平凡な一日

 朝、家を出ようとした高木は、妻に呼び止められた。
「あなた、せっかく作ったお弁当を忘れないでよ。それから、今日は急に雨が降るかもしれないそうだから、傘を持って行ってね」
「ああ」
 上の空で返事をし、弁当箱と一緒に折り畳み傘を書類カバンにねじ込んだ。
「今日も遅いのかしら」
「いや、今日は特に予定もないし、定時で帰れるだろう」
「良かったわ。行ってらっしゃい」
「うん」
 駅まで約十分の道を、高木はいつも考え事をしながら歩く。多少注意が散漫になるが、通い慣れた道である。途中、何度か十字路を横切るが、交通量が少ない細い道なので信号はない。
 高木が最初の十字路を通り過ぎると、交差する道を黒い車が猛スピードで右から左へ走り抜けた。だが、高木はまったく気が付かなかった。次の十字路を渡った後、同じ車が今度は左から右へさらにスピードを上げて通過した。やはり、高木は気付かない。
 どこか遠くからパトカーのサイレンが近づいていたが、高木はまったく気にせずに歩き続けた。
 新築マンションの工事現場の横を通りかかった時、ダダダッ、ダダダッという大きな音が響いた。
(こんな朝早くからリベット打ちなんかやったら、近所からクレームがくるぞ)
 高木はぼんやりそんなことを考えていたが、足元にコインを見つけた為、その場にしゃがみこんだ。その直後、ちょうど高木の頭があった位置で、仮囲いのビニールシートにプスプスと音を立てて穴があいた。コインと見えたものはサイダーの王冠だったので、高木は拾わずにそのまま歩き出した。
 駅の改札を通るとき、「機関銃を持った犯人と警察が、銃撃戦をやってるらしいぞ」という声が聞こえたが、高木はどこか遠くの話と思って聞き流した。
 電車に乗ると高木はいつものように文庫本を読み始めた。発車してすぐに大粒の雨が降り出し、雷鳴が轟いたが、高木は読書に没頭していた。
 目的の駅に着いた時にはすでに雨が止んでいたが、駅の掲示板に『落雷による信号機の故障のため、後続車両の運行を見合わせ中。復旧の目途は立っていません』とマジックで大書されていた。高木は何か書いてあるな、と思っただけで通り過ぎた。
 駅を出て会社まで行く途中、半漁人の格好をした一団とすれ違った。
(映画宣伝のコスプレだな)
 高木はそう思ったが、向こうのビルの壁面にある大型テレビの画面には、現在の官房長官の記者会見が映っており、下の方に『大挙上陸して来た半漁人とのコンタクトに成功。目的は魚市場の鮮魚購入』とのテロップが流れていた。
 会社に着くと、同僚の安川から声をかけられた。
「よお、今朝の新聞読んだか。南の島で捕獲されたっていう、身長十メートルのゴリラが逃げ出したらしいぜ」
「へえ、そうか」
 高木の気のない返事に、安川もそれ以上ゴリラの話をするのをやめ、話題を変えた。
「そうだ。昨日の約束どおり、奥さんに弁当作ってもらったか」
 高木はいつも地下の社員食堂を利用するのだが、昨日、弁当派の安川から一緒に屋上で弁当を食べようと誘われたのだ。
「ああ。持ってきた」
「よし。雨も上がったし、予定どおり今日のランチは屋上だ」
 昼休みになり、安川は屋上に行楽シートを広げた。
「下がまだ濡れてるな。あ、気をつけて座れよ。まあ、このシートは防水だから大丈夫とは思うが」
 テンションが上がっている安川と違い、高木は黙々と弁当を食べ始めた。
「なあ、高木。たまにはこういうのもいいだろ。外の景色を見ながら、見ながら、わーっ!」
 安川は目を丸くして、ちょうど高木の背中側を凝視している。
(ふん、その手に乗るもんか。また、UFOが見えたとか言っておれをからかうんだろう)
 高木はそう考えて無視することにした。
「おい、おいって。後ろを見てみろ!」
 そこには巨大なゴリラの顔があった。だが、高木は振り向こうとしない。
(どうせ、おれが振り向いたら、UFOはもう飛んで行ったとか言うのさ)
「何やってんだ。見ろって。大変だぞ!」
 巨大ゴリラはこちらを一睨みすると、そのまま去って行こうとしていた。
「あっ、あっ、今見ろ。すぐ見ろ!」
「はい、はい」
 高木はゆっくり振り向いたが、すでにゴリラの姿は見えなくなっていた。
「見たよ。で、UFOはどこだい」
 安川の顔は見る間に怒りで真っ赤になった。
「もう、いいっ。おれは下の社員食堂で弁当を食う!」
 安川は「あとでシートだけは返してくれ」と言い捨てて、降りて行った。
 高木は仕方なく一人で食べていたが、すぐに青い顔をした安川が戻って来た。
「た、大変だ。経理の横山が、ランチの付け合せの目玉焼きを見て狼男に変身し、大暴れしてる」
 高木は皮肉な笑みを浮かべた。
「じゃあ、ドラキュラとフランケンも呼んでやったらどうだ」
「ううっ、お前ってヤツは、お前ってヤツは」
 高木は我ながらなかなかの切り替えしだと思ったのに、安川が怒って行ってしまったので拍子抜けした。
 弁当を食べ終わり、下に降りると、人が行ったり来たりして何だか騒がしい。何か物が壊れる音や「ガオオオーッ」という猛獣のような声がしたが、高木は誰かの悪ふざけだろうと気にも留めなかった。
 高木は行楽シートを安川のデスクまで持って行ったが、いないため椅子の上にシートを置き、そのまま自分の席に戻って仕事を始めた。
 安川を含め誰も戻って来ないオフィスで、予定通り定時で仕事を終えると高木は帰途についた。
 すでに電車は通常運行に戻っていたが、もちろん、高木は特に何も気が付かず、いつものように電車に乗り込んだ。
 駅を降り、例の工事現場の方へ歩いて行くとパトカーが道を塞いでおり、警官から道を迂回するよう命じられた。高木は交通事故でもあったのだろうと考えて指示どおりに迂回したが、パトカーの無線機からは微かに『犯人は人質を取って工事現場に立てこもり中。至急、応援を願う』と響いていた。
 少し遠回りになったが、高木は無事家に着いた。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい。良かったわ、ちょうど晩御飯ができたところよ。ところで、どうだった今日は?」
「うん、特別何もない、平凡な一日だったよ」
(おわり)

平凡な一日

平凡な一日

朝、家を出ようとした高木は、妻に呼び止められた。「あなた、せっかく作ったお弁当を忘れないでよ。それから、今日は急に雨が降るかもしれないそうだから、傘を持って行ってね」「ああ」 上の空で返事をし…

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-08

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