わたしの宇宙
広い舞台の上で、たった一人のバレリーナが一身に光を背負いながら踊っている。その姿を、2000人の観客が息を詰めて見つめていた。
電車に揺られながら、あの光は永遠にわたしの頭上には降りてこないのだ、ぬるい吊革に捕まりながら、彼女はそんなことを考えていた。
わたしにも彼女にも、心の中に自分だけの宇宙があるとして。きっと彼女の宇宙では星々が華やかにきらめいて、太陽と月が彼女の白く長い手足の輪郭をはっきりと映し出すだろう。重力のない世界も、彼女の前ではその威厳を失う。彼女は不自由で自由な身体を弄ぶように、宇宙でいちばんのワルツを踊るだろう。妖精のような彼女の笑みが浮かぶ。軽やかなステップが音色を奏でる。そこでは、全てが劇的なのだ。
はて、わたしの宇宙には、どんな惑星が漂っているのだろう。そもそも惑星が存在しているのだろうか。考えれば考えるほど、マイナス思考になる。電車の窓の向こうに広がる夜の街をぼんやりと眺めながら、彼女は彼女の宇宙に想いを馳せていた。
駅に着き、すぐ近くの広場で時間を潰した。待ち合わせの時間までまだ少しあった。金曜の夜、たくさんの人が誰かのためにこの広場にいて、あちこちで再会を喜ぶ声が聞こえる。彼女は少し憂鬱な気分になって、このまま下を向いているともっと暗くなりそうだと思い空を見上げた。
だけど、空を見上げても孤独。わたしの一等星はどこだ。
「ごめんごめん、遅れた」
声のする方を見ると、仕事終わりの彼が急ぎ足で近づいてきた。謝ってるのに顔が笑っている、これがわたしの恋人である。
「なんで遅刻したのに笑ってんの」
「あっこれもともとこういう顔なんで」
少し歩いて、信号待ちで、寒くって、2人でぴょんぴょん跳ねながら青信号になるのを待った。
今日のバレエどうだった?すごかった、宇宙が見えた、宇宙?宇宙。無限に広がっていくようで怖さすら感じた、本当に美しくて、だけどその美しさはただの美しさじゃない、そう、ブラックホールみたいな。
ブラックホール?
うん、
信号が青に変わった。また少し歩くと地面がコンクリートから芝生に変わった。都会の真ん中にオアシスのように人工的に作られた芝生だ。彼はここを歩くとき、わざとずんずんと芝を踏みしめる。何も言わないが、何かが気に食わないのだろう。
今日で仕事が一段落したから、帰ったらビール飲んでもいい?と聞くので、わたしに聞くことじゃないし、飲めばいいし、よく頑張ったね、と言うと、いやほんま頑張ったし、頑張り過ぎて痩せるかと思ったし、でもお腹出たまんまやし、と笑いながらコートの中の少し出っ張ったお腹をこちらに向けてくる。
声を出して笑った。手を繋ぎ直して、また芝生の上をふたりでずんずん進んでいく。
ふと見上げると、夜の空に雲が霞んで、星はひとつも見えない。
わたしの宇宙、こんな感じかも。
なにー?
いやなんでもない
ブラックホールの話?
いやもうその話終わってるし。ていうかブラックホールの向こう側ってどうなってるんやろ
終わってないやんブラックホールの話!
繋がってるかもよ、
どこに、
また別の宇宙に
また別の、
そう。
あ、なるほどねー。
わかった?
わかってない。
マジで
あはは
星無くても真っ暗でもええやんか
よくないよ
毎日明るかったら眩しくて前見えへんやん
なんか話変わってきてない?
変わってないない、
どうやろ
お互いがどうにか見えてるくらいがちょうどいいんちゃうん、
はあ、
ほら、今だって暗いけどさあ、俺のお腹出てるの見えるやろ
はっきりと見える
見るなよ
どっちやねん
元気になった?とにかく寒いからはよ帰ろ、な!帰ってビール飲も!
広い舞台の上で、彼女は彼女の宇宙をつくりだす。2000人が彼女の虜になり、彼女の世界を遊泳する。わたしはその2000人のうちの一人だ。手足の長さは至って平均、顔も化粧映えしない、ほんとどこにでもいる一般ピープル。パンピーは、ひと時の夢を味わっでそれぞれの宇宙へと帰っていく。ブラックホールを抜けてたどり着く先は、さっきよりも薄暗く、こじんまりとした宇宙かもしれないけれど。
あっ。
その宇宙の片隅で、穏やかな光を放つ小惑星。目をこらすと、手を振りながら誰かがわたしを呼んでいる。息継ぎをしながら銀河を泳いで、星に降り立つ。
おかえり。
ただいま。
冷蔵庫を開けると、よく冷えたビールが二本。暖房の効いた部屋で飲む冷たいビールは最高だ。それも好きな人と飲むビールは、格別でしょ。
小さな小さな、わたしの宇宙。あなたの宇宙のように華やかなスポットライトもオーケストラのBGMもありませんが、意外と居心地良いものなんですよ。いつかお暇な時に寄って行ってくださいね。
その時は、よく冷えたビールで、乾杯しましょう。
わたしの宇宙