夏、雨のにおい

 駅を出ると、外は雨が降った後で地面のアスファルトが黒く濡らされていた。それを見て彼女は、自分が電車に乗っていた間に雨が降っていたのだと分かった。立ち込める匂いは、夏のじめじめとした熱に雨が蒸発していくときのあの匂いだ。夜の風が過ぎてゆき、夏だ、と思った。普段は不快なこの匂いが、その時はそこまで嫌に思わなかった。
 
 北口のバスロータリーで60番系統のバスを探すと、すぐに新座栄行きのバスが停留所に待機しているのが目に入る。体は自然と小走りする形になったが、運転手の様子からすぐに発車しないことが分かると、彼女の足は当たり前のようにゆっくりになった。
 この時間帯の込み具合からして、座席に座れないことは分かっていたので、バスに乗り込むとそのまままっすぐに空いているスペースを探して、地面に旅行鞄を置いて右手で吊革を掴む。車内の冷房はあまり強くなく、むしろ弱いくらいだったが、特段そのことが彼女に新たな思考を生むことには繋がらない。実際のところ、彼女の頭の中では目的地のバス停のすぐ近くにあるコンビニで、最近少し気になっている大学生くらいのバイト店員が、今日は働いているかどうかということでいっぱいであった。
 
 1週間前くらいだろうか。仕事終わりで、その日も雨が降っていた。いつものように駅前のバスロータリーから60番系統のバスに乗った。バスを降りてそのままコンビニに入る。降りるときにはもう、雨は止んでいた。どうしてもチーズが食べたかったのに、安くて美味しそうなチーズがひとつも売っていなかった。いろいろと考えを巡らせながら、味と節約とどちらをとるかを考慮した結果、彼女は100円のさけるチーズと新発売のあんずチューハイを持ってそのままレジへ向かった。レジには夜の時間帯によくシフトに入っている大学生らしき男の店員が立っていた。それまでにも何度か見かけたことのある店員だった。茶髪で子犬のような顔をしていて、今時の大学生といった雰囲気だが、接客は感じがよく、好感の持てる店員だった。
 彼女の家の最寄りのコンビニがここなので、様々な時間帯に彼女はこのコンビニを度々利用していた。だからどの時間帯にどの店員がレジに入っているかを、そこまでではないがなんとなく、ああ今日はあなたですか、というテンションで把握をしていた。朝は恐らくこのコンビニの店長であるだろう60代くらいの店員が夫婦で入っていて、昼時には40代くらいの女性店員がよくいる。この女性店員には一度停留所の前で声をかけられた。コンビニから宅配便を送ってもらおうと思い、家から段ボールを抱えてコンビニまで向かっている途中の出来事だった。「手伝いましょうか。時々うちのコンビニ使っていただいている方ですよね」と声をかけられたのだった。コンビニが目の前だったのと、さほど重い荷物でなかったのもあって、彼女はできるだけ相手の好意を有難く思っていて、嬉しいがそこまで困っていないので断らせていただきます、という体で断りの弁を告げた。女性店員は恥ずかしそうに笑って次のバスを待つ姿勢に変わった。それ以来、その女性店員にはコンビニで顔を合わせていない。
 そして夜の時間帯にいるのが先に述べた大学生らしき男の店員と、ゴスペラーズにいそうなもじゃもじゃ頭の男性店員である。ちなみにこのもじゃもじゃを、彼女はあまり好いていない。もじゃもじゃがいる時は、あー、もじゃもじゃかよ、と思うくらいには。
 それでその日、その日というのは彼女がさけるチーズと新発売のあんずチューハイを買ったその日のことなのだが、その日レジにはその大学生らしき男の店員が入っていた。彼女の前に深夜には珍しく2人ほど並んでいる人がいて、彼女はさけるチーズと新発売のあんずチューハイを手に持って、煙草を買うか買わまいかを悩んでいた。悩んだ結果、この組み合わせに煙草を持ってきたら完全に女子ではないという結論に至り、買うのをやめることにした。そんなことを考えていたらあっという間に自分の番になり、少しの恥じらいをもってさけるチーズと新発売のあんずチューハイをレジ台に置いた。置いたその隣に、誰かが受け取るのを忘れた1円玉がぽつんと置いてあった。一瞬だけそちらに目が移り、その後にそっと顔を上げた。その時大学生らしき男の店員は、さっきまで彼女が観ていた1円玉を見ていて、その後すぐに彼女の顔を見た。そして少しだけ困ったように、笑った。

 それでその日、その日というのは夏のじめじめとした熱に雨が蒸発していくときのあの匂いを感じながらバスに乗るとあまり冷房が効いておらず、そんなことはお構いなしに大学生らしき男の店員のことを考えていたその日のことなのだが、その日彼女は宿泊日数的には少し大げさな旅行鞄を持って、自宅に帰っているところであった。1泊2日の旅行はとても満足のいくものだった。気の置けない友人たちとの楽しかった時間を思い返しながら、最寄りの停留所でバスを降りた。旅行中に食べ過ぎたことが引っかかっていたので、夜ご飯はおにぎり1個だけ買って帰ろうとコンビニに向かった。

 レジにはあの時の店員が立っていた。何を思うでもなく、しかし彼女は顔を直視することは出来なかった。まっすぐにおにぎりコーナーに向かって、どのおにぎりにするか真剣に悩んだ。1分ほど悩んだところで、実のところまったく目の前のおにぎりの種類が頭に入ってこないことに気付いた。なんでもいいやと開き直り、そのあたりにあった2個セットのおにぎりを掴んだ。レジに向かうとちょうど違う通路から女性客がレジに向かうところだったので先を譲った。意識遠くに順番を待っていると、例の店員が少し戸惑っているようだった。どうやら彼女の前に立った女性客は宅配便の荷物を受け取りに来たようだが、その荷物がコンビニには無いらしい。例の店員は、店の奥の事務所にいるだろうもう一人の店員の元に向かった。すぐに奥からベテラン風の、しかし初めて見る女性の店員が出てきて、お客様の受取先のコンビニはここではなくて少し先に行ったところのコンビニでして云々・・・と説明を始めると、女性客はすぐに納得して店を出て行った。お待たせしました!と明るい声が聞こえて、ようやく我に返った彼女は、一歩前に進んでレジ台におにぎり2個セットとレジの向かいにあったガムコーナーのガムを差し出した。お金を出すと、Tポイントカードはございますか、と言われて慌ててカードを取り出す。
 支払いを済ませて何食わぬ顔で外に出た。自然にため息が漏れて、煙草を持っていたのを思い出して、コンビニに常設してある灰皿で煙草を1本吸った。吸っている最中に仕入れのトラックが来て、駐車しようとしたところに自転車が置いてあり、運転手がイライラした顔でトラックから降りて自転車を動かして、またトラックに乗り込んで駐車して、という一連の流れを彼女はぼーっと眺めていた。眺めながら彼女自身はというと全く違うことを考えていて、わたしはおにぎりを1個だけ買おうとしたのにどうして2個セットのものを買ってしまったんだろう、あとガム、なんでわたしガム買ってんねん、と至極冷静にツッコミを入れていた。

 もう一度大きなため息がでて、煙草を灰皿に捨てて、旅行鞄を提げて家へと向かった。コンビニから家までの30秒ほどの間、もう彼女は例の大学生らしき男の店員のことは一度も思い出さなかった。

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夏、雨のにおい

夏、雨のにおい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-09

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