わすれない
「消耗品」が増えている
すぐつかえなくなるのがその特徴
永久に使える機械はないので
すべての道具は「消耗品」であるともいえる
以前はなんでも直してつかっていた
ズボンにシャツに靴下に靴
テレビやラジオもそう
衣服の破れや穴のあいたところは針と糸でパッチをあて
テレビは電気屋さんが家へ来てハンダゴテとテスターで修理調整をやる
どんなふうに壊れかけたものをなおすのか勉強になった
電気製品の内部をみれるのも興味がわいた
ものを大事にする大切を学び
そしてなにより新品を買うより安かった
そして半世紀たったいま
衣服も電気製品も「消耗品」になり下がった
ものとしての「格付」が低下したのだ
まわりをみても服を修理して着ている人はおらず
修繕する手間暇をかけるのだったらみんな新品を買う時代
昔「雑巾」は家にある古着を利用したが
今はそんなものを家に保管してないので店に買いに行かなければならない
電気製品も修理に出すくらいだったら
新品を買ったほうが安い
そして古いものはゴミ箱へ
人までも「消耗品」あつかいになっている
人が身にまとっているものや
工場で作られている人が使ういろんな製品だけでなく
人そのものが人の道具になってきているのだ
「会社は人あってのもの」といわれたのがフェードアウトしてもう久しい
単なるキャッチフレーズかもしれなかったが
いちおう人は威厳のある尊い存在だったんですそのころは
そんな悠長なことがいわれなくなると今度は
全人格の「人」さまから「手」だけもぎ取って
「手」としてだけの役割を期待されるようになった
ようするにだれかの命令をうけて作業だけをうけもつ役のひとである
これはもちろん「手」を最大限有効につかおうとする「頭」だけの人間がいることも意味する
人格の解体がおこりはじめたといえる
このとき「人」がいろんな仕事を分けて専門におこなう「道具」になったといえる
「人」の消耗品化のはじまりだ
産業界ではこれを「分業」とかいって効率化をねらったものだとか
「学歴」によりしょうがないとか時代の流れだとかいってきた
作るものがどんどん複雑で高度になってきたのも原因
そしてまたしばらくすると働く人の「人種」をわけだした
会社の人とそうでない人で「会社員」と「派遣労働者」
「…員」と「…労働者」ではだいぶ意味合いがちがう
前者は給料をもらっているひと
後者は仕事があるときだけよばれるひと
前者は恒常的
後者は一時的
前者は管理的
後者は道具的…
なんかインドのカースト制度とか
儒教や江戸時代の士農工商をおもいうかべるが
どちらも心地よくきこえる言葉ではない
万人の「人」としての尊厳をそのような階級社会のなかで公平に担保することはできないから
まず全人格の人があってその人が仕事をつくってそれをいろんな職業にわけてやってもらっている
というかんじではなくて
まず当局の設定する職業の階級があってそれにむけて人種をふりわけている
というかんじ
こんなふうになったのは今の偏差値教育をみてもわかる
個人をひとりの「人」としてみるのでなく
あらかじめ当局が定めた指標の統計的分布のなかで
自分はどんな能力がどれほどあるのか判断され進学校が決まる
自分の学びたいものを選択できるということはかならずしも期待されてない
同じ日本人なのに
それをさらに細分化するような新たな「人種」をつくりだして社会の構成員をシャッフルしあてはめ
それを新たな刺激として社会をなりたたせようとしている
自分のやりたい仕事をたすけてくれるやらしてくれる
ということではない
そのようなシステム
そのような社会構造
それを維持し強化するのがそもそものねらい
なぜかというと管理しやすいから
大胆なことをやりましたね日本も
その発端は1992年のバブル崩壊かもしれない
いままでやってきた社会的枠組みを捨ててあらたな枠組みで社会を復興させる
そんな大手術が必要だったはずです
「道具化」する人
あらたな「人種」による人のふるいわけ
その背後にある管理社会の統制と監視の強化
このままでゆくとこの次に人は人になにをしそうかとか
それで将来の社会はどうなっているかと想像すると
楽しくなくなってしまうんですが
だいじょうぶです
人が人であることをわすれない
それができればだいじょうぶ
自分が人であることをわすれない
他人も人であるということをわすれない
そして地球上のすべての人も人であるということをわすれない
たぶんわすれないはずです
わすれない