架空の聖人

バレンタイン

彼女と初めて会った時のことを、僕は覚えていない。物心ついた時にはもう、僕には彼女の隣にいることが当然だった。彼女は外に出て遊ぶのが好きだった。だけど、走り回って大声をあげるなんて馬鹿みたいなことはしなかった。彼女は外に出て、たっぷりと柔らかな日差しを浴びたり、空から落ちる水滴に身を晒したり、自然のなかにある草花を愛していた。彼女はいつも「自然にあるものが一番綺麗なの」だと言っていた。僕は美しさというものに関しては鈍い方だったけれど、そうやって遊ぶ彼女の隣で絵を描いたり、詩を書いたりしていた。当時の僕は彼女の気を惹きたくて、どうしようか悩んだ末にこの方法に辿りついた。彼女が僕のつくったものを綺麗だと言ってくれるのがうれしくて、僕は彼女の言う美しさをひたすらに追求した。僕の美しいという価値観のほとんどが彼女によってつくられたと言っても過言ではなかった。
僕はいつも彼女のそばにいたいと思っていたけど、年を重ねるに連れて、そういうわけにもいかなくなった。ある程度の年齢になった男女がずっと一緒にいると、そこにあるのが純粋でひたすらに透明な敬愛だったとしても、周りの人間はそうは思わない。彼らは僕らの間にあるものを勝手に推測して、それが事実であることにして僕らの関係を引っ掻き回して遊ぼうとした。彼らは僕らの間に存在するであろう、彼らがでっちあげた感情に振り回された。僕たちは下卑た質問に晒されて、細かな傷を数え切れないくらい負っていった。僕は彼女の瞳に湛えられた痛みに耐えきれなかった。そうして僕らの距離は少しずつ遠くなっていった。
そうやって遠くなった距離の分だけ、僕の彼女に対する思いは募っていった。僕は相変わらず詩や絵を作って、本当によく出来たと思ったものは、人に見られないように彼女の家の郵便ポストに入れていたし、バレンタインカードだって毎年手の込んだものを作っていた。彼女がそれをどう思っていたかは知らないけれど、やめて欲しいと言われたことはなかったし、彼女が本当に気に入ったものにはついては彼女からの感想が書かれた手紙が届いた。僕はその手紙が来るたび、世界で一番幸福なのは僕だと思っていた。自分でも笑ってしまうくらい彼女に執着していた。いや、執着していたというのはきっと正しくない。執着というより、僕は彼女を信仰していたんだ。実際、僕は寝る前のお祈りで、姿も知らない神様にも聖人なんかにも祈ったことはなかった。僕はいつも彼女に祈っていた。その頃の僕は、彼女が世界を作ったか、世界が彼女のために作られたものなんだろうと信じて疑わなかった。そうやって僕は彼女への信仰心を絶やしたことはなかったけど、みんながみんな同じものを信じているわけではないことは僕も知っていたし、彼女は誰からも好かれていたわけじゃなかった。僕は最初、彼女は特別だから、周りの奴らがそれを恐れて彼女を迫害しているのだろうと思っていたけれど、だんだんとそうじゃないことに気付き始めた。彼女を嫌っていたのは一人の女の子で、他の奴はほとんどその子にひきずられているだけだった。
「あの女の子はお前のことを好きで、だからお前が好きなあの子に意地悪するんだ」
そう僕にこっそり教えたのは、よく僕に本を貸してくれたひとつ年上のマークだった。僕はマークの言葉にひどく動揺してしまった。僕のせいで彼女が傷ついていることにも動揺したけど、僕が彼女を好きだということに何より驚いたのだった。僕は彼女が好きだ。たったこの一文に僕の全てが集約されてしまった。なんでこんなことに気づかなかったのか、今でもそれはわからないけど、こう言われた時僕は初めて自分が盲目だったことに気づいた。それまで僕は自分が頭の良い人間だと思っていたけれど、それは全くの間違いだった。僕は馬鹿だった。だけど、彼女みたいな人が僕に振り向いてくれるなんておこがましいことは、流石に思わなかった。このマークの言葉で、僕は自分の信仰心は汚れたものだと知った。マークは動揺した様子の僕を見て、男ってのは辛いよなあ、と言った。本当にそうだった。だけど、きっと男じゃなくても辛いんだ。
それからは部屋で机に向かって、どんな絵を描いても、詩を書いても、それが下品な僕の欲望の吐露に思えた。なにも知らずに作っていた頃には感じなかったものが、胃からせり上がってくるようだった。こんなものは彼女に見せられないと思ったけれど、本当は今までだって見せられたものじゃなかったのかもしれない。彼女は僕の感情を写しだしたあの作品たちを見てどう思ったんだろうか。あの清廉な瞳には醜いものとしてしか映らないのじゃないか。僕は筆を取るのをやめてしまった。
僕が何も作らなくなったところで状況は何も変わらなかった。しいて言えば、僕は彼女を嫌っている女の子と話をするようになった。その子の熱烈なアピールに心が傾いたわけではなかったけれど、そうしてあげていれば少なくとも彼女が傷つく時間は減っていた。彼女と僕の交流が途絶え始めていた間にも、バレンタインは近づいていた。僕はバレンタインカードを送ろうかどうしようかと、ずいぶん長いこと悩んでいて、結局本当に良いものができたら送ろうと決めた。それから僕は何日も机に向かってどんな構図にしようかとか、どんな言葉で韻を踏もうとかいうことばかり考えていた。何日も考え続けた。だけど、そうして出来たカードだって、僕は彼女に見せていいのかわからなかった。これを見た彼女に僕の思慕を悟られるのが恐ろしかった。彼女の清純を信仰する僕にとって、自分の抱えたものを彼女に知られることは一番の恐怖だった。なるべく綺麗に、僕の心情なんかは絶対に出ないように作ったつもりだった。美しく韻を踏んだ文のまわりには優美に鳥が舞い、草花がするりとその身を這わせている。これならきっとわからない。そう信じ込むことを自分に許す程度の作品ではあった。
僕の持ち得る限りの美意識を詰め込んだそのカードは、僕の鞄を重くしているように感じた。彼女にバレンタインカードを直接手渡していたのはいつまでだったか、記憶は曖昧だ。でも、ポストに入れるようになってからは、必ず午前七時までには入れるようにしようと決めたことは覚えている。その時間までなら、彼女の家の前の通りを歩いている人は全くと言っていいほどいないからだ。僕は初めてこの習慣を破ったのだ。午後一時を過ぎたくらいだろうか。風は冷たいが、太陽は明るくあたりを照らしている。僕は自転車に乗りながら彼女の家に向かっていた。ひどく冷え込んでいるので、風を受ける耳や鼻は痛いくらいだった。あんまり速度を出すと風が痛いから、と誰に聞かれるわけでもない言い訳を用意しながら、僕はゆっくり道を進んでいた。これは僕にとっての受難であるのかもしれない。彼女の家まであと三軒分の距離に迫ったとき、僕のペダルを漕ぐ足は止まってしまった。やっぱりやめておこうか、という考えが僕の頭のなかで質量を増していった。彼女の家のポストは相変わらず塗装の剥がれた部分が直される様子はなく、白と茶色のマーブル模様になっている。そうやって彼女の家を眺めていると、玄関のドアが徐に開き、彼女の姿が現れた。彼女は気怠げにポーチからポストまで歩くと、蓋のところにちょっと手を置いてから恐る恐るといったようにゆっくりと蓋を開けた。ほんの数秒眺めた後、彼女は開けたときの様子とは裏腹に手早く蓋を閉めた。そのままポストに寄りかかるようにして立った彼女に、玄関から半分身を出した彼女の母親が声をかける。もう少し待ってみなさい、という声が静かな昼の通りに落ちる。彼女は顔を下に落としたまま、もう来ないんだわ、と半ば叫ぶように言った。僕のことを話しているのだと咄嗟に思った。彼女はきっとバレンタインカードが届くのを待っていたのだ。彼女のする拗ねたような仕草に僕は心臓を握られたようだった。自分のなかにある彼女の姿と、今見ている彼女は全くの別人であるかのように思えた。まるで普通の女の子だった。彼女も、彼女を嫌ったあの子と同じただの女の子なのだ。そんな当たり前のことが僕にとっては全く新しいことのように思えた。彼女が服の袖で目元を拭う姿に叫び出しそうになる。僕は急いで自転車を方向転換させて彼女の家を後にした。全力でペダルを回したけれど、風が冷たいだなんて少しも感じなかった。僕はすべてが許されたような気がした。
足が動かなくなって、自転車を止めたけれど、勢いが殺せず道路に転がる。後ろで自転車が倒れる耳障りな音がする。彼女が好きだと強く思った。いつから彼女は僕の神様だったのか、もう忘れてしまったけれど、僕は彼女が神聖だったから好きになったわけではなかったのだ。心臓が血液を送る音がわかるくらい大きく脈打っていた。僕は彼女という人間が好きなんだ。恋っていうのはこういうことなんだ。どうして誰も教えてくれなかったんだろう。教えてくれたら、きっともっと単純にできたのに。入り組んだ信仰心を乗せたカードは、きっともう役割を果たしてくれない。僕は鞄からバレンタインカードを出して、それを破った。
彼女に言わなきゃならないことがたくさんある。派手な音を立てて倒れたわりに、自転車はどこにも壊れた様子はみえなかった。車通りの少ない道で本当に良かった。でなければきっと轢かれていただろう。早る気持ちを抑えきれず、ペダルを回す速度があがる。思ったより遠くまで来てしまっていたので、戻ってくるまでに時間がかかってしまった。今度は彼女の家の前で自転車を止めた。ポストの横に自転車を置いて、戻ってくる途中に買った花を鞄から出す。出した速度に反して、花は折れたりすることなく綺麗なままで安心した。花を片手に玄関のドアの前に立つ。彼女に直接会うのはいつ振りだろう。どうどうと血が身体中を巡る音が聞こえる。一度大きく息を吐いてからチャイムを鳴らすと、ドアの向こうから足音が聞こえて、開かれたドアから彼女の姿が現れた。その途端、あんなに言いたいことがあったのに、僕は何を言ったらいいかわからなくなってしまった。僕は彼女に花を押し付けるように渡しながら、一言、ずっと好きだった、とそれだけをやっと絞り出すように言った。僕は自分の靴を見つめながら、ぼんやりと、きっと彼女はこの花はあんまり好きじゃないだろうなと思っていた。彼女は人が手間暇をかけて育てた花よりは、自然に咲いている花の方が好きだろう。だけど、僕はこの彼女の名を冠した花が好きだった。赤い花びらは彼女の血色の良い唇と頬のようで、高潔な佇まいは彼女そのものだった。彼女が何も言わないので、僕は恐る恐る顔を上げた。彼女は呆然とした顔をしていたけれど、僕と目が合うと照れ臭そうに微笑んだ。彼女は震える声で小さく、私もよ、と囁いた。泣いたのだろうか、彼女の目元はほんのりと赤く、手に持った花の花弁のようだった。彼女は正しく一輪の薔薇だった。彼女の手をそっと握ると、甘い香りが鼻をくすぐった。僕が信じた聖人はどこにもいなかった。僕の信仰心はようやく終わりを迎えた。

架空の聖人

架空の聖人

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更新日
登録日
2015-03-12

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