行き先は、春

 ひとつ、ふたつ、みっつ。そこまでは数えていた。四つめの阿久駅へ向かう途中で眠くなり、目を閉じた。私はいつでもどこでも数を数える。おしゃべりをしていても、本を読んでいても、夢を見ていても。
 ところが今朝は、いつまでたっても四つめの駅名を告げるアナウンスが聞こえてこなかった。夢との境界をうろついていた私は、不審に思って引き返し、顔を上げた。
 どうしたことか乗客がほとんどいなかった。立っているひとはおろか、若草色のシートに腰かけているひとさえわずかしかいない。車窓には朝の透き徹った空が広がり、あふれる陽射しが向かいの席で居眠りしている年配の女性の白い髪を温めている。
 私の自宅の最寄り駅が始発となるこの電車は、ちょうど朝の通勤ラッシュのピークにあたる。今朝は早めに家を出たので運良く座ることができたけれど、それでも出発時にはすでに満員で、私が降りる芝浮駅までその状態が続くはずだった……。
 窓の外を流れる景色を見て、私は自分の感覚を疑った。目に映った光景は信じられないものだった。建物がない。だだっ広い田んぼの中を走っている。ときおり、ぽつんぽつんと古い家が現れる。
 乗り過ごした、という考えに至ったときには、全身の神経が凍った。
 駅名のアナウンスを聞き逃すなんて、今まで一度もなかったことだ。しかも街を通り過ぎてしまっている。ほんの一瞬うとうとしただけだと思ったのに、いったいどこまで運ばれてしまったのだろう。
 とにかく今すぐ会社に連絡を入れて、遅刻を詫びなければいけない。鞄の中のスマートフォンに手を伸ばしかけたとき、ふと視線を感じた。
 視界の隅に、カーキ色のトレンチコートが映っていた。私はおそるおそるそちらを向いた。少し離れた席に見覚えのある女性が座っていた。こちらを見ている。向こうのほうが先に私に気づいていたらしい。
 どうして小能見(このみ)さんがいるのだろう。路線が違うはずだし、今ここに彼女がいることが理解できない。まさか、彼女も乗り過ごしたとか? それはありえない。小能見さんは、うっかり寝過ごしたり乗り過ごしたしたりするようなドジは踏まない。
 小能見さんは経理課のひとで、厳密で容赦ない仕事ぶりのせいか近寄りがたい雰囲気を持っている。くせのない黒髪を腰まで伸ばし、背が高く、度を超して痩せている。髪の長さと姿勢のよさが体型をさらに目立たせていた。
 誰かが「綿棒みたい」と陰でこっそりつぶやいていたけれど、私は糸杉のほうが小能見さんのイメージに合っていると思う。まっすぐに立って、空を指す糸杉。
 小能見さんはまだ私を見ている。今日の小能見さんはいつもと違うのでどきどきした。ぱちんと音がしそうな視線で私を捕らえたまま座席から立ち上がり、速やかな歩調で近づいてくる。私は動転して思わず立ち上がった。
「おはようございます」
 小能見さんがにこりともせずにいった。
「あ、おはようございます、あの、私」
「これ、どこへ行くか知ってる?」
 私のうろたえぶりにはまったく反応せずに、周囲の物音を弾くようなよく通る声で、小能見さんは尋ねた。
「本を読んでいてね、いつまでたっても駅に着かないなあと思ったら、いつのまにかこんな場所を走っていたわけ」
「あ、私もです。私の場合は目を閉じていたんですけど」
「ふうん。それじゃ、あなたに聞いてもしかたないか」
 なんなんだかなあ、と小声でつぶやきながらも、小能見さんはまったく取り乱していない。彼女があんまり普段どおりなので、私も驚くタイミングを失ってしまった。それほど大したことではないのかもしれない、という気になる。
「私たち、何か特別な列車に乗ってしまったみたいね」
 小能見さんはそういって、迷わず私の隣に腰を下ろした。こんなときでもぴちっと膝を揃えて、すっと背筋の伸びた美しい姿勢で座る。私は気後れしつつも彼女の隣に小さく腰かけた。
「特別な列車って、臨時列車とか……ですか?」
「そういうんじゃなくてね」
 小能見さんは首をわずかに傾けて、私の後方に視線を移した。
「あそこにいる女のひと。あれ、私の母だと思う」
 驚いた私はとっさにふり向いた。
 この車両には、私たちのほかに三人の乗客がいた。目の前で居眠りをしている白髪の女性と、前の車両との連結部に近いシートに座っている若い女性、それから真ん中あたりに座ってスマートフォンを見ている制服の女子高校生。誰ひとり慌てた様子はない。
 小能見さんの視線は、私たちがいる場所からいちばん遠い場所──前の車両との連結部近くのシートに座る女性に向けられていた。
 そのひとは肩幅の大きな茶色のロングコートに、色落ちした太めのジーンズと黒のショートブーツをはいていた。髪は長くてまっすぐだけど前髪だけがくるっと上に丸まっている。真っ赤な口紅が、遠くからでもはっきり見てとれる。
 そういう格好をした女性を、ずっと昔のドラマの再放送で見たことがあるけれど、彼女はどう見ても二十代だった。小能見さんは私より三つ上だから、二十九歳になるはずだ。
「うん、間違いない。あれは若い頃の母だわ」
 視線を釘付けにしたまま、小能見さんは確信をもって結論づけた。冗談をいっているのかと思った。けれどすぐにその判断を打ち消した。小能見さんともあろうひとがこの状況で無闇に冗談なんかいうはずがない。
 私は戸惑いつつ、何か気の利いた台詞をいおうとしたけれど、何も思い浮かばなかった。小能見さんは呆れてしまったのか、それきり何も言わなくなった。
 電車は静かに揺れながら、見知らぬ風景の中を走り続けている。収穫を終えて藁が撒かれた田んぼの向こうに、山が連なっている。その山々が紅葉で鮮やかに染まっていた。
 私はあっと叫びそうになって、横にいる小能見さんを見た。小能見さんも窓の外の景色に目を奪われていた。
 今は三月の終わりだった。紅葉の季節はとっくに過ぎている。私は半身をひねって自分の背後の窓をふり返った。そちら側にも藁を撒いた田んぼが広がり、民家の庭先に植えられた木々が紅く色づいていた。
 ふと白髪の女性が目を覚まし、私と小能見さんの背後をちらりと見た。彼女の目にも紅葉の景色が映ったはずだけれど、ずり落ちた小豆色のストールを肩にかけ直しただけで、何もなかったようにまた目を閉じた。
 私はなにがなんだかわからなくなってきた。ついさっきまで、女性が座っているシートは若草色だったのに、今は葡萄色になっている。私と小能見さんが座っているのも葡萄色のシートだ。どういうわけか車内の色や扉の形が、いつもの電車とは違うものになっている。
「私、ちょっと、ほかの車両を見てきます」
 私は不安に駆られて席を立ち、後ろの連結部分の扉を開けて車両を移動した。
 隣の車両に移ると、走行音が聞き慣れない音に変わり、列車の速度がゆるやかになった。車内の様子もまったく違う。今までいた車両よりも横幅が狭く、天井も低い。全体的に窮屈な感じがした。
 車窓の下──電車のすぐ横を、ひとや自転車や車が平行して走っている。というより、電車が、街の道路の真ん中を走っているのだ。
 どういうわけか、私は路面電車に乗っていた。外の通りは強い陽射しに照りつけられ、行き過ぎるひとびとはみな薄着をしている。バスの中で流れるのと似たような女性の声の車内アナウンスが、聞いたことのない停車駅を告げた。
 髪の短い、地味な柄物のブラウスを着た女性がひとり、シートの端に腰かけている。彼女はうつむいて、膝の上で組んだ両手を見つめている。私は全身に汗が滲んでくるのを感じ、吊革を数え始めた。一本、二本、三本。
 電車が止まった。私たちは降りなかった。女性は顔を上げて外を見ようともしない。今、自分がどこにいるのかを、確認するのが恐ろしいのだ。四本、五本、六本。列車はふたたび走り出した。
 私は吊革を数えるのをやめて、音を立てないように連結部分の扉を開け、もといた車両にもどった。
 さっきと同じ場所に小能見さんが座っていた。私のことを、たった今思い出したといいたそうな顔で、「おかえりなさい」と空ろな声でいった。私は会釈だけで「ただいま」と伝え、小能見さんの隣に座った。
 窓の向こうが真っ白になっていた。今度は雪景色に変わっていた。田んぼも山も家も、すべて雪をかぶって深く埋もれていた。たとえ真冬だとしても、私たちの住む街にこんなに大量の雪は降らない。民家の屋根に積もっている雪は一メートル近くありそうだ。
 いつ降り積もった雪だろう。今はもう降っていなかった。あるいはいっとき降り止んでいるだけかもしれない。空の上から押しこめられた鈍色の雲が、ずり落ちてきそうなくらい重たく見える。
 真向かいの白髪の女性はまだ眠っていた。小能見さんの母親もさっきと同じ位置に座っている。真ん中あたりにいた高校生の姿が見あたらない。
「さっきの駅で降りたみたい」
 私の視線に気づき、小能見さんが告げる。「小能見さんは降りなかったんですか」と私は聞いた。
 窓の外に続く雪景色を見つめていた小能見さんは、そのまま入力ミスを指摘するときと同じ調子で、「母が降りなかったから」といった。小能見さんのお母さんは、だらしなく両足を投げ出して雑誌らしいものを読んでいた。ときどき、長い髪をかきあげる。
「私が小五のとき、出ていったの」
 小能見さんはいった。
「それきり、会ってないの」
 小能見さんの顔は、まっすぐ前を向いている。目の前にある窓の向こうの、たぶん雪景色とは別の景色を見つめている。
 他人からの優しさをよせつけず、わざと薄い氷の上を選んで立っている。小能見さんのそういうきわどいところが会社のひとたちから敬遠されている理由だと、私は知っていた。仕事は完璧だったけれど、彼女に親しみのこもった声をかけるひとはいない。
 私と小能見さんが、昼休みに会社の近くの公園で顔を合わせるようになってから、そろそろ三年が経つ。
 小能見さんは、公園の入り口から七本めのプラタナスの木の下にあるベンチにいて、私は、入り口近くのベンチに座って、すべり台で遊ぶ子供たちを見ている。
 お互い相手の存在には気がついている。けれど、声をかけることも目を合わせることもしない。
 同じ会社のひとで昼休みに公園を利用しているのは、私が知っているかぎり小能見さんだけだ。社員の多くは食堂を利用している。外食派も少なくはないけれど、良心的な直段でそこそこおいしい料理を出す社員食堂は人気があった。
 私が所属する営業企画部の女性たちは、仲がいい。昼休みになると、みんなで揃って食堂へ向かう。私はひとりで公園へ向かう。彼女たちとは、いろいろなことを話す。仕事の相談もするし、他愛ない世間話もする。休みの日に何をしたかとか、最近見た映画の話とか。だけど、私は食堂へは行かない。
 私は会社の外にある公園で、ゆっくり時間をかけて自作の弁当を食べ、お気に入りの作家の小説を読んだり、プラタナスの数を数えたりする。それだけの時間が、私にとっては大切だ。そうしなければ、もたない。私が守りたいと思っている私の中の壊れやすい何かが、もたない。
 私と小能見さんは、お互いの存在を知りながら、知らないふりをする。小能見さんは、ひとりで公園にやってくる。プラタナスの木の下のベンチに座り、鞄の中からパンを取り出して食べる。昼休みが終わる十分前になると立ち上がり、ゆっくりと公園を出ていく。私は小能見さんより少し遅れて公園を出て、小能見さんの後ろをそろそろと歩く。小能見さんの歩数を数えながら。
 困るのは雨が降ったときで、公園の中に一か所だけある屋根つきのベンチの端と端に、ふたりで並んで座るはめになる。もちろん声をかけたりはしない。
 私たちは、知っているのに知らないふりをする。言葉を交わさないという暗黙のルールは、少しの気まずさと少しの心地よさを伴うという、おかしくもあり、まともでもある捻れた空間を作る。
 私のことを小能見さんがどう思っているのか、知りようがないし知りたいとも思わない。私自身、小能見さんのことをどう感じているのか自分でもわからないし、わかろうとも思わない。私たちと私たちの捻れた空間においては、それでなんの問題も生じなかった。
 とうとう雪が降り始めた。
 あっという間に窓の外が真っ白になる。空と雪と大地が混じり合う光景を見ていると、時間の感覚が狂う。目をこらしても雪のはじまりと終わりは見えないし、数を数えようにもこれほど激しく乱舞されては数えられない。
 レールの上を滑る音は規則正しく続く。列車の中と外で、違う時間が流れている。
 雪は本格的な降りになり、列車の窓にはりついて、溶ける間もなくどんどん重なっていく。こんなに雪が降っているのに、列車はためらいもせずに機嫌よく音をならして走っている。
 つぎに電車が停まったら、そこで降りてみようかとふと思った。どんな街にも駅のそばには不動産屋があって、私がひとりで住むのにちょうどいい小さな日当たりのいい部屋がきっと見つかるはずだ。知らない場所で暮らすことに憧れている。そうしていつか最後に辿り着くのは、言葉のない場所だといいなと思う。
「おなか、空かない?」
 急に小能見さんがいいだし、私の顔をじっと見た。今日は目が合いっぱなしだ。私はうろたえて「はあ」と鼻にかかった情けない返事をしてしまった。
「食べる?」
 小能見さんはそういって、鞄の中からラップで包んだ白くてまるいパンを取り出した。
「いいんですか?」
 お腹は空いてませんと断るつもりだったのに、そのパンを見たら気が変わった。なんだかおいしそうなパンだった。小能見さんは「うん、いいよ」とそっけなく答えて私にパンを手渡すと、自分のために鞄の中からもうひとつのパンを取り出した。
 パンはふわっとやわらかく、しっとりしていて、香ばしかった。気のせいかほのかに温かい。電車の中にパンのやさしい匂いが広がった。
 通勤電車の中でパンを食べるなんて、普段だったらとても恥ずかしくてできない。そんな勇気は私にはない。だけど今日は特別だ。これは特別な列車だから。
「これ、手作りですよね」
 パンを食べ終えると、私は小能見さんに聞いてみた。シンプルで気取りのない味。どんなひとも受け入れてくれるような。このパンを作ったひとはどんなひとだろう、と思う。
「うん」
「小能見さんが作ったんですか」
「そう」
「あの、いつも公園で食べているパンもですか」
「もちろん」
 公園、と口にしたとたん、何か禁断の言葉を声に出していってしまったような気分になった。小能見さんは気にするそぶりも見せずに、最後のひとくちを頬張る。
「小能見さんのパン、すごくおいしかったです」
「それはよかった」
 小能見さんは目をそらし、かすかに頬を歪めた。
 会社の外で小能見さんと話をするのはこれがはじめてなのに、不自然な感じはしなかった。ずっと前から私は小能見さんのことを知っていた気がする。本当は何も知らないけれど、知っている気がしてしまう。
「一緒に住んでいる妹がね、勤め先の近くの駅で母に似たひとを見かけたっていってたの。二か月くらい前」
 前置きもなく切り出した小能見さんの話を、私は黙って聞く。
「あんなひと母親じゃない、どうせ私のことなんか覚えていない、そういってたの、最初は。だけど、いつからかわからないけど、妹は隠れて母と会ってるんだと思う、たぶん。私が聞いても、そんなわけないでしょっていうんだけど、嘘だってわかるの」
 後ろで風が叫びながら通り過ぎていった。ときおり大きな塊が窓にぶつかって震える。
「母が出ていったとき、妹はまだ小さくてね、よく泣いたの。だけど私がパンを焼くとね、いい匂いだっていってはしゃぐの。だから私、妹のきげんをとるために、いくつもパンを焼いたわ」
 そうなの、と小能見さんは諦めたようにいった。
「私にできるのは、パンを焼くことだけ」
 窓という窓がすっかり雪に覆われて、外からの光を閉ざした。蛍光灯の白い光が影を作る。連結部分の軋む音が響く。外は吹雪だろうか。
「つぎの駅で降りるわ」と、小能見さんは話の続きのように抑揚のない声でいう。
「……どうしてですか?」
 私は小能見さんではなく、小能見さんのお母さんを見ていた。さっきと同じ姿勢で雑誌を読んでいる。彼女の目はこちらには向かない。小能見さんを見ることはないのかもしれない。
 小能見さんは私の問いかけには答えず、「あなたはどうするの?」と聞いた。
 降りるといっても外は夜みたいに真っ暗で、激しく雪が降っていた。私がまごまごしているうちに、列車は徐々に速度を緩め、そして唐突に停まった。停まったけれど、扉は開かなかった。
「じゃあ」と、小能見さんがいった。
 彼女はもう立ち上がっていた。すたすたと扉の前まで歩いて、扉の横についている銀色のボタンを人さし指で押した。ぷしゅうと音をたてて扉が開く。駅のホームには誰もいなかった。雪がすごい勢いで降っていて、開いた扉からビュウビュウ吹きこんでくる。私はジャケットの襟をかき合わせて身を縮めた。
 小能見さんが降りると同時に、ぷしゅうと音をたてて扉が閉まった。走り出した電車の窓の向こうで、小能見さんがこちらに背を向けてひとりでホームを歩いていた。
 私は車両のいちばん前のシートを見た。小能見さんのお母さんはまだそこにいた。小能見さんが電車を降りたことにも気づいていないようだった。
 私の隣には誰もいなくなった。小能見さんはどうしてひとりで電車を降りてしまったのだろう。電車を降りて、どこへ行くつもりなんだろう。こんなに雪が降っているのに……。
 前を向くと、白髪の女性がこちらを見ていて、はじめて目が合った。ぽかんとした表情で私を見ている。彼女の乾いた肌に刻まれた深い皺を見ながら、このひとも誰かの娘なのだと思った。
 私は席を立ち、隣の車両に移動した。そこは相変わらず真夏のきらめきにあふれていて、賑やかな街の通りを走るかわいらしい路面電車のままだった。
 怖がりの彼女はまだそこにいた。彼女のまわりだけ光が閉ざされているようだった。うつむいた顔は見えず、年代もわからず、会ったことは一度もなかったけれど、私は彼女を知っていた。
 音もなく、目に見えない暗いものが密やかに胸に迫ってくる感じだった。彼女の浅い呼吸が胸の中で聞こえ、私は重なる鼓動を数えている。誰でもいいから今すぐ陽気な声で「大丈夫だよ」といってくれたらいいのに、そう願いながら。
 子供の頃、彼女とふたりで外出するとき、私はいつもこんな気持ちだったのだ。だから私は、何かを数えながら、彼女に「大丈夫」といい続けた。彼女と私はひとつだった。
 夏の光はまぶしくて痛い。目を閉じるとまぶたの裏に焼きついた残像が明滅する。彼女の姿が浮かんだり消えたりする。電車がごとごと音をたてて揺れるたび体も心もごとごと揺れる。
 彼女の鼓動は何年も前から聞こえなくなっている。
 車内アナウンスが、つぎの停車駅を告げた。さっき聞いたのと同じ駅名だった。これは環状線だ。どこにも辿り着かない。
 私は目を開けて、前を向いた。
 粗末なベンチがひとつだけの、バス停のように質素な駅が見えた。私は彼女の前を通り過ぎる。扉が開いた。
 私ひとりだけを降ろして、芥子色の電車は軽快に去っていった。
 真夏の陽射しが真上から全身にふりそそぎ、その熱を心地よく感じた。私はジャケットを脱いで左腕にかけ、電車が去っていったのとは反対の方角に歩き出した。不動産屋を探して、静かで居心地のいい部屋を見つける。そして言葉を葬ろう。なんの役にも立たない言葉を。
 遠くから電車の音が近づいてきた。ふり返ると、桜色の電車が街のにぎわいの向こうから楽しげな音をたててやってくるのが見えた。電車は小刻みに揺れながら、さっき私が降りた駅に停まった。
 胸が震え、鼓動が響いた。
 私はくるりと体の向きを変えて、走り出していた。何も考えていなかった。発車する間際、ぎりぎりで飛び乗った。私を乗せて扉が閉まり、電車は走り出した。萌黄色のシートに座って息を整える私を、斜め向かいの席に座るリクルートスーツの若い女の子が笑いながら見ていた。
 どこへ向かうのかもわからない電車にとっさに飛び乗るなんて、私はどうしてしまったのだろう。自分がとった行動に自分で驚き、興奮していた。興奮がおさまると、小能見さんのことを思った。小能見さんも、違う列車に乗り換えたのだろうか。それとも、あの雪の街に留まっているのだろうか……。
 リクルートスーツの女の子の肩越しに、西の空に傾く太陽が見えた。いつしか陽射しがやわらかくなっていた。穏やかな風が頭上を過ぎていき、見ると私の後ろの窓が開いていた。風が水の匂いを運んでくる。春の匂いだった。



 誰かがどこかで聞いたことのある駅名を告げた。
 目を覚ますと、電車が止まっていた。大勢の乗客が無表情で電車を降りていく。ホームに掲げられている駅名を見て、私は慌てて電車を降りた。ホームで立ち止まり、そこが見慣れた芝浮駅であることを確認する。
 ホームの時計は定刻の到着時間を示していた。ぼんやりと立ち止まる私を人々は無言で睨み、急ぎ足で改札へ向かう。私は流されるままに改札を出て、会社に向かった。普段どおりに出勤し、昨日やり残した仕事の続きをした。午前の仕事が終わり、昼休みになるのを待った。
 食堂へ向かう同僚たちと別れて、公園へ向かった。
 七本めの大きなプラタナスの木の下に、小能見さんがいた。パンを手にしている。私はすべり台が見えるベンチに腰かけた。子供たちが数人、母親に見守られながら遊んでいる。
 桜の蕾が、もう開きはじめていた。

行き先は、春

女性ふたりが電車に乗って旅をする物語を書きたくなったので……。

行き先は、春

私たちは、特別な列車に乗ってしまった。変わり者の小能見さんと私が乗り合わせることになった、不思議な電車のお話。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-13

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