practice(176)



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 ネヅさんの台車が盗まれた。その経緯は,店の前の道端で一服しながら,ネヅさんの愚痴と一緒に聞いた。ひとケースのビール瓶が乗ったまんまで持っていかれているから,目的はそれかもしれないが,しかしネヅさんが店の奥に引っ込んだわずかの隙を狙って,しかも勢いよく押して動かすとなると車輪もガラガラいう。ネヅさんが気付いて追いかけてくるかもしれん,と考えると,なかなかの度胸である。ネヅさんところの隣で,タバコ屋を長らくやってるおばあちゃんが語るところの人相は,切れ長目尻のいい男で,ここら辺の若い子がするような格好であったらしい。繁華街の裏手に位置し,穴場スポットとして雑誌に取り上げられて以来,この辺りはまあ,若い子からそうでない人までひっきりなしに来るようになったものだから,おばあちゃんの提供する情報からは,切れ長目尻のいい男を探すしかなかった。それと,逃げた方向は通りの向こう端。台車を走らせていても変に思われないところまで,ということにして,昼時にネヅさんと一緒に探してみることにした。
「ネヅさんのとこの子じゃ,なかったんだねー。」
 お釣りと一箱,百円ライターを順々に手渡して,おばあちゃんはネヅさんに深々とお辞儀をした。見かけたらさ,俺かこいつに言ってよなとネヅさんは言い,「そんなに男前だったかい?」ともう一本の間で済ませる話をその場に振った。
「いい男だったよ,ありゃ。」
「どんな奴に似てた?あれか,ばあちゃんが昔っから好きなヤツ。映画俳優の。」
「ハイタカシさんかい?」
「そう,それだ。」
「うーん,そこまではいかないね。どっちかというと,そっちに似てるね。」
「うん,ああ,こいつ。」
 ネヅさんが咥えるタバコが,ピンと指す。おばあちゃんはこっちを見ながら,うん,うんと似ているということを,思い直している感じだ。
「おめぇじゃねだろうな?」
 ネヅさんは笑い,疑った。
「おれんとこの台車,わざわざ倉庫に閉まってた二台目を持ち出して,ネヅさんにさっき貸したでしょうが。ビールとかだったら,直接タカリに出向くし。動機がないっすよ。」
「いやー,俺んとこのが上等だ,とか何とかで,盗んだのかもしれんぜ?」
 肺に吸い込んだものはお天道様に向かって目一杯に吐け,という爺さんの教えどおりに,煙はふわっと上がっていく。おばあちゃんが,相変わらず美味しそうに喫むねー,と感心した。おー,とネヅさんも短く追う。ネヅさんに言う。
「片輪ずつ仲良く外れる,ってことを知ってるものを上等って思えるほど,おれは物を大切にしてません。」
「うわ,ひどいねー,こいつ。ばあちゃん,こいつに物の大事さを教えてやってよ。」
 と,ネヅさんはしつこく話を引っ張った。おばあちゃんは,そうだねー,とどっちつかずを楽しんでいる。と,ここで大事な点に気付いた。ネヅさん,と声をかけて,ちょっとばかりのお喋りの中断を求めた。
「なんだ,自白か?」
「違いますよ。」
 シラフでネヅさんのからかいを避けて,手がかりになりそうな,盗まれた台車がボロいという事実を追いながら,どれだけ押して走れるか,持ち主ならではのコツは,簡単に習得出来ないということを確認し合った。下手をすれば,ということになるのだろうが,台車は無残な状態でも見つかるかもしれず,ビール瓶いっぱいのケースも上手くすればそこにある。そんなケースを丸々抱えて走るやつ,となれば目撃者が増える可能性も十分だ。なら,今すぐが良いかもしれん。ネヅさんの提案にすぐに乗った。おばあちゃんには嫁への連絡を頼んだ。
「ああ,分かったよ。やっとくね。」
 子機をピコピコ鳴らして取り,おばあちゃんは気を付けなよー,と声をかけてくれた。おう,と言ったネヅさんはポケットに何もかもを仕舞った。賑やかになりそうな気がしてしょうがないのに,毎回ネヅさんのそこからは音がしないのが不思議で仕方ない。
「手で押さえつけてるんすか?」
 とネヅさんに訊いたが,ああ,ぅんな訳あるか,とネヅさんは心底メンドくさそうに言う。
「コツがあるんだよ,コツが。」
 何個めだよ,と思いつつも,そこに突っ込まずにポケットの中でこう,パーテーションってやつみたいに手の平を仕切りがわりにするとか,と思い付いたことをしゃべり続けた。ネヅさんに頭を横から叩かれて,うっせ,後で教えてやるからさっさと探せ,と怒られるまでに,空いたビール瓶は数本電柱の側に置かれていた。ただしメーカーが違う。ラベルですぐに分かる。近くには,ビルの全フロアを埋めるクラブの看板が縦に並ぶ。タバコを吸い,すぐの目を逸らしたつもりが,ネヅさんに見られていた。
「さっさと行くぞ。」
 ネヅさんも見ていたかもしれない,が何も言わなかった。革の携帯灰皿に残りを突っ込んで消して,蓋をした。嫁からの贈り物っす,とネヅさんに言ったら,「前に聞いたわ。ったく,」とボヤきつつ,俺もねだろうかなぁー,と漏らしていた。
「今年のクリスマスとかっすか?」
「先の長え話だわ。」
 ネヅさんのため息で目の前の信号が変わったが,ネズさんと二人で渡った。パーキングメーターが五千円を超えていた。
「車上は荒らされず,なのに台車は走り去る。」
「つまんねぇこと言ってんなよ。」
 すいません,という言葉を軽々しく言って,ネヅさんとの捜索を続けた。外れた車輪から見つけた。
 台車の本体,ケースに瓶と(数本は見つからず,で),二人でモノを持ち帰る前に周囲の知り合いの店舗とか,午前中だけの大学の授業を終えて帰って来たケンタを走らせ,やれるだけのを捜しものをした。あとはしかるべきところにお任せして,三人で帰って来た。私服姿で息を吐くケンタには自販機の飲み物をそれぞれ買って,乗せた。台車は持っていても,ケースが上に乗っていても,物を運ぶのに便利だぁ,と一安心のネヅさんが言った。よかったなぁ,ケンタと,無防備な背中を叩いてやった。
「なにがだよ,メンドくせぇことばっかさせやがって。」
 不満そうなケンタには,すまんすまんと謝罪して,ネヅさんにはまあ,良かったすね,と言葉をかけた。まあ,な。ネヅさんは外れた車輪をくるくる回し,これ,直るか?と訊いた。多分イケると思います,と外れた所と外れたそれを見て,得た見当を言いはしたが,買い直してもいいんじゃないっすか?とも付け加えた。
「何だったら,今貸してあるやつ,売ってもいいっすよ。超破格で。ブツでもいいっす。四日間前後のビール一本ずつ。」
 どうでしょ?と持ちかけた。あー,と悩むネヅさんの様子は珍しく,本当のものに見えた。「確かになー,盗まれてる最中にぶっ壊れたぐらいだもんなー。」と言い,ポケットから手を出して,車輪を持ち直した。ちゃりん,と聞こえないか,耳を澄ましたのは正直に認めるところである。息をたくさん吸い込んだ。タダ酒バンザイ。
「でもさ,見方を変えれば,ボロっちかったから全部持ってかれなくて済んだんだろ?ある意味ラッキーじゃん。外れてさまさま,って感じじゃない?」
 おお,確かにな!という,ネヅさんの手放しによる称賛は,背中が無防備なケンタの肩から頭から乱暴に行われ,商談を妨害されたもう一方の非難は脇腹に向けたひとつのパンチと,ケツへの蹴りという形で浴びせられた。なんなんだよ,もー,と忙しそうなケンタの冷たいコーヒーと,暖かいお茶が落ちた。結構な勢いで,拾えば勿論凹んでいた。
「おれは買い直してやらんぞ。」
 じゃあ,俺が買い直してやる,とネヅさんは実に優しい対応を一本分だけ,ケンタに向けた。もうどっちでもいいよ,と投げやりのケンタは差し掛かったタバコ屋に顔を向けて,おばあちゃんに挨拶をした。伝票の整理をしていたような様子から,おばあちゃんは顔を上げて,
「あら,帰ってきたかい?で,どうだった?」
 とまとめて訊いてきた。ほれ,というネヅさんは「数本はやられたわ。」とだけ報告した。そうかい,というおばあちゃんは「まあ,いいさね。」と自分のものから一本ずつ取り出し,ほれと言ってくれた。ケンタはまだ吸わないから,本当にただ貰っただけになったが,家に帰って親父さんにでもくれてやれとアドバイスをした。まあ,おれが吸ってもいいぜ,というそそのかしも忘れずにした。
「持って帰るよ。」
 ケンタの私服にはポケットがあった。すとん,と収まるぐらい丁度のものだった。
「吸うんなら,肺まで目一杯。」
 親父と同じこと言ってるー!と驚くケンタにはニヤついてやった。ネヅさんにはまあ,店の中に入れや,昼飯も食ってけ,とお呼ばれした。やったと喜ぶケンタの後で,じゃあ,遠慮なく,と答えた。店の中に入り,しかし,もう一度店を出て,ネヅさんの隣のタバコ屋に顔を出して,奥に引っ込もうとしていたおばあちゃんを呼んだ。
「おばあちゃん,お昼,食ってくるって連絡しておいてもらえる?」
「そこの電話,借りてもいいんだよ。」
「いやー,おばあちゃんが言うとね。それがいいんだよ。」
「あんたも,昔っから変わらないね。あれと一緒だ。」
 壁に向かって指が差された。
「まあね,んじゃ,宜しく。ね?」
 と,念を押した。呼ばれたみたいに手が動き,さっさと行きな,という感じでおばあちゃんは奥へと引っ込む。連絡に関して律儀なおばあちゃんは,多分親機で連絡を取る。ねじ巻きフックで掛けられた電話帳を捲る。あいうえお,の懐かしいやつだ。番号はしばらくして見つかる。それか,覚えているか。
 店先には,カラフルな百円ライターが並んでいた。
「後でまた寄るわ,」
 と言わずに,百円を置いて,新しいのをまた買った。ネヅさんの店の前で空いているケースが積まれて,ケンタがさっさと中に引っ込んだ。バランス悪い台車は軒に置かれた。歩行の邪魔にはならないが,見栄えが悪い。引っ張って,引っかかって,やっぱりそのままにした。どうせこの後すぐに直すし,その方が何かと都合がいいだろう。
 そばに座って,やっぱり立って,ぼーっとしながら一服する暇があるかを見極めようとして,ケンタに呼ばれた。んにゃろ,と喉に飲まれた文句の出だしがどっかにいった。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-12

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