水魚の理わり
そのたびごとにただ一つ
1.劉備
「粗茶ですが」
陸遜が畏まって、机上の白い器をすべらせた。
流麗な所作をしてはいるが、頭には冠のかわりに紅白の縞模様をした帽子がのっかって存在を主張している。服装も同じく派手な縞模様に水玉であり、さらには鼻に大きな赤い玉をつけていた。
俺はどこから言及してよいのやら迷い、ひとまず出された茶碗に目を落とした。
中の液体は、青みがかった透明をしている。美しく澄んでいるが、とても茶には見えず、うまそうでもない。むしろ、青色は食欲を減退させるものである。
しかし、どうぞと言われたのだから、ありがたくいただく。うまい! ……ような、そうでもないような、何となくふわふわとした感覚がした。
「玄徳殿」陸遜は机上に肘をつくと、遠慮なく笑い声を漏らした。頬に描かれたしずくの模様が、それに合わせて歪む。「出されたものを、なんの疑いもなく口になさる。貴殿はやはり、そういう方だ」
含みのある言い方に、俺はいそいで自分の体をまさぐってみた。
しかし、げえっと叫んで倒れるわけでもなく、劉玄徳、いたって元気である。わるいものは入っていなかったようだ。
「そのときは、そのとき。毒を盛られて死ぬなら、俺もそれまでの人間であったということだよ」
何に納得したのかしきりにうなずく彼を見、こちらも遠慮なく足を組む。
「それと」
「なんですか」
どこから取り出したのか、吹き戻しをロロロロと吹く陸遜。
「一発殴ってもいいか?」
「もう、物騒なんだから。いいではありませんか。こまったときは、おどけるに限ります。また悲しいときも、おどけていればよいのです。この涙は舞台化粧にすぎないのです」
「ふうん」
「はい、あげます」
「いらねえ」
陸遜が吹き戻しをむりやり俺の懐にねじ込む。
俺は、では貴殿にならってこの家に一丁火をつけてみようか、などと喧嘩を売るのを我慢して、茶碗から立ち上る湯気と目の前の道化師とを交互に見比べた。
だがそれも早々に、器をあけ、礼を言って玄関へ向かう。今、ここには長居できない。
「悪いな。向こうへ行かなければならないんだ。また、今度」
「ピョロロロ。そうでしょうとも。ええ、また今度……また、どこかで。
さようなら」
最後の一言が、体の両脇をひょうと吹き抜ける。俺はその鮮烈さに、足をとめる。
さようなら。さようなら。別れの常套句ではないか。しかし口の中で何度繰り返しても、奇妙な感覚が消えない。
念のため言っておくと、奇妙な感覚とは、ナメたガキだ、とか、物騒なんだからじゃねえよ、とかいうものではない。何が、おかしいのだろう。
振り返ったあとには、もう陸遜の姿はなかった。
~~~
朱をこぼしたような空を、イヌとブタが蛇行しながら飛んでいった。それをぼんやり眺めながら道なりに歩いてゆくと、また小さな建物が見えてくる。
陸遜宅は茅葺きの小ぎれいな民家であったが、一方この家は、石造りである。庭には、淡い紫色をした、小さな花が咲いている。思わず、屈んで顔を近づけた。
そちらに気を取られていると、家の戸が開いた。
「玄徳殿。よかった、お会いできましたな」
「元……」俺は呼びかけた名をつまらせる。「直?」
というのも、質素な衣服に安心して見上げた彼の頭から、長い耳が伸びているのを目撃してしまったからである。
「はあい、徐庶ですよう。あっ、申し訳ありません。これは貴殿が適任でしたか」
両手で耳を掴んで振り回す元直。兎耳と言いたいのだろうが、さすがに笑えない。
「……それはいいとして、美しい花だ。よかったら、一輪――」
「残念ですが、その花は持って行けないのです」
「ああ、悪い。せっかくの花を摘んでしまうのはよくなかったな」
「いいえ、そういうことではありません。けれど、花も、吹き戻しも、向こうへ持っては行けないのです」
徐庶はそう言って、心なしかすこし寂しそうに笑った(吹き戻しは、どうでもいいのだが)。
それがなぜだかはわからない。だが彼がそう言うなら、そうなのだろう。
彼がカラスは白いと言うなら、そうなのだろう。彼がこれは母君の手紙だ、と言えば、それが真実であるに違いなかった。それが、答えであり一種の約束だ。
俺は笑顔を見せると、立ち上がった。
「そうか。ならば、しかたがないかな。では、そろそろ行くよ」
「はい。お話しできて嬉しゅうございました。また、どこかで。
さようなら」
また、さようなら。別れの常套句である。
「別れ」
歩きながら一人、呟いてみる。
これは、どんな別れなのだろう。今は時間がないから、また今度ゆっくり話そう。そう言うことのできる別れなのだろうか。
俺はまた振り返ったけれども、当たり前のように徐庶の姿はなかった。
~~~
「劉殿。亮がお世話になりましてございます」
「お久しゅう、皇叔。その節は世話になったなあ」
「玄徳殿!」
「我が君!」
こうして、慎ましい家々は道沿いに次々と現れ、顔を出した人々が手を振った。それぞれと挨拶を交わし、時には家へ招かれながら、俺は歩を進める。いくつものさようならが、背中を押してゆく。
~~~
「やあ、仲謀殿」
重厚な作りの家屋は、どこか南方の建築を思わせるものだった。二重開きの扉から記憶に新しい碧眼が現れ、苦々しげに歪む。俺は昔から、それを隠そうともしないこの男が好きである。
姿を現した彼は――いや、この場合、彼女というべきであろうか――似つかわしくない華美な衣装を身にまとっていた。
「睨めつけることはないでしょう。いやあ女装の趣味があったとは知らなんだ」
ふわりと広がったスカートの裾に、おもわず手が伸びる。
「裾をめくるな、叩き斬られたいのか」
「もう、物騒なんだから。それでは代わりに一丁、石でも斬りにいきますか」
「行かん!」
「我が君、我が君。孫殿はこの国の姫君。めったなことをなさっては、おこられます」
孫仲謀と生産性のない会話をしていると、奥の民家から一人の大丈夫が顔を出した。
くっきりとした顔立ちに、控えめな笑みが浮かんでいる。白い髭に隠れてはっきりとは見えないが、それでも、俺が間違えることはない。
「子竜か。いつの間に、そんな髭を生やしたんだ。それに、その服は、また奇妙な」
「サンタクロウスというやつです。皆さま、メリクリ」
「お前もこっちに来て、話でもしないか」
「せっかくですが」子竜は孫権に小さく会釈すると、首を振る。 「わたしよりも、もっと、お会いになるべき方がいらっしゃいます」
そう、自分の家の先を指し示した。
子竜は、いつもこうである。奴の頭の中には、「わたし」よりも優先される人があふれているらしい。奴はいつでも、メリークリスマスとプレゼントを配り回って、最後に自分の手元になにも残さないのだ。
お前は、それでいいのかい。そういった時、子竜は聖ニコラウスのように、声をあげて笑った。
「ええ、それがよいのです。自分のプレゼントがなくったって、代わりにもっと、わたしにとって嬉しいことがありますから」
クリスマスプレゼントを配り終えたあと、彼の手元に残るもの。
俺は、それが何であるかをまだ知らない。
「私はおいとましよう、玄徳殿。また、どこかで。
「それでは、我が君。また、どこかで。
さようなら」
さようなら」
~~~
奴は、子竜の指し示した先、見覚えのある庵から半分隠れるようにして顔を出していた。
「お前まで、しかめつらをすることがあるか」
「……」
「なんだ、お前は、いつものままか」
「私は、諸葛、孔明ですから」
孔明はそれだけ言って、目を合わせようとしない。笑って手を振ってくれた彼らとは、ひどい違いである。
だが奴の言うように、それが諸葛孔明なのであろう。奴は俺の機嫌をとったこともなければ、気乗りしないときにへらへら笑うこともしなかった。
「ふうん。陸遜は、ぴえろの赤鼻をつけていたぞ。孫権は、花柄の洋服。こんなに裾がひろがったやつ」
「……」
「子竜なんて、長い髭に、赤の」
「やめてください、もう、たくさんです」
孔明は耐えかねたように、うつむいたまま大声をあげる。
「今まで出会ってきた人たちに、一人ずつ挨拶をして、そうして、一人ずつ、さようならをして!」
ツカツカとこちらに詰め寄ると、声を震わせて、捲し立てた。
「……あなたは、どこへ行かれるのですか? 向こう、とはどこなのですか。さようならは、またねとは違うんです!」
しばらくの沈黙があった。肩で息をしている孔明の呼吸の音だけが、空間にぽつりと取り残される。
俺は、そのまま、奴の前を通り過ぎようとした。
「――我が君!」振り向くと、孔明が服の裾を掴んでいた。咄嗟に、体が動いてしまった。奴は、そんな顔をしていた。
「なんだ」
「いかないでください」
「どうして?」
「…………」
そこで、孔明はめずらしく言葉に詰まる。
理由がわからないのではない。
もう、どうにもできないことであるのかもしれない。しかし、発された言葉は、現実になってしまう。そうすればもう、どんなに声をあげても取り返しがつかない。――だから、その先は言えない。
俺は、奴のそんな声も聞いたような気がした。
孔明の言いたいことはわかる。心のうちも、すこしばかりならわかってやれるつもりである。しかし、俺は首を横に振る。
「それでも、もう、行かなきゃ」
「向こうには、何があるんですか。あなたには、何が見えているのですか」
「だいじな人」
孔明は悲しそうな顔をして、口をつぐんだ。苦悶であるとか、当惑した表情ではない。奴は、ただ、悲しそうに目を伏せる。俺は、睫毛が長いな、と思った。
「……私は、どうすればよいのですか」
「悲しいときは、おどければいいのさ。はい、メリクリ」
俺はずっと懐に居座っていた吹き戻しを、孔明の手のひらにぽんと乗せた。
~~~
俺の手も、懐も、からっぽである。そこを、ただ涼しい風がとおりぬける。
俺はプレゼントを孔明に渡した。そうしてなにもなくなった手のひらに、少しだけ、あたたかいものが残る。
道の先に、もう家は見えなかった。
この先に家はない。懐かしい、愛すべき人々も、いない。そして道程は、おそらくとても、とても長い。
それでも、行かなきゃ。
「ちちうえ」
澄んだ声が聞こえた気がした。
振り返りはしない。去った者の背を追う必要など、どこにもないからである。
かわりに、俺は右手を高くあげる。秋の風が、とおくとおく、駆け抜けていく。
「さようなら。また、どこかで!」
2.諸葛亮
魚は、水がなければいずれ死ぬ。
では、水は、魚がいなくなってしまったら、どうなるのだろう。
――――――
そこに魚がいようがいなかろうが、水は存在する。魚がどこかへいってしまったからといって、いきなり干上がったりはしない。しかしながら、あるモノのなかから要素が一つでも欠ければ、それはすでに以前のモノではないと言うことができる。
この話はちょっと面倒だし、ややこしい。よって、大雑把に言いかえると、こうなる――「魚がいなくなってしまった水は、もう以前の水ではない」と。
私の記憶も存在も、変わらずにここにある。しかし、劉玄徳が世界から欠けてしまった今、私はもう昨日までの私では、ないらしい。
彼は今しがた、この世界からひょいといなくなってしまった。
死者を表すのによい言葉は、不在であろう。だが、ただここにいないというのではない。媽媽がお買い物に行って帰ってこないのとは、根本から違う。
では、何が違うのか。
――――――
ぽつりぽつりと、すすり泣きが聞こえてきた。耐えようとしたうえで、漏れてしまった悲しみである。私は、その中でじっと口をつぐんでいる彼に、声をかける。
趙子竜は、わかっていたように、ゆっくりと目線をこちらにやった。その姿は奇妙なほど静かで、表情には何もあらわれていない。
彼はいつも、私が考えごとをしているとき、置物のようにじっと黙っている。それは私の思考の邪魔をしないためであり、私がひょろひょろとした声で発言をしてもすぐに反応できるように、注意を向けてくれているためでもある。
しかし今、彼がどれほどの力を使って沈黙しているのか、私には測ることができない。私はこれまでもこれからも、おそらく彼のような表情はできない。
「半時経ったら、ここに戻ります。それまで少しだけ、私に時間をください。私がこないときは、催促に来てかまいません」
趙将軍はなにか言いかけたが、すぐに口を結んでまっすぐに私の目を見ると、頷いた。
おそらく、私の精一杯の笑顔が、大層へたくそであったせいだろう。
――――――
いやに薄暗い城内を歩き、いつもの一室へと入る。私は昨日と変わらず、静かに扉を閉める。
いっそのこと、大きな音を立てて戸を閉められたなら、なにかが晴れるだろうか。木簡と筆とを、力任せに床に叩きつけられたなら、なにかが変わるだろうか。
私はひとり、首を横に振った。
思考は冷えきっている。私は、これから誰に、どんなことを伝え、何をすべきなのかをわかっている。先主からあとを託された諸葛孔明が、どう振舞うべきかを、わかっている。
わかっているからといって、なんでもうまくこなせるのかというと、そういう時ばかりではないんだな。
――――――
気がつくと、屋外は既に暗闇の中にあった。私は、椅子に腰掛けることもできないまま、随分と長い時が経ったことに気づく。
それでも、時間はなにも解決してくれはしない。
お買い物に行ったママであれば、時間が経てば帰ってくる。ならば、死んだ人が不在であるというのは、帰ってこないということなのだ。とても当たり前のことを言っているには違いない。けれど、そうなのだ。死者の不在は、帰還によって解消されることのない不在なのだ。
それでは、私のなかのこの不穏なかたまりは、何によって解消されるべきなのだろう。
つらいことは、思い出したくない。けれど、葬り去ろうとするほどに、そういうものに限って、また顔を出す。言いかえれば、葬ろうとするから出てくるのである。その辺に転がしておけば、埋めたものが出てくる恐れなどはもちろんのこと、ない。
しかし、しかしそうはいっても、思い出とはなんとつらいものだろう。私はその美しき冷たい表面に、触れたくはない。そして、できることなら、距離をおいて見ることさえも、したくないのだ。
――それでも、もう、行かなきゃ。
どこからともなく、その声はこだました。それはひどく遠くで響いたようでも、近しい場所で発されたようでもあった。
まぶたを閉じる。
窓外に、竹叶菊が揺れている。まだ、つぼみは膨らんですらいない。今は、その淡い紫の花を見ることはできない。しかし、たしかに、とおくへ向かって手を振っている。
この声は、何であるのだろう。
おそらくは、とても懐かしいものだ。そして、とても大切な言葉であり、声。とおいとおいところで、自分はたしかにこの言葉を聞いたのだ。
私は、目をあいた。
悲しくて、どうしようもないときは、おどければよい。しかし、吹き戻しをくわえたままの口では、さようならは言えない。
私も、子供のように手を高く上げる。
「この花が咲くころ――秋風の吹くころ、また、どこかで。
さようなら」
――――――
死者は、無になるのではない。
すくなくとも、今、生きている人間のなかで、死者は無になることはない。死者は、ここにいないのである。そしてその不在は、帰ってくることによって解消されることは、絶対にない。
そして、解消される必要もないのだ。
もう行かなきゃならないのは、我が君だけではないのかもしれない。おそらくは私たちも、もう行かなきゃ、なのだ。
歩きだす方法は、過去を葬ることでも、忘れることでもない。のこされた大きすぎる世界を背に、あいかわらず不格好に踏み出すしかない。
私はぬくぬくとした過去の陽だまりから、やっと踏み出した。まだ訪れない南風の代わりに、冷えた空気が肌を刺す。
「――それでも、私、もう、行かなきゃ」
言葉が、胸のなかを少しだけ温める。悲壮な決意ではない。とても自然な、人としての約束である。
私は室外に聞こえぬように、小声でその言葉をたしかめる。それから、振り返って扉を開けるべく、さらに一歩を踏み出した。部屋の外でずっと戸を叩けずにいる心優しい彼のために、それを開いてやらねばなるまい。
終
水魚の理わり
最後までお読みいただきありがとうございました。学生のころの、今よりさらに拙い文章で、消したいところとかいっぱいあるのですが、記念に残しています。
読んだぞとか一言いただけるととても嬉しいです。
O o 。( 'o' ∋ )))