私しか知らない神さま
第1話 始まってしまったことがら
「ーーーあの、付き合ってください!」
放課後だったと思う。
考え事をしていたら、気づけばもう空は赤くなっていて、そういえば寒くなったな、なんて呑気に思っていた。校舎裏のベンチの前には、わたしと、もう一人。
それは中学3年の秋で、わたしは友達一人いない残念な子だった。
せっかく買ってもらった携帯電話のアドレス帳を持て余して、結局電源を滅多に入れないで、そのくせ電源を入れるとあるはずもないメールや着信に期待する、そんなかわいそうな子。
いじめられているわけでもないのに、滅多に誰かと話すこともなくて、クラスでもいつも一人で、修学旅行の班決めで最後まで余って。結局具合が悪いとか言って、行かなかった。
そんなわたしなのだけど、この日、珍しく、本当に珍しく、向こうから声をかけられた。
声をかけられたのだと気づいたのは、話しかけられてから少し経ってからだった。
あまりにも人と話さないから、自分が別の人格を作り上げて会話でもしているのかと、真面目に疑ってしまったから。
「あの、えっと…どちらまで?」
考え事をしていたせいで、わたしは言葉を途中からしか拾えていなかった。だから、そんなトンチンカンなことを言ってしまったのだけれど。
「…あの、私の言ったこと、聞いてました?」
肩をわなわなと震わせて、顔を真っ赤にしてそんなことを言った相手に、わたしはまさか、と目を丸くするしかなかった。
「あの、すみません…途中からしか、聞けてなくて」
なんとなく、何を言われたのかは察しがついてはいたけど、こんなわたしだから、聞き間違いなんじゃないかって、だからそんなことしか言えなかった。
「じゃあ、もう一度言います」
だけど相手は親切で、もう一度を許してくれた。
ちゃんと相手を見て、わたしがびっくりしているのもつかの間、彼女はわたしに向かってこう言った。
「ずっと、前から好きでした…だからあの、付き合ってください!」
人生初の告白は、涙目の可愛い女の子だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
羽根田かなという名前の女の子を知らない人は、少なくともわたしのクラスにはいないし、この学校規模で考えてもたぶん、知らない人の方が少ない。
彼女はとても可愛らしい女の子で、性格も良くて、人当たりの良い人気者だった。彼女のまわりにはいつも人がたくさんいて、いつも彼女はにこにこ笑っていた。
成績はいつも上から数えた方がずっと早くて、運動はやや苦手らしいけど水泳はとても得意で、それでいてやっかまれることのない、男女共に人気のある凄い子だ。
わたしは運の良いことに羽根田さんとは3年間同じクラスで、行かなかった修学旅行も、羽根田さんが自分の班にわたしを入れてくれた。
とは言っても、わたしには友達が一人もいない。羽根田さんとだって、そんなに仲がいいわけじゃない。ほんとにごくたまに、話をする程度でしかない。帰る方向は一緒だけど、いつも皆に囲まれているから、話しかける機会もなかったし。
そんな卒業したら忘れられるような、薄い関係でしかないはずのわたしに、なんの取り柄もないと断言せざるを得ないわたしに、羽根田さんは告白して来た。
第一の感想は、ドッキリか何かなのかな、だった。
だからわたしは、これが羽根田さんの演技なんじゃないかって、思ってしまった。どこかから私たちを撮影しているカメラがあって、面白おかしくそれを見ている人がいるんだろうって。
だから、聞いてしまった。
「えっと、どういうことですか?わたし、知っての通り面白くないひとだから…ご期待には添えないかと…」
思わずあたりを見回したわたしを、羽根田さんは今度はきつく睨んだ。
「ドッキリとかじゃ、ないです」
私はますます混乱した。
ドッキリじゃないなら、なんで告白なんてしてきたんだろう。わたしは仮にも女で、羽根田さんも女だ。残念なことにわたしは印象の薄い顔で、すぐに忘れられてしまう程度の造形である。さっきも言ったとおり取り柄なんて一つもない。
「なら、どうして…」
あ、と言う前に、堤防は決壊してしまった。
ぼろぼろこぼれてきた涙に、わたしはどうしようと慌てた。
俯いてしまった羽根田さんになんて言葉をかければいいのか分からなくて、両の手をわたわたさせるしかなかった。
「だから、私…好きなんです、あなたのことが!」
涙声で言われると、とても、こう、罪悪感が募る。
ごめんなさい、と謝ろうかと思って、でも今それは逆効果でしかないってことはわたしにでも分かっていた。
「だけど、わたし…好きと言われる理由が、分からないんです」
それはわたしの心からの言葉で、これほどまでに卑屈な言葉もそうないだろうな、と心の内で笑った。
でも本心だ。だってそれらしきエピソードは何一つとしてない。友達ですらない、それが羽根田さんとわたしの関係。強いて言うならクラスメイト。
羽根田さんは何も言わず、俯いたまま、私の右手を掴むと、そのまま自分の方に思い切り引き寄せた。必然的にわたしは羽根田さんの胸元に引き寄せられて、ぶつかったと思ったら、今度は強く抱きしめられていた。
身長が170センチもある羽根田さんと、150半ばしかないわたし。だから、わたしは羽根田さんの腕の中にすっぽりとはまって、随分早い心臓の音をどこか遠くに聞いていた。
「私が、本気だってこと、分かりました?」
上ずった声が降ってきた。
嘘じゃないことはもうはっきり分かっていた。これで嘘だったら羽根田さんは女優にでもなった方がいい。
だけど、分からなかったのだ。
羽根田さんがわたしに好意を持った理由が、こんな風に抱きしめて、わたしに迫る背景が。
「…わたしの、どこが、その…好きなんですか」
「全部」
「いつから、わたしのことを?」
「初めて会った時から」
「なら、なんで今なんですか?」
「…ほんとは、もっと早く言うつもりだったけど、勇気が出なくて…」
相変わらず心臓は早くて、声は上ずっている。
答えは出なかった。突然すぎて、なんて言えばいいのかちっとも分からなかった。
でも、ここで断りでもしたら、明日から教室にわたしの席は無い気がした。
かと言って、はい、とすんなり答えることはできない。どうしよう、なんて答えればこの状況から切り抜けられるんだろうって、わたしは必死に考えた。
「あ、あの…」
付き合ってくれと言われても、いきなりすぎて戸惑いしかない。だから、
「わたし、あなたのこと…全然知らないから、お友達から、じゃ…ダメですか?」
なんとも情けない返しだった。だけど、これがわたしの精一杯。これ以上を、人付き合いが希薄なわたしに求められても困る。
羽根田さんはしばらく黙っていたけど、心臓の音が落ち着いた頃になって、わたしを解放した。
「仕方ないから、それでいい」
素っ気ない声だったけど、納得してくれたようだった。
「えっと、じゃあ、お願い、聞いてくれますか?」
今度はわたしが緊張してしまう。
だけど、きっと断られることはないはず。だって、相手はわたしのことが好きなんだから。
「け、携帯のアドレス…交換してください」
言えた。
やった、わたしはやっと言えた。ずっとずっとシミュレーションしてきたこの言葉を、やっと、3年の終わりになって!
「…携帯、貸して?」
羽根田さんはぽかんとしていたけど、わたしの携帯を預かると、手早く登録を済ませてくれた。
ガラケーだったら赤外線通信で簡単なんだけど、わたしも羽根田さんもスマホで、赤外線の機能はついていない。でも、数分経たずにわたしのアドレス帳には、羽根田かなという名前が登録されていた。
「あ、ありがとう…」
「私が、一人目だね」
親すら入ってないわたしの、まっさらなアドレス帳に、初めて登録されたのは、わたしのことが好きだという、学校一の人気者。
「帰ろう、もう暗いし」
「え、ああ、ほんとうだ…すっかり忘れてました」
空を見れば赤どころか暗い青になっていて、途端に肌寒くなった。ベンチに置いておいたカバンを肩にかけて、わたしは歩き出す。
「敬語」
「えっと、あの、ごめん…」
その指摘に、さっきまで羽根田さんだって敬語だったのに、なんて、言うことはできなくて。
「帰ろ?」
差し出された手を、拒むことなんて出来やしなくて。
細くて長い指にはちゃんと骨が中に入ってて、力もそれなりに強かった。
「『羽根田さん』ってもう呼ばないでね、彩絵果」
「え、う、うん…」
ずるい。そんなのはずるすぎる。きれいな顔の人は、気安い笑顔一つだって武器になるなんて。
まっすぐに向けられたその顔を、わたしはまっすぐ見れなかった。
これが、わたし、湯井彩絵果の、遅すぎる春の始まり。
第2話 変わりたい、変わりたい?
秋もそれなりに深まって、街路樹はそこそこ赤や黄色に染まり出した。
朝は天気が良くてもちょっと寒くて、羽織ったカーディガンだけでは物足りなくなっていた。
だけど、その寒さは今はどうでも良くて、わたしの心臓はドキドキ跳ねていた。
家を出てすぐの坂道の下、まっすぐわたしを見ている女の子。
急いで、でも走りはせずに近寄って、上ずった声で話しかけた。
「お、おはよう、かなちゃん」
だって、だって。
「おはよう、彩絵果」
初めてなんだもの、誰かと待ち合わせて学校に行くなんて!
「かなちゃん、寒くないの?」
平静を装って、そんなことを聞いてみる。
こんな何気ないことですら、わたしにとっては新鮮で。
「別に、寒くないけど…それより彩絵果、顔赤いよ?もしかして熱とか…」
白い手がわたしの頬に触れる。その顔は心配していることがありありと分かって、わたしは一人、感動した。
「う、ううん。ちょっと緊張してるの」
「なんで」
「だって、友達と学校に行くのとか、はじめてだから…」
「…」
かなちゃんは何も言わなかった。その代わり、わたしの右手を、左手で握った。手をつなぐなんて幼稚園の時以来だったから、わたしは嬉しいような恥ずかしいような気持ちで、ちょっとだけ握り返した。
「…彩絵果にとって、私はまだ友達」
「かなちゃん?」
「遅れるから、急ごう?」
同じ女の子の私でも、かなちゃんの笑顔はびっくりしちゃうくらいきれいで、まっすぐには見れない。
この笑顔に慣れて、気安く笑い返せるようになる頃には、わたしたちはちゃんとした友達に、なれているだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
初めてメールの通知が来たのは、夜の8時を少し回った頃だった。
わたしは皆が使っているようなコミュニケーションツールは使っていなくて、連絡を取り合うにはメールか電話しかない。きっとかなちゃんはそういうツールの方がよく使うのだろうから、明日聞いて、スマホに入れてみよう。
当たり前だけど、送信者はかなちゃんだった。
嬉しくて、わたしは一度ほおをつねってみた。痛かった。
ゆめじゃない。わたしはほんとうに羽根田かなという女の子と友達になって、そして今こうやってメールをもらった。
これが、夢じゃないなんて!
文面はとてもシンプルで、内容はたったの数行。だけどわたしは、その数行の内容を諳んじられるほどに読み込んだ。
『今日はありがとう。明日からなんだけど、
一緒に学校にいかない?彩絵果の家のすぐの
坂道の下で、待ってる』
嬉しくって、でもすぐには返信ができなかった。
なんて返せばいいんだろう?だってメールなんて初めてだから、分からなすぎて文面が浮かばない。
結局五分くらい考えて、打ち込んだメールを送信した。
『こちらこそありがとう、明日のこと、分かったよ。よろしくね』
送るとき、たった送信の部分をタップするだけなのに、指が震えた。こんなに緊張していたら、友達なんてやってられないのに。
その日、わたしはドキドキし過ぎてなかなか眠れなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
女の子と女の子が手をつないでいても変な目で見られないのは、せいぜいランドセルを背負ってるうちまでなんだろう。
ただでさえかなちゃんは有名人で目立つのに、それで手なんて繋いでいたらもっと目立ってしまう。
背が高くて、でもとても可愛らしい顔の女の子。キリッとした顔は確かにかっこいいけど、でも、やっぱり可愛い。そして、そんなこと、わたしだけじゃなくて、皆思っているわけで。
そこそこ長い黒髪は枝毛一つなくて、歩くたびさらさらと揺れる。わたしを見るその瞳は大きくて、ぱっちりの二重まぶたに長い睫毛。少し羨ましいと思ってしまう。
顔は、というか肌は全部真っ白で、きっと見えない場所もそうなんだろう。言葉を紡ぐ唇は、ちょっとだけ、赤い。
こんなに可愛くて、きれいな人を、独り占めしている。それはとても嬉しいことではあるけど、同時に周囲の目が、どうしても気になってしまう。
「目立って、るよ…」
「気にしないで。私たち、変なことしてる?」
「手をつないでたら、目立つから…」
あと、実のところちょっと歩きづらかったりもする。
普段、かなちゃんが通る道とはちょっとだけ、違うルートを歩いている。
だけど、学校の近くで大きな通りに出たら、あとはおんなじ。
手をつないだ時の高揚感は、すでに萎んでいた。わたしは、臆病者なのだ。
「…皆、真新しいことには目をやるものだから。でも、慣れたらそれでおしまいだよ」
かなちゃんは、なんでもないことのように言う。事実、そうなんだと思う。
だけど、だけどね、かなちゃん。
慣れるまでって、結構な時間がかかったり、するかもしれないんだよ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
今まで全く話しかけて来なかったのに、突然、かなちゃんがわたしと一緒にいるようになったことは、すぐに話題になった。
移動教室の時も、休み時間ももちろん一緒。かなちゃんは今まで仲良くしていた女の子たちとは全然話さなくなって、見向きもしなくなった。まるで、人が変わったようだった。
スイッチが切り替わったなんて、単純なものじゃないはずなのに、それくらいしか言い表せる言葉は見つからなかった。
今まで、わたしは全然目立たなかった。誰にも意識されていなかった。だけど、いきなり渦中のひとになってしまった。
案の定、わたしは昼休みに呼び出しを食らった。かなちゃんがたまたま職員室に行っていて、教室にいない時だった。
呼び出したのは昨日までかなちゃんと仲良くしていた子たちで、その目つきはちょっと怖かった。有無を言わせない声だった。
「ちょっと、いいよね?」
連れて行かれたのは、昨日、かなちゃんに告白された場所だった。
昨日は告白今日は尋問。ちょっと忙しすぎる。
リーダー格の女の子が、わたしに尋ねた。
「どういうこと?」
棘のある言葉だった。今までこんな感情を向けられたことは、たぶんない。だから、免疫だってない。
リーダー格の女の子は背が私よりいくらか高くて、だぼだぼのカーディガンを着ていた。スカートはとても短くて、いかにも今時の女の子といういでたち。名前は、確か花枝さん。下の名前は、覚えていない。
怖い女の子たちに囲まれて、わたしは既に泣きたかった。心臓は嫌にどきどき跳ねていて、痛いくらいだった。
「あ、あのね、かなちゃん優しいでしょ?だから、わたしのこと、その、気にかけて、くれてて…」
嘘は、言っていない。だってずっと気にかけてくれていたのだ。どういう感情を向けていたかは別として。
それを聞いて、女の子たちはヒソヒソと話し出した。
「それで、可哀想だからお友達にでもなってもらった?」
馬鹿にされている、と思った。わたしは今、この女の子たちに見下されている。
でも、仕方ないのだ。だって、なんでかなちゃんはこんな私のことが好きなのか、わたしだって分からない。何が全部なんだ、哀れみを向けられているみたい。
「う、うん。かなちゃん、結構ストレートだから、それで、今日みたいなこと、したんだと思う…」
かなちゃんの態度は露骨なまでに変わった。最初から好きだったなら、もっと早く、それこそ入学式の日にでも言ってくれれば良かったのに。なんで、今になって。
勇気が無かった?
嘘だ、そんなの嘘。
「あのね、湯井さん」
今度は、打って変わって優しい声だった。薄ら寒いくらいに。
「湯井さん、クラスでもあんまり目立たない子でしょ?だからきっと、今日のことで戸惑ってると思うんだよね」
「う、うん…」
「お友達なら、嫌なことは嫌だって言わなきゃダメだよ?ねえ」
そう言って、周りの子たちに賛同を求めると、他の子達はねー、と声を合わせた。
「だからさ、かなに言いなよ。迷惑だって」
「え…」
「かなもさ、正義感強いからさ、ほっとけなかったと思うんだよね。でも、こういうのは、嫌でしょ?」
どうなんだろう。
わたしは、かなちゃんと待ち合わせて手をつないで学校に行って、一緒に行動して、嫌だったのだろうか。
恥ずかしかったのは事実なのだけど、でも、嬉しかった。だって中学に入って、初めて友達ができた。アドレスを交換して、一緒に学校に行く約束もした。それは、確かに嬉しかった。
「あー、もしかしてさ、かなに悪いと思ってる?そうだよねえ、気にするよね」
何も言えない私の周りで、話はとんとん進んでいく。
「なら、ウチから言ってあげるよ。それなら、大丈夫でしょ?」
そーしよー、そんな同意が出て来て、花枝さんはニッと笑った。
「じゃあ、言っとくから。湯井さんが困ってるって」
タイミング良く鳴ったチャイムで、話は切られた。
一緒に中庭で食べようって、約束していたから、きっと、かなちゃんは中庭で待っていたのだろう。ポケットに入れっぱなしのスマホを確認すると、かなちゃんから沢山、メールも着信も来ていた。
サイレントにしていたから、気づかなかった。でも、気づかなくて良かったかもしれない。花枝さんなら、きっとここにかなちゃんを、呼び出したに違いない。
それは、嫌だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
のろのろと教室に戻ると、授業はもう始まっていて、ちょっとだけ、現代文の先生は嫌な顔をした。
わたしの席は廊下側の最後尾だから、後ろからはいればすぐに席につける。でも、扉の開いた音で、クラス中の視線はわたしに向いた。
おとなしくわたしは席に着いたけど、女の子たちが、わたしのことでヒソヒソ話しているのが分かった。
斜め二つ前の席にいるかなちゃんの方を見ると、教科書に目を落としていて、わたしに気づかなかった。
なんとなく、夢が覚めたような、そんな気がした。
帰りは、どうなるんだろう。
その前に、この授業が終わった休み時間は、どうなるんだろう。
今まで静かに過ごしていた時間が、騒がしくなってしまった。
女の子たちの嫌な視線も、男子たちの悪意のないひやかしも、全て、わたしにはぐさぐさと刺さっていく。
抱きしめられた昨日のことが嘘のように思えてきた。
本当は、好きだと告白されたのも、夢だったのかもしれない。もう、ぐちゃぐちゃだ。
だけど、盗み見たスマホのアドレス帳には羽根田かなの名前だけが登録されていて、昨日、初めてもらったメールは確かにあった。
遠くから、現代文の先生の眠たくなる声が聞こえる。今は中原中也の詩なんて楽しんでる場合じゃない。汚れてしまったのは、一体なんだろう。
泣きたくなったけど、頑張ってこらえて、授業が終わってすぐ、わたしは逃げるように教室を出て行った。
かなちゃんの顔は、見なかった。
第3話 慢性的自殺願望癖
わたしはどうすれば良かったんだろう。
ずっと鳴り続ける、自分のあまり汚れていないスマホを眺めながら、ぼんやりそんなことを考えた。
昨日のあんなことがなかったら、わたしは静かに今日も過ごしていた。かなちゃんはさっきの子たちとやっぱり仲良くしていたんだろう。
かなちゃんにとって、あの子たちはなんなんだろう。今まで仲良くしていたのが、嘘だったなんて思えない。もしわたしが、あの子たちの立場なら、やっぱり突然現れたその子に突っかかるかもしれない。
仲良くしていた子が唐突に、自分たちに見向きもしなくなるなんて、誰だって嫌なことだ。その嫌なことを引き起こしたのはわたしで、そのせいでこんなことになった。
あからさまじゃなかったら、きっと良かったんだ。こっそり、メールのやり取りだけするとか、朝ちょっと目配せするとか。それだったら、わたしは今もはしゃいでいたに違いない。
かなちゃんは、なんであそこまではっきり変えたんだろう。その変化を、かなちゃんはなんでもないことのように思っていたのかもしれない。でも、周りからすればそれは大きなことで、無視できるものじゃない。
「ねえ、かなちゃん。なんでわたしだったの」
昨日突然告げられたこと。
どうして告白して来たんだろう。もっと、ささやかなやり方があったはずで、そうすれば、わたしはこんな惨めな思いをしないで済んだのに。
休み時間はもう終わる。
屋上に続く階段の、最上段に座ったまま、いっそさぼってしまおうかな、なんていけないことを考えた。
でもさぼるなら保健室の方が都合はいい。いつもあんまり顔色が良くないから、仮病だってばれないだろう。
わたしの気持ちは既に、次の時間をさぼる方に傾いていた。
それくらい、教室に戻りたくなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
保健室の先生は、わたしの顔を見るなり貧血の心配をしてくれた。お陰様でわたしは6時間目を堂々とさぼれる運びとなった。
4階建ての校舎の1階に保健室はある。さっきまで4階にいたから、移動には少し時間がかかった。保健室に入った途端チャイムがなって、先生は少し驚いていた。
「いっそ、早退したら?」
5時間目が終わって、6時間目が始まった。6時間目が終われば下校だから、帰りのホームルームに出るくらいならここで早退してしまった方が確かに楽だ。
気を遣って先生が荷物をとってきてくれるらしい。またあんな視線を向けられるのは嫌だ。だから、お願いしますって申し訳なさそうに言った。先生はいいのよって、にこにこ笑っていた。
先生が出て行って、静かになった。保健室にはわたししかいない。仕切りのカーテンを一応閉めてから、ベッドに横たわって、天井を眺めた。怖くなって、スマホの電源は切った。
かなちゃんはこんなわたしを見て失望しただろうか。でも、生憎、かなちゃんが好きになった女の子は、こういうやつなのだ。
目をつむって、今までのことを思い返した。そういえば、かなちゃんはわたしのことを恋愛対象として見ているのだった。わたしは、初めての友だちとして、かなちゃんを見ているけど。これは、そのギャップなんだろうか。でも、どちらにしたって、相手と仲良くしたいと思う気持ちは一緒のはずなのだ。
わたしと仲良くしたいなら、もっと穏便な方法をとって欲しかった。わたしは目立つことに慣れていない。かなちゃんとは違う。だから、視線が怖いし噂話の対象になるのが嫌だ。
ねえかなちゃん。
本当は、わたしのこと嫌いなんじゃないの?だからこんなこと、してるんじゃないの?
真っ黒な感情が渦巻いているみたい。こんな自分が嫌で、変わりたいと何度も思ってきたけど、結局変われなくて、わたしは今もわたしのまま。
嫌いだ。
かなちゃんのことをそんな風に疑ってしまうわたしが、何よりも嫌い、大嫌いだ。
視界がぼやける。涙が浮かんで、ああ、泣いてしまうんだなって思った。
悲しいんだろうか。それとも悔しいんだろうか。色んな感情がぐちゃぐちゃに絡まってしまって、もうよく分からなくなった。
でも、泣きたくはなくて、手で乱暴にこすった。気を緩めたらもっと出て来そうで強く唇を噛んだ。起き上がってベッド脇のチェストに置かれた時計を見たら、5分くらい経っていた。
もうすぐ先生が帰ってくる。顔色が悪い上に涙で目が赤くなってしまっていたら、先生だって驚くに決まっている。
近くにあったティッシュボックスから2、3枚とって、思い切り鼻をかんだ。今日はもう帰ってすぐに寝てしまおう。受験生としては勉強しなくちゃいけないけど、今はそれどころじゃない。
ドアが開く音がして、慌てて見なりを整えた。涙だってもうかわいたはず。
靴を履いて、ベッドを降りた。仕切りのカーテンを開けようと思ったら、勝手に開いた。
え、と声を出す暇もなかった。
すぐにカーテンはまた閉まって、わたしは思い切り腕を引っ張られた。ちょっと痛かった。
「な、んで」
こんな掠れた声が出るんだなって、感心してしまった。
ねえ、なんでここにいるの。
ここに来るのは、保健室の先生であって、かなちゃんじゃ、ないのに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「具合はどう?」
こんなに白々しい言葉も、そうそう無いだろう。ねえ、かなちゃん。心配している人は、そんな目で見たりしないよ。
かなちゃんが怒っているのは一目で分かった。だって、すごく冷たい目でわたしを見つめるから。
「もう、へいき」
「それは、良かった」
本当に良かったって思っているの?怖くてこんなこと聞けなかったけど、全然良かったとは思ってなさそうな声だったのは確かだった。
「に、荷物、ありがとう」
かなちゃんはわたしのカバンを持って来ていた。保健室の先生に言って、わざわざ来てくれたんだろう。
正直なところ、保健室の先生に持って来て欲しかった。
かなちゃんはわたしを引っ張って、ベッドに座らせた。見上げた先、真っ黒な瞳はとても冷たくて、そのまま吸い込まれそうだった。
「なんで、出ないの」
「え、えと、あ、ごめんね?その…」
スマホのことを言っているんだって、すぐ分かった。怖かったから、なんて言えない。だって追い詰められているような気がしたからなんて、言えない。
今見たら、かなちゃんからの履歴ですごいことになっているんだろう。
「呼び出されたんでしょ、なんで黙っていたの」
「それは…」
「答えて?」
わたしを真っ直ぐ見下ろすかなちゃんの顔はとても怖かった。冷たいその顔をなるべく見ないようにして、言葉を探した。
「だって…かなちゃん、花枝さんたちと仲良かったでしょ?だから、花枝さんがわたしに言ったのも、分かるし…」
「私に付きまとわれるのが迷惑だって、言ったの」
「それは、」
「ねえ、なんで関係ない人が出て来るの?」
「関係はあるよ、だってかなちゃん、花枝さんたちと仲良くしてたでしょ?むしろ私となんて昨日今日のはなしだし」
そう、かなちゃんとわたしは、昨日今日の間柄なのだ。これが入学して数日ならともかくとして、今は中学3年の秋で、もう終わりもいいところなのだ。
かなちゃんの態度に、驚かない人の方が少ないのだ。
「ねえ、かなちゃん。かなちゃんはどうしてわたしを好きになったの?」
わたしのことが好きな女の子。でも、わたしのどこが好きなのって聞いたら、全部って答えた。全部ってなあに?
幅の広い言葉の中に、わたしのすべてが入っていたとしても、わたしには理由が分からない。
どうして、わたしだったの?
こわごわと、でも真っ直ぐ見上げた瞳はやっぱり冷たかった。だけど、目は逸らさない。
かなちゃんは、じっとわたしを見ていたけど、突然ふいっと、目を逸らした。
「だってあなた、かわいいから」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。かわいい?ねえかなちゃん、わたしは鏡じゃないよ。かなちゃんが見ているのはすぐに忘れられるような顔の、その辺の女子だよ。
「かな、ちゃん…」
「それより、私に付きまとわれるのが迷惑だって、聞いたけど」
「…それは、違うよ。でも、でもね、かなちゃん。かなちゃんがどう思っていたとしても、今までの時間は軽くないんだよ」
「どういうこと?」
「かなちゃんは花枝さんたちと仲良くしてた。それなのに突然話さなくなって、見向きもしなくなったら、おかしいって、誰だって思うんだよ」
わたしは、頑張って一生懸命伝えた。全然友だちがいなくて、想像で喋っているけど、花枝さんの気持ちだって、わたしにはやっぱり分かるから。
でも、かなちゃんにはあんまり伝わっていなかったみたい。
すごく、どうでも良さそうな顔をしている。なんでだろうって、思った。逆に、そんな顔をするなら、かなちゃんはなんで花枝さんたちと仲良くしていたんだろう。
「彩絵果、」
顔が近づいてきて、鼻と鼻がぶつかる、というくらいの距離になった。
「私の言うこと、全部きけるなら、全部、話してあげる」
「いうことって?」
その白い手が、私の頬を包んだ。冷たかった。
「私は彩絵果が好きだよ。彩絵果も、じゃない、彩絵果だけが好き。私の言ってる意味、分かるよね」
「う、うん…」
「私はね、彩絵果だけが欲しいの。他のものなんて何もいらない…ねえ、全部くれる?彩絵果の全部をわたしにくれる?」
だから、全部ってなあに?
わたしのどこが好き?
全部。
わたしの何が欲しいの?
全部。
全部ってなんだろう。
わたしの全部って、何が詰まっているんだろう。
すぐそこにあるかなちゃんの顔は真面目で、ほんとうに全部が欲しいんだってことは、分かった。
「ねえ、かなちゃん…わたしの全部って、なあに?」
わたしが持っているものは、なんだろう。この五体満足な体と、感情のほかに、何があるんだろう。
真っ直ぐかなちゃんを見た。
かなちゃんも、わたしを真っ直ぐ見ていた。
わたしはかなちゃんの瞳に映るそれなりに真剣な顔のわたしを見た。
「全部っていうのはね、彩絵果」
頬から外れた白い手は、わたしの肩まで落ちて、そして、わたしは気付けばベッドに倒れていた。
かなちゃんは倒れたわたしの上に押しかかった。顔の横に無防備に置かれたわたしの両手は、かなちゃんの両手に掴まれた。蛇に睨まれた蛙みたいに、わたしは身じろぎ一つできなくなった。
「あなたの眼差しの先に、わたし以外の人が映るのが嫌。あなたのその笑顔が、わたし以外の人に向けられるのが嫌。あなたの心の中に、わたし以外の人がいるのが嫌。あなたの好意が、わたし以外の人に向くのが嫌。あなたのこの華奢な体に、わたし以外の人が触れるのが嫌…彩絵果、全部ってね、こういうことだよ」
わたしのたいらな胸元に、かなちゃんの頭が乗っかる。昨日聞いたかなちゃんの胸の音はとても大きくてはやかったけど、今のわたしの鼓動は、どうだろう。
かなちゃんの言う全部は、つまりそういうことだって、なんとなく分かった。
わたしの全部って、わたしというものをつくる全部なのだ。わたしがわたしであると証明できるすべてが、かなちゃんは欲しいのだ。
それなら、かなちゃんはわたしをわたし足らしめるものすべてが好きだということになる。
なんで?かわいいからっていう理由だけで、それだけで、そんなものが欲しくなるの?
嵐のようだなって、思った。
昨日突然告白されて、今、昨日の告白よりも濃いことがらを、囁かれている。
でも、今は入学して間もない春じゃない。あと少しで冬になる、中学3年の秋だ。
今の今まで全然話さなかった、ただのクラスメイト。そのクラスメイトが、わたしの全部を寄越せと言う。
ものごとには順序があって、踏むべき手順がやっぱりある。でもかなちゃんは、そういう、わたしにとっては大切なことを、全然、なんとも思っていない。
そうじゃなかったら、こんなことにはならない。
明日から、学校どうしよう。あとひと月と経たないうちに学力テストだってある。割と切羽詰まった時期に、こんなこと、している場合じゃないのに。
「…あのね、わたしね、」
でも、明日のことは今は考えなくてもいいことにして、とりあえず今と向き合うことにした。だって、少なくともかなちゃんはほんとうのことをわたしに伝えている。なら、わたしもほんとうのことを伝えなければならない。
「やっぱり、まだよく分からないんだ。でもね、これから、知っていくことはできるよね?もう、あんまり時間はないかもしれないけど…だけど、羽根田かなっていう女の子のことを、知ることは、わたしにもできるよね?」
好きっていう感情だって、わたしにはよく分からない。だって、いわゆる恋愛感情を、抱いたことが一度もないから。
ただでさえ、わたしは羽根田かなという女の子のことを、ちっとも知らない。表面的なことは知っているけど、ちゃんと知らないといけない、内側のことは何も知らない。
「友だちからって言ったのはね、わたしが、かなちゃんのことを何も知らないから。あとは、わたしが、そういう、恋とか…分からないからっていうのも、あるけど…だから、これから教えて?かなちゃんのこと、色々、それこそ全部。そうじゃないと、わたしの全部は、かなちゃんにあげられない」
中学に入って、友だちがひとりもいないわたし。本とか、そういうもので知った知識しか、わたしの中にはない。そういう意味では、私の中には何もないのかもしれない。
ないものは、あげられない。欲しいというなら、これからつくっていくしかないのだ。
かなちゃんはしばらく黙っていて、とても静かだった。気付けば掴まれていた両の手は解放されていて、かなちゃんの顔は遠くなった。
「じゃあ、これからたくさん話してあげる。私のこと、私が好きなあなたのこと。だから、彩絵果も教えて?私が知らない彩絵果のこと」
優しい声だった。ちょっとだけ、何かを諦めたような顔。でも、さっきまでの冷たい顔より、わたしは今の顔の方が、ずっとずっと好きだ。
「うん、分かった。分かったよ、かなちゃん」
起き上がって、かなちゃんの顔をじっと見た。かなちゃんの瞳に映るわたしは、さっきまでのぐしゃぐしゃなそれじゃなくて、ちょっとはましな顔をしていた。
おずおずと手を差し出したら、かなちゃんは柔らかく握ってくれた。
「今日は、お弁当、一緒に食べられなくてごめんね、それから、えっと、スマホも…」
「こっちこそ、ごめん。だけど、私はやっぱり彩絵果と一緒にいたい」
「それは、えっと…うーん、頑張る」
好奇の視線にさらされることに慣れなかったら、わたしはかなちゃんのことは分からない。だから、変わるしかないのだ。それに、これはいい機会なのだと思う。変わりたいって、ずっと思っていたのだから。
もう一つの手でわたしの手を包んだかなちゃんは、ほんとうに柔らかく、笑った。
「ありがとう」
確かに、この笑顔がわたしだけに向けられるなら、それはとても、幸せなことだ。
かなちゃんにとってもそうならいいと、わたしは思った。
それからすぐに保健室の先生が帰ってきて、話しているうちにチャイムが鳴った。
かなちゃんは自分のカバンを取って戻ってくると、わたしの手を引いて保健室を出て行った。
保健室の先生が、にっこり笑って見送ってくれたから、ちょっと安心した。
その日は、そのまま、言葉少なに、手をつないで帰った。
朝みたいな惨めな感情は、不思議と生まれなかった。
第4話 一人歩きしたわたしの背中
別れ際に、聞きたかったことを聞いてみた。
よくニュースでも取り上げられるコミュニケーションツールを、案の定かなちゃんは使っていた。
アプリケーションのダウンロードから、アカウントの取得まで、全部、かなちゃんが手早くやってくれた。もちろん最初の友だちはかなちゃんで、こっちの方が行き違いがなくて便利だからって、これからはこのツールでやり取りすることになった。
かなちゃんはわたしのいちばんめ、というのがとても嬉しいみたいで、そんなかなちゃんを見て、こっちも嬉しくなった。
ずっと手をつないで、帰って来た。
手をつないでいると、体温のほかに色んなものが相手に伝播していく気がした。わたしの嬉しいという感情が、ちょっとでも伝わって欲しくて、少しだけ、握る力を強めた。
途中の別れる道で、ついでとばかりにかなちゃんの色んなことをたくさん、教えてもらった。
実は大勢で騒ぐより、静かに本を読む方が好きなこと。わたしが好きな作家のファンで、わたしが持っていない作品も持っていること。冬生まれなこと。兄がいて、遠くで離れて暮らしていること。
これから、毎日こうやって色んなことを知れたら、わたしの中のかなちゃんは平面から立体になって、肉付けされて、最後には血が通う気がした。そうなったら、わたしはきっと、もっとかなちゃんのことが好きになるんだろう。それが、どういう好きなのかは、今はまだ分からない。でも、確かにわたしは、昨日よりかなちゃんのことが好きになっていた。
わたしは、自分で言うのもなんだけど、単純な人間なのだ。だから、優しくされたら嬉しいし、気を許してしまう。ただでさえ、今まで全然人との付き合いがなかったから、余計に。
もっともっと仲良くなったら、今度は嫌われることが怖くなるんだろう。嫌われていないという絶対の自信を盾に、嫌われるいつかを危惧するようになるなんて、おかしな話だけど、きっとわたしにも、いつかそんな日が来るのだ。
それに。
かなちゃんにとっての今は、きっと通り過ぎていく通過点に過ぎないんだろう。仮にわたしがかなちゃんのことをそういう意味で好きになって、かなちゃんにわたしの持てる全部をあげられる日が来ても、いつか、もういらないって、言われる日が来るんだろう。
その日が1日でも、来るのが遅くなるようにって、縋るようになる日が、近いうち、きっと来る。嫌われたくなくて、かなちゃんに好かれる自分でいようと足掻く日が。
だって、わたしの友だちはかなちゃんしかいないから。
柔らかく微笑んでくれて、手を握ってくれて、わたしを好きだと言ってくれる稀有な人は、かなちゃんしかいないのだ。
かなちゃんと別れて、ひとりで坂道をのぼって、家に入った。部屋のベッドの上で、ひとり、嫌なことをたくさん考えてしまって、勝手に憂鬱になった。
明日からどうしようっていう不安。花枝さんたちのことも、クラスのことも。かなちゃんと仲良くしたい人は沢山いるのだ。かなちゃんは部活動には入っていなかったけど、生徒会の役員だったから、後輩もいる。色んな人に好かれている、わたしの友だち。
きっと、明日の朝、また手をつないで学校に行ったら、やっぱり周囲の目が怖くなるんだろう。花枝さんたちから、また呼び出されるかもしれない。別の人から、嫌なことを言われるかもしれない。
でも、変わると決めたのだ。
変わりたい変わりたいと口で言っても、実際に行動に移さなければ何も変わらない。そんな中途半端な自殺願望みたいものは、そろそろ捨てなければならないのだ。
変わるということは、今の自分を殺すこと。それは痛みや辛さを伴うということで、今までのわたしは、それが怖くてできなかった。
でも、今なら。
今なら、変われる気がするのだ。
変わったわたしなら、少なくとも、もっとかなちゃんと気安い関係になれる。かなちゃんに恐れをなしたり、怯えたりなんて、しなくなる。
さっきのこと。
唐突に、保健室でのことを思い出す。
あの時のかなちゃんは、とても怖かった。冷たい顔で見下ろされて、昨日の顔を赤らめていたかなちゃんと同じようには、思えなかった。
そういえば、花枝さんたちとの関係を、教えてもらえなかった。教えて欲しかったら、わたしはかなちゃんに全部をあげなくちゃいけない。でも、わたしはまだなんにも持っていないに等しいから、それはかなわない。
かなちゃんが要求したことは、一言で言えば私だけを見てって、ことだと、思う。
世間一般の女の子が、恋した時に言いそうなこと。だけど、かなちゃんの場合はちょっと違うような気がする。
わたしは、かなちゃんと対等な友だちになりたい。
でも、かなちゃんは友だちじゃなくて、付き合って欲しいって言った。要は恋人になって欲しいと。
だけど、ただの恋人ではなくて、わたしがかなちゃん以外のひとと話したり、仲良くすることを、きっとかなちゃんは許さない。
かなちゃんの恋人になるということは、朝から晩までかなちゃんのことだけを考えて、かなちゃんとだけ話して、触れて、感情を寄せるということ。現実的に可能かどうかは置いておいて、わたしにその要求に従う意思はあるだろうか。
今すぐ答えを出せというなら、多分、出来ると言える。
だって、わたしの中にいる他人は、かなちゃんだけだから。誰かのことを考えるとしたら、その誰かは決まってかなちゃんになる。仲良くするのだってなんだって、かなちゃんしか相手はいない。
でも、この答えでかなちゃんはきっと満足しないだろう。
だって、わたしは何も持っていない。
これから、色んなことを知って、わたしの中にたくさんのものが増えていって、数多の選択肢を持てるようになった時。その時に、迷わずかなちゃんを選ぶことを、かなちゃんは望んでいる。
ねえ、かなちゃん。
逆に聞きたいのだけど、かなちゃんはわたしがそうなった時、まだ、わたしを好きでいてくれる?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
まだ始まったばかりのことがらに、くよくよ悩んでも仕方ないって分かっているけど、やっぱり悩まずにはいられない。
結局、昨日もよく眠れなかった。
リビングでひとり、もそもそとトーストをかじって、今日のことを考えた。
また手をつないで学校に行ったら、やっぱり目立つんだろう。最悪嫌がらせやいじめのたぐいと、ご対面するかもしれない。
何より、花枝さんたちが気になる。
かなちゃんはどうするつもりなんだろう。どうにもするつもりがないのかもしれないけど、このままは良くない。でも、かなちゃんが今まで仲良くしていたグループに、今更わたしが入れるわけも無い。
一緒にいたいと言ってくれるのは嬉しいけど、一緒にいるということが、衆人環視の場では話題になってしまう。特に、かなちゃんみたいな有名人ならなおさら。
かなちゃんがわたしを独占するのは容易いけど、わたしがかなちゃんを独占するのはとても、とても難しい。
変わりたい。でも、すぐになりたい自分になれるわけじゃない。
この不安や怯えが、日に日に薄くなってくれればいいと思う。いつしか、そんなものがあったことすら忘れてしまえるといい。
ふと時計を見たら、もう出ないといけない時間になっていて、わたしは慌てて家を出た。
坂道の下には、かなちゃんが立っている。
意識して、に、と笑顔を作って坂を下りた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
友だちというのは何をすればいいんだろう。こうやって一緒に学校に行って、おしゃべりをして…とにかく一緒にいればいいんだろうか。そもそも、友だちを友だち足らしめるものはなんだろう。
よく分からないけど、今、わたしはかなちゃんと一緒にいる。手をつなぐにしろつながないにしろ、一緒に学校に行くなら、何がしか話すはずだ。べつに、強制ではないんだろうけど。
そんなことを考えていたら、かなちゃんが話しかけて来た。ちょっと、安心した。
「試験、勉強大丈夫?」
「学力テスト、ちょっと不安かな…特に数学は証明が苦手だから…」
わたしは数学が得意ではない。理科や社会はなんとかなるけど、数学だけはだめなのだ。
「明日暇なら、教えてあげようか?」
今日は金曜日。明日は休みで、わたしにはなんの予定もない。
「ほんとう?迷惑じゃないなら、お願いしたいな」
かなちゃんは勉強が得意な子で、数学だってわたしよりずっとずっと成績がいい。かなちゃんに教えてもらえるなら、今度の学力テストではそこそこいい点数を取れるだろう。
「志望校、織機だったよね。彩絵果の成績なら、もう少し頑張れば安定圏に入るよ」
「ほんと?なら、いいんだけど…かなちゃんは、やっぱり東芽に行くの?」
織機は、このあたりでそこそこの進学校で、わたしはぼんやりそこに行けたらいいな、と思っていた。何より家からそこそこ近い場所にあって、早起きが苦手なわたしにはありがたいのだ。
「東芽?」
東芽は、この県で一番偏差値の高い進学校で、ここから少し離れた場所にある。でも、東芽に通うというだけで、ちょっとしたステータスになるくらいには、名の通った高校なのだ。
てっきり、わたしはかなちゃんは東芽に行くとばかり思っていた。
「私、考えてないよ」
「じゃあ、どこにいくの?」
「織機だけど」
「…そうなの?」
とっても、びっくりした。だって、かなちゃんの成績で行くにはもったいないレベルなのに。
「なんで、驚くの?」
「だ、だってかなちゃんの成績なら、東芽だって簡単に…」
「彩絵果がいないなら、意味ないよ」
当たり前のように、そんなことを言う。
「…かなちゃん」
嬉しかったけど、まだその嬉しさの実感は乏しい。
かなちゃんが好きなわたしのことを、わたしはちっとも知らない。かなちゃんの進路にまで影響を及ぼすわたしって、一体なんなのだろう。
入学した春から、告白されるまでの時間で、かなちゃんの中のわたしは、どんな風にその存在を大きくしていったんだろう。
ねえ、かなちゃん。
わたしがいないと意味がないって、そんな風に思うようになったきっかけは、一体なあに?
わたしは、わたしが好きだという女の子のことを、ほんとうに、全然、知らないのだ。
手を、強く握った。感じる視線に気付いてないふりをして、強く握り返された手のひらの温度がわたしに移っていくのを、じっと、噛み締めた。
わたしが、今何を考えているか、かなちゃんに伝わればいい。
口で言うには頼りなさすぎることがらを、わたしは手のひらの温度に託した。
そろそろ、手袋の季節だ。でも、今年は使わないまま、終わるかもしれない。
そうだったらいいなって、思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
3年生の教室は2階にある。1年生が4階で、学年が上がるごとに階が下がっていく。
わたし達はAからEまで5クラスあるうちのD組で、校舎の中央の階段をのぼって、右折してすぐのところに教室がある。
昨日もそうだったけど、かなちゃんは上靴を履いたらまた、手をつないでくる。当然のように突き刺さる視線は、頑張って気づかないふりをする。気にしたら、こちらの負けだって分かっているから。
下は向かない。ちゃんと、かなちゃんの隣で、かなちゃんと話しながら、それが当たり前だって顔をして、そこにいる。
あからさまに無理をしている。でも、無理をしないと、こんなことはできない。そして、こんなことをしないと、わたしはいつまでも変われない。
教室に入ったら、沢山の視線が一斉にこちらを見て、その中に昨日、わたしを呼び出した人たちのものも入っていることに、わたしは気付いていた。
ホームルームまではまだ時間がある。かなちゃんは一度手を離して、カバンを自分の机に置いた。わたしも席に着いて、カバンを置いた。ヒソヒソ声は、うっとうしい耳鳴りということにしておく。
「かな、どういうつもりなの」
花枝さんの声だった。もちろん、かなちゃんに向けられたもの。
花枝さんはかなちゃんの席の横に立って、かなちゃんをじろりと見下ろした。対するかなちゃんはさして気にもしていない様子で、どうでも良さそうに花枝さんの顔を見上げた。
「どういうって、なにが?」
「湯井さんなんかとつるんで、なんのつもりなのって聞いてるの」
湯井さんなんか・・・。やっぱり、わたしは見下されている。そりゃあ、わたしはいわゆるぼっちで、なんの取り柄もないから、見下されるのも仕方ないのかもしれないけど。
「好きな子と一緒にいたいと思うのは、当たり前のことでしょ?」
「は?」
花枝さんは明らかに困惑している。ふたりを見守っているギャラリーも、それは同じ。
かくいうわたしだって、好きだと言われて戸惑っているわけで。
「昨日も言ったけど、私、あなた達のことなんてなんとも思ってないもの。ただ、仲良しごっこをしてただけ」
「仲良しごっこって、なに?かなは今まで、ウチらと友達のフリをしてたっていうの?」
「そう。都合が良かったから」
「…なにそれ、ワケわかんない」
正直、わたしもわからない。この場だけを切り取ったなら、間違いなくわたしは花枝さんの肩を持つだろう。
それに、今までみんなの前で使っていた柔らかくて優しい話し方じゃなくて、とても淡々としていて温度のないそれでは、何事かとみんな思っているに違いないのだ。
かなちゃんは、わたしが知っているみんなの前でのかなちゃんは、いつもにこにこしていて、あたたかくて、とてもいい子。
でも、今のかなちゃんは、それとは180度違って、別人のよう。
それを、かなちゃんはなんとも思っていない。だけど、みんなは、やっぱりそうじゃない。わたしだって、そう。
もともとこういう性格で、わたしとのことがきっかけで、化けの皮を剥がしただけなのかもしれない。でも、その影響は、かなちゃんが思っているよりも、絶対に大きい。
「最初から、薄っぺらい関係だったのに、そんなことを言われても困るんだけど。」
「かなにとってウチらは、ぽっと出の湯井さんに負ける程度のものなの?なんで?ねえなんでなの?」
花枝さんの声が震えていて、思わず、声が出そうになった。
だけど、わたしは部外者で、いちばん口を挟んではいけないひと。だから、黙って見守った。ここからお涙頂戴のハッピーエンドになったりは、しないって分かっているけど。
「いらなくなったから。必要なくなったから。それ以上の理由がいる?」
ナイフだ、言葉のナイフ。
かなちゃんの言葉は花枝さんに向けられたものなのに、わたしの心を深くえぐった。
ねえ、かなちゃん。
花枝さん、泣いちゃうよ。かなちゃんの言葉に、傷つけられて。
すっかり忘れていたら、チャイムが鳴った。花枝さんは肩を震わせながら席に戻っていって、教室内はとても、気まずい空気に支配された。
ポケットのスマホが鳴って、確認してみたらかなちゃんからメッセージが入っていた。
『気にしないで』
ねえ、かなちゃん。それは、いくらなんでも無理だよ。
わたしは、ほんとうに、羽根田かなという女の子のことをなんにも知らないんだって、思い知らされた。
そして、ちょっと、羽根田かなという女の子のことを、知るのが怖くなった。
第5話 彼女の中の、わたしの顔
今日のお昼休みは、かなちゃんが呼び出された。
結局、今日もわたしはかなちゃんとお昼を食べられなかった。
わたしは教室にいるのが辛かったけど、ここで、かなちゃんを待とうと決めた。今、かなちゃんの味方になれるのは、たぶん、わたししかいない。だから、ちゃんとここにいる。
実際のところ、かなちゃんはわたしがいなくたって平気な子だと思うけど、待つと決めたのだから意地でも待ってやるのだ。突き刺さる視線もヒソヒソ話も、耐えてやる。
これは、かなちゃんのためじゃない。わたしのためだ。わたしが変わるために、勝手にやっていること。
味方だけど、でも、かなちゃんの変化に戸惑っているのはわたしも同じ。お花を振りまく、柔らかい春のような子だったのに、今は冬のように冷え冷えとしている。わたし以外、どうでもいいっていう拒絶を突き付けて。
春は緑の盛りの夏になり、葉が落ちる秋になって、そしてようやく冬になる。わたしに告白した日、かなちゃんは突如として冬になった。夏と秋をすっ飛ばして、凍てつく冷たさを持ってきた。
でも、わたしには春が来た。かなちゃんが、わたしには春のあたたかさを、これでもかというくらいくれるから。今まで色んな人に振りまいていたあたたかさを、わたしだけにくれるようになったから。
嬉しいけど、とても嬉しいけど、でも、違う気がする。だって、今までのことを、無かったことには、できない。
花枝さん達との今までを、無かったことにはできないって、かなちゃんは分かっているんだろうか。たとえかなちゃんの中で意味がなくなったとしても、相手もそうだとは限らないのに。
花枝さん達とは、1年生の頃はクラスが違って、去年から一緒のクラスになった。わたしは、花枝さん達と仲良くするかなちゃんのことをそれなりに見てきた。
花枝さん、あと、それから沢野さわのさんと方坂ほうさかさんに、米田まいださん。この4人と、かなちゃんはいつも仲良くしていた。気が強かったり、ちょっと口が悪かったり、良くも悪くも今時の女の子って感じの4人と、同調したり、時には4人を諌めたりして。
かなちゃん達のグループは、このクラスでも中心的な存在だった。だから、かなちゃんも修学旅行の班決めで、わたしを拾ってくれたのだと思っていた。グループの中心人物だから、クラスの中心人物だから、義務だとばかりに。
「ねえ、湯井さん」
突然、声がした。名前を呼ばれて、慌ててそちらを向いた。かなちゃん達とは別のグループにいる、竹下さんという女の子だった。
「え、な、何…?」
見下ろす視線に温度はなくて、わたし自身にはなんの関心もないことが、よく分かった。
強く、スカートの裾を握った。
「羽根田と何があったの?今のクラスの空気、分かるよね?」
「う、うん…」
改めて見ると、やっぱりぎこちない。わたしと竹下さんを注視する視線、視線、視線。みんな、戸惑っている。進路のことでデリケートになるときに、こんなことが起きたのだから当然の話なのだけど。
「なんで、突然羽根田とつるむようになったの?」
「そ、それは、その…」
告白されたからです、なんて、この場で言えるわけが無い。無理だ。
「湯井さんいつも一人だから、羽根田が気にかけるのは分かるけど、これ、そういうのじゃないでしょ?」
その通りだけど、だからと言って告白されて、ひとまずお友達からお願いしますって言った、なんて言えない。
どうしよう、なんて答えればいいんだろう。はくはくと動く唇に、音は乗らない。
「答えて。…まさかとは思うけど、本当に羽根田につきまとわれてるの?それなら、ちゃんと言ったほうが良いと思うけど」
「それは、違うよ…迷惑だなんて、思ってない」
「なら、なんで?」
「それは…」
「私からお願いしたの。友だちになって、って」
びっくり、した。
「かな、ちゃん」
竹下さんの顔に、動揺の色が見えた。やっぱり、かなちゃんは凄いんだな。みんな、この可愛くて綺麗な女の子には、顔色を変えるのだ。
「羽根田…ちょうどいい。あんたこれ、どういうつもりなの?」
「どういうって、何が?」
「決まってるでしょ、突然人が変わったみたいになって、…湯井さんとつるんで」
わたしって、本当にこの教室で、ヒエラルキーの最下層にいるんだなって、分かった。花枝さん達だけじゃない。みんな、わたしを見下している。
大事なのは、かなちゃんが変わったこと。わたしと一緒にいるようになったことは、実は、ついでなのだ。わたしと一緒にいるようになってから、かなちゃんが目に見える形で変わったから。
わたしのせいで、羽根田かなという女の子が変わったって思っている。花枝さん達も、竹下さんも、他の視線も。
湯井彩絵果という、誰からも見下されている女の子が、クラスの、そしてこの学校一の有名人で、人気者の羽根田かなを変えてしまった。
「彩絵果と仲良くしてるのは、私がそうしたいから。それ以上の理由がいる?」
「それは、」
「千穂達とは話はつけたから。これでいい?」
そういえば、花枝さんの名前は、花枝千穂というのだった。名簿を見たとき、綺麗な名前だなって、思ったのを思い出した。
「なんで…」
「なんでって、何が?」
かなちゃんは、気づいているんだろうか。竹下さんがどうして、こんなことを聞くのか。
「なんで、湯井さんなの?今までそんな素振り、ちっとも見せなかったのに」
これは、竹下さんの嫉妬なのだ。可愛くて綺麗な女の子が選んだのが、みんなから見下されているわたしだから。自分が、選ばれなかったから。
「それ、あなたに言う必要あるの?それともなあに?私が誰かと仲良くするには、皆が納得するだけの理由がないといけないの?」
かなちゃんが誰と仲良くしたいかは、かなちゃんが決めること。そのことに、口出しする権利は、誰にもないのだ。わたしにも、もちろんない。
「それは、そうだけど…」
「なら、もういいでしょ?こんなことに時間潰す暇あるなら、勉強でもしたら?」
突き放すような声、なんの優しさもない。でもそれは、かなちゃんにとって、今のこの会話が、どうでもいいから。
それで、話は打ち切られた。丁度チャイムが鳴って、みんな慌てて前を向いた。
スマホが震えて、こっそり確認した。かなちゃんから、メッセージが来ていた。
『お昼、ごめんね』
それどころじゃ、ないのだ。結局わたしは、お昼ご飯に手をつけないまま、お昼休みを潰したけど、今はそれどころじゃ、ない。
かなちゃんにとっては、今の今までのことは、わたしとのお昼の前に霞んでしまうこと。それくらいわたしを大切に思ってくれることは、とても嬉しいけど、でも、だからこそ分からなくなった。
今までの時間の中で、かなちゃんが好きになっていったわたしを、わたしは知らない。一人歩きしたわたしがどんなふうなのか、わたしは知らない。
先を行き過ぎて、背中も見えないわたしの影を、これから、わたしは探していかなきゃいけない。
羽根田かなという、女の子の中に。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
今日はどうにか真面目に授業を受けて、ふたりで教室を出た。
かなちゃんが花枝さん達とどう話をつけたのかは知らないけど、花枝さん達はこちらを見もしなくなった。
きっと、とてもひどいことを言われたんだろう。でも、わたしはその言い方を咎めることはできても、かなちゃんの選んだことに口出しする権利はない。
下駄箱で手が離れたとき、ふと、かなちゃんの顔を見てみた。
じっと、わたしを見ている。わたしだけを。わたしの所作全てを見逃したくないみたいだった。
靴を履いて、すぐ、わたしの手はまた繋がれた。ちょっと冷たい、かなちゃんの手。細くて長くて、柔らかい。
校門を出て、かなちゃんはちょっと細い道に入った。表の通りを歩いたほうが早いのだけど、わたしを気遣ってくれたんだろう。
ちらと見たわたしに、かなちゃんはちゃんと気づいてくれる。それは、わたしのことをちゃんと見ているから。
「どうかした?」
「ねえ、かなちゃん…あのね、」
どきどきする。だって、こういうこと、言うのが初めてだから。
「うん?」
「今日、時間…ある?」
「あるけど、どうしたの?」
かなちゃんの顔は優しくて、昼休みとはまったくの別ものだった。同じひとに、思えないくらい。
「…聞きたいこと、たくさんあるから」
「じゃあ、私の家においで」
「え?」
実のところ、家に帰ってから、コミュニケーションツールでメッセージのやりとりをすることを想像していた。もちろん直接話したほうが良いのだけど、全然考えていなかった。
「ふたりきりのほうが、都合いいでしょ?」
「…うん」
「じゃあ、行こっか」
かなちゃんの声が少し、弾んでいる。嬉しいんだろう。
そういえば、かなちゃんの家って、見たことがない。どんなふうなんだろう。
こんなことすら、わたしは知らない。なんにも、知らない。
だから、知らなくちゃいけない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かなちゃんの家は、一度見たら絶対に忘れないお家だった。
どこにでもありそうな、箱のような家じゃなくて、そこだけ西洋の風が吹いているみたいな、品の良い3階建ての洋館だった。
すっごく大きいわけではなくて、でも、小さいか大きいかで言えば、大きい。この辺りはそこそこ土地代が高いらしくて、家のローンが大変だって母さんが言っていた。やっぱり、かなちゃんのお家はお金持ちなんだろう。
でも、てっきりかなちゃんは日本家屋に住んでいるイメージを勝手に持っていた。
かなちゃんには、洋服も似合うけど、着物のほうがずっと似合う。これはあくまでもわたしの中の勝手な想像であって、かなちゃんに押し付けるものじゃないけど。
「素敵な、お家だね」
「ありがとう、母さんの趣味なの」
「へえ…」
このままずっと見ていたい気もしたけど、声もなく引かれた手に従って、わたしは中へと入っていった。
お友だちの家に、お呼ばれされた。今度は、わたしがかなちゃんを家に呼べたら良いのだけど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かなちゃんの部屋は3階の階段をのぼって突き当たりにあった。わたしの部屋より広くて、綺麗だった。
きょろきょろと行儀悪く部屋の中を見回して、わたしはびっくりした。だって、二人掛けのソファが置いてある。自分の部屋にソファがあるって、すごい。
「ソファが、ある…」
「え、ああ、うん」
お金持ちのお家は、凄いなって思った。わたしの部屋なんて、机とタンスとベッドできちきちなのに。
「飲み物持ってくるから、座ってて。紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ、コーヒーで。あ、ミルクと砂糖はいらない」
「分かった」
かなちゃんが部屋を出ていって、ひとりになった。壁に掛かっている時計は4時をさしている。いつもなら、家に帰っている時間。
ソファにおずおずと座った。思ったより硬めのクッションで、姿勢が自然と良くなりそうだった。
テーブルの前に置かれたローテーブルには、砂糖菓子の入ったガラスの入れ物が置かれている。テーブルクロスは白のレースで、ちょっと別世界に来た気分になった。
テーブルの先にはタンスとクロゼットが置かれていて、わたしから見て左の端に、ベッドがある。大きくて、寝相が悪くても落ちる心配のない広さだ。
良いな、羨ましいな、とは思うけど、ここに今日から住んでくださいと言われたら、落ち着かなくて無理だと言うだろう。わたしには自分の部屋の、あの狭さが丁度いいから。
やることがなくて、ふと、指で数えてみた。
出会って、ちょっとごたごたして、きょう。まだ、3日しか経っていない。でも、もう、わたしは友だちの家にあがって、これからたくさんのことを聞く。
世間一般の、普通のお友だちと同じように、やっていく必要はないと思う。でも、色々と順序がバラバラになっていて、なんだか変な気分になる。
好きだと言われてから、わたしはかなちゃんが冬生まれで、お兄さんがいて、わたしと同じ作家が好きだって知った。もし、あの時首を縦に振って、わたしとかなちゃんがそういう関係になっていたら、わたしはそのことを、いつ知ったんだろう。
多分、わたしもかなちゃんのことがどうしようもなく好きなら、こんなことを知らなくたって良いんだろう。知りたくなる気持ちは絶対にあるだろうけど、知らなくたって、別にいいのだ。
わたしが、こんなにもかなちゃんのことを知ろうとしているのは、かなちゃんのことを、クラスメイトとしか思っていなかったから。恋い焦がれていたわけじゃないからなのだ。
かなちゃんと仲良くなれて、もちろん嬉しい。でも、それはわたしと仲良くしてくれるからで、別に、かなちゃんだから、というわけではないのだ。かなちゃん以外の別のひとだったとしても、わたしは同じように嬉しかっただろう。
わたしの中には、かなちゃんしかいない。でも、かなちゃんじゃないとだめな理由は、まだ、存在しない。
かなちゃんの中には、わたしがいる。わたしじゃないとだめな理由が、存在するはずだ。
昨日今日の関係ではあっても、それ以前から、かなちゃんはわたしを見ていて、わたしを知っている。かなちゃんの中にいるわたしを、わたしはこれから知っていく。
全て知ったとき、わたしはかなちゃんのことをもっと好きになるだろうか。それとも、嫌いになるんだろうか。わたしの感情の行方は、今はまだわからない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
コーヒーカップを2客、お盆にのせてかなちゃんは戻ってきた。ソファの前のテーブルに置かれたカップは、繊細で、触れたら壊れてしまいそうだった。
「彩絵果の好みに合うといいけど」
かなちゃんはわたしの隣に座って、コーヒーに手をつけた。わたしもならって、ひとくち含んだ。
「おいしい」
「それは良かった。彩絵果は、ブラック平気なんだね」
わたしの家は、みんなコーヒー党なのだ。だから、わたしも自然とコーヒーが飲めるようになった。親はよくカフェオレを飲むけど、わたしは飲めない。
「うん、というか、ブラックしか飲めないの。ミルクとか入れると、お腹こわしちゃうから」
おそるおそる、カップをテーブルに戻す。かちゃん、とか細い音を一つ立てるだけで、気後れしてしまう自分がいる。
「牛乳、ダメな子だもんね」
「なんで知ってるの?」
かなちゃんはにこ、と笑うだけで、何も言わなかった。
「それで、聞きたいことってなあに?」
分かっているくせに。なんて言えやしない。
「…かなちゃんのこと、なんにも知らないから」
「だから、教えてほしいの?」
「うん」
ほんとは、分かっている。
かなちゃんの全てを知ることが、好きになるってことではないことを。
でも、知らずにはいられない。だって知らないままなのは、怖いから。
あ、と声が出そうになった。
かなちゃんが、わたしの手を、握っている。
「知らない人から、好きって言われるのが怖い?」
「…怖いとは、思ってないよ。ただ、わからないから。かなちゃんに好かれている理由が」
隣に座っているかなちゃんの、顔はよく見えない。さらさらした黒髪が遮っている。
「言わなかった?かわいいからって」
「かわいいと、全部、欲しくなるの?」
「…ねえ、彩絵果。彩絵果は、突然好きだって言われたから、戸惑ってるんでしょ?」
「う、うん…」
「私が、どうして彩絵果を好きになったのか。どうして今になって、告白したのか。全部話すから、ちゃんと聞いて」
一人歩きしたわたしを、これからわたしは追いかける。かなちゃんの中にいるわたしの顔を、見にいく。
「…うん」
強く握られた手が、夢じゃないって、教えてくれた。
わたしは、夢なんか見ていない。これから聞くことは、全部、現実のこと。
目を閉じて、かなちゃんの声に、耳を傾けた。
第6話 初恋のひと、桜の精
入学式の日は、雨だった。
両親共に仕事で、私は誰か特定の友人がいるわけでもなかったから、すぐに帰ろうと思っていた。
これから通う中学校は、最近建て替えられたばかりで、確かにどこもかしこもきれいではあった。普段は使えないけど、エレベーターも設置されている。学校の施設紹介が明日あるらしいけど、別に見るほどのものでもない。
傘を差して歩き出すと、人の渦に巻き込まれそうになること、多数。あちこちで群れているから、道らしき道はない。
おろしたての制服だけだと、今日の天気では寒い。セーラーカラーがひらひら揺れたり、やや固そうな詰襟をきっちり上まで留めたりした新入生の中、私はさっさと校門を目指した。
校門を出てすぐにぶつかる大きな通りには、色とりどりの傘が咲いていた。この雨の中、入学式の立て看板の前で写真を撮る新入生とその親や、同じ小学校から来た子達がなんの部活に入るとか、そういうことで賑わっていた。はっきり言って、なかなか進めない。
いっそ傘を閉じて、ひと思いに走り抜けようかとも思ったけど、それはそれで癪なので、私は引き返した。
校舎の中庭には桜の木が何十本も植えてあって、それなりに盛りの頃だった。時間つぶしにはなるだろうと思って立ち寄ったけど、綺麗か、と言われれば綺麗だ。
今日の生憎の雨で、随分散ってしまうだろう。夕方までには止むと予報では言っていたけど、さっさと止んでほしいのが実際のところだ。だって寒い。
校舎を見上げると、最上階の窓から、人の影がちらほらと見えた。教室に残って、最初の友達づくりに励んでいるんだろう。ご苦労なことだと思う。
私は、小学生の時に特定の友人を作らなかった。特に必要だと、思わなかったから。よく声をかけられることはあったけど、誘いに乗ったことはないし、興味もなかった。恐らく、他人のことがどうでも良いのだ。自分の中に、他人にくれてやれるだけの空き場所はない。
花時雨の空は濁っていて、幸先の良くなさそうな初日になった。別に中学で青春したいだのなんだのとは思っていなくて、私にとっては高校に進むための通過点に過ぎない。そしてその高校でも、私はどうのこうのするつもりはない。
他人への関心どころか、自分への関心も、私はたぶん持っていない。どうでもいいのだ。それはあまりにも自己が希薄だということだけど、希薄であることで、困ったことって、今までの人生で何もなかった。だから、私はこのままなのだろう。
そう、思っていたのだけど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
校門のほうを見ると、まだ人だかりがある。肌寒いし雨だし、そろそろ帰りたいというのが本音。確かにしとどに濡れる桜はきれいだけど、もう十分堪能した。私はそこまで、花が好きじゃない。
帰ろうと踵を返しかけた、その時だった。
ひときわ強い風が吹いた。飛ばされるんじゃないかって、思ってしまうほど強くて、思わず目を閉じようとした。でも、閉じなかった。
視線の先に、実は人が立っていると気づいたから。
私のいる場所よりずっと奥、グラウンド寄りの場所。この風の中、びくともせずにまっすぐ、桜の木を見上げている。
風に舞う雨と桜の花びらが、その人の周りで渦を作っているようだった。
女の子だ。私よりも背が低くて、華奢だ。髪の毛はやや茶が混じっていて、たぶん肩までしかない。というのも、風であっちゃこっちゃに乱れていて、正確な判断ができない。
風が止んだのは、すぐのことだった。女の子は今しがた風が吹いていたことなんてまったく気づいていないみたいで、変わらず桜を見上げている。
もちろん、こちらの視線に、気づいていない。それをいいことに、私はそろりと近づいた。そしてその行動に、自分が一番びっくりした。
他人への興味を、私は今、確かに持っている。どうでもいいと思っていた他人に、関心を抱いている。
さっきまでの冷めた私はどこへなりを潜めたんだ。そう、思わずにはいられなかった。
静かに雨音が再び私の傘を叩き出した。そこまで強い雨ではないけど、傘をささずにいられるほどでもない。既に女の子のおろしたての制服は濡れに濡れていて、このまま放置したら風邪を引くのは目に見えていた。
雫が、女の子の頬を絶えず伝っている。泣いているみたいだった。でも、女の子はちっとも悲しい顔はしていない。それほど、桜に心奪われているようだった。
女の子が見上げている桜を見た。普通の桜だった。私にとってはただの桜だけど、女の子にとっては、違うのかもしれない。
風邪引くよ、って傘を差し出すのは容易いのに、私はその肝心な声が出ないことに気がついた。私の前に立つ女の子は、きっと傘を差し出されても気づかない。だってその凛とした横顔は、私を全く見ていない。声を、かけないときっとこちらには気づかない。
でも、声は出ない。
声の出し方を忘れてしまったみたいに、声は出ない。ぱくぱくと開くだけの口、何故か少し震えている。
肌寒いはずなのに頬は熱くて、心臓がどきどきうるさい。
風邪を引いているのは、私の方かもしれない。厄介な風邪だ、きっと寝ても治らない。
どうしよう、と考え込んで、私はその場に、傘を置いた。なんだかここにいる自分が恥ずかしくなって、逃げるように校門を抜けて、人の波をくぐり抜けて、そのまま家に帰った。部屋の扉を乱暴に閉めて、そのままドアを背にへたり込んでしまった。
結果的に、私の制服もえらく濡れてしまったけど、それどころじゃなかった。
心臓がこんなにうるさいのは、走ってきたからというだけじゃない。頬が、こんなに熱いのも。
なんで、どうして。
頭の中に、疑問がぐるぐると駆け巡る。でも、答えは出ない。私に、都合の良い答えは出ない。
都合の悪い答えは既に出ていて、私は天井を仰いだ。
女の子の、横顔がフラッシュバックする。そこにいるのに、いないみたいな儚さがあった。頭の悪い話、桜の精が人の姿に化けて出て来たのかって思ってしまうくらいに。
でも、桜の精は、血の通った人間で、私と同じ新入生だ。脇に置かれていたカバンに、新入生がつける花の飾りがつけられていた。
名前も知らない、どこのクラスかもわからない、女の子。
自分と同じ性を持って生まれた、名前も知らないその子に、私は関心を抱いた。そして、自分では認めたくないけど、変な感情を持っている。
「どう、しよう」
自分がこんなに、頭の悪い人間だなんて知らなかった。さっきまでの私が、これではあまりに滑稽すぎる。
だってこれは、この感情は、
「明日になったら、熱は冷めるかしら」
花時雨のその日、私は名前も知らない桜の精に恋をした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結局、一晩悩みに悩んで、寝て起きて、熱は冷めていなかった。
特に私は、女の子が好きなのだろうかと、笑えない位真面目に考えた。でも、その答えは否。だって桜の精以外の女子を見ても、私はちっともときめかない。
登校途中、いろんな女子を真面目に見たけど、全くなんとも思わなかった。
登校初日、私のクラスに早速欠席者が出た。風邪らしい。まさか。
欠席者は湯井彩絵果という名前の女子らしい。まさか。
休み時間に、クラスの女子から、結構な数、声をかけられた。冷たくあしらおうかと思ったけど、やめた。だってこれは、チャンスだ。
私は、どうやら人目をひく外見をしているらしい、ということは知っていた。小学生の時に、男子からそれなりに告白された経験もあるし、女子に囲まれることも何度となくあった。
小学生の時は、面倒臭かったから相手にすらしなかったけど、今はちょっと話が違う。
好きな子ができてしまった。そしてその子と、きっと同じ小学校から来ている子が、このクラスにいるかもしれない。
名前も知らない桜の精のことを、私は知りたい。桜の精から、人間にしたい。血の通った女の子としての、彼女を知りたい。
一体この衝動がどこから湧いているのかはてんで見当がつかないけど、気になるものは気になる。
「ねえ、そういえば…湯井さん、だっけ?今日休んだ子。どんな子なんだろうね」
それなりに話を弾ませてから、そんなことを聞いてみた。まだ、そうだとは決まっていないけど、でも、可能性はある。
すると、やはり湯井彩絵果と同じ小学校の出身の女子がいた。峯田という名前だった。
「あの、ぼーっとしてる子でしょ?昨日、びしょ濡れになって帰ってるの見たよ。傘、さしてるのにびしょ濡れなんて変なの」
確信した。昨日の子だ。桜の精は、名前を湯井彩絵果というらしい。
そして峯田と、湯井彩絵果はあまり良好な関係ではないようだ。
どうやら桜の精は、私の置いていった傘を拾ってくれたらしい。今朝確認したら、中庭に傘はなかった。もしかしたら、別の人が持っていった可能性も、まだ捨てきれないけど。自分の傘をカバンに入れていた可能性があるから。
昨日教室で見たときはその存在に、全く気づかなかった。私が全く周囲を見ていなかったからだけど。
「へえ、じゃあ昨日の雨で」
「じゃない?割と、風邪で休む子だったし」
そして、あまり体は頑丈ではないようだ。私の中で、湯井彩絵果という女の子が形作られていく。
「それより、羽根田さんは部活とか入らないの?一緒に見学行こうよ」
「あ、あたし今日吹奏楽部の見学行くんだけどどう?」
「羽根田さん背が高いし運動部は?」
活発そうな女子ーーー確か赤松という名前だったーーーが、目をキラキラさせてこちらを見ている。だが生憎、私は運動が得意ではない。水泳なら小学生の間ずっとやっていたから、そこそこできるけど。
「私、スポーツとか、苦手なの」
困ったように笑うと、赤松は残念そうな顔をした。
峯田の他にも湯井彩絵果のことを知っている人間がいるはずで、そのためには峯田のことを知らなければならない。
顔がいいなら、ついでに性格も良くすればきっとうまくいってくれるだろう。皆、そういう子が好きだろうから。
「羽根田さんじゃなくて、かなでいいよ。かなって呼んでくれる方が、嬉しいし」
にっこり笑ってみせれば、ほら、峯田が食いついた。他の女子もついてきたけど、この女子たちの輪の中に、湯井彩絵果の情報があるかもしれない。だからまあ、良いことにする。
湯井彩絵果が学校に来たのは、翌日のことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
今日の段階で分かったことは、あまり多くはなかったけど、少なくもなかった。
湯井彩絵果という名前であること、実は家が私の家とそれなりに近いところにあること、小学時代、ほとんど友達がいなくて、いつも図書室で本を読んでいる子だったこと、運動が苦手なこと、など。
話しかけて来た女子や、峯田の繋がりで知った女子の情報で、どうにか集めることができた。でも、聞き出すというのは難しい。
それとなく、なんでそんなこと知りたいの?と言われたときに怪しまれない程度の関心だと思わせる必要がある。つまり、いきなり休んだ子が、どんな子なのか気になった、という範囲をはみ出してはいけないのだ。
はみ出さない程度に探りを入れた結果が、これだ。
そして、どうも湯井彩絵果のことを、皆見下している感じがする。恐らくは、友達がいないことや、大人しい性格からだろう。
人は無意識のうちに他者と比較する生き物だ。皆自分より下と思える人間を見つけると、心のうちで安堵する。こんなやつがいるのだから、自分はまだマシだと、そう思えるから。
そして、湯井彩絵果は、その対象に選ばれてしまっている。小学校の時に何かそういうエピソードがあったのかもしれないけど、それだったらもっと情報の端にそういうことが付随しているはず。そうなると、単に大人しくて何も言わない子だから、不気味がったり馬鹿にしたりという、幼稚なものの餌食になったということなのだろう。
私は小学時代の湯井彩絵果を知らない。昨日の、あの少しの時間の彼女しか、私はまだ知らない。
知らなければと、思った。それは、他ならぬ私の意思。今までの冷めた自分から、大きく様変わりしてまで、知りたいという欲望に忠実に動いている。
それにしても、何故皆気づかないのだろう。あんなに華奢で、儚くて、可愛らしいのに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
放課後、誰もいない教室で、今日手に入れた情報をノートにまとめてみた。生年月日は、意外なところでわかった。
私の手には、湯井彩絵果の生徒手帳がある。
皆が帰った後に、なんとなく机の中を覗いてみたら、入学式に配られた封筒がそのまま入っていた。本当にぼんやりしている子なんだろう。
封筒の中には、生徒手帳が入っていた。まだ写真が貼られていない、真新しいそれ。湯井彩絵果の名前と共に、生年月日と住所が本人の字で記入されていた。
細くて、少し頼りない字体だ。きっと繊細な性格なんだろう。
「湯井彩絵果、6月19日生まれ…住所は在町3条1丁目15-3…ここからそんなに離れてない。在町は隣の小学校の校区」
桜の精は湯井彩絵果という少女になって、私の近所の人になった。
こんなことをしなくたって、本人に直接聞けばいいのである。でも、その勇気は何故か出ない。声をかけられる自信が、ちっとも湧かない。
何故だろう。何故、こんなにも弱気なのだろう。
湯井彩絵果という存在が、私の中でどんどん大きくなって行く。でも、大きくなればなるほど、私は怖くなっていく。
情報を書き終えて、手帳を封筒に入れる。封筒を机の中に戻して、そして私は教室を出た。誰にも見られていないのに、少し心臓がうるさい。
薄暗い廊下を歩いていると、グラウンドにいる、部活動の生徒の掛け声や、その脇の道路を走る救急車のサイレンが聞こえる。
ふと中庭が目に入った。
見下ろした中庭は、まだピンクがそれなりの領土を持っている。
また湯井彩絵果は中庭に立つのだろうか。立って、桜を見上げるのだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
朝早く学校に行くと、先に中庭に立ち寄った。風邪がもう治っているかは分からないし、こんな時間にいるとは思いづらいけど、立ち寄らずにはいられなかった。
まだその声を聞いたことすらないのに、どんな子なのか、この目で確かめたわけでもないのに、私は湯井彩絵果のことで頭がいっぱいになっている。
湯井彩絵果の何が私をここまで駆り立てるのか、私はよく分からない。そもそもこの感情が、恋なのかも分からない。
でも、知らずにはいられなくて、こうして、動かずにはいられない。今の私は何者だろう、私がよく分からなくなってきた。
中庭はしんとしていた。散った桜の花びらが緑の芝の上に点在していて、花びらを踏まないで歩くのは不可能に近かった。
周囲を見渡したけど、湯井彩絵果の姿はない。当然のことなのに、落胆している自分がいる。
ひんやり冷たい外気に身震いして、教室に戻ろうと踵を返しかけた、その時だった。
いつぞやと同じように強い風が吹いた。今回は目を閉じた。だって誰もいないから。 でも、目を開けて、ちょっと後悔した。
「あの、」
その時、ひときわ心臓が強く跳ねた。
ギシギシと音がするくらいぎこちなく振り向いて、私はまた、声の出し方を忘れた。
湯井彩絵果が、立っている。私の目の前に、確かに、立っている。
「あの、えっと…おととい、ここに置いてあった傘なんですけど…あなたのですか?勝手に、お借りしてしまって」
あまり話すのが得意ではないのかもしれない。つたない、自信のなさげな声。私の心をぐちゃぐちゃにかき乱す、声。
柄の細い、赤いチェックの傘。少し前に買ったばかりの、私の傘。
その傘を、湯井彩絵果が持っている。私の傘で家まで帰ったのだ。私の傘で!
どうにか声の出し方を思い出して、私は口を開いた、
第7話 レベル上げ期間、3年
「…その傘なんですけど、」
じっと、湯井彩絵果を見た。正面から堂々と。
この子は桜の精じゃない。私より背が低くて華奢な、女の子。
血が通っていることがちゃんと分かって、私は確かに安心した。そして、私はこの子がどうしようもなく好きなんだと改めて感じた。理性を凌駕する感情が、私の中で暴れ回っている。
「やっぱり、あなたのですか?」
きっちり折り目正しくたたまれた私の傘。でも、返す言葉ならとっくに決まっている。だって、これはチャンスなのだから。
「違います。私の傘じゃ、ないです」
てっきり私のだと思っていたのだろう。少しがっかりしている。かわいい。
「そうですか…わたし、この傘を置いて行かれた方の、顔も見ていなくて」
だってあなたはずっと桜を見ていたのだもの。気付くはずがない。
「もしかしたら、この学校の方のではないかもしれないですね」
昨日は入学式だったから、保護者や関係者が出入りしている。よって考えられる人物は広い。
「落し物として、学校に届けようかと思っているんですけど…確か、落し物って処分されますよね?時間が経ったら」
拾遺物は一定期間経つと処分される。特に傘は捨てられたり生徒に貸し出されたりでなくなりやすい。まあ、その傘の持ち主は私だけど。
「そうですね。あ、でも意外と、使っているうちに見つかるかもしれませんよ。それ、私のですって言って来る人が」
少し強引だったろうか。湯井彩絵果は考え込んでいる。でも、私はそれを預けられても引き取りに行くつもりはない。
「それも、そう…なのかな?でも、しまいこんでいるより、使ったほうが可能性はありますよね」
上手く行ってくれた。これから雨の日は、私の傘をさしてくれる。誰も知らない、私だけの秘密。
「きっと。ところで…あなた、湯井さんですよね?昨日風邪で欠席した」
「そ、そうですけど…もしかして、クラスメイトの方ですか?」
やはり湯井彩絵果もあまり周囲を気にしないタイプなのだろう。峯田がぼーっとしていると言っていたし。
「湯井さんと同じクラスの羽根田です。羽根田かな。よろしくお願いします」
にこ、と微笑むと湯井彩絵果はぎこちなく、でも安心したように笑った。かわいい。
「湯井彩絵果です。えっと、お湯の湯に井戸の井、それから彩る絵の果実で彩絵果です」
きっと頑張って作った紹介の言葉なのだろう。いっぱいいっぱいになって話している。
「その紹介、分かりやすいですね」
「入学式でも、話したんですけど…あんまり、上手くいかなかったみたいで」
私も全く覚えていないが、恐らく少しも盛り上がらなかったのだろう。事実名前のネタは、よほど珍しい名前でもない限り盛り上がらない。クラスの名簿だってある。携帯電話で事足りるから、年賀状のやり取りだって少なくなった。
「でも、丁寧な話し方で、いいと思いますよ」
本当は、今すぐ携帯のアドレスを聞いて、もっと話をしたい。
だけど、それだと到達点はどう頑張ったって『親友』で、私のこの感情のやり場がなくなってしまう。
だから、今は表面的には何もしない。ただのクラスメイトでいい。
ただし、来年また同じクラスになれるかが分からない。確か2年のクラス替えで3年のクラスも決まるから、2年でも同じクラスにならないと厳しい。でないと湯井彩絵果の中から私が消える。
「じゃあ、私はこれで」
にっこり微笑んで踵を返した。さっさと校舎へ歩いていく。きっと彼女は追いかけては来ない。
向こうが私を好きになってくれたら、とても楽なのだけど。でも、そんな都合の良い話はない。だから、下地を作っておかなければならない。
『お友達』の過程を踏むにしたって、大多数の中のひとりと、ただひとりの友達では大きく意味が違う。
きっと告白しても、湯井彩絵果は首を縦に振らない。拒絶される可能性のほうがよほど高い。けれど、友達からなら、と言ってくれる可能性だって、低いけどあるはず。
もし、友達から始めるなら、湯井彩絵果にとって、私はただひとりの友達にならなければならない。そうでないなら、その先へ進める可能性は潰れる。
誰にもさとられてはならない。気付かれたら終わり。もちろん、湯井彩絵果にだって。
これは、ゲームだ。周囲に気付かれないように湯井彩絵果を手に入れる、ちょっと面倒な縛りのあるゲームなのだ。
教室には何人かクラスメイトが来ていて、言葉少なに会話している。明日からは少し遅めに来なければ。
私が、これから直ちにやらなければならないこと。それは、
「おはよう」
話を聞いた限りでは、友達がいない子で基本ひとりだ。けれど、生徒の数が多い中学で、湯井彩絵果に関心を持つ人間が現れないとは限らない。
運が良いことに、私は人目を引く容姿を持って生まれた。なら、それを最大限利用してやろう。『可愛くて性格の良い女の子』が、皆大好きだろうから。
にっこり笑えば、皆同じ顔をする。でも、私が欲しいのは、こんなものじゃない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
1週間もしないうちに、私はクラスの中心に立った。学級代表も私になった。他のクラスからも声をかけられるようになった。
今のところ順調にことは進んでいる。何人か湯井彩絵果に声をかけた女子もいたけど、気づけば別の女子とグループを作っていた。今のところ湯井彩絵果はひとりだ。
意外だったのは、湯井彩絵果は大抵図書室にいると思っていたけど、彼女は昼休みは教室で持ってきた本を読んでいるし、放課後はすぐに帰ってしまう。図書委員にもならなかった。
いつも文庫本のカバーが、近所の本屋のものなので、足繁く通っていると、何度か本人を目撃した。好きな作家もある程度は把握した。漫画も多少は読むようで、同じものを買ってみた。よく分からなかった。
ひと月も経つと、クラスのグループは固定化され、私の立ち位置も確たるものになった。そして、湯井彩絵果は私の目論見通り孤立していた。表立っていじめられることはないけれど、誰かと話す場面もほとんど見ない。
そういえば、体育の授業で1000m走をやった時、倒れはしなかったけど案の定彼女は最下位だった。私は走るのはまあまあ得意だけど、彼女に得意な種目はないようだ。今やっている球技でも、基本ボールに触らない。というか、誰も彼女にボールをまわさない。
私が失敗しても、誰も笑ったりしないけど、湯井彩絵果が失敗すると、冷笑がちらほらと飛ぶ。道化師だってもっと笑いを呼べるだろうに。転んだ時も、誰も手を差し伸べなかった。ほんとうは、駆け寄って大丈夫?と言いたかった。でも、まだ、駄目。
最初の試験で、私はクラストップに立った。学年でも10位以内に入った。廊下に張り出された紙には、50位までの人物が載る。湯井彩絵果の名前は、紙の端にあった。175人中49位。勉強はそこそこのようだ。
この頃になると、同じ小学校の女子から得られる情報もめぼしいものがなくなってきた。深入りするのもまずい。
得られた情報と言えば、峯田繋がりで知り合った新栄という女子から聞いたものくらいだろうか。牛乳が飲めなくて、彼女の分の牛乳を争って男子がじゃんけんをするのが恒例になっていたことや、男子からよくからかわれていたことくらい。後者に至っては、あまりにもぼけっとしているから、気味悪がってされなくなったらしい。
無意識のうちに視線は湯井彩絵果を追いかけている。でも、向こうは私の視線に気付かない。群がるクラスメイト達と適当に話をしながら、いつも私の中心には彼女がいる。
本を読んでいる時の、夢中になっている顔が特に好き。今読んでいるのは最近買ったものだろう。いつもの作家ではなく、最近デビューした新人の小説。読んでみたけど、嫌いじゃない。今はどの辺りだろう。主人公が自分の出生の秘密を知ったところだろうか。でも、顔にはちっとも出さない。
湯井彩絵果という少女を好きになってから、毎日が楽しくなった。彼女のことを考えているだけで心が弾むし、どきどきする。その辺のチープな恋愛小説の主人公になった気分だ。でも、悪い気はしない。小説と違うのは、私が告白するまで、えらく時間がかかり、かつ相手との接触時間が皆無に等しいことだろうか。あと、徹底的なストーキング。
もし、2年になってクラスが変わるなら、本屋で偶然を装って話しかけようか。お友達にならないと、湯井彩絵果が私を認識してくれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
期末試験が近くなった時、峯田の家で勉強会を開く機会があった。バスケ部に入った赤松や、クラスメイト数人が来た。
勉強会の合間に、卒業アルバムを見せてもらった。今より少しだけ幼い峯田や、新栄が写っていた。湯井彩絵果は、今より髪が短くて、ちっとも笑っていなかった。
初めてまともに話した時の、あの笑顔がまた見たくなった。でも、まだ、駄目。
期末試験では、私の学年順位はいくつか上がっていた。湯井彩絵果は、変わらず49位だった。あれだけ勉強を教えてあげたのに、勉強会に来た女子は誰も入っていなかった。まあ、アルバムを見るためだけに行ったようなものだけど。
それから何度か試験を受けても、湯井彩絵果は変わらず49位をキープしていた。彼女は高校はどこへ行くのだろう。来るのが遅くて、1時間目はうつらうつらしていることが多いから、きっと朝は苦手だろう。となると、織機あたりだろうか。薮坂やぶさかや板殿いたどのは遠い。織機なら、彼女の家から歩いていける距離だ。
席替えで席が隣になった時、それとなく話をした。
「湯井さんは高校、どこにするんですか?」
「うーん、織機に行きたいけど、もうちょっと頑張らないと駄目みたいなんです」
彼女の成績だと、確かにギリギリかもしれない。織機は東芽に次ぐ進学校で、まんべんなく点数が取れないと厳しい。
「羽根田さんは…やっぱり、東芽ですか?」
「私、まだ考えてなくて」
そういえば、私は湯井彩絵果と話す時は、何故か敬語になってしまう。緊張しているのかもしれない。
東芽に行く予定なら、たった今無くなった。
席が隣なのを良いことに、たまにわざと教科書を忘れて、机をつけて見せてもらったりした。意外だったのは、教科書のあちこちに落書きがあったこと。国語の作者の写真の横に、吹き出しで『作者の心情の件ですが、何も考えていません!』と書かれていた時は噴き出すかと思った。ちなみに、湯井彩絵果の国語の成績は私より良い。全て国語の点数くらい取れるなら、彼女は東芽にだって行ける。でも、残念なことに、数学が足を引っ張っている。
勉強、教えようか?何度となく言いかけたけど、やめた。その代わり、席が近い時は、数学で当たる時はこっそり答えを教えてあげた。小さく言われるお礼の言葉を聞くたびに、私は幸せな気持ちになった。数学ができて良かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
運はどうやら私の味方らしい。
2年になって、私は湯井彩絵果と同じクラスだった。
B組からD組になって、よく使う階段が西階段から中央階段に変わった。峯田と赤松とは違うクラスになった。1年かけて築いたものを、また作り直さなければならない。面倒臭かったけれど、手は抜けない。何せこちらは2年間だ。
気づけば私は生徒会の役員になっていた。前よりも多くの人に囲まれるようになった。そして、そんな私に近付いて、良い思いをしようとする輩も、増えた。
花枝千穂という女子が、このクラスの中心的な場所に収まった。私は花枝と仲良くなって、またにこにこ笑う作業を始めた。花枝は明らかに私と仲良くすることをある種のステータスと思っている。随分と利用価値があると思われているらしい。まあ、そんな花枝を私も利用しているのだけど。
湯井彩絵果は相変わらずひとりで本を読んでいた。もちろん、私はそれが何て作品なのかを知っている。一昨日本屋で彼女を見たし、同じ本を買った。
私の部屋に本棚はない。全てタンスの最下段にしまってある。すでに20冊以上ある。この1年で、私のストーキング能力は随分と上達しただろう。
はっきり言って、気持ち悪いと言われても否定できないことをしている。でも、やめられない。湯井彩絵果を知れば知るほど、私は彼女が好きになる。そしてもっと、知りたくなる。
知って知って、全て知ったら、私は覚悟を決めるだろうか。
1年間、私はずっと湯井彩絵果を見てきた。2年になっても、彼女に近づこうとする存在は、私が知る限りいない。
今、手を伸ばしたら、彼女はこの手を掴んでくれるだろうか。
でも、まだ、駄目。
だって、私は知っているのだ。
彼女が時折、仲良く話している私のグループを見て、羨ましそうな目で見ているのを。
だから、まだ、駄目。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
3年になって、9月の修学旅行の話題が持ち上がるようになった。
でも、浮かれてばかりもいられない。進路を意識しだしたのか、勉強に真面目に取り組む生徒が増えてきて、私に勉強を教えてくれとせがむ女子が、試験のたびに増えていく。
やはり湯井彩絵果は織機に行きたいようで、3年になって彼女の成績はいくらか上がった。
最初の中間テストで、湯井彩絵果の名前は真ん中に近付いた。35位。私は相変わらずで、担任から東芽に行くよう遠回しに勧められた。でも、織機でないと意味がない。だって彼女がいない。
修学旅行の班決めで、案の定私の想い人は余った。他の班に取られては意味がないので、すぐに私の班で引き取った。どうせ、花枝達は私が彼女を仕方なく引き取ったと思っている。
最初に思ったことは、彼女の寝顔を見れる、だった。よくよく考えれば一緒に入浴する機会もあるわけで、想像して少し恥ずかしくなった。どこの思春期の男子だと、自分でも情けなくなった。
自主研修のコース決めは、花枝と沢野が中心になって進んだ。方坂と米田は楽しければどこでもいいと話し合いにはあまり参加せず、想い人にはそもそも発言権が与えられなかった。
楽しくなさそうな顔をしている。少し、不安になった。当日、彼女は来るだろうか。
初日の朝、待ち合わせは駅の広場だった。早くから来て待っていたけど、結局、時間になっても湯井彩絵果は来なかった。後から担任が、風邪を引いたと言っていた。
それが嘘であることくらい、分かっていた。
そして、私は覚悟を決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
修学旅行が終わって、学校祭も落ち着くと、11月になっていた。生徒会の引き継ぎも終わって、私は割と身軽になった。進路の時期で、騒がしくなって来た。担任から、東芽でなくて良いのかと何度も聞かれた。親に関しては、好きにしろの一点張りだった。
冬服でもセーラー服は寒いから、カーディガンを羽織る生徒が増えた。もちろん、湯井彩絵果も。
朝、彼女が出て来る時間に合わせるようになってから、この3年、私の日課は彼女の寝癖を確認することになっていた。割と、軽率に寝癖のまま来ることが多くて、いつも櫛で直してあげたい衝動に駆られた。
今まで我慢して来たけれど、そろそろ終わりかもしれない。今日、私は決行する。
最近、放課後に校舎裏のベンチでぼーっとしていることが多いから、私は少し時間を置いて向かうことにした。いつも一緒に帰っている花枝達には、先生から呼び出されたと嘘をついた。
放課後、いつも歩いている廊下なのに、足取りが重い。
心臓がうるさくて、既に緊張している。無事に校舎裏までたどり着けるだろうか。
なるべく足音を消して、そろりと歩く。入学式の日を思い出した。
でも、今日は認識してもらわなければ。だから、声を出さなければ。
湯井彩絵果は空を見ていた。
荷物をベンチに置いて、それなりに流れの速い雲と、やや赤い空を、彼女は見ている。
随分と近付いても、やはり、気づかない。
息を思い切り吸って、吐いた。
今回は大丈夫、だって声の出し方を、私はちゃんと覚えているから。
「ずっと、前から好きでした…だからあの、付き合ってください!」
ゆっくりとこちらを向いたその顔には、拒絶の色は、なかった。
第8話 不可思議親近感
ねえ、かなちゃん。
かなちゃんが今話した中で、|わざと《・・・》話さなかったこと、きっと、たくさんあるよね。
かなちゃん、それならあの雨の日に、言ってくれればそれで良かったのに。
だって、そうしたら、わたしは今頃あなたのことを、笑えないくらい好きになっていたのに。
なんて。
ねえ、かなちゃん。
かなちゃんは、わたしをどうしたいの?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
話し終わる頃には真っ暗になっていて、今更わたしは、家に連絡しなきゃって気づいた。
今までこんな時間まで帰らなかったことはなくて、機会がなかったから家の連絡先すら入れていなかった。基本、家と本屋の往復しかしないし。
「私のこと、嫌いになった?」
ちょっと声が震えている。可愛いなって思った。でも、視線は窓を見ている。
「なんで?」
確かに凄い執念だとは思う。3年もの間、かなちゃんはわたしのことをずっと追いかけていたのだ。
ちらと時計を見ると、6時を過ぎていた。さすがに連絡しないとまずい。
「あ、かなちゃん、えっと…お家に連絡、入れていい?」
突然流れを断ち切ったから、かなちゃんはびっくりしている。
「え?あ、うん」
手が離れた。そそくさと立ち上がって、部屋を出る。廊下は暗かった。ちょっと、寒い。
ポケットからスマホを出すと、着信が入っていた。家の固定電話からだった。アドレスを登録しなきゃいけない。
「あ、もしもし…母さん?わたしだけど、今日、帰り遅くなるから…」
『お友だちといるの?』
明らかに疑っている。まあ、わたしに友だちがいないこと、母さんはよく知っている。
「う、ん…お友だちの、家」
電話越しに、母さんの顔が変わったのが伝わった。
『さえ、お友だち出来たの?!いやだわ、挨拶しなくちゃええと、ええと、なんて言えばいいかしら?』
今日帰ったら、質問攻めにあうことは間違いない。帰るのが面倒になった。
「こ、今度うちに、呼ぶ、から…」
「ちゃんと呼ぶのよ!」
ブツッと切れた。用件は、言えたはず。
近いうちに、かなちゃんを呼ばなきゃ。そのためには、この局面を乗り切らなければいけないわけで。
今までの話は、わたしへのラブコールととらえていいはずだ。結構、はちゃめちゃだけど。
でも、だからこそ言うべきだろうか。
わたしは、入学式の日、一見、確かに桜を見ているように見えただろうけど、別に桜なんて見ていない。ただ、考えていたのだ。
自己紹介、やっぱり駄目だったかなって。
それだけ。ほんとうに、それだけ。桜の精なんて可愛らしいもんじゃない。だって、最初からわたしは、ただの人間だから。
風には確かに気づかなかったし、あの傘がかなちゃんのものだって今日まで知らなかったけど、わたしは別に、桜は好きじゃない。だって花が散ったら毛虫の楽園だし。
ところで、わたしは傘を返すべきだろうか。3年間そのまま使い続けてしまって、普通に馴染んでしまったのだけど。
でもそれは、後で聞けばいい話だから、今はまず、かなちゃんに答えを出さないと。
かなちゃんは賢い。今の状況を3年かけて作り上げたひとだから、当たり前といえば当たり前だけど。わたしはかなちゃんの視線に気づくことなくここまで来た。それはかなちゃんがそうしていたから。
かなちゃんは、わたしに拒絶される確率を下げるために人気者でいたのだ。孤独になればなるほど、わたしが差しのべられた手を振り払う可能性は低くなる。それがたとえ、わたしに恋愛感情を持っている同性の手だったとしても。
必要がなくなった、というのはそういうことなのだ。わたしの中にはかなちゃんしかいないから、かなちゃんは人気者でいなくて良くなった。自分に視線を集めなくたって、わたしが他の人に目を向けないから。まあ、わたしに興味を持つひとなんてかなちゃんくらいなものだから、考え過ぎなのだけど。
入学式の日に言っててくれたら、わたしはもう少し楽しい学校生活を送れていたかもしれない。でも、修学旅行は二人で班は作れないから、同じだったかも。
かなちゃんにとって、わたし以外に大切なものはあるのだろうか。これは思い上がりとかじゃなくて、純粋な疑問。もし、わたしに拒絶されたら、かなちゃんはどうなっていただろう。
今、女の子同士なんて気持ち悪いって、大多数の正義をぶつけたら、かなちゃんはどんな顔をするだろう。
意外と、わたしへの興味がさめるかもしれない。そうなったら、辛くなるのは、わたし。
話を聞いても、かなちゃんじゃないと駄目な理由はまだ見つからない。でも、かなちゃんの中のわたしは、思ったよりもわたしだった。
一人歩きしたと思っていたわたしの、背中が見えた気がした。もう少し走れば、顔だって、きっと見える。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
部屋に戻ると、かなちゃんがわたしを思い切り抱きしめて来た。時計を見ると、5分以上経っている。帰ってしまったのかと、思ったのかもしれない。
力が強くて、抜け出すのはわたしには無理だ。とりあえず、恐る恐る腕を背中にまわした。
思った以上に、かなちゃんは怯えていたようだ。心臓の音がはやい。手が、いつもより冷たい。
「…帰ったかと、思った」
まあ、なんて痛々しい声なのかしら。かなちゃんは、わたしのこととなると、こんなにも不安定になる。
「ごめんね、ちょっと、考え事してて」
抱きしめる力が強くなった。ちょっと、痛い。
「考え事って、なあに?」
「わたしがかなちゃんのこと、気持ち悪いって拒絶したら、どうするのかなって」
痛い。苦しい。でも、そんな言葉は言えない。
「どうして欲しい?」
こちらを、試すような声。かなちゃんはじっと、わたしの答えを待ってる。
きっと、かなちゃんはわたしに拒絶されることをおそれている。でも、ほんとうに拒絶したら、辛いのはわたしかもしれない。わたしは弱くて、ずるい。だから、手を離してあげられない。
「わからないけど、でも、わたしのこといらなくなったら、やだ」
まあ、なんてわがままなんでしょう。でも、これがわたし。
「じゃあそんなこと、聞く必要無いでしょ?」
ちょっとだけ、安心したようだった。
「そう、だね」
かなちゃんは分かっている。わたしが、かなちゃんの手を取った理由を。ひとりが嫌で、さみしかったから、だから、手を取った。お友だちからでいいなら、無条件でわたしのお友だちになってくれる。お友だちって、こういうものじゃ、ないと思うけど。
「ほんとうは、怖い?同性から向けられる恋愛感情が」
「…わからない。でも、気持ち悪いとは、思ってないよ、ほんとうに」
嘘じゃない。だって、気持ち悪いと思っていたら、かなちゃんと手をつないだりなんてできない。
「どうして、気持ち悪いと思わないの?」
真剣な声だった。
でも、わたしはちゃんとした答えを、あげられない。だって経験値がない。
「たぶん、初めてだから。わたしに、初めて好きって言ってくれたから」
あとは、わたしが誰かを好きになったことがないから。
男の子を好きになったことがあったら、きっと気持ち悪いとか変だとか言うのだろうけど、そう言う経験が一度もない。初めてだから、前例がないから、拒絶するという選択肢がわたしの中にはないのだ。
「でも、かなちゃん。わたしはかなちゃんのこと、そういう目では見られない」
「知ってる」
「だから、これから一緒にいる中で、色んなこと、教えてね」
かなちゃんがどうしてこんなにわたしのことを好きなのか、分かった。なら、今度はお友だちとしてのかなちゃんを知って行かなきゃいけない。一緒に過ごす中で、かなちゃんとわたしのことがらを、作っていかなきゃいけない。
「…うん」
これからが増えていったら、かなちゃんはわたしのことをどう思うようになるだろう。わたしに告白する前に抱いていたわたしへの想いは、告白した今、どう変わっていくのだろう。
ねえ、かなちゃん。
これからのことは、あんまり、隠し事しないでね。だってわたしは、ちゃんとかなちゃんの隣を歩きたい。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
家に帰ったのは7時半だった。帰り道に、部活帰りの子を何人か見た。
恐る恐る居間に行くと、良い匂いがした。今日は豚肉の生姜焼き。
母さんはわたしに質問すべくリストを作っていたようで、にこにこしながら食卓テーブルに手招きした。
夕飯は既にできていて、でも、質問に答えないときっとありつけないんだろう。
これで好きなひとができたなんてバレたら、きっとその時はえらいことになる。でもどうしよう、一番可能性があるのが現時点でかなちゃんなんだけど、そうなったら友だちと好きなひとどっちも同じひとになっちゃう。
「おかえり、さえ」
母さん、凄く良い笑顔。でもなんだろう、ちょっと怖い。
「ただいま、母さん」
「それで?お友だちはどんな子なの?」
わたしのただひとりの、お友だち。
羽根田かなは、どんな子?
「…同じクラスで、背が高くて、可愛くて綺麗なひと」
「へえ!それで?写真とかないの?」
写真を一緒に撮ったことは今のところ一度もない。もしかしたら、かなちゃんはわたしの写真を持っているかもしれないけど。
「な、ないよ…でも、明日、来るから」
明日の勉強会の会場は、わたしの提案でここになった。これで母さんへかなちゃんも紹介できるし都合がいいと思ったから。
「来るって、なにウチに?」
「うん」
凄くびっくりしている。娘が友だちを初めて呼ぶからだろうけど。普通なら小学生の時に経験するはずのことだし。
「あらやだ!部屋掃除しなきゃ…何時に来るの?」
「お昼、過ぎ」
約束の時間は午後1時。たぶんかなちゃんは礼儀正しく5分くらい遅れて来るんだろう。
「どうしましょう、何もないわ…すぐそこのケーキ屋のでいいかしら」
「て、テスト勉強、するだけ」
目的はテスト勉強なのだ。学力テストで良い点を取れれば、織機への道が開ける。
「テスト?そういえば近いって言ってたわね」
「数学、もうちょっと頑張れば織機に行けるって」
明日は数学を中心に教えてもらう予定。かなちゃんは数学だけでなく、他の教科も満遍なく点を取れるから、凄く羨ましい。
母さんはというと、じと、とわたしを睨んできた。どうやらわたしが織機にこだわっているのに呆れているらしい。
「…さえ、そこまでして朝寝坊したいの?」
「だ、だって…」
「まあ、いいけど。あとは夕飯食べながらじっくり聞かせてもらうから」
「う…」
お腹を空かせた娘に、なんて仕打ちをするのか。でも、背に腹はかえられない。
結局、そのあとずっと質問攻めにあった。こんなに楽しそうな母さんの顔を見たのは、久しぶりだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
寝る前に、かなちゃんにメッセージを送った。既読の表示がつくと、ちょっと安心する。
『明日の1時に、待ってるね』
『うん』
『じゃあ、おやすみ』
『おやすみ、彩絵果』
やり取りは、これだけ。でも、どきどきしているわたしがいる。
かなちゃんは可愛くて綺麗。だから、見ていてどきどきする。そう、思っていたけど、かなちゃんに関することがらすべてに、わたしの鼓動は速くなる気がした。
かなちゃんはわたしなんかを3年間もの間追いかけていた。いわゆるストーキングをしていたのだ。普通なら怖いとか気持ち悪いとか思うのに、なんでか、なんとも思わない自分がいる。
ベッドの上で、考えた。
もし、かなちゃんとわたしの立場が逆で、わたしがかなちゃんにストーキングしていたら。
多分、凄く楽しかっただろう。
声をかける勇気はないけど、かなちゃんのことを知って行くうちに、他のひとは知らないことも知るようになって。
今更だけど、かなちゃんとわたしは、ちょっと似ているのだと思う。そんな気がする。
まだ、わたしの中にいるかなちゃんに、絶対的なものはない。でも、かなちゃんがちょっとだけ近くなった。
「ちょっと、恥ずかしいけど」
かなちゃんのあの笑顔を見て、顔をそらさない自信が、今はない。
もっと知ったら、手を繋ぐことも、さっきみたいに抱き締められるのも、きっとできなくなる。
まだ、わたしとかなちゃんはお友だち。ただの、お友だち。だから、手を繋ぐのも、抱き締められるのも、なんともないんだ。
そう、思わないとやってられない。
結局、この日もよく眠れなかった。
第9話 ふたりのこれからに関する証明
かなちゃんと友だちになってから、よく眠れなくなった。最近ずっと寝不足気味で、ちょっと辛い。色んなことに慣れて、早くぐっすり眠れるといいのだけど。
「彩絵果、ここ間違ってる」
「え?…あ、ほんとだ」
ぼーっとしてしまった。ただでさえぼーっとしていることが多いのに。
かなちゃんはわたしが解いた問題を赤ペン先生よろしくチェックしている。なかなかマルはもらえない。
「あと、アルファベットの順番違う。この場合はCの角度だからACBにしないと」
「う、うん…」
なかなかに滑り出しは不安。こんなことで次のテストは大丈夫だろうか。
ただでさえ数学は苦手で、基礎的な方程式や関数だけで手一杯なのに、図形の証明なんて手が回らない。でも、絶対証明は出る。織機は公立の学校だから、毎年新聞に載るあの問題が出題される。
織機の合格ラインは7割以上。わたしの成績だと、7割強はとらないと安定圏に入れない。
つまり、この苦手な数学で7割強とらなければ道は開けないということ。
かなちゃんの教え方は上手いとは思う。問題は、わたしがそれで吸収できるか、ということなのだ。
「彩絵果は基本的なところは出来てるから、後は応用部分をどうにかすれば大丈夫。式や定型文はちゃんと覚えてるんだから、これにうまく当てはめれば…ね?」
「うん…」
わたしだってそれなりに頑張りはしたのだ。絶対に使う式や文章は覚えたし。
「織機、行きたいんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、この問題解かなきゃ」
「うん…」
かなちゃんは、勉強に関してはそれなりにスパルタだ。でも、今は頑張るしかない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
案の定、かなちゃんは1時を5分ほど過ぎた頃にやって来た。手土産にお茶菓子を持って来てくれた。玄関で出迎えた母さんの顔といったら。
「はじめまして、彩絵果ちゃんの友人の、羽根田かなです。突然お邪魔してしまって、すみません」
かなちゃんに隙はなかった。よそ行きの笑顔でこれでもかと母さんを陥落させた。
私服は品の良い青のワンピースに、厚手のカーディガン。そういえば初めてかなちゃんの私服を見た。その辺の中学生の子が着る服ではない、絶対に。
わたしといえば、その辺で売っている安い既製品の長袖のシャツと、いつ買ったかも分からないプリーツスカートという格好で、これが月とスッポンというやつか、と納得した。
「あらあら、いらっしゃい。何もないけど、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
いちいち礼の姿勢まで綺麗だ。さすが。
母さんは後でお茶を持っていくと言って、居間に引っ込んだ。本当はかなちゃんに色々と聞きたいのだろうけど。
「案内するね」
わたしの家は、玄関からあがってすぐに2階への階段がある。ビジネスシーンでは客の後ろを行くのがマナーだけど、ここは家だし、先を行ってもいいだろう。
「彩絵果、お母さん似なんだね」
「う、うーんそうかな?」
あんまり誰かに似てるって話題はされない。知り合いが少ないからというのもあるし、そもそも親戚づきあいが皆無に等しいのだ。わたしの両親は北陸の出で、毎年屋根の上の雪下ろしがテレビのニュースで映るようなところ。帰るとちょっとだけ向こうの訛りがうつる。もう何年も、両親の実家に帰っていないけど。
「結構似てるよ」
かなちゃんはどちらに似ているのだろう。両親とも東京とかの生まれなんだろうな。そんな気がする。
階段をのぼってすぐにあるドアが、わたしの部屋の入口。可愛らしいドアプレートはかかっていない。だってひとりっ子だし、部屋数少ないし。
「お邪魔します」
「狭いけど、ね」
わたしの部屋は、多分かなちゃんの部屋の半分くらいだろう。小さな折りたたみの丸テーブルを置いたら通路が塞がってしまう。
「とりあえず、わたし、奥に座るから…荷物は適当にベッドの上でも」
荷物を置くスペースがそこくらいしか無いのだ、悲しいことに。
かなちゃんの高そうな革の鞄が、わたしの安い布団の上にあるのが、ちょっと変な感じ。
かなちゃんはというと、わたしの本棚を見ている。そういえば、かなちゃんの部屋に本棚はなかった。タンスの最下段にしまってあるんだっけ。
「本、凄い数」
さて、ここで問題です。この中に何冊、かなちゃんが持っている本があるでしょう。答えは、少なくとも20冊以上。
「あんまり、本捨てないから増えちゃって」
わたしの本棚は高さが変えられるタイプだから、色んな本が混ざっている。文庫本のスペース、新書、洋書やそのための辞書、あと漫画もいくつか。エッセイとか自己啓発も何故かある。ビジネスマンのためのやつを、買ったのはいつだったろう。
「絵本も結構あるね」
「絵本はそれでも選別したんだけど…」
最下段には好きな絵本がそれなりに。時々退行しているんじゃって思うけど、昔とは違った発見があるからなかなか面白いのだ。
「でも子供向け絵本って、今読むと別のものが見えたりするよね」
笑われるかと思ったけど、ちょっと安心した。もしわたしが絵本を買ったなら、やっぱり同じ絵本を買っていたのだろうか。
「作者の意図とか、結構考えられてるんだなって思って読むと楽しいよね」
誰かが、いちばん大人向けなのは実は子供向け絵本だって言ってた。絵本は意外と侮れないのだ。きっと。
「じゃあ、勉強しようか」
そんないい笑顔で言わないで、欲しいんだけど。
丁度そこに、母さんがお茶を持ってきた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かなちゃんに勉強を教えてもらってわかったことがある。わたし、覚え方が下手なのだ。
ただ英単語を暗記するように覚えていたから、ダメだってことがよく分かった。
証明問題には法則がある。最初から提示されている情報と、ちょっと手をかければ出てくる情報、このふたつだけで随分パーツは揃って来る。そこから導き出されることや、この条件下で成り立つであろう仮定を用意すれば、証明は完成する。
教えてもらううちに、パターンが見えてきた。数式を覚えるというより、話の流れを把握する感じ。証明には順序がある。
分かってくると、今度は解くのが楽しくなってくる。わたしって単純。
かなちゃんは先生になった方がいいと思う。最近話題の塾講師みたいに、人気者になれそう。
「彩絵果はもっと自信持ったっていいくらいだよ、成績、上がってるし」
「ありがとう。わたしね、かなちゃんに近づくのが密かな目標だったの」
ずっと49位だったけど、今年に入って上がった。次は学力テストだから順位は出ないけど、期末ではより近づけたら嬉しい。
「私に?」
「かなちゃん、いつも張り出される紙で右の端にいたでしょ?わたしは左端ぎりぎりだったから、クラストップのかなちゃんに少しでも近づけたらなって」
羽根田かなの名前は、いつも左端にあった。最近は5番目までに必ず入っている。でも、かなちゃんはきっと1番だって取れるんだろう。
わたしは、あの紙に乗っかるだけでも大変で、毎回結構頑張っているのだ。数学がもう少し取れれば、真ん中までいけるのに。
「じゃあ、私の隣までおいでよ。この調子なら、きっと、来れるよ」
かなちゃんは笑う。顔を、逸らしてはだめ。だって、恥ずかしいなんて思うはずがない。わたしたちはお友だち。わたしはかなちゃんに変な感情は持っていない。嘘じゃない。
「頑張るね」
にこ、と笑う。だって、なんでもないお友だちだもの。
これから猛勉強すれば、余裕が出るだろうか。先生には、まあ行けるだろうけど、もう少し取れた方が良いっていつも言われる。それに、入れたとしても、勉強についていけずに落ちこぼれる可能性だってある。
「かなちゃんの隣に、わたしの名前が並んだら…みんなびっくりするかな?」
「さあ?でも少なくとも、私は嬉しい」
ほら、また来た。
ひんやりした手が、わたしの手に重なる。お友だちって、こういう時こんなことするの?もちろん、聞かないけど。
かなちゃんのこの笑顔は、なんの混じり気もない素直な笑顔。ちゃんとお友だちになれたら、この笑顔に何も思わずに笑いかえせるようになる、はず。
気安い関係になりたい。気を遣わない関係になりたい。空気のように、違和感のない存在になりたい。
かなちゃんはわたしと『親友』になりたいわけじゃない。でも、わたしからすると、それくらいの間柄にならないと、その先は考えられない。これは、わたしとかなちゃんの違い。
「じゃあ、頑張らないと」
わたしの知っている、今までのかなちゃんよりも、何も考えずに笑う今のかなちゃんの方が、わたしの近くにいる感じがする。
戸惑いがなくなったら、素のかなちゃんをちゃんと見れるようになってきた。もちろん、まだ完全ではないけど。
わたしはね、かなちゃん。
かなちゃんの隣に立ちたい。かなちゃんのただ一人の友だちになりたい。
かなちゃんの気持ちへの答えは、証明問題のように、揃えていかないときっと出ない。だから、これからの過程のなかで、パーツを見つけていくのだ。
だから、それまで、待ってて。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
勉強会はそれなりに真面目に進んで、夕方の5時でお開きとなった。
結局、かなちゃんが一方的にわたしに数学を教えてくれるだけだったから、かなちゃんの勉強にはならなかったかもしれない。
ひとに教えると整理されて理解が増すなんて言うけど、これ以上深めたところでかなちゃんはカウンターがストップしている気がする。
「お邪魔しました」
深々と頭を下げて、かなちゃんは帰って行った。次に会えるのは月曜日。
母さんはとても上機嫌で、あんなにいいお友だちができて良かったわねって言ってくれた。ただ、なんでこの時期なの?とは聞かれた。
まさか、告白されたからですなんて言えないから、偶然本屋で会ったことにしておいた。もしわたしたちが、2年でクラスが別れていたら、かなちゃんがとった方法。
かなちゃんに度胸とか勇気が備わっていたら、わたしは結構あっさり陥落していたと思う。かなちゃんがあの日、勇気がなかったと言っていたけど、きっと実際は半々だったのだ。修学旅行にわたしが来ていたら、かなちゃんはあの日、告白しなかったかもしれない。
今考えると、かなちゃんは結構性格の悪い子だ。底意地が悪いというか。計算高くて、ずるい。でも、勇気はなかった。
そう思うと、ちょっと可愛く思えてくる不思議。やっていることはあんまり笑えないことばかりなのに。
部屋に戻って、ベッドに寝転んだ。さっき重なった右手を照明にかざす。かなちゃんは、わたしの手によく触れたがる。
今日はちょっと触れただけだったけど、昨日はずっとわたしの手を握っていた。
わたしも手を繋ぐのは好き。手を伝って、わたしの考えていることが、ちょっとでも、かなちゃんに伝わっていく気がするから。それに、体温が同調する。かなちゃんのちょっと冷たい手が、わたしの温い手であったまっていくのが、わたしは結構好きなのだ。
あんまり、世間様では手を繋がないって、知っている。でも、好きなものはしょうがない。これ以上なく目立っているんだから、繋いだって繋がなくたって、きっと大差はない。
今日は、平和だった。
昨日は、ちょっと、色々あった。
かなちゃんが呼び出されたり、竹下さんが突っかかって来たり、かなちゃんの3年もの片想いのあらましを聞いたり。
かなちゃんには勝算があったんだろう。話を聞いても、わたしがかなちゃんを嫌いにならないってきっと思っていたはず。確証はないから、不安から手が冷たくなっていたけど。
随分とまあ、わたしはかなちゃんの手の上で踊らされている。
ちょっと、不本意だ。そりゃ、かなちゃんの方がなんでも器用に出来るけど。
こうなったらちょっと、意地を張ってやろうではないか。
これから先、じっくり仲のいいお友だちになってやる。簡単に好きになったりなんてするものですか。たくさんたくさん、かなちゃんに『お友だち』を強要してやる。
わたしだって、性格は結構、悪いのだ。
今日は、ぐっすり眠れた。
第10話 特別な『お友だち』
何日もかなちゃんと手を繋いで登下校するうちに、わたしたちへの視線はあまりうるさくなくなった。慣れって凄い。わたしの粘り勝ち?
クラスでも、わたしたちが一緒にいたって何も起きない。休み時間も移動教室も昼休みも、かなちゃんと一緒にいるのが当たり前になりつつあった。
ずっと何かを話したりしているからか、学校で本を読む時間は減った。こんなに喋れるんだって自分でもびっくりしてしまうくらい。でも、かなちゃんと話すのは確かに楽しい。本のことが、頭から離れるくらい。
わたしは前よりもかなちゃんが好きになった。かなちゃんはどうだろう。
でも、わたしの好きは、お友だちへの・・・・・・好き。かなちゃんが向けているそれとは違う。ちょっとおそれていた笑顔や手をつなぐことへの動揺は、意外とすぐに収まった。
慣れてしまえば、なんてことはない。かなちゃんの綺麗な笑顔を見ても、前みたいにどきどきしたりしない。気安く笑いかけられるようになった。
自分の意地の悪い部分が、前より目立つようになった。でも、楽しい。すごくすごく、楽しい。
かなちゃんと一緒にいるのが楽しい。
これはお友だちとしての好きだけど、でも、ちょっと特別なものだとは自覚している。
かなちゃんはわたしの特別。かなちゃんと手を繋いで良いのはわたしだけ。その笑顔を、心を、独占できるのはわたしだけ。ほかのひとにはあげられないし、あげたくない。
だけど、やっぱりわたしはかなちゃんとそういう仲になりたいとか、思ったりはしない。友情でお腹一杯になれるお手軽なわたし。でも、かなちゃんしかいらない。そこだけは、わがまま。
白線の内側へ、自分から突っ込む勇気がないように、満足している状況に、水をさすつもりはない。だから、このままでいいし、このままがいい。
今日はかなちゃんの家で勉強会。学力テストは間近、本当ならこんなに浮かれている場合じゃない。でも、勉強だってちゃんとやっている。むしろ勉強が楽しい。
今まで経験して来なかったものを、今更一気に回収しているような、そんな密度でわたしは毎日生きている。
目が回りそうになるけど、わたしは今、とてもしあわせ。
夜もぐっすり快眠だし。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
万全の体制で臨んだ学力テストは、今まででいちばん良い成績を記録した。かなちゃんってすごい。
この点数なら、わたしは織機に行ける。かなちゃんのおかげだけど、すごく嬉しくて、ふたりでお祝いした。
テスト明けの、全教科返ってきた木曜日。かなちゃんの部屋で、コーヒーで乾杯した。
「おめでとう、頑張ったもんね」
「全部、かなちゃんのおかげだよ。ほんとうに、ありがとう」
かなちゃんはにこにこ笑っている。わたしも、にこにこしていた。
「次は期末だね」
「12月の期末試験…怖いなあ」
ちゃんと、かなちゃんの隣に並べるだろうか。それがとても、不安。
「この調子なら大丈夫だよ。頑張ろう?」
かなちゃんの顔はとても優しくて、わたしもとてもしあわせな気持ちになった。
握られた手を、今は躊躇いなく握り返せる。冷たい手をあっためていく時間は、わたしのお気に入り。何も話さなくても、わたしに充足感をくれる。
「うん」
今思うと、このときがいちばん、幸せだった。わたしとかなちゃんはお友だちで、手を繋いだり時々抱きしめられたりするけどやっぱりお友だちで、それ以上ではなかった。
とってもさらさらしていて、綺麗だった。
ねえ、かなちゃん。
わたしたち、どうしてこうなっちゃったんだろうね。
なんで、うまくいかなかったんだろうね。
なんて。
その答えを、わたしもかなちゃんも知っていて、知らないふりをしている。
春は緑の盛りの夏になって、葉が落ちる秋になって、そして、凍てつく冬へと変わる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
12月になって、朝方はとても冷え込むようになった。寒くて寒くて、ちょっと辛い。でも、手袋は出していない。だって、手、繋ぎづらいから。
かなちゃんは全然寒くなさそうで、寒そうにしているわたしを見ると、いつも自分のマフラーをわたしに巻こうとしてくれる。でももうコートを着込んでいるし、たぶん大丈夫だと、いつも断っているけど。
「予報だと、もうすぐ雪が降るって。彩絵果、風邪引かないようにね」
吐く息は白くなって、日が短くなった。いつもこの時期には風邪を引くわたしだけど、今年はそうもいかない。
「うん。かなちゃんもね」
「でも…」
「でも?」
いたずらを思い浮かべたような顔をしている。最近になって、こういう茶目っ気のある顔も、するようになった。
澄まし顔のかなちゃんも好きだけど、こっちの顔の方が、気安い感じがして好き。もちろん、お友だちとして。
「もし、風邪引いたら、看病してくれる?」
「…いいけど、わたし、風邪絶対もらっちゃう」
「そうなったら、私が看病してあげる」
ミイラを取りに行ってミイラになるタイプなのは自覚している。かなちゃんの言っていることは本末転倒な気もするけど、かなちゃんがわたしの看病をする未来は割と想像しやすい。
「うん」
でも、かなちゃんの冷たい手は、熱で火照った体には気持ちいいだろうな。今は、わたしの熱でぬるくなっているけど。
「…したい」
かなちゃんの声が聞き取れなくて、わたしは首を傾げる。
「なあに?」
「デート、したい」
でも、いいよって、わたしは言ってあげない。性格が悪いから、仕方ない。
「わたしたち、別に付き合ってないよ?」
意地悪そうに言うと、かなちゃんは全然びくともしていない顔で、笑う。
「じゃあ、遊びにいきたい」
受験生だから、あんまり遊びには行けない。でも、春が来たら、かなちゃんと色んなところへ行きたい。
海に行きたい。穏やかな海に。貝殻を拾って、波がぎりぎり届かない砂浜を歩きたい。かなちゃんなら、きっと、とても、絵になるだろう。
「冬が、終わったらね」
「じゃあそれまでに、考えないと。どこへ行くか」
「そうだね」
たくさん、予定を立てたい。遊園地とか、水族館とか、映画を観にいくのもいい。美術館だって。かなちゃんと手を繋いで、たくさんたくさん歩きたい。
今も、手を繋いで歩いている。でも、これは当たり前、日常になった。だから、特別なことがしたい。
「ねえ、かなちゃん」
あ、ちょっと顔を取り繕った。そんなに澄ましたってわたしはびくともしないのに。
「なあに?」
「早く、春が来るといいね」
かなちゃんは、笑う。
「まだ、年も明けてないよ」
「そうだけど」
でも、早く来て欲しい。
初めて、春が待ち遠しくなった。まだ、12月に入ったばかりなのに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
数える程しかいったことがない図書室に、わたしは久しぶりに足を踏み入れた。理由はかなちゃんが、用事で職員室に行っていて暇だから。別に教室で待っていても良かったけど、今日は本を忘れてしまったので、図書室に来てみた。
昼休みで、それなりに人がいる。
この学校の蔵書数は大したことがない。わたしがあんまり図書室に来なかったのも、好きな作家とかの作品が全然無かったから。わたしが図書室に入り浸っていたら、かなちゃんのストーキングはちょっと大変だったかも。
海外の作家のコーナーには、有名な魔法学校の小説とか、指輪にまつわるものはあるけど、近代の作家の作品は少ない。
ふと、その隣の本棚を覗くと、歴史小説のコーナーに気になる作家の名前を見つけた。普段は恋愛ものや推理ものを書いているけど、数年前に一度だけ大河小説を出しているのだ。歴史ものも読むには読むけど、あんまり手を出したことはない。
せっかくだし借りてみようかと、手を伸ばした時だった。
凄く、ベタベタな少女漫画みたいなことが、起きた。
わたしと、同じ本を取ろうとしたひとと手が触れたのだ。
びっくりして、思わず手を引っ込めた。すぐに隣を確認すると、知らない女子が立っていた。
「あ、ごめんなさい」
わたしよりも、いくらか背が高くて、いかにも体育会系な感じの子。髪もわたしより短くて、ちょっとだけ、日焼けの跡。外の部活の子だ。つまり、わたしが苦手とするふたつのタイプのうちのひとつに該当する。もうひとつはいかにも今時って感じの子。花枝さんみたいな。
「ご、ごめん、なさい」
「この本、知ってるの?」
図書室だから、声は小さい。普段は、はきはき喋るんだろう。
あまり気は強くなさそうだ。気さくで、たぶん友だちは多い。わたしとは真逆の子。
「…この作家の本なら、いくつか読んだけど」
ちなみに、かなちゃんもその本は持っているはずだ。買ったのは確か去年に集中しているから。
「ほんと?あたしも結構好きなんなけど、近くに知ってる人いなくて」
嬉しそうな声。仲間を見つけた、みたいな感じ。でも、わたし、そこまでこの作家のこと、好きってわけでもない。
「そ、そうなんだ」
確かに、正直なところ中学生が好んで読むような作家ではないかもしれない。
と、ポケットのスマホが震えた。相手はひとりしかいない。もう用事は終わったようだ。
「これ、借りようとしてたよね」
「…別に、いいよ。あなたが借りて」
教室に戻らないと。かなちゃんとすれ違うのも面倒だし。素っ気なくてぶっきらぼうになっているけど、気を遣っている暇はない。戻らなくちゃ。
「え、いいの?」
「うん」
踵を返したわたしに、しかし相手はまだ話すことがあるらしい。また、スマホが震えた。かなちゃん、絶対わたしを探しに教室を出た。
「あなた、湯井さんだよね。D組の」
「そう、だけど」
振り向いた先、にこにこしている気さくな女子。ひと月早ければお友だちになっていたかも。
なんとなく、先は読めた。あんまり良い予感はしない。楽しくない話題の予感。
「あたし、隣のC組のほずみやっていうんだ。あなただよね?羽根田かなと一緒にいる子って」
ほずみや。珍しい名字。もしかして、日付の名字だろうか。ほずみやだと、確か…あれ、いつだったっけ。何月かの一日に宮と書く名字なんだけど。彼女なら、自己紹介で話題になれるだろう。少し羨ましい。
「何か?」
「思った通りの子だと思って。うちでも話題になってたんだ、あなたのこと」
その話題の中心は、わたしじゃなくて、かなちゃんだけど。そして、そろそろ教室に帰りたいのだけど。いや、おとなしくここにいた方がいいかもしれない。すれ違いそう。
「…」
「羽根田かなが突然態度を変えたのはなんでかってね。でも、あたしはあなたの方が興味あるな」
ほずみやさんは、わたしを見ている。わたしを通してかなちゃんを見ている他のひととは、違うみたい。
「どうして」
「だって、気が合いそうだし」
おあいにく様、わたしはあなたみたいなひと、得意ではないんだけど。
「…わたし、この作家、あんまり好きじゃないから」
「そうなの?じゃあ、好きな作家、教えてよ」
ここで本当に好きな作家は教えたり、しない。わたしは意地の悪い子だから。
「…量屋重石はかりやおもし」
その名前に、しかしほずみやさんは反応する。
「ああ、『日陰で待つ君』の人でしょ?あたし、何冊か読んだよ」
「…」
強い。本当に本を読む人だ。そしてわたしが読んだ本をダイレクトに挙げるとは。
『日陰で待つ君』は、恋愛もののようでそうでもない、なんというかつかみどころのない話。アクの強い作風の作家にしては、読みやすい方と言われていて、わたしはこの作品以外には手を出していない。そして、この本も、たぶんかなちゃんは持っている。買ったの、確か今年の始めだった。
「彩絵果?」
ここに来て、救世主の到来のお知らせ。救世主さまは、わたしをすぐに見つけてくださる。ありがたや。
でも、ちょっと怒っていらっしゃる。理由は簡単だけど、説明は難しい。
「かなちゃん、ごめんね」
すぐにわたしのもとに来ると、ほずみやさんには目もくれず、わたしの手を握る。
ほずみやさんも、全然、気にしていないみたいで、わたしに手を振ったりなんてしてくれる。
「じゃあ、またね。湯井さん」
「…どうも」
また、はたぶんないと思うけど。
かなちゃんは、そのままわたしを引きずって教室に連行していった。ああ、結構怒っていらっしゃる。
でも、その後は、いつも通りのかなちゃんだった。放課後までは。
帰り、かなちゃんはにこにこ笑って言った。
「今日、時間あるよね?」
今歩いている道がどこに繋がっているか、わたしはもう知っている。
拒否権の行使は、きっと認められない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「何、あれ」
帰り、かなちゃんの家に寄った、というか連れて来られた。コーヒーは出されなかった。それどころじゃないってことみたい。
かなちゃんの部屋の2人がけのソファに座って、手を握られた。握り返せない。
熱を、吸い取られていくみたい。
あとかなちゃん、ほずみやさんはあれじゃないよ。せめて誰、と聞かなきゃ。
「向こうから、話しかけてきたから…」
なんで、こんな尋問みたいなことされているんだろう。何より、後ろめたさを感じている自分が変だ。
「ふうん?結構、話してたみたいだけど」
「引きとめられたから」
わたしはちゃんと、教室に戻ろうとした。でも、引きとめられて、すれ違ったら嫌だから、図書室にとどまったのだ。
「良かったじゃない、アドレス交換してもらったら?」
さっきから、棘しかない。でも、これは嫉妬の範疇。
「していいの?」
「だって、私たち、『お友だち』なんでしょう?なら、彩絵果の交友関係に口は挟めないから」
これでもし、ほんとうにほずみやさんのアドレスが入ったら、どうなるんだろう。知りたいような、知りたくないような。
「…しないよ」
「いいの?せっかく、気の合う友人ができるかもしれないのに」
かなちゃんに告白される前なら、そうなんだろうね。でも、もう、秋は終わった。
「かなちゃん、ねえ、かなちゃん」
「なあに?」
さっきから、かなちゃんはわたしを見ない。握る手の強さはちょっと痛いくらいなのに、頑なにこちらを見ない。
「わたし、ほずみやさんと仲良くするつもりは、ないよ。だって、ああいう人、苦手だし」
ほずみや。
あ、まずったかもしれない。
「さっきの、ほずみやっていうの」
「…自分から名乗ってきたから」
わたし、なんでこんな弁解しているんだろう。浮気したみたい。誰とも付き合っているわけじゃないのに。
「ねえ、彩絵果」
棘が抜けた声。変に柔らかくて、怖い。
「な、に?」
「もう、図書室に行かないでって言ったら、どうする?」
これは、かなちゃんの嫉妬とか、不安とか、そういうものの塊なんだろう。わたしの手を握るその手の冷たさも、頑なにわたしを見ない目も、きっとその証。
「…言われなくても、行かない」
かなちゃんが嫉妬している。わたしが、じゃない。かなちゃんが、しているのだ。
なんとまあ、可愛らしい。
「ほずみやと会えなくなるけど」
「だって、苦手」
「そう?私みたいなのより、ずっと良い人だと思うけど」
あらあら、いじけて。かなちゃんって、こんな子なんだ。可愛い。
「仲良く、して欲しいの?」
「まさか。でも、私たち、『お友だち』でしょ?」
わたしたちは、『お友だち』。だから、恋人みたいなお願いはもちろんできない。でも、これは単なるお願いじゃない。
「…ともだちが嫌がることは、しないよ」
「彩絵果は、優しいね」
優しい?
かなちゃんにとって、都合のいい優しさだから?
「わたしはね、かなちゃんしかいらないよ」
「私しかいないから、じゃなくて?」
そう、最初はかなちゃんしかいないから、だからかなちゃんに嫌われたくなかった。でも、今は違う。
だって、かなちゃんが怒っているのに、わたしはかなちゃんのこと、可愛いなんて思っている。嫉妬しているかなちゃんが、可愛いって、わたしは思っているのだ。
嫌われたくなかった最初の頃だったら、そんなこと、絶対に思わない。
「最初は、そうだったよ。でも…かなちゃんがいいの。かなちゃんも、じゃない。かなちゃんが、いいの」
「それ、『お友だち』?」
「かなちゃんは、わたしの特別なひとだから」
かなちゃんが話していた中にあったけど、数ある友人のひとりと、ただひとりの友人では、意味が違う。
最初は、単にかなちゃんしか友だちがいないから、特別だった。
でも、今は、かなちゃんだから・・・・・・・・、特別なのだ。
まだ、日は浅いけど、でも、わたしの中で、かなちゃんの意味は少しずつ変わって、重さをまとっていった。
かなちゃんの綺麗な笑顔を見ても、前みたいにどきどきしたりしない。でも、初めて気安く笑うかなちゃんを見た時は、ちょっと、どきどきした。
「それは、どんな特別なの」
こんな風にわたしへ質問攻めをして、でも、保健室の時みたいじゃなくて、手は冷たくて、こちらを見ないで、不安そうで。かなちゃんが、可愛い。愛おしいとすら、思う。
「…わたしの場所は、かなちゃんの隣。わたしが一緒にいたいのは、かなちゃんだけだし、手を繋ぎたいのも、仲良くしたいのも、全部、かなちゃんだけだよ」
「だから、私は特別な『お友だち』?」
わたしたちは、はなから世間一般のお友だちじゃなかった。手を繋いで、時には抱きしめられたりして。相手はわたしに恋愛感情を持っている。そういうのって、友だちだったら普通は隠す。わたしたち、告白から始まった仲だから、土台無理な話だけど。
「うん、そうだーーー」
そうだよ、って言葉を言い切る前に、わたしはかなちゃんに抱きしめられた。力が強くて、全然、振りほどけない。
「そうだよね、当たり前、だよね。だって、私たち、『お友だち』だもの」
「…うん」
きっと、わたしたちは仲良くなればなるほど、世間一般のお友だちからかけ離れていく。でも、いいのだ。わたしたちは、特別な『お友だち』。
だから、いいのだ。
第11話 わたし、私、あたし、
「あなたたちのそれ、お友だちとは言わないと思うんだけど?」
「あなたに、言われる筋合いはないでしょ?」
他人様は関係ない。だって、これはわたしたちのこと。わたしたちが決めることだから。
「でも、それはお友だちじゃない。だってそれは、」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
わたしとかなちゃんは特別な『お友だち』。世間様からは、なんと言われるか分からない間柄。でも、友だちの定義なんてそれぞれで、わたしたちにはわたしたちの線引きやルールがある。
かなちゃんは、わたしのことが好き。それは、友だちへの好きじゃない。わたしを、ひとりの恋愛対象として見ている。
わたしは、そのことを知っていて、その上でかなちゃんと友だちでいる。わたしはかなちゃんのことが好き。それは、友だちへの好き。かなちゃんを、大切な友だちとして見ている。
わたしたちのそんな関係、『お友だち』。わたしがかなちゃんの特別で、かなちゃんはわたしの特別。ちょっと、変な感情が混ざっている、わたしたちのための言葉。
これからふたりの間に何が起きても、理由はひとつだけ。
だって、『お友だち』だから。
あの昼休みの件以来、かなちゃんの視線は、鋭くなった。
わたしは今まで通りかなちゃんと一緒にいて、色んなことを話して、笑って。何も変わらない。
でも、かなちゃんはわたしに疑いの目を持っている。わたしが、かなちゃんに隠れてほずみやさんと話しているんじゃないか、連絡を取り合っているんじゃないかって。
馬鹿みたいって思うけど、かなちゃんの不安を取り払うには、かなちゃんを見ているしかない。ずっとかなちゃんと一緒にいて、話して、触れていればかなちゃんは疑う必要がない。だから、そうするしかない。
かなちゃんの手の上にいた時より、今の方がかなちゃんが可愛く見える。揺らぐ瞳、ゆがむ口、余裕のない顔。綺麗なかんばせを、わたしが作り変えていく。
知っている。
かなちゃんの中にいるのはわたしだけだって、わたしは知っている。
でも、かなちゃんだって、わたしの中にいるのがかなちゃんだけだってこと、とっくに知っている。
かなちゃんは嘘をつくことはあっても、絶対にわたしを裏切らない。わたしも、かなちゃんにぜんぶは話さないけど、裏切ることはしない。
だって、『お友だち』なんだもの!
かなちゃんを好きになればなるほど、わたしは意地の悪い女の子になっていく。
湯井彩絵果は、羽根田かなという女の子によって、今まで知ることもなかった自分の、醜くて汚れた部分をたくさんたくさん知っていく。
そして、そんな自分を否定しないで、もっと深みにはまろうとしている。
ねえ、かなちゃん。
こんなわたしなのだけど、それでもかなちゃんは、わたしが好き?
わたしの、全部が欲しい?
もちろん、聞いたりなんて、しないけど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お友だちの定義って、確かに人それぞれだけど、でも、ちょっと違うんじゃない?」
「どうして」
そうやって、大多数の正義を振りかざして、この人は何が面白いんだろう。
「だって、お友だちって、互いを尊重するものでしょ?縛り合う関係じゃあ、ない」
縛り合ったら、友だちじゃないの?そんな取り決め、わたしは知らない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
期末テストが終わる頃には、世間はクリスマスで賑わっていた。
これでクリスマス商戦が終わると次は年末商戦。世の中は目まぐるしい。
夏と違って短い冬休みが近づいて来た。クリスマスも。でも、わたしたちは受験生だから、そんな暇はない。塾の集中講義とか、そういうので皆わたわたしている。
でも、わたしとかなちゃんはそんなに変わらない。今回の試験、わたしはかなちゃん先生のおかげで随分成績を上げた。残念ながら、かなちゃんの隣には並べなかったけど。
今日貼り出された上位50人の紙の中に、わたしとかなちゃんの名前はちゃんとあった。かなちゃんは今回、2番だった。わたしは、10番目。過去最高記録を更新できた、やったね。
「次は、ヒトケタいけそうだね?」
「が、がんばる」
名前を右から左へ眺めていて、わたしの視線はあるところで止まった。
わたしは今まで、紙の右端にいるかなちゃんの名前ばかり見ていたけど、今回、気になる名前を見つけてしまった。
「ろくがつ、ついたちの宮?」
22番目の名前、六月一日宮。知っているような気がする。
「ああ、C組の。いつもその辺りにいるけど」
かなちゃんの言うとおり、名前の上には3年C組とあった。
「…」
この人だ。
前に図書室でわたしに話しかけて来たひと。思い出した。ほずみやは、六月一日宮だ。
スポーツができて、勉強もできて。その上名前だけで話題ができる。なんとまあ、妬ましい。
わたしの動揺をかなちゃんは見逃さなくて、すぐに気付いた。
「この人?ほずみやって」
「…うん」
ほずみやさんは、名前を六月一日宮心というらしい。
すると、噂をすればなんとやら。
「やあ、湯井さん」
空耳にしては明瞭に耳朶に響いた。声のした方を向けば、いつぞやの女の子。
「…どうも」
かなちゃんの手を握る力が強くなって、わたしはギクリとした。かなちゃんは、六月一日宮さんを見ない。
「湯井さん、凄いね。もしかして東芽目指してるの?」
こちらのことをお構いなしに、六月一日宮さんは話しかけてくる。お隣さんの嫉妬に火がついた予感。
「東芽には、行かないけど…」
「ええ?じゃあ、どこ行くの?」
東芽は遠い。それに、数学、もっと頑張らないと無理だ。
「…織機」
六月一日宮さんは、にっかり笑って油を撒き散らしてくれた。こちらの気も知らないで。
「へえ!奇遇だね、あたしも織機行こうって思ってたんだよね」
そろりと、隣を見た。かなちゃんの顔は、能面のようにぺったりしていた。ああ、凄く怒っていらっしゃる。
「じゃあ、これで」
この場を離れるべく、わたしは踵を返す。教室に戻らないと、お隣様の機嫌がもっと悪化する。
「またね、湯井さん」
「…」
なんで、今になって。
秋は終わった、今は冬。わたしはかなちゃんに告白されて、友だちになって、『お友だち』になった。もう、誰かが入り込む隙間なんてない。
六月一日宮さんには、そんなに興味はない。嘘じゃない。これは、ほんとう。向こうだって、面白がってるだけに決まっている。
だから、かなちゃん、ねえ、かなちゃん。
そんなに強く手を握らないで。わたし、かなちゃんの手を、離したりしないから。
それともなあに?わたしは、信用できない?
ねえ、かなちゃん。
わたしのこと、ちゃんと、見てくれている?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あなたには関係ないことじゃない?」
「そうやって意地を張って、何と戦ってるの?世間体?」
「それこそ、あなたには関係ない」
「でも、世間様は認めてくれないよ。あなたたちは、お友だちじゃないもの」
そんなこと、とっくに知っている。わたしも、かなちゃんも。でも、それじゃあ相手は納得しないみたい。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日の帰り、かなちゃんの部屋で、かなちゃんは言った。
「数学、もっと頑張れば行けるよね?」
ふたりでソファに座って、かなちゃんはわたしの手を強く握っている。冷たい。
「…そうだね」
もう、どこに、なんて聞かない。
分かり切っている。どこへ行くのかなんて。現実的な問題は、成績がどうこうより朝、わたしが早起きできるかだ。
「でも、同じだったとしても…同じクラスになるとは限らないんじゃ」
「私が気に食わない」
「かなちゃん…」
「あの、六月一日宮ってひと、彩絵果にしか興味ないみたいだし?」
要するに、同族嫌悪というやつみたい。確かに、六月一日宮さんはかなちゃんのこと、全然見ていなかった。図書室の時も。
六月一日宮さんは、わたしに興味がある。羽根田かなでなく、その隣のわたしに。
でも、どちらにしたって、六月一日宮さんはわたしがかなちゃんと仲良くならない限り、わたしのことを知らなかっただろうし、興味だって持たなかっただろう。だから、かなちゃんより先に六月一日宮さんと知り合うことは無いのだ。わたしが、図書室の常連ではなかったんだから。
「でもね、かなちゃん」
冷たいかなちゃんの手に、空いた手を重ねる。わたしの両の手に包まれたら、きっとすぐにぬるくなる。
かなちゃんを見た。きっと、こういうことをずっとおそれていたんだろう。だから、今、不安になっている。
澄ましていない、取り繕っていない顔。ちょっと青くて、泣きそうで。わたしの好きな、かなちゃんの顔。
「あの人は、かなちゃんという付加価値がなければ、わたしに気付かなかったんだよ。ずっと、わたしを見ていたのはかなちゃんだけ」
まあ、確かにその見方はちょっとあれだったかもしれないけど。
ほんとうの意味で、わたしをずっと見ていたのはかなちゃんだけなのだ。わたしより、わたしのことを考えていたのは、少なくとも、かなちゃんしかいない。
だって、かなちゃんは入学式のその日から、ずっとわたしを見ていたのだ。3年もの間、わたしに気付かれないように、ずっと。
確かに六月一日宮さんとは気が合うのかもしれない。かなちゃんとよりも、本の話題で盛り上がるのかもしれない。
でも、もう冬なのだ。秋は終わってしまった。春は二度も来ない。かなちゃんが連れて来たから、それきり。
だから、
「だからね、かなちゃん。そんなに不安にならないで。わたしを、信じて?」
「…うん」
かなちゃんの揺れる瞳に、わたしが映っている。可愛い。
わたしにとって、ただひとりのお友だち。かなちゃんが欲しいものは、その先にあるけど、今は考えない。受験生だし、ね。
メッキが剥がれていったら、羽根田かなという女の子はどうなるんだろう。
こんなに弱々しい女の子、きっともっと奥に、すごく柔らかくて、大事に隠している場所がある。
わたしは、それが知りたい。
羽根田かなの、本人さえ気づいていないような場所に、わたしの色を少しずつ入れていきたい。
つまり、わたしはかなちゃんが欲しいのだ。
でも、まだ、そんな喜ばせるようなこと、言ってあげない。
だって、わたしとかなちゃんはただの、にこにこ笑い合うだけの、お友だちだから。
そうでしょ?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「奇遇だね、こんなところで出くわすなんて」
「…どうも」
相手はわたしの考えていることを、先回りしてさらっていく。
「あたしは羽根田かなみたいに、ストーキングはしてないよ。趣味じゃない」
「…」
ほんとうに、偶然。そんな奇跡みたいな偶然、別に欲しくない。
「なんで、許容出来るの?普通なら、気持ち悪いって思わない?」
「あなたには、関係ない」
「純粋に興味があるんだよね。どうして、湯井さんはそんな羽根田かなを受け入れたのか」
あなたの関心ごとの正体を、わたしはもう知っている。でも、
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
冬休み直前になって、かなちゃんもわたしも、進路変更することになった。先生は、かなちゃんはともかく、わたしに関してはちょっと渋い顔をした。
今回のテストの点数なら確かに無理じゃないけど、本番でこれくらいの点が取れる保証はない。ぎりぎり枠線に足を突っ込んだようなものなのだ。
それでも、わたしはひかなかった。猛勉強すれば、まあ、なんとかなると思う。思いたい。
わたしだって、織機に行きたいのを諦めて、その上に行くことを決めたのだから、それなりの覚悟くらいしている。今年の冬休みはずっと数学と仲良しこよしだ。
職員室から戻る途中、わたしは隣を歩くかなちゃんに言った。ある意味決意発表。
「というわけで、かなちゃん、国語なら教えられるから、数学お願いね」
「うん」
あらあら、嬉しそうな顔しちゃってまあ。やっぱり、わたしはこの取り繕っていない笑顔が好き。年相応のかなちゃんの方が、ずっとずっと可愛い。
冬が終わる前に、わたしはこのメッキを全て剥がせているだろうか。まあ、かなちゃんのメッキを剥がす前に、わたしの嫌なところが全部露呈する気がするけど。
でも、もういい。
かなちゃんと仲良くなったばかりの11月は、こんな自分が嫌で、変わりたくて仕方なかった。でも今は、12月のわたしは、ちょっと違う。
この1ヶ月で気がついた。
変わりたいという願望は、気づけばなりを潜めていた。その代わり、かなちゃんをもっと知りたいっていう願望が、わたしを埋めるようになった。
それから、わたしは自分でも知らないような、無意識のうちに隠していたわたしを、たくさん知った。
でも、そんなわたしをそれでも良いやと受け止めて、開き直れば直るほど、わたしは自分でも驚くくらい変わって行った。
かなちゃんに嫌われたくなかったわたしは、今やかなちゃんのずっと奥に向けて、手を伸ばしている。
変わりたかったわたしは、きっとこんな顔をしていないんだろう。でも、いい。これでいい。
今のわたしは、かなちゃんに手を差し伸べられるのを待っているだけの、臆病な子じゃない。自分から、手を差し伸べられる。
気づけば、わたしはとっくに自分を殺して殺して、脱皮を繰り返していた。
「行こう?」
わたしが差し伸べた手を、かなちゃんは拒まない。
「うん」
わたしたちは、お友だち。にこにこ笑い合う、お友だち。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「だってそれは、ただの依存だよ」
依存。
わたしたちは共依存しているのかもしれない。否定の言葉は、出てこない。
でも、なら逆に聞くけれど、
「それの、何が悪いの?」
だって、わたしたちは『お友だち』だもの。
第12話 彼女の願いが叶うころ
どうしようって考えたのは、随分後だった。
とっちらかった心の中をかえりみないで、わたしはただただがむしゃらに勉強した。かなちゃんと一緒に、ずっとずっと突き進んだ。
バタバタと、ふたりで、冬を駆け抜けた。
何でこれほど意固地になっているんだろうって、考える頃には、冬は終わっていた。
ふと、我に返って振り返って、今更取りこぼしたものを悔やんだりして。馬鹿みたい。
わたしがしがみついていたものは、とっくに意味を失っていて、ただの空の箱と何も変わらない。なのに、それをずっと抱えていた。
もう、春が来る。
かなちゃんがわたしを見つけた季節がやって来る。
わたしは桜の精でも、華奢で儚い女の子でもなんでもなく、ただの醜い人間になった。
変わりたかったわたしは、こんな顔じゃないって、知っている。
でも、もう戻れない。
わたしは、かなちゃんと仲良くなる前のわたしには、戻れない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かなちゃんから前の日にメッセージが来て、わたしは初めて日付が変わってすぐに家を出た。
年が明けて、受験の時が近づいて来た。
家の近所の鳥居の先にはたくさんの合格祈願の絵馬が飾られているんだろう。努力も最後は運任せだから、わたしも書くべきだろうか。
いつもの坂のすぐ下には、いつもと違う装いのかなちゃんが立っている。よそ行きのお着物、でも年の割りに落ち着いた色。長い髪は結い上げて、髪飾りがしゃらしゃら揺れている。
綺麗だって、素直に思った。思わず、坂道を下りずにじっと見つめてしまうくらい。
はっとして、慌てて下りた。かなちゃんはわたしがなかなか下りて来なかったから不思議に思っているみたい。
「どうかしたの?」
「んー、なんでもないよ」
見惚れていたなんて、言ってあげない。その代わり、手を差し出す。
「行こっか」
「うん」
着物は大股で歩けないから、いつもより少しゆっくり歩く。繋いだ手の先、ひらひら揺れる薄紫の袖。白い椿と薄青の紫陽花は見つけた。あと、他にもいくつか花があしらわれている。
かなちゃんは背が高いから、この着物はきっと仕立ててもらったんだろう。かなちゃんの背丈にぴったりで、お端折りも短過ぎない。
綺麗なひとと、わたしは歩いている。わたしは野暮ったい、垢抜けないコートを着ているのに、隣の女の子は日本人形みたい。なんてちぐはぐなんだろう。
でも、もう、惨めだとは思わない。かなちゃんが可愛くてしかも綺麗なのは揺るぎない事実なんだから、これ以上気にしたって仕方ないのだ。
わたしは、どう頑張ってもわたし以外の何かにはなれない。だったら、もっと楽しいことを考えたい。
「春が来たら、お花見に行こうよ」
「あんまり、桜好きじゃないって言ってなかった?」
「桜は好きじゃないよ」
「なら、なんで?」
桜の中に立つかなちゃんを見たい。だって、絶対絵になる。
でも、言ってあげない。
「…内緒」
最近、内緒とか、なんでもないって、言うことが増えた。
その度かなちゃんが首を傾げるのもお約束になった。
やっぱり、今回もかなちゃんは追及してこない。
「変なの」
そして、またたわいのない話題が流れていく。気安く笑えるようになって、わたしたちはお友だちらしくなれただろうか。
夜、こんな時間に出歩ける日は限られている。
特別な時間に、わたしとかなちゃんは特別なことをしている。
行く先は人の大洪水が起きている丹塗りの鳥居の先。去年までは明るくなってからお参りしていた場所に、今年はこんな時間に、わたしは行く。
かなちゃんがわたしに告白しなかったら、わたしはかなちゃんの綺麗な着物姿を見ることはなかった。
今のわたしを取り囲むことがらすべて、きっかけはかなちゃんの告白なのだ。
薄い手の先、わたしの話に耳を傾ける静かな顔。
薄化粧でじゅうぶんに映える、わたしのことが好きなわたしのお友だち。
ねえ、かなちゃん。
わたし、変なの。
あなたと出会ってから、ずっと、変なの。
でも、言わない。
だって、言ったら、
「どうかした?」
「ううん、寒くない?」
わたしを見る、かなちゃんの顔は柔らかい。
「平気。だって彩絵果と一緒だから」
「…そっか」
だって言ったら、わたしが陥落したって、言っているみたいだもの。
だから、言わない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二礼二拍手、一礼。
かなちゃんが滑らかにやってみせたものだから、わたしもそれにならった。お賽銭は5円じゃなくて奮発して100円、と思ったけどさらに奮発して500円玉にした。
長いこと目を閉じているものだから、つい見つめてしまった。でも、わたしの方に目をやったりしない。ほんとうに真剣に何かをお願いしているみたい。何をお願いしたのかは気になるけど、聞かない。
静かにまた一礼して、ようやくかなちゃんはわたしを見た。
「後ろ詰まってるし、行こうか」
今度はかなちゃんがわたしの手を引いて歩き出す。大洪水の中を歩くのは大変で、わたしの手を握るその力は強い。
人の波の中からすぐに甘い匂いが漂って来て、きょろりと見回すと少し先に屋台があった。
無料で何かを配っている。ピンと来て、ちょっと、食指が動く。
「甘酒、配ってるって」
「彩絵果、好きなの?」
「こういう時は、飲みたいかな」
家で甘酒なんて出ないし。もちろんひな祭りの雛人形だって何年も出していない。桜餅だっておつとめ品の少しかたくなったのを食べるくらい。
「…そう」
「あ、もしかして、甘酒嫌い?」
甘酒は好き嫌いがわかれるものの部類。家で甘酒が出ないのは、両親共に嫌いだから。親の嫌いなものは、基本家では出ない。
でもかなちゃんの反応はそれとは違って、戸惑っているようだった。
「…飲んだこと、ない」
確かに、飲まなくても困るものじゃない。飲んだことがない人がいても珍しくはないだろう。
そして、とても勧めづらいものでもある。だって、好みがわかれるものだから。
「無料だし、試しに…飲んでみない?」
何事も挑戦、ということにして、かなちゃんを連れて列に並んでみる。
しっかり手を繋いでいるからはぐれることはない。こういうところで手を繋いでいると、ちいちゃい頃に親とお祭りに来た時のことを思い出す。
そして、人が多いから予想されていたことが起きる。
「…かなちゃんはすごいね」
「何が?」
本人は気づいていない。もう気にするだけ無駄だと思っているのかもしれない。
「かなちゃんのこと、みんな見てる」
そう言うと、かなちゃんは襟元や後ろの帯をちらちらと見出した。
「え、着崩れしてる?」
自分で帯も全て締めたって言っていたから、不安になるのは分かる。わたしの場合、自力で着ると浴衣ですら背中心がずれる。
でも、かなちゃんは専門の人に着付けてもらったんじゃないかってくらい形が綺麗。着姿だってとても様になっているし、歩き姿も上品だし。
「してないよ。かなちゃんが、べっぴんさんだから」
笑いばなしの気安いもののつもりだったのに、かなちゃんは真剣な顔をしている。
静かに、でも喧騒の中でもわたしに真っ直ぐ届く声で、かなちゃんは言った。
「彩絵果は?」
「何が?」
「私の着物見て、どう思った?」
嫌なわたしが、顔を出す。
かなちゃんの関心ごとのすべてが、わたしにまつわるものだってことに安心している。
かなちゃんの視線の先には、わたしがいる。
いいえ、わたしだけ。
その事実に、ひどく、わたしは安心している。でも、それを顔に出したら負け。だから、
「似合ってるよ、凄く」
気安く笑って、そんなことを言う。
「ありがとう」
よそ行きの着物、よそ行きの笑顔。
取り繕った笑顔が言っている。
ほんとうに、それだけ?って。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かなちゃんは甘酒を飲み切った。でも飲み終わった後、不思議な顔をしていた。
感想を聞いたら、よくわからないと首を傾げられた。かなちゃんがよくわからないのなら、わたしはもっとわからない。
帰り道、かなちゃんと来年は一緒に初日の出を見ようって約束した。わたしは、わたしが無事に同じ高校に行けたら、と条件をつけたけど。
三が日が終わったら、学校だってすぐに始まる。あとわずかで受験。やっぱり奉納された絵馬の多くが受験生の合格祈願だった。東芽という単語は、結構あった。
結局絵馬は書かなかった。でも、その分ちゃんとお願いした。
お願いごとは、約束ごと。ちゃんと果たしてみせますっていう決意表明でもある。要は神様相手に啖呵を切るようなもの。だから、成し遂げないと後がちょっと怖い。
「かなちゃん、長かったね」
「ああ、そうかもね」
「ちょっと、意外だった」
かなちゃんはあまり神頼みのたぐいをするひとではないと、勝手に思っていたから。いざ蓋を開けてみればきっちり着物姿で作法に則りお参りしている。随分と敬虔な態度だ。
「意外?」
「かなちゃんに、そんなにたくさん願いごとがあるのが」
わたしは欲張り過ぎないように、かなちゃんと同じ高校にちゃんと行けるようにってお願いした。その後のことは、その時になってから考えればいいし。
でも、かなちゃんも別にそんな、欲張りってわけではないみたい。
「…今回は流れ星方式を採用したの」
「流れ星方式?」
きらきら光る、あれ。
流星群は一度だけ見たことがある。しし座流星群だった気がする。
「流れ星を見て、3回願いごとを言えたら願いが叶うっておまじないあるでしょ?」
「あるね、そういえば」
かなちゃんの口からそんな可愛らしいものが出て来てちょっと、面食らうけど。
かなちゃんをちゃんと知る前なら全然、驚かないんだろうけど、今聞くと凄くギャップを感じてしまう。
「流れ星の時はひとつの願いごとを叶えられるようにってお願いするから、今回はひとつだけ。ひとつのことがらが、叶うように願ってた」
「…その、ひとつだけなの?」
「着物をわざわざ着たのもそうだけど…真剣なの」
でもかなちゃんは、自分でどうにかするひと。それでも足りないと思ったから、ここまでしたのだろう。
「…そう」
かなちゃんがきっちり着物を着て、髪を結い上げて、強く願うことがら。
初詣帰りの人の流れに乗って、ぼんやり考えた。
繋がれた手の先、目を少し伏せた、淑やかな女の子の真剣なお願い事が成就する時、わたしは何をしているだろうか。
「叶うといいね」
星は見えない。
自分の白い吐息の先、春のわたしの後ろ姿を見た。
その時わたしは、どんな顔をしているのだろう。
ふたりで、手を繋いで桜を見ているだろうか。きゃらきゃらと笑っているだろうか。
10年先の未来よりも、数ヶ月先の未来が、怖くなった。同じ制服を着ているだろうか。
「ねえ、かなちゃん」
「なあに?」
「わたしね、手を繋ぐの、好きなの」
「知ってる」
「かなちゃんと、手を繋ぐのが好きなの。だから」
だから、わたしは願わずにいられない。
「これからも、ずっと、手を繋げたら…いいな」
手を繋ぐことが当たり前になった。なんの躊躇いもなくなった。
こんな、非日常のようなことがらが、気づけば日常になった。
これからも、そうであって欲しい。ちょっと歩きづらくて、でも、離したくないこの手を、春が来ても夏になっても、ずっと、握っていたい。
「…そうだね」
おままごとが許される年頃はとっくに過ぎた。でも、わたしは、子ども染みたこのことがらを、手放したいとはちっとも思わない。
始まったことがらは、いつか終わる。でも、その日が1日でも長くなればいい。
お友だちの、ちょっと複雑な顔に、気づかないふりをして、わたしはちょっとだけ、手の力を強めた。
私しか知らない神さま