穴をあけたら

 それはふとした思いつきで、わたしには覗き趣味もないしこれまでに罪を犯したこともない。いわゆる出来心、とはこういうことをいうのだろう。ただ思いついて実行しているだけだ。
 わたしは床に穴をあけていた。

 最初は木工用の錐で床の板材に穴をあけはじめた。板材はすぐに貫通し、その下にあった金属か樹脂かわからないものも通り抜けたようだったが、その先に進むことができなかった。空洞になっているのか、あるいは綿のような素材でも詰まっているのか、まるで手応えがない。
 木工用の錐の先は短く、そこまでしか進むことができなかったので、わたしは別の工具を探すことにした。調べたところ、釣竿を作るための工具として数十センチメートルもの長さの錐があるらしい。わたしは早速近所にある釣具店に向かったが、店内を見て回ったところそれらしきものは見つからなかった。店員に聞けば見つかったのかもしれないが、やはりやましい動機のためそれをすることはできずにわたしは釣具店を出た。
 工具を買ってまで床に穴をあけてどうするのか。貫通してしまったら犯罪行為だ。穴をあける途中である現在の状態ですら犯罪なのかもしれないが、これはどうとでも言い訳ができるだろう。引っ越しの際に修理費を要求される程度のはずだ。そう、今ならまだ大丈夫だ。こんなことに意味はないのだし、今のうちにやめたほうがいい。わたしは釣具店を出てからこう考えて、穴をあけるのを思い直すことにした。
 その後、わたしは夕食にするための弁当でも買おうと、週に何度か利用するコンビニエンスストアに寄った。これがいけなかった。いや、もちろん偶発的な行為ではない。穴をあけるのを思い直したはずの自分を再びやる気にさせるために、わたしはあえてそのコンビニエンスストアに行ったのだろう。
 そのコンビニエンスストアでアルバイトをしている女、おそらく大学生だろう。わたしはこの女が気に入っていた。といっても先日までは「近所でアルバイトをしているかわいい娘」といった程度の認識だったし、現在も恋をしているわけではない。
 わたしが彼女の前に弁当を置いて金を出す。彼女が弁当の入った袋をわたしに差し出し釣りを手渡す。そして「ありがとうございました」と笑顔を見せる。その彼女の笑顔に、やはりわたしは床に穴をあけなければならない、と強く感じた。

 それは床に錐を突き立て、釣具店に行き、コンビニエンスストアに寄って帰った日の前日のことだった。翌日が土曜日で休日だということもあり、普段より少し遅くまで仕事をして帰りにコンビニエンスストアに寄ったのだが、そこに彼女の姿はなかった。今日は休みなのか。あるいはアルバイトの時間が終わってしまったのか。わたしは少し残念に思いながらビールや菓子を買って、部屋を借りている古いマンションのエントランスに入った。すると、そこに彼女の姿があったのだ。
 郵便受けを開けて中を確認をしているからには、彼女がこのマンションの住人なのは間違いないだろう。彼女が郵便受けから離れて階段に向かうと、わたしは咄嗟に郵便受けに書かれた部屋番号を確認した。
 ーー 202 ーー
それはこのマンションの構造がよほど変わったものでなければ、わたしの部屋のすぐ下にある部屋だったのだ。
 わたしは彼女の後を追うようにして、いや、彼女の後を追って階段を上ると、壁に身を隠すようにして二階の廊下を覗き込んだ。ちょうど彼女が部屋の扉を開けようとしているところで、それは間違いなくわたしの部屋の真下にあたる場所だった。
 自分の部屋に帰ったわたしは妙に落ち着かなかった。古いとはいえ防音性の高い建物で、両隣や上階の物音は少し聞こえるが気になるほどではない。下階ともなれば耳を澄まさなければ生活音は聞こえないだろう。実際にわたしはその夜、下からの音に注意していたが何も聞こえてはこなかった。しかし、わたしの生活する部屋のすぐ下で、彼女が用を足したり入浴したりしているのだと思うと不思議な興奮があった。そして翌朝わたしは木工用の錐を取り出したのだった。

 日曜日、朝もまだ早い時間からわたしは前日に行った釣具店の近くにあるホームセンターに向かった。一時間ほど店内を探し歩いたが、長い錐というのは意外と売っていないものだ。わたしはいくつかの工具などを買って自宅に戻った。
 部屋に入ってひと息つくと、わたしは早速電動ドリルを取り出した。ドリルの先端部分は二十センチメートル近くあり、床の厚みがどれほどかはわからないが、かなり進むことができるのではないか、と考えられた。しかしこれは駄目だった。音があまりに大きすぎる。もしこれで穴を開けようとすれば、彼女に気づかれてしまう可能性が高いだろう。
 ならばと試したのは針金だった。もちろん音もなく長さは十分だったが、いかんせん軟らかすぎる。コンクリートと思われる硬い素材に当たった感触はあったが、それ以上進むことはできなかった。こんなことは試すまでもなくわかるだろうに、と自嘲してわたしは針金を投げ捨てた。
 次に試したのは最初に使った木工用の錐だった。面倒なのであまりやりたくはなかったが、錐の柄の部分を先端とほぼ同じ細さにまで削り、テープを巻いて補強した。これはかなり有効な道具だった。それによって床のコンクリート素材の箇所も少しずつ進むことができた。しかし耐久性に難があり、錐の全体の半分以上が床に入っていったところで折れてしまった。テープで巻いていたことが幸いし、折れたものが穴の中に残ってしまうようなことはなかったが、もう使い物にはならなかった。
 さて次はどうしようか、と購入してきた工具類を見、さらに部屋を見回したわたしの目に映ったものは、玄関の壁に立てかけてある安物の傘だった。これは使えるかもしれない、と考えてわたしはすぐにその傘の骨を取り外し、先端を潰して金属ヤスリで鋭角に尖らせ、先ほどの錐と同じように先端以外はテープで巻いた。それは少しずつではあったがコンクリート素材を進むことができたし、折れることもなかった。さらにその先端に折れた木工用の錐を括りつけるとますます作業がはかどった。
 日曜日のうちに作業を終わらせることはできなかったが、それから数日間、わたしは仕事から帰ると穴をあける作業を続けていった。そしてついにコンクリート素材を抜けた。ここまでくれば残るは木材か石膏ボードか、なんにせよ楽に彼女の部屋までの穴を通じさせることができるだろう。
 彼女は穴に気づくだろうか。小さな穴だから気づかないかもしれない。もし天井にある黒い小さな影に気づいても、それが上階のわたしの部屋から通じる穴だとは思わないだろう。当然わたしが穴を覗いても彼女の姿を見ることはできないと思われる。ならばCCDカメラでも設置しようかと考えたが、この穴の大きさではそれもできない。そもそも覗くために穴をあけようとしていたのだろうか。目的もない思いつきだったのでそれもわからない。
 光はどうだろうか。彼女の部屋の明りが消えている時に、わたしの部屋の明りがついていたら、小さな穴から光が漏れるかもしれない。音は聞こえるようになるのだろうか。彼女の生活の音がわたしに、わたしの生活の音が彼女に聞こえるのだろうか。匂いはどうだろうか。若い女の部屋に特有の甘い香りが、彼女の部屋から穴を抜けて届くことを期待せざるをえない。わたしはその蠱惑的な匂いを想像し、身を震わせた。

 穴を貫通させる最後の作業は彼女の不在時に行わなければならなかった。思いの外音が響いてしまうかもしれないし、彼女の部屋に多少の削りカスが落ちてしまうことも予想できた。わたしは仕事帰りにコンビニエンスストアで彼女の姿を確認できた日に最後の作業を行った。
 そのコンビニエンスストアのアルバイトは二十二時に交替するらしかったので、彼女は早くても二十二時過ぎまで帰ってこないものと思われた。仕事を早めに終わらせたわたしが帰宅したのは二十時前であり、問題なく、誰にも気取られることはなく、その作業を終えた。
 穴が貫通すると、わたしはすぐに鼻を近づけたが、そこからは木材の香りがするのみだった。残念だったが、彼女が帰ってくればまた違うのかもしれない、と思い、わたしは道具を片付け、万全を期して部屋の電気を消してから風呂に入った。
 わたしが風呂から出ると、彼女はすでに帰っているようだった。耳を澄ませばいつもは聞こえない下階のテレビの音がわずかに聞こえた。彼女は明りをつけているはずだが、真っ暗なわたしの部屋に下階からの光は届いていない。これならば問題ないだろうと、わたしは明りつけて冷蔵庫からビールを取り出し、穴の前に座った。
 ビールをひと口飲んで穴に顔を近づけると、先ほどは感じられなかった女の部屋の香りを感じた。もしかしたらあの甘い香りは部屋の香りではなく、若い女そのものが漂わせているものなのかもしれない。それを彼女の体臭と錯覚し、わたしは大いに興奮し陶酔した。

 それからしばらくの間、わたしは毎日彼女の香りを嗅いで過ごした。仕事などで不在にする時は穴の場所にスリッパを置き、帰るとすぐにそのスリッパをどかして彼女を感じた。彼女の香り嗅ぎ、彼女の入浴の音を聞き、時に彼女と同じテレビ番組を見て過ごした。直径数ミリメートルの小さな穴があるだけで、わたしは彼女と生活をともにしているようだった。一度だけ彼女が友人らしき女を部屋に連れてきたことがあったが、その時は上階でわたしもいっしょに乾杯をした。仕事を終えて帰ると自分の部屋に彼女の香りが充満しているようなこともあった。
 しかしそれは長く続かなかった。彼女に穴が見つかったわけでも、わたしが穴を塞いだわけでもない。また、警察の世話になったりマンションの管理会社に注意されたわけでもない。
 ただ飽きてしまったのだ。ひと月も経たないうちに、わたしは彼女との生活に飽きてしまった。
 やがて彼女は大学を卒業し部屋を出ていくだろう。その前にわたしが引っ越しをするのかもしれない。わたしたちは他人のまま共同生活をして、他人のまま別れる。穴はあいたままだ。

穴をあけたら

穴をあけたら

「近所でアルバイトをしているかわいい子」が自分の住むマンション、それも自分の部屋の真下に住んでいると知った男。 なんとなく、思いつきで彼は部屋の床に穴をあけはじめた。 それに大きな理由はなく犯罪だとわかっていながら、いずれ穴から漂うだろう彼女の香りを想像して男は困難な作業を繰り返した。 そしてようやく穴があき、男は彼女との共同生活を始めた。 ※他サイトで公開していたものを書き直した作品です

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-25

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