君ドロップス
2014年3月。高校二年終わりの春休み。受験地獄の一年を迎える前の少しの休息にと、ライブに行った。大好きなTRIPLANEの、渋谷でのライブ。悪友のトオルと二人で。しっとりとしたバラードから始まったそのライブは、二曲目ですぐにヒートアップした。リズムに合わせてそこにいるみんなの体が自然と揺れていた。俺だってそうだ。いつもはヘッドフォンの中の世界が、この空間に満たされてる。兵衛さんの声が心地よくなって、メロディに乗りながら自然と笑顔になれる。そこそこ前のほうの場所を陣取ってトオルと、それぞれにその時間を楽しんでいた。ライブの中盤、[raspberry]を聴いていた時だ。斜め前の女の子が気になった。なんとなく、周囲の動きとズレはじめた彼女がやけに視界に入る。そしたらやっぱり、思ってたとおり。彼女がふらっとよろけた。自然と手が出て、俺は彼女の体を受け止めていた。
「すみません!」
顔を上げて彼女は立ち上がろうとしたけれど、上手く立てないみたいで。ちょうど、盛り上がっていた俺たちの周辺の人の波がステージに向かって押し寄せていて、彼女はそれに飲み込まれそうになったのだ。ちらっと気にしてこちらに目をやりつつも、ステージに視線を戻す人が多かった。みんな、世界に引き込まれ過ぎているんだ。俺だってそうだったけど、不思議と気になって彼女をちらちらと見ていて、こうなった。
「大丈夫?」
「はい、すみません」
何度も謝る彼女を抱き寄せて、立ち上がらせる。その頃には次の、ゆったりとした曲に変わっていた。その間に彼女の立っていた場所はすでに違う客に埋められていて、その後ずっと、彼女は俺の隣に立っていた。俺の、肩ぐらいの背の小さな彼女は、それから俺と同じリズムで体をメロディに乗せていた。周囲もみんな同じリズムなのに、なんでだか隣のその彼女が気になった。狭い空間の中で、時々彼女の肩が、長い髪が、俺の腕に触れていたからかもしれない。
なんとなく左に目をやる。さっきの彼女は胸のあたりで両手を組んで、ステージをじっと見つめていた。ゆっくりとメロディに頷くようにして聴いている彼女のまつ毛が時々瞬きをする。兵衛さんの歌う、曲のサビの歌詞がふっと耳に入ってきて、俺もステージに目をやった。[雪のアスタリスク]。好きな曲だったけど、こんなに優しい気持ちで聴いたのは初めてだった。
ダブルアンコールで盛り上がり、終わりを迎えた彼らのライブの後。余韻に浸りつつステージに残る熱気を感じてトオルはやけに盛り上がっていた。
「もう!最高!明日からまたがんばれる!」
オフィシャルのTシャツにマフラータオル、腕にはリストバンド。形から入るタイプのトオルはいつも、グッズを買い込んでは身に着けて参戦する。俺は、どちらかというとその逆で、ふたりでいるとまるで俺は付き添いみたいな感じだ。
「出るか。なんか食ってく?」
「そうだなあ、ラーメン行かねえ?」
預けていた荷物をロッカーに取りに行った。俺は小さなボディバッグひとつ。トオルはいろいろ荷物持ってき過ぎ、大きめトートバッグがパンパンだ。帰る準備をしていると、足元にロッカーの鍵が転がって音を立てた。なんとなく拾い上げて飛んできた方向を見ると、さっきの彼女だった。
「すみません、それ、・・・あ」
「よく会うね、はい」
「すみません、あの、さっきはありがとうございます」
そう言って鍵を受け取って、彼女はふたつ隣のロッカーに鍵をさした。
「ひとり?」
「あ、はい」
「そうなんだ?よかったよね、今日のライブ」
「うん、すごく」
そう言った彼女はさっきまでと違い、すごい笑顔で。
うわあ・・・可愛い。
思わず俺もすごい笑顔を作ってしまった。さっきまでは暗くてあんまりしっかりと顔が見えてなかったんだけど、胸のあたりまであるふわふわの髪、眉毛の少し下あたりで揃った前髪の下から見上げるように覗く彼女の視線から目が離せなかった。
「なに?知り合い?」
俺の肩に手をやると、背後からトオルが覗きこんだ。
「中で、ライブん時俺の隣に居たんだ、彼女」
「へえ」
軽く会釈をすると、彼女はロッカーからバッグを取り出してロッカーのドアを閉めた。
「あ、よかったら、一緒に食いに行かない?ラーメン」
「え?」
「今からトオル、あ、こいつと食いに行くんだけど。よかったら」
彼女は、俺とトオルの顔を交互に見ながら、考えているようだった。
「って、行かないか。初対面の男ふたりとなんて、ね。ごめん」
「そりゃあ、行かないでしょ。ナンパだよ、これ」
「え?そんなつもりじゃないよ、ごめん、ほんとに」
彼女にそう言って謝ると、クスッと笑った。
「一緒に行ってもいいですか?ラーメン」
駅前までの道のりにあるラーメン店に三人で入って、俺とトオルが隣同士、そして彼女は俺の前に座った。座るといっそうわかる。小さいんだ、彼女。ちょこんと座って、まだ慣れない俺たちとの雰囲気を伺っている感じだ。
「ねえ、名前なんての?俺は大井戸徹。こいつ、時田瀬名」
勝手にトオルが俺の分も一緒に自己紹介をした。
「あ、竹井、梨香です」
「いくつ?」
「おい、トオル!いろいろ聞きすぎ!」
横から突っつくようにちょっかいを入れるとトオルは拗ねたみたいな顔をした。
「今度高三」
「え?まじ?俺たちも、な?」
「うん」
「どこの学校?」
他愛もない自己紹介みたいな会話が続いて。ちょっとしたら注文したラーメンが三つ、運ばれてきた。ずるずると音を立てて豪快に食べる俺たちと違って、彼女は蓮華を器用に使って静かにラーメンを食べる。その間特に会話はなくて、目の前で静かにラーメンを食べる彼女に時々視線を移すと、変に緊張した。トオルはというと、変わらずずるずるとラーメンをすすっていた。
ラーメンを食い終わると、トオルは徐にスマホを取り出すと、まだラーメンを食べている俺の肩をぐっと組んだ。
「なに?」
「証拠写真、撮るから食うの待て」
「はあ?」
箸を持ったままの俺と肩を組むトオルが入るようにスマホのカメラのモードを調整すると、トオルはシャッターを押した。
「またアカネさん?」
「はい、アカネさん」
箸を止めたままこっちを見ているだけの彼女に俺は説明をした。
「トオルのね、彼女がけっこうな心配性でさ。いつもこうやって、何処で何してるのか写メ撮って送ってんの、こいつ。さっきもライブ始まる前に入り口で撮ったんだよ。面倒くさいでしょ?」
「はあ・・・」
「あ、もしかして竹井さんもそういうタイプ?」
「私は、別に。そこまでは」
「なんかアリバイ工作に参加させられてるみたいで気が引けるんだよね、毎回写メってるけどさ」
「そういう言い方すんなよ。アカネさんちょっと束縛し過ぎだよねえ?まぁ仕方ないんだよ、俺のこと、好き過ぎちゃってさ」
そう言うトオルはいつもちょっと、嬉しそうで。
「じゃあ俺、帰るわ」
「え?待てよ、竹井さんまだ食い終わってないからさ」
俺とトオルがそんな会話をしたせいか、彼女は慌ててラーメンをすすった。
「すみません、急いで食べるから」
「あ、いいよ、ゆっくりで。ほらあ、トオル!」
「いいじゃん、お前居てやれよ」
「もちろん、居るけどさ」
自分の分のラーメン代をテーブルに置くと、軽く手を上げてトオルは店を出て行った。
「ごめんね、いつもあんな感じなんだよ」
「私、お邪魔だったよね、すみません」
「ほら、また」
「え?」
「すぐ謝るね」
「え?あ・・・」
「話すたびに、すみませんって。いいよ謝らなくて。謝るのはこっちのほうだよ、誘ったのにごめんね。ゆっくり食べていいよ、俺全然急いでないから。それにほら、俺もまだ残ってる」
ラーメンをゆっくり食べながら、ふと思った。
「ねえ、いつもひとりで来てんの?ライブ」
「うん、周りにTRIPLANEのファンがいなくって」
「そうなんだ?今度ある時は一緒に来ようよ」
「え?」
「あ、ごめん、ひとりのほうが、いいっか」
「そんなことないよ。ていうか、時田くんもよく謝るね」
「そう?」
「うん、ごめんって今日何度も聞いた」
クスクス笑う。やっぱり可愛い。そうやって笑われると、照れくさくなるよ。
「そうだっけ、ごめん」
「ほら」
お互い笑いあって。またラーメンをすすった。
「あ、ねえ。セナでいいよ」
「え?」
「呼び方。セナでいいよ。みんなそうだし」
「うん」
その後特に会話らしい会話もなく。俺と彼女はラーメンを食べた。
「じゃあ行こっか」
「うん」
トオルの置いてった小銭と精算の用紙を手に取ると俺はレジに向かった。
「二千四百円になります」
ジーンズの後ろポケットから財布を取り出すと、俺はレジで精算をした。
「はぁ~美味かった」
「あの、時田くん、これ、私の分」
先に店を出た俺の後から出てきた彼女は、小走りに俺の目の前に来ると、財布から小銭を取り出して渡そうとした。
「あ、いいよ。今日は俺が」
「そんなわけにいかないよ」
「なんで?誘ったの俺だし」
「でも、ちゃんと、しなきゃ」
申し訳そうな顔をするので、
「じゃあ次は、おごるね」
そう言って俺は彼女の掌のお金を受け取った。
「俺、東横線なんだけど、竹井さんは?」
「私は山手線」
「そっか、じゃあここでお別れだね」
「うん、あの、今日はいろいろとありがとう」
「こっちこそ、付き合ってくれてありがとね」
じゃあ、またね、ばいばい。
そう言えば終わり。お互い家に帰るだけなのに、向かい合って立ち止まったまま、何も言わず、そう、立ち止まったまま。何か言わなきゃ。着ていたジャケットの両ポケットに手を突っ込んだまま次の言葉を考えて。ふと俺が顔を上げたら、目が合った彼女が言った。
「そうだ。LINE教えてもらっていい?」
「え?」
「連絡先わからないと、次が・・・ないよ」
「・・・うん、そう、だよね。ほんとだ。おごるとか言って。俺ってほんと、ちょっと抜けててさ。ごめん」
「また、ごめんだ。謝った」
「うわ、ごめん」
ごめんって言うたびに彼女は笑って、それから彼女はバッグからスマホを取り出した。お互いアプリを立ち上げて、顔を見合わす。そしてスマホを軽く近づけて振った。新しく登録されたそれは、制服を着た彼女が女友達と二人で写っているフォトで、表示はRikaと出た。
「え、なにこれ」
彼女にそう言われて、彼女の手の中のスマホを覗き込んだ。
「あ、それ。いつも使ってるヘッドフォン」
俺のプロフフォトはヘッドフォンの写真で。それ以外は特に。名前も時田、だし。
「時田くん、今日はありがとう。またLINEするね」
「うん、俺も。あ、セナ、でいいから」
「あ、そうだった。私も、・・・」
彼女の声が小さかったのと、横を通り過ぎた男女グループの声にかき消されて聞こえなかったそれを、もう一度聞こうと俺は体を屈めて彼女に顔を近づけた。
「なに?」
「私も、リカでいいよ」
そう言ってこちらを向いた彼女と目が合って。ドキッとした。でもすごく嬉しかった。俺は彼女を見てニコッと笑った。
「おっけー」
この日を境に、俺の生活がちょっと変わったんだ。
春休みはその後ずっと家にいた。毎日決まった時間に家庭教師がやってくる。息を抜けるのは日曜だけで、そんな日はいつも部屋でぐうたら寝てることが多かった。新学年に上がるまでの宿題とは別で家庭教師が準備したテキストが、デスクの上に山積みだ。ベッドに大きく横になってふと壁際のコルクボードに目をやる。ライブから帰った日に画鋲で止めた、TRIPLANEのチケットが目に入る。いつも、ベッドに寝転がるとここに目が行くんだ。
「何してんのかなあ。・・・リカ。竹井、梨香」
LINE交換したけど、その日にお礼のメッセが来て、それに返信して、それで終わり。その後何も送れず。向こうからも連絡はない。
「運命だって、思ったのになあ」
スマホを握りしめて寝返りを打つ。自分からメッセさえも送れない自分にも歯がゆくなる。あの日はなんとなく会話できたのに。何を話せばいいのか、あらためて考えるとわからなくなる。もし何か上手くきっかけを作れたとして、なんて言葉にしたらいいんだろう。
そしたらまた、目に入ってくるんだ、あの山積みのテキストたちが。
「あぁー!もう!やるよ、やればいいんでしょ」
俺はスマホをベッドに置くと、テキストを開いた。
「終わんのかな、これ。春休みあと三日だけど」
ところが、春休み最後の三日間は死にもの狂いで勉強した。テキスト全部終わらせて、家庭教師地獄から解放された。
「もう勉強したくない」
明日から始まる学校は新学期二日目からいきなり学力テスト。はあー、と大きなため息がでる。でも、一つだけ楽しみがあった。
「リカちゃんに逢える」
実は、やる気の失せていた三日前にLINEが入ったのだ。リカからだ。
Rika「久しぶり」
時田「久しぶり」
Rika「学校いつから?」
時田「明々後日から」
Rika「その日とか、会える?」
時田「いいよ」
Rika「渡したいものあるんだ」
時田「なんだろう、なに?」
Rika「内緒」
可愛いスタンプと一緒に送られてきたメッセージを時々開いては、眺めて勉強した。
高校三年になって、校舎の四階が教室になった。俺と、トオルも、同じA組で。校舎の一番端にある階段を上がってすぐだ。俺とトオルは、その階段を上がってすぐの廊下を初日に陣取った。たぶん、このまま一年、ここが俺たちの休み時間の居場所となる。一年の時も二年の時もそんな感じ。初日に居座った場所がそのまま自分たちの居場所になる。窓から覗くと正面にウッドデッキ、隣にはメインアリーナやカフェテリアのある講堂が見える。そこから左手にグラウンドへと続く長い歩道になる。そんな景色の見える、廊下の窓の枠に頬杖を付いて外を眺める。
「で?今日会うってのはどういう理由で?」
「わかんない、渡したいものがあるって」
「ふーん」
「なんだよ」
「いつの間に自分だけLINE交換とかしてるかね、こいつは」
「あの日トオルが先に帰るからだろ?」
「最初っから狙ってただろ?セナ」
「はあ?なんで!?」
「あの子はどう見てもセナのタイプ」
「ええ?違うよ」
「違わないね、初等部から俺ずっとセナと居るんだぜ?わかるよ」
正直、あの日会ってすぐに気になって。可愛いって思って。えっと・・・。制服の胸ポケットからスマホを取り出すとLINEアプリを立ち上げる。表示されるリカのフォトを眺める。ピースサインで写る彼女はやっぱり可愛い。
初日は二時限で終わった。帰ろうとするとトオルが背中を通学バッグで叩いた。
「Good Luck!」
「うるさいよっ」
振り向くことなく手を上げて教室を出て行くトオルを見送ると、俺はスマホを取り出してLINEアプリをまた開く。
時田「今終わったから行くね」
すぐに既読にはならなかった。返事がないから、アプリを閉じてスマホを胸ポケットにしまおうとしたらスマホが振動した。慌てて開くと、リカからだった。
Rika「私ももう行けるよ、待ってるね」
文字を見つめながら笑顔になる。で、教室にまだ残っている他のやつらの目が気になった。何をニヤけてんだか、俺は。誰も俺には気づいてなくて、大きく深呼吸すると、返信の代わりにスタンプを送った。
待ち合わせていた場所に行くとリカはもう待っていた。
「ごめん、遅くなって」
そう言うと、横に首を振りながら笑顔の彼女は、LINEのアイコンと同じ制服姿だった。そして走りよる俺をじっと見たまま何も言わないので不安になった。
「だいぶ待った?ごめん」
「あ、ううん」
そう言って、笑う。
「また謝ってる、セナ」
初めてリカの口から呼ばれた[セナ]という言葉にドキンとする。そう呼んでって言ったけれど、ちゃんと呼ばれるのは初めてだ。だって、あれ以来会ってないし。
「はは、ごめん」
「ほんとに、A大付属の制服なんだね」
「え?」
足元からずっと見上げるようにリカが俺の姿を見ていた。
「私、バカだから。一緒に居るの、恥ずかしい」
「え?なんで?学校とか制服とか関係ないじゃん」
確かにあの日、学校どこ?とトオルが聞いて、彼女が答えた高校はどちらかというと問題が多いので有名な学校で。彼女のほうは、俺たちの高校名を聞くと驚いていた。
「ちょっと連絡取るの、どうしようかと思ってたんだ」
「なんで?」
「なんか、相手になんてされないかなと思って、進学校じゃん?」
「そんなことないよ、何言ってんの。ちゃんとこうして来たよ、俺」
「うん・・・」
待ち合わせた駅の改札を出たところで、そんな話をして。この後どうしたらいいんだろうって。なんか、いつもの調子が出ないんだ。ただ、笑顔で彼女を見て、彼女も俺を見て笑って。
「あ、そうだ」
リカが背中に背負ったリュックから何かを取り出した。
「え?」
「SINGLES。DVD持ってないって言ってたでしょ?」
それは、TRIPLANEの去年発売されたベスト盤のCDで。家族がバタバタしていた頃だったから、買いそびれていて。初回限定のものにはDVDが付いているから、もしどこかでそれがまだ売っていたら欲しいんだ、なんて話をしていたのだった。
「見つけたの、たまたま入ったCDショップで。それでセナのこと思い出して、買わなきゃと思って買っちゃった」
「え?まじで?」
受け取ると確かにそれは探していた初回限定盤だった。
「うわ、めっちゃ嬉しい」
「まだ買ってない?」
「買ってない」
「よかったあ」
「ありがとう、めっちゃ嬉しい。あ、お金払うよ」
「いいよ」
「いやいやいや、よくないよ」
「ううん、なんか、プレゼントしたくなったの。もらって?」
「え?でも」
「ほんとに。もらってくれる?」
「もらってくれる?なんて、めちゃくちゃ欲しかったからさ。いいのかな」
「うん、いいの」
「わざわざありがとう」
「ほんとによかった、買っといて」
「あ、今見ていい?」
「え?どこで?」
「どこか座れるとこあればそこで」
「でも、どうやって?」
「大丈夫、これで」
俺は通学バッグから、B5サイズの小さなノートPCを取り出した。
「へえ、そんなの持ち歩いてるんだ?」
「よく調べものするから。思いついたら課題やったりとか、持ってると便利だよって家庭教師に言われて」
「なんか、すごいね」
俺たちは改札の傍のベンチに隣同士腰かけた。PCの電源をONにして、その間にCDのパッケージをあけた。
「めっちゃテンションあがる」
ケースを開いてDVDのほうを取り出すと、PCのディスク挿入口に差し込んだ。
「あ」
俺は首にずっとかけたままのヘッドフォンを外すと、バッグにしまって。代わりにイヤホンを取り出した。PCの接続部にジャックを差し込んで、片方をリカに手渡した。
「はい」
「え?」
「一緒に見ようよ、ちょっと音量上げるから気を付けて」
ふたり体を寄せ合って、真ん中あたりにPCを持ってくる。画面にDVDの映像が映し出される。そして片方のイヤホンから音が流れてくる。
「いきなりスピードスター!」
テンションのあがる俺に合わせて横でリカが笑ってた。
ひと通りDVDを見て。どうしよっか、って俺が言ったのに。思い出した。
「あ、ごめん、明日テストなんだ」
「そうなの?いきなり?」
「だろ?もう慣れたけどさー」
PCをバッグにしまうと、ふいにふたりの距離が気になった。こんなにくっついてたんだ?俺たち。慌てて少し離れて、リカを見るとじっと俺を見ていた。
「テスト前なのに、ごめんね、声かけて」
「なんで?だから謝るの無し、って」
そう言うとリカは笑った。
「なんか私たち、お互い謝ってばっかだね」
「ほんとに」
改札から出てくる人を見送りながら、もうちょっと一緒に居たいなと思った。
「ねえ、昼飯つきあってよ」
「でも、テスト」
「だって腹ペコだもん。どっちにしても昼飯は食わなきゃ勉強進まないじゃん?」
「まあ・・・」
「それに次は俺おごるって言ったし」
ニッコリ笑うリカを見ると、やっぱりまだ一緒に居たいって気持ちが強くなる。俺だけ、なのかな、そんな風に思ってるのは。俺たちの繋がりは、たまたま同じアーティストのファンだったってことぐらいなのかもしれないけれど。
「あ、何食う?食べたいものある?」
初めて二人で逢ったこの日は、一緒に昼食を食べて別れた。
ひとりで図書館に寄って、勉強して。どうせ家に帰っても独りなのに、やっぱり外のほうがはかどるのは性格なのかな。静かだけど、見渡せば同じ空間に知らない人だけど誰かが居て。人が居るってことに、安心するのかな。俺もトオルも進学校だから、なんだかんだ、気づいたら勉強するのは苦ではなくなっていた。好きではないけれど。
ただ、今日はちょっと違う。隣の席に置いた通学バックの隙間からチラッと見える。リカにもらったCDが元気をくれる。なんとなくニヤける自分が居て。いや、だめだだめだ、勉強するんだぞ。そう思いなおしてまたテキストに目をやる。
夕方までそこに居て、でもやっぱり俺は独りになりたくなくて。帰りにおふくろの家に寄った。うちは両親が離婚していて、俺は親父と二人で暮らしてる。チャイムを鳴らすと、出てきたのは妹だった。弟はリビングでゲームをしていた。おふくろは・・・居るわけないか。いつも仕事で居ないから。
「なに?晩ご飯でもあさりに来たわけ?」
「は?冷たいなあ、千沙さんは」
両親が離婚するまでは、いつも三人だった。俺だけ少し年が上だから、母親代わりみたいな感じで。ご飯の準備も学校の準備も俺が面倒を見ていた。千沙はこの春から中二で、なんだか中学生になってから冷たいんだよなあ。呼び捨てすると怒るから、千沙さん呼び。なんか、娘に冷たくあしらわれる親父ってこんな感じなのかと思うよ。弟の一名はこの春から六年生だ。
「なあ、カズ、何のゲームやってんの?」
「ドラクエ」
「ふーん」
3DSの画面に視線を落としたまま返事だけなんとなくする。弟は、いつもこんな感じだ。千沙がちょうど夕食の準備をするところだったみたいで、少し手伝ってから、俺は俺の自宅に帰った。
次の朝、家を出る準備をしている時にスマホが振動した。俺の制服の胸ポケットで。
Rika「おはよう」
時田「おはよう」
Rika「起きてた?」
時田「起きてるっていうか家出るとこ」
Rika「早いね!ごめん。テストがんばってね」
時田「ありがと、がんばるよ」
誰も居ない家の中の戸締りをすべて確認して、最後にリビングの電気を消す。親父と二人だけなのに広い部屋。ほとんど独りきりなのに・・・。小さくため息をつくと、昨日脱いだ時にひっくり返ったままになっていたローファーを足でちょいっと上向きに直して履く。バッグを肩にかけて玄関のドアを開けると、いい天気だった。
もう一度スマホを開く。最後に送ってくれたスタンプを見てまた笑顔になる。それから俺は、家の鍵を閉めて階段を降りた。一階の車庫に自転車を停めてある。駅までは自転車なんだ。
「で?何だったのよ」
テストが終わって帰り間際。トオルに捕まった。
「何が?」
「リカちゃん」
「ちょ・・・大きい声で言うなよ」
「じゃ、小さい声ならいいのかな?」
トオルはやたら体を摺り寄せるようにして耳元でそう言った。
「もう!気持ち悪いな」
「会ったんだろ?昨日、何だった?」
「CDもらった」
「CD?」
「うん、TRIPLANEのSINGLESの。初回限定だよ、探してただろ?俺」
「あー、はいはい、あれね。で?」
「で?って?」
「それだけ?」
「それだけ」
「なんだよそれー、デートしてないの?」
「デートって。昼飯は一緒に食ったけど」
「それだけ?」
「だから、それだけだよ。今日テストだしさ。図書館行きたかったし」
「もちろん次の約束したんだろ?」
「次の?」
「次いつ会うの?」
「うるさいなあ」
通学バッグを肩に引っかけて、俺はトオルを押しのけるようにして先に教室を出た。バタバタ音を立てて後からトオルが追いかけてくる。新学期始まったしテスト終わったし、部活が再開されるから学校にはけっこう人が残ってる。階段を降りながらふと、俺は後を追いかけてくるトオルのほうを向いた。そして俺から声をかけた。
「あのさ」
俺の後をついて降りてきたトオルが俺の隣に並ぶと、自然と二人、足を止めた。
「何?」
「次に会うのって、どうしたらいいのかな」
「は?」
「わかんないんだよ。どう、誘えばいいのかな、って」
「普通に、で、いいんじゃねえの?」
「普通にって。どういうのが普通なんだろう」
また、俺が階段を降りだすと、トオルも一緒に降りはじめる。階段が随分長く感じた。四階ってこんなに階段長かったっけ?そんで俺は、今いったい何がしたいんだろう。
「なんなの?セナ、まじなの?リカちゃん」
うん、たぶん。まじなんだよ。まだ二回しか会ったことないのにさ。その後俺たちはカフェテリアに寄った。講堂にあるカフェテリア。名前ばっかりで、別におしゃれな飲み物が出てくるわけではない。放課後暇そうなやつらがたむろってるだけの場所。
「そんなさ、リカちゃんのどこがいいわけ?」
「どこがって・・・」
「そんなにさ、相手の性格わかるくらい会ったり話したりしてないだろ?それともあれ?趣味が合うからとか?音楽のさ」
「いやあ、可愛いなって」
「見た目?」
「それだけじゃないけどさ、たぶん」
「どんなだったっけ?忘れたわ、顔」
そう言われてなんか悔しくて、俺はスマホのLINEアプリを開いた。プロフフォトを開いて、カフェの向かいの席に座ったトオルに見せた。
「ほら。思い出した?」
「あぁー、こんな感じだったかな」
呟くようにして俺の手からスマホを取ると、じぃーっと画面を見ている。そして急にトオルは何かをし始めた。
「おい、ちょっと、何してんの!?」
テーブルの向こうに手を伸ばしても、体をのけ反るトオルには届かなくて。俺は席を立つと、何やら指を動かし始めたトオルの方に駆け寄った。
「お、返事来た」
「ちょ・・・何打ったの?」
「えっと、これからバイトだってよ」
「え?バイト?」
俺の体を手で押さえながら、片手で何やらまた返事を打つトオルに手を伸ばして。周囲のチェアをガタガタ倒しながら俺たちはカフェで暴れていた。周りのやつらはそれを見ているだけで。まぁ、ガキのじゃれ合いにしか見えないんだろうけど、俺は必至で。やっとトオルから取り上げたスマホを見ると、勝手にLINEで会話をしていた。
時田「今なにしてる?」
Rika「これからバイト」
時田「何のバイト?」
Rika「ファミレス」
時田「今から行っていい?」
Rika「バイト先に?」
時田「そう」
「うわ、何やってんだよ、トオル」
慌てて返信を打とうとした。ごめん、冗談だよ。トオルが勝手にスマホいじって打っちゃって。って、違うな。気にしないでね。バイトがんばってね。ていうのもおかしいか。なんて返せばいいかと頭の中でいろいろ考えていると、返信が来た。
Rika「いいよ」
「え?」
「どした?」
「いいよ、って」
Rika「場所教えるね」
「場所教えるって」
画面から目を離せず茫然としている俺の横からトオルがスマホを覗いた。
「ほら、簡単じゃん」
「何が?」
「何か用作ったりとか、理由とか、要らないんだよ」
「え?」
「こうやって逢っちゃえばいいんだよ」
トオルを見ると、ニヤって笑ってた。それを見て、俺はなんだか嬉しくなって。ニヤけるように笑ってた。トオルに髪をくしゃくしゃやられながら。でもほんとに嬉しくて、LINEの画面を見ながらただニヤニヤと笑ってた。それから送られてきた場所を確認すると、俺は返信を打った。
時田「今から行くよ。バイトがんばってね」
いつも、LINEを入れてくれるのはリカからで。今回は俺からみたいになってるけど、入れたのはトオルなわけで。これからは俺からも何か伝えてみよう。聞いてみたいこともたくさんある。まだまだ知らないリカのことを、いろいろ知りたいんだ。
カフェテリアから校門までの長い歩道を、両側に並ぶ桜が彩る。その日に見た、舞う花びらが、今でも目に焼き付いてるんだ。初めて会った時から、彼女は淡いピンクのイメージで。その、舞う花びらのように、いつも何かを俺に落としていく。それを拾い集めるたびに、好きになる。うん、とてもさ、好きなんだよ。
時田「今日も塾の前にファミレス寄っていい?」
Rika「うん、待ってるよ」
週の半分以上がリカはバイトで、俺は塾だ。なんとなく学校が終わると俺はリカのバイトするファミレスに行って、ドリンクバーを注文すると、やることがないので勉強をする。今まで図書館だったのがファミレスに変わっただけだ。もちろん、そこにリカの姿を見ることができるのは大きく違うけど。リカがバイトを終える頃には俺は塾の真っ只中で、終わったらLINEを入れたりする。
時田「今から帰るー。なんか今日は寒い」
Rika「お疲れ。気を付けてね」
いつも返信くれるけど。なんとなく素っ気ない感じ。2週間くらい、もうこんな感じ。ファミレスでは仕事してんだから話せるわけもないし、たまに目が合うと笑ってくれるけど、それだけ。そりゃあそうだよね、別に付き合ってるわけでもないんだし。でも、愛想笑いだったらどうしようとか、返信も、連絡来たから返してるだけってのかもしれない。俺は単なるストーカーみたいになっちゃってんだろうか。
ある日俺は、ファミレスでドリンクバーを注文し、いつもならそれで終わりなんだけど、リカが近くを通ったタイミングで声をかけた。
「すみません」
「はい・・・」
普通に客と店員みたいな会話で、リカが気づいて俺の座るテーブルに来た。それはほんとに自然で、誰も別に気にも止めない。緊張していたのは俺だけだ。窓際に沿ったテーブルに座る俺の方を見て、テーブルの脇にリカが立つ。なんでしょう?といった表情で。
「あの、えっと」
「めずらしいね、何か、追加?」
「え?あ、そう、何か食べようかなと思って」
「ちょっと待ってね、メニュー持ってくる」
俺に背を向けてカウンターに歩いていくリカをただ、目で追った。立てかけてあるメニューの大きなファイルを持って、また戻ってくる。
「はい、決まったらまた声かけてくれたら・・・」
「いや」
「ん?」
「あのさ」
あの時すぐに顔は見れなかった気がする。ファミレスの制服を着たリカの、おなかのあたりで組んだ手をずっと見ていた気がする。背も小さいけど、手も小さいんだ。でも指は長くて、きれいなんだ。
「どしたの?セナ?」
長い髪をまとめてる姿も見慣れたけど。見慣れてるはずなんだけど、やっぱり見るたびにドキドキするんだ。
「逢いたいんだ」
「え?」
「いつもここに来て、逢ってるっちゃあ逢ってるわけだけど。ゆっくり二人で逢いたいんだ」
そーっと視線を上げると、当たり前のようにリカと目が合った。リカは、一度目をそらすと後ろを少し気にして、また俺の顔を見た。
「私も・・・」
え?
「逢いたい」
嘘でしょ?ほんとに?嬉しいって気持ちと、驚いてる気持ちとで、笑っていいのかなんだかわからない表情をしていたら、そしたらリカの表情が、照れてるのがわかってこっちまで照れくさくなってくる。一度テーブルに置いたメニューのファイルをそっと手に取ると、リカは俺から視線を外して言った。
「他に何かご注文はありますか?」
「え?あ、別に。それだけ」
「わかりました」
「また夜に、LINEするよ」
「うん」
「あ・・・」
「何?」
「電話、しちゃうかもしれない」
「うん、わかった」
その日の夜は、初めて電話をかけた。呼び出し音が聞こえている間、ドキドキが止まらなくて。それでもなんだか楽しみで。
「もしもし?」
そうやって電話に出たリカの声が、耳元に優しくて泣きそうだった。
五月の初め、ゴールデンウィーク休みの日に二人で出かけた。いつもならそんな休日はバイトの予定を入れるそうなんだけど、リカも休みを取ってくれた。あの日の夜に電話で、何処かに遊びに行こうってことにはなったけど、いざ逢うとなると何処に行けばいいのかわからない。結局トオルのお薦めスポットにはなってしまったけど、二人で出かけた。
「デート、なんだよね?これ」
ってリカが聞くから。
「俺は、そのつもり」
って答えた。待ち合わせた東京ドームシティアトラクションズの観覧車の前で、それから俺はゆっくりと彼女と手を繋いだ。
そんなゴールデンウィーク最終日、珍しい人から電話が入った。スマホの表示に一瞬手が止まる。おふくろからだった。
「もしもし?セナ?」
「なに?」
「悪いけど、メモして」
「は?」
「急いで、ほら」
電話の声にせかされるように、デスクの上のルーズリーフとシャープペンシルを手にした。
「何?いいよ」
「○○総合病院、311号室。それと家に寄って、千沙の部屋のタンスから下着を三セットくらいとパジャマ、あと洗面所にタオルがあるからそれも三枚くらい、持って行ってくれる?」
「は?なんかあったの?」
「千沙が怪我をしてそこにいるから、検査入院するから持ってってくれる?」
「怪我?まじで?え、ちょっと持っていくものもう一回言ってよ」
言われたものをもう一度きちんと聞いてメモを取った。
「怪我は?どんな感じ」
「わからない、入院手続きのサインは後日母が来ますって言っておいて」
「わからないって何だよそれ。ちょっと、千沙の部屋のタンスってどれ?」
「白いキャビネットがあるから、わからなかったら全部引き出し開ければいいでしょ?下着三セットね」
「いやだよぉ、千沙に絶対何か言われるもん、下着なんてさ」
「じゃあ、頼んだから、急いでね」
電話は、あっさり切れた。
「急いでね、って。だったら自分が動けよ」
だけど怪我は心配だ。とりあえずまずあっちの自宅に向かおう。俺は自転車のキーを手に取った。
おふくろの自宅までは自転車で十五分程度。家に寄っていけと言われたけれど、鍵は持ってない。一名がもし留守だったらどうにもならないんだけど・・・。そう思いながらチャイムを鳴らした。その日は、一名が一人で家に居た。
「どしたの?」
俺の顔を見ると一名はそう言う。たぶんこいつには連絡入れてないんだろう。忙しいっていうのがおふくろの口癖だからさ。
「千沙さんが入院するんだってさ、カズちょっと洗面所のタオル三枚持ってきてくれる?どれでもいいから」
「うん」
俺はそう声をかけながら千沙の部屋に入った。いつも几帳面にキレイに片づけられてる。親が離婚する前からそうだ、千沙は小さい頃から気づいたら部屋の掃除をしていた。自室だけじゃない、リビングやキッチンや。仕事で両親どちらも居ないことが多いから、することがないと知らない間に散らかったものを片付けていた。もしかしたらおふくろに言われてたのかもしれないけど。
「えっと、白いキャビネットってこれか。千沙さん、ごめん。開けます」
一応ね、断りを入れて、それから下着を探した。こっちも三セットと。廊下にある収納庫から紙袋を探してそこにタオルと下着を入れた。
「おっと、パジャマ忘れてた」
「ねえ、姉ちゃん入院って病気?」
「あー、なんか怪我したんだって、病院行ってみないとわかんないよ。カズも一緒に行くか?」
千沙の部屋でパジャマを探してそれも紙袋に入れた。俺の後ろをちょろちょろ付いてきながら一名が返事をした。
「いいよ、家で待ってる」
「でも千沙は入院だから帰ってこないよ?お母さんも何時になるかわからないだろ?」
「大丈夫だよ、いつものことだし。いいよ」
「そっか?何かあったら電話入れろよ、俺の番号わかってるだろ?」
「うん」
「あ、昼飯も晩飯もどうしようか?」
「大丈夫、お母さんがシチュー作ってあるって言ってた」
一応、そういうことする日もあるんだな。キッチンに視線を移してそんなことを思う。ほとんど食事の準備なんて俺と千沙で毎日やってたし。一名だって大丈夫だって言うけど、いつものことだし・・・、なんて言葉にも辛くなる。確かにおふくろも仕事をしていて忙しいのは知っているけれど、前なら俺も一緒に住んでいたから良かったものの、今はもう俺、居ないんだからさ。愚痴りたいけど、一名の前では愚痴れなかった。
「じゃあ俺行ってくるから、俺が出たら戸締りちゃんとしろよ」
「うん」
ドアを閉めると、俺は鍵のかかる音を確認してから家を離れた。
311号室。その病室の入り口の名札に千沙の名前があった。ドアをノックして中に入る。四人部屋だ。千沙は入ってすぐ左手のベッドだった。千沙は、眠ってはいないけれど、目を開けたまま、まるで眠っているみたいに天井をずっと見ていた。
「何があったんだよ?」
そう言うと、千沙はゆっくりと顔をこちらに向けた。
「大丈夫だよ、右手骨折しただけ。大げさなんだよ、入院とか」
包帯でぐるぐる巻きになった右手をゆっくりと持ち上げて見せながら、小さな声でそう言う。でも大丈夫じゃないのは見てわかる。千沙にいつもの勢いがない。
「どこ骨折したの?」
「手のひらの、どっか」
「手のひら・・・?なんで?」
「自転車で転んだ」
おふくろがまだ病院に来れていないので、代わりに俺が医者の話を聞いた。医者の話によると、舟状骨骨折。転んだ時に手をついて、その時に、手関節を作る骨の一部、舟状骨という部位の骨が折れたとのことだった。すごく治りづらいんだそうだ。舟状骨は骨が付きにくいという特徴がある。そして、骨折した本人はひどい痛みと腫れに襲われているはずだ。今は麻酔が効いてるらしいけど。
その日は親父に連絡を入れて、おふくろの家に泊まることにした。おふくろが帰って来たのは十一時過ぎ。
「あ、来てたの?今日は悪かったわね」
「来てたの?じゃないよ。病院くらいすぐに行ってやれよ。それにこんな日ぐらい早く帰れなかったの?」
「忙しいの、あなたも働くようになったらわかるわよ」
「そんなのわかりたくもないよ。忙しいって、千沙、車と接触しそうになったんだってよ?事故だろ?これ。怪我だけで済んだからよかったけど、大変なことになってたらどうするんだよ」
「それだったらさすがに帰ってくるわよ」
「それだったら・・・って」
大嫌いだ、おふくろのこういうところ。
「もうちょっとなんとかならないの?千沙が帰ってくるまで、一名も一人になるんだよ?」
「明日には仕事も落ち着くから。二日くらい大丈夫でしょ?もう六年生なんだし」
こうやって話をしつつも、リビングのテーブルに仕事の資料を広げながら、聞いてるんだか聞いてないんだかって顔でやりとりをする。必死になってるのは俺だけで、余計にイライラしてくる。
「もうちょっと母親らしくしてよ?」
そう言うとおふくろの手が止まった。そしてゆっくりと、俺の顔を見た。
「父親と似た顔をして同じようなこと言うのね」
「え?」
ため息をついて、また手を動かす。
「今日は?泊まってくの?セナの部屋はもう仕事部屋にしてしまったし、空いてるのは千沙の部屋しかないわよ」
「いいよ、ここ(リビング)で」
「そう?」
「明日には仕事落ち着くんだよね?ぜったいだよ?」
おふくろからは返事はなかった。
「一回家に戻るから、制服取ってくる」
「お好きにどうぞ」
自転車を走らせて家に戻る。親父はまだ帰っていなかった。こんな感じだから、いつも俺たちは三人で夜を過ごしてきたんだ。親がどうしようと勝手なんだろうけど、だから嫌だったんだ、俺たち三人が離れて暮らすのは。
おふくろの家に戻るのに制服が荷物になるのが面倒くさいから、いっそのこと着て行こうと制服に着替えた。着て行けば何も邪魔にならない。いつも学校に行くときの格好をして、明日の授業の準備をした。おふくろと別れてから新しく俺と住むために親父が購入したこの家は、勿体ないくらい人が居ない事の方が多い。充電してあったiPodを手にすると、いつものようにヘッドフォンを首にかけた。その時に目に入った。コルクボードのTRIPLANEのチケット。
制服の胸ポケットのスマホを取り出すと、俺は電話をかけた。数回コールして、電話が繋がる。
「リカちゃん?」
「うん、どうしたの?」
「ごめん、こんな遅くに」
「いいよ」
声が聴きたかったんだ。そう言えずに。どうしてだか流れてくる涙を拭いながら、俺は返事をした。
「おやすみ、って言いたかったんだ」
そう言うと電話の向こうでリカは笑った。
「うん、おやすみ」
「おやすみ、またね」
まだ声を聴いていたい気持ちを抑えて、電話を切った。
次の日、朝起きるともうおふくろの姿はなくて。急いで一名を起こして学校の準備をさせると、俺もトーストをかじった。この家ってこんなに冷たい感じだったっけ。一年前まで住んでいた家なのに、見慣れた空間なのに、他人行儀だ。時計を見ると時間ギリギリだ。
「カズ、ほら早く!行くよ!」
この家から学校に向かうのが少し懐かしかった。
「え?明日ですか?」
「はい、若いと言ってもすぐに骨が固定するまでに時間のかかる場所なので、固定するための手術をします。お母さんからは電話で許可を取ってありますので」
学校が終わって病院に行くと先生から簡単な説明を受けた。病院側はすでにおふくろとは連絡を取っていて、話はとっくに決まっていた。
「よろしくお願いします」
先生に挨拶を済ませると、病室へ向かった。
「あ、お兄ちゃん」
「おう。どう?痛む?」
「なにが?」
「手だよ」
「ああ、ちょっとね」
通学バッグを足元に置いて、俺はベッドわきの折りたたみ椅子を開いて座った。
「明日、学校休むよ」
「なんで?」
「手術するんだろ?」
そう言うと、千沙は目をそらした。
「どうした?怖い?」
「なんで怖いのよ。全身麻酔じゃないし、意識ある状態でやるらしいし」
「ほんとに?怖くないの?意識あるってことはさ、先生たちの会話が聞こえてる状態なわけじゃん?それって怖くない?」
後から、要らぬことを言ってしまったと後悔した。千沙はそのまま黙ってしまった。
「ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだけど、あの・・・」
「うん」
「明日は、俺が待ってるから」
「学校、ほんとに休むの?」
「うん。気にしなくていいよ、千沙さんは」
「うん」
元気のない返事だけど、千沙はこっちを向いて小さく笑った。
今日は早くに帰れるとおふくろから連絡があったので、この日は病院を出ると家に戻った。親父も忙しい人だ。日付が変わるまでになんとか帰ってこれるかなといった感じ。だけど、おふくろよりはまだマシだ。
-何かあったらいつでも連絡してくるように。母さんは嫌がるだろうけど、困ったときは手を貸すから-
リビングのテーブルに置き手紙があった。メール入れといてくれたらいいのに。でも知ってる。メールだと、リアルタイムに俺が返事を返すから、それがどうやら照れくさいらしい。置き手紙なら、手紙を書いてから俺が目にするまでの時間のロスがあるから、返事を俺がメールで入れたとしても、親父にも返事を受け取るまでの時間が取れるので、落ち着いて返事を受け取れるんだそうだ。何気に面倒くさい。
塾には行かなかった。行こうと思えば行けたけど、サボった。だけど家に居ても何もすることがなくて、ぶらっと外に出た。ヘッドフォンをして、子供の頃よく遊んだ公園のあたりとか自転車で走った。日が長くなったなあ。夕焼けがすっごいきれいで、心のどこかでゆとりが欲しいのに、だけど逆に、家路を急ぐ人たちの足早なスピードが俺をも急かすようで居心地が悪くなった。
コンビニで弁当を買って温めてもらう。ほんの一分程度、待ってるその時間もなんだか長く感じる。お弁当とペットボトルのお茶を買うだけで三十分ぐらい店にいた。家に帰るのがなんだか寂しくて、何かと人の出入りがあるコンビニで寂しさを紛らわすように雑誌を立ち読みしながら時間を潰してた。だけどさすがに長居しすぎだし、おなかすいてきたし、諦めて弁当を手に取ってレジに向かったんだ。
玄関は真っ暗だった。リビングに置いた熱帯魚の水槽のネオンが少しだけ廊下の方に漏れていた。下駄箱の上に鍵を置くと、俺は電気をつけずにそのまま靴を脱いだ。水槽の灯りがちょうどいい気分だったんだ。買ってきたペットボトルを開けると、一口だけ飲んで蓋をした。そして俺は、ゆっくりとソファに腰かけた。ギシッと小さな音を立てる。あとはエアーポンプの音が静かに聞こえるだけ。
目を閉じてぼーっとしていた。
ぐぅぅぅぅ・・・。
「なんだよ。腹は減るんだよ」
せっかく温めてもらってきたんだし。俺はそんな暗い部屋のまんまで弁当を取り出して食べ始めた。美味しいかなんてわからない。無気力なままでご飯を口に運んでた。半分くらい食べた頃に、ふいにスマホがLINEメッセージを受信した。食べかけの弁当をテーブルに置くと、スマホをチェックする。表示された名前を見て、俺は体を起こしてソファに座りなおした。
Rika「今日は来なかったね」
画面をただじっと見ていた。そうだね、リカのバイト先、行かなかったね。
Rika「明日は来る?」
明日かあ、わかんないや。学校は休むしさ。思考は動いてる、そう返信してる。けど指を動かさなかった。俺が何も打ち返さないから、リカの言葉だけが画面に続く。
Rika「聞きたいことがあるんだけど」
聞きたいこと?何?なんだろう。その後しばらく何も画面には出てこなかった。既読を付けているくせに返事が返されてこないんだ、そりゃあそうだ。なんかもういろいろ泣きそうなんだ。
時田「ごめん、今度でいい?」
返信するとすぐに既読がついて、その後スタンプが帰ってきた。可愛いうさぎの、おやすみってメッセージのスタンプ。それを送ったリカは、バイト帰りの路上で、セナからの一言のメッセージを見て呟いた。
「忙しいのかな、勉強」
次の日。手術は案外早く済んだ。もう終わったのか、って思うくらいあっという間で。手術室から出てきた千沙も、笑顔だった。
「良かった、安心した」
「何が?」
「やっぱり、うまくいきますように!って思うじゃん?兄としては」
「何それ」
うん、良かった。いつもの強気な千沙だった。完全に右手が使えないので、もう少し入院することが決まった。おふくろがあんなだし、家に居ないほうがいいよ。一名のほう、ちょっと心配だけど。
「あ、でも大丈夫だよ?帰っても。一人でのんびり過ごすから」
「なんでよ?せっかく俺学校休んだのに」
「ずる休みでしょ?」
うるさいよ。
千沙に帰っていいって言われたら、なんか居場所がないみたいじゃないか。言われた通り病室を出て、昼過ぎ、俺は電車に乗って家に帰った。ドアの脇に立って、窓の外を眺める。流れていく住宅街の景色。時々聞こえる踏切の音。なんだか自分が小さく感じた。スマホを取り出して、メッセージを送った。
時田「昨日はごめん。今日逢える?」
Rika「今日はバイト休みなんだけど」
時田「ファミレスじゃなくて、どこかで逢える?」
Rika「うん」
時田「学校まで迎えに行っちゃおうかな」
Rika「え?」
時田「うそだよー」
Rika「ちょっと楽しみにしちゃったじゃん」
時田「まじで行こうか?」
なんて、言うんじゃなかった。別の学校なんて行くこと滅多にないからさ。完全に挙動不審者だよ。今日、制服着てなくてよかった。別の学校の制服だったら余計に目立つよね。病院帰りだから、ヘッドフォンもないし。手持ち無沙汰で門の外の柵に持たれて立っていた。時々チラ見して通り過ぎる人の視線が痛い。けっこう、派手な生徒が多いんだな。バッグとか靴とかみんな個性的で。女の子は化粧してるし、スカート短いし。通り過ぎる女の子を目で追っていると、腕をぐいっと掴まれた。リカだった。
「行こう」
「え?」
ぐっと引っ張られるように柵から背を離すと、俺はリカに連れられて学校を後にした。なんとなく後ろを振り向いたら、何人かの女の子がこっちを見て笑ってた。
「友達が」
「え?」
「みんなでセナのこと見たいって言って」
「みんなって?」
「だから、友達。もぉ、早く行こ」
いつの間にか引っ張られるではなく、ふたり並んで走って。息を切らしながら笑って。線路沿いの道を、走りながら少しずつスピードを落として、それからは並んで歩いた。
「友達、なんで?」
「今日LINEくれた時ちょうどお昼休みで、見られちゃった、セナのメッセージ」
「うそ?」
「そしたらセナのこと見たいって盛り上がっちゃって」
「やだよ、恥ずかしいよ」
「やめてって言ったんだけど」
振り返っても、もう誰もいなくて。そのままふたりで歩いた。そっと、手を繋いで。
「今日は学校じゃなかったの?」
「あぁ、うん」
電車が通り過ぎた。大きな音を立てて。それを見送ると俺は何となく話を始めた。
「俺、妹と弟がいるんだけど」
「そうなの?」
「妹がちょっと怪我をして、今日が手術だったんだ」
「え?大丈夫?ひどい怪我?」
「ちょっとした骨折」
「そう」
「今ね、別で暮らしてんの。去年親が離婚してさ」
「うん」
「それまではいつも一緒に居られたから気にしたことなかったんだけど、離れてるとなんか、俺すごい責任感じちゃって」
「なんで?」
「俺が今まで親から受けてたプレッシャーみたいなのを、今度は千沙、あ、妹なんだけど、が、受けてるんじゃないかなって。がんばりすぎてる感じがする、あいつ」
「優しいね」
「え?」
「優しいお兄さんなんだね、セナは」
「そんなことないよ、ほんとに。俺が勝手にチャチャ入れてるだけでさ。千沙にしたらウザいみたいだけど」
リカがクスッと笑う。
「でもさー、今妹たちと離れてるじゃん?」
「うん」
「俺は親父と住んでるんだけど。親父も帰ってくんの超遅いしさ。出張も多いし。独りが多いとつい、寂しくなっちゃうんだよね。格好悪いんだけど」
歩きながら、俺は自分の目の前に広がる歩道に視線を落とした。
「手術終わって、妹に帰っていいよって言われて。そしたら超寂しくなってきて。それでLINE入れちゃった」
「そうだったんだ?」
「リカちゃんは?兄弟いるの?」
「ううん、ひとり」
「そうなんだね。うん、でもそんな感じする」
「そう?」
「一人っ子って感じ」
「わがまま、とか?」
「そういう意味じゃないよ」
繋いだ手にぎゅっと力を入れる。少しほっとした。リカに不安だった心のうちを話したからかな。そしたらリカもぎゅっと手を握り返した。
「あ、聞きたいこと」
「ん?」
「昨日ほんとごめん。聞きたいことあったんだよね?」
「あ・・・」
そう言うと、リカは歩みを遅めた。駅の傍まで歩いて来ていた俺たちは、そこで完全に立ち止まった。
「何だったの?聞きたいこと」
「ファミレスにいつもセナが来てること知ってる友達がいて」
「うん」
「聞かれたんだけど」
「なんて?」
「付き合ってんの?って」
「俺、と?」
「うん、でも、答えられなくて」
リカは、あいたほうの手でリュックの紐をぎゅっと持つと、一度俯いてから俺を見た。
「私たちって付き合ってるの?」
「俺は・・・」
「うん」
「付き合ってると、思ってるよ。勘違いだったら恥ずかしいけど」
何言ってるんだろう、俺。まだ、何も伝えたことないのに。好きだとも。付き合ってほしいとも。けど、どうなのかって聞かれると、俺は付き合ってると思ってる。
「私は・・・」
「あの」
リカが何かを言いかけたけど、俺はそれを遮った。で、目を見て伝えた。
「リカちゃんのこと、好きなんだ。俺と、付き合ってください」
あの日と同じだ。初めて俺の隣に彼女が立った時に見た、瞬きするたびに揺れるまつ毛。小さな鼻。触れたくなるピンクの頬。目の前にいる俺よりも背の小さな彼女をじっと見つめる。
え?
俺の方を見たまま、何度も瞬きをする彼女の瞳から涙がこぼれた。
「え?リカちゃん?なんで泣いてんの?」
「わかんない」
「俺なんか嫌なこと言った?」
「ううん」
「えぇ・・・泣かないでよ」
「うん」
繋いでいた手を離すと、リカは子どもみたいに涙を拭う。人通りは少ないけれど、誰も通り過ぎないってわけではない。
「えー・・・?どうしたらいい?俺」
「・・・ぐ」
「え?」
「手、繋ぐ」
「うん」
もう一度手を繋いで、リカはまだ泣きながら俺に言った。
「私もセナのこと、好き」
「え。ほんとに?」
「うん」
すごくすごく抱きしめたかったけど、こんな場所ではどうにもできなくて。俺は彼女の頭を撫でるようにして言った。
「ありがとう」
そしたらまたリカが泣き出してしまった。
「ほら、超泣いてんじゃん。もぉ~」
「ごめん・・・」
どうしたらいいんだろう。慌てて俺は一度手を離すと、両ポケットに手をやる。
「あぁ。ない」
他にもいろいろ。ごそごそと探ってみる。
「何が?」
「ハンカチ」
だめだ。ない。役立たず、俺。諦めて俺は、ゆっくりとリカの両頬に手をやった。リカが泣き止んだのはそれからすぐだった。泣いてんだか笑ってんだからわからない表情をして、ひっくひっく言ってた。それを見てるとなんだか笑えてきた。
「私、初めてなんだ」
「何が?」
「誰かと付き合うの」
「そうなの?」
「セナは?ある?誰かと付き合ったこと」
「俺は・・・あるよ」
「そっか、そうだよね」
「でも、今はリカちゃんが好きだよ」
「うん・・・」
「行こう」
そう言ってまた歩き出す。泣いたのはびっくりしたけど、心が温かくなったような気分だった。安心する。繋いだ手が、優しい。付き合ったことは、あるよ。前に。違う子と。けど、なんか違うのは、きっとリカだからだよ。
「他にもね、聞きたいことたくさんあるんだけど」
「何?」
「本当にいっぱいあるんだけど」
「え?答えられるようなこと?」
「すごく知りたいの、セナのこと」
「例えば?」
「好きな色は何か、とか」
「好きな色。黒とか青、かな」
「好きな食べ物は?」
「え?なんだろ。唐揚げ、とか?鶏の唐揚げ」
「よく飲むのは何?」
「飲み物?コーラよく飲むかな」
「今気に入ってる曲は?」
「曲?誰のでもいいの?」
「うん」
「Greendaysかな」
「TRIPLANEの?」
「そう」
「じゃあ好きな・・・」
「ちょ、ちょっと待って。ほんとに質問攻め?」
「だって知りたいんだもん」
「じゃあ、終わったら今度俺も質問するからね?」
「何を?」
「好きな色とか」
繋いだ手を揺らしながら、俺たちはお互いの知りたいことをいっぱい質問しあった。まだまだ知らない部分を少しでも埋めたいと必死だったのかもしれない。それくらい、知りたかったんだ、俺も、リカのことが。
「ふーん。付き合うことになったか」
次の日、学校でトオルに話すとやっぱりって顔して笑われた。それがなんだか面白くない。見透かされてるみたいでさ。
「セナが自分から告るのって初めてじゃね?」
「あぁ、そうかな」
「今までいつも告られてたもんな、付き合った子ってみんなそうだろ?向こうから告って、みたいな。モテるからね、セナくんは」
「モテないよっ」
「なんでだろな、俺の方がカッコいいのになあ」
トオルは首を傾げながら窓の外を見た。俺も隣に並んで外を見る。
「よかったじゃん」
「うん」
「なんだよ、全然よかった顔してないじゃん」
「なんかわかんないんだけど、どうしていいかわかんないんだよ。俺って頼りない感じがして」
「なんで?」
「告ったのだってさ。リカちゃんがそうさせてくれたみたいなもんだし」
自分から、好きだって伝えようとか、付き合ってほしいって言おうって決めて伝えたわけじゃない。たまたまそんな流れになったからで。それも、リカが話し始めた会話からそうなった。全然しっかりしてないし、頼りない。って思う。自分で自分をさ。
「でも結果的には伝えたんだからいいじゃん」
「そうだけど。俺はなんか、リカちゃんの落としてったものを拾ってるだけなんだよね」
「落し物?」
「うん。きっかけとか言葉とか、落としてくれたのを俺が拾った。ただそれだけ。情けねぇなって。」
「いいじゃん。それに気づかないよりは、拾ってんだから」
「そうかな」
「いいよ。セナらしいよ、それ」
その日もいつもみたいにリカのバイトするファミレスに寄った。ゴールデンウィークを挟んで、久しぶりにいつもの日常が戻ってきたみたいな気分だ。塾もサボってしまった、学校も一日休んだわけだし。トオルのノートをコピーさせてもらったものをテーブルに開いているとリカがグラスを一つ持ってきた。
「はい、ドリンクバーのグラスです」
「さんきゅ」
グラスを受け取ってドリンクバーに向かう。ソフトドリンクの受け場所にグラスを置いて、コーラのボタンを押した。待ってる間に胸のあたりに振動が届く。一度で終わらないそれは、電話を意味していた。俺はコーラでいっぱいになったグラスを手に取ると、歩いてテーブルに戻りながらスマホを取り出した。
「病院行ってやってくれない?」
「は?病院?」
おふくろからだった。
「千沙がね、手術した手が腫れて大変らしいのよ」
「おふくろは?」
「どうしても今すぐは無理なの。一時間、あー、一時間半くらいしたら行けると思うんだけど」
「わかったよ」
「うん、よろしく」
そう言うと電話は切れた。ため息をついて、一瞬頭が真っ白になりそうだったけど考える。まず、片付けようこれ。広げたノートのコピーやペンケースや、ささっとまとめてバッグにしまう。テーブルの端に置いてあったヘッドフォンを首にひっかけると、俺は入れたばかりのコーラを半分だけ飲んだ。席を立って会計をしようと思ったら、気づいたリカがそっと近づいてきた。
「どしたの?」
「ちょっと病院。千沙が具合悪いらしいんだ」
「そう・・・」
「また、ね。連絡する」
「うん」
お金を払うと、俺はそのまま店を出た。
「なんだよ、雨かよ」
午前中は晴れてたのに。大降りではないけれど、なんだか冷たい雨だった。傘がないから走って駅まで向かった。
千沙の手の腫れは尋常じゃない大きさになっていて、痛みを我慢しきれずに注射を打ってもらってベッドに横になっていた。それでもまだ痛そうで、じんわりと汗が額ににじんでる。
「ちょっと、無理をされたみたいですね」
医者がカルテを見ながらそう言った。
「無理?」
「ぜったいに動かさないように、って言ってあったんですけどね、何か負担になるようなこと、してたみたいですね」
病室に戻ると、無理に眠ろうとするかのように目を瞑る千沙がいた。
「なんか、無理して動かしたんだって?その手」
そう声をかけると千沙は目を開けてこっちを向いた。
「だって・・・」
「だってじゃないよ、ただでさえ骨の固定難しい箇所なんだからね?そこ」
「うるさいなあ、ちょっと知識あるからって先生と同じこと言わないでよ」
「それよりさ、何してたの?」
「何って?」
「なんで右手使ったのか?って」
千沙は少し黙って、視線をベッド脇の棚に向けた。そこには数冊の教科書とノートが置かれていた。
「勉強、してたの?」
千沙は黙って頷く。
「入院してんだから、ゆっくりしてればいいじゃん」
「そう言うけど、うちは中学でも留年あるから・・・」
「千沙」
「そんなことになったら、またママうるさいし」
「だからって、無理して入院長引いたり、手が使えない時間が増えたらもっと困るだろ?」
また千沙は黙って頷く。少しずつ肩を揺らしながら、横を向く。
「千沙?」
泣いてる。
「千沙?怒ってるんじゃないんだから。心配して言ってんの、俺は」
「うん・・・」
左手で涙を拭いながら千沙は返事をした。
「もう。泣くなってー」
千沙に近づいてそっと頭を撫でてやる。小さい頃も、よく頭撫でてやったなあ。その頃は、子供ながらにいろんなことに悔しそうな顔して泣いてたけど、今はなんか壊れそうで、いたたまれなくなった。
「千沙?勉強とかいろいろ、家のこともさ、無理だったらちゃんとおふくろに言えよ。言いにくかったら俺に言ってくれれば俺から言うしさ」
そう言うと、千沙は俺に抱きついて、さっきよりももっと泣き出した。
「おい・・・だから泣くなってー」
千沙はその後少し泣いて。俺の制服のニットベストをぐしょぐしょにしてから泣き止んだ。そしてそんな俺のニットベストを指さして、涙の残る表情のまま笑った。
「お前ねー」
だけど千沙が笑顔になってよかった。
「ありがと。でも、大丈夫」
「え?」
「いっぱいしんどいことあるけど、基本三人だから。ママと私とカズと。だからなんとかする。がんばる」
「千沙・・・。でもさ」
「うん。大丈夫だから」
千沙は、俺の言葉を遮る。決意は強いみたいだった。
「ほんとに?」
「ほんと」
「なんか俺、除け者みたいじゃん」
「そんなことないよ、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
「そう?」
「ほんとにダメなときはちゃんと言うから」
「ぜったいだよ?」
「うん。でもそれ以外は、私にもちゃんとがんばらせて?」
「わかった」
「だから、千沙って呼び捨てやめてよね」
強がる妹が可愛かった。
「申し訳ありませんね、千沙さん」
大きく腫れた千沙の右手が痛々しい。だけど、決まったことをちゃんと伝えないと。
「あのさ」
「ん?」
「明日、もう一回その手、手術することになったから」
「え?また?」
「うん。ちょっと、無理しすぎたよね」
「・・・ごめんなさい」
「とりあえずさ、がんばる前に、それちゃんと治そう?」
「うん」
「固定してる小さなボルト、あれもう一回固定し治すんだって」
伝えると、千沙は痛そうな顔をする。
「大丈夫、明日も俺病院に来るから」
「え?でも、学校は?」
「大丈夫だよ、ちょっとぐらい休んでも」
ちょっといろいろ考えてたんだ。学校のこと。今日渡された進路希望の用紙のこと。俺もちょっと、休みたいんだ。
その後眠ってしまった千沙のベッドの横で、折りたたみ椅子を広げて座った。勉強なんてする気にもなれないし。ヘッドフォンを付けて音楽を聴いていた。ただ座って。時々眠る千沙の顔を見ながら、ただずっと音楽を聴いていた。一度窓際の入院患者が部屋を出て、少しして戻ってきた。人の出入りはそれくらい。病院って得意じゃないけど、独特の香りがしてさ。温度だって、外の天気や季節がわらかないくらい一定で。安心するのか不安になるのかわからない感じが得意じゃないんだ。だけど眠ってしまったのは、きっと安心のほうが勝ったのかな。
たぶん、一時間ちょっとくらい、眠っていた気がする。おふくろがオレのヘッドフォンをふっと耳から浮き上がらせたので、目が覚めた。
「何寝てんの、あんた」
「え?あ・・・」
目をやると千沙はもう起きていて、おふくろがもうひとつの折りたたみ椅子を広げて自分の荷物を置いていた。
「悪かったわね、塾、間に合う?」
そう言われてスマホの表示を見た。
「あ、もう始まってる」
「今からでも行ったら?こっちのせいでセナの成績下がったとか言われたらたまったもんじゃないから」
「そういう理由?いいよ、勉強なら帰って自分でやるから」
「そう?ちゃんとご飯食べてるの?ちょっと痩せたでしょう?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ、ねえ、千沙」
「う・・・ん、ちょっと」
「うそ。マジで?」
「千沙の食事時間終わったら帰るから、うちで食べる?」
「いいよ」
「まあ、どっちでもいいけど。あ、明日来てくれるって?」
「ああ。うん」
「いいわよ、私休み取ったから」
「え?嘘?」
「嘘ついてどうすんのよ。仕事ひと段落ついたから。もう大丈夫だから、あなたはちゃんと学校行きなさい」
「・・・わかったよ」
千沙に視線をやると、うんうんって頷いてた。わかったよ。俺のちょっと休みたいって希望は今回は叶わないらしい。
通学バッグを手にすると、立ち上がった。
「帰るよ、おふくろ来たし。俺もう用無しだしさ」
「ありがと、お兄ちゃん」
嬉しかったよ、それ。照れを隠したつもりだったけど、二人に笑われた。
「なに?」
「お兄ちゃん、失敗した時とか嬉しい時とかどんな時でも口に力入るよね。絶対癖だよ、それ」
「そう?」
何も言わずにおふくろも口を押えて笑いを堪えていた。
「なんだよ、もう。心配して損した。帰るっ」
病室を出てドアを閉めるとちょっと口に力を入れてみた。どういう感じなんだよ?わかんねえよ。だけど笑顔になれた。長い廊下を歩いて、エレベーターで一階まで降りる。さっき千沙に濡らされたニットベストにそっと触れると、もうすっかり乾いていた。病院を出ると俺はまたヘッドフォンを耳にする。流れてくるメロディが気持ちよかった。
塾には行かなかった。そのままリカのバイトするファミレスに行った。たぶん、もうすぐ終わる時間なんだ、バイトが。雨はすっかり上がっていて、雨上がりの空気に、東京でもそれなりに星が見えた。
「お疲れさまです」
リカの声がした。ファミレスの横手からだ。店の外側にあるちょとした塀の所に持たれて待っていた俺は、リカを見つけられずにいた。声がしたんだけどなあ。
「あれ?セナ?」
「お疲れ、終わった?バイト」
「うん、病院は?」
「行ってきた。待ってたんだけど、一緒に帰らない?」
「うん。妹さんは?」
「大丈夫だよ、おふくろが途中で来たから」
「そっか」
「うん、はい」
手を差し出すと、リカはにっこり笑って手を繋いだ。
「いきなりなんだけどさ」
「うん」
「リカちゃんって、卒業したらどうすんの?」
「私?セナは?そのままA大なの?」
「うーん。そのつもりだったんだけど」
「違うの?」
「ちょっと別の勉強してみたくなって」
「何?」
「まだちょっと内緒」
「え~?」
「リカちゃんは?どうなの?」
「うん、就職しようかなって思ってたんだけど」
「うん」
「最近ちょっと、どうしようかなって」
「どうしようって?何か別のやりたいことできた、とか?」
「やりたいことってわけじゃないんだけど。毎日ファミレスで勉強してるセナのこと見てるじゃない?」
「うん」
「私って全然勉強してないな、って思って」
「そうなの?」
「だってうち進学校じゃないし、就職する子とか専門学校とかに進む子多いし。何も決まらないままフリーターって子とか」
「そうなんだ?」
「でも、もし今からでも間に合うんだったら、短大とかでもいいから、進学してみたいなって思うようになった」
「俺見てて?」
「うん、そりゃあ、私にはA大は無理だけど。そんなに賢くないし」
「じゃあ、今はまだ迷ってるとこってことだ」
「うん、でも・・・」
「ん?」
「どっちにしても私とセナじゃ、同じ学校には進めないね。レベルが違うもん」
「そんなことないよ」
「あるよ、全然わかんないもん。数学とか英語とか」
「数学なら得意だから教えてあげられるよ?」
「ほんと?」
「試験前とか必要あったら言ってよ」
「うん、ありがとう」
坂道に差し掛かって、長い一本の道を少し歩いた。緑の多い地区で、振り返ると少し東京の街の明かりが見えるんだ。そしたらリカがふいに手を繋いだ手を引っ張った。
「どしたの?」
「もう、家なんだけど・・・」
「え?」
「そこの坂を上がり切ったとこのマンション」
「バイト先からそんな近くだったの?うち」
「うん。近所で探して応募したから」
「そうだったんだ。あ、じゃあもうここまで、か・・・」
「そうだね・・・」
見えるのは分譲マンションが三棟ほど立ち並ぶ一角で、リカの住む棟はどれだか聞かなかった。
「あ、でも、もう家わかったから今度から言ってくれたらいつでも飛んでくるよ?」
「ほんとに?」
「うん、たぶんだけど、電車で回ってくるより家から自転車で走ってきた方が時間かからない気がするんだ、ここらへんだったら」
「そうなの?」
「うん。さすがに塾に居る時とかは急に抜けられないけど、そうじゃない時間帯だったら」
「ほんとに、来てくれる?」
「来るよ。だって、俺いつでも逢いたいんだもん」
まだ坂を上がり切らない場所で立ち止まって、人通りがほとんどない街灯の明かりが小さく照らすだけの坂道の途中。俺はリカの手を引くとそっと抱きしめた。
「ちょっとだけ、抱きしめててもいい?」
「うん・・・」
俺の腕の中にすっぽりと入ってしまう。抱きしめるとリカの背中の赤いリュックがよく見える。本当に小さいんだなあ。何かいい香りがする。シャンプーなのか、何か香水なのかわからないけど。そしたらゆっくりとリカも俺の背中に手を回した。抱きしめたいと思ったのに、抱きしめられるとドキドキする。坂道には本当に誰もいなくて。俺たちを見ているのは電信柱に付けられた道路標識にある人の形のイラストだけだ。
「ねえ、リカちゃん」
「なに?」
「付き合うのって、俺が初めてだって言ったじゃない?」
「うん」
「あのさ」
「うん・・・」
「キスは?したことある?」
「え?」
俺の腕の中で、少しリカが動いた。だけど俺は抱きしめたままで続けた。
「それも、初めてだったりする?」
「恥ずかしいんだけど」
「うん」
「まだ、誰ともしたことないよ」
すごく好きなんだ。ちょっと指が触れるだけでも、笑顔で俺を見てくれるだけでも、本当に嬉しいんだ。だけどね、もっと長く、もっと近く、一緒に居たいって思う。手を繋いだり、こうやって抱きしめたり。キスをしたり・・・。
「キス、してもいいかな?」
俺の胸に顔を埋めていたリカから少し体を離すと俺はリカの肩に手をやった。俺の問いにリカからの答えはなく、顔も上げてはくれなかった。体を少し斜めにして、覗き込むようにしてはじめてリカと目が合う。完全に、目が離せなくなってしまった。お互いの前髪が触れる距離で、そんな顔しないでよ。このまま止められないよ。
気持ちの思うまま、リカの肩に乗せていた俺の手はリカの髪を伝って耳の後ろに移動していた。リカが緊張していたのはわかったけど、それ以上に緊張していたのは俺だよ。鼻と鼻とがそっと触れて、俺の背中に回したリカの手にチカラが入ると俺は唇でリカの唇をふさいだ。
その日の夜は珍しくお互いLINEを入れなかった。目を閉じるとそれだけでリカの笑顔は浮かんでくる。抱きしめた感覚も、触れた唇の温度も。覚えているから、今日は大丈夫。真っ暗な部屋で、ベッドに持たれるように床に座ると俺はリカのことばかり思っていた。リカも今頃、同じように思ってくれているといいな、って考えながら。
「好きな色、ピンク。好きな食べ物、ミルククッキー。よく飲むのはミネラルウォーター。ちなみに理由は水分を取ると体にいいと聞いたから。今気に入ってる曲は、雪のアスタリスク・・・」
声に出してみる、リカの好きなもの。そんな好きのひとつに俺が入ればいいな。入ってくれているといいな。
少しして、千沙は無事退院した。もちろん手は安静第一だけど。俺はと言うと、相変わらず学校が終わるとファミレスで勉強する日が続いてる。ある日、バイト中のリカがドリンクバーのグラスを俺の席に運んでくるとそっと俺に言った。
「大学受験がんばってみることにした」
「ほんと?」
「今からでも間に合うかな」
「大丈夫だよ、一緒にやろうよ」
「うん」
リカが目標を変えたことは俺にも影響していた。俺もがんばろう。ある目標をひとつ、立てていた。
数日したらもう夏服に変わる、そんなある日曜日、昼前にゆっくりと起きてリビングに行くと、珍しく親父が家に居た。
「そんな珍しそうな顔するなよ、休みだよ、今日は」
「そうなんだ?」
「何も用がないなら、晩飯は外にでも食いに行くか?」
「いいよ、わかった」
ソファに座っていた親父が徐に立ち上がるとキッチンに向かう。
「コーヒー入れるけど飲むか?」
「うん」
返事をすると洗面所に顔を洗いに行く。タオルで顔を拭いていると、キッチンのほうから電子ケトルの沸く音がした。不思議な感じだ、人が居る音がする。
「勉強は、どうだ?」
「うん、なんとか」
「そうか」
「あの、父さん」
「ん?」
「進路のことで話したいことあるんだけど」
「ああ。なんだ?」
「A大にそのまま上がるのやめるよ」
親父はいつもドリップ式のコーヒーメーカーでコーヒーを入れる。ゆっくりとそこにお湯を注いでいた手を止めて、親父は俺の顔を見た。
「初等科から入学させたのは大学に入りやすいようにと思ったのに。わざわざ別のとこ受けるのか?」
「ごめん。父さんは俺に会社継がせたかったから俺だけ引き取ったんでしょ?」
「何言ってんだよ」
「わかってるよ、俺もずっとそのつもりだったし、経営学を学ぼうと思ってた。でも、やりたいことが他にできたんだ」
「何だ?」
「建築関係の勉強をしたいんだ」
「あいつに何か言われたのか?」
「母さんは関係ないよ。俺がただやりたいだけ。本当はずっと、前から勉強したかったんだ」
親父は軽くため息をつくと、またコーヒーメーカーにお湯を注いだ。キッチンの方に向かって立ちすくむ俺にそっと目をやると、ふっと笑った。
「会社を無理に継がせようとは思ってないよ」
「え?」
「もちろん継いでくれるにこしたことはないけど。ただ、お前が母さんと同じ道を選ぶとは思ってなかった。何に興味持った?」
「父さんのやってる店かな。全部、母さんの設計でしょ?」
「確かにな」
用意された白いカップに親父はコーヒーを注いだ。とてもいい香りがする。
「お前が小さい頃はよく連れて行ったからな、どの店も」
「うん」
「好きなようにしなさい。将来ものになったら、今度はお前に設計を頼むよ。心強いな」
「ほんとに?」
「今からで間に合うのか?建築家のある大学への進学は」
「大丈夫、十分間に合うから」
「じゃあ、がんばりなさい」
カウンター越しに白いカップを一つ受け取った。親父の入れるコーヒーは最高なんだ。
まだ記入していなかった進路希望の用紙を次の日に学校に提出した。A大に上がる予定のトオルには残念がられた。腐れ縁更新ができなくなると言って抱きつかれて、気持ち悪いからやめろって廊下でじゃれあってたら、通りすがった女子に冷ややかな視線を送られた。
「ほら、トオルのせいだからねっ」
「セナが進路急に変えるからだろ?」
まだまだガキなんだ、俺たちは。だから色々悩みながら毎日生きてるのかもしれない。大好きな人のことを思いながら。
「はぁ~。超いい天気」
制服が夏服になった。朝からいい天気だった。部屋に差し込む日差しが眩しすぎるくらいだ。いつものヘッドフォンを首にかけて通学バッグを肩にかける。自分の部屋を出ようとして思い出す。あ、LINE届いてたんだった。
Rika「おはよう」
時田「おはよう」
ただそれだけ。挨拶だけだけど。知らない間にできた毎朝の俺たちの決まり事。スマホをバッグにしまうと、玄関に向かった。また今日もだ。ひっくり返ったままの片方のローファーを足でひょいと上向きに戻すとそれを履いた。いつも何故だか片方だけ。後から脱いだ左側のローファーだけがひっくり返るんだ。自分で笑えてくる。ちょっとしたことが楽しい。笑えてくる。
いつからだろう。きっとリカと逢ってからだ。
いろんな、辛いとか寂しいとか感情から必死で逃げようとしていた俺の背中を押してくれる。そう、いつも何かを俺の前に落として行ってくれるんだ。直接何かをするでもなく、何かを言ってくれるでもない。俺はそれを拾う。君の落としたそれにはたくさんの笑顔になれるヒントがあって、だからとても大切にしたいって思うんだ。
自転車を車庫から出すと、俺はそれに跨った。ヘッドフォンを耳に付けて音楽をスタートする。そして俺も自転車をスタートさせた。流れる景色も風も何もかも気持ちいい。半袖に少し肌寒い感覚が心地いい。
駅までの道のりを自転車を走らせながら、耳に聞こえてくるメロディに合わせて俺は口ずさんだ。
「上手くは言えないけど[幸せ]なんだよ!」
君ドロップス