ここで一番好きな風景 後編
19
本当に、久し振りの板橋だった。
ネットカフェで暮らし始めてから、俺は一度として板橋には近寄らなかった。
来る理由が無かった。それだけだ。
ユウキと二人でネットカフェを朝五時に出て、二人で富士そばの天玉そばを食べ、池袋駅東口の前でガードレールに二人で腰掛け、俺達はたわいも無い会話を交わした。
「結局、最後まで出来なかったね」と、ユウキは笑い、俺は自虐的に笑い返した。
そんな時、不意にユウキの携帯にイズミちゃんからメールが入った。
『飲み過ぎて気持ちが悪い。介抱して…』
そんな内容だった。ユウキは笑いながらメールを返すと、
「じゃあ、ごめんナオヤ。私、イズミさんとこ行って来るね」
そう、俺に微笑んだ。俺は直ぐに「俺も行くよ」と、返した。ユウキは少し驚いた顔を見せた。俺がそんな事を言ったのは、初めてだったからだろう。
別に、兄貴からの電話とか、母親とか、そういったものは関係なかったように思う。まだ一人になりたくなかった、それだけだ。
久し振りに二人で電車に乗り、久し振りの板橋駅前噴水広場に出ると、最初に目に入ってきた物に俺とユウキは同時に驚いた。あの日、二人乗りしたユウキの自転車が回収されずに奇跡的に残っていたのである。「すごいすごい!」と、ユウキはハシャいだ。俺も、なんとなく嬉しかった。カギは自分の財布の中にしまってあったから、俺達は久し振りにその自転車で二人乗りしてイズミちゃんの住むマンションに向かった。
イズミちゃんは、思っていたよりはマトモだった。俺達が来る前に二回くらい吐いたと言っていた。ユウキは、来る途中のローソンで買ったウコンドリンクを玄関先でイズミちゃんに渡し、イズミちゃんはそれをその場で一気に飲み干してオヤジみたいな声を上げた。それから部屋に上がり、三人でたわいもない会話を交わして盛り上がった。ただ、いつもはコウジの話ばかりが出てくるイズミちゃんの口は、今日は俺も居るせいか、やたらと俺とユウキの間を心配する話ばかりだった。
「いつまでナンミン続けるの?」
「ユウキの店、一度くらい遊びに行ってあげなよ。ユウキすっごいカワイイんだから」
「ナオヤ君、いつまでも派遣続けてないでさ、適当に就職決めちゃえば?」
「ユウキ、もし来年、まだキャバ嬢続けてたらさ、イズミの店に来なよ。今のところより全然稼げるんだから」
「早く二人で住んじゃいなよ。アパートくらい借りるの安いよ」
『早く二人で住んじゃいなよ』その言葉が、いつまでも俺の耳に住み着いた。
朝の八時を回ったところで、ユウキとイズミちゃんは寝ると言い出したから、俺はイズミちゃんのマンションを出た。イズミちゃんには「一緒に寝ていけばいいのに」と、誘われたが、ここからは一人になりたかった。
そうして俺は今、ユウキの自転車にまたがり、噴水広場の前でもう一時間以上こうしていた。
いつものように、サウナに行って休む気にもなれなかった。
別に眠くもなかった。
時間だけを潰し続けている俺の横を、時間に追われるように沢山の人々が板橋駅に吸い込まれていったり、吐き出されたりしている。たまに、見知ったような顔が通り過ぎて行ったが、名前も思い出せない。ただ、その背中を見送るだけだ。
周りには、黄色いビニール生地のベストを着たジイさんバアさん達が、自転車を駅前に放置させまいとウロウロしている。学生服を着た茶髪の奴が、その中の一人のジイさんと言い合いになっているのが見えた。そのうちに駅から駅員が現れ、二人の仲裁に入った。茶髪の学生服は、周りの自転車を蹴っ飛ばしていた。
「怖いわねぇ、殴られなきゃいいけど……」
すぐ横で、そんな声が聞こえた。振り向くと、周りと同じように黄色のベストを着たバアさんだった。バアさんもこっちに気付き「ここに自転車は停めないでくださいね」と、ニッコリ笑った。とげぬき地蔵で俺とユウキに声を掛けてきた、あのバアさんを思い出した。俺は、小さく会釈だけして、自転車を走らせた。
どこに行く当てがあるわけでもなかったが、少しだけ気になった場所へと俺は向かった。
ユウキの家だった。
捜索願も出されていないと言っていたし、ユウキの口からも家の誰かから電話があったという話を聞いていない。どうなっているという訳でもないのだろうが、とりあえず向かってみた。
着いてみれば、ユウキの家は以前と変わらず、ただの無機質な白い建造物だった。窓もカーテンも閉められ、誰かが居るような気配も無い。もしかしたら、この家にはもう誰も帰ってきてはいないのかもしれないと、俺は思った。
自分のマンションの前も通ってみた。通りすぎただけだ。止まる気は無かった。
『今も、あの母親は泣いているのだろうか?』
そんな思いが過ぎったが、それも過ぎっただけ。感情なんて無く、ただ過ぎっただけ……
目の前に見えたパチンコ屋の前で自転車を停め、久し振りに入ってみた。二年ぶりに打つパチンコは訳が分からず、三千円スッたところで店を出た。
そうして俺はまた、噴水広場に戻ってきた。
昼を少し過ぎたところだったが、未だに眠くはならず、腹すら減らなかった。
きっと、まだぐちゃぐちゃのせいだ。
俺は、久し振りにあの世界で一番好きな風景が見たくなって、自転車を降りた。そんな時だった。
「あれ?、ナオヤ君じゃないか」
背中に聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、そこには久し振りに見る顔があった。いつもと同じ丸メガネを掛けた『カラオケ・123(ワンツースリー)』のマスターだった。
「しばらくだね……とは言っても、まだ一ヶ月も経ってないか。なんだか、あれだけしょっちゅう店に顔出してた人が突然来なくなると、もう何年も会ってない気になっちゃうな」
言われてみれば確かにそうだ。朝、板橋の駅に着いた時も、今マスターの顔を見た時も、久し振りと思ったが、考えてみればまだ半月、二週間とちょっとしか経っていない。生まれ育った町から離れるというのは、そういう事なのだろう。
マスターは気さくに笑い、それから不思議そうに尋ねる。
「こんなとこでボーっとして、どうしたの?、誰かと待ち合わせ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
俺は思わず答えに詰まった。すると、マスターは少しだけ笑顔を浮かべて言った。
「もしヒマなら、今からうちの店に来ないかい?」
「えっ?、一人でカラオケはちょっと……」
マスターは「違うよ」と、言って笑う。
「実はさ、今日で賞味期限の切れる食品が結構あってね、処分しなきゃいけないんだけど、捨てるのも勿体無いじゃない?。だから、ちょっと若者に手伝ってもらおうと思ったんだけど……もしかして、もうお昼済んじゃったかな?」
別に腹など減っていなかったが俺は「じゃあ、ご馳走になります」と、何となく返事をしてしまった。
半月ぶりに入る『カラオケ・123(ワンツースリー)』は、当たり前だがどこにも変化は無かった。でも、それは何だか俺をホッとさせた。
開店前の店内は蒸し暑く、有線もかかっていなくてシンとしていた。この店の従業員はマスター一人だから、夜中営業している分、開店は午後三時からだった。
「ちょっと待っててな」
そう言ってマスターは、フロントの電気だけ点けて空調を入れると、控えめな音で有線をかけ、直ぐにキッチンへと向かった。
「これと……これと……」
そんな独り言が、キッチンの中から微かに聞こえてきて、それからガスコンロを点ける音、蛇口を捻る音、水の流れる音、フライパンを振っている音、そんな音達が、有線から流れるヒット曲に混じってくる。
天井に埋め込まれた空調から流れ出る冷たい空気が、店内に入った時の蒸し暑さを忘れさせてくれた頃、マスターはキッチンから出てきた。待合用のソファに座る俺の前には、小さなガラスのテーブル。そこにマスターが並べた料理は、エビピラフ、たこ焼き、ピザ、枝豆。笑いが出るほど色取り取りな組み合わせだった。
「喰い合わせが悪い、とか言わないでよ。残り物なんだから」
マスターは、愛嬌のある笑顔を見せる。俺も軽い笑顔を返し「いただきます」と言って、エビピラフから食べ始めた。
マスターはカウンターの中に入り、開店の準備を始めた。
エビピラフとたこ焼きを平らげ、ピザを半分、枝豆を少しつまんだ所で、俺の手は止まった。残してしまったが、思っていた以上に食べれた。自分に食べる気は無くても、体は勝手に欲しがるようだ。
「ごめんなさい、やっぱり残っちゃいました」
そう言って、俺はマスターの用意してくれたウーロン茶を飲み干す。
「気にしないでいいよ」
マスターは笑った。それから、マスターは煙草に火を点け、俺にも一本勧めた。セブンスターだった。俺は遠慮なく貰い、一服ついた。
ぐちゃぐちゃだったものが、やっと少しだけほどけてきたように感じた。
マスターはカウンターに寄りかかり、ゆっくり煙を吐く。立ち上った煙が、空調の中に吸い込まれてゆく。そんな様子を見上げながら、マスターは不意を突く言葉を俺に言った。
「ナオヤ君、今、女の子と家出してるんだって?」
俺は、吸っていた煙草の煙に思わずむせ返った。
「コウジから聞いたんですか?」
マスターは、まだ空調に吸い込まれてゆく煙を見上げながら言った。
「違うよ、君の母親からだよ」
「えっ!」
俺の全身に悪寒が走った。
「十日くらい前に、えらい剣幕でやってきてさ、うちの息子が来なかったかって。女子高生に騙されたまま家に帰って来ないって言ってたぞ」
マスターは、小さく笑った。
俺は、俯いた。
「家出と言えば家出なのかもしれないけど、そういう意識はあまりないです……」
「そうだろうな。もう未成年じゃないし、捜索願が出たところで、警察は君の事を探そうとはしない。世間で言うところの『大人』に、家出という言葉は間違ってるからな」
「でも、騙されてるわけじゃない……」
「そうか……」
マスターは、またゆっくり煙を吐き出し、自分に用意したアイスコーヒーに口をつけた。
有線からは、聞き覚えのあるバラードが流れていた。
「……それで、道は見付かったのかい?」
突然の言葉。よく、わからなかった。
「道……ですか?」
顔を上げると、マスターは薄い微笑みを浮かべ、俺を見詰めていた。
「そうだよ、道だ。進むべき道ってやつだ」
「わかりません……自分が今どこに居て、どこに行こうとしているのか、それすら……」
「そうか。まだまだ長そうだな」
マスターは、慰めるような笑みを俺に向けた。そして、何かを思い出したような顔で言葉を続けた。
「そう言えば、この店がなんで123(ワンツースリー)なんて変な名前なのか、俺、ナオヤ君やコウジ君に教えた事はあったっけ?」
「いえ……」と、俺は首を振った。気にした事もなかった。
「俺な、今はこんな冴えないオッサンだけど、昔はミュージシャンやってたんだよ。バンド組んで、俺はドラムだったんだけど、一応メジャーデビューもしてたんだぜ」
「へぇ……」
もちろん初耳だった。
「でもな、デビューなんて言ったって形ばかりだった。いくら曲出したって鳴かず飛ばず、ライブの動員数なんて、やる度に減っていった。ボーカルの奴とさ、『俺達、本当にデビューしてるんだよな?』って、同じバイト先で言い合った。笑いも出なかったよ。どんどん生活は困窮していって、結婚して子供いる奴も居たから、将来への不安が見え隠れしてきて、結局バンドはあえなく解散。みんな散り散りになっていったよ」
「ツライですね……」
「二十年も前の話だけど、今でも俺は『今じゃ良い思い出だよ』なんて言葉は、出てこないんだ。きっとそれは、あの時『4(フォー)!』って言えなかったからだと思うよ」
「4(フォー)?」
「解散して、途方に暮れた毎日を送っていた頃にさ、夢に出てきたんだ。いつものようにメンバーとスタジオでリハをやってる夢でさ、俺がドラムに付いて、いつも通りカウントを取るんだけど、1・2・3(ワン・ツー・スリー)の次の言葉がどうしても出てこないんだ。何度カウントを取ったって、どうしても4(フォー)が出てこない。曲が、いつまで経っても始まらない。それで起きた時に、どうして俺はあの時、メンバー達に4(フォー)って言えなかったのかなって、そんな事を考えてさ、バンドが解散してしまった事に初めて泣いたよ……」
そしてマスターは「みっともない話だな」と、明るく笑ってみせた。その笑顔は明るいのに、何故だかやたらと哀しく見えて、俺は「いえ……」と、不自然な笑みしか返す事が出来なかった。
「だからさ、この店の123(ワンツースリー)って名前は、自分への戒めなんだ。次こそは4(フォー)って言ってやるってね。ナオヤ君、君に何があるかまでは、俺は知らないけど、ここで4(フォー)を言わなきゃ、君はきっと後悔する事になるんじゃないかって俺は思う。1・2・3(ワン・ツー・スリー)の次の言葉を言わなきゃ曲は始まらない。4(フォー)って言葉は、自分で言うものなんだ」
マスターは、ニッコリと笑った。俺も、ニッコリと笑い返し「ありがとうございます」と言った。
ふと時間に気付くと、午後の二時を回っていた。
「それじゃあ、ごちそうさまでした。俺、もう行きます」
そう言って俺が立ち上がると、マスターは「もう少しゆっくりしていってもいいよ」と、言ってくれた。しかし、俺は首を振った。
「マスターの話を聞いてたら、探したいものが出来たんで」
「そうか。がんばれよ若者」
マスターは、そう言って俺に小さく手を振ったが、すぐに「あっ、そうだ」と続けた。
「あんな時間に、あんな場所で途方に暮れていたところを見ると、ナオヤ君、大した仕事してないんだろう?。気が向いたらでいいんだけど、もし良かったらウチで働いてみないか?。俺一人じゃ、最近キツくなってきちゃってさ」
俺は、少しだけ考えた後、はい、とも、いいえ、とも答えず「いきなりのお願いで申し訳ないんですけど……」と言った。
「俺が乗ってた自転車、預かっててもらえないですか?。駅前に置いてたら回収されちゃうし……思い出の自転車なんですよ」
「いいよ。責任もって預かっとくから、必ず取り来いよ」
マスターと俺は、またニッコリと笑い合った。
そうして俺は『カラオケ・123(ワンツースリー)』を出る。頭の中に描いていたのは、この近辺の不動産屋の位置だった。ある程度まとまった金は、俺の財布の中に入っていた。ユウキの持ち金と合わせれば何とかなると思う。
二人の居場所を見付ける。
それが、俺に取っての『4(フォー)!』だと思った。
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いつもなら、ナイトパックの適用時間である午後八時から入るのだが、今日は一時間分の料金を上乗せさせて、いつものネットカフェに七時半から入った。ワクワクが抑えられず、いてもたってもいられなかったからだ。
123(ワンツースリー)を出た後、その足で俺は思いつく限りの不動産屋を回った。ガラス越しに貼り付けられている紹介物件を見て回りながら、気になった物件は直接店内で話を聞き、資料も貰ってきた。午後四時を回った頃、ユウキから電話が入り、俺とユウキ、それにイズミちゃんも加え、三人でマックに行った。さすがに俺は、コーヒーだけにしたが……
ユウキには、部屋を探している事を言わなかった。ユウキの仕事が終わった後、今日いくつか貰ってきた物件の資料を見せて驚かせてやりたかったからだ。二人で貰ってきた資料を見て、ヒマを見て二人で部屋探しに歩いてみようかとも考えていた。板橋や池袋にこだわるつもりも無かったから、今はネットでも物件情報を調べている。いつもより早い時間にネットカフェに入ったのは、その為だった。
ユウキは、きっと喜んでくれると思う。
それは、誕生日に何もしてやる事が出来ず、おめでとうの一言も言い出す事が出来なかった俺の、せめてもの罪滅ぼしでもあった。
タスクバーに表示されているデジタルが、二十一時に差し掛かる頃だった。椅子に座りっぱなしで、いいかげん背中が痛くなってきた俺は、アイスコーヒーでも持ってこようと席を立ちかけた。その時、不意にドアがノックされた。
「ナオヤ君……」
カレンさんの声だった。俺は少し驚きながら部屋のドアを開けた。
「もう居たんですか?、随分、早い入りですね」
大抵、カレンさんは、深夜十二時を回った頃に入ってくる。
「うん、今日は先方の都合で早く仕事が終わったの」
「そうだったんですか……」
「部屋でCD聞きながらマンガ読んでたんだけどさ、いいかげんマンガにも飽きてきちゃってね、それで、ナオヤ君居るかな?、と思って店員さんに聞いたら、この部屋に居るって言うから来てみたの」
カレンさんは、いつものように雑誌モデルのような完成された笑顔を浮かべる。
「もしかして、邪魔だった?」
「いえ、そんな事はないですけど……」
「よかった。エッチなサイトでも見てたらお邪魔かな、と思ってたの」
「見てないですよ、そんなの」
俺は苦笑し、カレンさんは楽しそうな顔を浮かべる。それから、パソコンの液晶画面に映し出されていたものに気付き、少し身を乗り出してきた。
「もしかして、部屋探ししてたの?」
「ええ、まあ……」
「それじゃあ、やっと二人で住めるの?」
俺がコクリと頷くと、カレンさんは「やった!」と大きな声を上げて、自分の事のように喜んだ。そして、直ぐに両手で自分の口を塞ぎ、気まずそうに辺りを見回した後、また小さな声に戻って言う。
「よかったね。ユウキちゃんも喜んでるでしょ?」
「ユウキには、まだ言ってないんですよ。驚かせてやりたくって」
「あっ、それいいよ。ユウキちゃん、絶対感動するよ。私だったら泣いちゃうかも」
カレンさんは、また自分の事みたいに喜ぶ。
「まあ、とりあえずさ、良かったじゃん。これでお姉さんも一安心だよ」
そうして、また雑誌モデルような完成された笑顔を浮かべる。その笑顔のまま、静かに言葉を続けた。
「ところで、マンガ読むのも飽きてきたから、ちょっと外に付き合ってくれない?。ここに戻る時のお金、払ってあげるから……」
一瞬、躊躇った。
だが、俺はコクリと頷いた。
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目の前には、明るく大きな満月が浮かんでいた。俺は、それを追いかけるように、必死に、全速力で走っていた。
ユウキからの電話は、突然、俺の携帯を振るわせた。
「ナオヤ!、店に早く来て!、イズミさんが……イズミさんが……」
電話越しに聞こえたユウキの声は、すでに泣きじゃくっていた。
お盆休みも終わろうとしていた週末の池袋は、ここぞとばかりに遊びに出てきた人達で賑わっていた。俺は、そんな人々の間をすり抜けながら、たまに肩がぶつかってしまう人に「すみません!」と、謝りながら、とにかくユウキの店を目指して、ただ走り続けた。
ロサ会館を通り過ぎた辺りで、建ち並ぶ雑居ビルの中の一つに、紫色の『ベルベット』の看板が見えた。
ビルの前には、ユウキが立っていた。初めて見るキャバ嬢姿のユウキは、俺ですら気付かずに通り過ぎてしまいそうなくらい綺麗だったが、その顔は涙で濡れていた。
俺の姿を見付けるなり、ユウキは俺の胸元にすがりついてきた。
「ナオヤ、お願い、イズミさん止めて……」
胸元から俺の事を見上げ、泣きながら訴えるユウキ。電話では泣くばかりで、ユウキから詳しい事情を聞く事は出来ていなかったが、何となく察しはついていた。
「イズミちゃんは?、お店の中?」
「ううん、こっち……」
ユウキは俺の手を引き、駆け足でビルの裏口へと俺を案内した。
ポリバケツがいくつか並んだ、薄暗いビルの裏口。そこに、イズミちゃんの姿はあった。どこから持ち出してきたのか、手には今にもヘシ折れそうなモップを握っていた。そんなイズミちゃんの足元には見知らぬ男が、裏口の薄汚れた狭いドアに寄りかかり、頭を抱え蹲って震えていた。顔は良く見えなかったが、雰囲気から直ぐに店の人間だとわかった。多分、あれがベルベットの店長だろう。
「もう止めて、イズミさん!」
ユウキは泣き叫ぶ。
「ゴメンね、ユウキ……全部アタシが悪いんだよ……今からコイツ、殺すから……」
やっぱり、最悪の状態だった。
イズミちゃんの目は完全に座り、声も虚ろで、どうしようもないくらい陰鬱な表情。今までに数回、イズミちゃんのこういったヤバイ状態……陰鬱が限界に達してしまい暴れてしまうのは見た事があったが、ここまでヤバくなっているのは俺も始めてだった。いつもは自分の事を『イズミ』と呼んでいるのに、それが『アタシ』に変わっていたのが何よりの証拠だった。放っておいたら、本当に目の前の男を殺しかねなかった。
「イズミちゃん!」
俺は叫んで、飛び出そうとした。しかし、逸早くそんな俺の横をすり抜けて行った影があった。影は直ぐにイズミちゃんの後ろに回り、羽交い絞めにした。
「止めろイズミ!、落ち着け!」
コウジだった。ユウキは、俺に電話した後、直ぐにコウジにも知らせていたのだろう。
「何があったか知らねえけど、とにかく落ち着けよ!」
叫び、必死にイズミちゃんを押さえ込もうとするコウジ。イズミちゃんは、まるで何か一連の動作だけを繰り返す機械のように、右、左、右、左と、コウジの腕を振り解こうとする。声は、更に酷く虚ろになってゆく……
「店に来たんだ……ユウキのマクラの相手……」
その瞬間、俺の頭は真っ白になった……
「ソイツから、全部聞いたんだ……ユウキのマクラの相手は、何人か居るとか……店長がマクラを勧めてるとか……」
「そこは誤解だよ!、俺は従業員にマクラなんて勧めないよ!」
男は、蹲ったまま必死に叫ぶ。だが……
「誤解でもなんでも、アンタがアタシを裏切った事に変わりはないよ……」
俺は、恐る恐るユウキに振り返った。
ユウキは、顔を両手で覆い、その場に泣き崩れていた。問い質すまでもなかった。
黒い塊が、俺の手を振るわせた……
イズミちゃんがありえない力で、ついにコウジの腕を振り解いた。そして、モップを振り上げて、頭を抱えて丸めている男の背中に叩きつける。
男は、踏まれた猫みたいな声で叫んだ。それと同時に、とうとうモップが力尽きるようにヘシ折れた。折れた先は、まるでデカイ注射針のようだった。イズミちゃんは、そのデカイ注射針を逆手に持ち、男に向かって振り上げた。その瞬間、俺があっと声を上げるよりも早く、コウジが今までで一番大きな声を張り上げて怒鳴った。
「いいかげんにしろイズミ!」
イズミちゃんの動きが止まる。そのまま、イズミちゃんの手に握られていたモップの残骸が、音も無くその場に落ちた。
イズミちゃんは、亡霊のようにそこに立っていた。ブツブツと、何かが聞こえた。
「アタシが悪いんだ……全部、アタシのせいだ……高校の時と一緒だ……アタシのせいだ……」
そして、ぼろぼろと涙を零し始め「ごめんなさい……ごめんなさい……」と、誰に向かって言っているかもわからない風に、何度も何度も謝り続けた。
「もういいよ……」
そう言って、コウジはイズミちゃんの細い肩を抱いた。さっきのコウジを腕を振り解いた力が一体どこから出てきたのか、それ程に細いイズミちゃんの肩。その肩を震わせて、イズミちゃんは号泣した。泣き声が、この薄暗い路地裏にコダマして、池袋の喧騒の中に消えていった。
コウジは、まだ体を丸めて蹲っている男の前にしゃがみこみ「店長……」と、小さく声を掛けると、財布を出して中から十万程の金を男の前に差し出した。
「イズミが申し訳なかったス。これで、おさめてください」
ゆっくりと男は顔を上げる。細面の、人の良さそうな顔をした男だった。モップで殴られたのか、左の頬が青く腫れあがっていた。
男は金は見て、首を横に振った。
「いや、コウジ、これは受け取れないよ。頼まれてたのに、店の利益を優先させて見て見ぬふりをしてた俺も悪かったんだ。ユウキちゃん、成績いいしさ、だからつい俺も……でも、これからもユウキちゃんには頑張って……」
そこでコウジは声を上げ、男の言葉を遮った。
「だから!、これで手打ちにしてくださいって言ってるんですよ」
そして、コウジは俯き、言葉を繋げた。
「じゃないと、俺の仁義が通らないんです」
「仁義か……」
男は、皮肉めいた口調で呟き、差し出されていた金を懐に入れた。
コウジは、またイズミちゃんの肩を抱き、「いくぞ」とだけ言って、イズミちゃんを連れて外の通りに歩き始める。擦れ違い様に、コウジは俺に「すまなかったな、ナオヤ……」そう言った。とても辛そうな表情だった。
イズミちゃんは、まだ泣いていた。
俺は、ユウキの側に寄る。ユウキも、まだ蹲って泣いていた。俺は、そんなユウキの手を握り、今出せる限りの精一杯の優しい声でユウキに言った。
「行こう、ユウキ」
どうして優しくしてくれるの?、そんな言葉を言いたげな顔で俺を見たユウキだったが、何も言わず、ただコクリと頷いた。そんなユウキの手を引いて、俺はコウジの背中についていった。
通りに出ると、コウジは直ぐにタクシーを拾った。俺が一番奥に行き、その隣りにユウキ、そしてイズミちゃんが乗り込む。助手席にはコウジが座り「板橋まで」と、運転手に短く告げた。運転手は頷いただけで何も言わず、車を出した。
明治通りに入る。車の流れはゆるやかだったが、車内には、重たい空気が満ちていた。誰一人として口を開こうとはしない。運転手すら、愛想話の一つもせず、押し黙ったまま車を走らせ続けている。板橋までの時間が、やけに長く感じた。
車が板橋の駅前に着くと、コウジはそこからイズミちゃんのマンションまで車を誘導し、そこで俺達は車を降りた。
イズミちゃんは、もう泣き止んではいたが、俯いて、また亡霊みたいだった。コウジは、そんなイズミちゃんの肩を包むように抱いて、言葉を俺に向けた。
「ナオヤ、俺、イズミのこと部屋に連れてって落ち着かせてくるから、お前はユウちゃんと一緒に、ここで少し待ってろよ。それで、ユウちゃんとよく話し合えよ」
俺は「うん」と、小さく頷いた。
そしてコウジは、ユウキに目を向ける。コウジは、笑っているような、情けないような、そんな顔をしていた。
「ユウちゃん、ああいった世界だし、どうしようもない事があるのは俺もよくわかってる。でも、ナオヤにはわからねえんだ。だから、ナオヤには包み隠さず、全部話してやってくれないか。そうじゃないと、ナオヤが可哀想だ……」
ユウキは、俯いたまま何も答えなかった。
そうしてコウジは、イズミちゃんを連れてマンションの中に消えていった。
どこからか、虫の声が聞こえていた。
駅の近くだったが、人通りは無かった。
電信柱にしがみ付いている街灯のぼやけた明かりを避けるように、俺とユウキはマンションのレンガ造りの植え込みに腰掛けた。
何から話し出せばいいかわからなかった。ユウキは、隣りで俯いたまま。
寄り添ってこようとしないのが寂しかった。
「ちょっと、飲み物でも買ってくるよ……」
最近の俺のパターンだ。居た堪れなくなると、ジュースの自販機に逃げる。しかし、立ち上がりかけた時だった。
「ごめんなさい……」
ユウキは顔を上げ、呟くように言った。
俺は、また植え込みのレンガに座り直すと、ユウキを見詰めた。だが、ユウキは俺から目を逸らすように、また俯いた。そんなユウキの横顔に、俺は少しだけ笑顔を浮かべて言う。
「メイク、涙で少し崩れちゃってるな」
「うん……」
「でも、暗いからそんなに目立たないよ」
「うん……」
ユウキは、ただ頷くだけ。
俺も、言葉が続かなかった。また、ジュースの自販機に逃げたくなった。
そうして、また立ち上がりかけた時、やっとユウキは静かに話し出した。
「……私ね、前に、イズミさんに高校の時の事件の事を聞かせてもらった事があるの……」
「事件って、あの担任を殴って退学になった?」
「うん。あれね、イズミさんの友達に、その担任の事を好きになっちゃった人が居て、イズミさんは、二人の仲を取り持ってあげたんだって。友達は凄く真剣だったし、担任も新任で若かったから、面白いし、優しいし、真面目だったし……でも、そう見えただけだったってイズミさん言ってた。その担任の男、女癖が悪くって、その友達も、エッチ友達の一人くらいにしか思われていなくって、最後は捨てられて……イズミさん、それでキレちゃったって……」
「初めて聞いたよ……」
一年前、コウジに紹介されて初めてイズミちゃんと知り合った日、イズミちゃんは今日みたいに酷い状態だった。そんなイズミちゃんを連れて、コウジはとにかく遊び回った。いつものコウジ的な慰め方だ。多分、イズミちゃんがコウジの事をあれだけ好きになり始めたのも、その辺りからなのだろう。
そうして、ようやく落ち着きを取り戻したイズミちゃんが俺にした話は、こんなものだった。
「担任の顔と声がムカついたから殴っただけなのに、学校退学になったの。しかも親父にはブン殴られて家追い出されてさ、超サイテーだよ」
いつもなら笑い飛ばして「気にすんなよ」とか言うコウジが、その時だけは一切笑わなかった。真実を知っていたんだろう。イズミちゃんは、本当の事を話したくなかったんじゃなく、思い出したくもなかったのだと思う……
「思い出したくもない話、わざわざしてくれて『自分のした事で、誰かが不幸になるのは、もう二度と見たくない』って……」
ユウキは、膝の上で小さな拳を握った。
「私、そんなイズミさんの気持ちも知っていたのに……あんな事して…みんなに迷惑かけて……最悪だよ……」
最悪なのは、俺も一緒だ……
俺は俯き、ユウキの小さな拳にそっと手を置いて聞いた。
「いつからなんだ、ウソついてたの……」
ユウキの手が、微かに震えているのがわかった。答え始めたその声は、本当に小さかった。
「勤め始めて、三日目くらい……」
「店の女の子何人かで、お客さんに料亭に連れて行ってもらったって言ってた日か?」
「うん……」
ユウキの帰りが遅くなる日、たまに話がやたらと派手な時があった。何とか言う芸能人に会わせてもらったとか、店の先輩にホストクラブで豪遊させてもらったとか……
「ウソつくとね、楽だった。マクラなんて、辛いだけだったから……」
気がつくべきだった……
「それでも、目つぶって我慢してれば、お客は喜んでいいお金くれたし、その後も指名してくれたし、店長は『ユウキちゃんは腕がいいね』って褒めてくれたし……多分、そんなセリフがマクラを勧めてるっていう誤解を生んだと思うんだけど……お金を見る度に、止める事が出来なかった。早く、二人で暮らしたかったから……」
ユウキの握った小さな拳の上に重ねた俺の手の甲に、涙が落ちた。
「私、本当に最悪だ。ナオヤには、もう絶対にウソはつかないって決めてたのに……最悪だよ……最悪のウソツキ女だよ……」
俺だって……
「なあユウキ、俺もさ……」
覚悟を決めて、全てを話そうとしたその時だった。ユウキの口から出た言葉は……
「知ってるよ。自傷してた事も、カレンさんと寝てた事も……」
俺を凍りつかせた。
「知ってたのか……」
「ううん。自傷は、傷の出来方が一緒だったから、初めからわかってたけど、カレンさんの事は、カレンさんが直接メールを送ってきた」
別に驚きはしなかった。あの人はそういう人だ。
「ちょっとナオヤ君のこと借りとくね、たったそれだけのメールだったけど、直ぐにわかった。ただ、借りとく、って言葉が気になって、ナオヤが寝ている間に財布の中を見たの。そうしたら、私があげてる以上のお金が入ってた。それでわかったの。ああ、やっぱりそういう事だったんだって……」
そうだ、俺は彼女の愛人をやっていた……
それでもユウキは、俺の手を強く握り、俺を見詰めて言った。
「でもいいの、ナオヤは気にしないで。ナオヤの自傷を酷くしていったのは私のせいだと思ってたし、それに、ナオヤがカレンさんの事を好きになっちゃったらって不安はあったけど、カレンさんなら別にいいとも思っていたから……あの人は、もう一人の私だったから……」
「ウソツキ、って事か……」
「ナオヤも気付いてたんだ……色盲の事や、あの綺麗な笑顔の意味……」
「なんとなく、な……」
「私、ナオヤに出会わなかったら、きっとカレンさんみたいになっていたと思う……」
そんな事はない、と否定したかったが、出来なかった。カレンさんは、あまりにもユウキに似ていたから……
ユウキは俯き、それ以上は何も話そうとはしなかった。
俺の手を、ユウキはまだ強く握り締めていた。俺は、そんなユウキの横顔に、不安しかない気持ちで小さく口を開いた。
「俺達さ……」
だが、そこで俺の携帯が鳴った。コウジからだった。
「話は終わったか?」
俺は「ああ……」と、返事をした。
「じゃあ、上がってこいよ。イズミの奴、やっと落ち着いたから」
俺は「わかった」とだけ答えて電話を切り、ユウキに「行こう」とだけ告げた。
『やりなおそう』
やはり、どうしてもその言葉が怖くて口から出てきてくれなかった。
ユウキは、何も言わず頷いただけだった。
イズミちゃんの部屋のインターホンを押すと、玄関は直ぐに開けられたが、出迎えたのはコウジだった。コウジは何も言わず、ただ俺とユウキに笑いかけた。それからコウジはイズミちゃんを呼んだ。部屋の奥から姿を見せたイズミちゃんは着替えてもなく、涙で崩れてしまった化粧もそのままだったが、落ち着きは取り戻していたようだった。俺とユウキに気まずそうな顔を見せている以外は……
するとユウキは「イズミさん、ひどい顔」と、笑いかけた。イズミちゃんも「ユウキだって……」と、笑い返した。たったそれだけの事だったが、イズミちゃんの顔から気まずさは無くなった。
それから俺達四人は、イズミちゃんの部屋で飲む事になった。誰が言い出した訳でもなく、何となくそんな流れになった。きっと、全員がそんな気分だったのだ。
ユウキとイズミちゃんが着替えている間、俺とコウジは二人で買出しに出かけた。その時、俺はコウジにまた「すまなかった」と、謝られた。
『自分が甘かった』
『あの時、俺が止めさえすれば良かった』
『イズミの事は責めないでやってくれ』
そんな話を、また辛そうな表情で言った。
「きっと、誰も悪くなんてないんだよ」
俺は、そう返しただけだった。
やむにやまれぬ事情が重なっただけだ……
夜中の二時を回った頃、花火大会の話題が持ち上がった。俺もユウキも行けず、コウジとイズミちゃんも行っていないという話になると、コウジは「じゃあ今から花火やるぞ」と、言い出した。俺も、ユウキも、イズミちゃんも酔いが回っていたから、コウジの言葉にみんなしてハシャイだ。
コンビニに行き花火を買って近くの公園へと行く。人気の無い公園で、俺達は次から次に花火に火を点けた。コウジは「チマチマやってられるか」と、まとめて花火に火を点けたり、ドラゴン花火を手に持って俺の事を追い掛け回したりした。俺も、もう一つあったドラゴン花火に火を点けてやり返した。
みんな、とにかく笑った。俺も、ユウキも、コウジも、イズミちゃんも。近所迷惑なんて言葉を知らない子供みたいに、ひたすら騒いで笑いあった。
『花火の光が、今日あったこと全てをウソにしてくれればいいのに……』
そう思った。
花火をやり尽くすとコウジは「じゃあ、俺達帰るわ」と、イズミちゃんを連れて帰って行った。
俺とユウキは、公園のベンチに残された。
公園に散らかった花火の残骸。
俺は、公園の闇を遠く見ていた。
ユウキは、何も言わず俯いていた。
「家に、帰ろうか……」
俺の口から出たのは、そんな言葉だった。
ユウキは、何も言わずに小さく頷いただけだった。その寂しそうな顔が、目に焼きついて離れなかった。
結局、俺は最後まで『やりなおそう』という言葉も、マスターの言う『4(フォー)』も言い出す事が出来なかった。記憶に残っている物件情報が、花火の残骸のようだった……
22
打ちっぱなしのコンクリートの壁。灰色の面には、所々ヒビ割れを修復した後が見える。
天井には、並列に蛍光灯が並んでいて、それは全て点灯していたが、その廊下の雰囲気が薄暗さを醸し出していた。
廊下の途中、それはとても中途半端な位置にあった。
『霊安室』と書かれた両開きの大きな扉。
峰山と名乗った四十後半くらいに見える中年の刑事は、無言でその扉を開けた。中からは、寒いくらいの冷気と、線香の匂いが微かに香った。
奥には、冷たそうな銀色の担架(ベッド)。担架(ベッド)と言うより、まるで荷台みたいに見える。前には線香と香炉、全体を覆った白いシーツは、人の形に盛り上がっていた。
「じゃあ、本人確認、お願い出来るかなあ……」
少し間延びしたのんびりした話し方で、刑事は言った。この人のクセみたいだ。
刑事は、盛り上がった人の形に手を合わせて拝んだ後、そっとシーツをめくった。
根元まで綺麗に染め上げているブラウンのショートロング。雪のように白い顔で静かに眠っている彼女は、ある意味美しかった。
「なんだ、スッピンの方が綺麗じゃん……」
そう言って、俺は眠っている彼女に微笑んだ。そして、刑事に向かい、静かに告げた。
「間違いありません。僕の知っている遠山カレンです」
遠山カレンの死を知ったのは、あの日から十日くらいが過ぎた日の事だった。
最高気温、摂氏三十三度。
後三日で八月も終わろうと言うのに、六月から猛暑になると言われていた夏は、未だ留まるところを知らなかった。
その日も朝から、うだるような暑さだった。
母親は、やっと俺が帰って来て泣き崩れた事が遠い昔の事だったかのように「電気は点けたらちゃんと消しときなさいよ」と、そんな事を言って今は、俺が自分の側に居る事が当たり前の顔で仕事に出掛けて行った。
あの日以来、ユウキとは会っていなかった。電話もしていないし、掛かってもこない。掛けたところで、掛かってきたところで、何を話していいかわからなかった。あの寂しそうな顔は、まだ目に焼きついていた。
相変わらず派遣の仕事は無かった。当然だが、マスターの所にユウキの自転車を取りに行く気になど、なれはしなかった。
三日前に、自分で右足に青アザを作った。原因は忘れた。
これと言った用事も無く、外を出歩く気にもなれず、その日も俺は朝から居間のソファに転がって、見るでもないテレビのチャンネルをパチパチと変えていた。そんな時、玄関のチャイムが鳴った。
小走りで玄関に向かい、ドアを開けると、そこには半袖のワイシャツに紺色のネクタイを締めた中年の男が立っていた。
「私、池袋署の峰山ってもんなんですがねえ……」
少し間延びしたのんびりした口調で言いながら、峰山と名乗った刑事は警察手帳を出して見せた。
「杉村ナオヤさん、ご在宅ですかね?」
「ナオヤは、僕ですけど……」
「おっ、こりゃ話が早い」
刑事は、嬉しそうに両手をポンと打った。
「佐藤弘子さん、知ってるよね?」
まったく聞き覚えの無い名前だった。俺は首を振った。すると刑事は「ああ、そうかあ……」と、残念そうな顔して胸ポケットから黒い手帳を出して開いた。
「桐山シノ……飯田ミユキ……掛川マリ……遠山カレン……この中で、知っている名前はある?」
「遠山カレンなら、知っていますが……」
刑事は「ああ、なるほど……」と言いながら、手帳を胸ポケットにしまうと「不躾な質問でですまないが、どんな関係だった?」と聞いてきた。俺は何と答えていいかわからず、ただ「親しくしていました……」とだけ答えた。刑事は「そうかあ……」と、伏せ目がちに答えた後、重々しい口調で静かに告げた。
「彼女、昨日、亡くなったんだ」
えっ?、という言葉すら出なかった。玄関先で、ただ茫然と立ち尽くした。
刑事は、ある意味機能的に話を続けた。
「君の知ってる遠山カレン、本名を佐藤弘子と言うんだが、昨日、池袋にあるネットカフェで倒れ、病院に搬送されたが、そのままお亡くなりになったんだ。彼女の所持品から杉村ナオヤ君、君の所有物と思われるスポーツバッグなどが発見され、盗難届なども出されていなかった事から知人と思い、今日は遺体の本人確認をお願いしたくて来たんだよ」
忘れていた。あの日、俺はユウキからの電話で、カレンさんに荷物を預けたまま飛び出していたのだ。でも……
「家族とかは…?」
刑事は淡々と説明する。
「所持していた保険証から本名だけはわかったんだが、どうも身寄りが無いようなんだよ。アパートの方も一人暮らしみたいだったしね。独身で家族も居ないんじゃ、本人確認が出来なくてねえ」
「僕が知っているのは、遠山カレンという女性であって、佐藤弘子という女性ではありませんが、それでもいいんですか?」
「それは構わないよ。所持していた保険証には盗難、紛失、共に届出は出されてはなかったから佐藤弘子本人に間違いはないだろうという事にはなってるんだが……いや、断るなら断ってもらっても構わないんだ。こっちとしては、一番近かった人間に一応本人確認をしてもらう、という形式を取りたいだけだから。まあ、どちらにしろ、色々と話は聞く事になるとは思うけどねえ……」
「いえ、確認します」
俺は、その言葉に何の感情も含まなかった。
霊安室に横たわるカレンさんの白い顔。
そんな事あるはずもないのに、カレンさんはいつもの完成された笑顔を浮かべているように俺には見えた。
「まだ若いのに、気の毒になあ。明日の検死が終わったらこの人、無縁仏だよ」
刑事は、話す言葉通りの顔をして、再びカレンさんの顔に白いシーツを掛けた。
この病院に来る車の中で、刑事はまるで世間話でもするように俺にカレンさん……佐藤弘子の死の経緯と、彼女の素性について聞かしてくれた。
昨日の午前4時頃、いつもの池袋のネットカフェで、カレンさんは突然胸を押さえて倒れたらしい。直ぐに店員が救急車を呼んだが、救急隊員が駆けつけた時には心肺停止状態。それでも一度は蘇生したらしいが、病院に着く頃には再び心肺停止となり、もう戻ってはこなかったという。
午前六時三十二分。
それが、彼女がこの世を去った時間だった。
本名は佐藤弘子、享年、二十九歳。
彼女はいくつかの名前を持ち、それを使い分けながら池袋のネットカフェを転々としていたらしい。保険証から現住所の豊島区大塚にあるアパートを当たってみたらしいが、部屋には服や下着の入った収納ボックスが五つ置いてあっただけ。その他には何も無かったと刑事は言っていた。彼女が以前、自分の部屋を物置と呼んでいたのを思い出した。本当に生活していなかったみたいだ。
その後、刑事は戸籍を当たったと言っていた。それによると、両親は彼女が十五歳の時に他界していたらしく、同年同日に他界している事から恐らくは事故だろうという事だった。彼女が自分で色盲になったと言っていた年齢と合致していた事に、俺は軽い切なさを感じた……
彼女が十五の時には、既に父方の祖父母は居なかったようだが、母方の祖母は存命していたようで、そちらに引き取られたようだ。しかし、その祖母も彼女が二十一歳の時に他界。二十二歳の時に、本籍の山梨から保険証の現住所に住民票が移っている事から、彼女はその頃、上京してきたようだった。
どんな思いで上京してきたのだろう?
沢山の名前を持って、沢山の人間になりすまし、七年もあんな生活をしてきたのか……
「死因は、何だったんですか?」
今はもう、白いシーツに人の形に盛り上がっているだけの彼女を見詰めながら、俺は刑事にそう聞いた。すると刑事は、知らなかったのか?、とでも言いたげな顔で答えた。
「検死の結果を待たないと何とも言えないが、蘇生に当たった医師の予想通り心筋梗塞で間違いはなさそうだ。佐藤さんは心臓を患っていたようだし。所持品からも、その手の薬が見付かってるからねえ」
彼女が薬を飲んでいた事も、心臓を患っていた事も、俺は全く知らなかった。
「普通、偽名を使って転々とするようなタイプの人間は、身元がわかるような物は持ち歩かないんだが、彼女の場合はそういう訳にはいかなかったんだろうなあ」
多分、違う気がした。
カレンさんは、きっと誰かに気付いてもらいたかったのだと思う。名前を偽り、全てをウソで固め、薬すら人前では決して飲まずに、本当の自分を見せないようにして…
きっとこの人は、自分にもウソを突き通していたのだろう。
ウソをつくと楽になったから。
でも、本当の自分に気がついてほしかった。
一度は蘇生したものの逝ってしまった彼女は、もしかしたら、戻ってきたくなかったのかもしれない……
俺の目から流れ出た物が、彼女を覆う白いシーツに透明なしみを作った。
線香をあげ、カレンさんに別れを告げた俺は、そのまま刑事に連れられて池袋署へと向かった。
「別に取り調べってわけじゃないから、気を楽にしていいよ。形式的な事を聞くだけだから」
小会議室という札が貼ってある小さな部屋へ俺を通した刑事は、そう言ってニコリと笑顔を見せた。
刑事が聞いてきたのは、本当に形式的な事ばかりだった。彼女とは何処で知り合ったのか?、どれくらいの付き合いだったのか?、彼女の収入源は何だったのか?、他に親しくしていた人物は知らないか?、内縁関係にあった人物は本当に居なかったのか?、など……
何となく言いづらかったが、今更隠す必要も無いと感じた俺は、刑事にカレンさんとの関係を全てを話した。
カレンさんとは、彼女が倒れたネットカフェで知り合ったこと。
俺がカレンさんに買われていたこと。
そして、カレンさん自身も買われる女であったことも……
遠山カレン、彼女は愛人を職業としていた。出会い系サイトなどで男性を見つけ、愛人契約を結ぶのだ。しかし、値段は人や日によってまちまちで、先方……彼女は四、五人居た自分の愛人達をそう呼んでいた……に金が無い日などは、ラーメンをおごってさえくれればいい、と言って、会っていた日もあったようだ。
「私ね、お金はあんまり関係ないのよ。会う度に色々買ってくれたり、かなりの額のおこずかいをくれる人も居るけどさ……私は、セックスが好きでやってるだけだから。だって、セックスには色が無いじゃない」
色が見えないから、色の無いものを好んだカレンさん。しかし、遠山カレンという名前が偽りであったように、その色盲も偽りだった。
ある日、あのネットカフェで雑誌を見ながらカレンさんは確かに言ったのだった。
「あっ、この赤いシャツかわいい」
しかし、俺は何も言わなかった。カレンさんと付き合い始めて、彼女の中身みたいなものが見えてきていた俺には、驚くような事ではなかった。何となく、そんな気がしていたのだ。
もっとも、ユウキはそれより前から気づいていたようだったが……
俺とカレンさんの始まりはシンプルだった。ユウキが初めて仕事に行った日、湧き上がってきた自己嫌悪がどうにもならなくて、ネットカフェのトイレで自傷し、トイレから出ると目の前にカレンさんが居た。カレンさんは、はいていたハーフパンツから少しだけ覗いていた青アザを見つめながら、
「自分で自分の体、傷付けてたでしょ?」
無表情にそう言った。俺が何も言えずに立ち尽くしていると、カレンさんは俺の手を引きリクライニングコーナーへと連れて行った。そして、何も言わず俺をジッと見つめ続けた。俺は、俯いたまま少しずつユウキと自分の事を話し出した。すると、カレンさんはいつもの完成された笑顔を浮かべ、こう言ったのだった。
「だったら、私がナオヤ君のこと買ってあげる。それで自己嫌悪も治まるんじゃない?」
その日、俺はカレンさんとネットカフェのトイレでセックスをした。
事が終わった後、カレンさんは俺に二万という金を渡しながら「自己嫌悪は治まった?」と聞いてきた。俺は「衝動だけ……」と答えた。
それでも、カレンさんに買われた事、また自傷が始まった事、それらの事を隠しながらユウキには何食わぬ顔で「おつかれさま」なんて言葉を吐き、金まで受け取って、衝動だけはやわらいでも、更に最悪になっている事に変わりはなかった。兄貴から電話が掛かってきた時だって、どうしようもない泥のように黒い衝動は誘ってくるカレンさんとのセックスに向かい、でも更に辛くなって、ユウキの体にまで逃げたのだ。
本当に、心の底から死にたくなった……
「そんなに辛いなら、ユウキちゃんと別れちゃえばいいのに。愛なんてあっちこっち行くものでしょ?、別れちゃいなよ」
カレンさんは、ときたまセックスしている時に、冷たくそんな事を言った。しかし、そんな事を言い続けながらも、俺がユウキと暮らす事を決めたあの日、彼女は自分の事のように喜んだのだ。
完成された笑顔を浮かべて……
あの時、俺はあの笑顔の意味をようやく理解する事が出来た。雑誌モデルのように完成された笑顔。それは、誰に向けられているわけでもない笑顔。彼女は、この場面ではこの顔、こういう場合はこの顔、と、使い分けていたのだろう。まるで、人の形をしたものが人間のマネをしているように……
彼女に本当に欠落していたものは色彩ではなく、感情だったのだ。
そうして俺は、あのユウキからの電話を受ける前、カレンさんに連れ出されてホテルへ行き、その一室で別れを告げた。カレンさんは「そう」と、無表情に言っただけだった。音のように聞こえた「そう」という声は、今も俺の耳に残っていた。
一通り俺が刑事に話し終えると、刑事は笑顔を作り「協力してくれてありがとう、助かったよ」と言った。俺は一息つき、出されていた麦茶に口をつけた。すると、刑事はそんな俺を見据え「ところで……」と、一変して厳しい目になって言った。
「君の話の中に出てきたカノジョって言うのは、綾乃ユウキの事だね?」
俺は思わず口ごもってしまった。刑事は更に聞いてきた。
「君がユウキと呼ぶ少女と、よくあのネットカフェに夜中に出入りしていたというのは店員から聞いているんだ。君、その少女を連れて家出していたんだろう?」
俺は更に答えに詰まる。すると刑事は、少し笑って言葉を繋げた。
「なに、正直に言っても大丈夫だよ。綾乃ユウキの捜索願が出されていたわけでもないから。そうなると、その手の事は少年課の仕事だからな。俺の仕事じゃあない」
俺は小さく「そうです……」と答えた。
「そうだろうと思ってな、今日は午後から綾乃ユウキも呼んであるんだが、カノジョの前じゃ話しづらい事もあるだろうと思って、それで今日は、佐藤弘子の本人確認も含めて君だけ迎えに行ったんだ」
「でも、どうしてユウキのことを…?」
「佐藤弘子の携帯電話のメモリーは店の名前ばかりで、着信履歴も消去されていたんだが唯一、人物名があった。それが綾乃ユウキなんだよ」
カレンさんの携帯には、俺の番号すらメモリーされていなかったのは知っていた。
「誰かの名前や番号を携帯に残すのは嫌いなのよ。まるで、その人からの電話を待っているみたいで……」
そう言ってカレンさんは愛人達の名前すら載せず、着信履歴も常に消去していたようだった。きっと、愛人達にも全て違う名前で会っていたのだろうし、名前や番号を残したらウソがつけなくなってしまうと感じていたのかもしれない。
それでも、ユウキの名前だけは載っていた。
待っていたのかもしれない……
「まあとにかく、君もあまりつまらない世界には首を突っ込まない事だ。それが言いたかっただけだよ」
そう言いながら、刑事は俺の肩をポンと叩いた。
そうして別れ際に俺は刑事に「この件に関しては事件性無しと見ているから、君が呼ばれる事も、もうないだろう」と告げられた後、警察署を出た。
池袋警察署の正面玄関を出て外に出ると、襲いかかってきた熱気に当てられウンザリした。署内もそんなに冷房は効いてなく、冷房の効き過ぎてる自宅に引きこもってた俺には少々辛く感じたが、これなら中の方がマシだと思った。
しかし、久し振りに肌に感じる外の風だけは、気持ちがよかった。
車の騒音。
ざわついた人ごみ。
大型電気店から響き渡る音楽と呼び込みの声。
池袋の喧騒、その全てが懐かしかった。
人ごみの中、池袋駅東口に差し掛かった時だった。俺は不意に、その足を止めた。立ち昇った陽炎の中に居たその姿に、俺はどういう顔をしていいかわからなかった。
「ナオヤ……」
ユウキだった。
「お前も、呼ばれたんだってな……」
ぎこちない、俺の喋り方。
「うん……」
ユウキも、ぎこちない態度。
「カレンさんの遺体には、逢ったか?」
「ううん……」
「言えば、連れてってくれると思うぞ……」
「いい……」
「そうか……」
「じゃあ、私、時間遅れちゃうから行くね……」
ユウキはそう言って、俺の横をすり抜けてゆく。俺は、その背中に言った。
「待ってるよ、ここで……」
ユウキは、少しだけ振り返る。そして、少しだけの笑顔で「ありがとう……」と言った。
23
板橋駅のプラットホーム。何も無い端っこの場所。俺が世界で一番好きな風景の見える場所。使われなくなった線路を覆う長く伸びたススキは、まだ青々としている。フェンスの向こうには、波打つような住宅街の屋根。遠くに見えるサンシャインが、キラキラと光って見えた。
「やっと、少し涼しくなってきたな」
ベンチの端に座っていた俺は、隣に座るユウキにそう言った。ユウキは「うん」と、頷く。ユウキが自分の隣に居る事が、遥か遠い昔にもあった事のように感じられた。
あれからユウキが東口に戻ってきたのは、午後四時を過ぎようとしていた時だった。
「まだ待っててくれたんだ」
ユウキは驚くように俺を見て、それから小さく「ありがとう」と言った。今日二回目のユウキの『ありがとう』という言葉。そう言えば、前に動物公園でその日の内に二回もユウキに『バカっ』と言われた事を思い出した。
ユウキは、遠い目をしていた。
俺も、遠い目をしていた。
何から切り出していいかわからない。
すると、不意にユウキから口を開いた。
「あの刑事さん、カレンさんの事、何度も佐藤弘子さんって言うから、見知らぬ他人の話を聞いてるみたいだった……」
それは、俺も感じていた事だった。
「カレンさんが死んだなんて、ウソみたいだな。俺なんか遺体まで見てるのに、そこまでウソつかれてるみたいだ……」
ユウキは「うん」と頷いたが、直ぐに「でも……」と、言葉を繋げた。
「今思うと、カレンさんの色盲ね、あれだけは、やっぱりウソじゃなかったような気がする……」
「どういうこと?」
「だって、あの人は一言も『色が見えない』とは言ってないもん。わからない、って言っていただけだから……」
「わからない?」
「なんて説明すればいいのかな……つまりね、あの人の感情ってメチャクチャだったじゃない。あの人形みたいな笑顔みたいに。だから、色もメチャクチャだったんじゃないかなって……見えないんじゃなくって、見ようとしていなかったんじゃないのかなって、そう思っただけ……」
遠山カレンの口から出ていた唯一つ事実。
そう言われれば、俺もそんな気がする。
「でも、今じゃ確かめようもないな。あんなにあっさり死んじゃうなんてな……」
ずっと遠くを見つめながら話していたユウキが、ふと俺の方に向いた。俺もユウキを見つめる。ユウキは、どこか縋ってくるような目で俺に聞いた。
「私達も、いつかはあんな風に死んじゃうのかな…?」
俺は、どう答えていいかわからなかった。
「どこに、行けばいいんだろう…?」
ユウキの声は、どこか泣きそうだった。
「これからも、私もナオヤも沢山の事を経験していって、人から変わったね、とか言われながら大人になっていくんだよね。だって、私達が嫌いだった『タニンゴト』って言葉、今じゃ二人してカレンさんの死を『タニンゴト』みたいに話してる。変わっていってるんだね、私達……」
ユウキは、少しだけ俯く。そして、呟くように言った。
「私達、傷付けあっていたのかな……」
「そうかもな……」
否定が出来なかった。
変わる事は悪いことじゃないって、高校生の頃、教師に教えられた事がある。でも、変わる事で失ってしまうものも沢山ある、とまでは教えてくれなかった。
太陽が、傾き始めていた。
ほんの少しだけ、オレンジ色が見え初めて、俺とユウキを照らした。
ふと俺は、初めてユウキと出会った時の事を思い出した。
「なあユウキ、前から聞こうと思っていたんだけど、初めて俺がユウキに声を掛けた日、お前はなんで、俺の隣でこの風景を眺めていたんだ…?」
ユウキは、また遠い目をして答えた。
「何が見えるのかな?、って、そう思っただけ。もしかしたら、ウソだらけじゃない、本当の世界が見えるのかな?、って……」
「そんな世界なんて……」
言いかけて止めた。
変わりに俺は、立ち上がって前を真っ直ぐに見て、ユウキに背中を見せてこう言った。
「俺さ、子供の頃からの教訓があるんだ。好きな風景には近づいちゃいけないって」
背中に「どうして…?」と、ユウキの聞き返す声が聞こえる。
「近づくとさ、全部壊れちゃうんだよ」
ユウキの聞き返した声は、また、泣きそうだった。
俺は、一歩踏み出した。
「でも今日は、近づいてみようと思う……」
プラットホームに引かれた黄色い線。
神様が引いてくれた境界線。
今日、俺はそれを踏み越えてみようと思った。
俺は、少しだけ振り返り、少しだけ笑顔を浮かべて、ユウキに言った。
「後は、ユウキに任せるよ……」
ユウキの顔は、微かなオレンジ色の光に照り返されて、よく見えなかった。
電車が到着するアナウンスが聞こえた。
世界で一番好きな風景の方から、電車が走ってくるのが見えた。
俺は走り出す。
神様の境界線が近づいてくる。
そこで俺は踏み切った。
遠くに、ただ遠くに俺の体は飛んでゆく。崖から飛び出す鳥みたいに、ただ遠くに……
青々と茂ったススキの中に転がり落ちて、俺は砂埃にまみれた顔を上げる。ユウキの背中と、僅かな横顔が見えた。
頬が光っていた。
「ねえ、YOU!」
あの時と同じ言葉で、俺は呼びかけた。
ユウキは振り返らなかった。
何事もなく電車はホームに到着して、何事もなく去っていった。
ユウキの姿は、もう見当たらなかった。
ホーム下に飛び降りてきた駅員達に取り押さえられる俺の瞳に映った風景は、やっぱり全然楽しくなかった。
エピローグ
また、夏の終わりを告げる涼しげな風が吹き抜けて、黄金色に色づいたススキが優しい音を奏でた。
立ち並ぶ住宅街の屋根は、もうオレンジ色には染まってなかった。
遠くに見えるサンシャインにも、夜が落ち始めていた。
誰に気にされるわけでもなく、誰を気にする事もなく、俺は、板橋駅のプラットホームの端っこにしゃがみ続けている。
先日、久しぶりにコウジから電話があった。
イズミちゃんと結婚すると言っていた。
お互いが掛け替えの無い存在になったと、そうも言っていた。
「おめでとう」
俺は、その言葉だけを告げた。
ユウキの事は、何も話さなかった。コウジも何も聞いてこなかった。
電車が、また到着する。
衣替えの季節になって、夏服のセーラー服はもう見なくなった。
あの時の俺も、もう見なくなった。
毎日ここに、世界で一番好きな風景を見に来ている間に居なくなってしまった。
遠い夏の日の追憶。
世界は、全てはそこにあったのだろう。
居るはずもない……
立ち上がる。
足の青アザも無くなった。
電車から降りてきた人々の中に紛れ、俺は同化する。
改札へと繋がっている階段は、遥か遠くに見えたが、辿り着けない事はなさそうだった。
一歩、俺はそこに何かを残すように踏み出す。と……
「私の足跡、落ちてませんでしたか……」
背中に聞こえた声だった。
俺は、自分の胸を強く握り締めながら、ゆっくりと振り返った。
「落ちてましたよ、ここに……」
了
ここで一番好きな風景 後編
とりあえず、全編のアップが終わりました。
最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございます。心から感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、この作品の個人的批評なんですが、目の肥えている読者様であれば、お気付きですよね?
『何かが足りない』
文学賞を取るには、何かが足らないのです。
構成力なのか、独創性なのか、文章力なのか、はたまたその全てなのか?
和清は思うのですが、文学賞を取る作品というのは、ある種のオーラみたいなものを感じます。
そのオーラの正体が何なのかは解かりませんが、とにかく他のものとは違うのです。
まあ、『才能の壁』ってやつなんですかね…(苦笑)
それでも和清は書き続けます。作品を書いている時だけが、一番自分の生を実感できる瞬間ですから。
今後も、どんどん作品を発表していきたいと思ってますので、よろしくお願いしますm(_ _)m