過虎
何度、別れを経験しただろう。
何度、出会いを経験しただろう。
何度、人を失う辛さを経験しただろう
何度、人が離れる辛さを経験しただろう。
何度、人が傷つく事の容易さを感じただろう。
そして何故、私は。
それらの事柄に、慣れてしまったのだろう。
慣れてしまうことに慣れてしまったのだろう。
昔から親の都合で転勤が多かった。
海外にも、何度も行った。
早いときには一か月でその地を離れる事もあった。
しかしたった一度だけ、長らく滞在した場所があった。
その時、私が私となり、私と決別し、私を知った。
友という生き物を知った。
これは、そんな私の昔の話。
私の、つぶやき。只の独り言。
いや、今となっては一人言かな。
まぁいいや、始めるとしようか。
私が私であるために不可欠で、そしてどうしようもなく不必要で。
掃いて捨てたいけど宝物として置いておきたい。
そんな昔話を、ね。
「ねぇアンタ。ちょっとツラ貸しな」
家に帰ろうとする私の前に立ちふさがり、その女は言った。
「その女」とやけに物語にとって重要な人物であることを示唆するかのように言ったが、実際は大したことなどない。徒党を組んで悪ふざけをしている、いわば只の不良。こちらからすれば、名も知らないような相手である。
私は無視し、素通りしようとしたが、すれ違いざまに手首を掴まれた。
「おい、無視してんじゃねー、よ!」
身体をひねり、拳を振る女。そのあまりにも遅く、非力なパンチを私は手の平で軽く受け流す。
それだけで女の体はバランスを崩し、前のめりに転んでしまう。
たったそれだけの事なのに、まるで化け物がそこにいるかのように私を見る取り巻き。こんなもの、武道を習えば誰だって出来るほど簡単だということを彼女らは知らない。
そう、何も知らないのだ。
私は本来小学4年生に位置づけられる年齢だが、学年は中2である。学年は気づいたら進級していたし、別段私は気にしなかったが、どうやら周りは大いに違ったようだ。教師陣は我が校始まっての天才だのなんだのうるさいし、それに色々な学年を転々とした私を、どうやらこの学校の生徒はお気に召さなかったようだ。まぁ、それも仕方ないのかもしれない。一週間前までは自分より下に位置していた人間が、今は自分より上の立場にいる。当事者たちからすればこれほど腹立たしいことも無いだろう。
だから、いじめる事にした。
鬱憤のはけ口にした。悦楽の入り口にした。
人間の学生としてはとしては至極真っ当な行動だろう。世間ではいじめ撲滅だのなんだの嘯いているが、元来人間、動物に限らず、集団で生きる知能生命体にとっては集を持って異端なる個を制す、というのは生物的な本能なのではないか。
まぁ、どれもこれも、個で生きる私にとっては関係のない話だが。
ほかの家庭では両親に位置づけられる人物は両方とも仕事人間で、それも相当稼いでいたので私のことなどこれっぽっちも気にかけてはくれなかった。そして、互いの事も気にかけてはいなかった。当然とも言えようが、この地に来て1年半、二人は離婚、家を出た。お互いが話し合い残した家と財産と家財道具、そして私を残して。
こうして私は、家庭的にも一人となった。
それでも恵まれていると言っていいと思う。
世の中には、私なんかよりも不幸な人間なんかいくらでもいる。家や財産だけ残されているだけ私は幸福なんだろう。いくら孤独でも、生きていける事には生きていけるのだ。
そんなどうでもいい事を考えている内に、どこかで聞いた覚えがあるような捨て台詞を吐いて、その女たちは去っていった。あれ?1人じゃなくて3人だったのか。たった今気づいたよ。まぁ、悪戯やちょっかいもこれだけ毎日続けば慣れるというものだ。
誰も待たない家への帰路を進んでいると、だんだんと空が陽に焼け、橙と紫の美しいグラデーションを描いていた。
ここの気候帯では珍しい色合いだ。そういえば近くに居心地の良い公園があったな、と私は思案し、この夕陽を少し見てから帰ろう、と思ったのだ。
らしくもなく。
そのらしくもなさが、私を変えるとも知らずに。
さして広くない公園の隅にあるベンチに私は座った。遠くに夕日の下、ボールで遊ぶ子供達が見える。各々きゃっきゃうふふと楽しそうだ。もうそろそろ陽も落ちるのだから帰ればいいのに。
と、その子供達の輪から離れ、一人こちらに近づいてくる少女がいた。
少女というより幼女だろうか、どちらにせよそのこぢんまりとした体がこちらへゆったりと歩を進める度に、短めに整えられた金髪のウェーブヘアが揺れる。
短躯が私の前に立ち、その透き通った碧眼が私を見据えた。こうして近くで改めて見ると、いたく美しい幼女だが、着ているワンピースは所々泥か何かに汚れ、顔にはうっすらとあざができている。
「どうしたの?」
こう見えても、といってもまだ私のこうもああも知らないだろうが、私は子供は好きな方だ。普段の有象無象に向かい発する言葉とは違く、なるべく相手を落ち着かせるようなトーンの声を出す。が、
「おぬし」
抑揚の無い声で幼女は言った。
いや、射った。
「しあわせなのか?」
言葉の矢が私に突き刺さる。
正直意表を突かれた気がした。内心驚き少し取り乱してもいたが、表情には出さないよう尽力した。…でも、あの時は余りにも、「意表を突かれる」という事に不慣れで表情など作れていなかったのかもしれない。
常人が思う意表など、私の中では何でもない。生理的現象、深層意識、脊髄反射。要は意識が表に出ていない状態であしらえるのだ。
そんな私が意表を突かれた。それほど、まるでたんぽぽの妖精のようなその少女の発言は鋭利で、容赦無く私の心に這入ってきた。
「どういう意味かな」
「おぬしの顔は笑っている。でも」
へろっ、とゆっくり人差し指を私の顔に突きつけ、幼女は呟くように、幼い声で、しかし抑揚無く言う。
「しあわせでない」
「…………」
「わらわはそんな顔がイヤじゃ」
「困ったな、いきなり嫌われちゃったよ」
「嫌いでない。イヤなのじゃ」
「何が違うの?」
「ぜんぜん違うぞ」
とにかく、と言い、黄色い妖精は空を仰ぎ見た。
「明日も、ここに来てはくれんかの?」
「別にいいけど、なんで?」
「べつにいいじゃろ」
じゃあまた明日の、とだけ言い残し、幼女はぱたぱたと去って行ってしまった。
不思議な幼女だった。そして、何故微妙に古語口調なのだろうか。いくらなんでも時代錯誤だろう。外見はすこぶる美しかったが。
いや、あれは美しいというより。
儚いというべきか。
そういえば、名前を聞くのを忘れた。まぁ明日も会えるのだしいいだろうと、彼女の身体にうっすら刻まれていたあざの事を考えながら、私は誰も待たない自宅への帰路に着いたのだった。
「おそいのじゃ」
開口一番、幼女が仁王立ちで告げる。
「勘弁してよ、幼稚園と中学校とじゃ終わる時間が違うんだから」
「む、失礼な。わらわは小学生じゃぞ」
「なんと」
これは驚いた。素直に。
「そういえば君、名前は?」
「紀伊」
「珍しい名前だね」
「おぬしは?」
「ティーガー。虎と同じ綴りでティーガーだよ」
「なるほど、これからよろしゅうの、ティーガー」
これが、不思議な幼女・紀伊と私との出会いだった。
何故彼女が最初、私に声をかけたのか、不思議に思う人もいるだろう。だが、その理由にこの物語を面白くする伏線が張り巡らされた後の要因や過去の因縁などがある訳では勿論なく、結果から言うと、彼女はどうやら遊び相手を欲していたらしい。仲間内に入れてもらえなかったそうな。
いや、遊び相手でなく、話し相手だったのかもしれない。
日々の不満を私で忘れたかっただけかもしれない。私と話すことによって、触れ合う事によって。さながらお互いの傷を舐め合う仔猫のように。
それでも、その時の私は、この金髪碧眼の幼女に救われていたのだろう。自分なんかよりよっぽど強い、この幼女に。
おっと、話が逸れたね。
ここら辺は自分で補完しておいてくれ。紀伊ちゃんとのあの時の想い出は、私だけのものにしておきたいから。
そう、私だけのね。
話を進めるよ。
その後、不思議な幼女と私は、ほぼ毎日と言っていいほどの時間、出会い、触れ合い、会話を交わした。
時には喧嘩もした。あ、口喧嘩だよ?紀伊が私を糾弾するのがほとんどだったけどね。
2人で夕方まで語り合う日々とあれば、真夜中の星空を眺める日もあったり、降りしきる雨の中、遊具に守られ縮こまる日もあった。
幸せだった。
でもそんな幸せな日々は、終わりを迎える。
あ、違うか。
私が終わらせたんだ。
惰性と共に学校を終え、私はいつもの公園へと急ぐ。それはまるで私の帰る場所が、あの抜け殻の家からこの公園になったかのようだった。
だが、今日は何故かそこに黄色い幼女の姿は無い。
「紀伊?」
呟き、辺りを探し回ると、最初に彼女と会ったベンチの上に一枚の封筒があった。
それは白無地の、無慈悲な封筒だった。
『ーーーーー。』
つらつらと述べられている文章を私は読み、そのまま破り捨てる。
あぁ、やっぱり、私が幸せになるなんて間違ってたよね。
そんな事をふと思い、私は駆けた。
幼女が攫われた廃屋へと。
「よく逃げなかったね」
「………」
薄暗い廃屋には、4つの人影があった。
そのうち3つは私に良くつっかかってくるグループの女子、そしてもう一つは縄で柱に結ばれた紀伊であった。
「あ、そうか。私たちなんかに逃げる必要なかったね、アンタみたいなすごぉいヒトはさ…ほら、王子様がお迎えだよ」
ぺちぺちと、気絶しているらしい紀伊の頬を叩く。
「はっ……て、ティーガー!なぜ、なぜ…」
「あそこに突っ立ってる人は、ご丁寧にもキミの事を助けに来てくれたらしいよ?」
「…………」
「……へー」
すると、俯き何も言わずに押し黙っている私をどうやら女はお気に召さなかったようで、パチン、と指を鳴らし、他の女に指示を与えた。その脇に控えている金髪金眼の女はなにやら嫌がる素振りを見せたが、もう一人の女にきつい調子で促され、紀伊の服に触れる。何をしてるんだろうあのおどおどした子は、と私は思いながら見ていたが、その直後、私は怒りとともにある種の驚きを迎える事となる。
何故ならたったそれだけで、下着を除いた紀伊の衣服が弾け飛んだからだ。
「紀伊ッ!!!」
この時の私はこのことに対して何も思わす憤慨してるけど、実際問題かなり不思議だったんだろうね。今となっちゃその問題も分かるんだけど、その時は想像だにしなかったからさ。
そうそう、あとこのシーンを思い浮かべて少し笑ってしまった人もいるかもしれない。まぁ、縛られた幼女の衣服が弾け飛ぶって、破れるならともなく全く滑稽じゃないとは言えないもんね。
ただ、ギャグはもう無いよ。
ここからあるのはシリアスな私の過去譚だけだ。
シリアス。悲しいだとかそういう意味で濫用される事が多いけど、その言葉の本質は『真剣』なんだよ。
ギャグっぽく、マジと読んでもいいかもね。
「ははっ…やっと名前で、呼んでくれたの」
羞恥に顔を染めながらも、殊勝に紀伊は呟く。
そんな姿は、見ているだけで痛々しくて、脆くて今にも崩れそうで。
勿論私は今すぐ飛びついて、彼女を助けたかった。
「おっと」
さっと身構えた私を制す女がいなければ。
「そんな顔をするなら、もっとするよ」
駆けようとした私の脚が止まる。
「そう、それでいい」
私を指差し、女は歓びが隠しきれない顔で言った。
「土下座しな」
これにも、私は無表情で答える。
「土下座して詫びるんだ。こんな私ですみませんって、産まれてきてごめんなさいって、頭を擦り付けてなすり付けて詫びるんだ」
それともなんだい、と一拍置き、
「あの子がズタズタにされてもいいのかい」
いい訳がなかった。
精神の天秤は瞬時に動き、私の行動を決定する。
「ティーガー駄目じゃ、お主がそんなこと…むぐっ」
遠くで紀伊がそんな事を言った気がしたが、傍にいた女が口を塞いだ。そんな事しなくったってどうせ私は聞かないのに。
「すいませんでした。彼女を開放して下さい」
初めてにしてはなかなか綺麗な土下座だなぁ、と私が思いちらっと視線だけ上げると、そこには優越感に陶酔した女と、憤怒の形相で暴れている紀伊の姿が見えた。紀伊が誰に向かって怒っていたのなど、言うまでもない。
その時私は暢気だった。場にそぐわず、あー早く終わらないかな、土下座ってなんか案外落ち着くなこの姿勢だとか、ここのコンクリ超硬いなこりゃ流石に壊せないな、などといった事を考えていた。
それが災いしたのだろう。いや、天罰か。
女は私の顔を覗き込むように見、そして覗き込んだその瞬間、先程の抜けた表情が一変、一気にまるで修羅のごとく表情が変化した。
「テメェの!!その眼が!!!」
気に食わねぇんだよ!!と続け、女は私を蹴る。
「あたし達の事なんか人間とでも思ってないようなその眼が!!」
蹴る。
「自分より遥か下だって思ってるその眼が!!」
蹴る。蹴る。蹴る。
「誰とも関わらねーその態度が!!!」
蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る。
「気にくわねぇっ!!!!!」
蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る。
先に言っとくけど、誇大表現じゃないよ。
最後にひとつ大きな蹴りを入れて、女は肩で息をし、追撃をかけるように今度は馬乗りになって腕を振り上げた。
「ーーー、もう、やめた方が」
「黙ってろ!!!!」
紀伊の衣服を剥がした女がおろおろするように言うが、私に馬乗りになる女は目を血走らせ一蹴する。あ、私の顔を一蹴りしたって意味じゃないよ?
『そうだな、そろそろやめた方が良い』
くぐもった声が、廃墟全体に響いた。
それは若かったが、女ばかりのこの場にまるで似合わない、低く力のある声だった。
廃墟の中の五者はそれぞれ戸惑う。私だって無表情だったけど、それなりに慌ててたよ?
まだ役者がいたのか。
そんな気持ちだったかな、その時の私は。
その声が響いた数秒後、ドォン!とまるで大砲が放たれたかのような轟音が鳴り響き、廃墟の壁に深い亀裂が走る。ドォン!ドォン…とそれがもう2回続くと、廃墟の壁はガラガラと崩れ去り、薄暗い空間に眩しい太陽が差し込む。
逆光でよく見えないが、来訪者の正体は、黒と銀の美しいコントラストを描いた髪が腰ほどまでに伸びている青年だった。ゆったりとした服の上からでもその肉体の頑強さが伺える。
まぁ、私でも多分壊せないコンクリ壊せる時点で人間じゃないけど。破片見たら鉄筋入ってたしね。
いや本当怪物だよ、あの人。
そして、何よりその人物が奇怪だったのは、頭の上になにやら謎の生物を連れている点だった。
身長は恐らく5、60センチ…身長というより、全長、か?ホテルのボーイのような緑色の衣服を着ていたが、その首から上はずどんと平べったい顔に、これまたずどんと大きな黄と深緑のまだら模様のきのこの傘のような被り物をしていた。
先ほど、コンクリを壊した青年を人間じゃないという風に述べたが、こちらはこちらでもっと直接的な意味で人間じゃなかった。
「な、なによ、あんたたちーーー」
私に馬乗りになっていた女はそう聞くが、帰ってきたのは一つの素早い手刀だった。女は自分の身に何が起こったかも分からず沈んでいったのだろう、顔を恐怖に彩らせながら倒れていった。
そんな女はまだ私に乗っかった状態なので、私はよっこらせと女をどかせて起き上がり、前を見ると二人とも倒れていた。どうやら傍らの女二人も、私が起き上がっている間に気絶させられたらしい。
残されたのは、私と紀伊と銀髪の青年、そしてキノコと表現する他ない、一つの物体だった。
「助けてくれたの?」
不意に、私が口を開く。
まぁこの状況を見たら助けてくれる他無かったのだが、あまりにも異様なその物体の前で少し警戒していたというのも事実だ。
すると爽やかな笑顔と共に銀髪の青年が答えようとするが、傍の菌類が手で制す。
そしてそのまま、問いかけた。
「手負いの虎は、ハイエナに群がられてどうなる?」
「……何が言いたいのかな?」
「どうなると思う?」
「群がられて、肉を引き裂かれて喰われるとか」
「違うんだな」
やけに似合う、凄惨な笑みを菌類は浮かべ、続ける。
「格下相手と戦う間抜けな虎は気づかない」
「……」
「自分の大切なものが、その間に略奪されているという事をな」
「それは動物だからじゃないの?」
「お前よりハイエナの方が余程人間らしいさ」
「酷いこと言うなぁ」
そこまで言い、菌類は口を止め、何事かを改めるように告げた。
「ーーーに来い」
その場所は、今現在居る国ですらなかった。
広い広い海を越えたところにある、遠い遠い国。
「ここに居てもお前は、悪影響を及ぼすだけだ」
その言葉を聞き、思わず自虐的な笑みを浮かべそうになった私を遮ったのは、
「違うぞ」
未だ柱に縛られたままの、今の今までずっと無言を貫いてきた紀伊だった。
「ティーガーが居て、わらわは寂しくなくなった。妹に去勢を貼ることしか出来なかったわらわが、初めて、心の底から人と向き合う事が出来た!少なくとも、わらわは絶対、絶対悪影響など受けておらん!!」
力の限り叫び、まるで親の仇でも見ているかのような目つきで菌類を睨む。
だがその叫びに答えたのは、その隣の銀髪青年。
「でもキミがこんな目にあったのは」
一泊起き、楽しそうな笑みで、
「そこのティーガーのせいだろ?」
「ぐっ…ち、違う!わらわをここに連れ込んだのは倒れている女どもだし、ティーガーは…」
「だからティーガーさえいなければその女の子達だってキミに関わる事なかったんじゃん」
だんだんと追い詰められる紀伊。その目には涙が滲み、顔は完全に焦燥に包まれている。そんな絶望的な表情が、私の方に向けられる。
「ティーガー、のう、ティーガーもそう思うよな?わらわと、わらわと一緒にいて、駄目なことなんか無いよな?」
あはは、紀伊はそんな事も分からないの?
そんなの決まってるじゃん。
「ティーガー、何故、そんな顔をする」
あれ、紀伊こそどうしたの?
…そんな、化物でも見るような顔して。
「記憶消去」
不意に、沈黙を保っていた菌類が呟く。
「都合の悪い記憶だけを綺麗さっぱり忘れさせられる便利な能力だ」
しかめっ面をして、唾を吐き捨てる。
いや、元々この謎生命体は不機嫌そうな面なのだが。
「もっとも、欠点はあるが」
「…へぇ、そんな力があるんだ」
「見かけによらないだろう?」
「ちょっと使わせて貰ってもいいかな」
紀伊の方を見ずに言ったその言葉は、だが悲しいぐらい正確に紀伊の胸を貫いていた。
「ティー………ガー…………?」
何が何だか分からないといった風に、紀伊が私を見上げる。その瞳には哀しいかな、まだ私の事を信じきっているような光があった。
「んーと、じゃあその、キノコさん」
「マシューだ」
「よろしく頼めるかな」
「…おう」
菌類は珍しく、少し考えるような素振りを見せたが、直ぐそのポーカーフェイスの下に隠してしまう。
それはもしかしたら、まるでこの世の終わりを見たかのような表情をした紀伊を見たからなのかもしれない。
「ティーガー、まさか、わらわの記憶を」
消すつもりか。
その言葉は、紀伊の口から出る事は無かった。
「………」
「何が悪いのじゃ、わらわはよいと言って、おるじゃろうが、ティーガーとおらねばわらわはどうすればいいのじゃ、誰と、どうすれば」
「…………」
「なんで、黙るのじゃ」
「……………」
「何か言え!!ティーガーぁあああ!!!!」
絶叫する紀伊に、菌類が近寄った。
何かしたのかと思うと、突然紀伊の身体がガクン、と揺れ、表情が苦しそうなそれになる。
「ぐっ……ティ、ガー……わらわは、忘れんからな」
「絶対に!!おぬしの事を忘れんからな!!!!」
「だから首を洗って待っていろ!!次、次、会うときは……かなら、ず……」
それでも幼女は言う。叫ぶ。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
そんな幼女に、もはや意識が朦朧としている紀伊に、私は最後の言葉を投げかけた。
「大好きだよ、紀伊」
いつも通りの、普段通りの、薄っぺらい微笑みで。
私は紀伊を突き放した。
その言葉を聞いた瞬間、紀伊の表情はどんなものだったのだろう。
見なくて良かったのかもしれない。
なんにせよ私のその言葉を最後に、紀伊の意識は完全に落ちた。
「とりあえずこの子の記憶操作は終わったっぽいな、俺が家まで運んでおく」
立ち尽くす私に、銀髪青年が声をかける。後々の処理についてはどうやら任せて良さそうだった。
銀髪青年が紀伊と他の少女三人を担いで去り、廃墟には私とマシューと名乗った菌類が残された。
「行かないの?」
「…早くないか?」
「んー、早くしないとね」
平坦に端的に、私は言う。
「あなたをグチャグチャにしちゃいそうで」
同じく平坦に生意気に、菌類も言う。
「怖いな、できるかどうかは別として」
「出来ないとでも思うの?」
「ああ、思わないね」
一触即発の空気が流れそうになったが、ここで争っても仕方がないと思った私はふい、と踵を返し、廃屋を出ようとした。
「明日の朝、またここで」
菌類が後ろから補足する。
一日くらい、割と長い間過ごしたこの場所を見回ってみるのもいいかもしれない。
色々とお世話になったしね。
そんな事を思いながら、手負いの虎は。
何もかもから逃げた虎は、初めて向き合った。
だが初めて向き合った結果、大事なものを失った。
……それだけの話だよ。
愚鈍で間抜けで阿保で馬鹿な私の昔語りに落ちなんて期待しないで貰えるかな。
もう終わりだよ、解散、解散。
恥ずかしいね、自分を語るっていうのは。
おっと、本当に解散だね。
紀伊ちゃんがもうすぐ来るから。
じゃあまたね、色々話せて良かったよ。
紀伊と私がその後どうなったか?
そんなの、自分で想像しなよ。
多分想像通りだよ。
過虎
「過虎」どうでしたか?いっつもキチってるティーガーの割と真面目な過去編でした。自分の筆の赴くままに書いたので読みにくいかもしれません……そこはご容赦を。コンセプトは「立ち向かった者と逃げた者」といった感じでしょうか。今作はところどころに思わせぶりな単語やら文やら、回収してない伏線もあるので面白い作品になったかなぁと思いました。楽しんで読んでくれれば幸いです!
え?題名が厨二臭い?ちょっと君こっち来な