暗い旅

 肩に食い込むリュックサックの重みが、この旅の長さを思わせた。

 風が、強く吹いている。先程から薄い雪が降り始めていたが、それらは彼女の歩みに何の障害も与えないまま、アノラックの無機な素材に決して溶け込むことなく、触れては消え、触れては消えを繰り返していた。

 暗い旅だ、彼女は突とそう思った。少なくとも、彼女はその暗さに陶酔している部分があった。それは、彼女自らが望んだ旅の光度そのものだった。
 歩みと共に揺れる背のリュックサックには、最低限の荷物とそれから、この旅を始める時に一冊だけ持ってきた文庫本が入っている。彼女をこの旅に向かわせた理由が、そこには詰まっていた。

 暗い、樹海のような底暗さを持つ小説だった。60年代の臭さがあり、彼女には到底想像に及ばない、しかし確かな憧れに似たものがそこには横たわっていた。だから彼女はこの小説の12ページ目を読み終えた時既に、わたしは鎌倉、この小説の舞台である鎌倉へ、向かうとも向かわずとも、この本を読み終えたら、ああわたしは旅に出なければいけない、と、切に想ったのだった。

 言葉尻を埋める「だった……」という特徴のある表記が気になった。わたしはこの「…」の正式名称を知らない、だからここでは馬鹿みたいに「てんてんてん」と呼ぶことにする。そしてこの「てんてんてん」は、終始彼女の頭の中で物語と平行して目につくもの、気になるものとして、あまり良くないほうの感情を持って認識されていた。「てんてんてんが鬱陶しい。」最初のうち、彼女の「てんてんてん」に対する評価はそのようであった。途中から、もうその「てんてんてん」のことを忘れるほどには、彼女は眼前に広がる物語の世界に没頭していた。

 小説を読み終えてすぐに、彼女は旅に出る準備を始めた。人の気配が薄い地方を目指した。旅に出る明確な理由は思いつかなかった。ただひとつ、この旅を終えたらきっとわたしにも「てんてんてん」に込められた彼女――愛した男を失って色の無くなった世界をさ迷う小説の主人公であるところの彼女――の想いを知ることができるのだと、そう思っている。

 いつ京都に帰るかは決めていない。ゴールはないが、所持金のことを考えれば長くて後二週間ほどだろうか。

 暗い旅だ。それも冷たい、固い、無機質な。だが彼女の心うちは躍り出しそうな喜びに満ちている。彼女は今この状況を言葉にして説明できる能力を未だ持ち合わせていない。もしかすると、それらの言葉を探すための旅なのかもしれない。

 視界は明瞭だ。自然と、彼女は作中の主人公に成り変わって一言、告いだ。

「頬を突き抜ける風は、大いにわたしを歓迎している……」

暗い旅

暗い旅

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted