めるように言った。昔から、風月はこのように老成した少女だった。親に、甘えるということの無い子である。連曙の政略により夫婦となった金播王と燈耶の関係を見て育ったからかもしれないと、燈耶は罪悪感さえ感じる。
「お前は、利久に降るということがどういうことか分かっているの。」
「はい。」
風月は頷いた。
「利久が叔父上もお祖父様も殺したと分かっていて…」
「お祖父様も、父上を殺しました。私はこの殺し合いを終わらせたい。」
「本当に終わると思っているの。利久にとって、お前はただの飾りに過ぎないのよ。」
例え、利久に降伏しても…つまりは、利久に嫁したとしても、それは一時の和平に過ぎない。それよりも、己が生き延びるために娘を仇に差し出すなど、己を許せない。ましてや、利久は燈耶よりも年長である。
「お前を行かせるくらいなら、私が行くわ。」
「母上は王家の血筋ではありません。」
風月はきっぱりと言った。利久が望むのは王家の血、推戴すべき傀儡だ。金羅王を殺してしまったことは、利久にとって想定外だったに違いない。王位に飾っておくことも、ましてや敵の皇籍を剥奪することさえできなくなった。利久は風月の手足を捥いでも、風月の血が欲しいはずなのだ。
「今のままでは、誰一人として生き残れませぬ。」
風月は一時の平和の為に、身を捧げると、決めたのだ。
「風月!」
風月の背中に白銀の翼が生える。こうなると、燈耶では止められない。風月は国一番の霊獣使いだ。
「羽白。」
風月が名を唱えると更に翼が広がり、そして白い鳥の姿となる。
「朱理。後は任せた。」
言い残して、風月は羽白の背に跨り、ふわりと舞い上がる。
「風月!」
既に、燈耶の叫びは届かない程にその姿は小さくなっていた。代わりに疾風が燈耶と火鳥を包んだ。
「殿下、早く背に。」
太い声が天から響く。よく通るその声は、聞き覚えがある。風月の副官・萓朱理だ。朱理の霊鳥は緋燕という。緋色の羽根と金色の体躯の鳥で、戦場にあっては鬼神の如き速さで敵を狩るという。朱理の声に誘われるままに、火鳥は腕を伸ばす。
「火鳥!」
燈耶は未だ踏ん切りがつかない。罪悪感が彼女を支配していた。
「妃殿下。選択肢はありませぬ。太子のためにも早く。」
朱理は振り払おうとする燈耶の腕を掴み、緋燕の背に乗せる。燈耶は諦めたように目を閉じた。
「何故、そなたは風月を止めなかった。」
朱理は風月の許婚である。それが、燈耶には許せない。朱理は押し黙って、批判の視線を受ける。
「答えよ。何故そなたは…風月を…」
「主命ゆえ、従うまで。」
その言葉に、燈耶はカッとなって、朱理の頬を叩いた。風月も朱理も愚かすぎる。
「そなたが守るべきは風月であった。」
その言葉に、朱理は一瞬考えるように間をおいて、言った。込み上げるのは怒りではない。だが、悔恨でもない。
「風月様は母上と太子殿下を置いて逃げるような方ではありません。」
風月の決意を聞いて、朱理は逆らえなかった。彼女の自己犠牲に応えるためには、命を懸けて、燈耶と火鳥を守るしかない。そう、誓ったのだ。
海の民
吉泊が朱雀国一の港であったのはもう、何十年前だろうか。連曙は若かりし頃、吉泊のある盛県の県政だったのだ。その一介の県政が、王の首を挿げ替える。この国はこの百年、そのようなことばかりを繰り返してきた。
今の吉泊は、戦火に焼かれ、掘建小屋に少数の人が屯するばかり。僅かに残る面影は石造りの桟橋の、崩れかけた装飾のみ。
桟橋の果てに、龍を象った船首が見える。
「まさか、あれほど父が嫌った鬼童の船に乗るとは。」
燈耶は自嘲する。鬼童は巨大な密航組織で、海岸を支配する者ならば誰もが警戒する武力を持っている。戦乱で混乱する国から人を攫い物を掠め、他国で売り捌くという。船首の形が龍に見えることから龍頭船と呼ばれる帆船は代表的な商船だが、今目の前にいるのは、商船に化けた密航船であることを燈耶は知っている。
一方で、戦乱の国にいるよりは良いと、進んで乗る者がいることも事実だった。
「あんた達、乗らないの。」
船の上から女の声がする。燈耶は女の姿を見て驚いた。輝く金色の髪に海と同じ紺碧の瞳。白磁のような白い肌。
この国の者ではない。燈耶は直感した。朱雀の者は大抵が褐色の肌をしている。無論、その濃薄は様々だが、流石にこれ程白い肌は見たことがない。それに、青い瞳はともかくとして、金の髪は見たことが無い。まるで、霊獣の様だ。
鬼童は海を渡る。乗っている者も朱雀人とは限らないということか。
「おや、絹とは珍しいね。」
女は躊躇いもせず、燈耶の衣服を掴む。
「いいね。貴族や王族は高く売れる。」
その声に、同じように船に乗ろうとする者たちが一斉に振り向く。
燈耶は慌てた。王族が国を捨てるなど、民が許すはずがない。視線が突き刺さる。
「そのような者ではない。」
「へえ、なら大富豪だったのかね。まあ、この戦じゃ、全部燃えちまっただろうけどねえ。」
女は事もなげにそう言って、燈耶の腕輪を手に取った。
「私は、馬鹿な奴は嫌いなんだけどね。これを駄賃代わりに乗せてやろう。」
燈耶は屈辱に震えた。だが、この国から出る手段はこの船しかない。
遠くから発泡する音が聞こえる。騒ぎを聞きつけて、敵が集まってきたのだ。
「こりゃ、まずい。おい、桐青はいるかい。船を出すよ。積荷は終わりだ。」
女が叫ぶと、帯刀した青年が船の中から飛び降りる。
「ったく、人使いが荒いな。」
桐青と呼ばれた青年は、文句を言いながらも、船を繋留している綱を切る。そして再び船に飛び乗る。
「お前、火鳥と言うのか。」
珍しそうに海を眺める少年の横に綱を切った男が座る。男の髪は黒髪で、長髪を三つ編みにして右肩から流している。火鳥は黒髪を見たことはないし、男性で長髪も見たことがなかった。服装も不思議だ。
「珍しいか。」
三つ編みを撫でながら、桐青は言った。火鳥が黙って頷くと、桐青は笑う。
「この髪型は今、虎王国で流行っているんだ。気に入ったからやってみた。黒い髪は確かにどこにでもいるわけじゃないが…まあお前のその瞳と同じで珍しいが隠せるものでもない。」
火鳥の瞳は紅い。一般には知られてはいないが、紅い瞳は朱雀王の近親にしか現れない。
「それは誰も知らないはず…」
王の一族だと知れれば、あらゆる人間から狙われることになる。だから戦乱の世になって、瞳の所以を隠すようになったと、火鳥は聞いている。金羅王が盲目になったのは、命を狙われぬように、紅い瞳を彼の母が隠そうと、生まれた時に潰したと聞いている。燈耶も何度も火鳥の瞳を潰そうとしたが、結局、できなかった。
この男はなぜ、その珍しさを知っているのか。火鳥の警戒を悟ったのか、桐青は笑って言う。
「お前の生まれた国では紅い瞳は珍しい。だが、俺の生まれた国では珍しくない。褐色の肌は、お前の国では普通だが、他の国では珍しいな。まあ、そんなもんだ。」
男の言葉は聞き取り辛い。発音が不思議なのだと、火鳥は首を傾げる。
「あなたは、別の国から来たのか。」
「まあ、そうだな。お前の国の言葉は難しい。五年、学んでいるがなかなか厄介でな。」
火鳥は目を丸くする。海を渡るのは重罪だと聞いている。それをこのように、事も無げに話すとは。
「まあ、お前に言っても何だが、朱雀は瀕死だな。あそこの者らはあの国にいるべきじゃない。あれほど、荒れた国は他に無い。」
桐青は遠方に小さくなっていく稜線を見ながら言う。火鳥に向かって言っているようだが、その目は火鳥を見ていない。
「此処まで死体を焼く煙が見えるなど尋常ではない。他国ならば、奴隷でももっとマシな暮らしをしてる。」
火鳥は驚いた。
「他の国は豊かなのか。」
桐青は海を見ながら言う。
「さて、そういう訳でもないがね。問題はどの国にもある。要は、俯瞰して見ることが大事だ。一つに囚われて、他が見えなくなるのは、考え方を狭量にする。特に、この国の王は、己の力を無駄にしている。統治する能力を与えられながら、うまく使えていないのさ。」
独白のようだが、よく聞けば随分と失礼なことを言う。
「無礼な。」
つまりこの男は火鳥の父を非難しているのだ。それくらいは火鳥にも分かる。
「無礼とは、心外だな。統治できずして、何が王だ。」
桐青は吐き捨てるように言った。火鳥には、彼が怒っているように見えた。
「お前も、言うようになったね。」
後ろから女の声がした。火鳥たちを船に乗せた女だ。金髪碧眼も、火鳥は彼女以外に見たことがない。その後ろに女と同じ髪、瞳の少女が隠れていた。火鳥を珍しそうに眺めている。八歳の火鳥と年の頃は似ている。少女は恥ずかしそうに隠れていたが、女に促されて、火鳥を手招きした。
「こっちへきて、遊びましょう。」
少女は片言の朱雀語で言った。火鳥はその美しい金色に惹かれた。そして誘われるままに走っていった。後にして思えば、火鳥にとってはこの瞬間が、一番幸せだったのかもしれない。
甲板には菫花と桐青が残った。
「さて、桐青。お前ならこの積荷、どこへ運ぶ?」
広がる水平線を見ながら菫花は言う。桐青は少し考えてから言った。
「龍だね。」
「ほう、何故だい。」
「この船の物資の残量を考えれば、一番近い龍を目指すのは当然だ。それに、今、この世界で一番政情が安定しているのは龍だ。人を買おうって余裕のある人間は龍に一番多い。」
それを聞いて、菫花は笑う。
「だいぶまともな事を言うようになったね。」
「目指すとすれば…阿港かな。明の港だろ。」
龍王国の最南端の小国は明という。桐青は行ったことがないが、大きな港だとは聞いたことがある。だが、菫花は首を振る。
「明は駄目だね。あの国は我々に対して寛大ではないから。」
「おや、天下の鬼童の総帥が、たかが国軍を恐れるのか?」
桐青は驚く。今までにも禁を犯し海を渡る者に対して厳しい国はいくつもあった。だが、菫花の指揮する船は鬼童最高の軍船。軍を相手にも海戦で負けたことはない。それに、この船の船員は強い。玄武国でも有数の剣の腕を持っていた桐青が認めるのだから間違いはない。菫花は訝しげな桐青に言う。
「龍は国軍と言えども万の兵士がいるからね。それに、明とは因縁があってね。」
「因縁?」
「そう。あの国は宋子檀が死んだ国なんだよ。」
そう、しみじみと菫花は言った。桐青はそのように感傷的な菫花を初めて見た。
聖龍童子