ユトリロと満月の夜
しばらくうっちゃっていましたが、思い出したように、続き、おしまいまで書きました。
だいたい一万字です。
お暇な方は、軽い気持ちで、どうぞ。
プロローグ
その夜私は、明日の英語の試験に向けて、勉強しないと行けませんでした。
あまり気乗りはしませんが、机の上に教科書とノートを開きます。
けれど全然やる気なんて起きなくて、それでも追試は嫌だから、しぶしぶ、私は机に向かうのでした。
ところがところがです。せっかく開いた教科書とノートの上に、私がちょっと目をそらしたそのすきに、いつの間にか、だらしなくやるせなく、ゴロリとわがもの顔に、ユトリロが寝転がっているではありませんか!
私は、腰に手をあてて、ふううっと鼻から空気を抜き、そうしてユトリロを抱き上げると、
「あなた、ちょっと太ったんじゃない?」と言いながら、床に降ろしました。
ユトリロは、けれどブスッと不機嫌そうな顔をして、ひょいっと軽やかに、私が見ているにもかかわらず、机の上に飛び乗って、何事もなかったかのように背伸びをし、教科書の上に身を転がすや、撫でてごらんと言わんばかりに、お腹を見せてくるのでした。
私は、もう一度、
「あなた、やっぱりちょっと太ったんじゃない?」と皮肉を言って床に降ろすと、案の定、ユトリロは軽やかにジャンプして、しつこく教科書の上に寝転がるのでした。
私が、今一度ユトリロを床に降ろそうと手を伸ばしたところ、
「痛っ!」
ユトリロが、私の右人差し指を噛みました。
噛んだと言っても、じゃれあいのはんちゅう、実際そんなに痛くはなかったのですが、噛んだことはダメなことだから、私はユトリロの狭い額を、軽くポンと叩いてやりました。
ユトリロは、けれど全然懲りもせず、酔っぱらったお父さんみたく、だらしなく教科書の上に寝そべり続けるのです。
私は、もう次のように解釈することにしました。
ユトリロは、私に勉強させたくないのだ、と。
「……もう、仕方ないなあ、ユトリロがそれを望むなら、私はそれに従うまで」
もとより乗り気じゃなかった私は、全てをユトリロはのせいにして、テスト勉強を始める前に打ち切ることに決めました。
そうと決まれば、もう寝ます。
鏡を見るのが、私が眠る前にかかさず行う儀式。
モデルのようにポージング――なんてよっぽど自分に自信があるか、勘違いじゃないと出来ません。
私はただ、鏡に映る、私のおでこを見るのです。
私のおでこは、とっても広く、つるんとゆでたまごみたいで、友達はみんな、カワイイカワイイとか言って、ペシペシ叩いてくれますが、カワイイなんて絶対ウソ!
このおでこが、私の数あるコンプレックスの中の一つです。
鏡に映る私のおでこは、当たり前だけど広いまま。
私はため息一つ吐き、部屋の明かりを消すと、カーテンの切れ間から、月明かりが射し込んで来ました。
カーテン越しにちょっと外を覗いてみると、真ん丸いお月様が見えました。
今宵は満月なのでした。
カーテンをぴったり閉めてから、私はベッドにもぐり込みました。
「ユトリロ、おいで」
トンと着地の音がして、それからベッドが沈むのが目を閉じていても分かりました。
ここだと思ったところに手を伸ばすと、そこには気持ちよい毛並みがあって、なでてあげると、ユトリロは、ゴロゴロとのどを鳴らすのでした。
ユトリロは、もちろん絵描きでもなければフランス人でもありません。
私のユトリロは、ネコです。
オスの黒ネコ。
もう十年も前にお父さんが、ちっちゃな黒ネコを、拾って来たのでした。
その黒ネコに、『ユトリロ』と名付けたには他ならぬお父さんでした。
響きの良い名前で、私はとても気に入っています。
だけど最近、その名前が、『モーリス・ユトリロ』という画家から取ったものだと知って、私の心中は複雑です。
黒ネコなのに、何でユトリロなのでしょう? ユトリロと言えば白なのに……。
そもそも『ユトリロ』って、セカンドネームじゃないですか!
ずっと名字で呼んでたなんて、全く私の心中は複雑です……。
私はユトリロの毛並みをなでながら、ユトリロのゴロゴロを聴きながら、いつものように、ゆっくりと眠りに落ちていくのでした……。
変身
鼻がムズムズします。
この感じは、何度も味わったことがありました。
ずばり、ユトリロのしっぽです。
そっと目を開けてみると、思った通り、ユトリロのしっぽと、後ろ姿がはっきり見えました。
けれど、あれ? 一つ疑問が湧きました。
満月の夜だといっても、カーテンはちゃんと閉めたはずだし、ユトリロは黒ネコ、そうして私は鳥目がち……。この暗闇の中から、ユトリロを切り取ることなんて不可能なはずなのに、はっきりと、ユトリロの姿が見えたのです。
何でだろうと思う間も、ユトリロのしっぽは私の鼻を絶妙にかすめ続けます。
私は、ユトリロのしっぽをぎゅっと握ってやろうと手を伸ばし――我が目を疑いました。
私の目に飛び込んできたのは、当然私の手のはずなのですが、それが私の手、というよりそもそも人の手ではなくて、どう見ても、これはネコの手なのでした!
真っ白で艶やかな毛並みに、ピンク色の肉きゅう。
「……」
状況を一旦整理してから、とりあえず、私は悲鳴をあげました。
「きゃあああああ!」
私の悲鳴に反応し、ユトリロが、首だけ振り返りました。
「やあ、やっとのお目覚めだね。ルナちゃん」
それはユトリロの声でした。
もとよりユトリロの声なんて聞いたことあるはずないのですが、もしもユトリロが喋れるなら、きっとこんな声だろうなって空想したことは何度もあって、その声が、今まさにユトリロの方から聞こえてきた訳ですから、私は、今の声はきっとユトリロの声に違いないと確信してしまったのです。
それでも、やっぱりネコが喋るだなんて非常識極まりないので、私は一応訊きました。
「ユトリロ、あなた人の言葉、喋れるの?」
するとユトリロは、こちらに身体を向け直してネコらしく座り、ちょっとキザったらしい口調で言いました。
「ルナちゃん、それはちょっと違うね。僕が人の言葉を喋ったと言うより、君がネコの言葉を理解したといった方が、適切だ」
「……」
私はゴクンとつばを飲み込んで、
「……それって、つまり私が(私は、わくわくしながら)ネコになっちゃったってこと?!」
ユトリロは、大きく頷きました。
なんだか、ユトリロの様子が訳知り顔に見えたので、
「どうして私、ネコになっちゃったの?」と私は訊きました。
ところがユトリロは、なんだか困った顔をして、
「どうしてって、僕に聞かれても、困るなあ。だってこれは、要するにルナちゃんの夢なんだから」
「夢! 私の?」
「そう、夢。大方、おでこのことばかり気にしているから、猫になっちゃう夢なんて見ちゃってるんだと僕は思うな」
「どういうこと?」
「猫の額」
そう言って、ユトリロはクックと笑うのでした。
「ユトリロ、あなた、このっ」と私が右手を振り上げると、
「なんだか、招き猫みたいだね」と言って、なおユトリロは意地悪そうに笑います。
「もー、あなたって、案外ヤな性格なのね」
「だって、ネコだもの」
スゴく、説得力のある一言でした。
それで二匹して笑い合い、ともかくもこれが夢だと理解した私は、ふと自分の姿を鏡に映して見てみたくなりました。
自分の背丈ほどもあるベッドから、ためらいもなく音もなく私は飛び降りて、すまし顔で、尻尾をピンと立て、鏡の前までキャットウォークしました。
鏡に映る自分の姿に、私は生まれはじめてみとれてしまいました。
ネコの私の、瞳の色はほおずきのように赤く、毛並みは、アルピノみたいに純な白。
私は鏡の前で、立ったり座ったり、いつもユトリロのするように、背を向け、首だけちょっと振り返って見たり、色々なポーズを取りました。
それから、私は異性に求めるように、うきうきしながら、ユトリロに聞きました。
「ユトリロ、どう、私?」
「可愛いよ。特におでこが広いのが良い」
「うわ、ひっど」
「いやいや、素直な感想だよ。ネコはみんな額が狭いからね、むしろネコの間じゃ、おでこの広い方が可愛いんだよ」
「……やっぱり私の夢ね。私にとってすごく都合が良いんだもの」
「まあ、それを言ってしまってね……」
ユトリロ苦笑いを浮かべて後、
「――ところで、これからどうする?」と言いました。
「どうするって?」
「これは、今宵ルナちゃんの見ている夢なわけだから、ルナちゃんは、朝が来ればルナちゃんは、間違いなく人間の姿で目を覚ます――」
「はあ」
「――だから、もしもルナちゃんがもうネコの姿だなんて飽きちゃった、こんな夢もう見たくないって言うんなら、僕がいっそ一思いに、可愛らしく寝息を漏らすその鼻を一噛みして、今すぐにでもこの夢を終わらせてあげることも出来る――」
そこまで言ってユトリロは、顔色をうかがうように私を見ました。
「うーん、難しいところね。鼻を噛まれるのはごかんべんだけど、さりとて夜もすがら、鏡を見るのもどうだろう? このまま何もないのなら――でも、もしもユトリロが、私に何かしてくれるっ言うのなら、この夢を、もう少し見続けるのも、やぶさかではない」
そう言って、今度は私がユトリロの顔色をうかがいます。
「実は今宵、満月の夜、ネコの集会が開かれるんだ」
私は、もう少しこの夢を見続けるのことに決めました。
出発
ユトリロ専用の出入り口を通って、私たちはベランダに出ました。そうして、欄干の隙間を身をくねらせて潜り抜け、屋根の上に降りました。
薄墨色の空には、堂々と金貨みたいな満月があります。
「ルナちゃん」
「うん?」
「飛ぶよ」
ユトリロはそう言うと、ちゅうちょなく宙に飛びました。そうして、わずか十数センチ幅のブロック塀に、体操選手顔負けの、揺るぎない、見事な着地を決めたのでした。
私は、思わず拍手を贈ろうとしたのですが、残念ネコの手じゃ、それは叶いません。
「感心してないで、次はルナちゃんの番」
「え?」
「え、じゃなくて」
「いやいやいや無理ですって」
「大丈夫、飛べるって」
事も無げに言うユトリロに促され、私はちょっとだけ、屋根から身を乗り出した結果、一つの結論に至りました。
「やっぱり無理。私帰宅部だもの」
「ネコだったら、飛べる。ルナちゃんは、今ネコだ。だから、ルナちゃんは飛べる」
私は苦笑しました。まさかユトリロに、三段論法で攻められるとは、思いもよりませんでした。どうも覚悟を決めるしかなさそうでした。
運動オンチの私でしたが、ネコの運動神経にかけて、勢いよく、屋根を蹴りました。
着地、しました。
「……」
「どう?」
ユトリロが、私の顔をのぞきこみます。
「どうって……なんとも無かった。あんな高いところから飛び降りたのに、私なんとも無かった。なんだか、拍子抜けしちゃった」
「だから言ったろう、ネコなら飛べるって。これくらいの高さ、ネコにしてみれば朝飯抜きじゃなかった朝飯前、飛べて当たり前なのさ」
「でもユトリロ、ネコなら飛べるって言ったけど、本当かしら? サツマはきっと無理だと思うけどな」
「サツマ?」
「三丁目の廃墟ビルのところに住んでいる、メスの黒ネコ。すっごくぶくぶく太ってて、まるで黒ブタみたいなの」
「それがどうしてサツマ?」
「知らない? 黒ブタってサツマイモを食べさせるんだよ。あの風格からして、きっとサツマは、この辺りのボスね。あなたのことヨロシクって私、サツマに給食の残りのパンとかあげてるんだから。でもそのもらう態度が、すっごくふてぶてしいの。まるで朝貢の品を受け取る、女帝みたいなの。私、あの廃墟ビルのこと、サツマ御殿って呼んでるんだから」
「でもルナちゃん、ネコの世界じゃよっぽど特別な事情でもない限り、メスはボスになれないんだよ」
「そうなの?」
「でも、それは人間社会でも同じだろ?」
「なんかとげのある言い方ね」
「とんでもない、僕はフェミニストだよ」
フェミニストだったら、先ほどの鏡の前での一件はどうでしょう、だから私は言いました。
「ユトリロ、嘘つきは泥棒の始まりよ」
「もとより、僕はネコだから」
「どういう意味?」
「泥棒ネコ」
「……」
「納得したね?」
しちゃいました。
「じゃあ行こうか」
ユトリロは、ピンと尻尾を立て、歩き始めました。
「ちょっとユトリロ。まさかわざわざブロック塀の上を歩いて行くわけ?」
「そりゃ、そうでしょう。まさかネコがとことこアスファルトの上を間抜けに歩くとでも思ってるの? 犬じゃあるまいし、それは、ネコのプライドが許さない」
「……そういうもん?」
「そういうもん。じゃあ、今度こそ行くよ」と、ユトリロは尻尾で私を手招き――尾招きしました。
「……うん」
私は不安でした。さっきの見事な着地は、いわゆるビギナーズラックかもしれません。何せ、運動会の障害物競争の平均台渡りすら何度も落っこちてやり直ししてしまう私ですから、いつなんどきブロック塀から足を滑らすんじゃないかって、気が気じゃありませんでした。
けれど、ものの数分もしないうちに、そんな不安は嘘のように消え失せて、ひょっとしたら私、前世はネコだったんじゃないかって思えて来たのですから、おかしなものです。
「ねえユトリロ、私ってもしかして、前世はネコだったりして」
思ったことをそのまま口に出してしまうほど、私は上機嫌でした。
「どうだろう? 僕は霊媒師じゃないから、ルナちゃんの前世は分からないけれど、そんなバカなことばっかり考えて、ブロック塀から落っこちたりしないでよね。そうでなくともルナちゃんは、寝相が悪いんだから」
「どういう意味よ」
「ブロック塀から落っこちるとどうなると思う? ルナちゃんは、きっと目を覚ます。それもベッドから落っこちた状態で」
「もー、あなたって結構性悪なのね!」
「だって、ネコだもの」
どうやらユトリロは、そのフレーズをよっぽど気に入ったみたいでした。
テスト
満月を頂いて二匹、一列にブロック塀の上を歩きます。
「ねえ、ユトリロ」
「うん?」
「ネコの集会って、どんななの?」
「すっごく現実的で、実務的な事を話し合う。みんなしかめっ面で、まるでPTA集会みたい」
「うわああ……ファンタジーのカケラもない」
「ネコの社会もね、色々大変なのさ」
「そうかしら、ネコってみんな、どうしようもないくらい怠惰な生活を送っているような気がするけれど。特にユトリロあなたを見てると」
ユトリロは笑いながら、
「うん、まあ僕にかんしては有閑階級。飼い主に恵まれたんだね」と、お世辞を言います。
「もう、おだてたってなにもでないわよ」
「そんなつもりじゃないさ。本心だよ、本心。ルナちゃんは、本当に良い飼い主さ。それが証拠に、今夜、疑うもせずに僕に付き合ってくれているのだから」
「? どういうこと?」
「いやいや、こっちの話。とかなんとかいってるうちに、ホラ、見えてきた。あそこで集会が行われる」
それは――
「サツマ御殿」でした。
「何か?」
「うーん、なんだろう、ネコの集会っていうからもっとこう、神秘的な場所――せめて神社の境内とか、ほかにあるんじゃないかなあ?」と、私が不満を言うと、ユトリロは笑いながら、
「神社はダメさ。あそこはキツネの管轄だからね」と答えました。
それから私たちは塀を降り、ユトリロ曰くみじめに横断し、門の隙間からビルの敷地内へと入りました。
けれどそこは、ネコの集会が行われるという割には、あまりに静かで、私たちは以外にネコの姿はなくて、本当に単なる廃墟ビルに過ぎないのでした。
「……ねえユトリロ、本当にここなの? 場所間違えたんじゃない?」
「いや、ここで良いんだ」
ユトリロの口調は、断言するような強い口調でした。
「……そう? なら良いんだけど……」
「にゃああああ」
不意にユトリロは、ネコのように鳴きました――て、ユトリロはネコなのでした。
「来たかい」
背後から聞こえた無愛想なその声は、私のいつも想像していた、サツマの声とそっくりでした。
「サツマ?」
振り返ると、やっぱりサツマでした。けれど、何故だかサツマのしっぽが二本ありました。
「あれ、しっぽが二本ある」
「猫又だよ」とユトリロが言います。
「ねこまた? あの、十年生きたネコがなるって言う?」
「そう」
「サツマ、猫又だったんだ」
「その声は、たまにパンを献上しにくるお嬢ちゃんか。これは驚いたね、あんたがユトリロの飼い主だったとはね」
「……やっぱり、献上品て思ってたんだ……」
「しかし、それにしてもお嬢ちゃん、よく来られたものだね。下手すると、一生ネコのままだと言うのに」
「え?」
「おや、あんたなにも聞かされていないのかい?」
「どういうこと? これからネコの集会があるんじゃないの?」
サツマは笑いながら言います。
「あっはっは、あんた、そこの黒ネコに、まんまと騙されたね。なるほど、そう言う点じゃ、お前は充分に素質はありそうだ」
「ユ、ユトリロ?」
私は、不安げにユトリロを見ました。
ユトリロは、深刻そうな面持ちでした。
「ルナちゃん、実は今夜、君をネコの姿にして、ここに連れてきたこと――全ては、僕のわがままなんだ」
「どういうこと?」
「僕は拾われの身だから、ルナちゃんは僕の正確な誕生日を知らないだろうけど、僕が生まれたのは、実は今日なんだ。僕は今日、十歳の誕生日を迎えた」
意外な事実を知らされて、私は驚きながらも、素直におめでとうを言おうとしました。
けれどユトリロは、私の言葉を遮って言いました。
「まだ、その言葉は言わないで。お願いだから、今は僕の話を聞いて」
「う、うん。分かったわ」
「……いにしえから、ネコは十歳になると、ネコまたになる。人の言葉を話せたり、不思議な力を操ることが出来るようになる」
「……じゃあ、ユトリロもそうなるの?」
「……まだ、分からない。今夜、僕はそのテストを受けるために、ここに来たんだ」
「テスト? 十歳になれば、ネコはみんなネコまたになれるんじゃ?」
「昔はね。でも今は事情が違う。昔は、たとえ飼いネコであっても、十歳まで生きられるネコは稀だった。いわんにゃ……いわんや野良ネコをや。つまり十歳まで生きられるネコは、それだけで、ネコまたになる資格充分だったんだ。ところが近年状況は一変し、医療の進歩、栄養事情の飛躍的向上から、飼い猫であれば、そのほとんどが、十歳以上生きられる世の中になってしまった……。じゃあ野良ネコはと言うと、人間がだらしなくなってしまったおかげで、やっぱり食べ物には困らない。だから今の世の中、本来ならその資質のない、飼いネコも野良ネコも十歳の誕生日を迎えることが出来るようになってしまった。だから、十歳になったネコは、ネコまたになる資格があるか、テストされるんだ。意外とネコの世界も、資格が大事なのさ」
「……もしもテストに不合格なら、どうなるの?」
「ルナちゃんの明日――ああ、もう今日になるね、今日の英語のテストみたいに、追試でもあれば嬉しいんだけどね。でも、ネコは並べて非情で、めんどくさがりな動物なんだ。テストはきっかり一度だけ。これに落ちたら、それでおしまい、二度とネコまたにはなれない。だからルナちゃんも、追試はありがたく受けないとね」
「なに? 今日の英語のテスト、私は追試決定なわけ?」
「いや、あんたはそもそもそのテストすら、受けられないかもしれない」と、サツマは言いました。
「え?」
「さっきも言っただろう、下手すりゃあんたは一生ネコのまんまだと」
「あ……」
「まあ、安心おし、そこの黒ネコが、無事テストに受かれば済むことだ。無事にね」
「どういうこと、ユトリロ?」
「……ネコまたになると、ネコの社会での地位が恐ろしく高まるんだ。僕みたいな飼いネコが――人に飼われ、何不自由なく安穏と暮らしているくせに、その上ネコまたなんかになってごらんよ、野良たちに、嫉妬される。そうでなくても、ネコは嫉妬深いんだから。だから、僕みたいな飼いネコが、ネコまたテストを受ける上で――一つ、条件がある――」
「条件?」
黙りこむユトリロ――に代わって、サツマが後を継ぎました。
「飼いネコは、テストを受けるために、その担保として飼い主を差し出す義務がある。つまり、あんたをね」
「!」
私は、ユトリロを見ました。ユトリロは、小さく頷きました。
「今夜眠りに就く前に、こいつが、あんたの指を噛んだだろう?」
「そういえば……」
「あれで、あんたをネコに変えたのさ。私が、そうなるようユトリロに術をかけたのさ。しかし、まああんたも気の毒だ。何せ騙されて連れてこられたんだから。私にしても、献上にやってくる人間を一人失うのは惜しいからね。あんたが嫌だと言うのなら、テストをよしてやってもいい。もっともその場合は、違約金という形で、ユトリロの命をもらうけどね」
「そ、そんな……」
「ルナちゃん、ごめんよ、騙して連れてきたりして。でも、僕はどうしたってネコまたになりたいんだ。……僕は、ルナちゃんがどんな女の子かよく知ってる。僕がテストを受けなければ、君は明日の朝、今夜のことはすっかり忘れ、目を覚ます。そうして、僕の居ないことに気付くだろう。ネコは、飼い主にそれをさらすのを嫌うから。ルナちゃんは、僕が居なくなるのは嫌だろう? だから、ルナちゃんは絶対に僕にテストを受けさせてくれる。僕はそれを分かってる。そうして、僕がテストに落ちて、ルナちゃんが一生ネコのまんまで暮らさなければならなくなったとしても、何の文句も言わないことも、分かってる。僕もネコなんだ。非情なネコなんだ。自分の目的のためには、飼い主だって騙せちゃう。僕は、ネコまたになりたいから」
「……もし、ユトリロがテストに不合格で、私が一生ネコのまんまだとして、落ちたユトリロはどうなるの? まさか死んじゃうとか?」
「いいや、野良ネコになるだけだけど……」
「それじゃあもう一つだけ、ユトリロは、どうしてそんなにネコまたになりたいの?」
そう尋ねる私の心は、自分でも呆れるくらい、静かで穏やかでした。
するとユトリロは、はにかみながら、
「だって、僕はもっとずっと長く、ルナちゃんと一緒にいたいから」
私は、くすりと笑って、
「そうやって、また私を騙すんだ?」
私には、これが夢だと分かっています。
ユトリロも、くすりと笑って、
「うん、僕はネコだから」
「分かったわ。飼い主として、騙されてあげる。頑張ってテストを受けなさい」
「どうやらお前の飼い主は、本当のお人好しのようだね。気に入った。ユトリロがテストに落ちてあんたがネコのまんまで暮らすことになったら、あんたの婿を世話してやろう。あんたはおでこが広い美ネコだから、そうだねえ、あたしの甥っ子なんてどうだい?」
「おあいにく様。そうなったら、私はユトリロに面倒みてもらいますから」
私は、舌をだしてやりましたが、おでこが広いのがネコの世界じゃ美ネコだと分かって、ちょっと得意でした。
「おやそうかい、残念だね。まあ良い、話は決まった。ユトリロ、中へお入り。もちろん、お前一匹でね」
サツマがそう言うと、ドアがひとりでに開きました。
「じゃあルナちゃん、行ってくるね。ああ、それから――See you later,my mother」
「Good luck」
「え、マイマザーって、もしかしてサツマってユトリロの? いや、て言うか二匹して――」
エピローグ
「何で英語!?」
ジリリリリリリリリと、目覚ましが、鳴ってました。
私は、手をかざしてみました。
いつもの、私の手でした。
むくりと起きて、目覚ましを止め、私は痕跡を探してみました。
当然、何もありません。
白い毛の一本でも見付ければ、私はきっと小躍りしたでしょう。
けれど当然何もない。
ただ私の隣には、ユトリロが、いつものように丸くなって眠っているだけです。
何だか、ほっとしました。
そっと頭を撫でてあげると、ユトリロはビクッとして、それでも私の手だと分かると、安心して私に身を委ね、あとは撫でられるがままでした。
ゴロゴロゴロゴロ、ユトリロの喉が鳴っています。
私はふと呟きました。
「ユトリロ、お誕生日おめでとう」
私は苦笑しました。
それから、今日の英語のテストのことを思い出し、
「あー、だからユトリロ、英語だったんだ……」と、納得しました。
「……追試かあー」
私の中では、追試確定です。
私は、大きく溜め息を吐きました。
そんな私をお構いなしに、ゴロゴロゴロゴロと、ユトリロはただ気持ち良さそうに、喉を鳴らすのでした。
おわり
ユトリロと満月の夜
想定通り、ほぼ一万字で書き終えました。
自分としては、それなりにまとまった方だと思うのですが、いかがでしょう?
何より、まがりなりにも最後まで書き切った訳ですから……。