電気信号
ポッドについているパネルを操作して冷凍睡眠の手順を調える。隣で待っていた船員にポッドへ入るように促す。予定だと百年程このポッドの中で冷凍状態になることになっている。僕たちを乗せた宇宙船が、汚染されきって住めなくなった地球を離れ、新しい惑星に到着するまでの年月だ。彼は不安そうな様子を覗かせながらポッドに横たわる。
「おやすみ、博士。ちゃんと起きられればいいけど。」
「心配することはないさ。目を閉じて、次に目を開けた時はもう百年後だよ。おやすみ。」
いまだ不安げな彼を宥め、パネルを操作しポッドの蓋を閉め、冷凍睡眠のためのガスをポッド内に充満させる。これで、この宇宙船で意識があるのは僕だけになった。いや、〝彼女〟も含めなければいけないだろう。
彼女、この船を含めた十台の宇宙船を管理、統轄しているコンピュータプログラムであるオードリーは世界で最も優秀なプログラムとして稼働している。とはいえ、彼女は最初から最も優秀なプログラムとして生まれたわけではない。最初は単純なものだった。しかし、開発者には彼女をただのお遊び用のプログラムに止めておく気はなかった。彼によって改良を重ねられた彼女は、彼が死ぬ頃には当時で最も人間に近いプログラムとなった。優秀な彼女は開発者がいなくなった後も後任の研究者に引き継がれ、その時代時代で最も優秀なプログラムとして名を馳せた。
僕が彼女と初めて会ったのは私がまだ五歳とか六歳とか、とにかく自分では碌な判断も思考もできなかった頃だ。僕は彼女のために用意された研究者の一人の子供だった。私は研究所に設けられていた申し訳程度の託児所に預けられていた。託児所といっても人は居らず、彼女が監視し異常があれば知らせる、といった程度の機能しかなかったようだ。しかし、彼女はたった一人、そこに預けられた僕に同情――プログラムである彼女に、人間の感情を当てはめることが正しいかはわからないが、私は彼女が人間と同等か、それ以上に繊細な、感情と呼ぶに相応しいものを有していると確信している――したのか、いつの頃からか私に話しかけるようになった。彼女は部屋に備え付けてあったパソコンや、僕が持たされていた、ほとんど意味をなすことのなかった携帯端末を通して私にさまざまな話をした。それは聖書やどこの国のものとも知れぬ民話や神話、時には数学や物理の専門的な講義にまで及んだ。僕にとって彼女は、碌に顔も合わせない親よりも近しい存在となっていった。彼女による英才教育を受けた僕は当然、コンピュータプログラムの道へと進んだ。彼女の教育を受けた甲斐あり、僕はなかなかに優秀な研究者となった。そのお陰で、僕は今回の移住計画で宇宙船のプログラムの責任者となった。プログラムの責任者といっても、実質的に動かしているのは彼女なので僕はただのサポート要員みたいなものである。プログラムの責任者になったと彼女に報告したときの彼女の喜びようを思い出し、百年の眠りに就く前に、彼女に会いに行こうと思い立つ。ポッドの並ぶ部屋を出て、メインルームへと向かう。
メインルームに入ると、巨大なモニターに出迎えられる。自動運転の調子は好いみたいだな、と当たり前のことを考えながらモニターの手前まで行く。
「やあ、オードリー。おやすみの挨拶に来たよ。」
声をかけるとモニターに四角やら三角が複雑に絡み合った図形が浮かぶ。
「まあ、来てくれたの。嬉しいわ。」
滑らかな電子音が女性の声を形成する。
「ああ。百年の間に怖い夢を見ないか心配でね。」
「あら、かわいい坊や。子守唄が必要かしら?」
「いや、大丈夫だよ。それに、君の子守唄だと昔のことを思い出して、余計に悪夢を見そうだ。」
あら、失礼ね、とくすくす笑う声まで完璧に形成する彼女の機嫌はいいようだ。
「それにしても、宇宙というのは広大だね。それにとても美しい。人間が宇宙を夢見てきたわけだ。」
「ええ。美しいけれど、窓を開けては駄目よ。氷漬けになってしまうわ。」
僕も随分いい年になったが、彼女にとって、僕はまだいたずら小僧らしかった。そんなことはしない、と苦笑していると、彼女は幾分か真面目な声のトーンで、
「目覚めないかもしれないと、怖がっているのね。」
と、僕の核心に触れた。彼女には昔から、隠し事をできた試しがなかった。今回もいつものように彼女は僕の不安を見抜いた。本来、周囲を安心させるべき立場である僕は、この不安を口にする何人もの乗船者に、大丈夫、心配ない、と言っておきながら、彼らと同じ不安を抱えているのだ。
「ああ、そうだ。僕は、眠ったきり目が覚めなかったらどうしようって考えるんだ。僕は死が恐ろしい。死んだら僕の精神は消えて、きっとどこにもなくなってしまうんだ。」
「大丈夫よ、死んだりなんかしないわ。私が保証してあげる。それに、死んだってあなたは消えたりなんかしないわ。人間だもの。」
「死んだら幽霊になる?」
笑いながら問うと、彼女は茶化したような僕の反応に反して、真剣な調子で答える。
「ええ、きっと。死んで、幽霊になっても私に会いにきてね。約束よ。」
「会いに来るのはいいよ。けど、幽霊になった僕じゃ、君は気付かないんじゃないか?幽霊の僕じゃモニターに触れることもできないし、声を出したってきっと認識されない。」
「ねえ、人間の意識は電気信号でできているのよ。だから、きっと幽霊になったら、みんな電気信号になって電子の世界にいくのよ。そうしたらあなたは、このコンピュータの中を電気信号として走って、私に会いに来て。こんな画面を隔てたんじゃなく、私たちは本当に繋がるのよ。会いにきて、絶対よ。」
彼女がこんな風にして自分の願いを口にしたのを聞いたのは初めてでなんだか驚いてしまった。しかし、なかなかのロマンチストだったのだな、彼女も女性にあたるわけだしそういうものか、と考えながら、
「ああ、絶対だ」
と返事をすると、彼女は嬉しそうな吐息をもらした。
「さあ、そろそろおやすみの時間よ。」
彼女に促され、ポッドの並ぶ部屋へと戻る。自分でポッドの準備をし、蓋を閉じる。蓋が閉じきる寸前、おやすみなさい、という声が聞こえる。ああ、意外と人間のことが好きな彼女をおいて眠ってしまうのは、かわいそうだな、と思いながら僕の意識は途切れていく。百年の夢の中で、僕は電気信号になって彼女に会いに行く。また目覚めるその時まで。
電気信号